Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え! 聖ヨゼフの特別聖年(2020年12月8日〜2021年12月8日)

聖マキシミリアノ・コルベ「天主の敵が優位に立つのを放っておけるだろうか。そして、祈りはするが活動はしないと言うことが考えられようか。」

2021年10月16日 | M.I.(無原罪の聖...

《汚れなく宿り給いし聖マリアよ、
御身により頼み奉る我らのため、
また、全て御身により頼まぬもののため、
とくに、秘密結社の回心のために、祈り給え。》

汚れ無き聖母の騎士会の構想

 1917年1月20日の朝、神学生たちは例のごとく祈りをするために集まっていました。マキシミリアノ神学生も中に混じって、慎ましく自分の席で祈っていました。この日は、聖コルベの生涯のうちで最も荘厳かつ決定的な日の1つになろうとしていました。校長ステファノ・イニューディStephano Ignudi神父は、黙想書を朗読し、その日の祝日の注解をしていました。実にその日は、汚れ無き聖母の勝利の日だったのです。その年、ローマではその日ユダヤ人ラティスボンの回心の75周年を祝っていたのです。

 ちょうど75年前の1842年1月20日、フラッテの聖アンドレア教会でユダヤ人のアルフォンソ・ラティスボンに御出現になり、ラティスボンはカトリックに改宗しました。彼はこう語っています。「聖母は私に何もおっしゃりませんでした。しかし、私は全てを理解しました。」

 ラティスボンは回心の後、司祭となりマリア神父と呼ばれることになります。校長イニューディ神父は敬虔な雄弁をふるい、ほとんどが外国人である若い神学生たちに向かって、このラティスボンの回心の話をしていました。校長神父はその時、ラティスボンが、回心の時、手元に不思議のメダイを持っていたことを付け加えました。そうです、ラティスボンの回心は、不思議のメダイの効果を保証する多くの奇跡の一つだったのです。

 1830年、パリで聖カタリナ・ラブレに純白な姿の聖母が御出現になったちょうどその時のように、1917年1月20日、マキシミリアノ神学生の眼前に汚れ無き聖母が浮かび上がり、不思議なメダイを楯とも旗印ともする聖母の騎士会Militia Immaculataeの創立を思いついたのです。

 神学校での生徒長であったヨゼフ・パル神父の証言を聞いて下さい。彼は、ルーマニア人であり、聖コルベの親友であった方です。

「あの瞬間から、マキシミリアノ神学生はなすべきことについて確信を抱いたようである。彼は顔を輝かせ、喜びにあふれながら、ラティスボンの改宗について、聖母マリアの偉大な御力の働いたことを話し、微笑みながら私に向かって、全ての異端者、とりわけ秘密結社の撲滅のために聖母マリアに祈らなければならないといった。1月から夏休みまで、彼はたびたびこの問題について話した。・・・」(アントニオ・リチャアド神父著『福者マキシミリアノ・マリア・コルベ』1971年愛社発行p56)

 1917年1月20日、朝の黙想の決心から、汚れ無き聖母の騎士会の構想が出来上がった。と言うよりも現実化されたのです。何故なら、その後のことは、単に教会の認可を得て正式に会を発足させる準備に過ぎなかったからです。

秘密結社設立200年祭

 1917年は、秘密結社がロンドンで結成されて(1717年)からちょうど200年目に当たっていました。秘密結社は、以前からカトリック教会破壊のために特にローマを目標に盛んに教会破壊工作を仕掛けていました。ローマを訪れた外国の巡礼者たちは、カトリック教会の中心地、キリストの代理者のお膝元において、最も悪魔的な反教会主義、反聖職者主義の宣伝が行われるのを、何とも複雑な思いで眺めねばなりませんでした。

 1894年には、天主を天主とも思わない破廉恥な冒涜者エミリオ・ゾラが、ローマ市議会から歓迎会を受け、反教会的な政府代表者どもは、ポンペイの聖母の巡礼所に反対宣伝工作を働き、教皇ピオ9世からベネディクト十五世に至るまでの歴代の諸教皇たちに絶えざる冒涜的な攻撃を浴びせかけていました。

 秘密結社設立200年祭には、ローマでかつて無いほどの汚聖と悪魔的なお祭り騒ぎとが荒れ狂ったのです。秘密結社の行列は、大天使聖ミカエルがルチフェルに踏みつけられているのぼりを掲げてローマの町を練り歩いたのです。しかも、バチカンの聖ペトロの広場には「サタンはバチカンから世界を支配する。教皇はサタンに仕えなければならないだろう」と書いた冒涜的なのぼりや悪魔崇拝の旗までが現れたのです。

 天主はこの悪魔的破壊工作に対して、新しい戦士を準備されたのです。汚れ無き聖母の戦士たちです。マキシミリアノ神学生は、天主のご計画に従って「汚れ無き御やどり」の旗印を打ち立てた大きなフランシスコ会の船を再出航させるために、錨を上げようとしていました。天主は、聖コルベを使って、汚れ無き聖母の御導きのもとに戦う、新しい霊戦を始め給うのです。

騎士会の最初のメンバーたち

 それから10ヶ月後の10月16日夕暮れ、つまり、10月17日の聖女マルガリタ・マリア・アラコックの祝日の前日に、そして図らずもファチマの聖母の最終の御出現と太陽の大奇跡の4日後、聖コルベは校長室に隣接する部屋に6名の神学生すなわち「新しい騎士」志願者を集めたのです。そして自分が一人で練り上げたプログラムを書いた小さな紙切れを朗読しました。それは現在では誰でも知ることになったあの聖母の騎士会証書と同じものでした。この騎士会創立に参加し、司会者であったヨゼフ・ペトロ・パル神父の言葉をまた聞いてみましょう。

「彼は我々に承認と署名を求めた。最初に署名したのは司祭であり年長者である私だった。マキシミリアノ神学生は最後に署名したように思う。・・・この個室から誰にも気がつかれないように全神学校の聖堂[の汚れない聖母の祭壇]におもむいた。そこで私は不思議のメダイを祝別し、それを騎士会の最初のメンバーたちの肩に掛け、更に私にも、マキシミリアノ神学生にもかけた。これが終わると我々は密かにめいめいの個室に引き下がった。いっさいは秘密のうちに行われた。知っているのは校長神父だけだったが彼は出席しなかった。こうして聖母の騎士会の土台はおかれたのである。」(前掲書p60)

聖母の騎士会のプログラム

 このときのプログラムの原文はラテン語で書かれていました。この規約の内容は次の通りです。

汚れ無き聖母の騎士会

「彼女は汝の頭を踏み砕くべし」(創3:15)
「御身一人よく全世界の異端を滅ぼし給えり」

1目的

罪人、異端者、離教者、ユダヤ人、ことに秘密結社の回心、及び汚れ無き童貞聖マリアの御保護と仲介のもとに全ての人の成聖に努力する。

2条件

イ、汚れ無き聖母のいと清き御手の中の道具として、自己を全く奉献する。
ロ、不思議のメダイを身につける

3手段

イ、少なくとも一日一回次の射祷と共に聖母マリアに祈る。
ロ、身分・状態・境遇などに応じたあらゆる正当な手段を使い、ことに不思議なメダイの配布につとめる。

聖なる童貞女、インマクラータ(無原罪聖母)マリアへの奉献の祈り

聖マキシミリアノ・マリア・コルベ(1917年10月16日)
トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)訳

ああ、インマクラータ(無原罪聖母)よ、
天と地の元后、
罪人の拠り所、
愛深き我らの母よ、
天主は、あわれみの秩序のすべてを
御身に委ねることを望まれ給うた。
不肖なる罪人、我(名前)は、
御身の足もとにひれ伏し、
御身にひれ伏してこいねがい奉る。
我がすべてを全く、
御身のもの、御身の所有物として
受け取り給え。
また、我について、
霊と肉体のすべての能力について、
我が全生涯、死、永遠について、
御身がよりお望みになることを全て成し給え。

もしそれが御身の御心にかなうなら、
我が、 御身のインマクラータ(無原罪)の憐れみ深い御手のうちに、
道具としてあるように、
御身について言われた「かの女は、おまえの頭を踏みくだく」
また「御身は、ひとりで全世界の異端をことごとく滅ぼされた」
が実現されるべき御業のために、
我が全てを全く使い給え。

道を迷い、生ぬるくなった、
かくも多くの霊魂たちに、
御身を知る喜びを引き起こさせ、
御身の栄光をこれ以上ないほど最高にいや増し、
かくてイエズスの至聖なる聖心のいとも甘美なる御国が、
最高度に拡張するために、
御身に役立つ道具として。

御身はイエズスの聖心に入り給い、
そこで御身は回心と成聖の聖寵を祈り求め給い、
御身のみ手を通してイエズスの至聖なる聖心から、
全ての聖寵は、我らにたどり着くなり。

R 聖なる童貞女よ、我をして御身を讃えしめ給え。
V 御身の敵に立ち向かう力を我に与え給え。


聖母の騎士会とは?

 以上の規定を持った聖母の騎士会とは何なのでしょうか。

聖母の騎士会M.I.は、純粋な信心会であり、入会者は聖母マリア様の光栄のために働かなければなりません。入会者は聖母の御徳、特権、聖母に関する教義をよく理解しなければなりません。聖母の騎士会は、キリストとその教会に敵対する、公然たる或いは秘密な悪の力に対する解毒剤なのです。聖母の騎士会とは、汚れ無き聖母のご指導のもとに、キリストと、キリストの建てた教会とを擁護するために戦う十字軍の運動なのです。

 秘密結社とその陰惨な起源に対して、聖コルベはとりわけ深い歴史的、哲学的な深い知識を要しませんでした。何故なら、聖マキシミリアノはローマでまざまざと秘密結社フリーメーソンの真の姿を見せつけられたからです。秘密結社には、政治を支配し、権力を握ろうという単なる政治運動以上のものがあります。秘密結社は、結社員に聖会進出の近道を与えるという政党以上のものがあります。はっきり言います。聖コルベは秘密結社がキリストとその教会に敵対することを目標とする団体であることを見抜いていたのです。

 若き神学生マキシミリアノ・マリア・コルベは、創世記の言葉「おまえと女との間に、おまえの子孫と女の子孫との間に敵対をおこう。彼女はおまえの頭を踏み砕き、おまえは彼女のかかとをかむであろう。」の中に、世界を二分する陣営の姿を認めていたのです。この聖書の言葉はマリアのことサタンのことの間に繰り広げられる個人的と言うよりも、社会的闘争を預言しているからです。この鮮やかで慰めに満ちた預言には、光の子らと闇の子ら、天主の御国とサタンの国、キリストを認めるものとキリストを否定するもの(反キリスト)、教会と反教会、と言う世界を二分する避けることの出来ない対立があることが語られています。

 秘密結社は起源が有史以前に遡るものです。秘密結社は、真の天主に逆らい、教会の生命に対してやむことなく戦う地獄の勢力の化身なのです。天主の国に属するものは、最後に勝つでしょう。キリストに属するものは、反キリストをうち砕くでしょう。光の子に属するものは、この預言された勝利者である汚れ無きマリアによって勝利するでしょう。

マキシミリアノ神学生の言葉

 聖なるマキシミリアノ神学生の言葉を聞いてみましょう。

「天主の敵が優位に立つのを放っておけるだろうか。そして、祈りはするが活動はしないと言うことが考えられようか。

 私たちには、天主と汚れ無き聖母の御保護という最も強力な武器があるではないか。全ての異端者の撲滅者にまします〈汚れ無き聖母〉は、ご自分の指導に従順で忠実な僕を見出すなら、鎌首をもたげる敵に戦場を譲ることは決してなさらないだろう。かつ、聖母は思いも及ばない新しい大勝利を納め給うだろう。

 確かに、聖母は私たちを必要とはなさらない。しかし私たちに報いを得させようと、私たちをお使いになる。また、世間が軽蔑し、嘲笑するようなみすぼらしい人間、方法を使って、より大きな勝利を得ようとなさるのだ。

 私たちは聖母の御手の中の従順な道具となって、あらゆる正当な手段、例えば聖母に関する出版物、不思議のメダイの普及、また祈りと良い説教などを持って働く必要がある。

 だから、マリアの使徒職の手段は、汚れ無き聖母の御旗のもとに戦う意志を定め、騎士会に入会することだと言えよう。入会者は会員証として不思議のメダイを身につけ、聖母の御保護を願うために日中たびたび射祷を唱える。分けても教会の最大の敵である秘密結社の回心のために祈るのである。」

 聖母の騎士会は特定な人々の育成を目的とする信心会ではありません。マキシミリアノ神父はこう述べています。

「騎士会は群衆を動かして、群衆を悪魔の手から奪い返し、聖母に捧げられたものとし、汚れ無き聖母を通じて天主の御国の拡張のために英雄的な自己放棄の頂上にまで至らせるのである。騎士会にはあらゆる修道会、信心会、施設が参加することが出来る。騎士会に属すると言うことは、各メンバーに出来るだけ使徒活動に従属することを可能にする。このようにして、めいめいの身分、職業においてキリスト教的完徳が完成されていく。」

「愛する兄弟たちよ、聖母に信頼しましょう。聖母がましますことを信じましょう。聖母の光栄を表すことが必要であると信じましょう。聖母が私たちをご覧になり、私たちの願いを聞き入れ給うことを信じましょう。また、私たちは彼女のものとして、全く彼女に依存していることも、信じましょう。イエズス・キリストは人間として、天の御父の御もとにおける私たちの仲介者です。聖母マリアは、私たちとイエズス・キリストとの間に立つ仲介者であり、全ての聖寵は彼女を通して下るのです。聖母はイエズス・キリストによって仲介者と定められました。私たちはそれを堅く信じます。私たちは、聖母から聖寵を受け、聖母は私たちをイエズスの至聖なる聖心にお導き下さるのです。私たちの勝利というのは霊魂の救いです。」

「霊魂の成聖のために働こうと思うものは、まず自分から始めなければなりません。それゆえ、彼は真っ先に汚れ無き聖母と最も親密にならなければなりません。それで彼女から、人生のあらゆる瞬間毎に、より完全に天主の愛に進むことが出来るように、お恵みを受けなければならないのです。最も完全な方法で聖母に近づくものとは、自分の聖母の持ち物として捧げる人です。汚れ無き聖母へのまったき奉献、これが第1のかつ本質的な条件です。」

 聖コルベは、この聖母の戦士たちが世界中に広がらなければならないことを確信していました。或る証人はこう言っています。

「彼は布教活動について、熱情を込めて話をしていました。そしてある日、「汚れ無きマリアの戦士たちがポーランドだけではなく、ヨーロッパ、中国、日本、そして全世界に必要だ」と私が彼にいうと彼は非常に興奮し体をわなわなと震わせていました。」

「汚れなく宿り給いし聖マリアよ、御身により頼み奉る我らのため、また、全て御身により頼まぬもののため、とくに秘密結社の回心のために、祈り給え。」

 ローマで聖マキシミリアノ神学生と神学校生活を共にした同級生の証言によると、「私は一生の間、生きている人々の中で、マキシミリアノ神父よりも聖母を愛したという人に出会ったことがありません。彼は至聖なるマリアの本当の子でした。」(ヨゼフ神父)

 国際大神学校の校長イニューディ神父も、生徒名簿の277番にこう記録しています。

「マキシミリアノ・コルベ。ガリチア管区出身。1912年10月29日入学。1918年4月28日司祭叙階。グレゴリオ大学にて哲学博士号修得。1919年7月22日、本校にて神学博士号授与。1919年7月22日卒業。聖なる青年sanctus juvenis。」

聖コルベの決心

 聖コルベは1920年2月、ポーランドのクラコビアで黙想会を行いました。彼は、こう決心しました。

《〈毎日読み返すべき生活の規則〉
1 私は聖人、しかも、大聖人にならなければならない。
2 天主の光栄のために汚れ無き聖母を通じて、私、並びに全ての霊魂たちを救わなければならない。
3 あらかじめ大罪からだけではなく、意識してする小罪も避けること。
4 許してはならないこと
 イ 悪が償いとその根絶なしに残ること
 ロ 善が実らないこと、または、善が増大しないこと

