Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

私は御身を信じ、礼拝し、希望し、御身を愛します!御身を信じぬ人々、希望せず愛さぬ人々のために、赦しを求めます(天使の祈)

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
2019年 8月の聖伝のミサの予定
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】


8月 聖母の被昇天を祝いましょう。
意向:聖母の汚れなき御心の凱旋のため
実践すべき徳:心の柔和と謙遜
守護の聖人:聖母の汚れ無き御心

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します

◎2019年 8月の予定
【大阪】聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂(アクセスEG新御堂4階 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 
〒532-0002 (JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分)

  8月2日(初金)教会博士証聖者司教聖アルフォンソ・デ・リグオリ(3級祝日)白
          午後5時半 ロザリオ及び告解
          午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月3日(初土) 聖母の土曜日(4級)白
          午前10時 ロザリオ及び告解
          午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月11日(主)聖霊降臨後第9主日(2級)緑
          午後5時半 ロザリオ及び告解
          午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月12日(月) 童貞聖クララ(3級祝日)白
          午前10時 ロザリオ及び告解
          午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月18日(主)聖霊降臨後第10主日(2級)緑
          午後5時半 ロザリオ及び告解
          午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月19日(月) 証聖者聖ヨハネ・ユード(3級祝日)白
          午前6時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

【東京】東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図)「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」

  8月4日(主)聖霊降臨後第8主日(2級)緑
          午前10時  ロザリオ及び告解
          午前10時半  ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月5日(月)  雪の聖母の大聖堂の奉献(3級祝日)白
          午前7時 ミサ聖祭

  8月18日(主)  聖霊降臨後第10主日(2級)緑
          午前10時  ロザリオ及び告解
          午前10時半  ミサ聖祭(歌ミサ)

愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております。

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スタバト・マーテルのラテン語、日本語訳、中国語訳、韓国語訳をご紹介します。

2016年09月28日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

9月15日は、聖母の七つの御悲しみの祝日でした。この日、聖伝のミサで歌われる、あるいは唱えられるスタバト・マーテルのラテン語、日本語訳、中国語訳、韓国語訳をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


ラテン語

Stabat mater dolorosa
iuxta Crucem lacrimosa,
dum pendebat Filius.

Cuius animam gementem,
contristatam et dolentem
pertransivit gladius.

O quam tristis et afflicta
fuit illa benedicta,
mater Unigeniti!

Quae maerebat et dolebat,
pia Mater, dum videbat
nati poenas inclyti.

Quis est homo qui non fleret,
matrem Christi si videret
in tanto supplicio?

Quis non posset contristari
Christi Matrem contemplari
dolentem cum Filio?

Pro peccatis suae gentis
vidit Iesum in tormentis,
et flagellis subditum.

Vidit suum dulcem Natum
moriendo desolatum,
dum emisit spiritum.

Eia, Mater, fons amoris
me sentire vim doloris
fac, ut tecum lugeam.

Fac, ut ardeat cor meum
in amando Christum Deum
ut sibi complaceam.

Sancta Mater, istud agas,
crucifixi fige plagas
cordi meo valide.

Tui Nati vulnerati,
tam dignati pro me pati,
poenas mecum divide.

Fac me tecum pie flere,
crucifixo condolere,
donec ego vixero.

Iuxta Crucem tecum stare,
et me tibi sociare
in planctu desidero.

Virgo virginum praeclara,
mihi iam non sis amara,
fac me tecum plangere.

Fac, ut portem Christi mortem,
passionis fac consortem,
et plagas recolere.

Fac me plagis vulnerari,
fac me Cruce inebriari,
et cruore Filii.

Flammis ne urar succensus,
per te, Virgo, sim defensus
in die iudicii.

Christe, cum sit hinc exire,
da per Matrem me venire
ad palmam victoriae.

Quando corpus morietur,
fac, ut animae donetur
paradisi gloria. Amen.

日本語訳:公教会祈祷文から引用します。
【高校生の頃、短歌のように5,7,5,7,7で訳された素晴らしい訳を見たことがあります。ずっと大切にしまっておいたのですが、残念ながら手元にはなく失われてしまいました、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介することが出来ないのが残念です。】

悲しみに沈める御母は涙にむせびて、御子のかかり給える十字架のもとにたたずみ給えり。
歎き憂い悲しめるその御魂は、鋭き刃もて貫かれ給えり。
天主の御独り子の尊き御母は、いかばかり憂い悲しみ給いしぞ。
尊きい御子の苦しみを見給える、慈しみ深き御母は、悲しみに沈み給えり。
キリストの御母のかく悩み給えるを見て、たれか涙を注がざる者あらん。
キリストの御母の御子と共にかく苦しみ給うを見て、たれか悲しまざる者あらん。
聖母は、イエズスが人々の罪のため、責められむち打たるを見給えり。
聖母はまた最愛の御子が御死苦のうちにすてられ息絶え給うを眺め給えり。
慈しみの泉なる御母よ、我をして御悲しみのほどを感ぜしめ、共に涙を流さしめ給え。
わが心をして、天主たるキリストを愛する火に燃えしめ、いつにその御心に適わしめ給え。
ああ聖母よ、十字架にくぎ付けにせられ給える御子の傷を、我が心に深く印し給え。
我がためにかく傷つけられ、苦しみ給いたる御子の苦痛を、我に分かち給え。
命のあらん限り、御身と共に熱き涙を流し、はりつけられ給いしイエズスと苦しみを共にするを得しめ給え。
我十字架の側(かたわら)に御身と立ちて、相共に歎かんことを望む。
童貞のうちいともすぐれたる童貞、願わくは、我をしりぞけ給わずして、共に歎くを得しめ給え。
我にキリストの死を負わしめ、その御苦難を共にせしめ、その御傷を深くしのばしめ給え。御子の御傷をもって我を傷つけ、その十字架と御血とをもって、我を酔わしめ給え。
聖なる童貞女よ、我の地獄の火に焼かれざらんため、審判の日に我を守り給え。
ああキリストよ、我この世を去らん時、御母によりて勝利の報いを得しめ給え。
肉身は死して朽つるとも、霊魂には、天国の栄福をこうむらしめ給え。 アーメン。

韓国語の訳

1. 주 예수 높이 달리신 십자곁에 성모 서서 비통하게 우시네.
2. 섧고슬픈 성모성심 수난칼에 깊이 찔려 참혹하게 뚫렸네.
3. 간택되신 동정성모 독생성자 운명하니 애통하심 한없네.
4. 아들수난 보는 비통 맘 에이는 환난중에 성모 홀로 계시네.
5. 예수 모친 이런 통고 받으심을 보고 누가 울지 아니하리요.
6. 성모 그 아들과 함께 고난겪음 보고 누가 통곡 아니하리요.
7. 아들 예수 우리 위해 모욕채찍 감수함을 성모 친히 보시네.
8. 십자가상 아들 흘린 피에 젖은 붉은 땅을 성모 친히 보시네.
9. 사랑의 샘인 성모여 나에게도 슬픔 나눠 함께 울게 하소서.
10. 내 마음에 천주 예수 사랑하는 불을 놓아 타오르게 하소서.
11. 아 성모여 못박히신 주의 상처 내 마음에 깊이 새겨 주소서.
12. 나를 위해 상처 입고 괴롬 겪은 주의 통고 내게 나눠 주소서.
13. 사는동안 내가 울고 주와 함께 십자고통 참아받게 하소서.
14. 십자곁에 성모따라 나는 서서 통고함이 내 원의로소이다.
15. 동정중의 동정이여 나를 버리지마시고 함께 울게 하소서.
16. 예수의 죽음 수난을 마음새겨 그 상처를 앙모하게 하소서.
17. 예수의 거룩한 상처 나도 입어 그 성혈에 취하게 하옵소서.
18. 정결한 성모 마리아 심판날 나를 지키어 영벌 면케 하소서.
19. 아 그리스도여 내 죽은뒤 성모의 통고로 인한 승리 기쁨 주소서.
20. 예수여 육신 죽어도 영혼이 천당 영복을 누리게 하옵소서.
아멘. 알렐루야.


別の訳もありますが、上に上げた方がよりラテン語原文に忠実に訳されています。
次の訳は、言葉の音節数を合わせるために、意味が犠牲になっています。

1. 아들예수 높이달린 십자곁에 성모서서 비통하게 우시네.
2. 섧고설운 슬픔고통 성모성심 칼에찔려 참혹하게 뚫렸네.
3. 독생성자 수난하니 여인중에 복된성모 애간장이 다녹네.
4. 아들수난 보는성모 맘저미는 아픔속에 하염없이 우시네.
5. 예수모친 이런고통 지켜보는 우리죄인 누가울지 않으리?
6. 십자가의 아들보며 함께받는 성모고통 누가슬퍼 않으리?
7. 우리죄로 채찍모욕 당하시는 아들예수 성모슬피 보시네.
8. 기진하여 버려진채 죽어가는 아들보고 애처로이 우시네.
9. 사랑의샘 동정성모 저희들도 슬퍼하며 함께울게 하소서.
10. 그리스도 하느님을 사랑하는 제마음에 불이타게 하소서.
11. 어머니께 청하오니 제맘속에 주님상처 깊이새겨 주소서.
12. 저를위해 상처입고 수난하신 주님고통 제게나눠 주소서.
13. 사는동안 십자고통 성모님과 아파하며 같이울게 하소서.
14. 십자곁에 저도서서 성모님과 한맘으로 슬피울게 하소서.
15. 동정중의 동정이신 성모님의 크신슬픔 저도울게 하소서.
16. 주님상처 깊이새겨 그리스도 수난죽음 지고가게 하소서.
17. 저희들도 아들상처 십자가위 흘린피로 흠뻑젖게 하소서.
18. 동정성모 심판날에 영원형벌 불속에서 저를지켜 주소서.
19. 그리스도 수난공로 십자가의 은총으로 보호하여 주소서.
20. 이몸죽어 제영혼이 천국영광 주예수님 만나뵙게 하소서. 아멘.

中国語の訳も色々ありますが、次がラテン語に忠実に訳されています。

01, 聖母痛苦侍立,含淚十字架旁, 當聖子高高懸起時
02 ,她心靈長嘆,憂悶痛傷,被利刃所刺穿
03, 何等愁苦悲傷, 那當受稱揚者, 獨生聖子的母親
04, 淒楚感傷, 慈母仰視, 榮耀之子受難時
05, 誰不一起號哭, 看到基督之母, 忍受這般的痛楚
06, 誰能不滿懷悲愁, 瞻仰基督之母,與其子同憂共苦
07, 為了祂子民的罪辜, 仰視耶穌受盡苦辱, 鞭跡杖痕無完膚
08, 眼見自己親生愛子, 孤苦伶仃與世長辭, 救主耶穌嚥氣時
09, 哎呀慈母仁愛源潻藪, 求你使我感受淒楚, 好同你一起哀哭
10, 使我內心燃起愛火, 全力敬愛基督天主, 一生常能取悅主
11, 懇求慈母廣施慈恩, 將你聖子苦架傷痕, 強力銘刻在我心
12, 將你遍身受傷之子, 為我罪人所受苦難, 分我一份共承擔
13, 教我同你一齊痛哭, 並與耶穌共分淒楚, 在我有生歲月中
14, 與你共同侍立苦架, 教我站立你身旁, 是我含淚所期望
15, 童貞女中最卓越者, 我的心願請勿拒絕, 使我同你共哀嗟
16, 教我擔負基督之死, 作祂苦難中的良伴, 所受創傷永懷念
17, 使我感受祂的傷痛, 沉醉在祂十字架中, 共受聖子的酷刑
18, 免我身被水火焚炙, 賜我蒙受慈母恩護, 在我接受審判之日
19, 基督,當我離此塵世, 賜我倚侍聖母恩慈, 到達勝利的光榮
20, 在我肉軀亡故之日, 使我靈魂蒙受恩賜, 獲享天堂的榮福。


次の中国語訳は、文字の数をうまく合わせて作られています。意味が少し犠牲になっていると思います。

1 圣子高悬十字架上,痛苦之母倚立其旁,举目仰视泪流长。
2 其灵其神忧闷长吟,衷心悲伤何如其深,真如利刃刺透心。
3 独子之母殊福贞女,内心痛苦谁堪比汝,甚矣哀哉莫可语。
4 荣光之子如是痛创,仁慈主母见之凄怆,母心受苦痛且长。
5 基利斯督可爱之母。如是惨伤居之幽谷,谁能见之不同哭。
6 圣母在旁仰瞻耶稣,母子心连同伤同忧,谁能见之不同愁。
7 见子耶稣受尽艰辛,为救其民甘舍己身,遍体被鞭痛欲昏。
8 见己爱子为人所弃,发声长叹断送其气,为子娘着痛出涕。
9 天主圣母热爱之泉,赐我觉得尔苦无边,协尔同悼泪涟涟。
10 赐我心中热爱炎炎,爱主耶稣披示心肝,悦乐天主至尊颜。
11 至圣圣母求施忠忱,将主五伤深刻我心,终身宝之爱且钦。
12 圣子耶稣为我福原,为我受苦我心难安,愿分其苦我心欢。
13 赏我一生与你同悲,圣子被钉救我于危,同苦同忧永勿馁。
14 愿偕我母侍立架旁,分受忧苦合尔同伤,哀鸣悲痛泪成行。
15 童贞圣母女中淑媛,勿常忧伤勿自伤残,今我与尔泪济济。
16 赏我偕主同患同忧,负其苦痛分其死愁,念念在心永无休。
17 吾主受苦使我断肠,求主苦架放我肩上,圣子宝血赐我尝。
18 日后审判我甚凛然,童贞圣母慈爱无边,救免永狱火中煎。
19 求主慈母为我转求,忠心事主于我死候,得胜归天凯歌奏。
20 临终之时吉凶攸关,求主赐我死后升天,荣主爱主亿万年。

次の訳は、よりラテン語に忠実に訳されたものです。

母亲悲悼着站
在十字架前 泪流满面
她的儿子就钉于其上。

她凄苦的心
沉痛又哀伤
现在又被那剑刺穿。

怎样的悲哀
折磨着这位受祝福的
独生子的母亲啊!

圣母是怎样地
伤痛而悲哀,当她看到
自己儿子的大苦痛。

看着基督之母
受此痛楚,谁能
不为之而动容?

凝视着基督之母
与她的儿子同哀,
谁还能无动于衷?

她看着耶稣备受酷刑
惨遭鞭挞,是为了
他的民的罪过。

她看着自己的爱子
送出自己的灵
凄寂地死去。

母亲啊,爱之源泉,
让我也感受到你的悲恸的力量吧,
这样将使我与你一齐哀痛。

让我的心在对
圣神基督的爱中燃烧吧,
这样将让我使他欢悦。

圣母啊,你这样做:
使那被钉死十字架者的伤
也强烈地刺进我的心吧!

你那受伤的儿子,
是为了我才如此屈尊地啊,
让我也分有他的苦吧。

在我的有生之年内,
让我同圣洁的你一起流泪吧,
一道为那被钉死十字架者而哀痛吧,

我望与你一同站在
十字架前,于哀哭中
分担你的苦。

于众贞女中脱颖而出的贞女啊,
请不要为了我而觉苦涩,
使我与你一起悲悼吧。

为了让我能忍受基督的死去,
请让我分担他的受难
并哀悼他的伤痛吧。

让我也受他的伤吧,
让我沉醉于十字架
及圣子的血!

为了使我免于被
熊燃的烈火焚烧,贞女啊,
在正义伸张的日子保护我吧!

主基督啊,当我死去时,
使我能由你的母亲而
进入神圣的佑护中吧。

当肉体消亡时,
请赐给我的灵魂以
天堂的荣光吧。阿门。
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マルレ司教様による霊的講話【東京】・・・ルフェーブル大司教様のローマに対する態度について

2016年09月27日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年9月11日(主日)にティシエ・ド・マルレ司教様が東京で堅振の秘蹟を授けてくださり、主日のミサを捧げてくださいました。
その後の霊的講話をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年9月11日(主日)ティシエ・ド・マルレ司教様霊的講話
同時通訳:小野田圭志神父

愛する信徒の皆様、

今回は、ルフェーブル大司教様のローマに対する態度についてお話ししたいと思います。

このお話しは、3つの部分に分かれています。

第一は、ルフェーブル大司教様がローマに対して持っていた原理について、つまり、ローマに対する尊敬と愛についてお話しします。
第二に、その原理に従って、ルフェーブル大司教様がローマに対してどのような行動をとられたかをお話しします。
第三に、ルフェーブル大司教様がもしも今生きておられたら、現在、ローマに対してどのような行動を取られるだろうか、についてです。

では、ルフェーブル大司教様は、ローマに対してどのような原理をもっていたのでしょうか。

ルフェーブル大司教様は神学生である私たちにこう教えて下さいました。私はその当時神学生でした。「教会は、カトリック教会は、イエズス・キリストである。何故ならば教会は、イエズス・キリストの神秘体であるから」と。「私たちが救われる為に、救霊の為には、イエズス・キリストの神秘体に属していなければならない。従って、救われる為には私たちは、カトリック教会に所属してなければならない。」

ピオ十二世教皇様は2回、「ローマカトリック教会こそがキリストの神秘体である」とはっきり教えてくれました。ですから教会はカトリック教会は、聖なる救いの宝庫、宝を持っています。その他の宗教はどのようなものであれ、その他の「キリスト教」と言われる名前が付いた教派がどのようなものであれ、救われる事はできません。

ルフェーブル大司教様は半分冗談を言うような感じで、「天国には、仏教徒もいなければ、ヒンドゥー教徒もいなければ、イスラム教徒もいなければ、プロテスタントもいない。天国にいるのはカトリックだけだ。もしもヒンドゥー、或いは仏教徒が天国にいたとしたら、それはカトリックに回心したからだ。」

これは明確です。何故ならばイエズス様は、「私は門である」と仰いました。「私を通らずには、誰も父のもとに行く事はできない。」イエズス様は仰いました、「私は道であり、真理であり、命である。」カトリック教会こそが、イエズス・キリスト様の神秘体です。イエズス・キリスト様は2つも3つも体を持っていません。では現代の神学者たちの言うには、「もしかしたらイエズス様は、体を3つ4つ持ってるかもしれない」と言っていますけれども、それはできません。

第2に、このキリストの神秘体は「永遠のローマ」です。何故かというとローマには、聖ペトロの後継者がいるので、教皇様がいるので、ローマこそがキリスト教の神秘体の中心地です。それが例え悪い教皇様であったとしても、例えばヨハネ二十三世とかパウロ六世とかであったとしても、教皇様です。ルフェーブル大司教様は言いました、私たちに言いました、「私たちの個人的な考えではなくて、教会が考える事を考えよう。」ルフェーブル大司教様が私たちにいつも教えて下さった事は、「私は、教会が考えるように考えたいと思っている」という事です。「私は自分の個人的な考えや、自分だけの考えで行動するようには決して望みませんでした。」

約100年前、ルフェーブル大司教様は若い神学生、ローマの神学生でした。ルフェーブル大司教様は神学生である私たちに、「ローマでは、私たちは信仰の学校に学んだ」と言っていました。「もしもローマに数年、誰かが住みながら、信仰の事を理解できなかったとしたら、これは時間の無駄だ」と。その当時のローマでは、典礼、或いはその生活それ自体、聖ペトロ大聖堂での素晴らしい荘厳な典礼儀式などは、「信仰の学校」でした。ルフェーブル大司教様は言いました、「私はローマで、幼きイエズスの聖テレジアの列聖式に与かった。聖ヨハネ・ビアンネー、アルスの聖司祭の列聖式に与かった。この美しい儀式によって、私たちはあたかも天国に運ばれてしまったかのようだった。この列聖式などはまさに、カトリックの信仰の宣言だった。つまり聖三位一体に対する信仰宣言だった。天主を讃美し、そして諸聖人を讃美する、生ける教会のその有様だった。」

第3の点は、この、「このような全てにおいて、私たちはローマで、教皇様を愛する事を学んだ。この当時、教皇様たちは本当にカトリック的な教皇様でした。例えば幼きイエズスの聖テレジアを列聖した、そしてアルスの聖司祭を列聖したピオ11世紀教皇様。私たちは教皇様を崇敬していました。教皇様は私たちローマの神学生たちを、ご自分の謁見に招いて下さり、私たちに直接お話下さいました。教皇様は私たちに、『ローマ的であって下さい。ローマを愛して下さい』と仰って下さいました。」

「ローマでは、教皇様だけでなく枢機卿様たち、重要な枢機卿様たちともコンタクトがありました。例えば聖ペトロ大聖堂で、聖ピオ十世教皇様の以前の国務長官であったメリデルバル枢機卿様が荘厳な司教ミサを捧げておられ、この信心深い様子、この敬虔な様子に心を打たれました。この高い身分の枢機卿様たちからは、信仰の息を吸っていました。」

ルフェーブル大司教様は神学生である私たちに言葉を続けて、「私はこの同じ精神において、聖ピオ十世会を創立したのです」と教えてくれました。ルフェーブル大司教様は言葉を続けて、「聖ピオ十世会を創立したのは、教皇様に反対する為だとか、第二バチカン公会議に反対する為だとかでは決してありません」と言いました。「聖ピオ十世会を創立したのは、カトリック教会の精神に従って、聖なる司祭を養成する為です」と教えてくれました。「私はただ単に、聖なるカトリック教会の聖伝に従って、信仰のある、教義をよく知っている司祭を養成したい、それを養成する、という事だけを目的としていました」と。

ですから、ルフェーブル大司教様は私たちに教えて下さったのは、「聖ピオ十世会の歴史において1970年11月1日という日付は非常に大切な日付です」と。何故かというと、この日付でフリブールの司教様であるシャリエール司教様が、教会の名前によって聖ピオ十世会を認可して下さったからです。私はその時の事をよく覚えています。私は神学生でフリブールに居て、フリブール大学で講義を受けて、そして講義から帰って着く時に、ルフェーブル大司教様は私たちを玄関で迎えて下さいました。

ルフェーブル大司教様はシャリエール司教様がサインをして、シールを許可のハンコを付けた、この公式の認可の文書を見せて下さって、「さぁ、認可の手紙がここにあるよ」と見せてくれたのを今でも覚えています。そして「これが私たちの出産証明書です」と言ってくれました。「教会における誕生の証明だ」と。

大司教様は、「私は、この当地の司教様の許可なく何事1つもしようとは思いません」と言いました。何故ならば教会の事業、教会の業をしなければならないからです。しかし必要に迫られて、避ける事ができずに、ルフェーブル大司教様はパウロ六世と衝突しなければなりませんでした。私は覚えています、1969年待降節の第1主日の前日、ルフェーブル大司教様は私たち9名の神学生たちを集めてこう言いました、「明日、新しいミサがどこかしこでも捧げられるだろう」と。ルフェーブル司教様は私たち神学生に質問しました、小さな声で、「私たちは一体、どうしたらいいだろうか?」と。そしてその自分の出した質問に自分で答えて、やはり小さな声で、「古いミサを、やり続けますよね?」と答えました。

親愛なる信徒のみなさん、この決定は歴史的な事実でした。何故かというと、最初に新しいミサを、この神学生たちと共に神学校全てで、新しいミサを拒否したからです。それも本当に小さな優しい声で拒否しました。ルフェーブル大司教様は強かったのですけれども、柔和でもありました。

新しいミサを受け入れなかったので、ルフェーブル大司教様はすぐに迫害を受けました。ルフェーブル大司教様は私たちに言いました、「このような迫害が来るという事は知っていました。教皇様と衝突するという事は望まなかったけれども、必要に迫られてこうなってしまった」と。そこで国務長官であったヴィヨ枢機卿はフランス人だったので、フランス人の同僚の司教たちに言って、聖ピオ十世会の廃止を要求しました。そしてパウロ六世は、2人の視察官をエコンの神学校に送って、エコンを視察させました。

この訪問の視察官たちは、私たち神学生に質問しました、尋ねたのです。例えばこんな質問です、「イエズス・キリストの復活というのは、歴史的な事実だろうか?そうではないだろうか?」私たちは、「もちろんそうです!イエズス様は亡くなっていた、死んでいたにもかかわらず、復活されたからです。」しかしこの視察者たちは答えました、「う~ん、そうではなくて、そんなにはっきりしていない。」

また他の質問をしました、「おぉ、君、真理とは一体何だろう?真理とはここにあるのか?それともこのここら辺にあるのだろうか?」私たちは答えました、「真理とはここにあります!真理。1つの真理。」するとその人たちは、「おぉ、そんなにはっきりしていない。」

この視察官は私たちに尋ねました、「司祭は結婚するべきだろうか?する事ができるだろうか?」私たちは、「いいえ、できません!」すると、「そんなにはっきりしていない。司祭が結婚する日が来るかもしれない。」ローマ教皇庁から派遣された視察官が、こんな事を私たちに言ったのです。

ルフェーブル大司教様はそれを聞いて、非常に驚きました。これはスキャンダラスな事で、憤りました。ルフェーブル大司教様はローマに行って、「このようなおかしい視察官が送られてきた」という事を報告しました。そしてそのおそらく私の思うには、聖霊の息吹によってインスピレーションによってだと思うのですけれども、ローマに着いたら1枚の紙に、信仰宣言を一気に書きました。その中でルフェーブル大司教様は2つのローマについて描写しています。その中でルフェーブル大司教様は、「私たちは全身全霊を込めて、永遠のローマ、真理と知恵の教師であるローマに愛着し、それを支持し、それに密着する。」言葉を続けて、「私は、新しい近代主義の、そして新しいプロテスタント主義への傾向を持っている新しいローマは拒否し、それをいつも拒否してきた」と書きました。「第二バチカン公会議後の改革は、異端から来て、私たちをして異端へと導くものである」とさえも言いました。なんと厳しい言葉だったでしょうか。おぉ!ルフェーブル大司教様はその結論に、「反乱するわけでは全くなく、苦々しい考えも全くなく、ただ単に、カトリック教会の聖伝の教えをそのまま保ち続けます」と言いました。

ルフェーブル大司教様がローマから帰って来て、そして私たち神学生の前でその自分の書いた文書をお読みになった時、それを聞いていた神学生たちは皆拍手しました。しかしパウロ六世教皇様はこれを聞いて嬉しく思いませんでした。そこで聖ピオ十世会の廃止を望みました。

