Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え! 聖ヨゼフの特別聖年(2020年12月8日〜2021年12月8日)

日本におけるカトリック聖伝の聖週間のミサと典礼の予定をお知らせいたします

2021年03月29日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様

聖週間のミサと典礼の予定をお知らせいたします。

***大阪***

3月26日(金)聖母の七つの御悲しみ(聖ピオ十世会では1級) ミサ 18:00
3月27日(土)受難節の平日(3級)紫 ミサ 10:30
3月28日(主)御受難の第二主日:枝の主日(1級)紫 ミサ 10:30

4月01日(木)聖木曜日(1級)ミサは白 ミサ 18:00
【朝課はありません】

4月02日(金)聖金曜日(1級)典礼行為は黒 典礼 18:00
【朝課:午前9:00、十字架の道行き:17:00】

4月03日(土)聖土曜日(1級)復活の徹夜祭 18:30
【朝課:午前9:00】

4月04日(主)復活祭(1級及び1級の八日間付き)白 10:30

***東京***

(会場が変則的になっていますのでご留意ください。)

3月28日(主)【曙町会館】御受難の第二主日:枝の主日(1級)紫 ミサ 9:00, 11:30

3月29日(聖月曜日)【修道院】ミサ 7:15

3月30日(聖火曜日)【修道院】ミサ 7:15

3月31日(聖水曜日)【修道院】ミサ 7:15

4月01日(木)【入谷ホール!】聖木曜日(1級)ミサは白 ミサ 18:00
【朝課:修道院で行うように変更しました。修道院にて午前9:00からです。朝ミサはありません。夕方の入谷ホールでのミサのみです。】

4月02日(金)【入谷ホール!】聖金曜日(1級)典礼行為は黒 典礼 18:00
【朝課:修道院で行うように変更しました。修道院にて午前9:00からです。朝ミサはありません。夕方の入谷ホールでの典礼のみです。】

4月03日(土)【入谷ホール!】聖土曜日(1級)復活の徹夜祭 18:30
【朝課:修道院で行うように変更しました。修道院にて午前9:00からです。朝ミサはありません。夕方の入谷ホールでの典礼とミサのみです。】

4月04日(主)【入谷ホール!】復活祭(1級及び1級の八日間付き)白 9:00, 11:00, 12:30

*** OSAKA ***

Mar 26, The Seven Sorrows of the Blessed Virgin Mary (I class for the SSPX) White, Mass 18:00
Mar 27, Feria in Passiontide (III class) Violet, Mass 10:30
Mar 28 Palm Sunday (Second Sunday of the Passion) (I class) violet
April 01, The Lord's Supper (Maundy Thursday) (I class) Violet, Mass 18:00
April 02, The Passion and Death of Our Lord, (Good Friday) (I class) Black in Liturgical Action, Violet in Communion, Stations of the Cross 17:00, Liturgy 18:00
April 3, Holy Saturday (I class) Violet in Off. And White in Paschal Vigil, 18:30
April 4, The Sunday of the Resurrection of Our Lord Jesus Christ (I class with octave of I class) White, Mass 10:30

*** TOKYO ***

Mar 28 Palm Sunday (Second Sunday of the Passion) (I class) violet
April 01, The Lord's Supper (Maundy Thursday) (I class) Violet, 18:00
April 02, The Passion and Death of Our Lord, (Good Friday) (I class) Black in Liturgical Action, Violet in Communion, 18:00
April 3, Holy Saturday (I class) Violet in Off. And White in Paschal Vigil, 18:30
April 4, The Sunday of the Resurrection of Our Lord Jesus Christ (I class with octave of I class) White 9:00, 11:00, 12:30

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2021年3月28日(主日)前後の聖伝のミサの予定:Traditional Latin Mass for March 28, 2021

2021年03月28日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します。

最新情報は次のカレンダーをクリック
年間の予定はSSPX JAPAN MISSION CALENDARをご覧下さい。

今週末:2021年3月26日(金)27日(土)28日(主日)のミサの予定を再確定します。予定通りです。

【大阪】「聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂」 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 EG新御堂4階 〒532-0002 (アクセス)JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分(地図

 3月26日(金)  17:30 ロザリオ及び告解  18:00 ミサ聖祭

 3月27日(土) 10:00 ロザリオ及び告解  10:30 ミサ聖祭

 3月28日(日) 10:00 ロザリオ及び告解  10:30 ミサ聖祭(小野田神父)【ミサの開始が午前に変更になっています。ご注意ください。月曜日のミサはありません。】

【東京】 「聖ピオ十世会 聖なる日本の殉教者巡回聖堂」 東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図

3月21日(日)主日ミサは二回捧げられます

午前8時20分頃から準備が出来次第、告解の秘蹟を受けることができます。二階です。

09:00 ミサ聖祭 歌ミサ(ライブ中継をいたします)Facebook live

11:30 ミサ聖祭 読誦ミサ

長い典礼のために、ミサは2回になっています。ご注意ください。

それぞれのミサの間にも告解の秘蹟を受けることができます。二階の告解の部屋に司祭は待機しております。

【お互いに社会的距離を取ることができるように、分散してミサにあずかっていただければ幸いです。】

Ave Maria Immaculata!

My dearest Brethren!

I want to reconfirm the Mass schedule for the weekend of March 28, 2021.

Mass times in Tokyo: March 28
09:00 - Sung mass Facebook live
11:30 - Low mass

It would help us maintain proper social distancing if you could consider spreading your mass attendance among the three masses.

Mass location:
"Holy Japanese Martyrs' Mass Center"
Akebonocho Jido-kaikan
1-12-5 Honkomagome, Bunkyo-ku, Tokyo


Mass schedule in OSAKA:

Fri, March 26: Holy Sacrifice of the Mass at 18:00

Sat, March 27: Holy Sacrifice of the Mass at 10:30

Sun, March 28: Holy Sacrifice of the Mass at 10:30











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枝の主日|イエズスの友人の中で悲しみを感じていないのは私だけなのでしょうか?

2021年03月27日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2021年3月28日は枝の主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「枝の主日の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父

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聖ヨゼフへの信心を実行し、人にも信心を勧めると、たくさんの恵みや聖徳が与えられる|イエズス会の修練院長ルイス・ラルマン神父様|The devotion to St Joseph

2021年03月24日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2021年3月21日、御受難の第一主日に東京で録画した、小野田神父のメッセージをご紹介いたします。

チャンネル登録をなさいますと、新しくアップされた動画の通知が届くので便利です。チャンネル登録は、ここ「SSPX JAPAN 聖ピオ十世会日本」をご覧ください。

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私たちの主イエズスの犠牲のかたどりとしての旧約の犠牲についての短い説教

2021年03月22日 | お説教・霊的講話
私たちの主イエズスの犠牲のかたどりとしての旧約の犠牲についての短い説教
2021年3月21日 御受難の第一主日(大阪のミサのなかで)
 
ドモルネ神父様
 
はじめに
 
聖パウロは、今日のミサの書簡の中で、旧約のモーゼの律法の下でユダヤ人たちが捧げた動物の犠牲と、私たちの主イエズスの犠牲とを比較します。今日は、旧約のユダヤ人たちの様々な犠牲が、いかに私たちの主イエズスの犠牲を告知するものであったか、についてご説明したいと思います。
 
1.一般的な犠牲
 
一般的に言えば、モーゼの律法の犠牲には、血を流すものと、血を流さないものがありました。血を流す犠牲とは、動物の犠牲でした。血を流さない犠牲とは、小麦粉、油、ぶどう酒などの食べ物の犠牲でした。同様に、私たちの主イエズスの十字架上の犠牲が血を流す犠牲だったのは、イエズスが十字架上で肉体的に血を流して、亡くなられたからでした。また、ミサの中でパンとぶどう酒の外観の下に、肉体的に血を流すことなく更新されますから、それは血を流さない犠牲でもあります。
 
では、旧約の各種の犠牲それぞれについて簡単に考察し、イエズスの犠牲との関係を見てみましょう。
 
2.燔祭の犠牲
 
燔祭の犠牲(ホロコースト)とは、汚れのない雄の動物の犠牲でした。その動物は天主に捧げられた後、殺されます。その血は完全に流し尽くされ、その動物は完全に焼き尽くされました。このような犠牲は、天主がこの世と人間を絶対的に支配しておられることを認めるためでした。これは礼拝の犠牲だったのです。
 
私たちの主イエズスは人間でいらっしゃいました。肉体的には欠陥が全くなかったため、肉体的に汚れのないお方でした。イエズスの霊魂には罪による汚れが全くなかったため、霊的にも汚れのないお方でした。イエズスは、天主がこの世を絶対的に支配しておられることを公に宣言するために、十字架の死に至るまで、ご自身を完全に天主に捧げ尽くされました。私たちの主イエズスは、その心臓(聖心)が槍で貫かれたとき、最後の一滴に至るまで、すべての血を流し尽くされました。私たちの主イエズスは完全に焼き尽くされました。つまり、あらゆる種類の、最も強いお苦しみを受けられたのです。イエズスご自身も、十字架上で亡くなられる直前に、「すべてはなしとげられた」(ヨハネ19章30節)とおっしゃって、ご自分の犠牲が、礼拝の燔祭の完全な犠牲であることをお示しになりました。
 
