アヴェ・マリア!
愛する兄弟姉妹の皆様、
昨日は、ルルドでの無原罪の御宿りの御出現の祝日であり、建国記念日でした。いかがお過ごしでいらっしゃいますか? また昨年の大震災から11ヶ月めでもありました。日本のために、愛する兄弟姉妹の皆様と心を合わせてお祈り申し上げておりました。
さて、イタリアの知識人たちが昨年9月に第二バチカン公会議の徹底的検討を求める教皇ベネディクト十六世へ嘆願書を提出しました。その日本語訳を作って下さった方がおられますので、ご紹介いたします。
愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
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第二バチカン公会議の徹底的検討を求める教皇ベネディクト十六世への嘆願書
<>和訳者補足
教皇聖下、
プラート教区司祭であり聖ペトロ大聖堂参事会員、さらに教皇庁立ラテラノ大学の元教会論教授にして、イタリア人神学者たちのうち最年長者として著名なモンシニョール・ブルネーロ・ゲラルディーニ(Mons. Brunero Gherardini)は、2009年に第二バチカン公文書に関する批評的な討論、つまり冷静かつ公な方法で開かれる批評討論会の開始がなされるために、非常に恭しくも切迫した嘆願書を聖下宛に送られました。この嘆願手続きには、ローマ欧州大学の教会史及びキリスト教史の教授であり、国民研究評議会(Consiglio Nazionale delle Ricerche)副議長であるロベルト・デ・マッテイ(Roberto de Mattei)が2010年に加わっております。
嘆願書の中に、モンシニョール・ゲラルディーニはこう書きました:
「カトリック教会の善の為にこそ‐また特にその中でも、第一にして最高の教会法である、霊魂の救いの実現の為に‐、第二バチカン世界教会会議の名による 聖書解釈学及び神学、さらに史料編纂学及び“司牧活動の”自由創意から成る数十年間を終え、当公会議とそれまでに開かれた諸々の公会議との継続性に関する疑問、つまり当公会議はカトリック教会の聖伝に忠実なのかという疑問に、権威を持って答える事により(今回に関して言えば、単なる宣言ではなく、実際の証明を提出するというやり方に基づく)僅かなりとも明瞭化が施される事は急を要すると私には思えます。(…)
実際、先ずあの公会議全体や、当公会議の各公文書、当公文書の各テーマ、さらにこれらのテーマ並びに公文書にある直接及び間接的な典拠について、入念かつ学術的な分析を実施せずに、聖下がお望みになっている[これまでの全教導権との]継続性の解釈学を浮上させようとするのは、もし不可能でないのであれば、かなりの無理があるように思えます。公会議についてその内容を繰り返すか、それをあたかも絶対的な新しさでもあるかの様に提示するだけで語り続ける事は、却って無駄骨に終わるでしょう。
しかしこの様な広範囲に亘る検討は、これと同じ主題が、異なる水準(歴史学的、教父学的、教会法学的、哲学的、典礼学的、神学的、聖書解釈学的、社会学的、学術的水準)に於ける進展を要求するという理由のみならず、各公会議文書が何十もの主題と関係があり、唯一これらの主題の専門家だけが効果的に取り組めるという理由により、一人だけの能力を遥かに超えているのです。
かなり前から、私には既に先の公会議に関して、要するに当公会議の諸側面とその内容に関して、壮大かつ、出来るなら決定的な<公会議の>確認に関する考え(ここで私が厚かましくも聖下に提案致します)が浮かびました。
実際に<第二バチカン公会議の>各側面と内容が、それ自体、その他のあらゆる背景との前後関係に於いて、またその典拠となったもの全てを注意深く観察する事を通して、荘厳教導権であれ通常教導権であれ、カトリック教会のこれまでの教導権との継続性という特定の角度から検証される事は筋が通っていると思われますし、私には急務だと思えるのです。カトリック教会の聖伝に基づく教導権との関係に於いて、詳細かつ可能な限り非の打ち所のない学術的で批評的な知的労働から、次に第二バチカンに対する確実で客観的な評価の材料を引き出す事が可能になります。
こうする事は、数多くある中から抜粋した、特に次の質問への回答を可能ならしめるでしょう:
1) 第二バチカンの真の性質とは何でしょうか?