そうこうしたうちに、1975年5月6日、シャリエール司教様の後継者であるフリブールの司教様が、「聖ピオ十世会の創立のその認可を撤回する」という文書を書きました。ヴィヨ枢機卿はすぐにルフェーブル大司教様に手紙を書いて、「さぁ神学校を閉じて、その神学校を皆ローマ教皇庁に譲りなさい」と命令しました。その時私たちの置かれた状況は非常に悲劇的でした。個人的に、私は決してルフェーブル大司教様への信頼心を失いませんでした。ルフェーブル大司教様はそのような通知をもらってすぐに、神学生である私たちにこう言ってくれました、「この廃止は不合法であって、不正義である」と。「もしも私がそのようにそれに従ってするならば、私は教会の自己破壊に協力する事になる。もしも神学校のドアを閉じてしまうならば、教会の自己破壊に協力する事になる。」そして第二バチカン公会議と、パウロ六世のその当時教えていた事を批判しました。「私たちはカトリック教会の教導職に密着して、それに愛着して、それを信じて、それを支持しているけれども、教導職、教導権というのは、『過去から繋がる継続』なのである。本当の教導権であるという為には、本当の教導職という為には、『過去からの継続された教え』でなければならない。つまり『過去の教会がずっと教えてきた事と、今の教えている事が対立しているようであっては、これは教導職ではない。』」

聖パウロの言葉を引用して、ガラツィア人への手紙の中にこう言っているのを引用しました、「たとえそれが天からの天使であったとしても、私たちがあなた達に伝えた福音とは違う、新しい福音を述べ伝えるならば、彼は排斥されよ。」(ガラツィア人への手紙第1章8節)

そして、「第二バチカン公会議の中のいくつかの教えの中には、カトリック教会が過去教えていた事に対立しているもの、反対しているものがある」と指摘しました。

この理由で私たちは迫害を受けています。何故かというと、教会の過去ずっと教えてきた事、常なる教導職に私たちは忠実に留まったからです。

その当時、カトリックの人々は非常に混乱して、色んな事を考える人がいました。ある人は、「あぁ、今の教皇様はそんなにおかしくなってしまっているから、これは教皇様ではない」とさえ言う人もいました。そのような人によれば、「ですから聖座は今、空位だ」と。その為に「聖座空位主義者」という言葉が出ましたが、それはこのような人たちを指しています。またあるカトリックの人々は、「あぁ、教皇様は不可謬だから、教皇様のやる事は何でもかんでもどんな事でも私たちは従うべきだ」と言いました。

ルフェーブル大司教様は、「そうではなくてこっちもあっちも間違っている」と言いました。「私たちは教皇様を尊敬しますが、しかしその教皇様が、私たちに間違った事をしている時には、それには従う事ができない」と教えました。これがルフェーブル大司教様の教えです。間違った命令に従うのは、間違った悪い従順です。

ルフェーブル大司教様は私たち神学生たちの為に、ピオ十二世教皇様が書いた回勅の一節を読んで下さいました。これは回勅「“Mistyci Corporis” 教会について」の一節でした。教皇様の言うには、「時々、教会は私たちの持っている人間の弱い条件を、私たちに見せつける事がある。そのような弱さは、教会の創立の制定から来るものではない。そうではなく、その弱さは、その構成員の弱さから来るものであって、その構成員は教会の最も高い地位にある人をも含む」と言いました。「これも有り得る。それは、牧者とそしてその羊の忍耐と、信仰を試す試練を与える為に、それも、そのような弱さがそのような高い地位から起こる事、由来する事も有り得る」とさえピオ十二世教皇様は書かれました。「天主様の御摂理によって、私たち、つまり牧者や羊たちの徳を試す試練を与える為に、そのような事が起こる事を許す」と書いています。

ルフェーブル大司教様はこの一節をお読みになって、「これは本当に予言的だ」と仰いました。「私たちの時代の為に書かれている」と。「つまりこれによって、私たちが忍耐と信仰の徳を実践する事ができるように、御摂理はこれが起こるのを許したのだ」と。

以上が、ルフェーブル大司教様がローマに対して持っていた尊敬と愛の面です。

ではその結果、ルフェーブル大司教様はローマに対してどのような行動をとられたでしょうか?

ルフェーブル大司教様は、こう私たちに聞かれました、「では、私たちはローマとの繋がりを切ってしまうべきだろうか?それとも切らないで保つべきだろうか?」と。ルフェーブル大司教様は言いました、「いや、私は決してローマとの繋がりを切ってしまおうとは、その橋を切って壊してしまおうとは思わない、望まない。私はローマに行って、ローマの人々とローマの聖職者と語りかける事を望む、続ける。私は、教皇様に反対するような、或いはローマに反対するような侮辱の態度をとる事を受け入れない。教皇聖下に対して、軽蔑するような言葉を私が言ったりとか、或いはとても傲慢でローマを侮辱するような態度とったという事で、誰も私の事を非難できる人はいない」と。「私はローマに行って、ローマの人々と話をする」と。

「はい、」ルフェーブル大司教様は言いました、「色々な私を批判するパンフレットとか、印刷物が出回っていて、私は“裏切り者だ”、私は“悪魔と対話をしている”、“敵と対話をしている”と言って私を攻撃する印刷物が出回っています。しかし、いいえ違います、私は裏切り者ではありません。私はローマに、『私たちを自由にして下さい、私たちを邪魔しないで下さい』とお願いしているだけです。私はパウロ六世教皇様にこうお願いしました、『聖伝の実験を致しましょう。』」

何故かというとその当時、私たちのその当時いた時代では、色んな“典礼の実験”という事で、自由に何でもかんでもやってもよかったからです。ですから、「もしも色んな事が許されるなら、一体何故、聖伝の実験はできないのか」と、ただ提案したのです。つまり「本当のミサと、本当のカテキズムと、本当の秘跡の実験」です。

こういう事によって、ルフェーブル大司教様は私たち神学生に、どのような態度をお取りになっているか、という事を理解させてくれました。そして教会の中にある「2つの陣営」について教えてくれました。

1つは、「色々な聖職者たちがいる、教皇様の指導のもとにいるローマ」です。このローマ当局は確かに、近代主義の影響と自由主義の影響を受けていますけれども、リベラルな影響受けていますけれども、しかし当局は当局で権威を持っています。確かに過去の教会がいつも、「これは、これはいけない。こうではない」と言っていた原理を、その教会が排斥してきたその原理に従って、彼らはいますが、しかしそれにもかかわらず彼らは権威を持っています。

その一方で、良い原理に、昔からの教会の教えの原理に従う、エコンの神学校があり、聖ピオ十世会があり、聖伝を守っているその家族があります。もしも教会の中に、その近代主義とその過去の原理との対立があったとしたら、その分裂があったとしても、私たちがその分裂を起こした責任者ではありません。私たちは何をするべきでしょうか?

ルフェーブル大司教様は私たちに聞きました、「私は一体どうしたら良いのだろうか?」と。「私たちは、信仰の拠点であり、城砦であるような修道院の中にいて閉じこもっていて、ローマとは一切関係を断つべきだろうか?象牙の塔の中に閉じこもるべきだろうか?」「いえ、」と言いました。「私はローマの人々と話し合いをする。私は教会の中の悲惨な状況を制限したい。このリベラルな人たちを何とか説得したい。この指を置いて、教会の危機がどこにあるかを、こう一つ一つ指摘したい。彼らを説得して少なくとも、『私たちを邪魔しない、私たちを黙認してくれるように』お願いしたい。もしも少なくとも、教会で私たちが黙認されたら、それは何と素晴らしい事だろうか」と。「何故なら、私たちは私たちの戦いを、信仰を守る戦いを大きく広げる事ができるからだ。全世界に向かってやる事ができるからだ。そして、私たちを絶滅させてしまうという事ができない、という事が、彼らは理解できるだろうから」と。

ルフェーブル大司教様は言いました、「少なくとも、私たちが黙認されるような解決に到達する事を望む、期待している。もしもそれができたら、極めて大きな第1歩が踏める。もしもそうなったら、多くの司祭たちが本当のミサに戻るだろうし、本当の教えに戻るだろう。多くの信徒たちも聖伝に戻る事ができるだろう。ローマの当局に行って、『私たちを迫害をもうしないように』とお願いする、お願いしたい」と言いました。

今の状況においても、この態度は非常に興味深い態度です。

そうこうするうちに、ルフェーブル大司教様の年齢も進み、新しい聖伝の司教様を聖別する必要性がやってきました。神学生たちを叙階し、そして聖伝による堅振を授ける司教様が必要です。この話題について、ローマと話し合いがまた始まりました。ルフェーブル大司教様が亡くなってしまった時の為に、その後継者が必要である、という事をローマの人々に説得し、納得してもらわなければなりません。

ルフェーブル大司教様とラッツィンガー枢機卿様は、実際的に司教様を聖別するか、しないか、或いは、という事について話し合いが始まって、これが1987年の春の事でした。ルフェーブル大司教様は、ラロッシュ神父様と私(ティシエ・ド・マルレ神父様)を選んで、ラッツィンガー枢機卿様や、ローマ教皇庁の他の方々とお話を対話をするよう任命を受けました。

私たちが、「どうしても聖伝の司教様が必要です」という事を申し上げると、「おぉ、聖ピオ十世会はもう認可されるのだから、そしたら世界中の司教様はあなたたちの神学生を叙階しますよ。ですから神父様、司教様は必要ありません」と言われました。ルフェーブル大司教様はしかし同意のサインをしました。1988年5月5日、聖ピオ五世の祝日においてでした。「ルフェーブル大司教様は1人の聖伝の司教様を求めて、そして与えられて、そして聖ピオ十世会は教会法的な地位を与えられる」という事です。

しかし翌日、ルフェーブル大司教様は自分がしたサインを撤回します。何故撤回したかというとその理由がありました。

その理由の第1は、「ローマの『聖伝の委員会』という委員会のメンバーが、聖伝の司祭たちで構成されていなければならないけれども、それが拒否されたから」です。もしもこのローマにおける聖伝の委員会があれば、ローマにおいて私たちは何らかの力と権力を持つ事になりました。そしてこの聖伝の委員会は、私たちの手のもとにあったはずです。聖伝を守る、効果的に守る事ができる目的を果たす事ができたはずです。しかしこのような委員会は拒否されました。

第2の理由は、「ラッツィンガー枢機卿様は、いつ司教聖別をしてよいか、というその正確な日付を与える事を拒否した」というのが理由です。

第3の理由は、「ローマに提出した、『この内の、3人の内の1人の司教様を選んで下さい』という、適任だと思われたその名簿の、3人とも拒否したから」です。するとラッツィンガー枢機卿は、「あぁ、教皇聖下がもっと自由に選ぶ事が出来るように、もっとたくさん名前を下さい。」これは、“ルフェーブル大司教様の推薦した人は、司教様にはしませんよ”という断りのうまい言い方でした。

ルフェーブル大司教様は、「そのような条件であるならば、先日やったしたサインをそのまま続ける事はできない。もしもそのような条件であれば、私は教皇様の意思に反したとしても、4名の司教様を叙階する」と言いました。「私たちは今、緊急の状態にいるので、必要に迫られて、教会が教会法が想定していないやり方で行動する事は許される」としました。ルフェーブル大司教様はサモサタの聖エウゼビオ司教の例を挙げて、アリウス派の異端の時代に、教会法に反して聖エウゼビオが、パレスチナで数名の司教様を司教に聖別した、という事例を挙げました。「こういう例もある。」と。

ルフェーブル大司教様は知恵深く、聖伝の家族の、聖伝を守っている修道会らを集めて、会合を開きました。それは、皆が自分の決定に従う事ができるようにする為です。例えばベネディクト会のル・バルーにあるドン・ジェラール神父修道院長とか、カルメル会の女子修道会とか、ドミニコ会の修道女たちとか等々が呼ばれて、聖伝を守っているような修道会たちが皆呼ばれて会合を開きました。

この会合の結論は次の言葉に要約されます。「私たちには2つの解決のやり方がある。」

第1の解決策は、「近代主義のローマと、近代主義の教区司教区と密接な関係をとる事によって、それに近代主義に汚染されてしまうかもしれないというリスクを受け入れる。そのリスクを例え受けたとしても、その引き換えに彼らの多くを聖伝へと回心させる事ができる、という期待のもとにそれを行う。そして私たちの使徒職を発展させる、という事を期待してそうする。非常に有名な、例えば離教とか破門とかというエチケットレッテルなどを張られずに、私たちが使徒職を発展させる事ができる、というその為にそうするべきだろうか。そして近代主義的な当局から私たちを保護する事ができる、と期待しつつそうするべきだろうか。何故かというと、私たちは法的に、その近代主義の当局のもとに服従しなければならないようになるから。しかし私たちはそうでなくても、たとえそうでなくても私たちは、永遠のカトリック教会とはいつも交わりを持っています。」

これが第1の解決策で、これをまとめて言えば、「同意に達して、私たちを保全しつつ、私たちを悪い影響から守りつつ、それと同時に彼らのもとにいる」という。

第2の解決は、「『聖伝の家族を守る』という事を第1に考える。『信仰の為に戦う』というこの為に、その一致を守るべきか。」第2の解決によれば、「『聖伝を守る』という、『一致を守る』という事と比べれば、『法的なローマとの結びつき』というものとはバランスをとる事ができない、それよりももっと大切だから。何故かというと、『聖伝を守る』という事は、カトリック教会の未来に将来にかかっている事だから、そちらに重きをおくべきだろうか。」

これはこの、「どちらをとるべきか」という事は、その当時非常に大きな問題でした。その当時、多くのシスター、修道会や司祭たちは、「第2の解決策を重要視しよう」としました。そして「信仰を守る、その一致を守る、という事がまず大切だ」としました。


親愛なる信徒の皆さん、この同じような、これと同じようなものが今の状況でもあります。40年の後ですけれども、教会の状況は同じです。私たちは同意に到達するべきでしょうか?そうあるべきではないでしょうか?

フェレー司教様は、私たちの総長様は「この問題がある」という事を私たちに教えて言って下さいました。確かに第1の解決策には利点もあるけれども欠点もある。それと同時に、第2の解決策も利点はあるけれども欠点もある。

ですから私たちは総長様に、長上にこの決定を委ねましょう。そして天主様の御摂理にお委ね致しましょう。フランシスコ教皇様は明らかに聖伝にはあまり興味がありません。聖伝をむしろ軽蔑しています。しかしローマの当局は私たちの為に、教会法によるそういう地位を準備しています。この地位によれば、これの準備されたものによれば、「私たちは聖伝の司教区を持つ事ができる」ようになっています。つまり「ローマに提出する3名の候補者の内からローマが選ぶ事ができるという、そのそういう司教を持つ事ができる」という事も予定されています。

ルフェーブル大司教様がもしも今生きていたら、一体何をなさっただろうか?という事を私には言う事ができません。ルフェーブル大司教様の信仰、そして賢明さを良く知っていますけれども、同時に私は、ルフェーブル大司教様の大胆さも知っています。つまりルフェーブル大司教様はローマに、「少なくとも黙認して下さい」とさえ大胆に言う、お願いする事ができた、という事も知っています。

私たちは祈らなければなりません。私たちの任務は責務は、皆さんの責務は、私の責務は義務は、「祈る事」です。「天主様の御摂理が、私たちが従うべき道を明らかに示して下さるように」と祈りましょう。

私は良き主に信頼し、インマクラータの、無原罪のマリア様に信頼致します。この8月から始まったロザリオ十字軍、これは「フェレー司教様が光を頂く事ができるように」とお祈りをしなければならない。このロザリオの十字軍をよくしなければなりません。「天主様の御旨は何か」という事がはっきり分かるしるしを、私たちに示して下さるようにお祈り致しましょう。私は今この申し上げた事以上何も申し上げる事はできません。何故かというと、私たちは天主様に全て委ねて、それに従っているだけだからです。

皆さんの親切なご清聴に感謝致します。
(拍手)


聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。
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マルレ司教様による堅振式の講話【大阪】・・・「剛毅」の賜について

2016年09月26日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年9月10日(土)にティシエ・ド・マルレ司教様が大阪で堅振の秘蹟を授けてくださいました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年9月10日(土)堅振式
ティシエ・ド・マルレ司教様御説教

同時通訳:小野田圭志神父


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

親愛なる信徒の皆さん、そして堅振を受ける受堅者の皆さん、今日は皆さんに聖霊を与える事ができて大変嬉しく思います。それはちょうど聖霊降臨の日に、聖霊が使徒たちに与えられて彼らは使徒となりましたがそれと同じです。
聖霊降臨の日に聖霊は、舌の形をした炎として使徒たちに現れて与えられて、これは私たちが天主の信仰を話す事ができる為にです。

聖霊は私たちに、霊魂に刻み付けられる霊刻と、そして成聖の恩寵を下さいます。キリストの兵士としての霊の刻印と、そしてイエズス・キリストを証言する証人としての聖寵です。

霊の刻印は私たちの霊魂に深く刻まれて、誰もそれを消す事ができずに永久に霊魂からそれを取り消す事ができないほど深く刻まれます。そしてこれは私たちに、キリストの軍人としての刻印を与えます。そして私たちの主イエズス・キリストを証する霊的な力を与えます。

しかしこの与えられた力を実践する為に、それを使う為には特別のお恵みが必要で、それが堅振の御恵み、堅振の聖寵の御恵みです。これは聖霊のお恵みの充満、新しい充満が与えられるのです。これは聖霊の息吹にすぐに敏感に動く、それに従って動く事ができるお恵みです。この7つの聖霊の賜物は、7つのやり方によって聖霊に従順に従って動く事ができる恵みで、日本語の言葉で言えばそれは、「上智」、そして「聡明」、「賢慮」、「剛毅」、「知識」、「孝愛」、そして「敬畏」です。

最初に挙げた3つの賜物は、3つの対神徳、つまり「信」、「望」、「愛」を私たちが深く実践する事ができるにしてくれます。最上のものは「上智」であって、これは愛徳を完全に実行する事ができるようにしてくれます。一番小さなものは主の畏れ「敬畏」であると教えられています。しかしとても小さな最初の最も小さなものと考えられていても、私たちのような罪人にとっては最も大切なお恵みです。何故かというと、私たちは罪を犯す事によって主を悲しませる事を恐れるからです。

今日は特に、「剛毅」の賜物について話したいと思います。何故かというと、剛毅の賜物は聖霊の、堅振の最も重要な要素であるからです。何故かというと、剛毅の賜物によって私たちは、強く堅く振る舞う、「“Fortes in fide” 信仰において堅くあれ」という事が実践できるからです。これは私たちの先祖が、イエズス・キリストの御名の為に血を流して証した、その剛毅に倣うものです。

私は今から例を挙げたいと思います、これは日本の殉教者の例ではなくて、スペインの殉教者の例です。聖ヘルメネジルド(Sanctus Hermenegildus)の例です。この聖人は中世ヨーロッパに、キリスト教世界のその初期に生きていました。彼はスペインの王の息子でした。その当時スペインはカトリックではありませんでした。何故かというと信仰を失って、アリウス派の異端に染まってしまっていたからです。アリウス派によれば、「天主の御子は天主御父とは等しくない、それよりも劣っていると」教えていました。このアリウス派の異端によれば、「天主の御子は従って、天主ではない」事になります。しかしヘルメネジルドはこの真のカトリック信仰に留まっていました。それは聖なる司教、セビリアの聖レアンドロ(Sanctus Leander)の教えのおかげでした。

しかしヘルメネジルドの父親は、息子がアリウス派を捨ててしまった、という事を聞いて非常に怒りました。まず罰として、彼が王国の後継者として王国の遺産を譲る、王位を譲る権利を剥奪してしまいました。
第2に、息子を牢獄に投獄して、そして鎖で縛ってしまいました。18歳であったこの王子は、投獄され、鎖に繋がれ、考えました。彼はこの世の全ての栄誉、名誉、権力を軽蔑し、「イエズス・キリストの誉れの為にそれを捧げる」という方を選んだのです。そこで牢獄において、将来きたるべき苦しみに耐え忍ぶ準備をしました。

お父さんである王は自分の息子に、復活祭が近付いてきたので司教を送って、復活祭の聖体拝領をする事ができるようにと計らいました。しかし送られた司教は、異端のアリウス派の司教でした。「私は、スペインの北部にあるオスカーの司教である。そしてあなたの父親、王の命によって復活祭の御聖体拝領をあなたに持ってきた」と言いました。
そこで王子は言いました、「あなたはカトリックの司教様ですか?」
すると司教は答えて、「何の話をしているのか?私はイエズス様を、私たちの主をお持ちしたのだ。」
そこでヘルメネジルド王子は言いました、「あなたは異端者だ。あなたはカトリックの司教ではない。あなたの手から御聖体を拝領する事はできない。」
そこで司教はそこを出て、王に報告しました、「王の息子が御聖体拝領を拒否している」と報告しました。

そこで怒った王は、すぐにろくでもない人々を牢に送り、そして王子を虐待し、そして殺害してしまいました。その暴力団のような人々が送られて、そして王子を殴り、叩き、そして最後には剣を以て殺害しました。王子は、イエズス・キリストの名誉の為に自分の命を捧げる準備ができていました。

これはちょうど私たちの置かれている状況と似ています。「真のミサ聖祭に忠実である」という状況に於いて似ています。そして「新しいミサと妥協しない」その良い例を示しています。私たちは、「伝統的なカトリックの公教要理に、カトリックの信仰に忠実に留まり、新しい教え、新しい宗教を受け入れない」という事です。

願わくは、聖霊が皆さんの知性を照らし、そしてイエズス・キリストの御名の為に苦しむ事ができるように強めてくださいますように。私たちの信仰を濁してしまったり、或いは薄めてしまうのではなく、それよりもむしろ私たちが軽蔑され、そして捨てられる方をより望みますように、聖霊が私たちを強めてくださいますように。

では、殉教者の元后であるマリア様にお祈り致しましょう。マリア様の特別の御取り次ぎによって、聖霊の充満が私たちに与えられますように。それによって私たちが聖霊に満たされて、イエズス・キリストの兵士として、そして証人として証し人であるとして、つまり唯一のこの世の救い主であるイエズス・キリストの兵士、証し人として私たちが働く事ができるようにお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。
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ロザリオの十字軍)2016年9月25日現在、日本からロザリオ540環、犠牲2,889回が報告されました。

2016年09月25日 | ロザリオの十字軍
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年9月25日現在、日本からロザリオ 540環、犠牲 2,889回が報告されました。天主様に感謝!
マニラからは、ロザリオ 5,247環、犠牲3,773回が報告されています。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
修院長様、ご無沙汰しております。
天主様と修院長様のお祈りのお恵みで私どもは元気でございます。
まずロザリオの十字軍のご報告を致します。
8月15日から31日まで17環唱えました。
よろしくお願い致します。

【報告】
遅くなってしまいましたが、8月のロザリオの十字軍の報告をさせて頂きます!
ロザリオ…51環
小さな犠牲…183回
マリア様の特別の御取り次ぎによって、聖霊が私たちを照らして下さり、聖霊の充満が与えられますように。真のミサ聖祭に、伝統的なカトリックの公教要理に、カトリックの信仰に忠実に留まり、イエズス様の兵士、証し人として働くことができますように!


【報告】
アンナ   聖なるロザリオ16環   犠牲16
マリア・ルチア       2環
アグネス         48環  
ヨゼフ マリア      14環   160回
ヨゼフ・パウロ      48環
マリア          48環     160回
バルナバ         48環
マリア・クリスティーナ  16環     160回
マリア          16環     160回    
マリア・ローザ          犠牲  160回
マリア・ヨハネ      34環    1298回   
     合計     290環    2098回

【報告】
8月のロザリオ十字軍のご報告をさせていただきます。
大変遅れまして、申し訳ありません(>_<)
ロザリオ:182環
犠牲:608回
お捧げいたしました。
特に、犠牲をお捧げするときに、マリア様を思い出して、マリア様にお捧げするので、
マリア様に助けていただいて、マリア様と一緒に犠牲をお捧げできることがわかりました。
犠牲のカウントは、素晴らしいです!
聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈りたまえ。


トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

多くの祈りと犠牲を聖母の汚れなき御心への信心の実践として捧げて下さい。聖ピオ十世会-ロザリオの十字軍 (今年の8月15日から来年の8月22日)

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聖ピオ十世教皇様が教会のために働いた3つの仕事とは?