3.罪の赦しのための犠牲
 
別の旧約の犠牲は、罪の赦しのための犠牲でした。民は自分の罪を動物に負わせるように、その動物に手を置いたのです。その後、その動物は殺されました。その血はいろいろな所に振りかけられました。その肉は都市の外で焼かれました。このような犠牲は、民の罪の償いを意味するものでした。
 
同様に、大司祭カヤファが最高法院に、「あなたたちには、なに一つわかっていない。一人の人が人民のために死ぬことによって、全国民が滅びないほうが、あなたたちにとってためになることだとは考えないのか」(ヨハネ11章49節)と言ったときには、イエズスは、実際に人類の罪を担っておられたのです。そして、ユダヤ人たちが「その血は、われわれとわれわれの子孫との上に[かかれ]](マテオ27章25節)と叫んだとき、イエズスの御血は、実際に人類の上に振りかけられたのです。イエズスは、エルサレムの都市の外にあるカルワリオ山で十字架につけられ、亡くなられました。十字架上の犠牲によって、私たちの主イエズスは、人類のすべての罪をまことに贖われたのです。
 
4.和解の犠牲
 
さらに別の旧約の犠牲は、和解の犠牲でした。食べ物が天主に捧げられ、その後、それを人々が食べました。このような食事は、民の天主との友情を意味するものでした。
 
私たちの主イエズスは、十字架上の犠牲によって、私たちを天主と和解させてくださいました。天国に行く可能性を、イエズスが私たちに与えてくださいました。ミサの犠牲によって、イエズスはご自身の御体と御血を、私たちが食べるよう与えてくださいました。聖体拝領の主要な効果は、私たちと天主との友情を深めることなのです。
 
結論
 
今日から御受難節が始まりました。私たちの主イエズスの完全な犠牲に、私たちも加わりましょう。自分自身と自分の持つもの全てを完全に天主にお捧げすることによって、主の燔祭の犠牲に加わりましょう。自分の生活を改めるという固い決心をもって、良い告解をすることで、私たちの主イエズスの、罪の償いのための犠牲に加わりましょう。天主の栄光と天主との友情を心から願ってご聖体を受けることで、私たちの主イエズスの和解の犠牲に加わりましょう。
 
イエズスの犠牲と一致することによって、私たちは救われ、天国に行くのです。



 
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2021年受難の主日、カトリック聖伝のミサの報告 Traditional Latin Mass in Tokyo and Osaka SSPX Japan

2021年03月21日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日は東京も大阪も悪天候で、しかも東京ではミサ会場が変則的でいつもの場所ではありませんでした。それにもかかわらず、東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計89人でした。大阪のミサに来られた方は、21人でした。日本では総計110人でした。イエズス様、マリア様、ヨゼフ様に感謝いたします。

東京ではミサの後で、聖ヨゼフに対する奉献を行いました。

【報告】【東京】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today.

The total number of attendees at the 3 masses in Tokyo today was 89, including children.

09:00 mass
M: 18 (incl. 2 children)
F: 19 (incl. 2 children)
Total: 37 (incl. 4 children)

11:00 mass
M: 13 (incl. 2 children)
F: 13 (incl. 4 children)
Total: 26 (incl. 6 children)

12:30 mass
M: 13 (incl. 4 child)
F: 18 (incl. 5 child)
Total: 31 (incl. 9 children)

Total of 3 masses (excl. 5 people who participated in multiple masses)
M: 41 (incl. 8 children)
F: 48 (incl. 11 children)
Total: 89 (incl. 19 children)









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私が真理を知らせているのに、なぜ信じようとしないのか|the sacrifices of the OT and of the Cross|les sacrifices de la Croix

2021年03月21日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2021年3月21日は御受難の第一主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「御受難の第一主日の説教」の動画をご紹介いたします。

ドモルネ神父様と小野田神父による、英語、フランス語、日本語のお説教です。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父

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2021年3月21日(主日)前後の聖伝のミサの予定:Traditional Latin Mass for March 21, 2021

2021年03月21日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します。

最新情報は次のカレンダーをクリック
年間の予定はSSPX JAPAN MISSION CALENDARをご覧下さい。

今週末:2021年3月19日(金)20日(土)21日(主日)のミサの予定を再確定します。予定通りです。

【大阪】「聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂」 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 EG新御堂4階 〒532-0002 (アクセス)JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分(地図

 3月19日(金)  17:30 十字架の道行き及び告解  18:00 ミサ聖祭

 3月20日(土) 10:00 ロザリオ及び告解  10:30 ミサ聖祭

 3月21日(日) 10:00 ロザリオ及び告解  10:30 ミサ聖祭

【東京】 東京では3月21日(日)のみ会場を変更してミサを捧げる予定です。この主日だけで後は通常に戻ります。ご注意下さい。

住所: 東京都台東区入谷1-27-4 
会場の名前:プラーズ入谷 『入谷ホール』  Special Mass Location-0412.pdf - Google ドライブ

3月21日(日)主日ミサが三回捧げられます。

午前8時20分頃から準備が出来次第、告解の秘蹟を受けることができます。

09:00 ミサ聖祭 歌ミサ(ライブ中継をいたします)Facebook live

11:00 ミサ聖祭 読誦ミサ
12:30 ミサ聖祭 読誦ミサ

それぞれのミサの間にも告解の秘蹟を受けることができます。司祭は待機しております。

【お互いに社会的距離を取ることができるように、分散してミサにあずかっていただければ幸いです。】

Ave Maria Immaculata!

My dearest Brethren!

I want to reconfirm the Mass schedule for the weekend of March 21, 2021.

Mass times in Tokyo:
09:00 - Sung mass Facebook live
11:00 - Low mass
12:30 - Low mass
It would help us maintain proper social distancing if you could consider spreading your mass attendance among the three masses.
Mass location:
Address: Plars Iriya 3F, 1-27-4, Iriya, Taito-ku, Tokyo (near Metro Iriya, JR Uguisudani and JR Ueno stations)
Map and directions: Please see the pdf file.

Mass schedule in OSAKA:

Fri, March 19: Holy Sacrifice of the Mass at 18:00

Sat, March 20: Holy Sacrifice of the Mass at 10:30

Sun, March 21: Holy Sacrifice of the Mass at 18:00




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聖ヨゼフは、真っ二つに壊れた飛行機でもだれも死者を出さないように奇跡を起こした。

2021年03月19日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

1992年3月30日、午後8時20分、スペインのマドリードからグラナダに向かう飛行機がグラナダ空港で着陸する時、前後真っ二つになって破壊してしまいました。乗客は94人、乗務員は5人でした。





当時の風雨により飛行機の着陸の動きが狂わされ、飛行機は濡れた滑走路を滑って翼のところで前後真っ二つに壊れてしまいました。しかし乗客が「奇跡的」だと思ったのは、ほとんどの乗客はけがをせず(26人が負傷したが死者は無かった)、飛行機も火が付かなかったことでした。







この時のパイロットは、ハイメ・マサラサ(Jaime Mazarrasa)で、その兄弟ゴンサロ・マサラサ神父(Fr. Gonzalo Mazarrasa)は、当時ローマで学ぶ神学生でした。このスペイン人司祭は、聖ヨゼフに対する30日間の祈りをちょうど終えたばかりでした。マサラサ神父は、この事故で奇跡的に死者がいなかったことは、聖ヨゼフの力のおかげだと確信している、と言っています。

「この世に来るために、天主は一人の女性(聖母)が必要でした。しかし聖母と御子の世話をするために一人の男性も必要でした。天主は、ダヴィドの家系の子孫であるヨゼフ、聖母の浄配を選びました。…聖ヨゼフは、私たちの家庭に聖母とイエズスを受け入れることを教えています。それは聖ヨゼフがしたように私たちも聖母とイエズスのために奉仕して生きるためです」とこの司祭は説明しています。




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Priest attributes to St Joseph miracle of plane that broke in half with no one killed

Fr. Gonzalo Mazarrasa, a Spanish priest, credits Saint Joseph for the ...

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26 personas heridas al partirse en dos un avión de Aviaco durante el aterrizaje en Granada

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Ideal

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聖ヨゼフの祝日の晩課で歌う有名な Te Joseph という賛歌をご紹介いたします

2021年03月19日 | グレゴリオ聖歌

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖ヨゼフの祝日の晩課で歌う有名な Te Joseph という賛歌をご紹介いたします。

TE, Ioseph, celebrent agmina caelitum,

1ヨゼフよ、天の軍隊は御身を祝わんことを、
キリスト教世界の全ての聖歌隊は御身に歌わんことを、
御身は、輝くような功徳により、純潔な絆によりて栄えある童貞女と結ばれたり。
 
2妻の驚くべき名誉と母となった疑いが心配する御身に触れるとき、
天の炎の息吹を受けて天使が子供の懐妊を教える。
 
3御身は生まれた主を抱きしめ、
エジプトの外縁に逃亡する、
御身はエルサレムでの迷子を捜し見つけ出し、
涙に喜びを交える。
 
4敬虔なる死は選ばれた者たちを休みに聖別し、
栄光によって隠退の勝利のシュロを受ける。
御身は行き、上位の天使らと等しく、天主を享受し
驚くべき身分により、更に至福たり。
 
5至上の三位一体よ、我ら祈る者たちを憐れみ給え、
ヨゼフの功徳によりで、天国に上がる恵みを与え給え、
そは、我らをしてついに御身に永遠に感謝の歌を捧げるがためなり。
アメン。
 

TE, Ioseph, celebrent agmina caelitum,
te cuncti resonent Christiadum chori,
qui, clarus meritis, iunctus es inclitae,
casto foedere Virgini.