10 おまえは汚れ無き聖母の独占的、無条件的、不解消的、かつ完全な所有物であることを覚えよ。おまえが持つ、或いは、持つであろう全ての言葉、考え、行為、傾向(好み、無関心)などは、全て聖母の完全な所有物であることを忘れてはなら無い。あらゆることについて「おまえが」ではなく「聖母が」お望みのままになし給わんことを。同じく、おまえの全ての意向も、聖母のものであり、聖母がそれを自由に支配し、改め、実施し給わんことを。何故なら、聖母は誤ることが出来ないからである。おまえは聖母の御手の道具だから、聖母がお望みになることのみをしなければならない。全てを聖母の御手よりいただけ。幼子が母に頼るように聖母に頼れ。聖母に信頼せよ。聖母の光栄のために働き、おまえとおまえのことについては聖母に委ねよ。いっさいのものは聖母から受けたものであることを認識しなければならない。おまえの働きの実りは全て聖母との一致にかかっている。あたかも聖母が天主のあわれみの道具であるように・・・。

 生(各瞬間)、死(いつ、どこで、どのように)、私の永遠、全ては聖母よ、御身のものなり。私のよりどころである聖母によればいっさいは可能。

 内的生命---何よりもまず、自己の成聖、同じく他人の成聖のために尽くす。》

コルベ神父の日本で受けた秘密

「1937年1月10日、日曜日、夕食後私たちはヤセルカと呼んでいたかわいらしいクリスマス劇を見ることになっていました。それはホールで上演されることになっており、修道士や小神学生が役者でした。誰もがこの夕べを楽しみにしていました。マキシミリアノ神父は夕食の時に劇の発表をしましたが、終生誓願者で自分と話をしたいものは食堂に残っても良いと告げました。

 夕食が終わって、ほとんどのものは劇を見に行きましたが、かなりのもの、ヒラリオ、カミロ、ルカ、エミリオ、ピオ・バルトシらの神父は食堂に留まりました。マキシミリアノ神父は『年齢に従って机を囲みましょう。打ち明け話があります。』と簡単に言いました。

 私たちは座りました。コルベ院長の右にピオ神父、そしてその周りに一同修道誓願をたてた順に席を占めました。マキシミリアノ神父は、慈愛の波に押し流され、かすかな感動に打ち震えながら話し出しました。

『私はおまえたちと一緒にいます。おまえたちは私を愛しており、私はおまえたちを愛しています。私は死にますが、皆さんは生き残るでしょう。

 この世を去る前に、記念を残しておきたいと思います。汚れ無き聖母のみ旨を果たすことを望みつつ、私は各自の自由に任せて、終生誓願者だけが残るようにしました。汚れ無き聖母がおまえたちをしてここに残るようにお望みになったのは1つの試しだと思います。

 おまえたちは私を院長神父と呼びます。その通りです。また私を編集長神父と呼びますが、それもその通りです。私が修道院と印刷所において、院長であり、編集長です。しかし、それにもまして直接に私はおまえたちにとって何者でしょうか。私はおまえたちの父親です。おまえたちの肉親の父親より以上に、私はおまえたちの父なのです。

 おまえたちは私を通じて霊的生命を受けました。おまえたちは私を通じて、この世の生命を越え、聖なる生命つまり修道生活への召命を受けました。私の言うことは本当のことではないですか。』

『確かに本当です。あなたがおいでにならなかったなら、聖母の騎士も、ニエポカラヌフも、私たちも、皆今ここにはいないでしょう。』と一人が答えると、別の一人は、『わたしは聖母の騎士誌を読んで、フランシスコ的使徒職を知りました。』と付け加えました。

また別のものは、『汚れ無き聖母の騎士誌は、私の中に修道生活への召命を芽生えさせました。』と述べました。

 このように各人様々な経験を淡泊に打ち明けたのですが、その後でマキシミリアノ神父は再び語り始めました。

『そうです。私はおまえたちの父です。私に対して院長とか編集長とかとして対するのではなく、単に父として接して下さい。おまえたちも気がついていると思いますが、私が話すときはいつも「おまえ」という呼びかけを使うのを知っているでしょう。そのわけは父親はそのこを呼ぶのに「おまえ」という親しい表現しか使わないからです。」

『愛する子供たちよ、聖母を愛しなさい。知っている限り、出来る限り、愛しなさい。』

 「皆を見回しながら、神父は心にある何か大きな秘密を打ち明ける様子を示していました。ただ、彼の深い謙遜がそれを妨げているようでした。遂に、恥ずかしそうに頭と目をおろし、感動を隠しきれなくなりました。その時の空気は何かしら、今から打ち明けられようとする神秘のように、厳かでした。神父は話し始めました。

『愛する子供たちよ、おまえたちは私がずっとおまえたちと一緒にいることが出来ないと言うことも知っているね。だから、記念として、何か言い残したいと思います。』

皆は異口同音に『どうぞおっしゃって下さい』と叫び、息をのみました。

『愛する子供たちよ、私がどんなに幸福か知ったなら・・・。私は幸せと平和であふれています。こんなに大きな幸せと平和を、この世でも味わうことが出来るのです。生活の矛盾の中にありながら、私の心の奥底には、いつも変わらない静けさが漂っています。愛する子供たちよ、汚れなき聖母を愛しなさい。聖母を愛するなら、聖母はおまえたちを幸せにして下さるでしょう。聖母に限りない信頼を寄せなさい。全ての人に汚れなき聖母を理解する恵みが与えられているのではありません。祈りによってのみ得られるものなのです。天主の御母は、至聖なる御母です。私たちは、〈母〉と言う言葉が何を意味するかを知っています。しかし、聖母は天主の御母であり、聖霊のみがご自分の花嫁を望む人に、望むときに、お知らせになるお恵みを与えになられます。・・・まだ、何か言いたかったのですが、これで十分でしょう。』

神父は一同を遠慮がちに見回されました。

私たちは、彼に、何も余すことなく打ち明けて下さるようにと願いました。彼は続けました。

『分かりました。言いましょう。先ほど私は非常に幸福で喜びに満ちあふれている、と言いましたね。それは、私が確実に天国に行けるという保証を与えられているからなのです。・・・愛する子供たちよ、聖母を愛しなさい。知っている限り、出来る限り、愛しなさい。』

 神父は、以上のことを感動にふるえつつ、目に涙を浮かべながら言いました。しばらく沈黙が続きましたが、ややあって彼はその沈黙を破りました。

『このことを教えたのは、もう充分でしょう。』

『まだ少なすぎます。もっと言って下さい。神父様、私たちはもうこのような最後の晩餐を過ごすことがないでしょう。』

『おまえたちがそんなにもせがむから、これだけ付け加えます。私が言ったことは、日本であったことなのです。愛する子供たちよ、もうこれ以上は言いません。このことについてもうこれ以上何も尋ねないで下さい。』

・・・

『私は秘密を明かしました。それはおまえたちに、艱難の時に力と精神的エネルギーを注ぎ込むためです。・・・愛する子供たちよ、素晴らしいことは望まないようにしましょう。けれども汚れなき聖母のみ旨を果たすようにして下さい。私たちの意志ではなく、聖母のご意志をです。・・・』

例外的な集いは終わりました。私たちは心だけではなく、唇にさえも、『汚れなき聖母を愛しなさい!愛する子供たちよ、汚れなき聖母を愛しなさい!』とつぶやきながら食堂を出ました。」(pp. 256-261)

聖母の御像がモスクワの中心に

 ロシアについてもマキシミリアノ神父はある程度その未来を承知していたと思われます。1937年2月、聖母の騎士会の20周年記念行事の際、聖コルベは講演しました。その公演中、聖なる創立者はこう主張したのです。

「汚れ無き聖母の騎士たちの手によって、聖母の御像がモスクワの中心に押し立てられるだろうと言うことが、遠い将来のことであるとか、単なる夢に過ぎないとか思わないようにしましょう。」(p265)

 そうです。汚れなき聖母を愛しましょう。汚れない聖母を私たちの知りうる限り、出来る限り愛しましょう。聖コルベに続きましょう。汚れなき聖母の戦士として戦いましょう。日本の回心のために、聖母の汚れなき御心に祈りましょう。我が祖国日本が、聖母の汚れなき御心にかなう、汚れなき御心の御国となるように、祈りましょう。日本のあらゆるところで、聖母の汚れなき御心が讃えられ愛されますように!

「汚れなく宿り給いし聖マリアよ、御身により頼み奉る我らのため、また、全て御身により頼まぬもののため、とくに秘密結社の回心のために、祈り給え。」

 

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無原罪の聖母の騎士:指導司祭の手紙第17号「眠ってはなりません、特に今は!」2021年10月16日はM.I.の創立記念日です

2021年10月15日 | M.I.(無原罪の聖...

聖伝の無原罪の聖母の騎士
Father Director's Letter No 17
指導司祭の手紙第17号

私たちは眠ってはなりません、特に今は!

親愛なる無原罪の聖母の騎士の皆さん、

事態は急展開しています。四方から敵が総攻撃を仕掛けてくるように見えます。このような時代に、誰によって確実な勝利がもたらされるのかを知らない人は滅びます。

「荒らす者のいとわしきもの」【マテオ24章15節】は、これまで知られていなかった残忍さをもって、電撃的な速さで広がっています。2021年7月16日、教皇は聖伝の聖なるミサに、いわば死刑を宣告しました。ファチマでは口による聖体拝領が禁じられていますが、これは世界中の非常に多くの教区と同じです。そういうところでは、司祭がいまでもあえて何人かの口にご聖体を授けようものなら、司祭はそのために罰せられています。注意していただきたいのは、これらの司祭の多くは、自ら手にご聖体を授けざるを得ない状態に甘んじていることです。これが意味するのは、教会の聖伝の教え全体を理解するには、まだ多くのことが必要だということです。結局、手による聖体拝領は、たった一回であっても、客観的に見れば恐るべき冒涜なのです! これらの司祭の中には、文字通り霊的に滅びる者もいれば、あらゆる種類のカリスマ的グループやセクトに転向したり、ご出現とされるものに執着したり、地下に潜ったり、支援や指導なしに独自の霊的スープ(ごった煮)を作る【自己流の】一匹狼になったりする者もいます。このようにして、保守派の間では絶望的な混乱が日に日に高まっているのです。

そのような司祭や信者の聖伝のミサへの道は、非常に長くかかることがよくあります。彼らは混ぜ物のない純粋な教えをほとんど知りません。保守的なカトリック信者は、自分たちの牧者に見捨てられ、追い出された後、千もの小さなセクトに分裂し、そのすべてが、カリスマ的な指導者、司祭、幻視者のいずれかが亡くなった後、無に帰するという大きな危険性があります。私が親交を持っている高位聖職者たちによれば、これこそが、聖伝のカトリック信者を脅かす最大の危機なのです。

ですから、私たちは、しっかりとした堅固な構造体【聖ピオ十世会】に結び付けられていることに、いったいどれだけ感謝しなければならないでしょうか。言葉にならないほどです。その構造体は、一切の妥協や追加をすることなく、カトリックの真理全体に揺るぎなく忠実であり続けています。その構造体は、天主の御摂理のおかげで、聖にして母なる教会の生活とわざの全体を、いわば小型版で継続することができています。その構造体は、60年間、多くの司祭や信者の心の中に漂ってきたすべての誤謬、一部は善意であっても、私たちに受け継がれてきたカトリックの信仰についての知識の欠如から生じたすべての誤謬から解放されています。

しかし、私たちにとっては、これだけでは十分ではありません。自分が受けたものを他の人に伝える努力とは別に、もう「一つの」救いの手段があります。しかし、私たちはそれを十分に使っていないのです。上記のような混乱した司祭や信者のほとんど全員は、あらゆることにもかかわらず、依然として共通する一つのものを持っており、共通の命綱を頼りにしていると言えるでしょう。それは、無原罪の聖母とそのロザリオです。ファチマの聖母の言葉によれば、これらは終末の時代のために残された最後の二つの救いの手段なのです。

もし私たちがこのことをさらに確信していたなら、無原罪の聖母の騎士として、次のファチマでのマリアの呼びかけに、さらに大きな熱意をもってお応えすることができるでしょう。「イエズスは、人々が私を知って愛するようになるために、あなたたちを利用したいと思っておられます」。何と責任ある使命でしょうか!

今、多くの友人の司祭たちによれば、善意の人々に聖母に関する書物、不思議のメダイ、ラ・サレット、ルルド、ファチマからの本物のメッセージをあふれさせる時期に来ています。しかし何よりも、私たちはこれらの人々を小さな軍隊、霊的な家族として団結させなければなりません。この家族は、多くの人々にとって、私たちの時代の暗闇の中で最後の確かな光となるでしょう。なぜなら、そこでは、しっかりとした霊的な栄養、教え、そして何よりも、この涙の谷で屈しないために必要な手段を受けることができるからです。

苦悩の中にあっても、私たちが献身的に取り組んでいるこの救いの活動以上に栄光あるものはないという事実を見落としてはなりません。

私たちがこれまで以上に善を行い、聖伝全体、唯一にして真のカトリックと使徒継承の信仰に人々を回心させる「御身の」道具となることができますように。私たちの周りが暗くなればなるほど、無原罪の聖母は海の星としてさらに明るく輝いて、私たちをお導きになり、霊魂たちを滅びからお救いになるのです。

先日、カラガンダ(カザフスタン)のヤン・レンガ(Jan Lenga)名誉大司教がワルシャワの無原罪の聖母の騎士会(MI)本部を訪問されました。彼は、「これは私たちの時代のための天主のみわざです」と熱弁をふるわれました。そして、書物やメダイの配布に協力することを約束してくださいました。別の司教は、「今まで以上に、皆さん(私たち騎士会のこと)は、マリアを通して人々を天主に導くことができます」と言われました。

信者、修道者、司祭、司教など、聖伝に触れようとする人がこれほど多くなったことはありません。このような探し求める人々が、私たちに「時間がない」という理由で、私たちから無下に扱われるとしたら、それは恥ずべきことです。私たちの使徒職の分野が拡大するにつれ、できるだけ多くの人々を聖母の足元に置くための努力を惜しまないよう、聖母が私たちを招いておられることは明らかです。

450年前の今日、ロザリオの聖母はレパントで栄光ある勝利を収められました。しかし、それは、聖母がその勝利のために命を捧げた道具である人々をお持ちだったからであり、その一部の人々は戦いに倒れたのです。確かに「神聖同盟」の兵士たちは聖人とは言えませんでしたが、寛大で犠牲になる覚悟があり、聖母への信頼に満ちていました。彼らの足跡をたどることは、私たちにとってどれほどの模範となるでしょうか!

戦略は単純であり、それを強化する必要はありません。マキシミリアノ・コルベ神父は、その知恵ですべてを用意してくれましたから、私たちは、神父が生涯を通じて無原罪の聖母の騎士会に与えた以下の教えに従うだけでいいのです。

1.マリアを知ること。私たちのすべての書物、「電子的使徒職」、講話や説教はこの目的に役立ちます。
2.マリアを愛すること。祈り、犠牲、不思議のメダイの配布、M.I.のさまざまな活動を通して、マリアが失われた子どもたちをお救いになるのを助けること。
3.他の人々がマリアを知るための道具となること。使徒職において創意工夫を凝らし、天主の御あわれみの「弾丸」を人々に何度も浴びせることをやめないこと。
4.他の人々がますますマリアを愛するようになるための道具となること。私たちの模範によって、マリアの愛を私たちが反映することによって、マリアと御子への私たちの忠実によって。

2021年10月16日は、またM.I.の創立記念日です【1917年10月16日ー2021年10月16日】。この日、私たちは、マリアの汚れなき御手の道具として、マリアへの奉献を更新し、全贖宥を得るだけでなく、何よりも、私たちの心を広げ、愛する子どもたちである霊魂たちの救いのための聖母自身の熱意で満たしてくださるよう無原罪の聖母にお願いしたいと思います。

私は心を込めて皆さんに挨拶し、私の司祭としての祝福を送ります。

2021年10月7日、聖なるロザリオの祝日に、ワルシャワにて。

カール・シュテーリン神父

【下の画像をクリックして“Knight of the Immaculata” No. 26をダウンロードしてください。】

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聖伝の聖母の騎士設立20周年 指導司祭(シュテーリン神父)からの手紙 No16

2020年12月16日 | M.I.(無原罪の聖...