2) 第二バチカン公会議が持つ司牧的性質(この概念について権威をもって明確化する必要あり)と、場合によっては、帯び得る教義的性質にはどのような関係があるのでしょうか? 司牧的公会議は、教義的なそれと両立可能なのでしょうか?司牧的とは教義的性質を前提とするのでしょうか? 前者は後者に反するのでしょうか? それとも前者は後者を無視するのでしょうか?
3) 第二バチカン公会議を“教義的”として定める事は本当に可能でしょうか? つまりこの公会議を教義的として取り扱う事は可能でしょうか? 第二バチカン公会議に基づいて新しい神学的断言をすることが出来るのでしょうか? どういう意味でそれが可能なのでしょうか? どういう制限の下、それが可能なのでしょうか?
4) 第二バチカンは、ボロ-ニュ学派の観点においての“出来事”、即ち、過去との関係を断ち切り、あらゆる角度に於いて、新しい時代を築くという意味においての“出来事”なのでしょうか? それともあらゆる過去は、第二バチカン公会議に於いて、同じ意味と同じ理解とで eodem sensu eademque sententia (デンツィンガー3020:第一バチカン公会議、第三総会、第四章「信仰と理性」、レランの聖ヴィンセンティウスの規範からの引用‐和訳者)> 生き返っているのでしょうか?
断絶の解釈学と継続性の解釈学とは、これらの質問への回答にかかっている事は明らかです。しかし、もしこの徹底的検討の学術的結論が、継続性の解釈学を唯一受諾可能で、唯一考えられるものとして認める事に至るなら、その時はこの継続性が現実であり、またそれは 教義の本質的同一性 の内に示されているという事を(あらゆる反対を超えて論駁し)証明する必要があるでしょう。
全てもしくは一部分に関して、この継続性が学術的に証明され得ない場合には、ほぼ半世紀も前から待たれていた問題の明瞭化への要望に対する答えとして、そのことを平静かつ誠実に伝える事が必要となります。」 (注1 B. GHERARDINI, Supplica al Santo Padre, in appendice a: ID., Concilio Ecumenico Vaticano II. Un discorso da fare, Casa Mariana Editrice, Frigento (AV), 2009, pp. 254-256. Nei testi riportati nella presente Supplica, tutti i passi in parentesi quadre sono del Relatore, non dell’Autore citato.)
前二十回の公会議との継続性を立証する為に
きわめて多くの資料を参照した革新的な第二バチカン公会議の歴史の最近の著書の中で、デ・マッテイ教授は、本公会議の起伏に富んだ劇的な展開について、正確で現実に基づく概要を公にし、次の様に締めくくっています:
「本書の終わりに当たり、私が離れられないように結び付けられていると考えるペトロの後継者である教皇聖下ベネディクト十六世に対し、第二バチカン公会議についての真剣な討論に扉を開放して下さった事に関して、心からの謝意を表明しつつ、敢えて恭しく言葉を申し上げます。私はこの討論の中で、神学者としてではなく、歴史学者として協力の手を差し伸べたいと望んでいる事を繰り返し申し上げるのですが、それはやはり、前二十回の公会議とこの公会議との継続性を立証する為、また地獄の門はそれに打ち勝つ事はない(マテオ16:18)との確信を以って、ほぼ半世紀前からカトリック教会を苦しませている闇と疑いを追い払う為に、それに伴うあらゆる複雑さと全発展にも拘らず、第二バチカン公会議の徹底的検討の推進を、地上に於けるキリストの代理者に対して、丁重かつ子として要求しておられる神学者たちの嘆願と一つとなってそうするのであります。
(注2 - R. DE MATTEI, Il Concilio Vaticano II. Una storia mai scritta, Lindau, Torino, 2010, p. 591.)