2016年09月25日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年9月9日(金)にティシエ・ド・マルレ司教様が大阪で聖伝のミサを捧げてくださいました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年9月9日(金)教皇証聖者聖ピオ十世の随意ミサ
ティシエ・ド・マルレ司教様御説教
同時通訳:小野田圭志神父


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

親愛なる信徒の皆さん、私にとって最初に日本を訪問して、そして皆さんのこの愛する小教区のこの御聖堂でミサをする事は私の本当に喜びです。

私は今、聖ピオ十世教皇様の随意ミサを捧げています。何故かというと、これが聖ピオ十世会の守護の聖人だからです。今から皆さんに、カトリック教会の為に聖ピオ十世教皇様が一体何をなさったか、という事を説明したいと思っています。

聖ピオ十世教皇様がなさった事をまとめて要点でいうと、
聖ピオ十世教皇様はまず第1に、教会の「美しさ」の為に働きました。
第2に、教会の「善」の為に働きました。
第3には、教会の「宝」の為に働きました。

まず第1に、教会の「美」の為に働きました。まず宗教音楽、聖なる音楽の為に、次に教会の秩序の為に働きました。

聖ピオ十世教皇様は音楽家でした。グレゴリオ聖歌を歌う事もできましたし、オルガンを弾く事もできました。グレゴリオ聖歌は子供の頃からよく歌っていました。教皇様はまだ主任司祭であった頃、教区の人たちが皆グレゴリオ聖歌を歌う事を望んでました、そして歌うようにと教えていました。少なくとも「キリエ(Kyrie)・グロリア(Gloria)・そしてサンクトゥス(Sanctus)・アニュス(Agnus)・クレド(Credo)を歌うように」と。

聖ピオ十世教皇様は、合唱の歌も決してないがしろにする事はありませんでした。特に、古い「パレストリーナやヴィクトリアの作曲した合唱曲を歌うように」と勧めていました。それは教会内の音楽が、演劇の歌のようではなく、何か聖なるものであるという事が分かるように、それを望んでいました。ヴェネツィアの大司教様であった時代に、音楽のマエストロであったペロージさんを知りました。彼は単純な合唱を指導していたのですけども、彼のその音楽の才能を見抜いて、のちに教皇様はローマにこれを呼びました。

聖ピオ十世教皇様は、聖なる音楽に対する自発教令を出してその中で、「信徒たちの能動的な、積極的なミサに典礼に対する参与」という事について話しました。皆さんは、「信徒の典礼への積極的な参加」などと聞くと、「あぁ!近代主義のよく言ってる口にするモットーであって、この名前によってミサを変えてしまって、新しいミサをどんどん作り変えてしまっている」と思っているかもしれません。聖ピオ十世教皇様の考えでは「信徒たちの能動的な参加」というのは、司祭と共にミサを捧げようとミサの祭壇に来たり、書簡を読んだり、或いは御聖体を配布したりするのでありませんでした。そうではなくて、聖ピオ十世教皇様の考えによれば、「信徒たちがミサの時に、グレゴリオ聖歌を、皆が心から一緒に歌う事ができる」これが能動的な参加でした。聖ピオ十世教皇様がなさった典礼改革というのは、近代主義とは全く無関係で、その反対のものでした。

そして聖ピオ十世教皇様は、教会の中に秩序をもたらしました。教皇様はご自分で新しく教会法のそれを作って、その後継者であるベネディクト十五世がこれを交付しました。そうする事によって、教皇様が教会の全ての法律を一冊の教会法典にまとめたという事によって、司祭たちはどのように信徒たちを導いていったら良いか、という事が明らかに分かり、そしてローマの教会の裁判所でも、正確にどのような法に沿って裁いていったらよいか、という事が分かり、教会に秩序をもたらしました。

これが第1の点、教会に「美」をもたらしたという事であって、教会に「秩序」をもたらした事です。


聖ピオ十世教皇様は第2に、教会に「善」をもたらしました。善というのは第1の善であって、特に「信仰」です。聖ピオ十世教皇様は個人的に悪い嫌な体験がありました。それは近代主義者による嫌な思い出です。ピオ十世教皇様がレオ十三世教皇様によって、モントワの司教様に任命されて、司教様となって最初に任地に行った時に、その時に非常に悪い良くない思い出があるのですが、何故かというと、最初神学校に行っても、司祭として叙階した神学生はたった1人しかいなかったからです。そして多くの司祭たちは、近代主義の影響を受けて信仰を失ってしまい、司祭職を離れて司祭をやめてしまいました。多くの司祭がそうでした。ですからヨゼフ・サルト司教様はその時、「あらら、レオ十三世教皇様は私に何てひどい教区を与えて下さったのだろう。司祭はいないし神学生もいないし、ひどい教区最悪の司教区だ」と思ったかもしれません。しかしそんな愚痴とか不満とかという事は考えるのはやめました。すぐにやめて、「そうではなくて、この教会を自分に与えられた司教区を改革しよう」として、「まず神学校を良くしよう」と思いました。そこで近代主義に侵されていた教授たちは皆追い出して、辞めさせて、本当のカトリックの信仰を持った教授たちを呼んで、「神学生たちに教えなさい」と命令しました。

教皇様となってからは、自発教令「ラメンタビリ」、また回勅「パッシェンディ」によって近代主義を排斥しました。「近代主義はここが間違っている。これは教会の教えではない」とはっきり教えました。その中で教皇様は、「信仰というのは、私たちの良心から出る内的な産物ではなくてそうではなくて、外的な、天主によって私たちに啓示された教えが、それが信仰である」とはっきり教えました。つまり、信じる、「信仰する」という事は、「天主によって啓示されて教えられた真理」を、私たちがそれを「真理であると認める」事、そして「信じる」事です。従って信仰の内容というのは、客観的な対象であって、天主によって啓示された真理であって、決して私たちの内面から来る主観的な私の思いではないのです。

教皇様は、ただペンを取って回勅や書簡を書いたのみならず、行動に移しました。そして司教様たちに全世界に向けて命令して、「近代主義の教授などは、神学校から全て大学から全て追い出すように、蹴り出すように」と言って、そして「神学生神学校の教授、或いは全てカトリックの学校で教える立場にある人々は、『反近代主義』の宣誓、近代主義に反対する宣誓をしなければならない」と命令しました。これが聖ピオ十世教皇様がなさった教会の「善」の為の仕事であって、教会の本質的な善というのはつまり、「信仰の善」です。


第3の点は、教皇様は教会の「宝」の為に働きました。教会の宝とはつまり、「御聖体」です。教皇様は、「若い子供たちが理性を使う事ができるようになった年齢に達するならば、つまり7歳頃から、もはやすでに御聖体を拝領する事ができる、初聖体をする事ができる」と命じました。ご自身は子供の頃、10歳になって初めて御聖体を拝領する事を許されました。そこで教皇様は、「そうではない。もっと若い時から御聖体を拝領するようにしてあげなければならない。そうしたら、この子供たちの中に聖人たちが生まれるだろう」と教えました。これは「御聖体十字軍」と言われる教会の中の団体運動によって明らかにされています。子供たちが若い子供たちが、犠牲の精神を、そして宣教の精神を持って御聖体を拝領する事によって、多くの実りをもたらしています。

教皇様はしかも、「誰もが、毎日御聖体拝領する事ができる」と決定しました。教皇様の前では、「毎日御聖体拝領するなど畏れ多い」として、毎日御聖体拝領する人は非常に少なかったからです。しかし、今ローマでやろうとしているように、離婚したそして同棲している人や、大罪の状態にあるような人々にさえも御聖体拝領をして良い、などという事は決してありませんでした。教皇様は、「御聖体を拝領する為には、私たちは成聖の状態になければならない」という事をよく知っていました。ですからその為にも、「頻繁に悔悛の秘跡、告解を受ける事」を教えていました。

以上が、教皇様が教会の為にやった仕事です。つまり教会の「美」の為の仕事、そして「善」つまり「信仰」の為の仕事、それから教会の「宝」「御聖体」の為の仕事でした。

愛する信徒の皆さん、現在、このような聖なる教皇様がどれほど私たちに必要な事でしょうか。これは私たちの祈りにかかっています。

天主様に、このように素晴らしい教皇様を教会に与えて下さった事を心から感謝致しましょう。私たちは教皇様が残して下さったからガイドラインに従って道を進めましょう。

教皇様が持っていたものと同じマリア様に対する信心を私たちも持ちましょう。マリア様に対して個人的に非常に深い信仰を持ち、回勅もマリア様について書かれました。教皇様は特にその回勅の中で、「マリア様が共贖者である」という事、その共贖の業、イエズス様と共に贖いの業をしたという事、第2に、「マリア様は全てのお恵みの聖寵の仲介者である」という事を強調して教えました。

もしも私たちが、マリア様のその全能の祈りの力、取り次ぎの力に確信を持っていたら、その事を信じてさえいれば、私たちはもう毎日ロザリオをマリア様にお祈りせざるを得なくなります。この、マリア様に毎日ロザリオを信頼を持って唱える、という事は私たちの今日の決心の1つとなり得るかもしれません。それはその決心をする事によって、教皇様の良い弟子となる事ができるでしょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここにも掲載されています。
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聖ピオ十世教皇様のマリア様に関する回勅での「マリア様の3つの特権」とは?

2016年09月24日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年9月8日(木)にティシエ・ド・マルレ司教様が大阪で聖伝のミサを捧げてくださいました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年9月8日(木)童貞聖マリアの御誕生のミサ
ティシエ・ド・マルレ司教様御説教
同時通訳:小野田圭志神父


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

親愛なる信徒の皆さん、私はこの日本に最初にやって来まして、そしてこの皆さんの小教区の教会に来てとても嬉しく光栄に思います。

このマリア様の御降誕の祝日において私たちは、聖ヨアキムと聖アンナ様の喜びを分かち合っています。ヨアキムとアンナ様は年を老いて子供がないままでしたけれども、遂にこの贈り物の中の贈り物、つまり天主の将来の母となる方を、赤ちゃんとして受けたのでした。そしてこの生まれた赤ちゃんは赤子は、「無原罪の御宿り」でした。罪の原罪の汚れ無く宿った御方で、これは無原罪の御宿りの深い玄義です。

聖ピオ十世教皇様はマリア様に関する回勅を、ご自分自身の手によって全部書きましたけれども、その素晴らしい回勅の中で3つの事を指摘しています。

まず第1に、「マリア様の無原罪の御宿りというのは、『超自然の秩序がある』という事を示している」という事です。「『無原罪の御宿り』という事はつまり、『原罪が存在している』という事を証明し、そして原罪が存在しているという事は、私たちには成聖の状態がある、『成聖の恩寵の状態がある』という事を証明している」と指摘しています。

アダムとエヴァは創造されたその瞬間には無原罪でした。罪の汚れの無く、全く清い成聖の恩寵において創られました、が、罪を犯す事によってそれを失ってしまいました。私たちもそれを失ったまま生まれてきました。そしてマリア様の無原罪の御宿りは、私たちのその「罪の状態で生まれてくる」という事を教えています。従って私たちには必ず、「贖い主が必要である」、「贖いの御業が必要だ」という事を証明しています。贖い主なしには、私たちは誰1人として天国に行く事ができません。贖い主なしには、天主が私たちに与えようと思っていたその栄光に誰も入る事ができません。

つまりこの小さな赤ちゃん、聖アンナ様が抱いておられるこの小さな今日生まれた赤子は、キリスト教の神秘の、全ての神秘を、この中に保っていて含んでいました。この赤子は人類の救いの究極の希望でした。

聖ピオ十世教皇様の回勅の中で、マリア様に関して言われた第2の点は、「マリア様の共贖」という御業の事です。

つまり、マリア様とイエズス様が共に贖いの共贖の、マリア様が共に贖いの業をしたという事です。イエズス様の御生涯とその苦しみを共にした、という事によって、マリア様は贖いの宝庫の功徳をイエズス様と一緒に勝ち取った、という事を教えています。マリア様が十字架のふもとに立ち留まってその全ての苦しみをイエズス様と共に捧げた時に、イエズス様が私たちの贖いの為に勝ち取った全ての事を、マリア様も勝ち取りました。

同じ功徳を勝ち取りましたが、その一つだけの違いがありました。それは、イエズス・キリストが天主の御子であったので、完全な正義によって、完全な統合の価値によってその全ての功徳を勝ち取りました。しかしマリア様の場合には同じ功徳を、その相応しさによって、イエズス・キリストに対して持っていたその愛の愛徳によって、マリア様がイエズス・キリストの御母であるという事によって、その相応しさによって、同じ功徳を勝ち取りました。

これはカトリック教会の教えであって、「イエズス・キリスト様とマリア様の功徳の根源というのは、その愛徳にあった」という事です。イエズス様の至聖なる聖心にあった愛徳と、マリア様の汚れ無き御心の高い愛徳のその功徳によって、このそのレベルによってその功徳を獲得しました。

全てのキリスト教信者はやはり同じように招かれています。「私たち自身の苦しみを、イエズス・キリスト様への愛徳、天主を愛する愛において共に捧げる」という事です。そうする事によって私たちは、イエズス様と共に功徳を積む事になりますし、そしてイエズス様と共に罪に相応しい負債を払う事ができる事になります。その源は愛徳です。

プロテスタントの教えによると、「イエズス・キリスト様は全て自分御一人で十字架で贖いの業をしたので、私たちは何もする事がない、私たちは無関係だ、私たちはもうする必要はない」と言いますけれども、それは間違っています。何故かというと、聖母マリア様は十字架のふもとで、ご自分の苦しみをイエズス様と共に分かち合って、特に愛徳によって功徳を受けました、それはマリア様の愛徳によるものでした。それと同じように私たちもマリア様を真似して真似て、マリア様のように愛徳によってイエズス・キリストの功徳を、イエズス様に苦しみを共にする事によって功徳を共に勝ち取って、そして贖いの業に入らなければなりません。実践的に言うと、祈りと犠牲によって、私たちは多くの霊魂を救う事ができます。

聖ピオ十世教皇様が回勅の中で言った第3の点は、「マリア様が全ての聖寵の御恵みの仲介者である」という事です。

マリア様はイエズス・キリストと共に贖いの業の功徳を勝ち取りました、そしてその功徳の宝を勝ち取りました。ちょうどもしも誰かが土の中に宝を発見したとしたら、そのそしたらその発見者は、誰であろうと自分の好きな人に自分の発見したものを与える事ができますし、それを分け与える事ができます。それと同じようにマリア様も、自分がイエズス様と共に勝ち取った贖いの宝の宝庫から、自分の好きな人に、自分の好きなように、好きな時に、自由に配る権利と、その使用の権利がある」という事を聖ピオ十世教皇様は教えました。

聖グリニョン・ド・モンフォールによると、「マリア様の御意志は、その愛徳によって、イエズス様の御意志と全くピッタリと一致していたので、マリア様の意思の御心、御旨と、イエズス様の御旨は1つです。ですから、マリア様が望む事はイエズス様は必ずなさる」と教えています。この意味で、マリア様は全ての御恵みの仲介者です。どのような事であれ、マリア様が私たちの為に執りなして下さると、イエズス様は必ずその祈りを聞き入れて下さって、その御恵みを下さいます。

そこで今日、このマリア様の祝日において私たちは、マリア様の最も大切な3つの玄義、神秘について深く信仰を持つ事にしましょう。
1つは「無原罪の御宿り」の神秘です。
第2は、「共贖、イエズス様と共に贖った」という神秘です。
第3は、「全ての御恵みの仲介者であって、それを分配する御方である」という神秘です。

そしてマリア様のこの3つの特権を守る為に、私たちは血を流す覚悟を致しましょう。この3つの特権に於いてマリア様の名誉を守る為に、私たちは一生懸命力を尽くす事に、働く事に致しましょう。そしてこのマリア様の特権を私たちがただこう言うだけ、口先だけではなく、それを実践する使徒となる事に致しましょう。

特にマリア様が全てのお恵みを分配して下さるという事について、その分配をして下さる事が出来るように、私たちがその使徒となるように致しましょう。マリア様を通して、使徒となりましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


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聖伝のM.I.(Militia Immaculatae 無原罪の聖母の騎士会)についてのまとめ

2016年09月23日 | M.I.(無原罪の聖...
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖伝のM.I.(Militia Immaculatae 無原罪の聖母の騎士会)に、ご招待いたします。

ファチマの太陽の奇跡が起きた三日後の1917年10月16日、長上の許可を得たマキシミリアノ修道士は、6名の同志たちとともに、ローマのセラフィクム神学大学(教皇庁立聖ボナヴェントゥーラ大学)のチャペルの聖母祭壇の前にひざまずき、無原罪聖母の騎士会(Militia Immaculatae)を創立しました。
1922年5月に、聖コルベは最初の会報「無原罪の聖母の騎士(Rycerz Niepokalanej)」を5,000部発行しました。この会報は15年後には約100万部になりました。1930年5月には、日本で「無原罪の聖母の園」を発足させました。

聖マキシミリアノ・コルベの精神に完全に忠実に従った、聖なる創立者の作ったままの会則(これは1974年に公式のMIによって捨てられてしまった)によって「無原罪の聖母の騎士会」(M.I.)が2000年5月6日に、ワルシャワの聖ピオ十世会修道院において再び始められ、この聖伝のM.I.はフランス、米国、スイス、ドイツ、オーストリア、アジアで公式に設立されました。2014年8月、M.I.の国際事務局はポーランドからスイスの聖ピオ十世会本部へ移されました。そのとき、騎士の数は約7,000人でした。2015年5月6日、日本の秋田で15周年を祝うかのように入会式がありました。2015年5月時点で、私たちの軍隊はすでに約1万人を数えます。

このように M.I.が非常に急速に拡大したことがおわかりいただけるでしょう。これは、まぎれもなく無原罪の聖母ご自身から来る特別な聖寵です。無原罪の聖母は、自分たちの霊魂を救いたいと強く望んでいるカトリック信者、あらゆる方向から攻撃を受けていると自覚しているカトリック信者に対して大変慈悲深くしてくださるのです。無原罪の聖母は次のことを私たちにはっきりと示してくださいます。すなわち、私たちがこの世で最も危険なこの時代に、妥協せずに信仰を保ちたい、聖人になりたいと望んでいるのなら、私たちは無原罪の聖母の忠実な子どもに、奴隷に、騎士になり、無原罪の聖母の英雄的徳、最も深い謙遜、汚れなき純粋さ、完全な従順をまねなければならない、ということです。
(無原罪の聖母の騎士たちへの手紙 第6号 カール・シュテーリン(聖ピオ十世会アジア管区長)より抜粋)

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



”M.I.(無原罪の聖母の騎士会)”の新しいカテゴリができました。


アジアの無原罪の聖母の騎士たちへの手紙 第6号

アジアの無原罪の聖母の騎士たちへの手紙 第7号― 聖母の汚れなき御手の道具となった約束を忘れないために、ファティマ2017に向けて

アジアの無原罪の聖母の騎士たちへの手紙 第8号 ファチマ100周年に向けて

アジアの無原罪の聖母の騎士たちへの手紙 第9号 ”騎士",その4つの重要な意味

アジアの無原罪の聖母の騎士たちへの手紙 第10号― 無原罪の御宿りといつくしみ(あわれみ)の年

アジアの無原罪の聖母の騎士たちへの手紙 第11号― 2016年にまことの「ファチマの使徒」になるための決心

アジアの無原罪の聖母の騎士たちへの手紙 第12号― 無原罪の聖母、あなたは最も謙遜なお方です!

アジアの無原罪の聖母の騎士たちへの手紙 第13号 ― ファチマでの聖母の最初の御出現

アジアの無原罪の聖母の騎士たちへの手紙 第14号― 無原罪の聖母の騎士会祈りの十字軍の創設,私たちの中の無原罪の聖母
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アジアの無原罪の聖母の騎士への手紙 第14号 ― 無原罪の聖母の騎士会祈りの十字軍の創設,私たちの中の無原罪の聖母

2016年09月23日 | M.I.(無原罪の聖...
アジアの無原罪の聖母の騎士への手紙第14号

*** 無原罪の聖母の騎士会祈りの十字軍の創設 ***


無原罪の聖母の騎士の皆さん。

聖マキシミリアノ・コルベは、「Rycerz Niepokalanej―無原罪の聖母の騎士」誌の最初の号から、仲間の騎士の意向のために毎日祈るよう、すべての騎士を招きました。聖コルベはまた、自分たちの祈りの依頼を本部に送るよう、騎士たちを招きました。その依頼の中で最も重要なものは、聖コルベが「聖母の騎士」誌に掲載することさえしました。

この使徒職の効果は予想外のものでした。聖コルベが受け取った、依頼が奇跡的にかなえられたという感謝の手紙の数はどんどん増えてゆきました。そこで聖コルベは、雑誌の中で、「無原罪の聖母への感謝」というタイトルの特別ページを捧げることを決めました。このページには、非常に小さな文字で次のような百から二百の証言がありました。「ありがとう、親愛なる聖母の騎士の皆さん、死にかけていた息子が、祈りを依頼してちょうど九日後に奇跡的に回復しました」「ありがとうございます、無原罪の聖母、あなたの騎士たちの祈りによって、私は自分の召命を見いだしました」「〇〇地区の騎士の皆さんに特別に感謝します。閉校されそうだったカトリックの学校が救われました。そうなっていたら、私たちの多くの子どもたちにとって損害でした」。

六カ月後、編集者(聖コルベ)はもう一ページ増やさざるを得ませんでした。「聖母の騎士」誌の部数が八十万部という記録に到達したときには、いただいた恩寵が多く、月に七百から八百の感謝の言葉を掲載するために四ページを捧げました。これはつまり、騎士たちの祈りのお蔭で実現した天からの明らかな介入に感謝するため、毎年一万人ほどの人々が手紙を編集部へ送っていたということです。しかし、恩寵を受けた人たちのうちで、感謝の手紙を書かなかった人たちは、さらにどれほど多かったことでしょうか?

これは、私たちにとって重要な教訓です。聖母は常に私たちの祈りを聞いておられます(その祈りが良い意向で良く唱えられたらの話です。この面についての公教要理を読んでください!)。ですから、私たちが真面目に絶え間なく聖母に願うなら、聖母は奇跡的な答えさえもお使いになって、私たちを驚かせてくださるでしょう。私たちの祈りに対して、そんな予期せぬ実があるのはなぜでしょうか? それは、聖母が寛大な霊魂を愛しておられるからです。私たちが聖母のお求めに対して寛大であればあるほど、聖母も私たちに対して寛大になられるでしょう。聖母の寛大さが、私たちの寛大さよりも数千倍、百万倍なのは間違いありません。

しかし、それ以外にも、もう一つのさらに深い理由があります。それは、私たちに聖母の騎士会の本質を理解させてくれるということです。つまり、騎士会が、聖母の道具を通して、聖母の道具によって実現する、この世における無原罪の聖母ご自身の勝利の存在であるということです。無原罪の聖母の騎士会(M.I.)は、すべての恩寵の仲介者のご活躍の体現なのです。聖母は、ご自分の失われた子どもたちを正しい道に連れていき、回心と聖化という恩寵を彼らの霊魂に注ぎ込もうと望んでおられます。これが、聖母が天主なる御子から、御子が十字架上で亡くなろうとされているときに受けられた使命です。しかし、これらの霊魂にあふれるほどの恩寵を流し込むことのできる道具、経路がなければ、聖母がその使命を果たされることは不可能なのです。

皆さんは聖母の騎士会への入会によって、そのような道具である聖母の騎士になっています! しかし、皆さんが聖母の道具であるのは、皆さんが「罪びとや離教者、異端者、そして特にフリーメーソンらの回心のために努力する」というまさにその目標をもって行動するときだけです。それはこんな場合です。皆さんが彼らの救いのために何かをするとき、不思議のメダイを配るとき、良き模範を示すとき、特にその意向で自分の苦しみと犠牲を捧げるとき、しかし何よりも祈るときです。

聖マキシミリアノ・コルベは何回も強く述べています。MIの普遍的かつ第一の手段は祈り、具体的には使徒的な祈りです。「無原罪の聖母の騎士の目標は、世界中の霊魂の回心、無原罪の聖母の勝利です。しかし、外的な活動や事業をすべてもってしても、それが天主の恩寵によるみわざによらなければ、一人の霊魂さえも回心させることはできません」。

自由な人間の中の使徒職は、意志を、おそらく悪しきものであろうその意志を、善きものに向けることから成っています。そうすれば、天主から遠く離れていたり、天主の敵でさえあったりする人が、天主の方へ引き寄せられ、天主の友となるかもしれません。そして天主は、この任務を、無原罪の聖母を通して騎士たちに割り当てられます。彼らが霊魂の救済へ向かい、キリストの王国の宣教者となるように。人々が地獄の火から引き離されるかどうか、どれほど多くの霊魂がそうなるかどうかは、騎士たちにかかっているのです。しかしながら、これがすべての恩寵のうちで最も大きなものです。どのようにすれば、騎士は天からこの恩寵を引き出せるのでしょうか? それは、主に祈りによってです。

「祈りと苦しみによって、私たちは多くの恩寵を獲得することができます。外的な活動は、恩寵を得るための道を準備しますが、それ自体によって恩寵を提供することはできません。天主のご意志に確実に対応する一つの祈りがあります。すなわち、自分自身の聖化と隣人の聖化の依頼です。無原罪の聖母がすべての霊魂を勝ち取られるように私たちが祈るとき、それは確実に天主のご意志です。この意向のために私たちは、聖母が世を征服されるよう、私たちのすべての努力、困難、苦しみを無原罪の聖母に捧げることができるのです。

ナポレオンはかつて、戦いに勝つのに何が必要とされるのかと尋ねられました。彼は答えました。「三つのものが必要だ。お金、お金、そしてさらなるお金だ」。

霊魂を聖化するという問題のときも、まさにそうです。必要なのは祈り、祈り、そしてさらなる祈りです。祈りが不足していれば、霊魂は弱まります。人は恩寵の宝蔵から恩寵を引き出せば引き出すほど、それを宝蔵から得ることになるでしょう。祈りは最も誤解されやすいものですが、霊魂たちに平安を回復させ、幸せにし、天主の愛に近づけるための最も強力な手段です。祈りは世を新たにします。祈りは、すべての霊魂の再生と命に必要不可欠です。修道院の壁の外に一度も出たことがないにもかかわらず、祈りによって、[リジューの]聖テレジアはすべての宣教者の保護聖人になりました。

私たちもまたそのように祈ることを望みます。よく祈り、多く祈り、口によって祈り、心によって祈ることです。そうするならば私たちは、無原罪の聖母がどれほど強く私たちの霊魂を支配されるのか、私たちがどれほどもっと完全に聖母のものになるのか、どれほど罪が消えて過ちが少なくなるのか、どれほど優しく力強く天主の近くに引き寄せられているのかを、個人的に経験することになるでしょう。外的な活動はよいものですが、それが二次的なものであることは言うまでもなく、内的な生活に比べれば、黙想や祈りの生活に比べれば、天主への個人的な愛の生活に比べれば、二次的なもの以下に過ぎないのです。私たちが天主の愛でもっともっと燃える限り、この愛で他人の心を燃え立たせることができるでしょう。天主のために霊魂を勝ち取ることは、大変困難な仕事です。人間的な方法ではしばしば失敗するものです。実りのない会話や議論、砂の中にしたたり落ちてなくなってしまう事業、無駄に印刷される出版物、といったものです。しかし、祈りは決して失望させません!

「働いているとき心から出てくる小さなため息は、最高の祈りです。なぜなら、それは私たちを何度も何度も、更に強く無原罪の聖母と一致させ、聖母の道具である私たちと聖母の御手をつなぎ、それによって、私たちは多くの恩寵を受けるからです。生活の中で何か悪い状況になるとき、騎士が敵に敗れたり勝利を得られなかったりしたとき、まず自問すべきです。私たちは十分に祈っただろうか? 私たちの一人一人が、本当にこの問題について祈っただろうか? 私たちは、事業のすべての効果を外的な行動の中に見るという行動主義の危険から自らを守らなければなりません。こういう外的な行動だけに力を費やす騎士は、自らを実りのないものにしたり、自らを大きな欺きに陥らせたりするという大変危険な状態にいるのです」

伝統を厳守する無原罪の聖母の騎士会を再創設したあと、ようやく2012年になって、私はこの祈りの使徒職を始めたいというポーランドの何人かの騎士の依頼に答えて、事務局が提示した意向でロザリオ一連とメモラーレを唱えることに賛同した騎士たちの特別なリストをつくりました。一カ月後には、この使徒職に五十人の騎士を獲得し、一年後にはほぼ百人がいました。その理由は?