 

指導司祭からの手紙 No16 聖伝の聖母の騎士設立20周年

聖伝の聖母の騎士設立20周年

親愛なる無原罪の聖母の騎士の皆さん、

私たちの聖伝の聖母の騎士のささやかな20周年を祝う年が終わりに近づいています。ここ数年を振り返ってみると、まず初めに、世界の五大陸の62ヶ国に、この小さな聖母の軍隊を広げることができたことを天主に感謝しないといけません。が、インマクラータなる聖母は、砂の上に建設することをお望みにならないので、今年は特に十字架と試練という方法によって、私たちに祝福を送って下さいました。つまり世界的な行動制限は(リーフレットやメダイなどの配布といった)外的使徒職を、不可能とまではいえなくても、非常に困難にさせました。私たちは皆、あまりに多くの問題に直面し、吸い込まれてしまっているので、騎士会の具体的側面、つまり霊魂の回心のためにインマクラータの道具となるということが、なんとなくぼやけてしまっています。

事実、私たちの多くは、ミサと秘跡の欠如という恐るべき孤独をいやというほど味わっています。一体誰が、今年の初めに、このような変化、このような惨事について考えたことでしょうか? さらには、教会とキリスト教道徳に反対する憎しみが、全世界でこれまで以上に野蛮な様相を呈しつつあります。そして、ローマからは、食べるように与えられるのは石であり、嘆かわしいいとわしいもの【偶像崇拝】だけを受け取っています……。この非常な悲しみのただ中で、喜びの機会となるべき20周年を祝うことは適切でしょうか? 今日、喜びはどこにあるのでしょうか?

ですから、M.I.(無原罪の聖母の騎士会)の創立者に、彼が私たちの立場にいたならしたであろうことを尋ねてみましょう。マキシミリアノ・コルベ神父も、私たちが今日経験しているよりもはるかに多くの困難を、その生涯の間で経験したことを思い出すなら、答えは難しくはありません。コルベ神父の全生涯は長く辛い試練であったことは事実です。結核を患ったことで、彼は医者たちから余命三ヶ月だと宣告されたいつでも死にかけていた人でした。M.I. の創立から最初の五年間、同僚たちからさんざんに嘲りを受け、誰からも理解されず、受け入れられない霊的孤独に陥りました。日本で過ごした六年間も同じでした──部下の修道士たちから背を向けられ、裏切られ、司祭仲間からは信用されず、敵意を抱かれ、資金は不足し、生活に必要なものさえもこと欠くありさまでした。

にもかかわらず、騎士会は発展して行く一方でした。1939年6月には13名の司祭、762名の修道士、100名以上の小神学生たちを数えることができ、彼らが世界に類を見ない良い出版物の使徒職のために互いに協力し合っていたのは、なんという素晴らしい成功でしょうか。その後、戦争が勃発しました。無原罪聖母の町はドイツ軍に没収され、修道士たちはほぼ全員動員され、最後の42人は投獄され、強制収容所に送還されました。なんという辛い経験。コルベ神父のすべての事業は終わりつつあると言えたかもしれません。

強制された牢獄そのものの空気の中で、絶望しきった囚人たち、ほとんどが軽蔑と残酷な憎悪のかたまりの、法律など無視した犯罪者や監視兵たちに取り囲まれながら、コルベ神父様とともに過ごした修道士たちは、どう反応し、行動したでしょうか? 今日の危機的混乱の中で、私たちはこの修道士たちの恐れ、悲しみ、苦しみをいくばくか想像できます。そして私たちの聖なる創立者は彼らに、そして私たちに対しても、何について思い起こさせるでしょうか?

マリア様に私たちをお捧げし、この完全なお捧げから生まれる実りです。「私たちは彼女に自らを与えました。私たちは彼女のためにすべての霊魂を勝ち得たいのです。ですから聖母は、私たちをご自分の持ち物として使用します。私たちはそのことに感謝すべきです。私たちはニエポカラノフではなく、今ここで必要とされています。聖母はなんと偉大であることでしょうか! なぜなら、彼ら[ドイツ軍]は私たちをただで連れてきてくれました。ここには兵舎があり、食べ物もあります。これは、多くの人々にとって、彼らの状況を天主に秩序づけるための唯一の好機、あるいはこの苦しみを平和のうちに耐え忍ぶ強さを見つけるために、宗教の中によりいっそうの関心を彼らの中に目覚めさせる唯一の好機となるかもしれないからです。兄弟たちに怒り、呪うことに時間を費やしていた他の人々は、今や良い方に変わりつつあります。」

試練を克服するためには、試練とはインマクラータのご意思の表れであると理解することが必要です。「勇気を挫かれる理由はありません。困難と苦しみは常にあるでしょう。インマクラータへの愛のゆえに、私たちがミサやご聖体拝領にあずかれないという悲しみを忍ばなければならないならば、彼女によって多くの霊魂が救われることは可能です。それらの霊魂たちが、創造主なるおん父や、全ての恩寵の仲介者である天のおん母のみ名さえも知らない異教徒であろうと、異端者や宗教に無関心な人々であってもそうです。インマクラータがお望みなら、私たちは(ニエポカラノフへ)戻るでしょうし、戦争前にしていたように働くでしょうし、他の国々にも行くでしょう。でも私たちは彼女の望みを阻止したくはありません。それがインマクラータのご意思ならば、たとえ他の人々が解放されたとしても、私たちはここで死ぬことさえも望みます。」

暗い未来への恐れに直面して、私たちは絶対の信頼をみ摂理に置かなければなりません。「何が起きるだろうか、起きないだろうか、どうやって働こうか、どこにいることになるだろうか、と将来について思い煩うことは私たちの領分ではありません。このすべてのことは、ごく些細なことに到るまでみ摂理によって導かれているからです。インマクラータは間違いなくすべてをご存知です。そして天主の許しなくして何事も起こり得ないという考えは、私たちを間違いなく落ち着かせてくれます。インマクラータはその目的を達成するでしょうし、何も、誰も、彼女の意向の実現を妨げることはできません。全世界と全悪魔は天主の許可なくして何もできません。インマクラータに私たちを導いていただきましょう! この道は私たちのためであると彼女がお選びになるなら、それは私たちにとってより大いなる善のために他なりません。そうして、すべての兄弟たちの心は、きらめく火花のように、新たな炎を周囲に点火させるでしょう。こうしてインマクラータの軍隊の理想、霊魂たちを無原罪のマリアのもとへとますます近づけて聖化させるという理想が達成されるでしょう。

コルベ神父は、私たちが苦しみと辱めから引き出せる超自然的利益についても私たちに教えています。「霊魂たちの回心のためにする私たちの努力を促進させるためには、天主はさまざまな十字架をお許しになります。それらが他の人々の意思に依存していようといまいと、善意から来るものであろうとなかろうと。それは注がれる恩寵の広大な畑です。これらの中でも最も有益な財産は、他人に悩ませられることからくる苦しみです。なぜなら、その後、私たちの望徳はいや増すからです。こうして私たちは「天にまします」のこの一節「我らが人に赦す如く、我らの罪を赦し給え」(マテオ6:12)をより大いなる喜びをもって唱えることができます。もし何も赦しを乞うべきものがないなら何という不幸、一日のうち赦すべき多くの侮辱があるならばなんという幸福でしょう。もちろん、自然本性は苦しみと辱めに直面して身震いします。でも、信仰の目で見るなら、私たちの霊魂を清めるためにはどれほど必要なことであり、なんと甘美なことでしょう。天主との親密さをより深める、さらに効果的な祈りと行動へとどれほど貢献してくれるでしょう。」

これこそまさに、私たちの創立者が、今日、私たちに向けて言っていることです。

マキシミリアノ・コルベにとって、最大の試練はまた、最大の恩寵が注がれる時であるということは明白でした。幼きイエズスの聖テレジアは、世の終わりの日々に生きたいという望みを表していました。彼女は最大の試練のさなかで、イエズスへの彼女の愛をお見せしたかったからであり、また、彼女はその忠実さによってどれほど多くの霊魂が救われるか知っていたからです。事実、私たちはすでに悪からより大きな善をもたらすインマクラータの慈悲深いみわざを理解しています。つまり、回心は増えていき、多くのカトリック信者は目覚め、今まで以上に聖伝への立ち戻りがある、ということです。

私たちには、歴史上、今までにない特別な瞬間を生きる機会が与えられています。ですから「ボートに乗り遅れないように(機会を逃さないように)」しましょう! 今まで以上にロザリオを握りしめて、熱心に唱えましょう。「誰も私たちからロザリオを取り上げることはできません。」ですからミサの自由化と召命のための十字軍に、心を込めて参加しましょう。そして何よりもまず、毎月の五回の初土曜日の信心によって、汚れなき御心に信心することを要求なさったファチマの聖母の祝福と約束のしるしを忘れないようにしましょう。そうすれば、私たちは失望しないばかりか、頭を高く上げて、忠実な騎士として、将来降りかかって来るいかなることにも立ち向かえるでしょう。

最後に、アウシュヴィッツの強制収容所で死にゆく聖マキシミリアノ・コルベに目を向けましょう。彼は喜んで、仲間の囚人の身代わりとなり、残りの人々を回心させて死の準備をさせました。エタノール注射をしようと誰かが近づいてくると、彼はこの世のものからではない微笑みを浮かべて迎えました。このようにしてインマクラータはご自分に捧げた一生に報いてくださるのです。

この困難な時代において、私たちにとって素晴らしい合言葉となるべき、闇を照らす光のようなコルベ神父のアドバイスで締めくくりとします。「自分に依存することをよく行いなさい、そして自分に依存しないことを耐え忍びなさい──これこそが完徳であり、この世におけるまことの幸福の源です。」


2020年12月8日、無原罪のおん宿りの祝日、ワルシャワにて。
カール・シュテーリン神父

https://www.militia-immaculatae.asia/english/info1742.php

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【再掲】1830年11月27日:不思議のメダイの聖母の御出現「これをモデルにしてメダイを作りなさい。それを身につける全ての人は、豊かな恩寵を受けるでしょう。」

2020年11月27日 | M.I.(無原罪の聖...

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

11月27日は、不思議のメダイの聖母の御出現の日です。

心のともしびウェブ・サイトの記事の抜粋をご紹介いたします。【サイトにあった誤字を訂正し加筆しました】

【カタリナ・ラブレ】

 カタリナ・ラブレは学校教育を受ける機会に恵まれなかった農家の娘でした。彼女は1806年に北フランスの片田舎、ファン・レ・ムティエ村に生まれ、9歳の時に母を失いました。この母の死は幼い少女にとって、大きなショックでありましたが、イエズスの母なるマリアに頼ることにより、慰めを見いだしました。母の死を知って、カタリナは、母の寝室の椅子に上り、高い棚においてあった聖母像を取り、それを胸に抱きしめて大声でいいました。「愛する聖母よ、私のお母さんになってください」

 以前より、教会ではマリア様への崇敬の念がありましたが、この感動的な出来事が起こってから、マリアの時代が始まったと言えるでしょう。

 その日から、カタリナは聖母に対して、より深い献身的な愛情を捧げること出来る神秘的な力を持った人になったように思えます。未だ年端もいかない少女であったにもかかわらず、母代わりとなって、家族の面倒をみなければなりませんでした。父や3人の弟、1人の妹、それに14人の雇い人のために、食事のしたく、裁縫、洗濯などの仕事が彼女に課せられました。これらの仕事をしたうえに、彼女は、毎朝に未だ日の昇らない前に家を出て、5キロ先の教会でミサにあずかる時間や、毎日祈る時間をもみつけたのでした。彼女は特に古くいたんだお告げのマリアの御絵の前で祈ることが好きでした。

【修道生活志願者としてのカタリナ】

 彼女が18歳になり、妹が家事を引き受けられる年齢に達した時、カタリナは、父親に修道院に入る許可を願い出ました。父親は、この願いを許すどころか激しく反対し、彼の弟がパリで経営するカフェへ、ウェイトレスとして送ってしまったのです。父親は、都会での魅惑的な生活が、カタリナに、修道女への望みを忘れさせてくれるのではないかと思ったからです。

 しかし、彼の思惑通りにはなりませんでした。彼女の修道生活への望みは強まるばかりでした。

 遂に父親は、彼女の望みを入れて許可を与えました。しかしながら父親の許可だけではカタリナの問題は解決しませんでした。彼女が入会を希望していたパリの愛徳童貞会が申し込みを拒んだからです。理由は彼女に教育がないということでした。

 しかし彼女は再び願い出ました。他の修道会の修道女の助けもあって、遂に彼女は教育こそ受けていないが、修道院において、手仕事、祈り、犠牲で奉仕出来ることを総長に悟らせました。

 そして1830年1月22日、彼女は志願者として会に受け入れられることになりました。

 4ケ月後にカタリナは、パリのバク通り140番地で修練女として入会を許可されました。カタリナが御出現を見はじめたのは、この修練時代でした。この修練女としての9ケ月間に、彼女は聖堂に入るたびに、聖体の中に確かに在すキリストの御姿をまのあたりに見たのです。

【聖母マリアの出現】

 このように何度も彼女がキリストの御姿に接したあと聖母マリアの御出現が続きました。カタリナは最初の御出現の様子を次のように語っております。

 「聖ヴィンセンシオ(愛徳童貞会創立者)の祝日の前夜(1830年7月18日)、修院長マザー・マルタは諸聖人への信心、とりわけ聖母マリアに対する信心についての話を、私たちにしてくださいました。この話は、聖母マリアにお目にかかりたいという、私の望みを一層強くさせましたので、その夜、それが実現するかもしれないという思いで床についたのです。それは、私が長い間念願していたものでした」

 「私たちは聖ヴィンセンシオの祭服の一部をいただきました。私はその布切れを半分にさき、呑み込みました。そして聖ヴィンセンシオが聖母にお目にかかれる恵みを取り次いでくださることを確信して眠りについたのです」

 「11時半に『シスター、シスター』と、だれかが私の名前を呼ぶのを聞きました。はっきり目が覚めた私が声のする方を見ると、白衣をまとった4、5歳の男の子が見えました。その子は私に、『早く起きて聖堂にいらっしゃい。聖母マリアがそこであなたをお待ちです』と言いました。とっさに私には次のような考えがひらめきました。だれかが気付くのではないか、と。子供は答えました。『心配しないで。今は11時半です。みんな眠っています。いらっしゃい。待っています』

 私は子供といっしょに御聖堂の方へ歩いて行きました。非常に驚いたことには、私たちの行く先々には、燈がともされていました。聖堂の入口で私の驚きは頂点に達しました。その子が指先で扉に触れるか触れないうちに、扉がひとりでに開いたのです。すべてのランプとロウソクが燃え立っているのを眺めることはほんとうにすばらしいことでした。それは、クリスマスの深夜ミサを思わせました。しかし聖母の御姿は見えませんでした。子供は私を祭壇のそばにある司祭用の椅子の方へ連れて行き、彼もそこで待っていました。長い時間が経ったと思われましたが、遂にその時がやって来ました。子供は私に告げました。『聖母マリアがいらっしゃいます。ここにいらっしゃいます』

 絹ずれのような音が、聖ヨゼフの御絵のそばの祭壇の方から、こちらへ向かってくるのが聞こえ、一人の婦人が、祭壇の前においてある椅子に、腰をかけるのを見ました。私は、その婦人が聖母マリアであるかどうか疑わしく思いました。ずっと私の側に立っていた子供は再び言いました。『このお方は聖母マリアです』

 この瞬間に、私は自分が何を感じ、何が私を通り抜けたかをいい表すことが出来ませんでした。なぜなら、私はそれが聖母であると思えなかったからです。その時、その子は、大人のような強い口調でいいました。『そのお方は聖母です』