そして単なる信徒に過ぎない私たち署名者と致しましては、これらの丁重かつ許された懇願に全く同調致します。聖下に対する子としての敬意を欠く事はないと確信する私たちは、私たちの考えによれば、モンシニョール・ゲラルディーニや公会議後の初期から第二バチカンに関する説明(chiarezza)を得ようと戦ってきた、神学者及び知識人たちの分析から生じるものと同じような明快な回答に確かに値する、数多くの疑問から選んだ幾つかの質問を(この上で致しました四つに)付け加えさせて頂きます:
5) 天啓に関する憲章 Dei Verbum <神の啓示に関する教義憲章>に現れる「生きる聖伝」という概念に与えられている正確な意味とは何でしょうか? カトリック的聖伝の概念に関する最近の根本的な研究論文の中で、モンシニョール・ゲラルディーニは、第二バチカンに於いて、聖伝の教義的価値が明確に定義されなかったが為に(DV, 8)、カトリック教会の聖伝の理解方法に「コペルニクス的革命」が起きてしまったと断言しておりますし、カトリック教会で常に認められたものであり、珍しいやり方でトレント及び第一バチカン教義的公会議により批准されて来た(DV, 9)天啓の二つの典拠(聖書と聖伝)が聖書に一本化(ad unum)されているのが分かります。またそこでは、聖書の無謬性の教義への攻撃(attentato)さえ表明されておりますが(DV, 11.2)、それならどうして「神感を受けた聖書記者たちの主張するものは全て聖霊から来ると宣言して後、<聖書の>無謬性の特質が、(veritatem, quam Deus nostrae salutis causa Litteris sacris consignari voluit:天主が我々の救いの為に聖なる書物に記録される事を望まれた諸真理)全体の一部分として、“救いに役立つ(salutare)”か“救いをもたらす(salvifica)”真理にのみ与えられているのでしょうか? もし聖霊が、聖書記者の書き著したもの全てを霊感したのであれば、聖書の無謬性は救いをもたらす諸真理のみならず、聖書全体に当てはまるはずなのです。従いまして、この文書は非論理的だと思われます。」
(注3 - B. GHERARDINI, “Quod et tradidi vobis”. La Tradizione vita e giovinezza della Chiesa, in ‘Divinitas’, Nova Series, 2010 (53) nn. 1-2-3, pp. 165-186. Corsivi nostri.)
6) カトリック教会に関する教義憲章(しかし教義について定義していない)Lumen gentium <教会憲章>に含まれたカトリック教会に関する新しい定義に与えるべき正確な意味とは何でしょうか?もしこの新しい定義が<常に変わらぬ>永遠のそれと一致するものであるならば、即ち、我らの聖主から伝えられ、さらに聖霊の導きの下で使徒たちから伝えられた信仰の遺産(il deposito della fede)を何世紀にも亘り保ってきた唯一のものという理由で、カトリック教会だけが唯一真のキリストの教会であるとするならば、例え天主の賜物によりキリストの教会に固有のものとして属し、自ずとカトリック的一致を要求する聖化と真理の基本要素<自然徳や助力の恩恵など>が、このカトリック教会の外に数多く見出されるにしても、何故、一般の信徒にとっては殆ど理解不可能で、決して明快に説明のされない手法を用いて(これは申し上げなければなりません)キリストの「唯一の」教会は「ペトロの後継者及び彼に一致する司教たちに統治されたカトリック教会に存する(subsiste)と書く事により、それ<キリストの唯一真の教会はカトリック教会であるという永遠の定義>を変えようと望んだのでしょうか。」この明確な記述に於いて、カトリック教会はキリストの教会の単なる一部分として現れるようには思えないでしょうか?単なる一部分とは、キリストの教会は‐カトリック教会以外に‐カトリック教会の「外に」ある「聖化と真理の基本要素」をも包含するからなのですか?そうなれば、「カトリック教会内に存続する唯一真の宗教(信教の自由に関する宣言Dignitatis humanae)」は、カトリック教会の外に「<聖化と真理の>基本要素」を有する「キリストの教会」の宗教となってしまうことでしょう。さらに考え方によっては、「唯一真の宗教」は、公会議の言に拠れば、「キリストの教会」にある非カトリック的な「基本要素」にも等しく存続しているかのように受け止められはしないでしょうか?
7) 「神の民」(教会憲章、9-17)として全体的に理解されている教会の概念に与えるべき本当の意味とは何でしょうか? この概念は、過去に於いては単に全体の一部分<平信徒のみ>を表わすものでありましたが、それに反して、全体は「キリストの神秘体」と言われていました。
8) 公会議の諸公文書で為された「超自然」及び「全実体変化(transustanziazione)」という用語の省略にはどのような意味があるでしょうか?この省略は、一部の方々が主張する通り、当用語の基本概念の中身も変更するのでしょうか?
