Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

私は御身を信じ、礼拝し、希望し、御身を愛します!御身を信じぬ人々、希望せず愛さぬ人々のために、赦しを求めます(天使の祈)

世俗の共通善、カトリック宗教とその他の諸宗教

2007年06月07日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

兄弟姉妹の皆様、ルフェーブル大司教様の『DUBIA 信教の自由に関する私の疑い』の紹介のつづきです。


■ 世俗の共通善、カトリック宗教とその他の諸宗教

 上述した最後の2部(聖書の歴史に見られる宗教的事柄においての強制と「宗教的事柄における一切の拘束からの免除」としての信教の自由の是非)は、信徒たちの信仰の保護のためになされる宗教に関する事柄における強制の正当性を明らかにしています。ここから教会のみならず国家さえも宗教に関する正当な強制を行使することができると言うことを証明しなければなりません。世俗の共通善を保証するため、また教会の保護を確かなものにするため、国家は宗教に関する事柄に干渉する義務と権利を持っています。私たちが要約する教えは、聖トマス・アクィナスと教皇ピオ十二世及び教皇ヨハネ二十三世までの教えです。

1. 世俗の共通善は市民社会及び国家に固有の目的です。世俗の共通善とは主要に道徳的善であります。これは客観的・道徳的・宗教的秩序の考察に独立したものではなく、その反対にそれに本質的に依存しているものです。

「いかなる疑いもなく、この共通善の獲得が人々の完成という結果をもたらさなければならないものだが、その共通善とは主要に道徳的善である。」
(レオ十三世、レールム・ノヴァールム, Actus III p. 47;PIN 303)

「・・・共通善の永続する実現とは、すなわち、市民の資質、その機能、その物質的・知的・宗教的生活を発展させるために、市民全体に必要な外的諸条件である。」
(ピオ十二世、1942年12月24日のラジオ・メッセージ, Documents 1942 p. 334; PIN 782)

「共通善をどのように定義したらよいだろうか? 共通善とは、道徳の客観的規範に全面的に基づいていなければならない。」
(マルセル・ルフェーブル大司教、1963年11月に第二バチカン公会議の事務総長に提出した発言。J’accuse le Concile, 1976, p35)

2. 道徳的・宗教的秩序は完全な秩序であり得ます。そしてこれこそがカトリック国家において君臨する秩序です。この秩序は、非カトリックのキリスト教国家であるとか、宗教的観点から見ると多元国家であるとか、或いは異教国家、また共産主義国家などの場合によって、多かれ少なかれ不完全の秩序であったり、見せかけだけの秩序であったりします。唯一キリスト教的社会秩序のみが、たとえば真の自由など、真の共通善を保証するものです。

「いや、尊敬する兄弟たちよ、誰もが自分が教師および立法者として立つ、この社会的・知的な無秩序この時代にあって、私たちは力をふりしぼって次のことを繰り返し叫ばねばなりません。すなわち国は天主が築かれたのとは違ったしかたで築かれてはならないと言うことです。社会は、教会がその礎を置き、その機能を見守るのでなければ打ち立てられることが出来ないのです。否、文明とは今もって発見されるべきものではなく、新しい国家が空をつかむような想念の上に築かれるべきでもありません。文明は[現に]存在してきたのであり、今でも存在するのです。それはキリスト教文明であり、キリスト教国なのです。これは正気を失った夢想家や反乱者、ならず者による容赦のない攻撃に対して、絶えず打ち立て、再興さえすればよいのです。そしてこれこそ「キリストにおいてすべてを立て直すことonmia instaurare in Christo」に他なりません。」
(聖ピオ十世、『私の使徒的責務』Actus V p.127;PIN 430)

「共通善を得るとは、宗教の評価がその他のものよりも優位にあるようにさせることであり、宗教が自然に持つ、素晴らしく救いに役立つ影響力を、政治的・家庭的・経済的利益にまで及ぼさせること、つまり公的権威と自由とがキリスト教的法に従って一致させることである。」
(レオ十三世、『ペルモティ・ノス 』、Actus IV p.229;PIN 350)


「昔のように今日でも、天主なる平和の君の馬小屋の御前で、私はこのように宣言する必要を感じる。『この世は、キリストにおいて天主が望み給うた秩序、現実の永続する平和を保証する秩序からはるかに遠ざかっている。・・・教会のキリスト教的社会秩序のための勧告は、平和を作る主要な要素としてあると同時に真の自由の正しい概念への刺激である。何故なら、とどのつまり、キリスト教的秩序とは平和のための組織として、本質的に自由の秩序であるからだ』と。」
(ピオ十二世、1951年12月24日ラジオ・メッセージ、Documents 1951 p.562 &564; PIN 1174&1177)