三カ月後には、上で述べたのと同じような「感謝」のページを私たちの情報誌に載せなければなりませんでした。その効果は、まったく圧倒的でした。無原罪の聖母が、愛する騎士たちに恩寵を注ぎ込もうと、まさにこの使徒職を待っておられたとは、私はまったく想像することもできませんでした。

そのため、私はアジアで同じような使徒職を始めようと決めました。

これは、皆さんが書き送ることのできる特別なメールアドレスです。

prayer@militia-immaculatae.asia

1)無原罪の聖母の騎士―祈りの十字軍(M.I.—PRAYER CRUSADE)に参加したいということを書いてください。そのために、毎日少なくともロザリオ一連とM.I.の祈り「ああ原罪なくして宿り給いし聖マリアよ、御身に依り頼み奉るわれらのために祈り給え。また御身に依り頼まざるすべての人々、特にフリーメーソン会員のため、また御身に委ねられ奉りしすべての人々のために祈り給え」と、聖ベルナルドのメモラーレ「慈悲深き童貞マリア、御保護によりすがりて御助けを求め、あえて御取次ぎを願える者、一人として棄てられしこと、いにしえより今に至るまで、世に聞こえざるを思い給え。ああ童貞中の童貞なる御母、我これによりて頼もしく思いて走せ来り、罪人の身をもって御前になげき奉る。ああ御言葉の御母、わが祈りを軽んじ給わず、御憐れみをたれてこれを聴き給え。これを聴き容れ給え。アーメン。」を唱えるという約束をしてください。

注意 どのような理由であれ、皆さんがこのロザリオ一連を祈らないとしても(忘れたり、時間がなかったり、病気になったりで)、皆さんは罪を犯すのではありません。しかし、その場合でも翌日にロザリオ二連を唱えるのは良いことです。この一連の意向は、下記の祈りの依頼全部のために祈ることです。

a)無原罪の聖母の騎士―祈りの十字軍に参加する騎士からの祈りの依頼

b)M.I.のモデレーターからの祈りの依頼

2)皆さんが望むだけいくつでも、望むだけ何回でも、祈りの依頼を送ってください! 事務局は、無原罪の聖母の騎士―祈りの十字軍に参加している騎士全員に、この依頼をそのまま転送します(例外として、皆さんの依頼が教会の掟に適切でない場合は、修正するよう送り返されます)。

注意 皆さんの祈りの依頼が、仲間の騎士たちに具体的に送られるか、または一般的な内容(例えば、「自分の家族たちの回心のために、二十人の騎士たちが祈りを依頼している」など)で送られるか、については、事務局が決定します。自分の依頼が公表されることを望まない場合は、メールの中でそれを述べてください。

3)祈りがかなえられたなら、感謝の言葉を送ってくださるよう強くお勧めします。

無原罪の聖母の騎士―祈りの十字軍に、皆さん全員をお招きします。想像してみてください。一万人の騎士たちが毎日ロザリオ一連を祈り、そうすると、二千環のロザリオが騎士たちの意向で毎日唱えられることになるのです。それに加えて、皆さんは聖母の特別な使徒職を毎日行ったことになるのです。

いつも覚えていてください。自分のために真剣に祈れば、恩寵を受けるでしょう。

他人のために祈れば、二倍の恩寵を受けるでしょう。

カール・シュテーリン神父

2016年4月5日、マニラにて。

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ファチマ2017に向けて(第6部)

*** 1917年5月13日(2)―私たちの中の無原罪の聖母 ***


「おおマリアよ、あなたはすべて美しい」と、私たちの典礼は歌います。これはまた、ヤシンタが天からの幻視を黙想したあと、繰り返していたものでもありました。「おお何と美しいお方、おお何と美しいお方」。そのお姿があまりに美しいため、ご出現についてのあらゆる絵、あらゆる像にヤシンタはがっかりします。「実際の聖母がどんな方なのか、描写するのは不可能です。この地上の言葉で聖母のことを説明することさえできません」。

疑いなく、ファチマの子どもたちは、(ルルドの聖ベルナデッタ、パリの聖カタリナ・ラブレ、ラ・サレットのメラニーとマクシマンと同じように)無原罪の童貞、天と地の元后の栄光のお姿を、聖母が天に上げられたその御体を見るという特権を持っていました。子どもたちが見たマリアは、聖母の天主なる御子のそばに今も、そして永遠に座しておられるお姿です!

聖母を黙想すること、ルチアが詳しく述べたような様々な幻視者にご出現になった御姿の聖母を黙想することは価値あることです。そうすれば、私たちが、以前にも増して聖母に近づき、聖母をお愛しするのに助けとなるでしょう。

1)以前のルルドと同じように、ファチマでも、聖母は非常に若いお姿に見え、ルチアは15歳くらいだった、と言いました。
この驚くべき若さは、聖母の神秘のうち一つの面を思い出させます。私たちが子どもや若い人を見るなら、しばしば彼らの両親のことを考えます。マリア様の若さは、マリア様が「天の御父の永遠の娘」であることを、私たちに思い出させてくれます。この面は、私たちに、聖母の源、聖母の創造、聖母の誕生の日、そして何より聖母の御宿り、聖母の無原罪の御宿りについて考えさせます。聖母は、「いとも聖なる三位一体のふところ」から出た天主の光の最深部から来られるのであり、聖母は常に新たに天主の力と光と美を受けておられるのです。

「若いこと」は純粋さと美を意味しています―無原罪の聖母です! マリア様は常に霊魂と心と体が新たになっておられるのです。なぜなら、天主の光と命で満ちておられるからです。私たちはたびたび、この永遠の美に、天主の御業の傑作に、天主ご自身の永遠の光を映す生ける鏡、生ける像に目を上げるべきです。

2)再びルルドと同じように、(ファチマでも、)聖母は背丈が非常に小さく、5フィート(約150センチ)もないように見えた、とルチアは言いました。
この小さいこともまた意味を持っており、私たちに何かを語っています。聖務日課において、私たちは聖母について歌います。「私が小さな子どもだったとき、いと高き御者をお喜ばせし、私の胎内で人となった天主を生んだ」。天主の御前では、聖母は小さきものであるのを望んでおられ、できれば完全に消え去るほど小さきものであることを望んでおられます。これが聖母の謙遜であり、天主はこの謙遜に非常に引きつけられて、聖母を天主の御母となるよう選ばれたのです。

「大きく」なりたがり、目立ちたがり、有名になりたがり、高い評価を受けたがり、感謝されたがり、「消え去る」ことなど耐えられない私たちとは、何という違いでしょうか! しかし、聖性への道は、ここにあります。小さきものとなり、天主に栄光が与えられるよう、消え去ってしまいたいと望むことなのです。

3)もう一つ細かい点があります:聖母は三人の子どもたちに非常に接近なさいました。
足台として、聖母は高さ1メートルほどの小さなトキワガシの木をお選びになりました。「私たちは大変近くにいたため、自分たちが聖母の周りにある光、というか聖母から出てくる光の中にいて、聖母からおおよそ1メートル半ほどのところにいることに気づきました」。聖母は常に子どもたちを見ておられます。「聖母のお声は優しくて心地よいものでした」。本当に愛していれば、私たちはその愛する人たちに近づきたいと思いませんか? そして、その人たちを愛すれば愛するほど、私たちはその人たちにもっと近づきたいものです! また、私たちが愛する人たちのところにいるとき、親しみと愛の雰囲気を乱すようなことを話したり、そのような振る舞いをしたりしないよう気を付けます。まさにこのことがファチマで起こりました。しかし注意してください! 私たちに近づいてくるのは聖母であり、聖母は私たちを大変大変愛しておられるのです。聖母がどれほど私たちに、私たちの心に、私たちの人生の各瞬間に近づきたいと望んでおられるのかを理解し、認識することは、私たちの人生にとって最も大きな利益の一つとなるでしょう。

4)「ERA DE LUZ(光の時代)」
しかし、聖母のお姿を描写した最も重要な言葉は、「太陽より明るい光」です。ルチアはしばしば、「私たちは、白い服を着て、太陽よりも光輝く婦人を見ました」と証言しており、その光は非常にきらきら光っていたため、彼らはまぶしく思いました。「婦人は光の真ん中に来ました。今度も、私たちは(まぶしくて)目が見えませんでした。ときどき私は目を手でこすらなければなりませんでした」。

要するに、それは栄光の輝きに満ちた聖母の復活した御体だったのであり、そのお姿でコヴァ・ダ・イリヤにご出現になったのです。この聖母の御体は、ご変容のときのイエズスの御体と似ています。「顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」(マテオ17章2節)。黙示録の最初に出てくる栄光のキリストの素晴らしい示現において、イエズスは「顔は照りわたる太陽のようであった人の子のような者として」(黙示録1章16節)ご出現になります。主はダマスコへの道でサウロを地面に倒れさせられたとき、それも同じ光の中で起こりました。「真昼ごろ、私と一緒にいた人々の回りに、太陽よりも輝かしい光が天から下るのが見えました」(使徒行録26章13節)。この光は大変強かったため、サウロは視力を失いました。

太陽は、イエズスとマリアの復活の御体が発する天主の御光の象徴にしかすぎません。こういうわけで、童貞聖マリアは、雅歌の中に出てくる花嫁のように「月のように美しく、太陽のように輝き」(雅歌6章10節)、また黙示録の婦人のように「太陽に包まれた婦人」(黙示録12章1節)として、ファチマでご出現になったのです。コヴァ・ダ・イリヤでのご出現によって、童貞聖マリアは、「正義の太陽」の御母として、被昇天以来、天主の御光をまとっておられると私たちに確信させてくださいます。被造物でありかつ全く人間のままでありながら、聖母は、いわば(天主のおられる)至高天にまで入られたのです。

5)栄光の体:
「光ですべてが輝いていた」にもかかわらず、それでも出現されたのは、本当の人間のように見え、言いようのない美しさでした。聖母の御体は、さまざまな「その言いようのない光でできた波」のようでした。聖母に祈るとき、私たちは時折、まず聖母に対する深い霊的な眼差しを持ち、そしてこの子どもたちが聖母をどのように見たのかを想像しようとすべきです。「無限の清らかさと繊細な輪郭を持つそのお顔は、太陽の光輪の中で輝いています。御目は黒く、御手は胸の上で合わせられています。右手から美しいロザリオが提げられていて、真珠のように輝く白い玉があり、一番下には銀の小さな十字架がついていて、きらめいていました。足は、低木の緑の枝の上の小さなアーミンの雲の上にやさしくおかれていました。衣服は雪のように白く、真っすぐ足まであります。(まるでマントのような)白いベールは、縁が細密に編まれた金で飾られ、頭、肩を覆い、衣と同じほど低くまで垂れて、御体全部を包んでいます」。

教会は、無原罪の御宿りの祝日にこう歌います。「霊魂は天主において喜べ。天主は私に救いの衣を着せ、宝石を纏った花嫁のように、私に正義の衣を着けさせ給うた」(入祭文)。聖母はこういう風にファチマでご出現にならなかったでしょうか? 並外れた特権の象徴である光の衣を着ておられ、この特権によって、他のだれよりも救いの恩寵を獲得なさるのです。なぜなら、御子の将来の功徳によって、聖母はあらゆる罪のけがれから守られたからです。白く輝くマントをまとわれて、金色のまばゆい光で輝く聖母は、より大いなる輝きの内に再び見いだされ、回復された原初の正義の象徴です。「主は私を正義の外套で覆われた」(イザヤ61章10節)。

さらに、シスター・ルチアは、聖母が「どのように宝石で飾られておられたか」を見たかも説明します。ルチアは特に、その宝石の中の一つを「光の球」のようだと語りますが、それ以上の説明はありません。ファチマの聖母は外見から、雅歌の花嫁や黙示録の女性と正確に理解され、同一視されることを望んでおられます。このご出現は、他のどの宗教とも違う、マリア様に関するカトリックの教理を目に見えるよう表現したものです。すなわちマリア様は無原罪の御宿りであり(雅歌の花嫁)、身体と霊魂とともに天に上げられた童貞であり(光)、すべての恩寵の仲介者であり、天と地の元后であって、龍の頭を砕くお方(黙示録の婦人)だということです。



まとめ:
ファチマは単に「メッセージ」であるだけでなく、私たちを圧倒する現実です。天の元后のここ地上でのご臨在です。そして聖母は私たちに近づき、私たちが聖母に近づくことを望まれます。私たちが心の中で聖母のことを思えば思うほど、光と威厳にあふれた、しかし謙遜と優雅にあふれたご出現における聖母のことを考えれば考えるほど、聖母が私たちを守り導き、誤謬と罪の危険から守ることがおできになります。ファチマの子どもたちの目で聖母を見つめるとき、私たちにできるのは、その示現に魅了され、非常に多くの光によって「盲目」になることだけです! ですから、この光の中で生きるなら、私たちは、この世の輝きで私たちを試みようとする偽りの光を簡単に見つけることができますから、もうそれに心を動かされることはないのです。

聖伝のM.I.(Militia Immaculatae 無原罪の聖母の騎士会)についてのまとめ
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「宴会に招かれた時には末席に着きなさい。」聖ピオ十世教皇とマリア様のお姿にならう

2016年09月22日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年9月4日(主日)に東京で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2016年9月4日 聖霊降臨後第16主日のミサ
小野田神父説教


日本の聖なる殉教者巡回教会にようこそ。今日は2016年9月4日、聖霊降臨後第16主日のミサをしております。

今日も、いつものように14時30分から公教要理の勉強会があります。16時からは主日の第2晩課、グレゴリア聖歌による晩課があります。

明日は7時から御ミサがあります。

次のミサは、9月はティシエ・ド・マルレ司教様が日本にいらっしゃるので、また来週9月11日にここでミサがあります。10時30分から堅振式、その次に直後にミサがあります。どうぞいらして下さい。それから私も一緒に参りますので、8時45分頃から一番最初のミサをする予定です。堅振を受けたいという方は、告解の秘跡を必ず受けなければならないので早めにいらして下さい。堅振を受ける予定の方々の為にたくさんお祈りなさって下さい。


“Amice,ascende superius.”
「友よ、上席に上がって下さい。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日イエズス様は福音の中で、「宴会に招かれた時には末席に着きなさい。何故ならば招いた人が私たちを見て、『上席に上がるように』と言うだろうから。自分をへりくだる者は上げられ、自分を高めるものは下げられる」という勧告をされました。

今日のミサのテキストを読んで黙想すると、2人の人物の姿が思い浮かばれました。それは昨日祝日を祝った聖ピオ十世の謙遜の姿と、そしてマリア様の謙遜の姿です。そこで私たちも、イエズス様の勧告に倣って末席に着く事ができる為に、私たちの先輩のモデルを一緒に黙想する事を提案します。

そこで第一に、聖ピオ十世の姿と、第二に聖ピオ十世教皇様が非常に大切にしたマリア様のお姿を見て、

第三に私たちはでは、現代21世紀に生きる今日私たちは、イエズス様の勧告に従う為に、つまり上席に天国に上げられる為にはどうしたら良いのか、そして多くの人々が天国に行く事ができる為にはどうしたら良いのか、という事を黙想して、良い遷善の決心を立てる事に致しましょう。

聖ピオ十世教皇様は、聖ピオ十世会の守護の聖人で、聖ピオ十世会の会員と聖ピオ十世会のミサに与る皆さんにとって、とても愛着を感じている方です。第1の点はですから、聖ピオ十世の簡単な生涯を見て、その聖ピオ十世教皇様が教皇として何を求めていたか、とうその事を黙想しましょう。それが第1の点です。

聖ピオ十世は貧しい家に生まれました。聖ピオ十世は非常に有名な逸話では、学校に行くまで約1時間ぐらい4キロほど毎日歩いて行って、そしてまた1時間かかって歩いて戻ってこなければならなかったので子供だったので、しかし靴を履いていると靴が擦り切れてしまうので、いつも靴を担いで裸足で学校に通った。そして叙任司祭から主任司祭、司教、枢機卿となる時までいつも、教皇となる時もいつも、「私は貧しく生まれたので、貧しく生き、貧しく死にたい」と言っていました。そして教皇様としての、或いは司教様としての生活も非常に慎ましい質素なものでした。

聖ピオ十世は1903年に教皇様にコンクラーベで選ばれるのですけれども、その時ヴェネツィアの枢機卿としてやって来ました。すぐヴェネツィアに帰るつもりで皆に、「すぐ戻ってくるから」と言って、結局ヴェネツィアに帰る事が戻る事ができないとは想像もしていませんでした。教皇様に選ばれたという時に涙を流して、「お願いだからこれはやめてほしい。できればこれを避けたい」という事で涙を流して皆に頼んだそうです、「他の人を選んで欲しい。」しかし多くの親友たちから、「お前しかやる人がいない。その責任を受けて欲しい」と言われて、祈りと涙にくれながら、「十字架として、この責務と名誉を受ける」と答えました。

聖ピオ十世教皇様は一体、司祭の時から、教皇になって、そして死ぬまで、一体何を求めていたのでしょうか?それは自分の事ではありませんでした。自分は一番貧しい末席にあって、「自分は何でもない」といつも思っていました。聖ピオ十世教皇様にとって最も大切なのは「イエズス・キリスト」でした。「イエズス・キリストが世界の中心でなければならない。」「イエズス・キリストこそが皆から知られなければならない。」「イエズス・キリストこそが愛されなければならない。」「イエズス・キリストこそが礼拝され、そして従順を受けなければならない。」そこで教皇様になって最初の回勅「E Supremi Apostolatus」の中では、「私のモットーはこれだ。たとえ誰かが私のところに圧迫や、脅迫や、或いはお金で誘惑しようとしても、そんな事は全く一切関係ない。私にはどんな党派もない。私の求めるのはこれだ、『全てをキリストに於いて復興させる』。イエズス・キリストが全てであって、イエズス・キリストだけで十分だ。自分の利益は全くない。イエズス・キリストこそが私の利益だ。イエズス・キリストの名誉こそが私の名誉だ。」自分はいつも末席に留まっていました。

教皇様は最初の回勅の中で、「今、全世界の人々は平和を求めている。しかしイエズス・キリストを追放しておいて、私たちに本当の正義と本当の秩序、本当の愛を与える方を除外しておいて、平和を求める努力は全く無駄に終わってしまうだろう。何故ならばイザヤの預言書にあるように、『平和というのは正義の場所』だから、正義の無いところには平和もありえない。もしも人々が平和を求めるならば、イエズス・キリストを通してのみ平和が与えられる。イエズス・キリストに世界が戻れば、イエズス・キリストが私たち全社会を天主へと、天主の秩序へと導いて下さる。イエズス・キリストの福音が天主の秩序に導いて下さる。」

そこで聖ピオ十世教皇様は、まず司教様たちにお願いしました、「人類がますますイエズス・キリストをよく知るように、イエズス・キリストを愛する事ができるように、聖職者たちの聖徳とその学識を、信仰を高めてほしい。人々の霊魂の中にイエズス・キリストの似姿が刻まれる事ができる為には、司祭たちがまずイエズス・キリストの似姿を持っていなければならない。だから司教様たちよ、兄弟たちよ、あなたたちの最も大切な業は、神学校で聖なる学徳のある、正当な信仰に根付いた、聖徳の高い司祭を養成する事である」とお願いしました。「神学校こそは司教様たちの最も大切な責務である」という事を思い出させました。「司祭たちの高い聖徳の水準、高ければ高いほど多くの霊魂たちは、イエズス・キリストにより多く立ち戻る事でしょう。」

その為に聖ピオ十世教皇様は、「多くの人々がイエズス・キリストを知る為に、イエズス・キリストについての知識を公教要理で、或いは色々な手段で教えてほしい。もしも人々が宗教の敵であるならば、多くの場合にそれは悪意というよりは『無知』の為だ。だから『イエズス・キリストの事を知らない事』と『宗教について無知である事』こそが敵である、私たちの敵である」と言っていました。

今日聖パウロの書簡を読むと、まさに聖パウロの燃えるような心が表れていますが、聖ピオ十世教皇様の心と全く同じだったに違いありません。「あなたたちがイエズス・キリストのその愛の、その超素晴らしい“supereminentia”これを、最も素晴らしい司教を持つように、そのイエズス・キリストの愛の深さと、広さと、幅と、その崇高さを知る事ができるように、イエズス・キリストの愛の、その巨大な愛がどれほど私たちに注がれているか、という事をみんなに知ってもらいたい。」これが聖パウロとそして聖ピオ十世教皇様の願いでした。聖ピオ十世はパウロと同じく、「私は皆さんあなたたちに、福音のみならず、自分の命さえも与えたいほどだ」と仰っていたに違いありません。

それのみならず、聖ピオ十世は平信徒の方々にも、「多くの人々が天主に戻る為に、天主の掟を完璧に、教会の掟を完璧に、特に愛徳の掟を守るように。そして私たちの信仰を恥ずる事なく、率直に、オープンに表明してもらいたい。そして私たちが自分の利益、個人的なこの世的な利益ではなく、自分の個人的な上席ではなく、イエズス・キリストの利益を、イエズス・キリストの名誉を追求してもらいたい」と励ましました。「そうすれば、そのような立派な模範を見て、多くの人々たちがますますイエズス・キリストを知る事ができるだろう。何故ならばイエズス・キリストにおいてのみ、本当の幸せがあるから。何故かというと、『永遠の命とはすなわち、唯一なる天主と、御身がお送りなったイエズス・キリストを知る事にあります』とイエズスが言った通りであるから。」「そうする事によって全世界は、正義と愛徳とに満ちて、持てる者は持てない人を愛徳を以て助けるだろうし、持てない人は忍耐とそして堅忍を以て、反乱する事なく犠牲を苦しみを捧げるだろう。またこの全世界はキリストにおける平和が訪れるだろう」と言っていました。

第2の点は、第2の上席を求めなかった方はマリア様です。マリア様は大天使ガブリエルがお告げにやって来た時にこう仰いました、「私は主の婢女です。仰せの如く我になれかし。」マリア様も自分の利益や自分の都合を考えない方でした。その為にマリア様は、『天主の御母』との極みまで上げられました。遂には『天地の元后』にまで上げられます。大天使が、人間をはるかに超えた大天使が人の前に、マリア様の前に来て挨拶をした、というのも謙遜ですけれども、天主御子が人となった、という大奇跡を、マリア様の謙遜がまさに引き起こさせました。

聖ピオ十世は、「全てをキリストに於いて復興させる」という大目標の為に一番必要な手段を、第2の回勅で書きました。それは1904年の2月2日に、マリア様が無原罪の御宿りである、という事の50周年を記念してすぐに出された回勅でした。その回勅の中ではっきりと言っています、「イエズス・キリストに於いて全てを復興させる為に、最も優れた手段がある。それは無原罪の御宿りを通す事である。インマクラータを通す事である。インマクラータを通す事でなければ、その手によらなければ、イエズス・キリストを私たちは受ける事ができないからだ。」

聖ピオ十世はこの回勅の中で「Ad Diem Illum」の中で、色々な旧約の例を出すのです。
「旧約の時代で、アダムはすでにマリア様を見ていた。」
「ノアの箱舟というのは実はマリア様の事だ、マリア様の象徴だ。何故ならばノアがその箱舟の中に閉じ込められていたから。」
「ヤコブも眠っていながら天に上る階段を見た。その階段を通ってのみ、天使が祈りを上げたり下げたりしている。この階段はマリア様だ。マリア様を通ってのみイエズス・キリストは来る。」
「モーゼは燃える藪を見たけれども燃え尽きていなかった。これは、マリア様の童貞とそして天主の御母である、という事がその中に入っているという事だ。」
或いは「エリヤがカルメル山の上で、海から小さな雲が上がってくるのを見た。その雲が大雨を呼び起こしたのだ。この雲はマリア様だ。」

聖ピオ十世教皇様は、「旧約のイエズス・キリストの予言に関する全ての事に、必ずマリア様が含まれている。マリア様は30年間、イエズス・キリスト様の最も親密な、イエズス様を最もよく親密に知る唯一の御方であった事。そして全ての御誕生と幼年時代の私生活の秘密の神秘を、マリア様はその心に、汚れ無き御心に留めておられた」と言って、「マリア様を除いて、イエズス・キリストをこれ以上よく知る者は誰もいない。だからマリア様を通さなければ、私たちはイエズス・キリストに於いて全てを復興させる事ができない」と。「イエズス・キリスト様は全ての聖寵の源だけれども、マリア様はそれを私たちに伝える運河だ」と。

では私たちは、この聖ピオ十世とマリア様を見てどのような遷善の決心を取らなければならないでしょうか?