Almo cum tumidam germine coniugem
admirans dubio tangeris anxius,
afflatu superi Flaminis, Angelus
conceptum puerum docet.

Tu natum Dominum stringis, ad exteras
Aegypti profugum tu sequeris plagas;
amissum Solymis quaeris et invenis,
miscens gaudia fletibus.

Electos reliquos mors pia consecrat1
palmamque emeritos gloria suscipit;
tu vivens, Superis par, frueris Deo,
mira sorte beatior.

Nobis, summa Trias, parce precantibus;
da Ioseph meritis sidera scandere,
ut tandem liceat nos tibi perpetim
gratum promere canticum.
Amen.

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聖母の浄配、普遍教会の守護者、聖ヨゼフの祝日、おめでとうございます。

2021年03月19日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖ヨゼフの祝日おめでとうございます。

今日は暁の星の聖母の修道院では7名が、大阪の聖母の汚れなき御心聖堂では21名が聖伝のミサに与りました。

あさって、3月21日は、東京では、ミサ会場が入谷ホールになっております。お間違えのないようにおねがいいたします。

聖ヨゼフ、我らのために祈り給え!

トマス小野田神父






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明日、2021年3月19日(金)には、聖ピオ十世会日本、暁の星の聖母修道院で朝7時15分から聖伝のミサが行われます。

2021年03月18日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

明日、2021年3月19日(金)には、聖ピオ十世会日本、暁の星の聖母修道院で朝7時15分から聖伝のミサが行われます。どなたでもミサに与ることができます。

ミサの直後に、聖ピオ十世会日本とその常駐司祭、その信徒、その日本と韓国などのミッションを聖ヨゼフの保護と名誉のもとに奉献し、同時に十年前に行ったの聖ピオ十世会アジア管区の奉献を更新いたします。

大阪では夕方の6時から聖ヨゼフの歌ミサが行われ、その直後に聖ヨゼフに対する奉献が行われます。

良き聖ヨゼフの祝日をお過ごしください。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



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イエズス様は、王として受けるべき戴冠式が数日後に迫っていた

2021年03月18日 | お説教・霊的講話
2021年3月14日(主日)四旬節第4主日のミサ

聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父説教(大阪)

お知らせがあります。

このミサは、皆さんの意向の為に捧げられております。私が全く自主的に、自発的に、聖ヨゼフ様の大祝日3月19日の前のノベナとして、3月10日から18日まで、皆さんの為に、日本のカトリック教会の為にこれを御捧げしております。

また3月19日にはもう一度、聖ヨゼフの祝日に、皆さんの為に、皆さんの意向で、ミサを御捧げします。どうぞ心を合わせてお祈り下さい。

聖ヨゼフが、皆さん一人一人と、そして皆さんの家庭と家族の方々と、皆さんの愛する方々を全て祝福して守って下さいますように、その意向で御捧げ致します。このミサも、そうです。

それから3月19日には、ここ大阪のお御堂でミサが夕方あります。聖ヨゼフの大祝日で、金曜日ですけれども、全世界のカトリック教会では守るべき祝日となっています。日本ではそうではないのですけれども、しかし全教会ではそうなっています。

そこでその日には、大小斎を免除するという事を思っています。ドモルネ神父様がミサを捧げて下さいます。

そのミサの後に、聖ヨゼフに対する奉献を更新致します。10年前にしたアジア管区の奉献を更新するという事で、アジア管区長から通達が来ました。

フィリピンは今年、福音が伝えられて500年を祝っています。1521年3月16日、マジェランがフィリピンにやって来ました。フィリピンの司教様たちは全部一致して、フィリピンを聖ヨゼフに、今年の5月1日に奉献すると言ってます。そして「3月30日から33日間準備をした後に、心を一致して捧げる」と言っています。このフィリピンの司教様と一致して、日本の司教様たちも、日本を捧げて下さるようにお祈り下さい。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日の福音での最後では、パンの奇跡を行なった後に、人々はイエズス様を王として持ち上げようと思ってやって来ました。イエズス様に「王となって下さい」とお願いしに来ました。

するとイエズス様はそれを見て、一人で山の中に逃げて行きました。イエズス様は、王として受けるべき戴冠式が、数日後に迫っていたからです。

その戴冠式においては、イエズス様は逃げも隠れもしませんでした。それを、愛する兄弟姉妹の皆さんと、私を愛する為に、それを受けようとします。

その戴冠式の時には、その日には、イエズス様は私たちを大きな恵みで祝福しようと思っていました。イエズス様の戴冠式には、王としての宣言を受ける日には、地獄の帝国が転覆して、私たちを罪の奴隷状態から解放して、私たちの罪の負債を全て帳消しにして取り消して、そして私たちと共に、御自分の永遠の王国で支配し、喜びを分かち合おうと思っていたからです。

ですから、この人々がイエズス様を王とした時には、イエズス様は逃げるばかりしかありませんでした。

この戴冠式はいつかというと、「聖金曜日」でした。
人々が、イエズス様がユダヤの王だと知って、ピラトは聞きます、「お前は王なのか?」

「お前の言う通りである。私は、その為にこの世に生まれてきた。真理を聞く者は、私の声を聞く。」

そしてイエズス様が受けた冠は、茨の冠でした。赤いルビーや、色々な宝石、貴重な宝石よりももっと尊い、茨の冠でした。ローマ兵士が、嘲弄と嘲りの為に、イエズス様に押し付けました。イエズス様の尊い御頭からは、天主の御血がタラタラと流れ出ました。どれほど痛かった事でしょうか。どれほどこの屈辱は、イエズス様の胸に辛かった事でしょうか。

イエズス様の鞭打たれた体は、ボロボロの体には、紫の王の衣として、汚い服が汚れた服が着せられました。

イエズス様の手には、王の笏が与えられました、それは葦の笏でした。嘲りの王笏でした。

そして、「ユダヤの王、挨拶します」と、ローマ兵士たちはイエズス様の前に跪いて、嘲弄し、嘲り、愚弄しました。イエズス様はその時、何も仰らずに、これを耐え忍ばれました。

イエズス様の王笏は、天主の王権です。全世界を支配して、全宇宙を支配して、天使たちを支配して、何一つイエズス様の支配を逃れるものがない、その王権です。

この王権は永遠に続きます。この地上のいかなる王も、皇帝も、帝王も、どんな黄金の笏を持っていようが、鉄の笏を持っていようが、軍隊を持っていようが、それはいつかは滅び、忘れ去られるものですが、イエズス様の王国は、永遠に滅びません。

イエズス様は、天主としてではなく人間として、人となった御言葉として、この王位に就きます。贖い主、救い主の王位に。

そしてこの戴冠式、この着衣式、王の座に就いたその時には、何を考えておられたのでしょうか?

イエズス様は、「天主聖父の栄光」と、「愛する兄弟姉妹の皆さんの事を愛する事」だけを考えていました。「霊魂を救いたい。地獄の支配から奪いたい。私と一緒に私の王国を与えたい。」それだけを、愛と、柔和と、そして善意に満ちて、これを黙って耐え忍びました。

天主として、彼らを足蹴にするのはどれほど簡単だった事でしょうか。しかし、イエズス様が思っていたのは、天主聖父の正義を満足させる事、私たちの罪の償いをする事、ひたすらに愛する事だけでした。

この戴冠式、茨の冠、そしてイエズス様が受けた全ての嘲りと屈辱、これを見ると、「私たちは何と愛に満ちた王を、素晴らしい私たちの英雄的な王を持っているのか」と、希望と、感謝と、愛で満たされます。

そして、「私たちは今まで、どれほど弱々しく、臆病で、冷たく、イエズス様から遠く離れていたのか」と、それを悔いるばかりです。

この王は、「もしも私と共に、永遠の王国に、王座に就きたいのならば、さぁ、私に付いて来るが良い」と招いています。「私のくびきは軽く、それは誰でも担ぐ事ができる。私の後に付いて来ようと思うなら、自分の十字架を取って、私に従え。」

イエズス様が先頭を切って、私たちの為に先を進んで下さいます。私たちもその御跡を慕いましょう。イエズス様に感謝と、讃美と、愛を御捧げ致しましょう。そして私たちが、今までの冷たい、冷淡だった生活の償いをする遷善の決心を立てましょう。

イエズス様が黙って、額から血を流されて、戴冠式を受けている時に、私たちの心には、イエズス様の声が聞こえます。もう、いつものイエズス様とは変わり果てた姿ですけれども、殴られて、傷付けられて、しかしイエズス様の愛の声だけは聞こえてきます。私たちに何をお求めなのでしょうか?