9) 団体性(la collegialità)という新しい概念の正確な意味とは何でしょうか? 教会憲章 の冒頭に置かれた Nota explicative praevia (予備解説注釈‐公会議に招集された司教たちの間の議論に決着をつける為に配置された注釈)による解釈をカトリック教会の不変なる教えの光に照らし、どう考えたら良いのでしょうか? 私たちはロマーノ・アメリオ(Romano Amerio)氏が明確に述べている疑問を参照致します:
「“予備解説注釈”(Nota Praevia)は、司教団体性の古典的解釈を拒絶しています。この古典的解釈に拠ると、カトリック教会に於ける最高権力の主体は唯一教皇のみであり、彼が望む時に、自分が公会議へと招集した全司教とこの権限を共有します。最高権力は、教皇によって、教皇の望みのままに(ad nutum)、伝えられる場合のみ、団体的なものとなります。
さらに“予備解説注釈 ”は、改革者たちの見解をも同時に拒絶しています。彼らの見解に拠ると、カトリック教会に於ける最高権力の主体は、教皇と一致した司教団であり、その中の頭である教皇無しではなく、しかし教皇がたとえ自分一人で最高権力を行使する場合でも、前述した司教団の頭として、またそれ故にこの司教団を代表するものとして、教皇はまさにそれを行使することについて司教たちに意見を表明するように求めざるを得ない。
これは、どんな権威も自分の権力を大衆に由来すると主張する理論を真似たもの<教皇の最高権力は団体としての司教団に由来するという考え方>であって、これは(人民によるのではなく、天主を起源とする位階的)カトリック教会の神的創立と和解し難い理論です。
“Nota Praevia”は、これら二つの理論を否定し、最高権力は頭<教皇>と一致した、団体としての司教団に属していること、ただし、司教団は頭から独立してこれを行使する事は出来ないが頭は司教団から独立してそれを行使する事が出来ること(後者は聖伝への譲歩と取れます)を言明しています。」
司教評議会制度に対する、法的権能(正当かつ固有の司教団の法的権限)の授与は、司教としての機能を実際に軽視するだけではなく、それを歪曲してしまったと主張する事は間違いないでしょうか? 確かに、今日のカトリック教会では、個別に見た場合、司教たちは事実上ほとんど無視されているように見えます(聖下、私たちの率直さをお許し下さいますように)。
この点について、再度アメリオ氏を参照します:
「公会議後のカトリック教会の最も際立つ 新しさ とは、栽治権の限定された諮問機関である、教区及び国レベルでのシノドス<司教会議>や、司牧顧問会、司祭顧問会などのカトリック教会のありとあらゆる機関に、参与に門戸を開放した事です。[…]司教評議会の成立は、二つの結果をもたらしました:つまりそれはカトリック教会の 有機的構造 を歪め、司教たちの 権威 の喪失を引き起こしたのです。公会議前に効力を持っていた教会法に拠れば、司教たちは使徒たちの後継者であり、各自が自らの教区に於いて、立法権、司法権、行政権を行使する事によって、霊的かつ現世的事柄に対する通常の権能を持ち、統治します(教会法329及び335条)。
この権威は正確に定められたかつ個人的に属するものであり、司教総代理の設立の場合は別として、委任の余地がありません(司教総代理の任命は、教区司教の意向に従属する‐ad nutum‐)。[…] 公会議の教令 Christus Dominus <教会に於ける司教の司牧任務に関する教令>は 、「全世界の教会に対する最高かつ完全な権能」を持つものとして(権能の一つの主体としての)団体制(la collegialità)を司教らの団体に帰属させています。このことは、もしも司教団が教皇の同意なしにこの権能が行使し得たとするなら、すべてにおいて教皇の権能と全く等しいということになります。
この最高権力は、教皇により公会議として招集された司教たちの集いに於いて常に認められて来ました。しかし問題は、上級の決定機関よってのみ実際のものとなり得る権威とは、最高のものと見做され得るのか、さらにそれは単なる潜在能力(mera virtualità)、つまり単なる思考上のみに存在するもの(ens rationis )に帰するのではないのかという事です。
ところで第二バチカンの精神に従えば、この団体性が具体化される司教権能の行使とは、司教評議会の権能行使です。