私の思うには、聖ピオ十世のこの精神を私たちも今、実践していかなければならない、続けていかなければならない、という事を提案します。それは何かというと、「全てを、マリア様を通してキリストに於いて復興させる」という事です。

もしも聖ピオ十世教皇様が現代に生きていたら何と仰ったでしょうか?1903年最初に回勅を書いた時には、「この現代は病で覆われている。この現代世界のその病はますますひどくなって、その現代社会は死のうとしている。自己崩壊をしようとしている。その病の名前は『天主からの背教』だ。この社会に天主をまた戻さなければならない。その為にキリストを与えなければならない。」今もしも生きていたら、聖ピオ十世教皇様が今この世におられたら何と仰ったでしょうか?「この背教の病はますますひどくなっている。この病があまりにもひどいので、もはや私たちの希望は1つしかない。薬は1つしかない、特効薬は1つしかない。それはインマクラータだ。マリア様、無原罪のマリア様だ。無原罪のマリア様に行くしかない。無原罪のマリア様にたくさんお祈りしなければならない。」

ちょうど100年前にファチマでマリア様は同じ事を仰いました、「天主はこの世を、この霊魂を救う為にこの世に平和を与える為に、私の汚れ無き御心に対する信心を確立される事を望んでいます。」

どうぞその声に耳を傾けて下さい。聖ピオ十世教皇様が今またもう一度来たであろうとしたら、おそらく同じ事を言ったに違いありません。

「マリア様の、汚れ無きマリア様、インマクラータのマリア様の信心をどうぞ持って下さい。マリア様を通してのみ、初めてこの世界はまた健康になる事が、平和をもたらす事ができる」と。

では、その聖ピオ十世のその訴えを聞くと、何か私たちはどうしてもこの決心を取らざるを得ません。

ちょうどこの聖ピオ十世教皇様が言っていたであろうような事を言っている人がいるのです。そして聖ピオ十世教皇様が今生きていたであろうだったら言って、それと同じような事を今やろうとしているところがあるのです。

それは何かというと、ファチマのマリア様の声を聞いて、それをそのファチマの100周年を準備しようとしている方です。

それはフェレー司教様で、それがロザリオの十字軍なのです。今、現代世界を救う為に、全世界の本当の平和を与える為に、マリア様に多くのロザリオと犠牲をどうぞ捧げて下さい。マリア様をインマクラータを通して、マリア様を通して全てをキリストに於いて復興させる事ができますように。

そこで今日はぜひ遷善の決心として私たちは、私たちの利益ではなく、イエズス・キリスト様の利益の為に、一番末席に着く為に、そして遂には天国という上席に着く為に、イエズス・キリストの利益を、聖ピオ十世教皇様に倣ってマリア様に倣って、求める事にしましょう。そしてその為にもロザリオの十字軍にぜひ参加して、どうぞ多くのロザリオと犠牲を捧げて下さい。

“Amice,ascende superius.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。
コメント

聖ピオ十世のモットー “Omnia instaurare in Christ per Mariam.” マリア様を通して、全てをキリストに於いて復興させる

2016年09月21日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年9月3日(初土)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年9月3日 初土曜日 教皇証聖者聖ピオ十世のミサ
小野田神父説教


聖母の汚れ無き御心聖堂にようこそ。今日は2016年9月3日、聖ピオ十世教皇様の祝日で、聖ピオ十世会の私たちの守護の聖人で、そして1級祝日を祝っております。

今日は9月の初土でもありますから、どうぞ今日は初土の信心をなさってこのミサを捧げて下さい。

このミサの後に公教要理があります。特に堅振を受けようという方の為にその準備があります。堅振を受けようという方は是非、今日の最終の公教要理に与って下さい。

次回は、ミサは来週の木・金・土とあります、来週の木・金・土はミサが2回ずつあって、ティシエ・ド・マルレ司教様の歌ミサと、私の読誦ミサがあります。是非、ティシエ・ド・マルレ司教様は日本に初めていらっしゃるという事で、歓迎の意味も含めてどうぞ皆さんいらして下さい。


“Instaurare Omnia in Christ.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は聖ピオ十世教皇様の大祝日であって、聖ピオ十世会の守護の聖人ですから、特に4つのポイントを黙想する事を提案します。

1つは聖ピオ十世教皇様が主に何をなさったか、という事をざっと見て、

次に聖ピオ十世教皇様がその就任の、教皇聖座に教皇座に登位した、教皇様となった最初に、何をモットーとして、何を目指して、何が一番大切で、何をなさろうとしたのか、その確信のメッセージは何だったのか、

その次に、教皇様が第2の回勅として出したメッセージ「Ad Diem Illum」、マリア様の回勅で何を求めていたのか、

最後に第4番目には、私たちは聖ピオ十世教皇様の精神と、その事業と、その志をどうやって続けてやっていったら良いか、その決心を立てる事に致しましょう。

聖ピオ十世教皇様は、イタリアの農村のリエーゼという所で貧しい家族の中に生まれました。特に有名な話は、学校に行く時に裸足で行って、靴を担いで行った。何故かというと、靴が擦り切れるのを避ける為に、裸足で靴を担いで運んで行った。歩くのに、行き帰りに何時間もかかって行かなければなりませんでした。

聖ピオ十世教皇様、ヨゼフ・サルトは、司祭に叙階されて、主任司祭として、そして司教として、そして枢機卿として、遂には教皇様として、全ての教会の仕事を見てきた方でした。「自分はいつも貧しかったので、貧しく生き、貧しく死ぬ」という事を思っていました。ピオ十世教皇様が教皇様になったのは1903年の事でした。その教皇様にコンクラーベで選ばれた時には、本当はベネツィアの枢機卿としてベネツィアにすぐ帰ってくる予定だったので、「まさか自分が選ばれるとは」という事で、涙を流して、「お願いだからこれを受け受けたくない。その責任はとても私には果たしきれない」という事で泣いて泣いて泣いて、「これを何とかして、これを受けたくない」としたのですけども、皆から薦められて、「ぜひお前しかいやる人がいない」という事で、十字架として受けた。「十字架として受ける」と遂に決心しました。

教皇様となってから特に有名なのは、教会を、ローマの組織を改革したという事、聖務日課を改革した事です。司祭たちがどれほど聖務日課を大切にして祈るか、という事をよく知っていたので、それが司祭たちが一番唱えやすいように改革した、聖ピオ十世だからこそできた。また特にグレゴリオ聖歌を復興させた。子供たちに聖体拝領を、初聖体をもう早く、早い時期からする事ができるようにさせた事。ですから聖ピオ十世教皇様は、「御聖体の聖人」とも言われています。

ルフェーブル大司教様も私たち聖ピオ十世会の創立者も、聖ピオ十世教皇様のこの勅令によって子供の時からすぐに聖体拝領できるように、御聖体に対する愛を表す事ができました。聖ピオ十世教皇様に感謝の手紙を送った、という事も残されています。

聖ピオ十世は教会法も改革しました。今までは教会法というのは習慣法であって、昔の習慣はこうで、こうであって、1つに体系付けられていなかった事を1つにまとめました。

聖ピオ十世教皇様は教会の光として、特にカトリック教会の神学校、大学で、正しいカトリックの信仰が教えられるように近代主義を排斥しました。一番有名なのは「パッシェンディ」です。そして「反近代主義宣誓」というものを作って、「司祭になる者、或いは司教になる者、神学校で教える者、或いはカトリックの学校で教える者は必ず、この反近代主義宣誓を宣誓しなければならない」としました。

そして聖徳の香り高く、10年ほどの教皇様の仕事をした後に天に召されました。この短い間だったのですけれども、聖ピオ十世が教皇様であった時に教会はますます発展する事ができました。

ルフェーブル大司教様が私たちの修道会の創立者が、聖ピオ十世をこの保護者としたのは「なるほど」その訳があります。


では第2の点で、聖ピオ十世教皇様は教皇登位のその時に、一体何を自分はしようと、そして自分のモットーは何で、一番教皇の職として大切なものは何か、何だと言ったのでしょうか?

それは最初の回勅、1903年10月4日に出された“E Supremi Apostolatus”の中に書かれています。「この今人類は、」聖ピオ十世が今から100年以上前に話す事には、「今、全人類は非常に重大な病に犯されている。そしてこの病はますます日ごとに悪くなっているばかりだ、悪化するばかりだ。人類はこの病の為に、人類の滅亡にまで追いやられている。その危険にさらされている。この病の名前は、『天主からの背教』である。天主から離れている事である。ますますイエズス・キリストを打ち捨てて、天主の教えから離れている事である」と嘆きました。

そのこの病を癒す為に、聖ピオ十世教皇様は、「私の教皇となった時の願いは1つしかない。そしてこれはどのような政治的な圧力も、圧迫もあっても、私はこの願いとモットーはこれである。そしてもしも誰か私を、どのような圧迫や、脅迫や、或いは何か賄賂や、何とかで私をそれから外そうとしても、全く無駄である。私の利益は、天主の利益こそ私の利益だ。そして私が求める事は、『全てをキリストに於いて復興させる』事だ。私はその為に命をかける。」

つまり聖ピオ十世教皇様は、その当時から歌われていた、「Christus Vincit!Christus Regnat!Christus Imperat!」「キリストが勝利した!キリストが統治した!キリストが命令し給うた!」これを是非全世界に実行させて、そしてこの病から、背教の病から、人類の破滅の危機から救おうと思ったのでした。

聖ピオ十世はその最初の書簡の中でこう言います、「今全人類は平和を求めている、熱望している。しかし天主から遠ざかりつつ、天主を無視しつつ、天主をほっぽり出しながら平和をも探すのは全く愚かな事であって、無駄な事だ、馬鹿馬鹿しい。何故かというともしも天主が、この世の創造主であり、正義であり、真理である天主が、私たちの生活から排除されているならば、正義が排除される事であって、もしも正義が無いという事であれば、平和が無い事だ。何故ならば、イザヤの預言によると、『平和とは正義の業』だから。」「もしも天主を認めるならば、天主を認めるような組織があるならば、この組織こそが本当の平和を私たちにもたらす事ができる。天主のもとに戻る為には、私たちはキリストを通してでなければ戻る事ができない。だから全てをキリストに於いて復興させなければならない。」「全てをキリストのもとに復興させる為に一番大切なものは何か。それは司祭たちだ。それは聖職者だ。」

そこで聖ピオ十世は、この全ての兄弟の司教様たちに、「兄弟たちよ、尊敬する兄弟たちよ司教様たちよ。良き聖なる教義の、正しい教義を知っている非常にレベルの高い神学知識を持った司祭、のみならず、非常にレベルの高い聖徳の高い生活を以ってキリストを皆に示す事ができるような司祭を養成しなさい」と訴えました。ちょうど聖パウロが言ったように、「キリストの姿を映し出すように、私はその生みの苦しみを今感じている」と言ったように、「司祭たちの中にキリストの生きる姿を映し出しなさい」と聖ピオ十世は訴えました。「第2のキリストを生み出すように。そこで司教様たちにとって一番大切なのは神学校の運営であって、聖職者、聖なる学徳の高い司祭の養成である」としました。「聖徳の高い、聖なる多くの司祭を生み出してもらいたい。第2のキリストたちをたくさん生み出してもらいたい。そうする事によって、社会を全てキリストにおいて復興させる。」これが聖ピオ十世の求めていた事でした。

更に、「もしも今天主から背教しているとしたら、天主の教えから離れているとしたら、多くの場合それは悪意ではなくて『無知』からだ。宗教の、真の宗教、カトリック宗教への敵は、言うなれば無知こそが、知らない事こそが敵だ。だから多くの人がイエズス・キリストの教えをよく知る事ができるように助けてほしい。もしもそれができないならば、それは教えるべき人が教えないからだ。そこに問題がある。全ての人々の霊魂を天主に戻す為に、天主の教えを教えて欲しい。」

そして平信徒の人々には、「天主の掟と教会の掟を忠実に守る、それを忠実に遵守する事に根付いた行動を起こすように」と求めました。そして、「特に愛徳の掟と、信仰を表明するのに率直で、そしてオープンであって、自分にはこの自分の利益やこの世俗の利益を追求するよりも、イエズス・キリストの利益を追求するように」とお願いしました。

つまり聖ピオ十世教皇様にとっては、「イエズス・キリストこそが中心であって、イエズス・キリストに於いて生きる」という、「私たちにとって生きるというのはキリストである」という事こそが彼の霊性でした、霊的な精神でした。全てはイエズス・キリストの贖いの観点から、私たちが霊魂を救って、全てはキリストのもとに行く、という観点から考えられていました。「全ての人類がイエズス・キリストのもとに行く為に、私たちは皆キリストのようになる、キリストのようにさせる、私たちにおいてキリストを養成する姿を映し出させる。」これが聖ピオ十世の願いでした。

第3の点は、では第2の回勅に聖ピオ十世は何を言ったでしょうか?

「Ad Diem Illum」それはマリア様の無原罪の御宿りについてで、マリア様を通して、私たちをイエズス・キリストへと導こうと考えました。つまり「“Omnia instaurare in Christ per Mariam.”マリア様を通して、全てをキリストに於いて復興させる」これが聖ピオ十世のモットーでした。

聖ピオ十世教皇様はマリア様についてこう言います、「イエズス様は正義において完璧な、正義の要求する絶対的な権利として功徳を得た。しかしマリア様は、」この事をラテン語で“Condigno”と言いますが、「しかしマリア様は、イエズス様の助け手として伴侶として、贖いの伴侶として共贖者として、それにふさわしい“Congruo”の功徳を得た。マリア様はイエズス・キリスト様と共に贖いの業を果たした。だから私たちがイエズス・キリストのもとに行くには、必ずマリア様を通さなければならない。旧約の時代も、イエズス・キリストについては全てをマリア様を通して与えられている」と言いました。ですから聖ピオ十世は、「キリストのところに行く為に、必ずマリア様を通すように。マリア様に於いて、マリア様と共に行くように」と訴えました。


では私たちは何をどのような決心をしたら良いでしょうか。

私たちも聖ピオ十世教皇様の精神を今でも受け継いで、それを果たさなければなりません。聖ピオ十世教皇様は今現代に生きていたら、この病気について、人類の日々悪くなってる病気について何と嘆いた事でしょうか。「もう癌のようなこの病は体中に広まってしまって、もう死なんばかりとしているのではないかと思われる」と仰るかもしれません。しかし聖ピオ十世教皇様はそれでも決して絶望はしなかったでしょう。「全てをキリストに於いて復興させなければならない。人類がイエズス・キリストに戻るようにしなければならない。」おそらく聖ピオ十世教皇様は現代におられたら、ますますマリア様に行くように、私たちを促した事でしょう。「マリア様こそ私たちの唯一の希望だ。マリア様を通してこそ、私たちはイエズス様を受けたのだから。だからマリア様への信心をますます強めるように」と仰ったに違いありません。

聖ピオ十世教皇様は、初土の信心も、ファチマのマリア様の仰る前から既に仰っていました、「初土の御聖体拝領、初土の告解をするように。」そしてマリア様、ファチマのマリア様と聖ピオ十世教皇様はあたかも瓜二つであるかのようです。おそらく聖ピオ十世教皇様はもしも今生きていたら、今年ファチマの100周年を準備する為に、「これからロザリオの十字軍を起こしなさい」と教皇様として全世界に言っていたに違いありません。「ファチマのマリア様の100周年をよく準備するように」と心から訴えて、「人類がここで復活するかしないかは、これにかかっている」と訴えたに違いありません。「ファチマのマリア様のメッセージをよく聞くように。汚れ無き御心の信心を私たちが実践するように。初土の信心をするように。ロザリオを毎日唱えるように。犠牲を、マリア様の御心に対して犯される罪を償う為に祈りと犠牲を捧げるように」と訴えたに違いありません。全世界にご自分の声を放っていたに違いありません。もしも聖ピオ十世がこの現代に生きていたら必ずそうしたに違いありません。

ですからそれをそのような事を、聖ピオ十世の精神を知れば知るほど、その今なさるだろうような事を知れば知るほど、私たちはこの聖ピオ十世会が今皆さんに呼びかけているロザリオの十字軍、これにぜひ答えなければならない、と皆さん確信するに違いないと思います。まさに現代21世紀、2016年に生きている私たちが、日本に生きている私たちが、一番大切にされているこのカトリック教会で一番大切にされている事は、このメッセージだ、この実践だ、という事です。

そこで今日、聖ピオ十世教皇様の祝日を祝う事ができて、そのミサを捧げる事ができて、聖ピオ十世のこのモットーを私たちのモットーとする事ができるように、この聖人の執りなしを求めましょう。

聖ピオ十世の御取り次ぎによりて、私たちもファチマのマリア様のメッセージを聞く事ができますように、実践する事ができますように。そして聖ピオ十世教皇様がその御取り次ぎによって、私たちの修道会を聖ピオ十世会をいつも守り導いて、教会の復興の為にマリア様の道具として使って下さいますように。

聖ピオ十世教皇様が望まれるような事を私たちがいつもし続ける事ができるように、聖なる司祭を生み出す事ができますように、多くの聖なる司祭が生み出す事ができますように。そしてそれらを通して多くの聖なる修道者、そして多くの聖なる家族、そして聖なる社会が、キリストに立ち戻る社会が、全世界が平和の内にキリストに立ち戻る事ができますように、その御恵みを求めたいと思います。

“Instaurare Omnia in Christ.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。
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アジアの無原罪の聖母の騎士への手紙 第13号 ― ファチマでの聖母の最初の御出現

2016年09月21日 | M.I.(無原罪の聖...
アジアの無原罪の聖母の騎士への手紙第13号

*** ファチマでの聖母の最初の御出現 ***


親愛なる無原罪の聖母の騎士の皆さん!

私たちの主イエズス・キリストの御受難と御復活という偉大なる神秘が近づいているため、1917年5月13日のファチマでの聖母の最初の御出現のときの出来事、およびそれについての解説を、皆さんにお送りさせてください。これによって、無原罪の聖母のみ言葉とお望みを皆さんが黙想する助けとなるかもしれません。私はまた、皆さんにもっともっとファチマの使徒たるよう心に留めておいてくださることを、お願いしたいのです。ですから、皆さんが他の人々を聖母に引き寄せることができるよう、皆さんはファチマの出来事とその奥深い意味を、どちらもよく知らなければなりません。

この聖なる御受難節のための私の司祭としての祝福とともに。
カール・シュテーリン神父

1917年5月13日
ファチマでの聖母の最初の御出現

私たちが聖母の現存そのものに入り、また聖母が愛しておられる子供である私たちを救うためになさった称讃すべき御介入について黙想する前に、私たちはまずなによりも、私たちが表現できないほど聖にして純粋で繊細である霊的な世界に入っていくということを知らなければなりません。

聖マクシミリアノ・コルベは、これを最も深遠な言葉でこう表現しました。「あなたが無原罪の聖母について読む準備をするとき、あなたはこれからいかなるけがれも全くない最も純粋な存在との接触に入ってゆくのだということを忘れてはなりません。また、あなたが読む言葉は聖母がどんな方なのかを表現することはできないということを考えておいてください。なぜなら、その言葉は人間の言葉であって、すべてをこの世的な方法で提示する人間の概念から引き出されたものである一方、無原罪の聖母は完全に天主に属する存在であって、そのため、あなたの周りのあらゆるものよりも無限に高いところにおられるからです。

…また、次のことを率直に認識してください。聖母の助けなしに一人だけでは、あなたは聖母について何も知ることができず、その結果、あなたはまことに聖母を愛することができないということ、さらに愛によってあなたの心を聖母に引き寄せるためには、聖母御自身がもっともっとあなたを照らしてくださらなければならないということを。」

これが聖母について私たちが読むどんなことにでも当てはまるのであるならば、私たちが聖母御自身にお会いし、聖母の御言葉や御振る舞いを理解し始めるとき、それはどれほどもっと当てはまるでしょうか。

第二の準備の黙想は次の通りです。私たちが御出現という出来事について読む際には、あたかもファチマが天主の御母と三人の子供たちの出会いでしかないかのように、つまりある歴史上の事実を思い起こすためだけにこれを読んではいけません。幻視者たちは常に、聖母の伝達手段となって聖母のメッセージを伝えるために、聖母によって選ばれた道具にすぎません。聖母はルチア、フランシスコ、ヤシンタに直接話されますが、聖母は彼らをすべての人間の代表として、すべての人に間接的に話しておられるのです。私たちも、1917年のコヴァ・ダ・イリアに自分自身がいたかのように、聖母のお言葉を私たちの心に直接受け入れなくてはなりません。

ここに、シスター・ルチアによって書かれた最初の御出現の記録があります。

<コヴァ・ダ・イリアの坂の上で、私はヤシンタとフランシスコと遊んでいました。
突然、私たちは稲光の閃光のようなものを見ました。
「家に帰った方がいいわ」と、私はいとこたちに言いました。
「稲光よ、雷と嵐かもしれない。」
「ええ、確かに。」と二人は言いました。
私たちは坂を下り始め、道の方へ羊を急いで行かせました。私たちは坂の中程、そこに立っていた大きなトキワガシの木とほとんど同じくらいの高さにまで行ったとき、また別の稲光の閃光を見ました。私たちがもう数歩だけ進むや否や、目の前の小さなトキワガシの木の上に全身純白の服をお召しになった御婦人を見ました。御婦人は太陽よりさらに光り輝き、きらきらと輝く水でいっぱいになったクリスタルグラスが燃えるような太陽の光線で貫かれている時よりも、もっと明るく強烈な光を放っていらっしゃいました。

私たちはそのお姿に大変驚いて、その前に止まりました。私たちは御婦人から数歩しか離れていない所にいたので、御婦人の周りを取り巻いているというか、むしろ御夫人から出ている光に覆われていました。
その時、聖母マリア様は私たちにお話しになりました。

-「恐れることはありません。私はあなたたちを傷付けたりはしません。」
「あなた様はどこからいらっしゃったのですか?」
-「私は天国からの者です。」
「あなた様は私に何をお望みなのですか?」
-「私がここに来たのは、あなたたちがこれから6ヶ月間の間、毎月13日のこの同じ時刻にここに来るように頼むためです。私が誰か、そして何を望んでいるかは後で教えましょう。その後、私は7回目にここに戻ってきます。」
「私も天国へ行くでしょうか。」
-「はい、あなたは天国へ行くでしょう。」
「ヤシンタも行くでしょうか?」
-「はい、彼女も行くでしょう。」
「フランシスコも?」
-「はい、彼も行くでしょう。でも、彼はロザリオをたくさん唱えねばなりません。」

その時、私は最近亡くなった2人の女の子について尋ねることを忘れませんでした。彼女たちは私の友人で、私の姉と共に織物を学ぶために私の家にきていました。
「マリア・ダス・ネヴェスは天国にいますか?」
-「はい、彼女は天国にいますよ。」
「では、アメリアは?」
-「彼女は世の終わりまで煉獄にいることになります。」
-「天主をお怒りさせる罪に対する償いの行為として、そして、罪人の改心を願うために、あなた自身を捧げて、また天主があなたにお送りになる全ての苦しみに耐える覚悟がありますか?」
「はい、その覚悟があります。」
-「それなら、あなたは非常に苦しまなければならないことになるでしょう。しかし、天主の聖寵があなたの慰めになるでしょう。」

聖母は最後に「天主の聖寵があなたの慰めになるでしょう」とお話しなさいつつ、初めて両手を広げられました。するとマリア様の両手から非常に強い光線が出て私たちに届き、その光線は私たちの心臓と魂の最も奥深い所までも貫き、私たちはどんなにすばらしい鏡に自分自身を映すよりももっとはっきりと、その光そのものであった天主の中に自分たちの姿を見ることができました。そして同時に私たちに与えられた深い内的な衝動に突き動かされて私たちはひざまずき、心の中でこう繰り返しました。
「おお、至聖なる三位一体よ、我、御身を崇め奉る。我が天主、我が天主よ、我は至誠なる御聖体の秘跡にまします御身を愛し奉る。」

数秒の後、マリア様はお話しになりました。
-「世界の平和のため、そして戦争が終わるように毎日ロザリオを唱えてください。」
「戦争は長く続くでしょうか、それともすぐに終わるでしょうか?」
-「私が何を望むかまだあなたに話していないので、まだそれを教えることはできません。」

そして、天の御母は穏やかに東の空へ昇って行き、広い空に見えなくなってしまわれました。聖母を囲んでいた光が天空で聖母の前に道を開けたようでした、そして、この現象から、私たちは時々それを「天が開いているのを見た」と言ったものでした。>

では、聖母マリア様がおっしゃったお言葉について考えてみましょう。

1/「恐れることはありません。私はあなたたちを傷付けたりはしません。」
このマリア様の最初のお言葉、これは最初におっしゃったお言葉ですので非常に重要です。

-「恐れることはありません。私はあなたたちを傷付けたりはしません。」
ルチアはこう説明しています。「私たちが感じた恐れはマリア様に対する恐れでは全くなく、むしろ、雷を伴った嵐が来ることに対する恐れだったのです。マリア様の御出現によって私たちは恐れも恐怖も感じず、ただ驚きだけを感じました。」

ファチマにおける聖母の御出現から100年後の今、私たちはこれらの言葉のより深い解釈を見いだすことができます。暗闇の多数の力が、私たちを傷付けています。このことに対して、最初の主要な宣言がなされたのです。「私は、あなたたちの母親として、 あなたたちを傷付けたりはしません。」つまり、私と一緒ならば何も怖がることはありません、私の言うことを聞き、私に従い、私を受け入れるならば、あなたたちを本当に傷付けるようなことは許しません、という宣言です。


2/「私は天国からの者です。」
確かに聖霊に霊感を受けて、ルチアは、聖母に話しかけ、質問をする勇気を見出しました。
-「あなた様はどこからいらっしゃったのですか?」
その時、聖母は彼女に最初のお返事をされましたが、その質問に正確にはお答えになりませんでした。
「私は天国から参りました」とおっしゃったなら、それは確かに真実だったでしょう。
しかし、聖母は文字通り、こうおっしゃいました、
-「私は天国のものです。」(1922年にはじめてルチア自身が書いた記録には、「私自身、天国のものです!」と書かれています。)
この言葉だけで、私たちは聖母の神秘の全てを見るのです。

私たちが、諸天使と聖人たちと共に、「おお、インマクラータよ、あなたはどなたですか?」と尋ねると、
聖母はお答えになります。「私は、天国のものです!」
「天国の」という言葉、それは主祷文の「天にまします我らの父よ」という言葉をこだましています。そして、聖母はその全ての存在と人格をもって、この天国のものとして存在しておられるのです。

さて、すべての人間は、人間を両親にもつ子供ですから、第一に「地上のもの」です。それに対して、聖母マリアは人間としてはただ一人、一般の原則から除外されたお方であり、『地上のもの』である前に、第一に、主に『天国のもの』なのです。
何故でしょうか?