 私は、聖母の前にひざまずき、手を聖母の御膝にかけたのです。私の一生涯の中で、最も甘美な一瞬が過ぎました。私は何を感じたかを述べることは出来ません。聖母は、私に霊的指導司祭に対しては、どのようにふるまえぱよいのかを話してくださり、いくつかの話してはならない事柄をつけ加えられました。また、祭壇の下を指さして、『困難に出会った時には、ここへ来て心を開くように、そうすれば必要なすべての慰めを受けるでしょう』とおっしゃいました。

 どのぐらい聖母のもとにとどまっていたかわかりません。彼女がお去りになる時は、先ほど来られた祭壇の方へ消えて行かれました。

 祭壇の階段から身を起こすと子供は先ほどの場所におりました。彼は、『聖母は行っておしまいになりました』と私に告げました」

 「私たちは、もと来た道を通って帰りましたが、その道は燈で照らされ、子供はずっと私の左側につきそっていました。この子供は、私の守護の天使であったと思います。私は、常に守護の天使に聖母を見るお恵みに与かれるよう祈っていましたので、彼が、私の前に現れて聖母のもとへ案内してくれたものと考えております。彼は白衣に身を包み、日光よりも輝かしい神秘的な光を発していました。ベッドに戻ると時計が2時を打つのが聞こえました。その夜、私はとうてい眠ることが出来ませんでした」

 この時カタリナは、聖母と共に2時間以上過ごしました。彼女は、その御出現の時に語られた聖母の御言葉をつけ加えました。聖母は、天主がカタリナに特別の使命をお委ねになるだろうと告げられました。またカタリナが属している修道会に関しての御勧告も与えられました。最後に、聖母マリアは、全世界に向けて御忠告なさいました。

 聖母の御言葉は、

 「現代は悪の時代です。世界はあらゆる悲惨な目にあうでしょう。けれど祭壇のもとにいらっしゃい。御恵みを願う全ての者、偉大な者にも、とるに足らない者にも御恵みはそそがれるでしょう」

【1830年11月27日:メダイを作りなさい】

  この最初の聖母御出現は、次にカタリナが述べている不思歳のメダイで有名な御出現の前ぶれでした。

 「1830年11月27日、黙想していました時、私は、聖ヨゼフの御絵近くの祭壇から絹ずれのような音を聞きました。その方を見ますと、聖ヨゼフの御絵の高さ位の所に、聖母がいらっしゃるのが見えました。聖母はお立ちになっていらっしゃいました。彼女は中背で白い衣服を召しておられました。お顔の美しさはたとえようもありませんでした」

 「彼女は地球の半分の上に立っておられ、その御足は、緑色に黄色の斑点を持つへびを踏みつけられておりました。御手は胸の下の位置まで上げられ、小さな金色の十字架を上にいただいた世界を象徴する球をあたかも神にお捧げになっているかのように、大変くつろいだ御様子でお持ちになっていらっしゃいました。

 聖母は先ず御目を天に向けられ、そして地に向けられました。私は、各々の指に三つずつ指輪がはめられているのを見ました。きらきら光る宝石で作られたそれぞれの指輪は、四方に輝き渡り、その光は御足元にまであふれ、聖母の御足も見えませんでした。その瞬間、聖母は御目を下に向けられ、私をごらんになりました。私は次のようなお声を聞きました。

 『あなたが見ているこの球は、世界を、特にフランス、とりわけ個々の人々を象徴しています。

そして、この光は願い求める人々に注がれている恵みを象徴しています』

 これによって私は、聖母に祈ることが間違いでないことがよくわかりました。また、彼女に御取次を願う人々には、豊かに報われることもわかったのです。この時聖母のまわりに楕円形のわくが出来その中には、金文字で『原罪なくしてやどり給いし聖マリア、御身に依り頼み奉る我等の為に祈り給え』と、記されていました」

 「金色の球は消え失せ、御手が差しのべられました。その御腕は御恵みの宝石の重みで下がりました。そしてお声がしました。

 『これをモデルにしてメダイを作りなさい。それを身につける全ての人は、豊かな恩寵を受けるでしょう。それを首におかけなさい。深い信頼をもってそれを身につける人々は、恵みで満ちるでしょう』

 その時、私には、その絵が裏返ったように見えました。私はメダイの裏を見ました。一本の横木と、十字架をいただい大きなMの字、その下には、二つのみ心、即ち茨の冠でかこまれたイエズスのみ心と、剣でさしつらぬかれたマリアのみ心がありました。そしてその光景は失せました」

 メダイは聖母の御指示にそって作られ、広く普及されることとなりました。このメダイがあまりにも速く広がり、驚くべき恩寵をもたらしましたので、"不思議のメダイ"と名づけられました。

«原罪なくして宿り給いし聖マリア、御身に依り頼み奉るわれらのために祈り給え。»

「汚れなき聖母の騎士会の歌」

汚れ知らぬ 清きみ母
天(あめ)と地との きさいマリア
罪人らの よりどころよ
我らの愛 母なる君
主はことごとく 慈悲の恵みを
君の御手に ゆだね給う
罪ふかき 我らなれど
身許に馳せより 伏して祈る


御身こそは 「み踵(かかと)もて
蛇のかしら 踏みて砕く」
そのお方よ、ただ一人で
全ての誤謬 滅ぼし給う
マリアの騎士は うまずたゆまで
我が身すべて 御手に委(ゆだ)ねん
命も死も 身も心も
御旨のままにぞ 使い給え


いと優しき われらの母
汚れの無き 愛の炎 
真理(まこと)の道 避難所(よりどころ)よ
み母を知る 慈悲の恵み
迷える子らに 与え給えよ
主の恵みは 御手を通し
救い主の 聖心から
潤いあふれて 与えらるる

 



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1830年11月27日:不思議のメダイの聖母の御出現「これをモデルにしてメダイを作りなさい。それを身につける全ての人は、豊かな恩寵を受けるでしょう。」

2019年11月27日 | M.I.(無原罪の聖...
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日は、不思議のメダイの聖母の御出現の日です。

心のともしびウェブ・サイトの記事の抜粋をご紹介いたします。【サイトにあった誤字を訂正し加筆しました】

【カタリナ・ラブレ】

 カタリナ・ラブレは学校教育を受ける機会に恵まれなかった農家の娘でした。彼女は1806年に北フランスの片田舎、ファン・レ・ムティエ村に生まれ、9歳の時に母を失いました。この母の死は幼い少女にとって、大きなショックでありましたが、イエズスの母なるマリアに頼ることにより、慰めを見い出しました。母の死を知って、カタリナは、母の寝室の椅子に上り、高い棚においてあった聖母像を取り、それを胸に抱きしめて大声でいいました。「愛する聖母よ、私のお母さんになってください」

 以前より、教会ではマリア様への崇敬の念がありましたが、この感動的な出来事が起こってから、マリアの時代が始まったと言えるでしょう。

 その日から、カタリナは聖母に対して、より深い献身的な愛情を捧げること出来る神秘的な力を持った人になったように思えます。未だ年端もいかない少女であったにもかかわらず、母代りとなって、家族の面倒をみなければまりませんでした。父や3人の弟、1人の妹、それに14人の雇人のために、食事のしたく、裁縫、洗濯などの仕事が彼女に課せられました。これらの仕事をしたうえに、彼女は、毎朝に未だ日の昇らない前に家を出て、5キロ先の教会でミサにあずかる時間や、毎日祈る時間をもみつけたのでした。彼女は特に古くいたんだお告げのマリアの御絵の前で祈ることが好きでした。

【修道生活志願者としてのカタリナ】

 彼女が18歳になり、妹が家事を引き受けられる年齢に達した時、カタリナは、父親に修道院に入る許可を願い出ました。父親は、この願いを許すどころか激しく反対し、彼の弟がパリで経営するカフェへ、ウェイトレスとして送ってしまったのです。父親は、都会での魅惑的な生活が、カタリナに、修道女への望み忘れさせてくれるのではないかと思ったからです。

 しかし、彼の思惑通りにはなりませんでした。彼女の修道生活への望みは強まるばかりでした。

 遂に父親は、彼女の望みを入れて許可を与えました。しかしながら父親の許可だけではカタリナの問題は解決しませんでした。彼女が入会を希望していたパリの愛徳童貞会が申込みを拒んだからです。理由は彼女に教育がないということでした。

 しかし彼女は再び願い出ました。他の修道会の修道女の助けもあって、遂に彼女は教育こそ受けていないが、修道院において、手仕事、祈り、犠牲で奉仕出来ることを総長に悟らせました。

 そして1830年1月22日、彼女は志願者として会に受け入れられることになりました。

 4ケ月後にカタリナは、パリのバク通り140番地で修練女として入会を許可されました。カタリナが御出現を見はじめたのは、この修練時代でした。この修練女としての9ケ月間に、彼女は聖堂に入るたびに、聖体の中に確かに在すキリストの御姿をまのあたりに見たのです。

【聖母マリアの出現】

 このように何度も彼女がキリストの御姿に接したあと聖母マリアの御出現が続きました。カタリナは最初の御出現の様子を次のように語っております。

 「聖ヴインセンシオ(愛徳童貞会創立者)の祝日の前夜(1830年7月18日)、修院長マザー・マルタは諸聖人への信心、とりわけ聖母マリアに対する信心についての話を、私たちにしてくださいました。この話は、聖母マリアにお目にかかりたいという、私の望みを一層強くさせましたので、その夜、それが実現するかもしれないという思いで床についたのです。それは、私が長い間念願していたもの でした」

 「私たちは聖ヴインセンシオの祭服の一部をいただきました。私はその布切れを半分にさき、呑み込みました。そして聖ヴィンセンシオが聖母にお目にかかれる恵みを取り次いでくださることを確信して眠りにっいたのです」

 「11時半に『シスター、シスター』と、だれかが私の名前を呼ぶのを聞きました。はっきり目が覚めた私が声のする方を見ると、白衣をまとった4、5歳の男の子が見えました。その子は私に、『早く起きて聖堂にいらっしゃい。聖母マリアがそこであなたをお待ちです』と言いました。とっさに私には次のような考えがひらめきました。だれかが気付くのではないか、と。子供は答えました。『心配しないで。今は11時半です。みんな眠っています。いらっしゃい。待っています』

 私は子供といっしょに御聖堂の方へ歩いて行きました。非常に驚いたことには、私たちの行く先々には、燈がともされていました。聖堂の入口で私の驚きは頂点に達しました。その子が指先で扉に触れるか触れないうちに、扉がひとりでに開いたのです。すべてのランプとロウソクが燃え立っているのを眺めることはほんとうにすばらしいことでした。それは、クリスマスの深夜ミサを思わせました。しかし聖母の御姿は見えませんでした。子供は私を祭壇のそばにある司祭用の椅子の方へ連れて行き、彼もそこで待っていました。長い時間が経ったと思われましたが、遂にその時がやって来ました。子供は私に告げました。『聖母マリアがいらっしゃいます。ここにいらっしゃいます』

 絹ずれのような音が、聖ヨゼフの御絵のそばの祭壇の方から、こちらへ向かってくるのが聞こえ、一人の婦人が、祭壇の前においてある椅子に、腰をかけるのを見ました。私は、その婦人が聖母マリアであるかどうか疑わしく思いました。ずっと私の側に立っていた子供は再び言いました。『このお方は聖母マリアです』

 この瞬間に、私は自分が何を感じ、何が私を通り抜けたかをいい表わすことが出来ませんでした。なぜなら、私はそれが聖母であると思えなかったからです。その時、その子は、大人のような強い口調でいいました。『そのお方は聖母です』

 私は、聖母の前にひざまずき、手を聖母の御膝にかけたのです。私の一生涯の中で、最も甘美な一瞬が過ぎました。私は何を感じたかを述べるとは出来ません。聖母は、私に霊的指導司祭に対しては、どのようにふるまえぱよいのかを話してくださり、いくつかの話してはならない事柄をつけ加えられました。また、祭壇の下を指さして、『困難に出会った時には、ここへ来て心を開くように、そうすれば必要なすべての慰めを受けるでしょう』とおっしゃいました。

 どのぐらい聖母のもとにとどまっていたかわかりません。彼女がお去りになる時は、先程来られた祭壇の方へ消えて行かれました。

 祭壇の階段から身を起こすと子供は先程の場所におりました。彼は、『聖母は行っておしまいになりました』と私に告げました」

 「私たちは、もと来た道を通って帰りましたが、その道は燈で照らされ、子供ばずっと私の左側につきそっていました。この子供は、私の守護の天使であったと思います。私は、常に守護の天使に聖母を見るお恵みに与かれるよう祈っていましたので、彼が、私の前に現われて聖母のもとへ案内してくれたものと考えております。彼は白衣に身を包み、日光よりも輝かしい神秘的な光を発していました。ベッドに戻ると時計が2時を打つのが聞えました。その夜、私はとうてい眠ることが出来ませんでした」

 この時カタリナは、聖母と共に2時間以上過しました。彼女は、その御出現の時に語られた聖母の御言葉をつけ加えました。聖母は、神がカタリナに特別の使命をお委ねになるだろうと告げられました。またカタリナが属している修道会に関しての御勧告も与えられました。最後に、聖母マリアは、全世界に向けて御忠告なさいました。

 聖母の御言葉は、

 「現代は悪の時代です。世界はあらゆる悲惨な目にあうでしょう。けれど祭壇のもとにいらっしゃい。御恵みを願う全ての者、偉大な者にも、とるに足らない者にも御恵みはそそがれるでしょう」

【1830年11月27日:メダイを作りなさい】

  この最初の聖母御出現は、次にカタリナが述べている不思歳のメダイで有名な御出現の前ぶれでした。

 「1830年11月27日、黙想していました時、私は、聖ヨゼフの御絵近くの祭壇から絹ずれのような音を聞きました。その方を見ますと、聖ヨゼフの御絵の高さ位の所に、聖母がいらっしゃるのが見えました。聖母はお立ちになっていらっしゃいました。彼女は中背で白い衣服を召しておられました。お顔の美しさはたとえようもありませんでした」

 「彼女は地球の半分の上に立っておられ、その御足は、緑色に黄色の斑点を持つへびを踏みつけられておりました。御手は胸の下の位置迄上げられ、小さな金色の十字架を上にいただいた世界を象徴する球をあたかも神にお捧げになっているかのように、大変くつろいだ御様子でお持ちになっていらっしゃいました。

 聖母は先ず御目を天に向けられ、そして地に向けられました。私は、各々の指に三つづつ指輪がはめられているのを見ました。きらきら光る宝石で作られたそれぞれの指輪は、四方に輝き渡り、その光は御足元にまであふれ、聖母の御足も見えませんでした。その瞬間、聖母は御目を下に向けられ、私をごらんになりました。私は次のようなお声を聞きました。

 『あなたが見ているこの球は、世界を、特にフランス、とりわけ個々の人々を象徴しています。

そして、この光は願い求める人々に注がれている恵みを象徴しています』

 これによって私は、聖母に祈ることが間違いでないことがよくわかりました。また、彼女に御取次を願う人々には、豊かに報われることもわかったのです。この時聖母のまわりに楕円形のわくが出来その中には、金文字で『原罪なくしてやどり給いし聖マリア、御身に依り頼み奉る我等の為に祈り給え』と、記されていました」

 「金色の球は消え失せ、御手が差しのべられました。その御腕は御恵みの宝石の重みで下りました。そしてお声がしました。

 『これをモデルにしてメダイを作りなさい。それを身につける全ての人は、豊かな恩寵を受けるでしょう。それを首におかけなさい。深い信頼をもってそれを身につける人々は、恵みで満ちるでしょう』

 その時、私には、その絵が裏返ったように見えました。私はメダイの裏を見ました。一本の横木と、十字架をいただい大きなMの字、その下には、二つのみ心、即ち茨の冠でかこまれたイエズスのみ心と、剣でさしつらぬかれたマリアのみ心がありました。そしてその光景は失せました」

 メダイは聖母の御指示にそって作られ、広く普及されることとなりました。このメダイがあまりにも早く広がり、驚くべき恩恵をもたらしましたので、"不思議のメダイ"と名づけられました。

«原罪なくして宿り給いし聖マリア、御身に依り頼み奉るわれらのために祈り給え。»

「汚れなき聖母の騎士会の歌」

汚れ知らぬ 清きみ母
天(あめ)と地との きさいマリア
罪人らの よりどころよ
我らの愛 母なる君
主はことごとく 慈悲の恵みを
君の御手に ゆだね給う
罪ふかき 我らなれど
身許に馳せより 伏して祈る


御身こそは 「み踵(かかと)もて
蛇のかしら 踏みて砕く」
そのお方よ、ただ一人で
全ての誤謬 滅ぼし給う。
マリアの騎士は うまずたゆまで
我が身すべて 御手に委(ゆだ)ねん。
命も死も 身も心も
御旨のままにぞ 使い給え


いと優しき われらの母
汚れの無き 愛の炎 
真理(まこと)の道 避難所(よりどころ)よ、
み母を知る 慈悲の恵み
迷える子らに 与え給えよ。
主の恵みは 御手を通し
救い主の 聖心から
潤いあふれて 与えらるる。

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聖母マリアの代わりにパチャママ?!― 祈りと償いの呼びかけ

2019年11月16日 | M.I.(無原罪の聖...
アヴェ・マリア・インマクラータ!

