第一条 天地の創造主、全能の父である神を信じます
1 第一条の概要
神を信じるとは、私は全能の力をもって無から天と地およびそこにあるすべてのものを造り、保ち、支配しておられる神である父すなわち三位一体の第一のペルソナを固く信じ、何らの疑惑をもつことなく告白し、またただ心で信じ口で宣言するだけでなく、最大の努力と敬虔をもって完全な最高の善として認めこれに向かう、という意味である。
これが第一条の概要である。しかしその一つ一つの言葉には深遠な奥義が秘められているのであるから司牧者は細心の注意をもってこれらの奥義を正しく把握し、神のお望みならば信者たちがおそれとおののきのうちに神の無限の栄光を仰ぎ見ることができるようにすべきである。
2 「信じる」ことの意味
ここでいう「信じる」とは、考える、思う、見解をもつ、というような意味ではない。信じるとは聖書が教えているように、ご自分の奥義を啓示する神に対してゆるぎない不変の賛同を示す、確固とした心からの同意のことである。したがって信仰者とは、あることを何のためらいもなく確かなものとして確信しているもののことである ( そのような人についてここでは述べるのである )。
ところで信仰による知識は、信ずべき事柄は目に見えないところから、それだけ確実性が少ないと考えてはならない。信ずべき事柄を啓示する神の光はその事柄に自明性を与えるものではないが、しかし私たちがそれを疑うことをゆるさない。なぜなら「闇から光が輝き出せとおおせられた神」(コ②4:6)は滅びる人々にとってそうであったように私たちにとっても福音がおおわれていないように私たちの心を照らしてくださったからである。(コ②4:3参照)
3 信経の内容をすなおに信じること
したがって、信仰による天来の知識をもっている人は単なる好奇心によるせんさく欲から解放されている。実際、神は私たちに信じるようお命じになったときご自分の考えをせんさくしたり、その理由や動機を調べるよう頼んだのではなく、不動の信仰をお命じになったのである。そしてこの信仰によって私たちの魂は永遠の真理を知りそこにいこうのである。実際聖パウロは、「神は真実であり、人はみないつわりものだといわねばならない」(ロ3:4)と言っている。もし聡明な人の断言を信用せずその理由や証拠を要求することが傲慢なことであり無礼であるとするならば、神ご自身の御声を聞きながら救いに関する天来の真理についてあえて証拠を求めるものは、どれほど無謀で愚かなものであろうか。したがって何の疑問もさしはさまないだけでなく、証明を求めることもせずに、信ずべきである。
4 信じるだけでなくその信仰を公けに告白すべきこと
司牧者はまたつぎのことを教えるべきである。つまり、「私は信じる」という人は、内的に同意するだけでなく( それは信仰の内的行為である )信仰を公然と告白することによって自分の心にあることを外に表明し、喜びと熱心さをもってそれを告白し述べ伝えなければならない。すべての信者は、「私は信じた、だから私は話した」(ヴルガタ訳詩114:10)と言った預言者の精神をもつようにしなければならない。またイスラエルのかしらたちに向かって「私たちとしては見たこと聞いたことを黙っているわけにはいきません」(使4:20)と答えた使徒たちを模倣すべきであり、「私は、福音を恥としない、福音は、すべての信仰者、まずユダヤ人、そしてギリシャ人を救う神の力だからである」(ロ1:16)といま述べたことをとくに証明する、「人は心で信じて義とせられ、ことばで宣言して救いを受ける」(ロ10:10)ということばを聞き奮い立つべきである。
5 キリスト者の信仰の卓越性
「神を」信じる。このことばはキリスト教的英知の卓越性と尊厳とを示しており、それはまた私たちがどれほど神のご好意に負うところが多いかと教えている。神はいわば信仰の階段を登るかのようにしてもっとも崇高なまたもっとも望ましい事柄を私たちにお教えになったのである。
6 神に関する哲学的知識とキリスト教的英知との相違