イエズス様を愛する事ができるように求めましょう。聖母マリア様とそして聖ヨゼフに、私たちがイエズス様の声をよく聞きますように、イエズス様を愛する事ができますように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。





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教皇フランシスコの教皇職に関する聖ピオ十世会総長とのインタビュー:私たちはこの世に屈することなく、キリストにおいてすべてを総括しなければなりません

2021年03月17日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

私たちはこの世に屈することなく、キリストにおいてすべてを総括しなければなりません

Non pas capituler devant ce monde, mais tout récapituler dans le Christ
We must not capitulate before this world, but recapitulate all things in Christ

2021年3月12日 FSSPX.NEWSサイト

教皇フランシスコの教皇職に関する聖ピオ十世会総長とのインタビュー

【DICI】神父様、教皇フランシスコが聖ペトロの座に就いてから8年がたちました。この8周年の機会に、このようなインタビューをさせていただき、本当にありがとうございます。

教皇フランシスコの教皇職を見守ってきた一部の人々、特に聖伝に愛着のある人々にとっては、思想の戦いはもう終わったように見えます。彼らによれば、今や支配的になっているのは実践(praxis)、つまり広範囲にわたる実用主義(pragmatism)に突き動かされた具体的な行動です。このことについて、あなたのご意見をお聞かせください。

【パリャラーニ神父】行動と思想をこのように対立させるべきかどうか、私にはよく分かりません。教皇フランシスコは確かに非常に実用主義的です。しかし、統治する人物である彼は、自分がどこへ行こうとしているのかをよく知っています。大規模な行動というものは、常に理論的な原則や一連の思想に突き動かされており、またしばしば、すべての実践に関係しうるしそして関係しなければならない中心的な思想に支配されているのです。

教皇フランシスコの実用主義(プラグマティズム)という原則を理解しようとするすべての試みには、試行錯誤がつきものだということを認識しなければなりません。例えば、彼の行動原理を、アルゼンチン的に変化した解放の神学で、ずいぶんと穏健になった「人民の神学」(teologia del pueblo)に見いだしたと考える人々がいます。しかし、実際には、教皇フランシスコはこの神学体系を超えており、さらにはこれまで知られたどの神学体系をも超えていると思えます。彼の行動に方向づけを与える思想は、伝統的な神学的基準に限定して考えていては、満足のいく形で分析や解釈をすることはできないと私は思います。彼はこれまで知られたどの神学体系をも超えているだけでなく、あらゆるものを超えているのです!

【DICI】それはどういう意味でしょうか?

【パリャラーニ神父】例えば、教皇ヨハネ・パウロ二世の場合、その教皇在位中に関してあった非難すべきすべての点にもかかわらず、カトリックの教理のうちいくつかの点には手を付けずにいました。そのあと、教皇ベネディクト十六世の場合には、私たちは、教会の根幹に関わる精神を扱っていました。彼は、聖伝と公会議の教え、あるいは聖伝と公会議後の教えを調和さようとして、円を四角にする【不可能なことをする】努力をしました。それは失敗に終わったものの、それにもかかわらず聖伝への忠実さへの関心を示しました。しかし、教皇フランシスコの場合、そのような関心はもはやありません。私たちがその下で生きている今の教皇職は、カトリック教会にとって歴史的な転換点であり、まだ残されていた砦(とりで)は、人間的に言えば、今や永遠に解体されてしまいました。また同時に、教会は自らに革命を起こして、霊魂とこの世に対するその使命を再定義したのです。

この大変動の全容を把握するにはまだ早すぎますが、私たちはすでに分析を試みることができます。

罪とあわれみ

【DICI】まだ存在していた砦が解体されたということですね。どの砦のことをおっしゃっているのですか?

【パリャラーニ神父】私が考えているのは、特に、キリスト教社会だけでなく、自然社会が成立するための最終的な道徳的基盤のことです。この解体は遅かれ早かれそうなるはずだったのであり、時間の問題だったのです。これまで教会は、時に曖昧ではあるものの、例えばカトリックの結婚に関する道徳的要求を堅持してきましたし、あらゆる性的倒錯をこれまで明確に非難してきました…。しかし、これらの要求は不幸にも、目的から逸脱した教義神学に基づいていたため、不安定になっていました。このような要求も、いつかは挫折するのは必然でした。揺るぎない行動原理は、その原理を作った方である天主という考えが弱められたり、歪められたりすると、長くは耐えられないのです。このような道徳的な原則は、しばらくの間、あるいは数十年の間は生き残ることができたことでしょうが、その骨格部分を奪われてしまったために、いつかは「時代遅れ」と分類され、事実上否定されることになってしまったのです。これは、教皇フランシスコの下で、特に2016年3月19日の使徒的勧告「アモーリス・レティチア」(Amoris laetitia)によって私たちが目撃していることです。この文書は重大な誤謬を含んでいるだけでなく、全く新しい歴史主義的アプローチを表明しています。


【DICI】その新しいアプローチとは何でしょうか? 彼の選択を決定づけたのは何でしょうか?

【パリャラーニ神父】教皇フランシスコは、現代社会や今日の教会、さらには歴史全体についてまで、非常に明確な全体像を持っています。彼は、ある種の超現実主義、つまり「司牧的な」超現実主義のようなものに影響されているように私には思えます。彼によれば、教会は事実を直視しなければなりません。つまり、教会が今までのように道徳的な教理を説き続けることは不可能だということです。したがって、教会は、現代人の要求に屈する(capitulate)こと、その結果、母としての役割を考え直すことを決意しなければなりません。

もちろん、教会は常に母でなければなりません。しかし教皇によれば、教会の生き方を伝え、子どもたちを教育することによって母になるのではなく、子どもたちに耳を傾け、理解し、同伴する方法を知っている限りにおいて、母になるのです。これらの関心事項は、それ自体において悪しきものではありませんが、ここでは新しくかつ非常に特別な意味において理解すべきものです。カトリック教会はもはや自分自身を押し付けることはできず、したがって、もはや押し付けるべきではありません。教会は受動的でありかつ適応しなければなりません。教会の使命そのもの、さらにはその存在意義(raison d’être)さえをも条件づけ、決定するのは、今日生活しているがままの教会生活なのです。例えば、教会は、以前と同じ聖体拝領の条件を押し付けることがもはやできなくなっています。なぜなら、現代人がその条件を耐え難い不寛容なものと見なしているからです。この論理に従うと、唯一の現実的で真にキリスト教的な対応は、この状況に適応し、その必要条件を再定義することになります。このようにして、成り行きによって、道徳律は変化するのです。永遠の法は、今や進化の対象となっています。歴史的な状況と、偽りのかつ誤解された愛徳の命令とが、道徳の進化を必要なものとするのです。

【DICI】あなたのご意見では、教皇はこの進展に不安を感じているのでしょうか? それを正当化する必要があると感じているのでしょうか?

【パリャラーニ神父】教皇は間違いなく、このような過程が教会内でどのような反応を引き起こすかを最初から認識していたに違いありません。また、二千年以上にわたって、しっかりと本当に閉ざされていた扉を開いているのだという事実も意識していたでしょう。しかし、彼にとっては、歴史的な要求が他のすべての考慮事項を上回っていたのです。

この観点においてこそ、「あわれみ」の思想がその十全の価値と範囲を獲得します。この「あわれみ」の思想は、彼のスピーチに遍在しています。それは、悔い改めた罪びとを両手を広げて迎え入れ、再生させて恩寵のいのちを戻してやるという、愛の天主による対応ではもはやありません。それは今では、人類の緊急の必要性に合わせるために必要となった、霊魂の死に至るあわれみです。これ以後、自然法さえも守ることができないと考えられた人間には、天主から来る恩赦のようなものである、このあわれみを受ける完全な権利があるとするものです。これによれば天主は、もはや歴史を支配し給うことないばかりか、歴史に御自身を合わせて適応し給う、とされます。

このようにして、信仰や超自然的な秩序だけでなく、誠実で高潔な生活に欠かせない道徳的な原則も放棄されたのです。これは、道徳のキリスト教化を決定的に放棄することを意味します。ですから、恐ろしいことです。それどころか、今やカトリック教徒はこの世の道徳律を採用しなければならなくなってしまいます。あるいは少なくとも、ケースバイケースで、現在一般化している道徳の法(これには離婚して「再婚した」カップルや同性カップルを含みます)を自分のものとしなければならなくなります。

ですから、このあわれみは一種の万能薬となります。もはや回心・改宗できない世紀に、また掟のくびきを課せられないキリスト教徒に提示される新しい福音化の基礎となるのです。このようにして、危機にさらされている霊魂は、信仰において励まされ、強められのではなく、罪深い状況において安心させられ、慰められるのです。このようにすることで、信仰の守護者(訳者注:教皇のこと)は自然の秩序を廃止さえするのです。このことが意味するのは完全に何も残っていないということです。

これらの誤謬の根底にあるものは、超越性や垂直性が全くないことです。超自然的なもの、この世の後のいのち、そして何よりも、すべての人に彼らの救いのために必要な手段を決定的に提供した、私たちの主による贖いのみわざについて、暗黙のうちであっても、もはや言及することはありません。これらの手段の永続的な有効性は、もはや説かれることなく、認識もされません。彼らは、もはやそれを信じていないのです! その結果、すべてが純粋に水平的で歴史主義的なビジョンに矮小化され、そこでは原理よりも偶発事象が優位に立ち、そこでは地上の幸福だけが重要なのです。