指導司祭の手紙第15号
聖母マリアの代わりにパチャママ?―償いの呼びかけ

愛する無原罪の聖母の騎士の皆さん!

アマゾン・シノドスのあと、聖ピオ十世会総長は祈りと償いを呼びかけました。「最近のアマゾン・シノドスは、恐るべき偶像崇拝の儀式が、かつてない、また信じられない方法で、天主の聖所に侵入した忌まわしい出来事の舞台となりました」。

裸の身ごもった女性の人形がシノドスに持ち込まれました。ローマにある、聖母に奉献された教会の中で、それらはご聖体の前に置かれ、何度も敬われたのです。これらの像は、先住民の神であるパチャママを表しています。


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この冒涜はまた、アマゾン・シノドスに関するカトリック信者に向けた公開書簡の中で、アタナシウス・シュナイダー司教によっても非難されました。


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これら第一戒に反する罪に加えて、これらの行為はとりわけ忌まわしいものでした。すなわち、私たちの母にして元后である聖母への侮辱です。パチャママは、インカの人々によって太陽神の母として礼拝されていたのであり、そのため先住民の異教の「神の母」のようなものです。ですから、シノドスの期間中には、パチャママが一種の聖母の代わりとして使用されたと言うこともできるでしょう。

このシノドスの保護聖人としてマリア―特にラテンアメリカの回心を実現してくださったグアダルーペの聖母―を選んで崇敬する代わりに、パチャママが選ばれ、このように偶像が敬われたのです。行われたさまざまな儀式が偶像崇拝だったという事実は、以下の出来事によって明確に、かつ疑う余地なく証明されています。

ヴェローナのある小教区では、ミッションのための徹夜の祈りの間に、ある司祭がパチャママに対する祈りを読み上げました。その祈りは、「良き母であるパチャママよ、われらをあわれみ給え! われらに恵みを与え給え!」、というものでした。ところが、この祈りは、イタリアの教皇庁宣教事業団「ミッシオ」によって発行されたということが判明したのです。


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シノドス期間中、参加者たちが教会に対して「女性にして母なる顔」を与えることを望んだということが聞かれました。しかし、それは私たちの天の母ではありませんでした。

聖母はすでに第二バチカン公会議においておとしめられています。第二バチカン公会議のとき、すべての恵みの仲介者としてのマリアの教義は、エキュメニズムという黄金の子牛のために犠牲にされました。さらに、もともと草案されていた教令を捨てることによって、聖母の役割は全般的に可能な限り縮小されました。祝せられし童貞は、教父たちを照らすため、「もうぶどう酒がありません」と御子に助けを願うために、公会議の中心にいらっしゃることはなくなりました。

ですから、ローマの高位聖職者たちは、自分たちだけで行動しなければならないようになってしまい、敵の誘惑を受けやすくなってしまったのです。聖母がラ・サレットやファチマで緊急に警告なさった背教の後に、今や偶像崇拝が続いているのです。

無原罪の聖母の騎士会は、私たちの母である聖母のほまれを守るよう特に呼ばれています。そもそも騎士たちのあいさつの呼びかけは、「無原罪の聖母にほまれあれ」であり、元后をお守りすることは騎士としての義務だからです。こういう訳で、私たちはパリャラーニ神父の呼びかけに加わり、特にマリアの汚れなき御心に対する侮辱を償いたいと望みます。

どうすれば、この償いをすることができるでしょうか?

1.私は、来る初土曜日(12月7日)を特別に守り、その日を、この意向で、償いのわざとして捧げるように皆さんに呼びかけます。

その日は、私たちMIの保護聖人の日である無原罪の御孕りの祝日の前日の12月7日に当たります。イエズスとマリアがお望みになったこれらの日々の償いが、今日ほど正確かつ重要であったことはかつてありません。

この信心を、新たな熱意をもって実践しましょう。聖体拝領をお捧げし、毎月聖なる告解に行き、聖なるロザリオを祈り、マリアのそばで15分間ロザリオの玄義を黙想しましょう。また、このすべてを、マリアをお慰めするために、マリアの汚れなき御心に対して犯される罪に対する犠牲と償いの精神をもってお捧げしましょう。


2.ファチマの天使の祈りは、今、かつてないほど重要をもっています。
「わが天主よ、われ信じ、礼拝し、希望し、御身を愛し奉る! われ信ぜぬ人々、礼拝せぬ人々、希望せぬ人々、御身を愛さぬ人々に、御身に御赦しを願い奉る」。
この精神で頻繁にこれを祈り、天使が三人の幼い牧童に言ったことを覚えておきましょう。
「あなたたちができるすべてのことを犠牲とし、それを天主の怒りをかう罪の償いのため、また罪びとの回心のために天主にお捧げしなさい…まず第一に、主があなたたちにお送りになる苦しみを従順に受け入れ、耐え忍びなさい」。

3.ロザリオ
「私たちの戦いは、血肉に対するものではなく、権力と権威、この世の闇の支配者、悪霊に対するものである」(エフェゾ6章12節)。ロザリオこそが、私たちの時代の悪魔的混乱に対する解決法なのです。

聖ヨハネ・ボスコは1862年の被昇天の祝日の前日に一つの夢を見ました。それは、悪魔が大きくて恐ろしい蛇の形を取って彼の前に現れ、その悪魔を打ち負かす唯一の方法は、「めでたし」あるいはロザリオであった、というものです。ですから、ロザリオに忠実に留まり、まさに聖所でのこれらの忌まわしい出来事を償うため、ローマの回心のため、そしてとりわけ教皇のためにロザリオを祈りましょう。

さらに、私は、無原罪の聖母の騎士の皆さん全員に対して、12月8日に無原罪の御孕りに対して自らの奉献を更新することを、心を込めて呼びかけます!

この危機の時代において、私たちは、すべての恵みの仲介者にしてサタンのかしらを踏み砕くお方であるマリアに私たち自身を完全にお委ねしていること、また私たちがマリアのご保護のマントの中でマリアの道具としてマリアのために戦っていることを、再確認したいと望んでいます。

私たちの熱意を深め、よみがえらせるため、私は皆さんがこの祝日のために、小冊子「Consecration to the Immaculate Conception(無原罪の御孕りへの奉献)」を使って13日間の準備をするようお勧めします。私たちは、不思議のメダイの祝日の前日である11月26日にこれを始めます。

MIで行われるこれらのわざを通じて、私たちは聖母をたたえ、その汚れなき御心をお慰めし、御母が侮辱されることに耐えることのできない御子の正義の御怒りをおなだめしたいと望んでいるのです。


Photo Credit

無原罪の聖母をたたえて!

私の司祭としての祝福をもって
カール・シュテーリン神父
2019年11月13日、ワルシャワにて

十十十十十十十 小野田神父から一言 十十十十十十十


シュテーリン神父様の言われる無原罪の御孕りの祝日の準備(不思議のメダイの祝日の前日である11月26日から13日間)のための、小冊子はまだ日本語には翻訳されておりません。
そこで、私たちは、その代わりに、各人が13日間、ファチマの天使の二つの祈りを三回づつ繰り返すことをするようお勧めします。

「わが天主よ、われ、信じ、礼拝し、希望し、御身を愛し奉る。われ、信ぜぬ人々、礼拝せぬ人々、希望せぬ人々、御身を愛さぬ人々のため、御身に御赦しを願い奉る。」

「至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、我、御身を深く礼拝し奉る。世界中のすべての御聖櫃のうちにましまし給うイエズス・キリストのいとも尊き御体、御血、御霊魂と御神性を、イエズス・キリスト御自身が受け給う侮辱、冒涜、無関心を償うために、御身に捧げ奉る。イエズスの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳によりて、あわれな罪人の回心を御身に願い奉る。」

12月7日(初土)には、大阪(午前10時30分)と東京(午後6時)で聖伝のミサがあります。
12月8日(聖母の無原罪の御孕り:主日)には、東京でミサ(午前10時30分)があります。

2020年5月3日(夕方)から6日(お昼)まで、秋田の聖母に巡礼を行います。罪の償いのために、悔い改めの精神で行います。多くの愛する兄弟姉妹の皆様のご参加をお願いいたします。
日本における聖ピオ十世会の修道院設立のお恵みを得るため、また、聖ピオ十世会創立50周年を感謝するために秋田巡礼を捧げましょう。

【参考資料】
Bishop Schneider: Pachamama idolatry during Amazon Synod has its roots in Vatican II Council
シュナイダー司教「アマゾン・シノドスの間に行われたパチャママ偶像崇拝は、その根源に第二バチカン公会議がある。」
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Pachamama instead of Maria? - A call to expiation

2019年11月14日 | M.I.(無原罪の聖...

Father Director Letter No. 15

Pachamama instead of Maria? - A call to expiation

Dear Knights of the Immaculata!

Following the Amazon Synod, the Superior General of the Priestly Society of St. Pius X called for prayer and expiation: "The recent Synod on Amazonia was the scene of abhorrent events in which the horror of idolatrous rites penetrated the sanctuary of God in an unprecedented and unthinkable way".

Figures of a naked pregnant woman accompanied the Synod: in a church in Rome dedicated to Our Lady they were put in front of the Blessed Sacrament and venerated several times. These statues represent Pachamama, an indigenous deity. These blasphemies were also denunciated bishop Athanasius Schneider in his open letter to Catholics on the Amazonian Synod.

In addition to these sins against the first commandment there is a special abomination in these acts, namely an insult to our Mother and Queen. Pachamama was worshipped by the Incas as the Mother of the sun-god and is thus quasi an indigenous pagan "mother of God". One can therefore say that during the synod she was used as a kind of substitute for Our Lady. Instead of choosing and adoring Mary as the patron saint of this Synod - especially Our Lady of Guadalupe, who is responsible for the conversion of Latin America - Pachamama was chosen and thus an idol was honoured. The fact that the various rituals performed are idolatrous is clearly and undeniably demonstrated by the following event: In a parish in Verona a priest had a prayer read to Pachamama during a prayer vigil for the missions. The prayer was: "Pachamama, good mother, have mercy on us! Be gracious to us! It turned out that this prayer was published by the Pontifical Missionary Office "Missio" of Italy.

During the Synod it was heard that they wanted to give the Church a "feminine and a maternal face" - but without our Heavenly Mother. She had already been denigrated at the Second Vatican Council. At that time the dogma of Mary as Mediatrix of all graces was sacrificed to the golden calf of ecumenism and generally her role was diminished as much as possible by renouncing the originally planned decree about her. The Blessed Virgin was no longer in the midst of the Council to enlighten the fathers and ask her Son for his assistance: "They have no more wine". Thus the prelates of Rome – left on their own - became susceptible to the seductions of the adversary. The apostasy that Our Lady so urgently warned against in La Salette and Fatima, is now followed by idolatry.

The Militia Immaculatae is called in a special way to defend the honour of our Mother and Lady, after all the greeting call of the knights is "honour to the Immaculata" and it is a knightly duty to defend the Queen. That is why we want to join the call of Father Pagliarani and in particular make atonement for the insults against the Immaculate Heart of Mary.

How can we do that?

1. 1. I invite you to observe very specially the upcoming First Saturday and to offer it as act of Atonement in this intention. It will be on the 7th of December, the vigil of the Feast of the Immaculate Conception, the patron saint's day of our M.I. These days of reparation desired by Jesus and Mary have never before been so accurate and important as they are today. Let us practise this devotion with new zeal: Let us offer Holy Communion, let us go to Holy Confession every month, let us pray the Holy Rosary, let us contemplate for 15 minutes a mystery of the Rosary at Mary's side - and let us offer all this in the spirit of sacrifice and reparation for the sins committed against Mary's Immaculate Heart to comfort Mary.

2. The prayer of the Angel of Fatima is more important than ever:
“O my God, I believe, I adore, I hope and I love Thee! I ask pardon for those who do not believe, do not adore, do not hope and do not love Thee".

Let us pray it often in this spirit and remember what the angel said to the three little shepherds:

"Make a sacrifice out of everything you can and offer it to God for atonement for the sins by which he is offended and for the conversion of sinners... First of all, accept and bear with submission the sufferings which the Lord will send you".

3. The Rosary:

"Our struggle is not against flesh and blood, but against the powers and authorities, the dark rulers of the world and the evil spirits" (Eph 6:12). The Rosary is THE remedy against this diabolical confusion of our days. St. John Bosco saw in 1862 on the Vigil of the Feast of the Assumption in one of his dreams how the devil met him in the form of a huge, fearsome snake and could only be defeated by the Hail Mary or the Rosary. Let us therefore remain faithful to the Rosary and pray it precisely for the atonement for these abominations at the Holy Place, for the conversion of Rome and especially for the Pope.

Furthermore, I cordially invite all the Knights of the Immaculata to renew their consecration to the Immaculate Conception on December 8! In these times of danger, we want to reaffirm that we are fully committed to Mary, the Mediatrix of all graces and the crusher of Satan’s head, and that we are fighting for her under her protective mantle as her instruments. In order to deepen and revive our zeal, I recommend that you prepare for this solemnity through the 13 days of preparation with the booklet "Consecration to the Immaculate Conception". We will begin on the 26th of November, the day before the Feast of the Miraculous Medal.

Through these acts carried out in the M.I., we hope to honour Our Lady, to comfort her Immaculate Heart and to appease the just wrath of her Son, who cannot bear that his Mother should be insulted.

Honour of the Immaculata!

With my priestly blessing

Fr. Karl Stehlin

Warsaw, on the 13th of November 2019

PLEASE FORWARD THESE LETTER TO ALL YOUR FRIENDS. INVITE THEM TO DEFEND THE HONOR OF THE IMMACULATA, TO CONSOLE THE IMMACULATE HEART FOR THESE TERRIBLE BLASPHEMIES!





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無原罪の聖母の騎士全員への指導司祭の手紙【第14号】―ロザリオ-2020年の決心ー

2019年10月22日 | M.I.(無原罪の聖...
無原罪の聖母の騎士全員への指導司祭の手紙【第14号】

-ロザリオ-2020年の決心


愛する無原罪の聖母の騎士の皆さん!