3.一国にとって道徳的悪を黙認する或いは宗教的な誤謬を黙認する必要があればあるほど、または誤謬が法定化されていればいるほど、その社会は完成からますます遠ざかります。誤謬が自由に広まる領域を持てば持つほど、霊魂たちにとって、特に宗教に関する真理に近寄り、それを信奉し続ける自由はますますなくなります。

「しかし、この問題を正しく捉えるために、私たちは次のことを確認しておかなければなりません。すなわち、ある国家が悪を容認する必要に駆られる程度にしたがって、当の国家はそれだけ完全な状態から遠ざかっているということです。」
(レオ十三世、『リベルタス・プレスタンティッシムム』 Actus II p205;PIN 221)

「国家がもしもこの点において罪深い意見と行為の放埒を促進し、人々をして真理から逸らし、霊魂をして全徳から道をはずさせることを罰を受けることなく行うことができるようにしたとしたら、国家は自然の規則と掟とから離れていることになる。」
(レオ十三世、『インモルターレ・デイ』 Actus II p. 39;PIN 149)

「知性の無制限かつ適切な度合いを越した放埒は、結果的に多数の単純素朴な人々に対する抑圧を確実に招くことになってしまうので、弱者に対して加えられる暴力と同様、法の権威によって正当に罰せられるべきです。」
(レオ十三世、『リベルタス・プレスタンティッシムム』 Actus II p.197;PIN 207)

「多数の単純素朴な人々」は自由放埒な考えによって「抑圧される」、これこそかつてなかったほどの今日の社会学的な現実です。
「現代の人々は、マスメディアの絶え間ない攻撃に守るすべもなく放置されています。マスメディアは信じられないほどの効果を持って、精神と道徳の頽廃を推進しています。」
(『ルフェーブル大司教と検邪聖省』 Itinéraire 233, mai 1979, pp. 69-70)

 従って、今日において共通善を確保するということは、かつてなかったほど自由放埒な考え、とりわけ宗教に何する考え(セクト、天からお告げを受けたとの主張、秘教主義、東洋神秘主義など)を抑圧することを想定しています。一般的に言って、世俗の共通善を構成する要素の一つに、宗教に関する真理に霊魂が自由に近づくことができることがある、と言わなければなりません。この共通善を実現させるために、国家は誤謬の喧伝を抑圧し、その組織を妨害し、全てのセクト特にイスラム教がそうである社会・宗教的束縛を打ち砕くために全てをする必要があります。

4.その反対に、真の宗教において市民が宗教の一致を達成することは、世俗的共通善の完璧な実現の必然の結果です。そのためにカトリック国家において、宗教的一致の原理は国家の憲法に書かれていなければなりません。

A) まず事実を見てみましょう。
 イデオロギー上の或いは宗教上の一致は、何らかの「秩序」がある全ての国家がそうであるという事実があります。その反対に、多元主義とは、以前キリスト教的であった秩序が崩壊している過程である国家がそうであるという事実です。

 イデオロギーを持たない国家はありません。共産主義国家、仏教国家、イスラム教国家、プロテスタント国家、フリーメーソン国家、・・・などがあります。カトリック国家があってはいけないのでしょうか?

 多くの健全なカトリック国家がまだ存続していた時、或いは成功を収めて再構成されていた時、豊饒であったけれども道から外れていた知識人ジャック・マリタンは、諸国における宗教的多元主義は歴史の必然的・摂理的方向であると考えました。この根拠のないまた誤った基礎の上に、政治において道を誤ったこの形而上学者マリタンは、カトリック国家の消滅を命じ、「新しいキリスト教」、キリスト教に息吹を得た多元主義的国家という自分の神話を打ち立てました。諸国の王キリストがあたかも、仏陀とマホメットと共に平和共存し彼らと共に「キリスト教世界」を建設するように還元されなければならないかのように。

 残念なことに、この背教とこの冒涜は第二バチカン公会議の前夜に支配的なイデオロギーとなったのです。

B) しかしながら、教会の教えはこの裏切りの偏見と正反対です。教会の教えは、カトリック国における宗教上の一致の利益、世俗の共通善のためにとってにさえ利益があることと、国家がその憲法にそれ規定する義務があることを思い出させています。

「今日、全スペインは、御聖体の秘蹟にましますイエズス様の足下にひれ伏し、自発的な熱心に満ちた祈りを捧げている。スペインが宗教について考えていることを、スペインはそこにこれ以上明白にすることが不可能なほどはっきりと表明している。スペインは、その数とその信仰告白によるのみならず、現実に深くカトリック的であること、そして永遠に信仰を維持することを求めていると最も断言的に証言したのである。」
(聖ピオ十世、1911年11月27日、枢機卿会議における訓話 Actus VII p.155)