【DICI】あなたがおっしゃったこの転換点は、今でも第二バチカン公会議と一致したものなのでしょうか。それとも、開催されなかった第三バチカン公会議のものなのでしょうか。

【パリャラーニ神父】公会議で設定された前提条件との連続性と、それを上回るものの両方があります。これは、非常に単純な理由のためです。第二バチカン公会議によって、教会がこの世に自ら適応し、教皇ヨハネ二十三世と教皇パウロ六世が推進した「アジョルナメント」(aggiornamento)によって「自ら現代化する」ことを望んだからです。今、教皇フランシスコは、この世への適応を続けていますが、それは新しくかつ極端な意味で行われています。教会は今や、この世の罪に適応しなければならないのです ― 少なくとも、その罪が「政治的に正しい」(politically correct)ものである場合には。すると、それゆえに、その罪は、現代社会で認められたあらゆる形で、それゆえにあわれみ深い天主に許されているとされるあらゆる形で、真正なる愛の表現として提示されるのです。常にケースバイケースではあるものの、ドイツですでに見られるように、このような例外的なケースが規範となるように決まっているのです。


教皇フランシスコのユートピア

【DICI】このように伝統的な道徳をどんどん消滅させていく一方で、教皇フランシスコは推進すべき価値を提案しているのでしょうか。あるいは、別の言い方をすれば、あなたのご意見では、彼はどのような基盤の上に価値を築こうとしているのでしょうか?

【パリャラーニ神父】これは非常に適切な質問です。これに対して教皇自身が2020年10月3日に最新の回勅「フラテッリ・トゥッティ」(Fratelli tutti)でその回答を述べています。その中で、「これらすべてのことは、別の考え方を求めている」と断言し、続けてこう提案しました。「別の人類【へと移行する】を夢見て考えるという挑戦を受けとることができます。[…] これこそが、平和へのまことの道です」(127番)と。これはユートピアと呼ばれるものであり、自分のルーツから切り離されたすべての人々に起こることです。教皇は、天主の聖伝を破り、現実から完全に切断された理想と抽象的な完璧さを目指しているのです。

確かに、同じ文章の中で、彼は自分の立場を擁護して、自分の言っていることが「ひどく非現実的に聞こえるでしょう」と認めています。また、彼は自分の立場を正当化するための根拠を、こう明示しています。「奪われることのない人間の尊厳から生まれる権利があるという大原則」です。しかし、正確には、天主の啓示とカトリックの聖伝が私たちに教えているのは、人間の本性と人間の尊厳はそれだけで成り立つものではないということです。チェスタトンが言うように、「超自然的なものを取り去れば、残るのは不自然なものである」(G・K・チェスタトン「異端者の群れ(Heretics)」第6章)。 天主がおられなければ、自然だけでは、実際には、「不自然」となるように向かいます。天主は人間を超自然的な秩序に召し出して高めることで、人間の本性を恩寵へと秩序づけられました。それゆえに、自然は、自らに深刻な無秩序を導入しないなら、超自然的な秩序を取り除くことはできません。教皇フランシスコの夢、つまり彼の「別の考え方」は、非常に自然主義的なものです。

このユートピア的な性格のもう一つのしるしは、彼の夢が普遍的な範囲を持っていることです。それは、すべての人に、権威的で絶対的な方法で、その夢を押し付けるという問題です。人工的な方法で考え出された夢ですから、人工的な方法でしか押し付けることができないのです…


【DICI】しかし、教皇フランシスコのユートピアは何から成り立つのでしょうか?

【パリャラーニ神父】それは、現代人の願望に完全に浸透し、現代人が主張する権利に染まり、自分のルーツから切り離されて、「統合的エコロジー」と「普遍的兄弟愛」の二つの思想にまとめられています。教皇が二つの重要な回勅をこれらのテーマに捧げたのは偶然ではありません。これらのテーマは、教皇自身が主張するように、教皇の教皇職の二つの主要部分を特徴づけているのです。

回勅「ラウダート・シ」(Laudato sì)(2015年5月24日)の統合的エコロジーとは、天主の啓示、ひいては福音を脇に置いて、人類全体に提案された新しい道徳に他なりません。その原理は、純粋に恣意的で自然主義的です。それらは、自分たちが住む地球に情熱を持ち、純粋に物質的な関心に陥っている人類の無神論的な願望と何の問題もなく調和しています。

そして、アル・アズハルの大イマームが共同署名したアブダビ宣言(2019年2月4日)の際に、教皇が非常に荘厳な方法で提唱した回勅「フラテッリ・トゥッティ」(Fratelli tutti)の普遍的な兄弟愛は、私たちの主イエズス・キリストによってあがなわれたすべての人間に共通する天主の父性に基づいて打ち立てられたキリスト教の兄弟愛を、自然主義的な戯画にしたものに他なりません。この兄弟愛は、過去2世紀にわたって、人間の間でまことに可能な唯一の兄弟愛を自らに置き換えようとする激しい望みにおいて、特にカトリック教会に対して憎しみをまき散らすことしかしてこなかったフリーメーソンの兄弟愛と実質的に同一なのです。

それは、超自然的な秩序を否定し、カトリック教会を慈善団体のNGOのような次元にまで矮小化しているだけでなく、原罪の傷を理解することなく、堕落した自然を回復し、人間の間の平和を促進するために恩寵が必要であることを忘れていることでもあります。

【DICI】このような状況下で、教会の役割と世俗社会の役割をどのように区別することができるでしょうか。

【パリャラーニ神父】今日、カトリック教会は、現代世界とその社会政治的必要性に奉仕するという司祭の権能のイメージを提供しています…しかし、この司祭職は、もはや世俗制度のキリスト教化や、再び異教的になってしまった道徳の改革に捧げられているわけではありません。それは、超自然的な次元を持つことのない、悲劇的なほど人間的な司祭職です。ですから、逆説的ですが、世俗社会と教会は、キリスト教の全盛期のように、共通の目標のために一緒に戦うことになるのです…しかし、今度は、世俗化した社会が、自分たちの見解や理想を教会に提案し、押し付けるのです。これは本当に恐ろしいことです。世俗的な人道主義が教会の光となり、教会に味を与える塩となっているのです。近年の教理的・道徳的な暴走は、教会人が現代社会に対して抱いている劣等感をよく表しています。

それにもかかわらず―これが私たちの信仰の神秘であり、私たちの希望でもあります―教会は聖なるものです! 教会は天主的なものです! 教会は永遠のものです! 今の時代の悲しみにもかかわらず、教会の内的生活は、その最高の次元において、確かに天主と天使を喜ばせる美しさを持っています。今日、いつものように、カトリック教会は霊魂を導き、聖化するために必要なすべての手段を完全に準備しているのです。

王たるキリストの必要性

【DICI】あなたのご意見では、教会はどのようにしてこれらの誤謬を取り除き、自らを再生させることができるのでしょうか?

【パリャラーニ神父】まず第一に、すべてのユートピアを否定し、現実に戻り、カトリック教会の基礎に立ち戻らなければなりません。教会が、譲歩や妥協のない率直な方法で取り戻さなければならず、再び説き始めなければならない三つの重要なポイントを私たちは挙げることができます。(1)「原罪の存在」とその影響 ---- この影響は、聖ヨハネが第一の書簡で語っている三つの情欲(訳者注:肉の欲、目の欲、生活のおごり)のことです ---- で、またこれはあらゆる形の自然主義的な素朴さに反するものです。(2)「恩寵の必要性」、つまりあがないの実であり、これはこれらの壊滅的な影響に打ち勝つための唯一の救済策ですが、全能の救済策です。(3)そして、この地上ではなく天にある「究極の目的の超越性」です。

これをもう一度説くことは、「兄弟たちの心を固める」(ルカ22章32節)ことを再び始めることです。まことのカトリック信仰が再び宣べ伝えられることです。カトリック信仰こそが、すべての超自然的な生活に必要な条件です。カトリック信仰はまた、自然法の不可欠な守護者であり、自然法はまた、その起源において天主的、永遠、不変であり、人間を完徳へと導くために必要な基盤です。

これら三つの概念は単一の理想、「王たるキリスト」という理想にまとめられます。キリストは私たちの信仰の本質です。すべての恩寵の作者です。人間を創造したときにすべての人間の心に刻まれた、この自然法の作者です。天主なる立法者は不変です。天主はその権威を放棄することはありません。信仰そのものを変えなければ、この法を変えることができないように、天主なる立法者にふさわしい名誉を回復しなければ、この法を回復することもできません。

簡潔に言えば、私たちはこの世の前に屈する(capitulate)ことなく、「キリストにおいてすべてを総括し【集め】(recapitulate)」(エフェゾ1章10節)なければなりません。「うその父」(ヨハネ14章30節および8章44節)をかしらとするこの世に勝つためのあらゆる手段をカトリック教会が持っているのは、王たるキリストにおいて、王たるキリストを通してです。十字架を通して、キリストはすでに決定的にこの世に勝ったのです。「私はこの世に勝ったのだ」(ヨハネ16章33節)。


【DICI】この勝利には童貞聖マリアが特別な役割を果たされると思いますか?