なぜなら、「神はそのみ業を始められたときから、そのみ業より早く、私を有しておられた。永遠から、初めから、地が始まる前から、私は立てられた。淵もまだなく…私は生まれた。…私は建築技師のように、彼のそばにいた。」(格言の書8章23-30節)聖母の『存在』の理由は、天主の神秘の中に埋もれています。すなわち、聖母の地上でのご生活は、聖母「自身、天国のもの」であることが目に見えるかたちで表現されているにすぎません。聖母の本質、聖母の存在の基礎、聖母の最も奥深いところは、被造物ではなく創造主にあり、時間ではなく永遠にあり、一言で言えば天国にあるのです。聖母は天主以外のものの為に生きることは決してなさいません。聖母は御自身の全存在において、ただ天主御父の娘、天主御子の母、聖霊の神殿、聖霊の浄配だけでいらっしゃるのです。

私は、…です。
聖母は、「私は…から来ました」とはおっしゃらず、「私は…です」とおっしゃいました。
それは、聖母御自身の自己定義といえるでしょう。私の存在、私の本性、私『自身』は「天国のもの」です。
さて、天国は永遠の命であり、聖なるものであり、闇の無い光であり、永遠の平和であり、完全の充満であり、無垢で汚れなきすべてです!

したがって、この自分自身に関する御説明は、ベルナデッタの質問に対する聖母のお答えを誠実にこだましています。
「あなたはどなたですか?」
「私は、無原罪の御宿りです。」

さらにもう一つ、考慮すべき重要な詳細があります。
正しくは、天主のみが「私は有る(存在する)!」とおっしゃることができます。実際に天主のみが存在されるからです。もし、被造物が「私は有る(存在する)」と言うならば、それは「私は持っている」という意味です。誰も「私は命である、私だけが命を持つ」とか、「私が真実である」とか言うことはありえませんが、「私は真実を話す」ということはできます。「私は有る(存在する)」というのは、私が、自分の持っているものの本源であるという意味です。

従って、私たちの天主だけが、天主であるが故に、こうおっしゃる事ができます。「私は復活であり命である。アブラハムより前に、私は有る。」
では、聖母マリアがルルドで「私は無原罪の御宿りです」とおっしゃり、またファチマで「私は天国のものです」とおっしゃったのは、誇張だったり、はたまた不正確なものだったりするのではないでしょうか? もし聖母が創造されたご自身の存在のことを話されたとすれば、それは厳密には「無」に等しいものですから、その通りということになるでしょう。ですが、聖母がそのようにご自身を示されるのを天主が許されるという事は、つまり聖母の中に、本質的に神的ななにものかが本当にあるということです。

どういう事でしょうか?
聖母は聖寵に満ち、あらゆる罪から解き放たれたことにより、 「御父と御子の賜物」、すなわち天主から私たちの心の中に送られる聖霊を十分に、完全に受け取られました。聖霊は聖母の内に完全に住まわれ、奥深く入り込まれるので、聖母の内には「彼女自身」が何も残らず、すべて天主で満たされます。聖母のお考えも、お言葉も、行動も、その他あらゆる事が、聖母御自身のものというより聖霊のお考え、お言葉、行動なのです。従って、
聖母は「私は…です」とおっしゃる事ができるのです。

聖マキシミリアノ・コルベはこの称賛すべき神秘についてこう説明しています。
「彼女は言い表せないほど崇高な方法で聖霊と結びついています。何故なら彼女は聖霊の浄配だからです。この結びつきという言葉は、被造物について使われるどんな場合よりも比類なく、より完全な意味において聖母に当てはまります。これはどんな結びつきなのでしょうか? それはとりわけ内的なもので、聖母の存在自体と聖霊の存在との結合です。聖母の存在の最初の瞬間から聖霊が聖母の内に住み、聖母の内に生き、それは永遠に続きます。この聖母の内における聖霊の存在は何から成っているのでしょうか? 聖霊御自身は聖母の内の愛であり、御父と御子の愛であり、天主が御自身を愛される愛であり、至聖三位一体全体の愛であり、実りの多い愛であり、御宿りです。被造物中では、愛の結合がこれに最も似ています。聖書はこのことを確認します。『二人は一体になる。』(創世記2章24節)また、イエズスも再びおっしゃいます。『もう二人ではなく一体である。』(マテオ19章6節)聖霊は、比類なきほど、より厳密な、より内的な、より本質的な仕方でインマクラータの霊魂の内に、聖母の存在そのものの内に住んでおられ、聖母の存在の最初の瞬間からその御生涯を通じて、すなわち永遠に、聖母の実りを豊かなものとされるのです。」


3/唯一必要なこと、つまり永遠に続くこと
ファチマでの御出現の一番最初からの重要なテーマは何でしょうか?
天使の出現によって、天主の絶対的優越性、至聖三位一体の栄光、天主への改心、そして、天主に反抗する侮辱への償いが示されました。 聖母は、後に子供たちを天主の威厳と無限の愛の深みに沈める天主の光を伝達されることによって、この同じテーマを子供たちの心に植え付けられました。また、聖母がお話しになった最初のお言葉は、死後の現実のみ、とりわけまず天国と煉獄の現実に関わるものでした。三回目の御出現の際、聖母は印象的な方法で地獄の現実をお見せになりました。

また聖霊の霊感によって、ルチアは大事な質問をします。
「では、私、私は天国へ行くでしょうか?」
ほとんど誰もがこの世と自分の短いこの世での人生へ完全に向いている物質的で無神論的なこの時代において、これはいかに良い訓戒でしょうか。今日、信者であっても、たとえ熱心なカトリック信者であっても、この質問はどれほど人々の心の中に浮かぶでしょうか。ルチアのこの小さな質問は、全ての聖人たちの生活の要旨であるだけでなく、私たちの救霊の業の目的でもあります。つまり、私たちの生活の中のすべてのことは、UNUM NECESSARIUM(唯一必要なこと)、すなわち「私は天国へ行くでしょうか?」を中心に展開すべきであるということです。私は天国へ行くために今日何をしたでしょうか? おお、聖母マリアよ、あなたはこの質問にお答えになるためにいらっしゃいました。もしファチマの子供たちが聖母にお答えしたように、私が聖母の望みにお答えするならば、聖母は「はい」とおっしゃるでしょう。

「ではヤシンタは? フランシスコは? マリア・ダス・ネヴェスは? アメリアは?」
この二番目の質問は、私たちにとって、(自身の救霊の)次に何が本当に大切であるかを示しています。ここに、隣人愛という私たちの主の新しい律法の全てが含まれています。常に私たちの周りの世界の物質的幸福ばかりについて心配し、「隣人愛」を、 物質的なものやこの世の楽しみを隣人たちに与えることにほぼ限定してしまっている私たちにとって、これもまた、いかに良い訓戒でしょうか!

私たちは次の質問をもってこの世界を見ることを学ぶ必要があります。「自分の子供たち、友人たち、隣人たち、親戚、私の敵、同胞、教会の神秘体の他のメンバーについてはどうでしょうか? 彼らの人生の問題は何でしょうか? 彼らは天国へ行くでしょうか?」そしてまたその答えは聖母マリアの手の中にあります。人々が彼らの救霊のために必要な手段を使い、特に聖母が「多くのロザリオを祈る必要があります」とおっしゃったロザリオを祈るならば、再び聖母のお答えは「はい」でしょう。「はい、彼らは天国に行くでしょう。」

私たちは、私たちの天の御母のこの慰めの御約束から深い感銘を受けるべきです。この御約束は、聖母に従い、幼い3人の子供たちの足跡を辿ることを望む全ての人々になされたものです。 またルチアの友達、マリア・ダス・ネヴェスが既に天国にいるということを聖母がルチアに明かされたのも、注目すべきことです。通常このようなことは、列聖された聖人を除いては、ほとんど明らかにされることがないからです。聖母は、御自分が天国からいらっしゃった唯一の大きな目的は、この唯一必要なことを私たちに思い出させるため、また、私たちが天国に至るのを助けるためであることを、このようなやり方で確認してくださいます。

/煉獄
「アメリアは?」「彼女は世の終わりまで煉獄にいることになります!」
次に聖母の要理は、「天国へ行く」のはそんなに簡単なことではない、という重要な点に進みます。聖性への道は骨の折れる努力であり、英雄的な寛大さが必要です。「天国へ行く」こと、つまり、救霊、聖性、「天主御自身である光」の内におけるあふれんばかりの幸福は、確かに聖母の御出現の主要な目的です。しかし、人が暗闇(罪)に汚染されている限り、純粋の光である天主御自身と一体になる ことはできず、完全に「心の清い人」のみが「天主を見る」という事を知っておくのも重要です。

もし天主が憐れみによって煉獄(死後の清めの可能性)を創造なさらなかったならば、ほとんどの人は死の瞬間に完全に心の清い状態にはないので、ほとんど誰も天国へ行くことはできなかったことでしょう。しかしこの清めの場所は、とても大きな苦しみを通して霊魂を浄化する霊的な炎です。聖母はルチアの友人であるアメリアの例をとって、こう言って、その苦しみがいかに激しいものかをお示しになりました。「…世の終わりまで!」これを私たちの言葉に翻訳すると、「全ての起こり得る事柄が終わるまでの完全な苦しみ」となります。教父たちによると、煉獄にいる1分は、この世での100年の最も辛い苦しみに勝る苦しみだ、ということですから、「…世の終わりまで」という言葉が何を意味するのか、私たちも想像することができるでしょう。

この世の問題や苦しみに捕われ、この世での短い月日と周囲の人々の小さな群れに閉じ込められている私たちにとっては、これもいかに良い訓戒でしょうか。この世での生活は、小さな丘のようです。その丘の先には、広大な谷があり、そこではあらゆる燃え盛る炎が数え切れない霊魂で満ちているのです。 その中に私たちは自分たちの先祖たち、親戚たち、友人たちがいるのを見ます…そして、彼らは皆、天国と、そして、この小さな丘である地上へと目を向けています。人々が自分自身のことのみにかかずらわず、自分たちの犠牲で隣人たちをこの苦しみから救うための小さな愛さえ持っているならば、その隣人たちは大きな慰めを得るでしょうし、またしばしばその苦しみからの完全な救済を受ける事もできるのです。

聖母はその御出現のはじめから、この何十億もの霊魂に満たされている煉獄という巨大な世界について、私たちに思い起こさせようとされます。その第一の理由は、(彼らは全て聖母の最愛の子供たちですから)彼らを助けることを私たちに奨励するため、そして第二の理由は、私たちが「天国へ行くこと」を気にせずに生活するならば、地上でのしばしの時の後に私たち自身が行って長い長い時間を過ごすかもしれない場所がまさにここである、ということを私たちに思い起こさせるためです。煉獄について考えることは、私たちが馬鹿げた小さな世界から離れ、むしろ『もうひとつの世界』、すなわち本質的な真実の世界を私たちが見て、そのために真理の内に生きる助けになります。

/最後に
聖母は教会についての重要な訓戒をお与えになりました。聖母は戦闘の教会の子供たちと共にあるために地上に御出現になります。しかし、戦闘の教会の存在理由は、ただ「天国に」ある勝利の教会のための準備をすることだけです。この間にある苦しみの教会は、哀れな罪人たちに死後の永遠の至福の為の準備をする機会を与えるためにあるのです。そして、これら三つは一つの教会であり、彼らを結びつけるものは、天主の御憐れみと、天主の恩寵の道具である聖母マリアです。


4/天国への道、つまり祈りと犠牲
目的を定めた後、聖母は、そのために使うべき手段についてお話しになります。
-「私はこの世ではあなたの幸福を約束しません、来世でのみ約束します。」インマクラータは、聖ベルナデッタにルルドでそうおっしゃっていました。

同様にファチマでは、3人の子供たちに天国を約束された後、すぐ聖母は彼らに『苦しみ』を告げられます。これが、光に導く十字架の王道です。1916年、天使は既に子供たちに対して、絶え間なく天主に犠牲を捧げるように招いていました。「そして特に天主があなたたちに送る苦しみを受け入れ、従順を持って忍耐しなさい。」

今日、聖母は子供たちに、ずっと多くのことを行うようにおっしゃいます。「天主をお怒りさせる罪に対する償いの行為として、そして、罪人の改心を願うために、あなた自身を捧げて、また天主があなたにお送りになる全ての苦しみに耐える覚悟がありますか?」再び聖母は天主の栄光と霊魂の救いのための犠牲、十字架と苦しみがもつ計り知れない価値を強調なさいます。

きたるべき永遠のものを子供たちに示した後、聖母は、このことを他の人たちに伝えたり、司祭のところに言ってミサを挙げるように頼んだり、祈りの会を開いたり、その他使徒的な行動を取るように子供たちに指示されるだろう、と私たちは想像するかもしれません。

いいえ、そうではありません。第一の手段は祈りでさえなく、むしろ償いと罪人の改心のために自ら進んで捧げる苦しみなのです!
また最も重要なことは、これらの苦しみが超自然の実りをもたらすためには、それを進んで受け入れなければならないということです。その苦しみは、天主と隣人とに対する愛の行為であって、その意味で、最も大事な掟を完全に満たすことになるのです。そして、苦しみを進んで受け入れれば受け入れるほど、それはさらなる愛の行為となり、より多くの実りがもたらされるのです。

従って、聖母は子供たちに自由な同意をお求めになります。そして子供たちの同意を得た後、聖母はこう宣言なさいます。「それなら、あなたは非常に苦しまなければならないことになるでしょう。」

このことによって、聖母は、「世間話」や取るに足りない内容の話は決してされないことがわかります。聖母とのお話しは完全な約束を伴うものです。もし、あなたが「はい」と答えるなら、それは引き続いて起こる結果の全てを含んだ「はい」なのです。

/犠牲と苦しみの他にも、聖母はそれぞれの御出現でもう一つの手段についてもお話しになります。それは祈りです! 

まずなによりも第一に毎日のロザリオです。天使は既に子供たちに祈りの生活の準備をさせ、小さな射祷を唱えるよう求めていましたが、それに「天使の祈り」を付け加えることもできるでしょう。私たちは、ファチマでのそれぞれの御出現が、規則的な、そして深い霊的生活を私たちに教える方法でもあることがわかるでしょう。もしファチマの子供たちが祈りという手段を使ったのにならって私たちもその祈りを実践するならば、彼らの心にもたらされたのと同じ効果が私たちの心のうちにももたらされることでしょう。

/そのような祈りと犠牲の生活のうちで最も重要なことは、天主御自身から与えられた最高の手段です。
-「天主の聖寵が、あなたの慰めになるでしょう。」
天国へ至る道において、私たちは確かに不断の努力をする必要があります。しかし、私たちの聖性が私たちの努力に依存していると考えることは大きな誤りです。私たちの努力は確かに重要なものですが、それは私たちの心を正しい向きに向け、天主御自身が私たちの生活の中に介入され、私たちに天主の光と生命、すなわち私たちの霊魂を聖化する天主の恩寵をお与えいただけるような状態にする、という意義しかないのです。この真理の証拠は下記の通りです。


5/ 天主の御出現
『聖母は、最後に「天主の聖寵があなたの慰めになるでしょう」とお話しなさいつつ、初めて両手を広げられました。するとマリア様の両手から非常に強い光線が出て私たちに届き、その光線は私たちの心臓と最も奥深い所までも貫き、私たちはどんなにすばらしい鏡に自分自身を映すよりももっとはっきりと、その光そのものであった天主の中に自分たちの姿を見ることができました。』

これは神秘的、驚異的な御出現です。それは、霊魂たちを天主の光に導くため、はかり知れない恩寵によって聖母に与えられた普遍的な仲介権を、驚くべき方法で示しているからです。子供たちはこの驚異的な出来事を三度にわたって黙想しますが、これは、1830年、リュー・ド・バックでの不思議のメダイに関する『光線をまとった聖母』の御出現を思い起こさせます。

そして、ルチアは重要なことを述べます。
「私たちはひざまずきました。それは私たちに、天主に関するとても偉大な知識の霊感を受けましたが、それについて話すことは容易ではありません。」ファチマでの出来事の最も偉大な専門家たちによると、これらすべての御出現の中核はインマクラータを通しての3回の「天主の光」の伝達にあります。

ここでは全てのことが重要です。そして、
/まず、まさに聖母のそのしぐさです。聖母は「はじめて両手を広げられました。するとマリア様の両手から非常に強い光線が出て私たちに届き…」
私たちは、子供たちがしたようにひざまずき、幼子イエズスを抱き、その御生涯の間懸命に働かれた聖母の御手を見なければなりません。しかし、この聖母の御手は象徴をはるかに超えるものです。私たちは持っているものを他の人に伝えるために、手を必要とします。私が両手を開くということは、私の心を開くということ、私自身を開くということ、私の霊魂の最も奥深いところを開くということです。

聖母は『聖寵の充満』ですから、聖母がその両手を開くと聖寵の大海は聖母の側に立つ全ての霊魂の中に溢れます。ルチアは、その恩寵(その光)は聖母の両手から流れ出でたと強調しています。その意味は、天国の扉が聖母によって開かれるだけでなく、聖母御自身が天国の扉であるという事です。

/聖母は何をお与えになるでしょう? 「非常に強い光線…どんなにすばらしい鏡に自分自身を映すよりももっとはっきりと、その光そのものであった天主の中に自分たちの姿を見る…」この『光』が現実、唯一真実である現実です。残りは影と虚無だけです。ここで、子供たちは最高の神秘的な恩寵の一つである、『天主御自身の御出現』を受けました。

子供たちがその時、本当に何を見て、何を受け取ったかについては、私たちはその効果によってのみ定義することができます。最初の反応は射祷を祈ることでした。「おお、至聖なる三位一体よ、我、御身を崇め奉る!」 

この光の中に、彼らは 至聖三位一体の言い表すことのできない神秘である三つの位格において、唯一真の天主を見ました。「我が天主、我が天主よ、我は至聖なる御聖体の秘跡にまします御身を愛し奉る!」この光の中に、彼らは世界における天主の現存、御聖体における現存に至る救霊の神秘の概要を見たに違いありません。

フランシスコは後でこう言います。「私は天使と会うことが好きでした。それよりも聖母とお会いするのが好きでした。私が一番好きだったのは、聖母から放たれる、私たちの心臓を貫く光の中で主を見ることでした。私は天主をとても愛しています!」

/この御出現の効果で、子供たちは三人とも愛と自己放棄の充満に満たされました。
彼ら自身が話しているように、御出現の時だけでなく、死を迎えるまでこの世での生活の間中そうでした。三人の人生全ては 途切れることのない天主への愛の爆発、天主の現存の下での生活、天主の御意志と良い喜びを求めること以外のなにものでもなかったと言うことができるでしょう。

これらの御出現は非常に多くの恩寵をもたらしたので、天主がふつう御自分の親友たち(聖人たち)に長い時間をかけてお与えになる恩寵を、天主は数分の内に子供たちにお与えになったことになります。天主の光を経験して、彼らは天主以外に他の何も望みませんでした。そしてこの恩寵こそ、天主がファチマの神秘に近づく人々全てに与えることを望んでおられるものなのです!

/天主の悲しみ。この光の御出現の中でフランシスコは、特に一つの現実に感銘を受けました。
「天主は、数多くの罪のため、とても悲しまれていました! 私たちはもう二度とどんな罪も決して犯してはいけません。」

実際、彼はその短い生涯を特にこの神秘の黙想に捧げることになります。「私は数多くの罪のためにとても悲しまれる天主のことを考えています! 私が天主をお慰めすることができさえすれば!」ーちょうど、1916年に神秘的な御聖体を彼らに与えられた時の天使の望みに対する答えです。「天主をお慰めしなさい!」

/アロンソ神父様は、私たちがファチマのメッセージの外面的様相と内面的様相を区別する必要があると説明しています。外的な目に見えるものは、より護教的なものであって、それは世界にファチマの真実性を証明し、聖母マリアのお望みを実現するために働く信者を動かすものです。しかし、ファチマの本質的なメッセージ、「本質的な現実」は内的にのみ与えられています。それは、「神的な世界、天主と天主の御意志の具体的経験、聖母マリアによって世界にもたらされた天主の伝達そのもの」です。私たちは、聖母を通した3回の『天主の光の伝達』をすべて黙想した後、ファチマのこの本質的な面に戻ることにしましょう。

最初の御出現の概略
もし、あなたがこの1917年5月13日の出来事について度々黙想するならば、人間とその地上での生活こそが最も重要でしばしば唯一価値あることとしてそれに焦点をあわせるような現代の世俗的、宗教的雰囲気から、ファチマがどれほど離れているか、ますます理解されることでしょう。たとえ私たちが天主を信じているとしても、天主は重要な要因ではなく、ちょうど、安心のための機関のようなもので、私たちの実際の生活とは関係しない、遠く離れた存在としてしまっているのです。まるで天主が存在しないかのように人々が生活したり振舞ったりするので私たちは反キリストの時代にいる、と聖ピオ十世が宣言されたのですから、私たちは、天主が全てである、というファチマの最初のメッセージの重要性をよりよく理解することができます。天主は光であり、天主以外には闇しかありません。このようにファチマは、私たちを幻想から目覚めさせ、この世の支配者の嘘に反対させるのです。重要なことは永遠の事柄です。それは、天国か地獄か、永遠への道である祈り、犠牲、罪との戦い、霊魂の救い、そして、なによりも天主の光、すなわち天主の愛という信じがたい幸せなのです!

聖伝のM.I.(Militia Immaculatae 無原罪の聖母の騎士会)についてのまとめ
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イエズス様の聖心がどれほど私たちを愛しているか?その愛の極みの発明とは?

2016年09月20日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年9月2日(初金)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2016年9月2日 初金曜日 至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ
小野田神父説教

聖母の汚れ無き御心教会にようこそ。今日は2016年9月2日、9月の初金でイエズス様の聖心の随意ミサをしております。

今日のこのミサの直後に、いつもの通り初金の聖時間を致しましょう。特に私たちの聖心に対して犯される罪を償う為に、聖時間をお捧げ致しましょう。

明日はここで10時半のミサがあります。明日は初土曜ですけれども、聖ピオ十世の大祝日で、聖ピオ十世会にとっては第1級の祝日、守護の聖人でとても大切な祝日です。どうぞいらして下さい。

9月のミサはイレギュラーになっています。9月8日から、来週の木・金・土と続けてミサが2回ずつあります。ティシエ・ド・マルレ司教様がはるばる日本にいらして下さいまして、司教様は木曜日のマリア様のお誕生日の御降誕のミサからして下さいます。

ミサは2回ずつ、16時半からと18時から。また金曜日も16時半からと18時から。そして土曜日には8時45分頃から第1回目のミサ、それから10時から堅振式。堅振式では大体4名ぐらいの方々が堅振を受ける予定です。そして10時半頃から歌ミサがあります。それから歌ミサが終わった直後に、司教様からの「ルフェーブル大司教様についてのお話」を是非お伺いしたいと思っています。皆さんがたくさんいらっしゃる事をお待ちしております。


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は9月のイエズス様の聖心の初金ですから、イエズス様の聖心の愛について黙想致しましょう。

今日は、イエズス様の聖心がどれほど私たちを愛しているか、という事を黙想して、しかしこの聖心が愛されていない、天主様の愛が愛されていない、無視されている。そこで私たちは遷善の決心を立てる事に致しましょう。

特に今日はイエズス様の聖心が私たちをどれほど愛して下さっているか、そしてこの私たちを愛する為にどのような発明を、愛の発明をして下さったのか。その愛の深さについて黙想してみたいと思います。その愛の発明の極みは「御聖体」であり、「私たちにマリア様を下さった」という事です。そしてこのそれにもかかわらず、この愛の発明が全く無視されている、という現実を見て、私たちは遷善の決心を立てる事に致しましょう。

今日の聖パウロの書簡をご覧下さい。聖パウロは、長い書簡ですけれども、文章は実はラテン語では2つの文章しかないのです。聖パウロはもう言いたい事が山程あって、文法的にどこで終わったら良いかもう分からないほどでした。聖パウロは、「私たちがこの主の愛に根付いて、それに基礎付いて、そしてその広さと、その高さと、その深さと、その崇高さとを私たちが理解する事を望む。私たちがその主の愛のその素晴らしさを知る事ができるように」と、私たちがイエズス様の愛のその極みにまで入る事を訴えています。

聖ヨハネは今日の福音書の中で、イエズス様の聖心が貫かれるのを見た目撃証人です。その聖ヨハネは書簡の中でこう言います、「天主は愛である。私たちはその天主の愛を信じた。“Deus caritas est. Credidimus Caritati.”」(ヨハネの第一の手紙第4章16節)

このパウロの書簡と聖ヨハネの言葉を考えると私たちはどうしても、イエズス様の聖心の燃えるような私たちに対する愛を黙想せざるを得なくなります。

よく考えると人類の歴史というのは、創造の、天主が私たちの世界を創造されたその歴史というのは、愛の歴史であって、天主様が私たちに対する憐れみの歴史である、としか言う事ができません。私たちは天主様からのものすごい創造の業を受けました。太陽・月・星・動植物・大自然の、この美しい大自然の神秘、原子や分子や、或いはこの天のどこまで広がるか分からないような大宇宙の、美しい大宇宙。そればかりでありません。私たちを罪の無い状態に於いて創って下さり、天主の子供として創って下さり、「エデン」というのは楽園で、私たちが永遠に生きる事ができるように、幸せに生きる事ができるように、悲しみも、病気も、死も、怪我も無いように創って下さった。知恵も充満で、そして意志も強く、素晴らしく美しく創って下さった、原初の正義の状態に私たちを創って下さったという事を見ると、その天主様への愛の素晴らしさに何と感謝したらよいか分かりません。天使たち、何千何兆という天使たちを創って、その天使たちが人間に仕えるように命じられました。

そして更に、その天主の愛と憐れみが私たちに開かれるのは、私たちがそれほどの物凄いとてつもない幸せを受けておきながら、この地上で受けておいて、しかもそのこれの地上での幸せの後には、更にもっと無限の幸せが待っているだけだったのにもかかわらず、私たちはそのような天主に、「ノー!」と言って、その天主の計画を台無しにして、天主様の愛の計画を粉々に足蹴にして、天主を信じるよりは悪魔を信じて、そして私たちは天主からの天の遺産を、約束された遺産を受ける事ができなくなる身分になりました。それにもかかわらず、この私たちの背信と侮辱にもかかわらず、私たちを救おうと思われました。

なんと天主御子が、三位一体の第2のペルソナが、永遠に幸せな天主の御一人子が人間となって、私たちの為に人となって住もうと思ったのです。もちろん天主様は一言、「許してあげよう」と言えばそれで十分だったはずです。或いは単に、「お前たちを愛そう」と思えば、そのそうするだけで私たちの罪を赦す事もできたのですが、しかし天主はもっと、どれほど私たちの事を愛しているか、私たちにその天主の愛の極みを見せようと、目に見えない御自分の愛を見せようと、人となる事を望まれたのでした。