「以下は奇抜な言行です:当教令は、同じ国の司教たちが協力して行動する必要性においてこの新しい制度の存在理由を(第37項に)認め、この新しい協力関係だけしか見ていないが、しかしこれは、今後はその教会法上の形態を持ち、司教の代わりに司教らの団体と置き換え、さらに個人の責任を団体責任つまり細分化された責任と置き換え、カトリック教会の秩序を改変させるのです。[…]司教評議会を通して、カトリック教会は多極主義的(polycentrico)団体となってしまいました。[…]従いまして、この新しい組織体がもたらした 第一の 結果とは、[教皇との]一致の絆の弛緩であり、それは最も重大な数々の点[例えば、避妊家族計画法の使用を禁じた1968年7月25日公布の回勅フマーネ・ヴィテ(Humanae vitae)の教え]を巡っての途方もない反乱により示されました。新しい組織体がもたらした 第二の 結果は、司教として個別に考えられた、各司教が持つ権威の喪失です。彼らは自分自身の教区民や聖座の前でもはや責任がありません。何故なら、彼ら個人の責任は集団全体のものに取って代わり、もはやこの集団を構成する様々な構成員たちの責任は問われ得ない団体責任と入れ替わったからです。
今日の司祭は神の民の集会の司会者兼座長役へと還元されているのではないか
10)今日、司祭職というカトリック教会の真の制度に付される正確な意味とは何でしょうか?公会議以降、司祭は、「天主の司祭」から「天主の民の司祭」へと還元されており、それは主として「神の民」の「集会の司会者」かつ「座長」へと、さらに「民生委員(assistant social)」へと還元されたのは本当でしょうか? これに関して、以下のものは批判の対象となっています。
「職位的」又は「位階的」司祭職と、いわゆる‐かつては単なる敬称と考えられていた‐「信徒らの共通」司祭職とを、両者は「相互に秩序づけられている、ad invicem tamen ordinatur 」(LG、62,2も御覧下さい)という断言をもって、同次元に置こうと望んでいるように思えること(教会憲章, 10項.2)
司祭職を「神の民」の単なる「職務」として描写しているように思えること(教会憲章, 13項.3)
福音の説教を司祭の「職務」の第一に置いていること(司祭の役務と生活に関する教令 Presbytorum Ordinis, 4 項:司祭たちは「司教の協力者として、神の福音を告げる 役目をもっている。」)に対して、トレント公会議はその反対に、司祭の使命を特徴付けるものは、第一に「聖主の御身体と御血を聖別し、捧げ、授ける権能」、また第二には「罪を赦す或いはそれを保留する」権能である事を想起させた(デンツィンガー、1764/957)。第二バチカン公会議が、「キリストから勧められたものである、天の御国にとって完璧かつ永続的な禁欲は、司祭職の本質それ自体から要求されるものではない[にしても]、司祭生活には特に相応しいものであると常にカトリック教会から見做されて来た」(司祭の役務と生活に関する教令, 16項)と主張する事によって、聖職者の独身制を事実上評価しなかったことは本当でしょうか。また今引用したこの主張は、1ティモテ3章2-5節やティト1章6節に対する誤った解釈を用いて初めて正当化されるのではないでしょうか。
11)典礼に於ける「創造性」の原理の正確な意味とは何でしょうか? その創造性は、礼拝の新しい形態を諸民族の特性及び慣習に適応させ、それを最大限に簡素化する事を目的として、これを実験する自由を含んだ、典礼分野に関する広大な権限を司教評議会に与えてしまったという事実から間違いなく生じています。このことは全て、典礼憲章Sacrosanctum Concilium に於いて提案されています。司教評議会の新しい権限に関して(22項2節)、諸民族の特質と慣習への適応及び典礼全般の適応基準に関して(37、39項、さらに40項)、典礼の簡素化に関して(21項と34項)です。
似たような典礼に関する改革の裁量権というものは、過去において常にカトリック教会の教導権により排斥されてきたのではないでしょうか? 典礼憲章 Sacrosanctum Concilium は、典礼や諸々の刷新を常に聖座の規制下に置いている(典礼憲章22項1節、40項1節と2節)というのは本当であるにしても、この規制は、典礼上に広まる荒廃を防げることができない事を証明しており、この荒廃は信徒たちを教会から遠ざけてしまい、さらに、聖下から要求された、悪弊に対する懲戒行為や除去にも拘らず、今日でも未だに続き、ますます荒れ狂っています。専門の調査こそが、この失敗の理由を白日の下に曝す事が出来るのではないでしょうか?
公会議が宣言した信教の自由と、世俗的良心の自由との間にはどんな違いがあるのか?