【パリャラーニ神父】この勝利は王たるキリストの勝利ですから、必然的にその祝されし御母の勝利でもあります。聖母は、御子のすべての戦いとすべての勝利に体系的に関係があります。聖母は、非常に特別な方法で、この勝利と関係があります。なぜなら、カトリック教徒の具体的な生活の中で、これほど広範囲で深刻な被害をもたらした非常に悪質で微妙な誤謬が、これほどまでに勝利を収めたことはかつてなかったからです。その証拠に、教会が聖母の属性としている最も美しい称号の中には、「すべての異端の撲滅者」 ---- 聖母は異端を思いつかせた者(訳者注:サタンのこと)のかしらを砕くのです ---- と「キリスト信者の助け」があります。誤謬の勝利が決定的なものであればあるほど、童貞聖マリアの勝利はさらに輝かしいものとなるでしょう。
(訳者注:「すべての異端の撲滅者」とは、聖ピオ十世教皇が回勅「パッシェンディ」で聖母のことを Virgo immaculata, cunctarum haeresum interemptrixあらゆる誤謬を打ち砕く方である無原罪の童貞destructrice de toutes les hérésies, the destroyer of all heresies と呼んでいる表現。聖務日課にも Gaude Maria Virgo, cunctas hæreses sola interemisti in universo mundo.(童貞マリアよ、喜び給え、御身は一人で全世界の全ての異端を打ち砕き給うた)とある。「キリスト信者の助け」は聖マリアの連祷にある。)

このインタビューは2021年3月12日、教皇大聖グレゴリオの祝日に
メンツィンゲン(スイスの聖ピオ十世会本部)にて行われた


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マルセル・ルフェーブル大司教の8人の枢機卿様たちへの手紙 1986年8月27日

2021年03月17日 | ルフェーブル大司教の言葉
マルセル・ルフェーブル大司教の8人の枢機卿様たちへの手紙 1986年8月27日

エコンにて、1986年8月27日

枢機卿様

 教会において起こっているさまざまなできごとを前にして、そしてヨハネ・パウロ2世教皇様をその張本人とするこれらのできごとを前にして、テゼーで、また10月にはアシジですることが計画されていることを前にして、私は枢機卿様に筆を執らずに入られませんでした。それは歴史上かつてなかったほど屈辱を受けている教会の名誉を守ってくださるようにと、多くの司祭と信徒たちの名前で枢機卿様にお願いするためです。

 トーゴ、モロッコ、インド、ローマのユダヤ会堂でのヨハネ・パウロ2世の訓話と行動は私たちの心に聖なる憤りを呼び起こします。旧約と新約の諸聖人たちはこれについてどう思うことでしょうか!もし今でも存在していたとしたら、異端審問所は何をしたでしょうか?

 ペトロの座にすわるものによって公に足蹴にされているのは、使徒信経の第1条であり、天主の十戒の第一戒なのです。カトリック信者の霊魂において躓きは計り知れません。教会はその根底から揺るがされています。

 もしも、カトリック教会が救いの唯一の方舟であるという信仰が消えてしまったら、その時には教会自体が消えてしまいます。教会の全ての力、その全ての超自然的な活動は、私たちのこの信仰箇条を基としているのです。

 ヨハネ・パウロ2世は、公に、特にアシジで計画されているように、聖フランシスコの町のあらゆる道で多くの宗教代表者の取りまきと共に、いろいろな小聖堂や大聖堂をいろいろな宗教団体に振り分けて、そこで国連の考えているような平和のために彼らが独自の礼拝を捧げるよう招いて、カトリック信仰を破壊しようとするのでしょうか? これが諸宗教の集いという忌まわしい集会の責任者となっているエッチャガライ枢機卿様が発表したことです。

 教会においてこのような公の罪を排斥する公式の声が一つも挙がらないと言うのは考えられることでしょうか?マカベオたちは一体今どこにいるのでしょうか?

 枢機卿様、唯一の真の天主の名誉のため、私たちの主イエズス・キリストの名誉のため、公に抗議の声を挙げて下さい。カトリックとして留まっている司教たち、司祭たち、信徒たちを助けて下さい。

 枢機卿様、私が枢機卿様のもとにこのようなお手紙を書いたのは、私がこのことに関する枢機卿様のお考えを疑うことができないからです。

 この呼びかけは、以下に明記してある枢機卿様たちにもしてあります。それは枢機卿様がこれらの枢機卿様方と共に行動されることを考えてのことです。

 願わくは聖霊が枢機卿様の助けに来ますように。

 私たちの主キリストとマリアとにおいて。敬具

マルセル・ルフェーブル

チュールの引退大司教司教

 

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1986年、Si si no no 紙に掲載された記事


アシジの平和祈祷集会についてどう考えればよいのでしょうか?

 アシジの「祈祷集会」は、ヨハネ・パウロ2世の「個人的な発案」であるとのことです。「個人的な」発案として、このような催しは「全てのキリスト者の牧者及び教師」(第1バチカン公会議)の使命にかかわることでは全くなく、また国連によって今年1986年が「国際平和の年」として提案されている政治的なテーマに従っていることですから、教義にかかわることでもありません。

 来る10月27日にはアシジにカトリック信者のみならず「世界中の他の諸宗教の代表者たちが平和のために集うために」(オッセルヴァトーレ・ロマーノ紙1986年1月26/27日号)会合する予定です。

 ヨハネ・パウロ2世が「世界中の他の諸宗教の代表者たち」と呼んだ人々のことを、カトリック教会は常に「未信者infideles」とふさわしく呼び慣わしてきました。「未信者とは、広い意味において真の信仰を持っていない全ての人々のことを言い、固有的な意味においては洗礼を受けていない人々のことを言います。そしてこの意味においては未信者は一神教信者(ユダヤ人やイスラム教徒)、多神教信者(ヒンズー教など)そして無神論者に分けられます」(Roberti-Palazzini, Dizionario di teologia morale, p. 813より)。

 またヨハネ・パウロ2世が「他の諸宗教」と呼んだことを、カトリック教会が常に「邪教」と呼んできたものです。キリスト教以外の全ての宗教は「天主が啓示しそれを実践することをお望みになる宗教ではないという意味で」(Roberti-Palazzini, Dizionario di teologia morale, p. 813より)邪教なのです。

 以上のことを述べた後に、この種の「祈祷集会」はカトリック信仰の光に当てたとき、次のようなものとしてしか考えられないと言えます。

天主に対する侮辱
贖いが誰に対しても必要であると言うことの否定
未信者に対して当然なすべき義務と愛徳との欠如
カトリック信者たちにとっての危険と躓き
教会の使命と聖ペトロの使命とに対する裏切り
天主に対する侮辱

 全ての祈りは、願い事をする祈りであっても、礼拝行為(actus cultus)です(聖トマス・アクイナスの神学大全II-II q. 83)。祈りは礼拝行為として、礼拝を受けるべき方に、なされるべきやり方で、礼拝が捧げられなければなりません。

 「礼拝を受けるべき方」とは、唯一の真の天主であり、創造主、すべての人の主です。私たちの主イエズス・キリストがその真実のお方を知るための智慧を私たちに授けられた(1ヨハネ5:20)のです。私たちの主イエズス・キリストはまた「私はおまえの天主、主である。… 私以外のいかなる神々をも持ってはならない。… これらを拝んではならず、これらに礼拝を捧げてはならない。」(脱出20:2, 5. マテオ4:-10、ヨハネ17:3、ティモテオ2:5)律法の第1戒を確認されました。

 「なされるべきやり方で」とは、啓示の充満に対応するように、いかなる誤りもなく、と言うことです。「まことの礼拝者が、霊と真理とを持って御父を拝むときが来る、いやもう来ている。御父はそう言う礼拝者を望んでおられる。」(ヨハネ4:23)

 偽りの神々に捧げられた祈り、或いは、天主の啓示とその全て或いは一部が対立するような宗教の憶測に基づいてなされた祈りは、礼拝行為ではなく迷信と呼ばれるべきであり、迷信は天主を敬わないばかりでなく、天主を、少なくとも客観的に、犯すものです。迷信は天主の十戒の第1戒に背く罪です。(神学大全II-II qq. 92-96)

 アシジに集う人たちは、一体誰にどのように祈るのでしょうか?招かれた「他の諸宗教の代表者たち」はそれぞれの宗教行事の服を着て「彼らに固有のやり方と固有の形式でそれぞれが祈るだろう」とのことです。これが非キリスト者のための事務局長であるウィルブランド枢機卿(Cardinal Willebrands)が説明したことです。(オッセルヴァトーレ・ロマーノ紙1986年1月27/28日号)このことは1986年6月27日にエッチェガライ枢機卿が記者会見で確認したことであり、これは1986年9月7/21日号のDocumentation Catholiqueに「聖座発表」の見出しのもとで「それぞれの祈りを尊重し、それぞれに自分の信仰と信じていることをそのまま表明することを許す」と発表されました。

 ですから10月27日にアシジでは迷信がその最も忌々しい形で大きく実践され、聖寵の時代にありながら天主のキリストを否定しつつ天主を敬っているとうそぶいているユダヤ人の偽りの礼拝(神学大全II-II qq. 92 a. 2 ad 3 et I-II q. 10 a.11)に始まって、創造主に捧げるべき礼拝をヒンズー教徒や仏教徒が被造物に礼拝を捧げるという偶像崇拝(使徒17 :16)に至るまで許されることになるでしょう。