102年前の本日MIが創立された記念日に、皆さんにまた言葉を伝えることができるのをうれしく思います。聖マキシミリアノ・コルベは無原罪の聖母のみを信頼したいと望んでMIを創立しました。なぜなら、聖母は、彼が自分の目の前で起きるのを見た天主と悪魔の霊的戦いすべてにおける勝利者であるからです。無原罪の聖母の騎士会が創立されてから、教会とこの世における霊魂をめぐる戦いは激しさを増してきています。悪魔は大惨事をもたらすのに残された時間をそれほど多く持っていないため、全軍を動員しており、圧倒的に優勢であるように見えます。

しかしながら、何世紀にもわたる教会の歴史、特にこの100年の歴史は、次の事実を確認しました。キリスト教の苦境が大きくなればなるほど、天の御母が地上の子どもたちにますます近づいてくださり、戦いにおいて導き、この戦闘において勇気づけ、戦いに必要な手段を与えてくださるということを。ですから、この200年において、マリアのご出現はそれまでのどの時代よりも数多く、またそれらには一つの共通点があります。それは、天の御母が眠れる子どもたちを目覚めさせ、状況の深刻さを彼らに警告し、汚れなき御心への信心をもって、「最後の薬」(ファチマ)として、「予告された艱難の時代に信者に残された唯一の武器」(秋田)として、彼らにロザリオをお与えになることです。

ロザリオは単なる人間的な祈りではなく、天主の御摂理によるご計画においては、それこそが聖母が聖ドミニコに委託なさった天の武器です。悪魔は何世紀にもわたってこの祈りが天に由来するという信仰を弱めようと、そしてロザリオの歴史の痕跡すべてを世に知られないようにしようと試みてきました。これによって、ロザリオはただ「祈りの姉妹たち」による純粋に人間的な祈りにすぎないとみなすべきだという偽りの信条に導かれた人々もいます。

それにもかかわらず、童貞聖マリアのいとも聖なるロザリオが天に由来することについての真理は、教皇たちによって幾度も強調されてきただけでなく、天によっても繰り返し強調されてきました。天はそのことをさまざまな聖人たちに明らかにし、さらにはコロンビアのラス・ラハスにある石に、その真理が消えないように「焼き付け」、すべての人がそれを見えるようにさえしました。そこでは、1754年に聖母がご出現になり、岩の上に、聖母がどのようにして聖ドミニコにロザリオをお与えになったかを示した実物大の絵が残されたのです。

いとも聖なるロザリオという武器は、キリスト教の歴史において、特に希望のないように思われる状況において、見事にその力を証明してきました。ロザリオはダヴィドの投石器にたとえられるダヴィドの武器です(ピオ十二世)。ダヴィドの投石器のように、特に困難な状況において、武器としてロザリオに信頼を置くには、カトリック信者のけんそんと天主への信頼が必要です。

私たちの保護の聖人である聖マキシミリアノは、ロザリオのことを騎士の剣と述べています。諸教皇はしばしば、いとも聖なるロザリオを「キリスト教の武器」と呼んできました。例えば、教皇ピオ十一世は、その回勅「イングラヴェシェンティブス・マリス」において、ロザリオを教会の最も力ある武器と呼びました。さらに同教皇は、ロザリオは、悪魔の力を追い払うために、聖なる生活を保持するために、聖徳の達成をしやすくするために、最後に人間の間の平和の手段として、最も力ある武器である、と確認しました。

ロザリオに心を込めて熱心に献身した数えきれないほど多くの信者たちが、ファチマで私たちに約束されたものを自ら経験してきました。それは、ロザリオが、この最後の時代において新たな効力を与えられていること、そしてロザリオがあれば解決できない問題はない、ということです。

しかしながら、しばしば使用される武器は鈍くなり得ますから、メンテナンスが必要です。この武器を「真新しく」にするためには、何回も何回も研ぎ澄まされなければなりません。私たちの多くは、疑いなく、ロザリオを祈る良き習慣を持っています。しかしながら、おそらく、気づかないうちに、ある種のルーチンワークになっているでしょう。いとも聖なるロザリオの効力にさらなる信頼と意識をもって祈るというよりも、祈らなければならないので祈っているのです。

聖ルイ・マリー・ド・モンフォールや聖マキシミリアノがロザリオについて書くとき、それは常に、十五玄義全体のことを指しています。そうでないときには、ロザリオの五玄義とか、あるいはロザリオの一部について、として書いています。聖ルイ自身は罪びとに対してロザリオ全部を祈るよう勧めていました。戦いにおいて兵卒が失われてきたとき、残された交戦中の軍隊は、数の減った兵卒の分も補うと同時に、勝利に到達するというさらに強い決意を示さなければなりません。それゆえに、私たちは、多くの人々が悪魔によって「失われ」たり、悪魔のわなに陥ったとき、勝利に到達するためにこれまで以上の熱意とこれまで以上の頻繁さをもってロザリオを祈るように呼ばれているのです。

そうは言うものの、武器が損傷を受けるだけでなく、戦士たちも弱ったり、敵の精神に染まったりすることさえあり得ます。教皇ピオ十一世は、その回勅でこう続けます。「マリアのロザリオによって、われわれは天主を嫌う者どもや宗教の敵どもをただ屈服させるだけではなく、この祈りはまた、われわれが福音の聖徳を追求するよう、われわれを激励し、元気づけるのである。ロザリオは、特にカトリック信仰を強めるであろう。なぜならば、聖なる諸玄義を黙想することは、天主によって啓示された真理へと精神を高めるからである」。

今の時代では、聖霊に関わる事柄へのある種の無関心や、キリスト教の教理を宣言することへの悲しむべき怠慢がしばしば存在するのですから、この祈りが私たちの時代にいかに有益なのかは指摘するまでもありません。ですから、ロザリオの祈りは私たちの永遠のものへの熱望を強め、またロザリオの最後の部(栄えの玄義)におけるキリストと御母の栄光を黙想は、私たちに天国を開いて示し、それによって私たちが永遠の父祖の国に到達するよう、私たちを励ますのです。

人々の心が、この地上の様々なわなに対する抑えの効かない中毒に燃え、またうつろう富と一時の楽しみに対して日ごとにますます強欲になる一方、ロザリオの祈りは、「盗人が盗むこともなく、虫もつかず」、変わらない天の宝に引き寄せるのです。

こんにち多くの人々の間でどれだけ愛が冷え、消えているかを考えてみてください。これらすべての人々は、私たちの救い主の御苦しみと死を、また苦しまれる御母マリアの御悲しみを黙想することで、愛を再び燃え立たせねばならないのではないでしょうか? この天主の愛から、隣人に対するより大いなる愛がかならず生まれるのです。なぜなら、失われてしまった子と天主との間の結びつきを回復させるために、主なるキリストがいかに御苦痛と御苦しみに耐えなければならなかったかということを黙想することは、隣人を愛する強い刺激を必ず与えるからです。

来るべき年は、特別な記念の年です。5月6日は、聖伝遵守の無原罪の聖母の騎士会が、私たちの創立者の当初の会則による再創立20周年を祝います。2020年10月の終わりには、カトリック聖伝を守る人々は、ルルドで聖ピオ十世司祭兄弟会の50周年を祝います。ですから、私は騎士の皆さん全員に、ロザリオの年を提案したいと思います。本日のMI創立記念日から一年後の聖伝の50周年記念日まで、私たちはMIにおけるロザリオの祈りを強化したいと思います。

騎士として、私たちがこの来るべき年にどのようにすればロザリオをもっと熱心に祈ることができるのかを、ここに示します。

もっと頻繁に祈ることによって:自分の職業上の義務に祈りをうまく組み入れことのできる限りにおいて、私たちは(詩編に対応する)ロザリオ全体をもっと頻繁に、すなわち十五玄義すべて[三環]を祈ろうと努めたいと思うべきです。私たちが共同体として祈るロザリオに加えて、日中に一環、または残りの部分を追加して祈ることで、これを行うことができます。ロザリオを毎日祈るという良き習慣をまだ持っていない人々は、この習慣を持つようにすべきです。

もっと意識していとも聖なるロザリオを祈るよう努力することによって:私たちは、私たちの祈るいとも聖なるロザリオを、特別な意向あるいは目的に関連づけることを常に望んでいます(一年の間に、総長が特別な意向を勧めてくださるでしょう)。この方法によって、私たちは、目的をもって自分の剣を使う騎士のようになるのです。もっと意識して祈ることということは、私たちが本当に諸玄義を黙想するということでもあります。

もっと信頼して祈ることによって:この祈りの力と聖母の多くの約束が何度もはっきりと明らかにされたことを思い出しましょう。私たちの確信を強めるために、ロザリオについて書かれたものを読みましょう。私たちにさらに強い信頼と信仰を与えてくださるよう聖母に願いましょう。

自分自身の環境の中で無原罪の聖母の騎士として:私たちには、さまざまな言語の良きちらし、パンフレット、ロザリオセットがあり、MIの事務局から取り寄せることができます。

いとも聖なるロザリオを特別に強調することによって:MIのニュースレターや雑誌において、私たちは、私たちのメンバーの中でこのいとも聖なるロザリオの祈りをより深め、新たに花開かせるよう導くため、この祈りを特別に強調していきます。

言うまでもないことですが、これらのことは、皆さんの寛大さに訴える提案に過ぎません。次のことを忘れないでください。私たちの聖性は、自分の習慣に応じて決まるのです! 騎士全員が今年、ロザリオを常に携帯し、一日の間出来る限り頻繁に自分の武器を使う習慣を身に着けることができますように。

聖なるロザリオの元后が、私たちにこれらの意向のために必要な恩寵を与えてくださり、また、この恩寵の年に皆さん全員に豊かな祝福を与えてくださいますように。

私の司祭としての祝福をもって
カール・シュテーリン神父
2019年10月16日、ワルシャワにて


【英語原文】
Letter No 14 to all Knights of the Immaculata - Rosary - Resolutions 2020
Father Director's Letter No. 14


Dear Knights of the Immaculata!

I am pleased to be able to say a few words to you again on the anniversary of the founding of the M.I. 102 years ago today. St. Maximilian Kolbe founded the M.I. because he wanted to trust in the Immaculata alone, since she is the victor in all the spiritual battles between God and the devil that he saw taking place before his eyes. Since the founding of the Militia Immaculata, the struggle for souls in the Church and in the world has intensified. As the devil does not have much time left to wreak havoc, he seems to have mobilized all his forces and to be overwhelmingly superior.

However, the history of the Church over the centuries, especially in the last 100 years, has confirmed this fact: the greater the plight of Christianity, the closer the Heavenly Mother is to her children on earth to guide them in battle, to encourage them in this combat, and to give them the necessary means with which to fight. Thus, in the last 200 years there have been more Marian apparitions than ever before, with one thing in common: the Mother of Heaven wakes her sleeping children, warns them of the seriousness of the situation and, together with the devotion to her Immaculate Heart, gives them the Rosary as their "last remedy" (Fatima), as the "only weapon that will remain for the faithful in the announced times of tribulation" (Akita).

The Rosary is not just any human prayer, but in the plan of Divine Providence, it is THE weapon of Heaven which Our Lady entrusted to St. Dominic. The devil has tried throughout the centuries to undermine faith in the heavenly origin of this prayer, to obscure all traces of its history. This has led some to the false belief that the Rosary should only be regarded as a purely human prayer of some "sisters of prayer".

Nonetheless, the truth about the heavenly origin of the Most Holy Rosary of the Blessed Virgin Mary has not only been emphasized time and again by the Popes, but by Heaven, which also revealed it to various saints and even "burned" the truth indelibly for all to see in stone, such as at Las Lajas, Colombia, where Our Lady appeared in 1754 and left a life-size picture on a rock showing how she gave the rosary to St. Dominic!

The weapon of the Most Holy Rosary has proven itself wonderfully in the history of Christianity, especially in seemingly hopeless situations. It is the weapon of David, comparable to his slingshot (Pius XII). As with David’s slingshot, it takes humility and trust in God on the part of Catholics to rely on the Rosary as a weapon, especially in difficult situations.

Our patron, Saint Maximilian, described the Rosary as the sword of the Knight. The popes have often called the Most Holy Rosary “the weapon of Christianity”. For example, Pope Pius XI in his encyclical Ingravescentibus Malis called the Rosary the most powerful weapon of the Church. Moreover, this same Pope confirmed that the Rosary is the most powerful weapon for the expulsion of diabolical powers, for the preservation of a holy life, for the easier attainment of virtue, and finally, as a means of peace among men.

Countless faithful who have devotedly and diligently adhered to the Rosary have experienced for themselves what was promised to us in Fatima: that the Rosary has been given a new efficacy for these last times and that with it, there is no problem we cannot solve.

However, a weapon that is often used can become blunt and therefore requires maintenance: this weapon must be sharpened time and time again to render it “fresh”. Many of us, undoubtedly, have a good habit of praying the Rosary. However, perhaps a certain routine has crept in imperceptibly. One prays it because it should be prayed, rather than praying the Most Holy Rosary with more trust and consciousness of the efficacy of its power.

When St. Louis and St. Maximilian write of the Rosary, they always mean all 15 mysteries. Otherwise they write of the five mysteries of the Rosary, or of the one part of the Rosary. St. Louis himself encouraged sinners to pray the whole Rosary. When the ranks are wearing out in a battle, the remaining warring forces must show an even greater commitment to attain victory while compensating for the loss of the worn-out ranks. Therefore, we are called to pray the Rosary with ever greater zeal and with ever greater frequency to attain victory when many have been “worn-out” or ensnared by the devil.

That being said, not only can the weapon suffer damage, but the fighters can also become weak or even be infected by the spirit of the enemy. Pope Pius XI continues in his encyclical: "With the Marian rosary we will not only prostrate the haters of God and enemies of religion, this prayer will also spur us on and warm us to a quest for the virtues of the Gospel. It will strengthen the Catholic faith in particular; for the contemplation of the holy mysteries raises the spirit to the truths revealed by God."

It is not necessary to point out how salutary this is in our day, when there is often a certain indifference to matters of the Holy Ghost and a regrettable boredom in the proclamation of Christian doctrine. The prayer of the Rosary will then strengthen our longing for immortal goods, and the contemplation of the glory of Christ and his Mother in the last part (the Glorious Mysteries) of the Rosary will openly reveal Heaven to us and thus spur us on to reach the eternal Fatherland.

And while the hearts of men burn with an unbridled addiction to the trappings of this earth and while they become greedier for frail riches and transient pleasures day by day, the prayers of the Rosary are drawn to the heavenly treasures "which no thief dares to possess, and which no moth consumes" and which will remain constant.

Consider the great extent to which love has become cold and extinct among many today! Shouldn't all these people be rekindled with love when they contemplate compassionately the sufferings and death of our Saviour and the sorrow of his afflicted Mother, Mary? From this love of God a greater love for one’s neighbour will necessarily follow; for the consideration of what Christ the Lord had to endure in pain and suffering in order to restore the lost filial bond with God necessarily gives a powerful impetus to love of one's neighbour.

The coming year will be a year of special anniversaries: on the 6th of May, the Militia Immaculata of Traditional Observance will celebrate the 20th anniversary of its re-establishment according to the original statutes of our Founder. At the end of October 2020, Catholic tradition will celebrate the 50th anniversary of the Priestly Fraternity of Saint Pius X in Lourdes. So I would like to propose a Year of the Rosary for all the Knights. From today’s founding day of the M.I. to the anniversary celebration of tradition in one year's time, we want to intensify the prayer of the Rosary in the M.I.

Here is how we, as Knights, can celebrate the Rosary more intensely in this upcoming year:

By more frequent prayers: as far as we can fit it in with our professional duties, we should want to try to pray the whole Rosary (Psalter) more often, that is, all 15 mysteries. We can do this by praying one or the other part during the day in addition to the Rosary which we may pray as a community. Those who do not yet have the good habit of praying the Rosary every day should acquire it.

By a more conscious effort to pray the Most Holy Rosary: we hope to always associate our Most Holy Rosary with a special intention/purpose (during the year, the Superior General will recommend special intentions to us). In this way we are like Knights who use their swords purposefully. Praying more consciously also means that we really contemplate the mysteries.

By more confident prayers: let us remember the many manifestations of the power of this prayer and the many promises of Our Lady; let us read something about the Rosary to strengthen our convictions; let us ask Our Lady for a greater trust and faith.

As Knights of the Immaculata in our own environment: we have good flyers, brochures and rosary sets in various languages, which are available from the secretariats of the M.I

By special emphasis on the Most Holy Rosary: in the newsletters and magazines of the M.I., we will give special emphasis to this prayer of the Most Holy Rosary in order to deepen this prayer in our ranks and to lead it to a new flowering.

It goes without saying that these are only suggestions that appeal to your generosity. Let us not forget: we are as holy as our habits! May every Knight this year make it a habit to always carry a rosary with him and to use his weapon as often as possible during the day.

May the Queen of the Holy Rosary grant us the necessary graces for these intentions, and may she richly bless all of you in this year of grace!

With my priestly blessing,
Fr. Karl Stehlin
Warsaw, on the 16th of October 2019


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無原罪の聖母の騎士全員への指導司祭の手紙【第13号】―無原罪の聖母を通じた召命ー

2019年03月20日 | M.I.(無原罪の聖...
無原罪の聖母の騎士全員への指導司祭の手紙【第13号】

無原罪の聖母を通じた召命


無原罪の聖母の騎士の皆さん!