キリスト教的英知と哲学的知識とは大いに異なっている。哲学的知識は自然的な理性の光だけをたよりに、感覚によって把握されるものと事物の結果をもとに、多くの努力を重ねながら徐々に上昇し、ついにどうにか神の見えない事柄を見いだし、神を存在するすべての事物の原因、創造者として認め理解する。これに対してキリスト教的英知は、精神の自然的力を高め難なく天にまで引き上げ照らす神の光によって、まずすべての光の永遠の源を観想し、またその光に照らされたほかのものを観想する。それによって私たちは使徒たちのかしらが言っているように、闇から輝かしい光に呼ばれた(ペ②2:9参照)と言う完全な心からの喜悦を味わい、また私たちの信仰は言い尽すことのできないほどの喜びをもたらすであろう(同書1:8参照)。
信者たちが神に対して信仰の態度をとるのはもっともなことである。なぜなら神はイエレミヤが言っているように(イエ32:19参照)理解を超えた尊厳をもち、使徒聖パウロによると、近づけない光のうちに住み、だれも見たこともなくまた見ることもできないお方であり(ティ①6:16参照)、また神ご自身がモイゼにおおせられたように、かれをながめて生きながらえる人はだれもいない(出33:20参照)ほどのお方であって、私たちの魂がすべてを超越する神にまで到達するためには感覚から完全に離脱することが絶対に必要であるが、このことは人間にとってこの地上では不可能なことである。
とはいえ聖パウロが言っているように、神は「ご自分がなにものであるかを、絶えず証しておられた。すなわち恵みをくだし、天から雨とみのりの時を与え、糧と喜びをもって、人々の心を満たしてくださった」(使14:17)。そのため哲学者たちは神には卑俗なものは全くないと考え、物体および混合物や合成物は一切神にふさわしくないとしてしりぞけた。そして神はあらゆる善の充満であるとし、私たちが見る善や完全さを被造物の上に及ぼす善と愛の尽きない永遠の泉であると考えていた。そして神を知者、真理の源、真理の友、義者、最高の恩人など最高の絶対的な完全さを示すあらゆる呼び名で呼んでいた。また神にはあらゆる事物、あらゆる場所に及ぶ測り知れない無限の力があると言っている。
しかしこのようなことは聖書で一層確実にまた明白に立証されている。たとえば「神は霊である」(ヨ4:24)、「あなたたちの天の父が完全であるように、あなたたちも完全なものになれ」(マ5:48)と言われており、また「神のみ前に、すべては明らかであり、ひらかれている」(ヘ4:13)と書かれており、「神の富と上知と知識の深さよ」(ロ11:33)とも言われている。さらに、「神は真実である」(ロ3:4)、「私は道であり、真理であり、命である」(ヨ14:6)、「あなたのおん右は正義に満ちている」(詩48:11)とある。また、「あなたはみ手を開いて、人を飽かせる」(詩145:16)とあり、さらに、「あなたの霊を、遠くはなれられようか?み顔からどこに逃げられようか?天にかけ上っても、あなたはそこにおられ、冥土を床にしても、あなたはおられる。私が暁の翼を駆って海のはてに住もうとしても、そこでも、み手は私におかれる」(詩139:7~9)と言われ、「私は天と地とをみたすものではないか?――主のお告げ――」(イエ23:24)とも書かれている。
これらはすばらしい崇高な概念で、哲学者たちは造物界に関する考察からそれを得たのであった。そしてこれらの概念は神の本性に関する聖書の教えと合致している。しかしこれらの点でも上からの啓示が必要であることは、すでに述べたように信仰は学問や教養のないものに学者が長い年月をかけてはじめて身につけた知識をすぐに難なく解き明かすだけでなく、信仰による知識は人間の学問による知識よりもはるかに確実で、決して誤ることがないことをみれば分かるであろう。さらに信仰による知識がすぐれていることは、神の実体に関する概念をみれば明らかである。自然界の考察による方法ではずべての人が一様に神の実体を知るようにはならない。これに反して信仰の光は信じる人々にそれを教える。