「スペインの栄光はカトリック教と親密に一致しているがために、スペイン先祖の信仰つまりその国的偉大さの創造的力を、スペインからむしり取ろうと繰り返す嘆くべき試みの目撃証人となったことを二重に悲しむ。私はここで、”かかる教会と国家との分離が、特にそのほとんど全体においてカトリックである国家において、それ自体で合法的であり良いものである” と断言することが極めて重大な誤りであるということを今日、倦むことなく繰り返す。」
(ピオ十一世、『ディレクティッシマ・ノビス 』 Actus X P17& 22)

「願わくは主があなたたちに、カトリック信仰における一致を保ち給い、あなたたちの祖国をその歴史的使命にますます忠実たらしめ給わんことを。」
(ヨハネ二十三世、1961年9月24日、サラゴサにおける第5回全国聖体大会の機会にスペインのカトリック信徒たちにラジオを通して伝えられたメッセージ。Acta Apostolicae Sedis 53, 1961, p.681.)

「このエキュメニズムの時代において、混乱し動揺している世界がその目をカトリック教会に向ける時、スペインにおける教会の模範は極めて慰めに満ちている。スペインでは数世紀の長きにわたって、その歴史のもっとも難しい時でさえも大胆な勇気を持って、ローマとの緊密な交わりにおいて、その霊的遺産を守り抜いた。この祝福された特徴は、常にスペインの特徴であった。・・・カトリック教会は、委託を受けた価値を保存し国の宗教的一致にひびが入らないように維持することに心を砕いているが、市民の道徳的向上の最善の国家的保証である国民の一致を保全するために、国家と協力して働くことが保証されている。」
(在スペイン教皇大使アントニュッティ枢機卿が、1962年マドリッドにて枢機卿の位に上げられる時に述べた言葉)

5.最後に、共通善を保全するためにこの宗教的一致を保証しようと、国家は、黙認(tolérance)を使うのがより好ましいと判断する場合は別であるが、法的な強制によってカトリック以外のその他の諸宗教の公然の示威行為を制限する義務があり、従って、その権利がありうる。

「国家を、最高の善であり現世的な数多くの利益の根元である、信仰の一致において保全するために、世俗権力は、それ自体で、・・・その他のカルトの公的な示威行為を規制し統制することができる。」
(公会議草稿、カトリック国家に関する段落)

結論:教会の教えが引き出す2つの実践的規則をここで箇条書きにします。この2つは1965年以降、理論においても実践においても、信教の自由に関する第二バチカン公会議の宣言を適応するために、聖座の政策において捨て去られています。この2つの規則こそ、国家が保護しなければならない共通善によって正当化されるのです。

(1)カトリックの国(nation cathlique)における宗教的一致は、国家憲法の基本的原理として規定されなければならない。

(2)カトリックの国において、国家はその他の宗教の公然の行事を規制し制限する権利を持つ。



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■ 自由についての一般的考察 「自由」の3つの意味
■ 法とは何か? 法は自由にとって敵なのか?
■ 良心とは何か。行為の実効的規範とは客観的真実のみ。
■ 良心および強制に関する一般的考察:良心を侵すことになるか。法律上の強制についてどう考えるべきか
■ 基本的諸権利とは何か。その限界は?誤謬または道徳的悪に対する権利は存在するか
■ 誤謬または悪に対する消極的権利は存在するか?また、寛容に対する権利は?
■ 本来の意味での「信教の自由」:人間人格の尊厳は、真理を考慮に入れない自由には存しない。
■ 19世紀の教皇たちはこぞって、いわゆる「良心と諸信教の自由」を排斥した
■ 諸教皇は、何故「良心ならびに信教の自由」を排斥したのか、理由は?
■ 信教の自由とその新たな「根拠」:およびそれへの反駁
■ 真理探求の自由は宗教的自由の根拠となり得るか
■ 宗教無差別主義について確認しておくべき点
■ 信教の自由は人間人格の基本的権利なのか、歴代の教皇様は何と言っているか?
■ 聖書の歴史に見られる、宗教的事柄においての強制
■ 「宗教的事柄における一切の拘束からの免除」としての宗教的自由の是非
■ 「宗教的事柄における一切の拘束からの免除」としての宗教的自由の是非 (つづき)

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トレント公会議(第19回公会議)決議文
第一バチカン公会議 (第20回公会議)決議文(抜粋)
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教皇ピオ11世 王たるキリストについて『クワス・プリマス』1925年12月11日

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