私たちは無原罪の聖母のものであり、聖母のご意志を行いたいと思い、聖母の望みが満たされ得るように出来る限りのすべてのことを行いたいと思っています。しかし、私たちの天の母の最も深いお望みは何でしょうか? 御子に対して出来得る限り多くの栄光を捧げること(聖マキシミリアノ・コルベは「ad maximam Dei gloriam―天主の最も大いなる栄光のため」と言いました)、出来る限り多くの霊魂を地獄の火から救い、彼らを天国に導くこと(ルルドやラ・サレット、ファチマなどでの聖母の緊急の訴えを見てください)です。

しかしながら、天主に対して最も大いなる栄光を捧げるための方法はただ一つしか存在せず、それは、祭壇上で日々更新される私たちの主の十字架上の犠牲を通じてです。ここにおいて、キリストによって、キリストとともに、キリストのうちにおいてのみ、すべてのほまれと栄光が至聖なる三位一体に捧げられます。同じように、霊魂を贖い、彼らを天主のいのちへと戻す可能性はただ一つしか存在せず、それは、諸秘蹟という経路を通して霊魂たちの中に流れ込む私たちの主の御血を通じて、彼らを原罪という牢獄から解放し、すべての汚れから清め、浄化し、霊的な病から癒やし、光と天主のすべての宝で満たすことです。

私たちの主イエズス・キリストのご意志によれば、地上で贖いのわざを完成させ、天主にすべての栄光を捧げ続け、霊魂の中にキリストの御血を流し込むことができるのは、どのような人に限られるでしょうか? それは司祭です。それゆえに、そのあわれな迷える子供たちの救いに対して非常に熱心なかの童貞の汚れなき御心の中で最も大きな場所を占めているのは、司祭職です。私たちの元后の最も深いお望みは、御子の救いのみわざを継続させる人々を御子にお与えすることであり、それによって、司祭の人格を通して御子と親密に一致したこれらの道具によって、道であり真理でありいのちである御子の聖心の炎が地上のあらゆるところで燃え上がるようになるためです。

すべてのキリスト教徒が、堅振の秘蹟および隣人愛の掟によって、私たちの主をお助けして、霊魂たちの救いと地上での主の御国の拡張のために、すでに呼ばれているということを、私たちはよく知っています。また、すべての恩寵の仲介者である聖母が回心と聖化の恩寵を霊魂たちに注ぎ込むことができるように、私たちがその汚れなき御手の道具として自分を聖母に従わせることによってのみ、これを実行することが可能になるということも知っています。聖母は通常、その道具の助けによってのみ霊魂たちに恩寵を与えることがおできになるのですから、聖母は出来る限り多くの道具を持つことを非常にお望みになっています。

しかし、聖マキシミリアノは、良きカトリックの平信徒と司祭の違いは天と地の違いと同じだと言いました。なぜなら、平信徒は、助力の恩寵の道具、特に霊魂たちに対して真理といのちへの準備をさせ、心構えを持たせる恩寵の道具となることができるとしても、霊魂たちに対して、天主のいのちであり、永遠の光明であり、キリストご自身である成聖の恩寵を与え、回復させることができるのは司祭だけだからです。

それならば、至るところでこれらの天主の恩寵の分配者たち、「特にすぐれた」キリストの道具たちが増えるようにとの祝されし童貞のお望みは、いかに大きいものでしょうか。イエズスをこの世に与え、霊魂たちを聖化し、彼らをもう一人のキリストに変容させるというその使命を聖母が果たすことがおできになるのは、何にもまして司祭たちによってなのです。司祭たちがいなければ、彼らのために聖母が非常に祈り、非常に苦しみ、御子を犠牲となさったそれらの霊魂たち、聖母の愛する子供たちであるそれらの霊魂たちは、自分たちの母から永遠に離され、永遠に滅ぶという危険にさらされてしまうでしょう。

これが、聖母がすべての恩寵の仲介者という任務を果たそうと望んでおられる理由です。このすべての恩寵の仲介者としての任務は、特に、聖母が召命を起こされ、より高い生活へと呼ばれる寛大な霊魂たちに対して、ためらいや障害物を克服する光と力という恩寵によって、また司祭職への直接の準備という数えきれないほどの恩寵によって、聖母が受階者を司教の手を通して御子にお渡しになり、御子が本当にこの人をもう一人のご自分とされる祝福された瞬間にまで、なされるものです。まことに、「天主の御母である童貞は、熱心な愛によってすべての霊魂をお愛しになっているが、イエズス・キリストの生ける似姿である司祭を好んでおられる」(ピオ十一世)のです。

無原罪の聖母の騎士の本質は、霊魂たちを回心させ、聖化するために聖母をお助けするあらゆる努力を行うことです。すべての回心と聖化は、司祭のみが行うことのできるミサの聖なるいけにえおよび諸秘蹟を通してなされます。そうすると、聖母の道具である私たちが私たちの元后にもたらすことのできる最も高貴なる助けとは何になるでしょうか? 召命を目覚めさせ、そのあとそれを保持するための聖母の道具となることです!

ファチマで聖母は、なぜ非常に多くの霊魂が地獄に行くのかを説明なさっています。それは、彼らのために祈り、犠牲をする人が誰もいないからであり、聖母が、自分の祈りと犠牲を通して回心の恩寵をお与えになることのできる人を、誰も見つけられないからです。同じように、私たちは自問することができます。なぜ司祭や修道者がこれほど少なく、また聖なる司祭や修道者がもっと少ないのでしょうか? それは、無原罪の聖母が、自分の祈りと犠牲を通して聖母が召命を目覚めさせ、そのあとその召命を保持することのできる人を、誰も見つけられないからです!

これこそが、聖マキシミリアノが、騎士が司祭および修道者の召命のためにたくさん祈ることを繰り返し主張し、これらの奉献された霊魂たちを通して祝されし童貞が世界中に数え切れないほどの恩寵を注ぐことがおできになると説明した理由なのです。

それゆえに、聖グリニョン・ド・モンフォールが聖三位一体に対してこいもとめるためにその「熱心な祈り」によって大変素晴らしく表されたように、私たちの母に対して、私たち自身の緊急の呼びかけを行いましょう。それは、聖母が、危機にあるこの世に、まことの、数多くの「イエズスとマリアの使徒たち」を与えてくだされるようにするためです。私が思うには、召命のための出来る限りのすべてのことをする以上に、無原罪の聖母をお喜ばせすることはありません! さらに言えば、すべての騎士が無原罪の聖母を通して良きかつ聖なる司祭および修道者の召命を得るために熱意と粘り強さで祈るように努めることは、聖伝遵守のMIの最高権威である私たちの総長の明白なご意志です

2019年にあたって、無原罪の聖母への私たちの奉献を生きるために、従って聖母への奉仕におけるさらに熱心でさらに粘り強い道具になるために、この決心が提案されています。今日、私たちは、自分が聖母をお助けして地上でもう一人のキリストたち、すなわち良きかつ聖なる司祭たちを生み、かつ形作るための聖母の御手の道具になるほど素晴らしい方法は他にありえないことを学んでいます。そのためには、嵐のような本当の祈りに、すべての騎士が、これまで受けた非常に多くの恩寵に対する感謝のしるしとして、私たちの元后に捧げるべき犠牲が伴わなければなりません。そして、私たちがこれらすべての恩寵を受けたのは、まさに司祭を通してではなかったでしょうか?

もちろん、私たちは皆さんにこれを行うよう強制することはできません。それは、毎日の射祷以外には、皆さんが何かをするように義務付けられていないからです。しかし、この手紙を通して、聖母のために素晴らしいことを、最も素晴らしいことさえをも行うよう皆さんを招いておられる(聖マキシミリアノが非常にしばしば繰り返していたように、長上という手段を通じて私たちに対して常に話しておられる)無原罪の聖母ご自身の声を聞いてください!

ですから、私たちは騎士全員に、今年中、一日に少なくとも3回、次の祈願を繰り返すよう提案します。
「主よ、われらに司祭を与え給え! 主よ、われらに聖なる司祭を与え給え! 主よ、われらに多くの聖なる司祭を与え給え! 主よ、われらに多くの聖なる修道者の召命を与え給え! マリアによって!」。


聖母のためにさらに多くのことをしたいと望んでいる騎士に対しては、私たちは、これらの意向のためにロザリオ一連、またはロザリオ全環までも唱えるよう、そして一年中唱えるよう提案します。私たちはまた、5月と10月を特別に聖母に捧げることができます。特にこの意向のために、聖母のほまれにおいて祈りと犠牲を捧げるのです。

私たちは四旬節に入っていますから、私たちの四旬節の決心に、確実に悲しみに満ちた汚れなきマリアの御心に深く触れ、お慰めすることになる、この素晴らしい意向を付け加えましょう! これこそが、マリアの凱旋と、私たちの主の永遠の勝利の実現のために、私たちがさらに効果的に準備をする方法なのですから。

この四旬節が、皆さんにとって祝福された聖なる時間となりますように、
そして、皆さんに私の心を込めた祝福を送ります。
カール・シュテーリン神父
2019年3月13日、バイェジェ(ポーランド)にて


【英語原文】
Father Director's Letter No 13 to all Knights of the Immaculata

VOCATIONS THROUGH THE IMMACULATA


Dear Knights of the Immaculata!

We belong to the Immaculata, we want to do her will, to do everything possible so that her desires can be fulfilled. But what are Our Heavenly Mother's deepest desires? To give as much glory as possible to her Son (St. Maximilian Kolbe said: "ad maximam Dei gloriam - for the greatest glory of God"), to save as many souls as possible from the fire of hell and to lead them to heaven (see his urgent appeals in Lourdes, La Salette, Fatima etc.).

However, there is only one way to give the maximum glory to God, it is through the very sacrifice of Our Lord on the Cross, renewed every day on the altar. Here only through Christ, with Christ and in Christ is given to the Most Holy Trinity all honour and glory. Likewise, there is only one possibility of redeeming souls and giving them back the life of God, it is through the Blood of Our Lord which flows into souls through the channels of the sacraments, to deliver them from the prison of original sin, to cleanse them from all filth, to purify them and heal them of their spiritual leprosy, to fill them with light and all the divine treasures.

According to the will of Our Lord Jesus Christ, who alone is able to accomplish on earth the work of redemption, to continue to give God all glory and to shed the Blood of Christ into souls? The priest. Consequently, what most preoccupies the Immaculate Heart of the Virgin, so eager for the salvation of her poor lost children, is the priesthood. Our Queen's deepest desire is to give to her Son continuers of His work of salvation, so that through these instruments, intimately united with her Son through the priestly character, the flame of His Sacred Heart may burn everywhere on earth: the Way, the Truth and the Life.

We know well that every Christian is already called by the sacrament of Confirmation and the commandment of love for the neighbour to help Our Lord for the salvation of souls and the extension of His Kingdom on earth. And we also know that this can only be done if we submit ourselves to Our Lady as an instrument in her immaculate hands so that she - Mediatrix of all graces - can pour into souls graces of conversion and sanctification. And since she usually can only give her graces to souls with the help of her instruments, she desires so much to have as many as possible.

However, Saint Maximilian said that the difference between a good lay Catholic and a priest is the same as between heaven and earth. For if the laity can be an instrument of actual graces, especially graces that prepare and dispose souls to the Truth and Life, it is only the priest who can give and restore to souls the sanctifying grace, the Life of God, the eternal Light, the Christ himself.

How great, then, must be the desire of the Blessed Virgin that everywhere these dispensers of divine graces, Christ’s instruments "par excellence", may multiply. For it is through them above all that she can fulfill her mission to give Jesus to the world, to sanctify souls and to transform them into other Christs. Without them, those souls for whom she prayed so much and suffered so much and sacrificed her Son, those souls, her beloved children, would risk being eternally separated from their Mother, eternally damned.

This is why she wants to perform her office of Mediatrix of all graces, especially among generous souls, in whom she raises up the vocation, calls them to a higher life with graces of light and strength to overcome hesitations and obstacles, also numberless graces of direct preparation to the priesthood, until the blessed moment when she can present the ordinand to her Son who, through the hands of the Bishop, really makes him another Himself. Truly, "If the Virgin, Mother of God, loves all souls with an ardent love, she has a predilection for priests who are the living image of Jesus Christ" (Pius XI).

The essence of the Knight of the Immaculate is to make every effort to help her to convert and sanctify souls. All conversion and sanctification passes through the Holy Sacrifice of the Mass and the sacraments that only the priest can give. What, then, will be the noblest help that we, her instruments, can bring to Our Queen? To be her instruments to awaken and then preserve vocations!

In Fatima she explains why so many souls go to hell: because they have no one to pray and sacrifice for them, because Our Lady finds no one through the prayers and sacrifices of whom she can give the graces of conversion. Analogically we can ask ourselves: Why are there so few priests and religious, and even fewer holy priests and religious? Because the Immaculata finds no one through the prayers and sacrifices of whom she can awaken and then preserve vocations!

This is why Saint Maximilian repeatedly insisted that the Knights pray a lot for priestly and religious vocations, explaining that through these consecrated souls the Blessed Virgin can pour countless graces over the whole world.

Let us therefore make our own the urgent call upon our Mother that Saint Grignion so wonderfully expressed in his “ardent prayer”, to beg the Holy Trinity, so that she may give to the world in danger, true and numerous "Apostles of Jesus and Mary". I think that one cannot give more delight to the Immaculata than to do everything possible for vocations! It is moreover the express will of our Superior General, the supreme authority of the MI of traditional observance, that all the Knights strive to pray with fervour and constancy to obtain good and holy priestly and religious vocations through the Immaculate.

For the year 2019 the resolution was proposed to live our consecration to the Immaculate, thus to be more fervent and more constant instruments in her service. Today we are learning that we cannot be a better instrument in her hands than to help her to bear and shape other Christs on earth, good and holy priests. It should be a real prayerstorm accompanied by sacrifices that each Knight should give to his Queen as a token of gratitude for so many graces received - and did we not receive all these graces precisely through the priest?

Of course, we cannot force you to do this, because apart from the daily ejaculatory prayer you are not obliged to do anything. But please hear through this letter, the Immaculate herself who invites you (always speaking to us through the way of superiors as Saint Maximilian so often repeated) to do great things for her, even the greatest!

So we propose to all the Knights to repeat throughout this year at least three times a day the invocations:
"Lord, grant us priests! Lord, grant us holy priests! Lord, grant us many holy priests! Lord, grant us many holy religious vocations! BY MARY!"


To the Knights who wish to do more for her, we propose to recite a decade of the rosary or even a whole rosary for these intentions, and this throughout the year. We can also offer to our Queen the months of May and October in a special capacity, with the prayers and sacrifices we will make in her honour, especially for this intention.

And since we are in Lent, why not add to our Lenten resolutions this great resolution by which certainly the Sorrowful and Immaculate Heart of Mary will be deeply touched and consoled! This is how we prepare more effectively for her triumph and the achievement of Our Lord's eternal victory.

Wishing you a Blessed and Holy time of Lent
And blessing you with all my heart
Fr. Karl Stehlin
Bajerze, 13 March 2019
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無原罪の聖母の騎士全員への指導司祭の手紙【第12号】―2019年のモットーFather Director's Letter No 12 to all Knights of the Immaculata

2018年12月14日 | M.I.(無原罪の聖...
親愛なる無原罪の聖母の騎士の皆さん!