 少なくとも見かけ上、カトリックの権威が彼らを承認することは、天主が迷信でさえも、真の礼拝行為と同じく嘉し給い、真の信仰の表明と同様に不信仰の表明でさえも同じく嘉し給うということ、つまり真の宗教も邪教も嘉し給い、真理も偽りも嘉し給うということを前提とする、或いは暗黙の了解と考えさせるのであり、これは天主に対して非常に大きな冒辱となります。(神学大全II-II q. 94 a. 1)

贖いが誰に対しても必要であると言うことの否定

 天主と人々をつなぐ仲介者はだだ一人しかいません。すなわちまことの天主かつまことの人である私たちの主イエズス・キリスト(1ティモテオ2:5)です。本来なら人は「怒りの子」(エフェゾ2:3)でありましたが私たちの主イエズス・キリストによって御父と和解しました(コロ1:20)そして私たちの主イエズス・キリストに対する信仰によってのみ人は信頼して天主に近づくことができる(エフェゾ3:12)のです。

 天と地の全ての権能が私たちの主イエズス・キリストに与えられました(マテオ28:18)そして天と地と地の下にあるものは全て私たちの主イエズス・キリストの聖名に膝をかがめなければなりません(フィリッピ2:10-11)。

 私たちの主イエズス・キリストを通らずに誰一人として御父の元に行くことができません(ヨハネ14:6)。私たちの主イエズス・キリストの名前以外に人が救われることのできる聖名は天下にありません(使徒4:12)。私たちの主イエズス・キリストはこの世に来るすべての人を照らす光であり(ヨハネ1:9)、私たちの主イエズス・キリストに従わないものは誰であれ暗闇を歩く(ヨハネ8:12)のです。私たちの主イエズス・キリストの味方をしないものは主に逆らうものであり(マテオ13:30)、私たちの主イエズス・キリストを敬わないものは、私たちの主イエズス・キリストをお遣わしになった御父を冒辱するのです --- そしてまさしくこのことをユダヤ教徒たちがしているのです(ヨハネ5:23)。天主御父がすべての人を裁く権能をお委ねになったのは私たちの主イエズス・キリストにであり、私たちの主イエズス・キリストを信じないものは、天主の唯一の御子の聖名を信じなかったがために、すなわち御子を遣わした御父(ヨハネ17:3)を私たちの主イエズス・キリストにおいて信じなかったために既に裁かれたのです(ヨハネ3:18)。

 更には、私たちの主イエズス・キリストこそ平和の君主です(イザヤ9:6、エフェゾ2:14、ミケア5:5)。何故なら、全ての分裂、対立、戦争などは、人が贖い主の御血の力によるのではなければ自分の力ではそこから解放されることのできない罪の苦い果実であるからです。

 私たちの主イエズス・キリストは、アシジにおいて、非キリスト者たちの「他の諸宗教の代表者たち」の祈りとどのような関係があるのでしょうか?全くありません。

 何故なら私たちの主イエズス・キリストは彼らにとって、或いは知られざる人であり、或いは躓きの石であり、或いは逆らいのしるしだからです。世界平和のために祈るようにと言う彼らに対してなされた招待は、次の誤りを前提とし、それを避けることなく暗黙の了解としていることを認めてしまっています。

 つまりその誤りとは、一方では私たちの主イエズス・キリストの仲介によってイエズス・キリストの聖名によって天主に近づくことのできる人たち(つまりキリスト信者たち)があり、他方で私たちの主イエズス・キリストという仲介者の介入なく自分自身の名前によって天主に直接行くことのできる人々(つまりその他の全人類)がいる、ということです。別の言い方をすると、私たちの主イエズス・キリストの前に膝をかがめなければならない人々とそれを免れている別の人々がいると言うこと、私たちの主イエズス・キリストの御国において平和を求めなければならない人々と私たちの主イエズス・キリストの御国の外に平和を見出し、しかも主の御国に対立してさえも平和を得ることができる人々がいると言うことです。このことはウィルブランド枢機卿とエッチェガライ枢機卿との宣言から結論づけられることです。「もし私たちキリスト者にとってキリストが私たちの平和であるなら、信じるすべての人にとって平和は天主の恵みである」(ウィルブランド枢機卿オッセルバトーレ・ロマーノより)。「キリスト者たちにとっては祈りはキリストを通る」(エッチェガライ枢機卿Documentation Catholiqueより)。

 アシジの「祈祷集会」は、ですから、贖いが誰に対しても必要であると言うことを公に否定することです。

未信者に対して当然なすべき義務と愛徳との欠如

 かつてピー枢機卿(Cardinal Pie)は、「イエズス・キリストはオプションではない」と言っていました。私たちの主イエズス・キリストに対する信仰によって義とされる人が一部で存在し、私たちの主イエズス・キリストと関係なく義とされる人が他方で存在するのではないのです。すべての人はキリストにおいて救われ、すべての人はキリスト無くしては滅びてしまうのです。天国という唯一の超自然の究極の目的とは別の「自然の最終目的」という選択肢が人間にあるわけでもありません。罪を犯すことによって人は道を外れてしまうのですが、もしキリストにおいて唯一の道(ヨハネ4:6)を見出すことができなければ、人間が創造されたその最終目的に到達するための道を見出すことが出来なかったと言うことですから、人には永遠の滅びしか残っていないのです。

 ですから、異教徒たちをも含めて全ての人々にとって救いの主観的な条件は真の信仰なのであって、たんなる「善意」ではないのです。何故なら真の信仰こそが手段として必ず必要なものであり、「もし(たとえ故意にではなかったとしても)真の信仰がない場合には、永遠の救いを期待することが絶対的に不可能(ヘブレオ11:6)」(Roberti-Palazzini, op. cit. p. 66)だからです。

 聖トマスは次のように説明しています。故意の不信仰は過失であり、不本意の不信仰は罰である、と。実際に未信者は不信仰の罪によって永遠に滅びるのではありません。つまり彼らが全く知りもしなかったキリストを信じなかったという罪によって滅びるのではなく、真の信仰無くしては誰も赦しを得ることができないその他の罪によって滅びるのです(マルコ16:15-16、ヨハネ20:31、ヘブレオ11:6、トリエント公会議Dz 799, 801、第1バチカン公会議 Dz 1793、神学大全II-II q. 11, a. 1)。

 人間にとって贖い主を受け入れ、仲介者と一致することよりも重要なことはありません。これこそが永遠の生死にかかわる問題です。天主の命に従って(マルコ6:16、マテオ28:19-20)未信者はカトリック教会によってこれが告げ知らされるのを聞く権利があります。これこそが、カトリック教会が常に未信者たちに、彼らのために祈りつつ(彼らと共に祈るのではなく)、告げ知らせてきたことです。

 アシジでは何が起こるのでしょうか?アシジでは彼ら未信者のためには祈りません。それは暗黙のうちにそして公に、彼らにはもはや真の信仰が必要ではない、と言うことを前提としているからです。彼らのために祈る代わりに、彼らと交わって祈る、ラジオ・バチカンのユダヤ教師のような言い方によると、彼らのそばに祈るためにいる、ことになっています。こうすることによって暗黙のうちにそして公然と、“誤りの教える祈りも、「霊と真理とにおける」祈りと同じように天主に嘉されるものである” と言うことを前提としてしまっているのです。

 「それぞれの祈りを尊重する」とエッチェガライ枢機卿はその短い宣言の中で説明しています。つまりアシジに集う未信者は「信仰について何も知らないジャングルの中で育った未開人」(神学者たちは未信者の救いの問題を論じるときに彼らの仮説のもとになっている前提がこれです。例えば聖トマスDe veritate XIV 11)ではないのですから、彼らは「尊重されて」「闇と死の陰に」(ルカ1:79)取り残されることになるのです。

 「他の諸宗教の代表者たち」は、自分の宗教色豊かな服装で、宗教に関して誤って信じていることに合うように祈ることを許され、彼らは更に、少なくとも形のうえでは (materialiter) 信仰に対する罪、不信仰、異端、などに踏みとどまるようにと奨励されているのです。

 世界平和が「基本的な」そして「最高の」善であると定義され(ヨハネ・パウロ2世 オッセルバトーレ・ロマーノ1986年4月7/8日号 とウィルブランド枢機卿 オッセルバトーレ・ロマーノ1986年1月27/28日 の発言)、その世界平和のために祈るように招待を受けた彼らは、永遠の善からこの世の善へと、すなわち自然的な副次的な善へと道をそらされてしまっています。あたかも彼らには超自然の究極の目的を得る必要がないかのようです。しかし、この超自然の究極目的こそ真に基本的で最高のものなのです。