そればかりではありません。人となって私たちの為に御自分の天主の血潮を流して、苦しみと辱めのうちに、屈辱のうちに十字架の上に釘付けにされて、死を遂げる事を望みました。私たちを愛するが為に。私たちの罪を償うが為に。

そしてこの世の終わりまで御聖体の中に留まろうと思われました。聖マルガリタ・マリア・アラコックにイエズス様の聖心は現れた時に、御聖体の中で現れました。イエズス様の聖心は槍にて貫かされ、いけにえの状態で、犠牲をいけにえを捧げている状態でお現れになりました。そしてこれを御聖体の中で、御聖体といけにえが一致しているという事を見せようとしてお現れになりました。

そればかりではありません。このイエズス様はこの贖いの事業をもちろん御自分一人で、こう人となって贖いの事業をする事ができたはずです。しかし私たちへの、私たちを愛するがあまりに、私たちがもっとイエズス様、イエズス・キリストに簡単に近づく事ができるように、幼子として生まれる事をお望みになりました。そしてこの幼子を私たちが簡単に、イエズス様が簡単に手に取る事ができるように御母を、ある女性から生まれる事を御望みになりました。永遠の昔からの御計画によって、天主の御一人子は特別に選ばれた女性マリア様から、マリア様からのみお生まれになりたい、マリア様を通してお生まれになる事を、私たちに与えられる事をお望みなりました。これは私たちに対する愛の極み、愛の大傑作でした。

何故かというと、天主三位一体はアダムを創った時に、この「アダムが一人で、男が1人でいるのは良い事ではない。彼に似た助け手を私たちは創ろう」と言ったその影が、その前兆が、実現しなければならなかったからです。

第2のアダム、イエズス・キリストがこの世に来たる時には、「第2のアダムが一人で贖いの業をするのは良くない。彼にこれに似た助け手を与えよう。イエズス・キリストの聖心に似た助け手を与えよう。汚れ無き御心を与えよう」と思われたからでした。

聖ヨハネ・ユードの本を読んでいると、マリア様の、そのマリア様になされたその天主の偉大な業というのが分かります。

「天と地を創られた事は確かに偉大な業だ。無から有をこの創られたその天主の全能は偉大な事だ。でもアダムの孫娘の子孫であるマリア様を、その天主の御母として、そしてその御母から御自分が生まれるようになさったという事と比べたら、天地創造の大事業も全く何でもない」と言います。

「確かにイスラエルの時代にマンナで40年間、砂漠にさまようイスラエルの人たちは養われたけれども、天から降ったパンで養われたけれども、しかしマリア様を通して、天の天使たちのパンであるイエズス・キリストが人となって私たちに与えられた、という事に比べればその奇跡は何でもない。」

「イスラエルの人たちに約束の地が与えられたという事は素晴らしい事で、紅海を裸足で通って、この海が壁のようになった所を裸足で渡ったというものすごい奇跡があるけれども、でも大海のような天主が、小さなマリア様の、海の一滴のような水のようなマリア様の中に入ってしまった、という事から比べれば、海が2つに分かれたエジプト軍が全滅したなどは全く何でもない。」

「イエズス様がなさった、この目の見えない人が見えるようになって、聞こえない人が聞こえるようになって、死んでいた人が生き返った、という事もマリア様を通して天主が人となった、という事から比べれば何でもない。」

「モーゼが昔ナイル川で小さな、この葦の小さな舟でやって命が助けられたという大奇跡があったけれども、でもマリア様を通して天主が人となって、そして馬草桶に寝かされた、という事から比べれば何でもない。」

「モーゼは昔、燃える青々とした木が燃えているのを見たけれども、でも童貞が童貞女が天主の御母となった、という事から比べれば何でもない。」

「ヨシュエが太陽を止めた事、或いはエリヤが太陽を後ろに戻した事という奇跡があるけれどもそれも、正義の太陽であるイエズス様が、マリア様の御胎内の中で全く無のようになった、本当に小さい、小さな赤ちゃんに胎児になった、という事から比べれば何でもない。」

「全宇宙の神秘、そして旧約時代の全ての大奇跡なども、イエズス・キリスト様がイエズス様の聖心がマリア様になさった大奇跡、その業を見れば取るに足らない。マリア様にものすごい事を偉大な事をして、天主の御母とした、そしてそれをマリア様を助け手として贖いの事業をした、それは私たちのようなもう絶望に値するような、希望も無いような、或いはもうどうしようもない惨めな私たちに、特別の力のある母親が与えられる為である、憐れみの母が与えられる為である、私たちを助ける母親が与えられる為である、決して私たちを見捨てない母が与えられる為である。」

イエズス様の聖心はその愛のあまり、御自分の御母マリア様を私たちに、汚れ無き御心を私たちに与えようとされました。マリア様はイエズス様の聖心とそれほど一致して、それほど力強く、それほど素晴らしい方で、私たちに与えられましたけれども、それは私たちの心においてイエズス様の御国がやって来るように、イエズス様をますます知る事ができるように、イエズス様にますます信仰と礼拝が捧げられる為でした。私たちがますますイエズス・キリストのようになる為です。

しかし残念ながら、イエズス様のこの愛の広さと、深さと、崇高さその高さは知られていません。

100年前に天使が送られました、3人の子供たちに、ファチマに送られました。そして天使は御聖体を子供たちに見せて、「罪の為に傷付けられているこの御聖体を礼拝しなさい。主よ、私は御身を信じ、礼拝し、希望し、御身を愛します。私は御身を信じない人々、希望しない人々、礼拝しない人々、愛さない人々の代わりに罪の償いを捧げます」と礼拝して、天使たちが額ずいて礼拝していました、御聖体を礼拝していました。ファチマの100周年を迎える私たちの御聖堂にもマリア様は、天使たちを送って下さいました。私たちが目に見えるように二位の天使が来ましたけれども、でも本当は何千何万という天使たちが、御聖体の前で額を地に付けて礼拝しています。何故かというと礼拝する人がいないからです。イエズス様の愛が愛されていないからです。マリア様の愛が愛されていないからです。天使たちは模範を見せて子供たちを準備しました。マリア様が来られるのを準備されました。

マリア様はご自分の御心を見せて、イエズス様を愛するように、イエズス様へと導こう、と望んでいます。ですから今日この初金曜日に、イエズス様の聖心を心から礼拝致しましょう、心から讃美して、その愛の深さを理解する事ができるようにマリア様にお願い致しましょう。

今日の決心は、ますますマリア様を通して、マリア様の御恵みによって、イエズス様の聖心の愛の深さを知りそれを理解する、その御恵みを求める事です。そして御聖体に在すイエズス様を、ますます深く礼拝する事です、天使たちに倣う事です、マリア様に倣って礼拝する事です。この御恵みを今日はお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。
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「マリア様の汚れ無き御心はエデンの園である」ことの意味について

2016年09月19日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年8月22日(月)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2016年8月22日(月)聖母マリアの汚れ無き御心の大祝日のミサ
小野田神父説教

聖母の汚れ無き御心聖堂にようこそ、歓迎致します。

今日は2016年8月22日、聖母の汚れ無き御心の大祝日、日本の主要の第1の守護者の保護の祝日であり、私たちの聖堂の守護の聖人、マリア様の特別の日です。

日本の公教会の希望に従ってその指導に従って、ミサの後に司祭の退場の前に、「日本を聖母の汚れ無き御心に捧げる祈り」をマリア様の連祷と共に捧げます。

本来私の予定には、アジア管区長の命令にご希望に従って予定が組み込まれていて、そして残念ながらこの御聖堂ではミサができない予定だったのですけれども、しかしマリア様が、ご自分の御心に捧げられたこの御聖堂が今年出来て、私の記憶が正しければ、ファチマの聖母のご出現の祝日に出来た。どうしてもマリア様は、ご自分の御聖堂でこのミサを捧げるようにお望みになりました。

私はフィリピンに行く飛行機がキャンセルされて無くなりまして、明日東京でミサを捧げる祭壇も無く、路頭に迷っていたところでした。マリア様の計らいでとても良いインスピレーションを私たちに下さって、「御ミサが、ここで御ミサができる」という事を思いつかせて下さいました。

本当にマリア様がどれほど私たちを、この御聖堂を、愛していて気に入って下さっていて、そのここでのミサを非常に快く思って下さっているか、という事の証拠だと思っています。

全てがうまくいって、マリア様のお望みの通り、新幹線も1分の狂いもなく私をここに運んできて、飛行機会社の方も非常に親切に、問題なく関空から明日出る事ができるように、「汽車賃は出ませんけれども、でもどうぞ関空からお越し下さい」と言いました。本当にマリア様の御計らいで、マリア様の聖なる望みが、「ここで、今日、皆さんと一緒にミサをする事だ」という事が明らかに分かりました。その今日のミサの前にもロザリオも5連唱えて、そしてマリア様の、公教会をマリア様に捧げる事ができる聖務日課と晩課も歌う事ができて、本当に喜びに満ちています。

今日のこの御ミサは2回目のミサですので、特別に皆さんの意向の為に、一人ひとりの為に、そして日本の為に、この御聖堂の為に、特別に捧げられています、心を合わせて下さい。このお知らせが長くなりましたけれども、お説教も少しだけする事をお許し下さい。

「そして主は、自分の母に向かって言った、『女よ、汝の子を見よ。』
そして弟子に向かって、『汝の母を見よ。』」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、姉妹の皆さん、今日はマリア様の汚れ無き御心の大祝日です。マリア様の汚れ無き御心について、その最も専門家である聖ヨハネ・ユードは色々言っています。「マリア様の心は、それは青空大空、私たちの遥かに上にある天のようだ」ともいっています。

ヨハネ・ユードは或いは、「マリア様の心は薔薇に囲まれた白い百合のようだ。いくらこの世の薔薇があざみが生えていても、全く傷の無いすらりと咲く百合のようだ。」

或いは、「マリア様の心は太陽のようだ。」「マリア様の心は地球の中心のようだ。」「マリア様の心は大海原のようだ」などと言っています。

そのヨハネ・ユードは、「マリア様の心は実は、旧約聖書のエデンの園だ。エデンの園において、アダムが置かれたエデンの園は、実はマリア様の前兆であってその象りである」という話をしています。実はこれについて、グリニョン・ド・モンフォールも同じ事を言うのです。

そこで今日は皆さんに、このマリア様の汚れ無き御心の聖堂にいる私たち、この中に入った私たちは、マリア様のこの中に入って御心の中に入る事ができるように、では何故ヨハネ・ユードは、「マリア様の御心がエデンの園だ」と言ったのか、エデンの園とは何なのか?これを黙想しましょう。

第2に、ヨハネ・ユードではなく、今度はグリニョン・ド・モンフォールが、「マリア様はエデン園だ」と言ったのは、何故だったのか?

最後に、私たちはその今日それについて黙想の結果、遷善の決心を立てる事に致しましょう。マリア様の御心の中に入って、いつもマリア様の内にいる、という事はどういう事か。

では第1に、「マリア様の御心はエデンの園だ」と言った聖ヨハネ・ユードは、色々な理由からそうだ、と言うのです。

まず1つに、「名前がそうだ」と言います。何故かというと、名前は創世記の第2章には、「Locus voluptatis」とか「Paradisus voluptatis」という風に言われていて、『喜びの場所』『喜びの楽園』と名前が付けられたのです。「エデンの楽園」という名前はラテン語では、『喜びの場所』になっています。

それはどういう事かというと、「第1のアダムは、その場所に於いて喜びを見出した。そしてもしも天主の御旨に背かなければ、そのままずっとその喜びを味わい続ける。そして永遠の命まで繋がる喜びの場所だった。でもアダムは残念ながらそれを、天主の計画を壊してしまった。そこでその罪を償う為にも、またこのアダムとアダムの置かれたこの喜びの場所は楽園は、実は、来たるべき第2のアダムが、その内に於いて造られるべき本当の喜びの場所であった。何故かというと、マリア様こそがイエズス・キリストの喜びと愛の対象であって、天主聖父を除いてマリア様ほど、イエズス様はその愛した方がおられずに、イエズス様はマリア様こそを誉め讃えて尊敬して、そしてマリア様に於いて喜びを味わっていた」から。「そしてその中にアダムが、第2のアダム、イエズス・キリストが造られた」から。

第2に、ヨハネ・ユードが指摘しているのは、「マリア様がそうであるように、この第1の地上の楽園は閉じられた庭であった。マリア様も閉じられた庭であった。何故かというと罪を知らなかったから。罪と悪魔を知らずにいつも閉じられていたから。マリア様が知っていたのは、天主イエズス・キリストだけであったから。」

第3にヨハネ・ユードは、「第1の楽園には3つのものがあった。1つは命の木、命の実の成る木。第2は善と悪の知識の実の成る木。第3はその他色々の美しい木々があった。第1のアダムは天主の御旨に反して、善と悪の知識の実を食べてしまった。」「しかし第2の楽園であるエヴァは、エヴァの中にもその中に、命の木がある。それが十字架の木であって、イエズス・キリストの成る木であって、そして更に善と悪の知識の実の木もある。何故かというとマリア様は、天主のお望みの通り、天主が見る通り、天主が理解する通りに『罪とは何か』という事を知っていたので、罪を非常に、天主が憎むと同じように憎む事ができた。また善を天主の観点から、天主を愛する観点から見ていたので、全てに越えて善を愛していた。天主が理解すると同じような理解を、マリア様は善と悪に対して知っていたので、マリア様こそ本当の意味で善悪を知る事ができた。しかもマリア様は、天主の御旨に従ってこれを知っていた。だからマリア様には悪に対する絶対的な敵対があって、憎しみがあって、悪を絶対に受け入れなかった。」「マリア様という楽園にはそれだけでなく、イエズス・キリストの命の木と、天主に対する愛の、そして罪に対する憎しみのその知識のみならず、謙遜、貞潔、忍耐、憐れみ、正義、親切、その他全ての色々な善徳の木が美しく輝いていた。」

聖ヨハネ・ユードはその他色々な事を挙げて、「マリア様こそ実は第2のエデンの庭であって、イエズス・キリストがその中で造られるべき庭であった」と言います。


第2のポイントでは、ではグリニョン・ド・モンフォールは何と言ったのか?やはりグリニョン・ド・モンフォールも同じ事を言います、「マリア様は第2のエデンの楽園であって、イエズス・キリストがその中で喜びとする、閉じられた秘密の庭であって、これは選ばれた、聖霊によって選ばれた者たちだけが、特別のお恵みを受けた者たちだけがその中に入る事ができる。だからマリア様のその汚れ無き御心は、罪の無い汚れの全くの無い御心であって、マリア様の中に入る者は罪を犯さなくなる。だから、『私を飲む者はますます渇き、私を食べる者はますます食べたくなる。そして私を知る者は罪を犯さない』と知恵の書で今日言われている通りだ。地上の食べ物は、地上の楽しみは、地上のどのようなものも、食べ過ぎればもうお腹がいっぱいになって食べるのも嫌になるし、飲み物もどんなにおいしい飲み物も飲み過ぎればもうゲブゲブするし、どんなに楽しいお友達とのどんなに楽しい夕べもそれが終わってみると孤独だったり、夜遅くなって疲れて、そして本当の、本当の喜びというのは無かったりよくします。しかしマリア様を知る者は、マリア様と共にいる者は、『ますますマリア様の事を知りたい、マリア様を愛したい。マリア様を味わって、更に味わって、更に味わいたい』となり、そしてそのような人たちは罪を知る事が無くなる。」だから聖グリニョン・ド・モンフォールは私たちに、「マリア様を通して、マリア様と共に、マリア様において、マリア様の為に全てをする事」を教えています。

「マリア様を通してする」という事は、「マリア様の御旨は何なのか。マリア様のお望みは何なのか。マリア様のご計画は何なのか」という事を考える事です。「マリア様のなさりますように私もしたい。」

「マリア様と共に」というのは、「マリア様がなさるように、マリア様が行動されるように、マリア様が内的にどのように心持ちになったか、それを共に私たちも真似する」という事です。

「マリア様において」という事は、グリニョン・ド・モンフォールによれば、「その第2の楽園であるマリア様の中に入って、ますます罪を犯さなくなるという事だ」と言います。

そして「全てをマリア様の為にする」と言います。何故でしょうか?マリア様の中に入れば入るほど、全て私たちはイエズス・キリストのお望みのままに、御旨のままに、イエズス・キリストと共に、全てをイエズス・キリストの為にする事ができるからです。「イエズス・キリストの御国が来たらん事を。イエズス様の支配が、愛の支配が、私たちに染み通りますように。」それをマリア様が助けてくれるからです。

では今日は遷善の決心を、マリア様の御助けによってますますマリア様の中に、マリア様の汚れ無き御心の中に入る事に致しましょう。私たちはいつもこの御聖堂の中でミサをしていますから、マリア様の御心の、汚れ無い御心の中に入って、罪を知らない、イエズス様をのみ愛する事ができますように、私たちもマリア様の汚れ無き御心に全てを奉献する事に致しましょう。日本と私たちの兄弟姉妹たちを全て奉献する事に致しましょう。そして遂に、マリア様の御恵みによって特別のお恵みが、回心のお恵みが、イエズス・キリストをますます愛するお恵みを、イエズス様の御国が発展するお恵みが来ますように、私たちの心と日本に来ますように。遂に私たちはこの地上のマリア様の汚れ無き御心から、天国の御心の中に入って、永遠に永久にマリア様を讃美して、私たちの母、女王であるマリア様のお傍に永遠に、幸せに、過ごす事ができますようにお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。
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「誰も、2人の主人に仕える事はできない。」天主に仕えるとはどういうことか?

2016年09月18日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年8月21日(主日)に東京で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年8月21日  聖霊降臨後第14主日
小野田神父説教


日本の聖なる殉教者巡回教会にようこそ。今日は2016年8月21日、聖霊降臨後第14主日のミサをしています。

今日14時半からいつものように公教要理の復習があります。今日は堅振の準備の為に、「聖霊の7つの賜物」と、それから聖霊が私たちに導いて下さる「至福八端」、7つの賜物と至福八端の関係について一緒に復習致しましょう。16時からは主日の第2晩課があります。

明日は、聖母マリア様の汚れ無き御心の祝日です。1962年の典礼暦によると、日本の第一級の主要の祝日で、日本の第一の守護者聖母マリア様の汚れ無き御心です。明日7時からミサがあります。ミサに与れないとしてもどうぞ、明日マリア様の為にたくさんお祈りをなさって下さい。

9月は少しイレギュラーなスケジュールで、9月4日の主日と11日の主日の、第1・第2主日にここでミサがあります。第2主日はティシェ・ド・マルレ司教様が日本にいらっしゃる為に、シカゴから直接日本にいらっしゃるので、少し予定が変更されなければなりませんでした。

フルーガー神父様から連絡があって、11月1日に日本に来るという事です。そこでここでミサをする事になりました。11月1日の午後18時頃、これは諸聖人の大祝日です。それから聖ピオ十世会の創立の記念日でもあります。11月2日の死者の日にはここで朝6時ごろから、朝のミサをお願いしようと思っています。


“Nemo potest duobus dominis servire.”
「誰も、2人の主人に仕える事はできない。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日私たちの主は、「2人の主人に仕える事はできない。天主に仕えて、それと同時にマンモンにも仕える事ができない」と仰って下さいました。そこで今日この、この言葉を一緒に黙想する事を提案します。では主に仕えるという事は、主に仕える事とマンモンに仕える事とはどう違うのか、2つの主人というのはどう違うのか、どのような仕え方が違っているのか。それで主に対する天主に対する仕え方と、それからマンモンに対するにどうやって奉仕するのか、その2つの違いを見てから、第3に、この私たちをそれをできないようにさせている、この主の言葉を、イエズス様の御言葉を暗に否定させるような罠が仕掛けられていると思われる、それをちょっと分析する事を提案します。それで最後に、私たちが今日取るべき遷善の決心を致しましょう。

イエズス様が仰ったのは非常に明快です。「天主に仕える」という事はつまり、「私たちが創造の目的を達成する」という事です。私たちは天主から創られた被造物ですから、私たちが私たちの与えられた秩序や、法則や、デザインや、目的を完璧に達成するような構造を見ると、どうしても私たちは被造物だと言わなければなりません。天主様によって創られました、創造されました。天主に仕えるという事は、私たちがその創られた創造の目的を達成する事です。これはどういう事かというと、「天主の命を得る」という事、「永遠の命に到達する」という事です。イエズス様は言いました、「永遠の命とは、それは御身、唯一の天主なる御身と、御身が遣わし給うたイエズス・キリストを知る事であります。」イエズス・キリストを知り、イエズス・キリストの命を生きるという事です。これが天主に仕えるという事で、つまり私たちは、「イエズス様と一体、イエズス様のようになる」という事が天主に仕えるという事です。イエズス様を通っていくという事です。イエズス様は言いました、「私は道であり、命であり、真理である。私を通らずには御父の元には行けない」と。

でもそれだけではありませんでした。イエズス様は、「もしも私の弟子になりたいのならば、自分を捨てて、日々自分の十字架をとって私に従え」と言いました。つまりイエズス様は、ただイエズス様の事を知ってそれだけで、そのイエズス様のように生活するだけではなくて、私たちも日々の十字架を取って、自分の欠点と自分の悪い傾向に対して戦って、私ではなくイエズス・キリストが、私たちの心を支配するように、私たちを統治するように、私たちを導くようにしなければならない、と教えています。

イエズス様は言いました、「狭い門から入れ。何故ならば滅びに導く道は広くその門は大きい。しかしそれを見つける人はたくさんいる。でも命へと通じる道は狭く、その門は狭い。それを見つける人は本当に少ない」と。イエズス様はまた別の所でもこう言いました、「正義と邪悪との間に一体どんな関係があるだろうか。」聖パウロは言いました、「光と闇の間には一体どんな一致があるだろうか。キリストとベリアルの間にはどんな関係があるだろうか。」イエズス様は、「そうではなくて、ベリアル、悪魔や闇ではなくて、光の方に来い」と言います。

イエズス様は自分の後に続くように招いています、「疲れた者や、重荷を負う者は私の元に行きなさい。私はあなたを回復させよう。私の荷は軽く、私は心の柔和謙遜な者であるから、私から学べ。私はあなたたちの霊魂を休ませよう。私のくびきは優しく、私の荷は軽い」と言われました。

では、「マンモンに仕える」という事はどういう事でしょうか?マンモンというのは、イエズス様の時代の言葉で「お金」の事で、「お金に仕える」という事です。

つまり、「全てお金で買える、良心も何かも全て努力しなくても、お金があれば何でも解決できる、お金が一番だ、主の天主の掟ではなくて、お金が全てを決定するのだ。お金があればそれで良いのだ」という考えです。

そのような考えは私たちに、「あぁ、そんなに十字架とか苦しい事は避けて、簡単な楽な、面白おかしくやっていれば良いのだ。みんながやっているからその通りに、みんなのやるようにすればよい。普通そうはしないよ、みんなこうしてるよ。ファッションはこうだ、今スカートはこういう風に短くなければならない。」或いは「髪の毛はこうやってパーマをかけなければならない、髪の毛の色はこうだ。」或いは「今は皆こうしている。今、携帯はこうで、コンピューターゲームはこれで、このゲームをみんながやっている」と言うのです。

でもこのそのような人たちが本当に幸せかというと、実はこの世で一番幸せで、この世で一番楽しそうに見える、この世の全ての喜びと楽しみを受けるような人たちを見ても、実は、そのような人たちの心の中では、失望があったりとか、不満があったり、憎しみがあったり、嫉妬があったり、妬みがあったり、怒りがあったり、野心があったり、恐れがあったり、結局何らかのそういう世間体とか、「他の人が何と言うか」とか、「みんなと同じようにしなければならない」とか、「自分の良心はこれで良いのだろうか」という恐れと奴隷状態にあります。

イエズス様は私たちにこう言います、「私はお前たちに平和を与える。私の与える平和はこの世が与えるような平和ではない。」イエズス様の精神に従う者だけに与える平和があります。

今日のミサ聖祭にあるイエズス様の与える平和と、この世が与える楽しみ、この世が与える肉の仕業という事について、聖パウロが詳しく書いています。聖パウロによれば、「聖霊の実りは12個ある」と言います。皆さんご存知の通り、「愛徳」それから「喜び」「平和」「忍耐」それから「堅忍」「親切心」、そして「善良さ」「柔和」と「誠実」「慎み深さ」に「貞潔」そして「節制」。このこれらはイエズス様の聖霊によって私たちに与えられる喜びです。この世が決して与える事ができないものです。

私たちはイエズス様の教えの通り、この世の精神とイエズス様の精神の2つの間に対立がある事を見ますが、第3の点は、実はこのイエズス様の教えの敵が、今21世紀には出てきました。昔は確かに2つの陣営があって、2つが「戦っている」と思っていましたが、今は「そうではない」と言います、罠が仕掛けられています。罠は2つのレベルがあります。1つは私たちの住んでいるこの世界全体が、「そういうイエズス様の話はもう、もう時代遅れだ。敵などいない、戦わなくてもいいんだ。」というレベルです。もう一つは、「私たちが『イエズス様の方に従っている』と思いつつも、実はこの世の精神に影響されてしまっている」という罠です。

ちょっとだけ分析すると、この世では、「もう真理とか誤謬とか、そういうものはもう分からないんだ。誰が真理を持っているのか、誰が間違っているか分からないんだ」とか、或いは、イエズス様の教えた真理、或いは私たちが持っている本当の事という事に対して、あまり本当の事を知っても感動されなくて、「あぁ、それもそうだ。だけどもそれが何だ」という無関心があります。

或いは非常に感動の無い、全てがもう平凡で、全てが何の意味も無いような事に成り下がってしまっているような態度があります。

それと同時に、「罪」について、或いは「誘惑」について、それに対して少し前でしたら、「あぁ!そのようなものは罪だ!それは悪だ!」として、敏感に反応したのも、「あぁ、えぇわえぇわ、まぁそれも、それがどこが悪いんだ。みんながやっているから。」罪に対しても鈍感に、眠ったようにさせるそのような雰囲気が全世界に広がっています。

「世論はそうだから」「国民投票で皆がそう言っているから。」これがこの世の世界で、私たちの心にもじわじわと影響していて、「もう敵は無いんだ、悪と戦う必要は無いんだ。正義とか真理を、イエズス様の信仰を守る必要はそんなに無いんだ」と私たちを眠るようにさせています。良心をますます鈍感にさせてしまっています。それが第一の危険です。


第二の危険は、私たちがともすると、「イエズス様の方に付いている」と言いながら、「イエズス様の精神である」と思いながら、実は世俗の、或いはこのマンモンの精神によって非常に影響されていた、という事があり得ます。例えばご利益、「私はこのイエズス様の信仰を信じるけれども、それはご利益の為だ」「交通安全の為だ」とか「試験の成功の、合格の為だ」とか、「家内繁盛の為だ」とか結局は何て言うんでしょうか、この世のマンモンの為に、イエズス様が道具とされてしまっている。本当は私たちがイエズス様のしもべとして、イエズス様に従う奉仕するのが、その逆転してしまっている、それは「イエズス様に従う」と言いながら実は、それが口実の、傲慢な信仰心となってしまっています。

或いは、「イエズス様に従う」と言いながら、月が満ち欠けがあるように、今日は従うけれども、明日は従わないし、三日月の時にはちょっとお祈りするけども、満月の時にはテレビを見る、或いは何もしない、といつもコロコロ変わるような、全然従うのか従わないのか分からないような事もあったり、或いは、他の人が見ていれば一生懸命お祈りするような仕草をするけれども、そうでなければ何をしているか分からない、偽善的な態度を取っているかもしれません。或いは私たちは、「この信仰、カトリックの信仰を守るんだ!」と言いつつも、実は日々お祈りもせずに自分の義務も果たさずに、自分の犠牲も果たさずに、インターネットに身を任せて、「あぁ、教皇様はこんなに悪い!」とか「司教様はこんな事を言った、これはけしからん!」などという事に、私たちの義務でもないような事に時間をかけて、自分の本当の義務をおろそかにしている、批判だけの信仰とか、或いはそのような、心から主を愛するが為に仕えるというよりは、単なる自分を満足させる為の信心に、或いは信仰になっているかもしれません。

では私たちはこのイエズス様の招きに従って、狭い道から入る、このイエズス様の天主に仕える為には一体どうしたら良いでしょうか?