公会議の諸公文書が提起するすべての疑問、またカトリック教会の現状に関連する疑問を一つ残らず表明する事は、もちろん私たちには出来ません。この主題に関して、私たちは次のもののみ付け加えさせて頂きます:
12)教会史上初めて、信奉する宗教は関係なく「人権」もしくは人格の「本性的なもの」として、公会議によって宣言された信教の自由の原理、すなわち、唯一の啓示された真理(私たちのカトリック宗教)が真の宗教として宣言される権利よりも勝る権利であり、啓示されたのではない他の宗教、従って天主に由来しない他の諸宗教、の方がより尊重される権利として宣言された権利、この信教の自由なる原理は、全ての宗教が平等であるという前提に成り立ち、その適用は、宗教無関心主義や不可知論、さらに行き着く先として無神論という結果をもたらすものです。こうしたものとして、信教の自由は公会議によって理解されていますが、そのまま理解されたものとして、それは、反キリスト教的フランス革命の「人権」のうちの一つとして敬意を表される世俗的良心の自由と何を以って区別されるのでしょうか?
13)現在のエキュメニズムも同様に、それが主に目的としているものが、(一人でも多くの)人類のキリストへの改心というよりはむしろ、全民族間に平和と兄弟愛があるメシアの時代を開幕する事が出来る一種の新しい教会、あるいは世界宗教として人類を一致、さらには統一させることであるように見えるゆえに、同様な結果(無関心主義と信仰の喪失)に至らせているとは思われませんか? もし以上のものが、現在のエキュメニズムの究極目的であるならば‐そしてこれらの究極目的が、カトリック教会と現代世界に関する司牧憲章 Gaudium et spes <現代世界憲章> の内に一部見出されるのですが、‐、このエキュメニカルな対話は、ある種の「キリストとベリアルと間の同意」へと危険にも滑り込んでいる様には見えませんか? 公会議後の教会が現代世界と行ったあらゆる対話は、再検討されるべきではありませんか?
教皇聖下へ、
私たちがこの粗末な嘆願書に於いて大胆にも聖下に表明させて頂きました質問は、既に二年前にモンシニョール・ゲラルディーニによる嘆願書などは評価しないと言明した聖職位階を間違いなく立腹させるかも知れません。この五十年以来、カトリック教会を深く苦しめている危機の例外的な深刻さを未だに理解していないように思われる一部の聖職位階が問題なのです。それは、デ・マッテイ教授の本が示したように、そして彼の前にも、より要約された形で、神言会 (S.V.D.) 司祭のラルフ・ヴィルトゲン神父(P. Ralph Wiltgen) や、ロマーノ・アメリオ教授の著書が証明している様に、公会議の際に公会議前にはその前兆だったものが炸裂した危機なのです。
私たちが持つ信仰者としての霊魂と良心に於いて、敬意の全てをあげて聖下に書かれましたこの嘆願書は、敢えて申し上げるならば、知らない者もいない、ありとあらゆる抵抗や困難にも拘らず、聖下によって勇敢に開始されました、この戦闘の教会の復興と刷新とそして浄化との仕事に完璧に調和していると私たちには思われます。
私たちは、一部の聖職者に浸透してしまった道徳の腐敗に対して聖下がお取りになった不屈の行動や、カトリックとは名ばかりとなってしまった、良く知られた福祉事業、愛徳の施設や福祉施設に対して、それを健全化させる活動だけに言及しているのではありません。
私たちは、(確かな聖伝に拠れば使徒たちの時代にまで遡る典文を見ると、ふさわしくなく「トリエント」典礼と呼ばれている)旧ローマ典礼様式によるミサの執行と、さらに公会議前の儀式書(rituale)に則った諸秘蹟の授与と払魔式の「解放」にも言及します。
私たちは、マルセル・ルフェーブル大司教によって創立された聖ピオ十世兄弟会の司教たちに(知られている規律上の理由により)重くのし掛かったあの破門宣告の教皇聖下による免除にも言及します。これについては、信徒たちの間で広く賛同を得た「ロザリオの国際十字軍」がその撤回という目的の為に開始され、恭しくも根気強く、聖下に対して懇願していました。
カトリック教会にとっては間違いなく最重要のものである、聖主の教会全体に対する聖下のpotestas jurisdictionis <裁治権> に由来する教皇の全権限をもってmotu proprio <自発的に> 与えられた、上述した一連の措置の全てにおいて、単純なカトリック教徒としての私たちの sensus fidei <信仰の感覚> は、聖霊による明白な業を認めます。