 「天主の御国とその正義を求めよ。そうすれば、それらのこと(地上のこと)も加えておまえたちに与えて下さる」(マテオ6:33)。

 以上の理由によって、アシジでの「祈祷集会」は、少なくともその見かけだけでも、未信者に対して当然なすべき義務と愛徳とを欠く行為であると言えます。

カトリック信者たちにとっての危険と躓き

 救いのために真の信仰がどうしても必要となります。カトリック信者は自分の信仰を危うくするような全ての危険な機会を避けなければなりません。そのような外的な危険のうちの一つが、どうしても避けられない必要もないにもかかわらず未信者と接触することです。このような接触は教会法を待つまでもなく、そして教会法がたとえば社交上のこととして禁止していない場合でも、自然法と神法によって許されないことなのです。聖パウロは言います。Haereticm hominem divita. 異端者を避けよ、と(ティト3:10)。

 教会は母の心を持ってカトリック信者にとって信仰に対する危険になりうることのみならず躓きの動機になりうることさえも常に禁止してきました。(1917年の教会法は数世紀に亘る教会の掟を採用しています。1258条、2316条を参照して下さい。神学大全II-II q. 10 aa. 9-10)

 教会はまた常に邪教に対して公の宗教儀式の権利を拒否してきました。もし必要なときには教会はそれを黙認しました。しかし、この「黙認」は常に「その悪を許すそれ相当の理由がある」(Roberti-Palazzini, op. cit. p. 1702)ためでした。それがいかなる場合であれ、非カトリックの宗教儀式を見かけ上であっても承認するようなことを教会は常に避けてきましたし、禁止してきました。

 アシジでは何が行われるのでしょうか?確かに、言葉の綾によって「一緒に祈るため」ではないかも知れませんが、カトリック信者と未信者とが「祈るために一緒になる」でしょう。このことはとどのつまりアシジで共に祈ると言うことなのです。まずそれそれが同時に自分たちのいるところで祈り、次に閉会式では聖フランシスコのバジリカの前に集まって順番に祈るのです。

 ところで、このようなことはカトリック信者の信仰を守るためにすることではなく、カトリック信者を少なくとも躓かせないためにすることではありません。

 これはそれぞれが「彼らに固有のやり方と固有の形式でそれぞれが祈る」のを許すために、「それぞれの祈りを尊重」するために、そして「それぞれに自分の信仰と信じていることをそのまま表明することを許す」ためになされるのです。ですから少なくとも見かけ上、次のことを承認しているのです。

教会が常に権利を否定してきた偽りの宗教儀式の承認
教会が常に「宗教無差別主義」或いは「宗教拡大主義」の名の下に排斥してきた「宗教主観主義」の承認
です。

「宗教主観主義」とは「人間の理性或いは啓示の光によって明らかにされる客観的な真理だけが権利を持つことを理解せずに、いわゆる “自由の要求” によって自己を正当化しようとする態度です(Roberti-Palazzini op. cit. p. 805)。」

「宗教無差別主義」とは「最も恐るべき異端の一つであり」「全ての宗教を同じレベルに置き」規則正しい生活と永遠の救いとの存在理由を宗教的に信じることが真理であることを認めないものです。「『宗教無差別主義』のためについに人は宗教を全く個人的なものと看倣してしまい、個人の好みの違いによって好きなものを選び、「私にとっての」宗教を形成することを許し、たとえ宗教が互いに矛盾しあっているにもかかわらず、全ての宗教はみなどれもこれも良いものであると結論させるのです。」(Roberti-Palazzini op. cit. p. 805)これはカトリック信仰と言う行為の外でのことです。

 天主の啓示は現実の事実であり、確かな徴という手段を持って信じるに値する真理と天主によって確立されたのですから、この領域に関する誤りは人にとって最も重大な結果をもたらします(レオ13世 1888年回勅『リベルタス』)。

 「全く明らかな真理という現実の事実を前に、それらがあたかも存在していないか或いは誤りであるかのような態度を承認するほどの黙認はいかなる人にもできません。そのようなことは私たちが全く信じていないか、或いは私たちの立場の真理に完全に納得していないか、或いは私たちが全く無関心でいることができる些細な事柄であると考えているか、或いはまた私たちが真理も誤謬も全く相対的な立場にすぎないと考えているかのいずれかを前提とするからです。」(Roberti-Palazzini op. cit. p. 1703)

 まさに「祈祷集会」これら全てを含んでいるので、これはカトリック信者にとって躓きの機会であり、彼らの信仰を大きな危険にさらすものとなるのです。エキュメニズムの事実からついにはカトリック信者は未信者と合流するかも知れませんが、それは彼らの「共通の破滅 」(ピオ12世 1950年『フマニ・ジェネリス』)においての合流になることでしょう。

教会の使命と聖ペトロの使命とに対する裏切り

 教会は全ての国々に次のことを告げ知らせる任務があります。

唯一の真の天主が存在すること、この唯一の天主は全ての人々のために私たちの主イエズス・キリストにおいてご自分を啓示されたこと。
真の宗教はただ一つしかないこと、天主がそこであがめられることを望んでおられる宗教はただ一つであること。何故なら天主は真理であり偽りの諸宗教において真理に背くものは、教義上の誤り、掟の不道徳性、宗教儀式の不適合性など、全て天主に背くこと。
天主と人との仲介者はただ一人しかおられないこと。人間が彼によって救われることを期待することのできるのはただ私たちの主イエズス・キリストだけであること。なぜならすべての人は罪人であり、キリストの御血によらずしては全ての人は罪のうちに留まるからです。
真の教会はただ一つしかないこと。そしてこの教会が永久に私たちの主イエズス・キリストの御血を守っていること、「救いの唯一の方舟である使徒継承のローマ教会の外においては誰も救われることができないこと、このローマ教会に入らないものは大洪水に滅ぼされてしまうことを信じなければならない」(ピオ9世 Dz 1647)こと。もし彼らの無知がどうしてもしかたのないものだったとしても彼らの心の状態が、明らかに或いは暗黙のうちに天主のみ旨を全て成し遂げたいという少なくとも望みによって、教会の中に入っている必要がある(ピオ9世 Dz 1647)ということ。
 教会の固有の使命は、これら全てを告げ知らせることです。

「あなたたちは諸国に弟子を作りに行き、聖父と聖子と聖霊との聖名によりて洗礼を授け、私があなたたちに命じたことを全て守るように教えよ。」(マテオ28 :19-20)「あなたたちは全世界に行って全ての人々に福音をのべ伝えよ。信じて洗礼を受ける人は救われ、信じない人は滅ぼされる。」(マルコ16 :16)

 教会が確かに数世紀にも亘ってこの使命を果たすことができるために私たちの主イエズス・キリストは聖ペトロとその後継者たちに目に見える形で主の代理となる使命を与えました。(マテオ16 :17-19、ヨハネ21 :15-17)

 「イエズス・キリストの代理者は、新しい啓示の力を借りて新しい教義を作る使命もなく、新しい事態を創造する任務もなく、新しい秘蹟を制定するための任務もない。そのようなことは彼の任務ではない。彼はイエズス・キリストの教会の頭としてイエズス・キリストを代表している。イエズス・キリストの教会は既に完成している。教会の本質的な構造、つまり教会を創造することはイエズス・キリストに固有な業であった。イエズス・キリストはご自分でそれを成し遂げそれを聖父に言われた。「私はあなたが行わせようと思し召した業を成し遂げました。」(ヨハネ17 :4)主の業に何も付け加えることはない。この御業をそのまま維持し、教会の業を保持し、その機関がうまく働くようにすることだけである。従って必要なことは2つであり、それは教会を統治し、真理の教えを永久に守ることである。第1バチカン公会議はイエズス・キリストの代理者の最高職務の対象としてこの2つをあげている。ペトロはイエズス・キリストをこの2つの観点の下で代表するのである。」(Don Adrien Grea, De l’Eglise et de sa divine constitution : 第1バチカン公会議の使徒憲章『パストル・エテルヌス』第4章)

 並ぶものもない程のペトロの権能は、代理者としての権能であり、代理者の権能としては絶対のものではなく自分が代表するイエズス・キリストの天主の権によって制限を受けています。

「主はペトロにペトロの羊ではなくご自分の羊を委ねた。それは自分の利益のためにでなく天主の利益のために牧させるためであった。」(聖アウグスチヌス 説教第285の3)

 ですから教会の使命とローマ教皇の使命にそぐわないような「個人的な発案」を(アシジでの「祈祷集会」のような明らかにご自分の使命とはそぐわないようなものを)促進させると言うことはペトロの権能に属するものでは全くありません。

 私たちの主イエズス・キリストはこう言いました。「サタン退け! “あなたの天主なる主を礼拝し、ただ天主にだけ仕えなければならない” と書かれてある」(第2法6:13、マテオ4:10)と。

その主イエズス・キリストの代理者たるものが、どうして真の天主への信仰のために聖別された聖なる場所に、邪教の「代表者たち」を招いて彼らの偽りの神々に祈らせることができるでしょうか?

 聖ペトロはこう言って信仰を宣言しました。「御身は、生ける天主の御子、キリストです」(マテオ16:16、ヨハネ6:69-70)と。そしてこの信仰宣言故に首位権を得たのです。その後継者たるものがどうして私たちの主イエズス・キリストがあたかもいないかのように立ち振る舞うことができるのでしょうか。

 聖ペトロは兄弟たちの信仰を固める任務を受けました(ルカ22:32)。その後継者がその兄弟、子供たちの信仰にとって躓きの石となるべきではありません。(了)








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