そこで今回、マリア様にお祈り、マリア様の方に向かう事を提案します。何故かというとマリア様は、この最初にこの世に罪が入ったその最初の瞬間に、アダムとエヴァのその時から予言された方であるからです。天主は蛇に言いました、「私はお前とこの女との間に敵対を置く。お前の子孫とこの女の子孫との間に敵対を置く。」つまりイエズス様に仕える者と、この世に仕える者との代表が置かれたのです。マリア様は、絶対に主にイエズス・キリストにだけ仕える方であって、いかなる妥協も無い方です。ですからこそマリア様は、罪の汚れを一切知らない、無原罪の御宿りでした。マリア様はその生涯の全ての瞬間を、天主三位一体の為だけに生きたお方でした。この世の精神と悪魔を踏みにじった、このヘビを踵で踏み砕いた方でした。このマリア様が私たちの母として、女王として、私たちの避難所として、与えられています。

ファチマのマリア様は仰いました、「天主は、私の汚れ無き御心に対する信心を世界で確立する事を望んでいます。もしもそうする人がいれば、その人たちに私は救いを約束します。そのような人たちは私によって、天主の祭壇に飾られた綺麗な花のようになるでしょう。私の汚れ無き御心は、いかなる危険に対しても避難所となるでしょう。天国に導く道となるでしょう」と言われました。

主に仕える、2つの主人に仕える事はできない、唯一の主に仕える為には私たちは一番簡単な一番完璧な手段があります。マリア様の汚れ無き御心です。そこで、特に日本はマリア様の汚れ無き御心に捧げられた国ですから、是非マリア様の汚れ無き御心に行く事に致しましょう。マリア様の信心を汚れ無き御心をますます愛するようになさって下さい。

ではどうしたら良いのでしょうか?これを提案してこの話を終わります。マリア様の汚れ無き御心の信心をするというのは、私たちがいつも、何をするにも、「マリア様のお望みのような事は何ですか?」「マリア様の御旨は何ですか?」「マリア様、私が今これをする事をお望みですか?」とマリア様と、マリア様を通して、マリア様によって、全てをするという事です。朝起きる時にも、ベルが鳴ったらすぐに起きる。何かお父様やお母様から「こうして下さい」と言われたら、マリア様のお望みの通りにする。或いは、もしか何か悪い危険誘惑の時が来たら、マリア様のお望みの通り、誘惑を避ける、或いはその避ける力を願い求める、マリア様と共に生活する、という事です。この汚れ無き御心に対する信心を実践する為にもどうぞ、フェレー司教様が今提案している、起動している、ロザリオの十字軍にもどうぞ寛大に参加なさって下さい。沢山というよりは、高い質の愛の込もった、マリア様に対する愛の込もったものとなりますように、皆さんからの寛大な参加をお待ちしています。

“Nemo potest duobus dominis servire”
「誰も、2人の主人に仕える事はできない。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。
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マルレ司教様来日)2016年9月8-12日の聖伝のミサの報告:聖ピオ十世会 SSPX JAPAN Latin Traditional Mass

2016年09月16日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

9月10日は大阪で4名の兄弟姉妹の方々(男性3名、女性1名)が、9月11日には東京で15名の方々(男性5名、女性10名)が、カトリック聖伝のやり方によって、ティシエ・ド・マルレ司教様から堅振の秘蹟を受けることが出来ました。天主様に感謝します。

堅振の儀式の時には、大阪では23名の方々が、東京では63名の方々が聖伝のミサに与ることが出来ました。東京で聖伝のミサに参加された方の新記録が作られました。大阪では、毎晩、終課を多くの方々と一緒に歌い、東京では主日に多くの方々と晩課を捧げることが出来て大変うれしく思いました。

聖伝のミサでは司祭は祭壇の方を向いています。新しい蜜蝋のローソクの良い香りと、祭壇に飾られた花々の芳しい香りと、堅振の聖香油の言葉に出来ない良い香りとで、五感によって、天主の聖徳の香りに魅惑されるような感じでした。

堅振の秘蹟によって霊的な刻印が霊魂に刻まれます。この刻印は、消すことのできず、地獄へ行っても消えません。従って、この刻印を受けていながらも審判によって地獄へ行くと決まってしまった場合、より大きな恥辱を受けることになります。堅振の刻印を受けて天国へ行くと、イエズス・キリストの軍人として、より名誉ある天の高い場所に上げられるということなので、もし地獄へ行った場合は反対のことが起きてしまいます。主よ、憐れみ給え!

さて、今回は、司教様の初めての来日ですから、京都の元和の殉教の地、鴨川のほとりや戻り橋を一緒に巡礼しました。東京では札の辻にも巡礼に行きました。

日本のキリシタン殉教史において「大殉教」は3つあるとされています。一つは、「京都における元和の大殉教」(1619年)、もう一つは、長崎における元和の大殉教(1622年)です。更に「江戸の大殉教」(1623年)です。殉教者の数は、京都の大殉教が52名、長崎が55名、江戸は50名でした。

京都における元和の大殉教は、1619年10月6日、鴨川の六条から七条の間で、将軍秀忠の命令によって、52人の信者が火炙りで殉教したことです。うち11人は子供でした。

長崎における元和の大殉教は、1622年9月10日、鈴田牢から引き出された25人と、長崎市内からの30人との55人の西坂での殉教でした。修道者は全員火焙り、その他は斬首刑を受けました。ただし修道者でしたがジョアン中国は、火あぶりの柱が一つ足らなかったので、斬首刑を受けました。元和の殉教は、レオン・パジェによると「殉教者の総数が多かった上に、彼等の素質も優秀であった」ので、大殉教と言われています。その中には、イエズス会の福者カルロ・スピノラ神父、同じくイエズス会のセバスチアノ木村神父、ドミニコ会のフランシスコ・モラレス神父、アルフォンゾ・デ・メナ神父、ヨゼフ・デ・ヒアチント神父、ヒアチント・オルファネ神父、アンジェロ・オルスチ神父などがいます。

江戸の大殉教は、札の辻で、1623年12月4日、イエズス会のデ・アンジェリス神父、フランシスコ会のガルベス神父、ジョアン原主水をはじめとする50人が火刑によって殉教しました。

ティシエ・ド・マルレ司教様の捧げられた聖母の御誕生のミサ、聖ピオ十世教皇の随意ミサ、9月10日の205福者のミサや堅振式に与ることができたことを天主様に感謝します。今回、司教様と一緒に、日本の三つの大殉教を記念した感じがします。

司教様の近くにいることが出来て、司教様の御忍耐や柔和、信心から多くのことを学びました。司教様が東京で月曜日の朝のミサの後で、私たちを祝福して下さり、最後に Ave Immaculata! とおっしゃってお別れの言葉とされたことが印象に残りました。

ティシエ・ド・マルレ司教様は、今回のロザリオの十字軍でたくさん祈るようにと励ました下さいました。愛する兄弟姉妹の皆様からのご報告をお待ちしております。

ところで、10月の予定ですが、大阪での10月14日と15日のミサだけが、司祭黙想会のためにキャンセルになってしまいました。どうぞ、ご了承ください。

11月1日と2日には、聖ピオ十世会の総長第一補佐であるフルーガー神父様が来日され、東京でミサを捧げて下さいます。11月1日は諸聖人の大祝日であり、同時に聖ピオ十世会がカトリック教会によって公式に創立認可された誕生日(満46年)でもあります。愛する兄弟姉妹の皆様をミサにご招待いたします。

それでは、いくつかのご報告をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【報告】【大阪】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

この度も大阪での大きなミッションを、ありがとうございました。
素晴らしい司教様をお迎え出来て、多くの信徒が感動し、マルレ司教様のファンになりました。
ご高齢の司教様、そして小野田神父様にはとてつもない大きな犠牲を伴ってのこの度のミッションであられると思いますが、
マリア様が神父様に特別の御恵みをお与え下さいますように!

本当に大きな御恵みをありがとうございました。
私達の受けた大きなお恵みを丸ごとマリア様にお捧げして、マリア様のお好きなように救霊のためにお使い頂きます!!


【報告】【大阪】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

ティシエ・ド・マルレ司教様ご来日のミサの報告をお送りいたします。
9月8日(木)童貞聖マリアの御誕生のミサには、15名が、
9月9日(金)聖ピオ十世の随意ミサには15名が、
9月10日(土)日本の二百五福者殉教者のミサには23名が御ミサにあずかるお恵みを頂きました。デオ・グラチアス!

各日とも小野田神父様の読誦ミサと、マルレ司教様の歌ミサがあり、ほとんど全ての方々が毎日二つの御ミサに与られていました。
10日には4名の方々の堅振式がありました。
バルサム油の香りの漂う小さなお聖堂の中で、荘厳に行われた堅振式に与り、すでに堅振を受けている私もキリストの兵士としての自覚を新たにする事が出来ました。

ティシエ・ド・マルレ司教様は、柔和で、穏やかで、謙虚で、威厳があって、素晴らしい司教様だと思いました。お忙しくで世界中を飛び回っておられる中、スケジュールの調整をして頂いて来日して下さり、心から感謝いたします。
司教様がお聖堂に入られるといつもより、ぐっと緊張感が増し、厳格な雰囲気がありました。
司教様のお説教では、その力強さと、説得力、有無を言わさない論理的なお話に引き込まれてしまいました。
聖ピオ十世教皇様のマリア様に関する回勅の中で宣言された、マリア様の無原罪の御宿り、十字架のもとでの共贖、すべての恵みの仲介者というマリア様の最大の栄誉を守るため、血を流す覚悟でマリア様のために働くことを決意しました。
また、マリア様を大変お愛ししておられる司教様に、いたく感動しました。

小野田神父様には、司教様の通訳を始め、ご来日の準備やそのた色々な雑務まで通常のミッションに加えてお忙しかったと思います。
この場をお借りして、小野田神父様にも御礼申し上げたいと思います。本当にありがとうございました。


【報告】【大阪】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

この度は、9月8・9・10日とティシエ・ド・マルレ司教様と御一緒にお越し下さりありがとうございました!!m(_ _)m本当に御恵みの3日間でした!!
9月8日のマリア様の御誕生の祝日に、小野田神父様の読誦ミサとマルレ司教様の歌ミサの2つのミサに与ることができ、また司教様と一緒に終課も唱えさせて頂く事ができ、とても嬉しかったです!
9月9日も聖ピオ十世教皇様の随意ミサを捧げて下さり、同じように2つの御ミサに与ることができ、また終課も御一緒に唱えさせて頂く事ができ、そしてその後、司教様と会食パーティーもさせて頂き、幸せな一時を過ごさせて頂きました☆司教様は召し上がれる物が限られていたと思うのですが、いつも素晴らしく準備して下さるヨゼフさんご一家には本当に感謝致しますm(_ _)m
8日には司教様は少しお疲れなのではと心配だったのですが、9日には休まれてお元気になられたようで良かったです!(o^^o)

そして10日には堅振式があり、新たに4名の方がキリストの兵士として誕生されました!デオ・グラチアス!
そしてこの日は日本二百五福殉教者の祝日ということで、日本の聖なる殉教者の方々もこの日堅振を受けた方々に、司教様が御説教で仰っていた「剛毅」の賜を特に取り次いで下さったような気が致します!
この日も同じように2つの御ミサに与ることができ、その後のマルレ司教様による、ルフェーブル大司教様と聖ピオ十世会についての御講話も、聖ピオ十世会創立時の初期神学生であるティシェ・ド・マルレ司教様だからこそ御存知のルフェーブル大司教様に関するお話もたくさんお聞きすることができて、とても貴重な時間を過ごさせて頂きました!デオ・グラチアス!

ティシェ・ド・マルレ司教様は本当に柔和な方で、御説教の一文一文を仰った後によくニッコリと微笑んで下さって、とても幸せな気持ちになりました(*^_^*)マリア様の御誕生日の祝日に仰って下さった御説教で、マリア様の特権、マリア様が無原罪の御宿りであること、マリア様が共贖者であること、マリア様が全ての恵みの仲介者である事、私たちはこのマリア様の特権を守る為なら血を流しましょう、マリア様の使徒となりましょう、という内容を仰った部分が心に残りました。

このような素晴らしい司教様を残して下さったルフェーブル大司教様、そのように導いて下さったイエズス様、マリア様、ヨゼフ様、そしてこの度日本にいらして下さったティシェ・ド・マルレ司教様、そしてそのように準備をして下さった小野田神父様に心から感謝致します!!

デオ・グラチアス!


【報告】【大阪】
+Ave Maria! Immaculata!

マルレ司教様とのミッションを本当にありがとうございました!
司教様の威厳とともに柔和なお姿に、大阪も東京もノックアウトされてしまいました。
堅振式で「Veni Creator Spiritus」を歌い終わって、祭壇前の司教椅子におかけになって、両手を膝のうえに揃えて、
周りの準備が整うのを少しだけお待ちになった時に、司教様はずっと微笑んでおられました。
あたかも、聖霊がキリストの新しい兵士たちを喜んで迎えようとされているかのように、天の喜びを司教様の微笑みに感じ取りました。
お説教や霊的講話でも、常に微笑んでおられ、聞いている信徒たちも、皆が微笑みながら、天的な喜びとともに拝聴しておりました。
信徒は皆、マルレ司教様の大ファンになってしまいました。司教様に対しては、少し失礼な表現かもしれませんが(^_^;)
マルレ司教様が来日してくださいましたことを、
天主様に感謝、インマクラータに感謝、聖ヨゼフに感謝、
小野田神父様に感謝申し上げます。
年中、過酷なミッションで世界を飛び回ってくださるマルレ司教様に心から感謝申し上げます。


【報告】【大阪】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

聖十字架称讃の祝日おめでとうございます!

ブログのトップ写真がこの間のティシエ・ド・マルレ司教様の御ミサの時の写真になっていますね!

秘跡の質料と形相は、イエズス様が決められた、教皇様でも変えることができないものであって、しかしそれが変えられしまっているのですね!

堅振の質料が祝別された「オリーブ油」である理由も、オリーブ油には「成人に達した霊的強さを持つために、聖霊の充満が与えられる」という意味が込められていて、オリーブの木が常緑であることが聖霊が私たちを回復させ、憐れみ深いはたらきをすることを意味すること、オリーブ油こそが、oleum(←これは油という意味ですね?) という名前で呼ばれているからだということが分かりました!ありがとうございます!(^O^)/

10月の司祭黙想会の為にお祈りさせて頂きます!マリア様はこの分の御恵みを必ず下さると思います!(*^O^*)/

私たちも聖ピオ十世教皇様が回勅で仰ったように、イエズス様の聖なる十字架の贖いの功徳を、贖いの伴侶として、それに相応しい功徳を受けたマリア様を通して、ファチマ100周年を準備する為のロザリオの十字軍で祈りと犠牲をお捧げすることができますように!そしてそれによって全世界がイエズス様に於いて復興されますように!

ティシエ・ド・マルレ司教様も、小野田神父様が9月3日の御説教で仰って下さった事と全く同じ事を、「イエズス様は完全な正義によって贖いの功徳を得たけれども、マリア様もその相応しさによってイエズス様と共に贖いの功徳を得た」という事を仰っておられます。

例え、今まで日本にいらっしゃった事がない司教様であっても、住んでいる所がヨーロッパやアメリカやアジアというかけ離れた所であっても、聖ピオ十世会の聖職者の方々は、本当に全く同じはっきりとした聖伝の教義、信仰、神学を保って教えて下さっているのだなと実感しました。少しでも多くの方々が、この聖ピオ十世会が保って下さっている聖伝の宝に導かれますように!

マリア様が御悲しみによってイエズス様と共に得て下さった贖いの功徳を、マリア様の使徒として、祈りと犠牲によってお捧げし、多くの霊魂を救うことができますように!

デオ・グラチアス!


【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。東京のミサの参列者はこれまでで一番多かったのではないでしょうか?

ミサの参列者数
男: 24人(内、子供3人)
女: 39人(内、子供6人)
計: 63人(内、子供9人)

ティシエ司教の講話の参加者数
男: 10人(内、子供0人)
女: 18人(内、子供1人)
計: 28人(内、子供1人)

晩課の参加者数
男: 3人(内、子供0人)
女: 14人(内、子供0人)
計: 17人(内、子供0人)



【報告】【東京】
アヴェマリア インマクラータ!

トマス小野田神父様

昨日は堅振の秘蹟に与らせていただき、ありがとうございました。司教様、小野田神父様に感謝いたします。
私の霊魂が、小躍りしているのを感じます。
これからは、家族の受洗を聖母マリア様のお力をお借りして、1日も早く、実現させたいと思います。
お祈りお願いいたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

デオ グラシアス!


【報告】【東京】
+ Ave Maria Immaculata!

この度は条件付き堅振の秘蹟をベルナール・ティシェ・ドゥ・マルレ司教様より受けるお恵みをいただき、主と聖母の特別な御憐れみと御計らいを感じ、心より感謝しています。
改めてキリストの兵士とならせていただいたことにはとても大きな意味があると思いました。無原罪の聖母の騎士として、私たちはマリア様とともにサタンの誤謬や惑わしと戦っています。この大切な時に力を結集するために聖霊によって力づけられたと考えることもできるのではないでしょうか。一層天主様の光栄と救霊のために働くことができます。

ようやく2度目のグレゴリオ聖歌の練習に参加してみて、大変有益でした。細かい注意点を教えていただけますし、皆さんと一緒に何度も部分的にも全体的にも練習することはもっとよい上達への道であると思いました。 

ティシェ司教様もトマス小野田神父様も犠牲をなさってしまうことが多いと思います。しかしお体には気をつけていただきたいです。


【報告】【東京】
十アヴェ・マリア・インマクラータ!

小野田神父様
おかげさまで堅振の秘蹟を受けることができました。ありがとうございました。
私は5~6年前からきちんと勉強して正式の堅振というものを受けたいという願いを持つようになりましたが、その堅振を聖ピオ十世会で受けることになるとは思ったこともありませんでした。ベルナール・ティシエ・ド・マルレ司教さまは 慈しみ深い微笑みで優雅な佇まいの聖なる聖職者でした。このような素晴らしい司教様から 堅振の秘蹟を受けることができたことをとてもうれしく思います。 挫けながらも、堅振のための公教要理にもなんとか少し出席できました。準備が不足していること、祈りが不十分だったこと、何かずっと攻撃を受けているようで落ち着かなく苦しかったということがあり、不安定な状態の私だったにもかかわらず、堅振の秘蹟を授けてくださったことを天主様に感謝します。

15人ものたくさんの信者さんとこの堅振の恵みをいただくことができたことをマリア様に感謝いたします。小野田神父様、お祈りいただきましてありがとうございます。

ティシエ・ド・マルレ司教様の講話は司教様がルフェーブル大司教さまと出会う時からのお話で、胸にすっと入ってくるものでした。わかりやすいお話で いまの教皇様と聖ピオ十世会との関係も率直に話してくださいました。「無原罪のマリア様に信頼して私たちが従うべき道を示してくださるように、天主様のみ旨が何かをはっきり示してくださるようにお祈りしましょう」との言葉で講話を終えられまして、ロザリオ十字軍を祈る意味をよく理解できたように思います。

私が洗礼を受けた時は、ノブスオルドのミサ 対面式で跪くことのない日本語による典礼で 聖体拝領は手で受けるものでした。このようなミサしか与ったことのない私が、小野田神父様の捧げる聖伝のミサに与り、堅振の秘蹟を受けることになるとは不思議なことに思います。この昔から伝わる本物のカトリック信仰を持つ司祭の捧げられるミサに与るところまでたどり着くのは とても大変な長い道程でしたが、マリア様の御助けがありました。

小野田神父様は私に堅振の証明書を手渡してくださったときに、「これでキリストの兵士になったね」とおっしゃられました。堅振の秘蹟は自分のためではなく、キリストの兵士となるためにいただくものと教えられましたが、そして堅振式の直前には天主様にもその決意を申し上げたのですが、いざ堅振を受けて神父様にそのように言って頂いた時 「エエッ―!!」 とおもわず思う私でした。
今日、御悲しみの聖母の記念日に霊的読書の中で マリア様に呼びかけられました。

「イエズスは御父からお受けした使命を遂行するにあたり、使徒とその相続者に協力を要求なさいました。私も、これと同じように、私に委託された使命を遂行するために、協力者と兵士を求めているのです。・・・あなたは、わたしの使徒的役割を理解しました。それなら、私の兵士になってくれますか。私を助けて、私の子どもたちを、サタンの手から奪いとり、彼らをイエズスのみもとに、連れもどしてくれますか。私に約束されている勝利を、分かち合おうと思いませんか。」
マリア様は その本「わが理想 マリアのおん子イエス」の中で このようにお話しくださいました。
かかとで敵を踏みつけるマリア様に信頼して祈り、小さな犠牲を捧げることが 兵士に命じられた者の仕事と思います。堅振の秘蹟をありがとうございました。


【報告】【東京】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

+聖十字架称賛の祝日、おめでとうございます!!

日本でのミッション、本当にありがとうございました。
はるばるアメリカから、私たちのためにおいで下さったティシエ・ド・マルレ司教様に心から感謝いたします。

御ミサと堅振式の感想をお送りいたします。

堅振式の訓話では、ディオクレティアヌス帝の治世、ローマの殉教者である聖セバスチアノの話をしていたただきました。聖セバスチアのは皇帝の近衛兵で、妻子もありました。当時のローマは皇帝を神のように崇拝していましたが、しかし、セバスチアノはイエズス・キリストを信じ皇帝の前で公にカトリック教徒であることを宣言し、ついに殺されることになりました。セバスチアノは木に括り付けられ、兵士達に一斉に矢を浴びせられました。見物人も兵士達も皇帝もセバスチアノは死んだと思いそこから立ち去りました。その後、敬虔な女性がそこを通りかかります、するとセバスチアノには息があったのです、女性はセバスチアノを家に連れ帰り看病しました。セバスチアノは奇跡的に1週間で全快しました。
全快したセバスチアノはどうしたでしょうか、彼は妻子を連れて逃げることもできました。しかし、セバスチアノはそうはせず、再びカトリック信仰を宣言するために皇帝の前に立ったのでした。そこで皇帝は、今度はセバスチアノを鞭打ちの刑にするように命じ、そしてセバスチアノはイエズス様と同じように身体に鞭を受け聖なる死を遂げました。
司教様は、ここに特に剛毅の徳があるとお話しになり、私たちも困難な時代を生きているがカトリック信仰を宣言する勇気を持つように、と教えてくださいました。特に日本には過去の困難な時代にあってカトリック信仰を守り、宣言し、そして殉教していった多くの先人たち、日本の尊き殉教者がいらっしゃることを思い起こさせてくださり、私たちもそれに恥じない子孫であるようにと諭してくださいました。

司教様のお話は感動的なものでした。世間を少し眺めるだけでも私たちはいかに救霊を達成することが難しく、また、信仰を守るにあって本当に難しい時代を生きねばならないのかを痛感します。その中にありながら、私たちには信仰において偉大な祖先をもっているということを理解させてくださったからです。またこの堅振の日にあたり、その祖先たちが、聖霊の浄配であるマリア様へどれほど深い信仰と希望と愛とをもっていらっしゃったかを考えたからです。堅振の秘蹟が授けられたことを感謝すると共に、秘蹟で七つの賜物を与えて下さる聖霊の浄配であり、天主様の恵みの分配者であり、御子イエズス様のお母様である天の元后、準備を万全に整えた天の軍隊の指揮官であるマリア様の存在の大きさと尊さを感じました。

私たちがますますキリストの兵士として、イエズス様とマリア様の御旨を果たしてゆくことができますよう
聖母マリア様の汚れなき御心に依り頼み、日本の尊き殉教者の取次を願いお祈りしなければと改めて強く感じました。

フィリピンの各ミッションでの堅振式も無事に滞りなく進みますよう、お祈りしております。
次の御ミサは10月というのが辛いのですが、これも犠牲としてお捧げいたします!
デオグラチアス!

+In Mary Immaclata!
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