さて信仰が神について教えることはすべて信経の箇条の中に含まれている。そこでは神の本質の単一性、三つのペルソナの区別、さらに「神を求めるものに報いをくださる」(ヘ11:6)と聖パウロが言っているとおり、神は私たちの究極目的であり、超自然的な永遠の幸福はかれから期待すべきことが述べられている。聖パウロよりずっと以前に預言者イザヤはこの至福がいかに大きいか、また人間がそれを知ることができるかどうかをつぎのように表現している。「そのことについては、昔から、話をきいたこともない。あなた以外の神が、自分により頼むもののために、これほどのことをされたと耳に聞いたこともなく、目で見たこともない」(イ64:3)。
7 神は唯一である
すでに述べたことからして、多くの神があるのではなくただ御一体の神があることを告白すべきである。私たちは、神は最高の善で、完全さそのものであると知っている。さて絶対的な完全さを多くのものがもつことは不可能である。最高、絶対者であるためにわずかでも欠けるところがあるならば、そのものは不完全であり神ではありえない。神が唯一であることは聖書の多くの箇所で言明されている。「イスラエルよ、聞け、われわれの神、主は唯一のものである」(第6:4)。さらにそれは神の掟でもある。「私以外の、どんなものも、神にするな」(出20:3)。そして神はしばしば預言者イザヤをとおしてこうおおせられた。「私ははじめのもの、最高のもの、私のほかに神はない」(イ44:6)。最後に、聖パウロもまたはっきりと、「主は一つ、信仰は一つ、洗礼は一つ」(エ4:5)と言っている。
8 時として被造物が神と呼ばれるわけ
聖書は時として被造物に対して神という名称を用いているが、これに驚いてはならない。なるほど聖書は預言者や士師たちを神と呼んでいるが、それは不敬虔をもって愚かにも多くの神々をつくり出した異教徒に倣ったのではなく、普通の言い方に従って神から与えられたすぐれた才能や働きを言い表わすためである。したがってキリスト教信仰はニケア公会議の信経に言われているように神はその本性において、実体において、本質において唯一であると信じ宣言する。(1) さらに高くのぼってこのキリスト教信仰は神の唯一性と同時に、その唯一性における三位を認めまた三位における唯一性を認めている。(2) つぎにこの奥義について説明することにしよう。
9 神はすべての人の父であるが、特別にキリスト者の父である
信経にはつぎに、「父」という語がある。神は多くの理由から父と呼ばれる。したがってここではどのような意味で父と呼ぶのかそれを説明すべきであろう。信仰の光によってやみを取り払ってもらえなかったものでもある人々は、神とは永遠の実体ですべてはかれに由来すること、すべてのものはかれの摂理によって支配され各自の秩序と状態を保っていることを理解していた。そしてかれらは家族の発展の基になりその家族を自分の助言と権威をもって指導していくものを父と呼んでいるところから、すべての事物の創造者で支配者である神を同じように父と呼んだのである。
聖書も、万物の創造や全能の力、感嘆すべき摂理が神のものであることを示すために父ということばを用いている。実際つぎのように書かれている。「主はあなたを生んだ、あなたの父ではないのか?あなたをつくり支えるのは、主ではないのか?」(第32:6)。また「私たちはみな、ただひとりの父をもっている。私たちをおつくりになったのはただおひとりの神ではないか?」(マラ2:10)とも書かれている。
しかし神は新約聖書においてよりひんぱんに父と呼ばれ、特別にキリスト者の父と呼ばれている。かれらは恐れの中に生きさせる奴隷の霊を受けたのではなく養子の霊を受け、これによって神を「アッバ、父よ」と呼ぶのである(ロ8:15参照)。「私たちは神の子と称されるほどおん父からはかりがたい愛を与えられた。私たちは神の子である」(ヨ①3:1)。「私たちが子であるのなら、世つぎでもある。キリストとともに公栄をうけるために、その苦しみをともに受けるなら、私たちは、神の世つぎであって、キリストとともに世つぎである」(ロ8:17)。「多くの兄弟の長子とするためである」(ロ8:29)、「私たちを兄弟と呼ぶのを恥とされなかった」(ヘ2:11)。
したがって神と創造や摂理との関係づける一般的な面から言っても、あるいは特別にキリスト者の霊的養子関係の面から言っても、信者が神を父として認め宣言するのは当然のことである。