私たちは、カトリック世界の中心に於いてキリストがもう一度確立される事業計画に、聖下が望まれている、公会議の見直しをもその中に加える事が出来るように、聖霊の御助けを求めつつ、私たちの粗末な嘆願書を締めくくります。
私たちの忠孝の念をこめた熱意とまた私たちの敬意を保証しつつ、
In Domino et in corde Mariae <聖主とマリアの御心に於いて>
2011年9月24日
50名近い署名がここに続く。その中には次の名前が見える。
パオロ・パスカルッチ教授(Prof. Paolo Pasqualucci)、哲学教授;
モンシニョール・ブルネーロ・ゲラルディーニ(Mgr Brunero Gherardini)、教会論教授、イタリアの最年長神学者;
モンシニョール・アントニオ・レヴィ(Mgr Antonio Livi)、ラテラン大学に於ける認識哲学の名誉教授;
ロベルト・デ・マッテイ教授(Prof. Roberto de Mattei)、ローマ欧州大学;
ルイジ・コーダ・ヌンズィアンテ教授(Pro. Luigi Coda Nunziante)、個人的かつファミリア・ドマーニ協会(l’association Famiglia Domani)会長として;
パオロ・デオット博士(Dott. Paolo Deotto)、リスコッサ・クリスチアーナ(カトリックニュースサイト、www.riscossa cristiana.it)管理者;
ピエロ・ヴァッサロ教授(Prof. Piero Vassallo)、哲学教授、リスコッサ・クリスツィアーナの共同管理者;
ヴィルジニア・コーダ・ヌンツィアンテ博士(Dr.ssa Virginia Coda Nunziante);
プッチ・チプリアーニ博士(Dott. Pucci Cipriani);
マルチェッロ・スタンズィオーネ神父(Don Marcello Stanzione)及び大天使聖ミカエルの軍団一同(toute la Milizia de San Michele Arcangelo);
ダンテ・パストレッリ教授(Prof. Dante Pastorelli);
フローレンス市、聖フィリッポ・べニズィ(St. Filippo Benizi)の聖ジロラモと聖フランチェスコ・ポヴェリーノの尊き兄弟会の理事、フローレンスのウナ・ヴォーチェ連盟会長;
カロジェーロ・カンマラータ(Calogero Cammarata)氏、トリノのインテル・ムルティプリチェス・ウナ・ヴォックス(Inter Multiplices Una Vox)連盟会長;
クリスティーナ・スィッカルディ博士(Dr.ssa Christina Siccardi)-カスティリオーネ・トリネーゼ町(ピエモンテ州トリノ市);
カルロ・マネッティ博士(Dott. Carlo Manetti)-カスティグリオーネ・トリネーゼ町(ピエモンテ州トリノ市);
アレッサンドロ・ノッキ(Alessandro Gnocchi)氏;
マリオ・パルマーロ(Mario Palmaro)氏;
マリオ・クリスコニオ(Mario Crisconio)氏、マルタ騎士修道会騎士(chevalier de l’Ordre de Malte)、ピオ・モンテ・デッラ・ミゼリコルディア(ナポリで1601年創設された慈善施設)理事、ナポリのウナ・ヴォーチェ連盟会長;
エンリコ・ヴィッラーリ(Enrico Villari)氏、技師、哲学博士‐ナポリ在住;
マルチェッロ・パラトーレ(Marcello Paratore)氏、哲学教授、ナポリ在住;
ジュゼッペ・デ・ヴァルガス・マクカ(Giuseppe De Vargas Machuca)氏、レアーレ・アルチコンフラテルニータ・エ・モンテ・デル・サクロ・サンクト・サクラメント・デイ・ノービリ・スパニョーリ(Reale Arciconfraternita e Monte del SS. Sacramento dei Nobili Spagnoli)会の理事長‐ナポリ;
ジョヴァンニ・トルテッリ(Giovanni Tortelli)氏、作家、教会法及び教会史研究者(フローレンス)。
この嘆願書はリスコッサ・クリスティアーナ・<カトリックニュース>サイト(Riscossa cristiana)によって広められており、サイト上でイタリア語原文を読む事が出来ます。
SUPPLICA Al Santo Padre Benedetto XVI,
Sommo Pontefice, felicemente regnante,
affinché voglia promuovere un approfondito esame del
pastorale Concilio Ecumenico Vaticano II