喜びと感謝をもって、私は皆さんにお知らせしたいと思います。私たちの新しい総長は、無原罪の聖母の騎士会(MI)の国際本部をワルシャワに設立することをお許しになり、祝福してくださいました。総長はまた、「MIハンドブック」の推薦の言葉を書いてくださいました。この本は英語、フランス語、スペイン語版がすでに出版されていますが、もうすぐドイツ語版も入手できるようになります。この本はMIが取り組むことすべての要約であり、とりわけ、MIの本質と正当性、有益性、今日性について述べています。特別な章も一つあって、MIと他のマリア運動の関係を説明しています。なぜなら、それらの運動によって誤解と不信が繰り返し発生するからです。恐らく最も重要な章は、MIの具体的な在り方、すなわちMIへの入会および特に騎士の堅忍を取り扱っています。何かを始めるのはいつも簡単ですが、何かを継続させ保持するのは極めて困難です。あらゆる団体が持ちこたえていくか駄目になってしまうかは、いかにしてメンバーがいつも注意を払っているようにしているか、いかにしてメンバーに最初の熱意を維持させているか、あるいはその熱意をさらに深めさせているか、という問題にかかっているのです。このことは、すべてのカトリック信者にとって、特にすべての騎士にとって、確かに大きな問題です。自分が、いかにすれば、忠実にとどまることができ、またそれ以上に忠実になることができるのでしょうか?

第一の答えは外部から来ます。騎士たちに霊魂の戦いのための武器や弾薬を常に供給し、無原罪の聖母の御手にある、さらにより良い道具となるよう、騎士たちをさまざまな方法で激励することは、MI指導部の責任です。MIの全構造は、使徒的な素材を生み出して、それを適切な使用説明書と一緒に、騎士たちに渡すように設計されてきています。それゆえに、定期的な雑誌や手紙、リーフレット、MIコーナーなどがあるのです。

もう一つの答えは、騎士自身の内部から来なくてはなりません。騎士自身がMI指導部のこれらすべての努力を無視するとしたら、その努力はいったい何になるというのでしょうか。もし騎士が自分に差し出されたものを手に取らず、それを考慮するのを怠ったとしたらどうでしょうか? そうすれば、私たちは、自分が一日に少なくとも一回は無原罪の聖母のために、霊魂の救いのために何かをするという約束に不忠実となってしまった眠れる騎士の一人、名前だけの騎士の一人であるということに突然気づいてしまっても驚くには当たりません。

それゆえに、私たちは自分が忠実にして寛大であるよう祈るだけでなく、奉献の祈りの中に非常にうまく要約されている騎士というものの本質を観想し続けることも、いかに重要でしょうか。

このことを、もう少しよく理解してみるようにしましょう。
すべての恩寵の仲介者であるマリアがMIの土台です。すべての恩寵の仲介者というのは、主によって、その御苦しみと十字架上の死を通して獲得された回心と聖化というすべての恩寵がマリアに委託された、というマリアの特権に関する教えです。それは、マリアがその恩寵を「マリアがお望みのときに、マリアがお望みの人に、マリアがお望みの方法で、マリアがお望みの分量を」(聖ベルナルド)善意の人々に分配できるようにするためでした。この恩寵の仲介は、二つの方向に働きます。まず、恩寵はイエズスの聖心から流れ出て無原罪の聖母の御手を通してやって来ます。天主の光と恩寵が私たちに触れ、私たちを回心させ、聖化します。私たちは、この天主の創造の、かつ贖いのわざにお応えしなければなりません。私たちの全存在は天主に帰るためにあります。さて、私たちが天主に帰るには、天主がマリアを通して私たちのところにやって来られたのと同じように、マリアを通して、でなければなりません。このことは、キリスト教の古い時代から有名な格言で表現されてきました。「マリアを通してイエズスへ」です。ファチマの聖母も、このことを次の分かりやすい言葉によって確認なさいました。「私の汚れなき心はあなたたちの避難所であり、あなたたちを天主へと導く道になるでしょう」。

天主は人間に強制なさるのではなく、むしろ私たちに天主の救いのみわざへの自由な同意をお求めになります。それゆえに、私たちがこのことを明確に求め、私たち自身の意志によって、意識的で決定的な「はい」によって私たちが聖母を受け入れる条件でのみ、聖母は仲介者としてのご自分の任務を私たちにおいて実現させることがおできになるのです。仲介者である聖母は、私たちが自分自身を明け渡すという行い、すなわち自分自身の奉献によって自分自身を聖母に捧げるならば、それに応じて私たちの内に聖母のあらゆる愛の活動を広めてくださることでしょう。

私たちの奉献において聖母に捧げるものを、もっと正確に特定しましょう。私たちはこれまで、霊的生活においては二つの偉大なる現実があることを見てきました。それは、私たちの天主との関係および私たちの隣人との関係です。これは結果として、二つの異なる奉献となり、それらは互いに補いあうものです。

a)まず、私たちは、マリアが私たちの母にして女主人となるように、また私たちがマリアの子どもにして奴隷となるように、自分をマリアに捧げます。これは重要かつ土台となる奉献の行為ですが、基本的には、このことはすでに私たちのマリアへの完全な明け渡しを表してはいるものの、具体的には、私たち自身の聖化や、マリアを通して私たち自身が天主へ帰ることに限定されています。これは、御摂理が聖ルイ・マリア・グリニョン・ド・モンフォールに霊感を与えることによって、「聖母マリアへのまことの信心」の中で驚くほど素晴らしく私たちに示すことを望まれた、マリアへの完全な信心の説明です。

b)次に、マリアが私たちのこの世でのいのちをご自分の御手にお取りになるように、すなわち、私たちが成し遂げなければならない務めをお取りになるように、自分自身をマリアにお捧げします。マリアは今や、私たちのすべての行いと他人との関係についての主要な原因(もちろん、常に天主の下位ですが)となられ、私たちを「マリアの汚れなき御手の道具」とみなされることになります。聖マキシミリアノ・コルベの奉献の祈りは、聖グリニョン・ド・モンフォールの奉献の短い要約で始まります。しかし、中心となるものは、私たちがマリアに、私たちのすべての能力を所有し、それを通してマリアが霊魂における回心と聖化の奇蹟を行うことができるように願うことです。これによってマリアは、「ヘビの頭を踏み砕き」、「世界中のあらゆる異端に打ち勝つ」ことができるようになるのであり、こうして「主の聖心の支配」をもっともっと打ち立てることができるようになるのです。

ですから、これこそが、2019年の年間の決心として、私が皆さんに提案したいことなのです。つまり、私たち自身を聖母の道具として無原罪の聖母へ奉献することを、私たちの生活のあらゆる領域へもっともっと浸透させることであり、それによって、私たちが祈りによって聖母に捧げるものを、また毎日の生活においても実践に移すようにするためです。

このことは第一に、しばしば奉献の祈りを観想しながら祈ること、その祈りにある一つ一つの文と一つ一つの言葉を味わうことであり、これはいわば、可能な限り深くその祈りを理解するためなのです。「我らの愛深き母よ」、「天主は、あわれみの全秩序を御身に委ねることを望み給えり」、「道具」などの言葉の背後には、霊的世界全体が開かれます。今年の騎士への手紙は、とりわけこれらの霊的な深みへと私たちを導くはずです。

しかしその後、本当に重要で困難なものがやって来ます。それは、私たちの奉献を毎日の生活において実践することです。これには、ただ一つの基本的な態度を必要とします。寛大さです! もしいつも狭量でけちであるならば、もしいつも自分の利益だけにしか関心がないならば、その人は王たるキリストの呼びかけに従うことができず、天主を愛し天主のご意志を成就させようとするあらゆる願いは、つぼみのうちに摘み取られてしまうことでしょう。それゆえに、まず第一に、私たちはみな、毎日の生活において寛大であるようにしなければなりません。寛大に屈辱を受け入れ、寛大に他人の誤りや不完全さに耐え、寛大に不思議のメダイやちらしを配布し、寛大にロザリオを終わりまで祈り、寛大に汚れなき御宿りに何かを捧げるのです。小出しに何かを行うのではなく、寛大に行ってください。

私たちはみな、無原罪の聖母への私たちの奉献を表明するとき、幼子イエズスと御母の足元に騎士たちを置くことによって、この寛大さを求めて祈る必要があります。それは、聖なるクリスマスの輝く光が私たちみなを恩寵で満たし、その恩寵が私たちの騎士としての振る舞いを通して、あわれな罪びとの心に流れ込むようにするためです。

祝福とともに
カール・シュテーリン神父
2018年11月25日、ブカラマンガ(コロンビア)にて。


【英語原文】

Father Director’s Letter No. 12


Dear Knights of the Immaculata!

With joy and gratitude I would like to inform you that our new Superior General has allowed and blessed the establishment of the International Headquarters of the M.I. in Warsaw. He has also written a word of recommendation for the "M.I. Handbook", which has already been published in English, French and Spanish and will soon be available in German. It is a summary of all the concerns of the M.I.: above all, its essence and its justification, usefulness and topicality. A special chapter also explains the relationship of the M.I. to other Marian movements, as misunderstandings and mistrust repeatedly arise with them. Probably the most important section deals with the concrete existence of the M.I.: the enrolment into the M.I. and especially the perseverance of the Knights. It is always easy to start something, but extremely difficult to continue and preserve something. Every association stands or falls upon the question of how to keep its members on their toes and keep their first zeal or even deepen their initial zeal. This is surely also the big question for every Catholic and especially for every Knight: how can I remain faithful and become even more faithful?

The first answer comes from the outside: it is the responsibility of the M.I. direction to provide the Knights constantly with weapons and ammunition for the combat of souls, and to motivate them in various ways to become ever better instruments in the hands of the Immaculata. The whole structure of the M.I. has been designed to produce the apostolic materials and to hand them over to the Knights with an appropriate instruction manual: hence the regular magazines, letters, leaflets, the M.I. corners, etc.

Another answer must come from inside the Knight himself: what is the use of all these efforts if the Knight himself ignores them? If he does not take what is offered to him and neglects to consider it? Then we should not be surprised by the sudden realisation that he belongs to the sleeping knights, to the Knights in name only, who become unfaithful to their promise to do something for the Immaculata and for the salvation of souls at least once a day.

How important it is, therefore, that we pray for fidelity and generosity, but also that we keep contemplating the nature of the Knight, which is so ably summarized in the consecration prayer.

Let us try to understand this a little better:
Mary, the Mediatrix of all graces is the foundation of the M.I.: a privilege which teaches us that all the graces of conversion and sanctification earned by our Lord through his suffering and death on the cross are entrusted to Mary so that she can distribute them to people of good will "whenever she wants, to whomever she wants, howsoever she wants, as much as she wants" (St. Bernard). This mediation of graces takes place in two directions: first they flow down from the Sacred Heart of Jesus through the hands of the Immaculata. God's light and grace touches us, converts and sanctifies us. We have to respond to this creative and redeeming work of God: our whole existence consists in returning to God. Now, our return to God must take place in the same way in which God came to us, through Mary. This has been expressed since Christian antiquity by the famous axiom: "through Mary to Jesus". Even Our Lady in Fatima confirms this with the simple words: "My Immaculate Heart will be your refuge and the way that leads you to God".

God does not force man, but he wants our free consent to his salvific work on us. Therefore, Our Lady can realize her mission as Mediatrix in us only if we also want this clearly, if we accept her by an act of will, by a conscious and decisive "yes". The Mediatrix will unfold all her loving activity within us to the extent that we give ourselves to her through an act of surrender, the consecration of ourselves.

Let us specify more precisely what we give to Our Lady in our act of consecration. We have seen that in our spiritual life there are two great realities: our relationship with God and our relationship with our neighbour. This results in two different acts of consecration that complement each other:

a.) First we give ourselves to Mary so that she may become our mother and mistress and that we may become her children and slaves. This is the important and fundamental act of consecration, which basically already expresses our total surrender to Mary, but which is concretely limited to our own sanctification, our personal return to God through Mary. This is how Providence, by inspiring Saint Louis Maria Grignion de Montfort, wanted to explain total devotion to Mary which is wonderfully presented to us in the "Golden Book on True Devotion to Mary".

b.) Then we give ourselves to Mary so that she may take our lives in the world into her hands, namely the tasks that we have to fulfil. She should now be the main cause (always subordinated to God, of course) of all our actions and our relationship with others, and she should regard us as "instruments in her immaculate hands". The act of consecration of St. Maximilian Kolbe begins with a brief summary of the consecration of St. Grignion de Montfort. But the main thing is that we ask Mary to possess all our abilities in order to make them channels through which she can perform miracles of conversion and sanctification in souls. This enables her to "crush the head of the serpent", to "overcome all heresies all over the world" and thus to establish more and more "the dominion of the Sacred Heart of Our Lord".

And this is exactly what I would like to propose to you as the Yearly Resolution for 2019: that our consecration to the Immaculata - as her instruments - should penetrate more and more all areas of our lives, so that what we give her through prayer may also be put into practice in daily life.

This means, first of all, to pray, often contemplating the act of consecration, to savour every sentence, every word in it, so to speak, in order to grasp it as deeply as possible. Whole spiritual worlds are opened behind the words "Mary who loves us so much", "to whom God has entrusted the whole order of mercy", "instrument", etc. Our letters during this year should lead us above all into these spiritual depths.

But then comes the really important and difficult one: the implementation of our consecration in everyday life. This requires a single fundamental attitude: generosity! If one is usually petty and miserly, if one is constantly concerned only with one's own advantage, then one cannot follow the call of Christ the King, then every desire to love God and fulfil his will is nipped in the bud. Therefore, first of all, we must all try to be generous in our daily lives: generously accept a humiliation, generously endure the mistakes and imperfections of others, generously distribute the Miraculous Medal and flyers, generously pray the Rosary to its end, generously give something for the Immaculate Conception. Don't just do something sparingly, do it generously!

We all need to pray for this generosity in the manifestation of our consecration to the Immaculata, by laying all Knights at the feet of the Christ Child and His Mother, so that the bright light of Holy Christmas may fill all of us with graces, and that these may flow through our knighthood into the hearts of poor sinners.

With my blessing
Father Karl Stehlin
Bucaramanga, on the 25th of November 2018
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無原罪の聖母の騎士全員への指導司祭の手紙【第10号】ーFather Director's Letter No 10 to all Knights of the Immaculata

2018年03月19日 | M.I.(無原罪の聖...
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

童貞聖マリアの浄配、聖ヨゼフの祝日、おめでとうございます。
無原罪の聖母の騎士全員への指導司祭の手紙【第10号】をご紹介いたします。

聖ヨゼフ、我らのために祈りたまえ。
聖ヨゼフ、我らのために祈りたまえ。
聖ヨゼフ、我らのために祈りたまえ。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


無原罪の聖母の騎士全員への指導司祭の手紙 第10号


親愛なる無原罪の聖母の騎士の皆さん、

聖マキシミリアノ・コルベを正しく理解するためには、彼の内的生活を形づくり促進させた最も重要な根源にまで立ち戻らなければなりません。それは、マリア様の現存によって完全に特徴づけられ、特にマリア様がキリスト信者の軍隊の「司令官」として敬われているポーランドという彼の国の歴史、不思議のメダイ、ルルドのマリア様のご出現、そして聖ルイ・マリー・グリニョン・ド・モンフォールです。

おそらくは、聖コルベがローマで勉強している間に、この「マリアへの完全なる明け渡し」の偉大なる師に出会ったのでしょう。聖コルベが、ちょうど100年前の聖ルイ・マリー(当時はまだ福者ルイ・マリー)の祝日である4月28日に叙階されたのは、確かに偶然ではありません。

彼は聖ルイ・マリーをポーランドに知らせ、「マリアの秘密」の最初のポーランド語版を印刷、出版しました。その序文では、彼自身が聖グリニョンの短い伝記とその霊性の要約を書きました。とりわけ彼は、二人が生きた時代は違うものの、似たような状況に生きていたことを強調しました。聖ルイ・マリーの当時の敵はジャンセニストでしたが、こんにちの敵はフリーメーソンとその他のセクトです。どの敵も皆、特徴的なしるしがありました。それはイエズスとマリアへのまことの信心に対する嫌悪でした。こんにちの無原罪の聖母の騎士のように、当時、グリニョンはすべての恵みの仲介者の偉大なる使徒でした。聖母の汚れなき御手の完璧な道具として、グリニョンは、そのよく知られた宣教活動の間に、サタンの鎖から数え切れない霊魂を救いました。ちょうどこんにちの無原罪の聖母の騎士会(MI)が、すべてを支配しつつある悪の軍団に直面しているように、グリニョンも敵の強大な力にさらされていました。しばしば一人ぼっちで、友人にさえ見捨てられて、彼は異端者の悪意と妬みの標的になりました。しかしながら、何にもましてグリニョンとマキシミリアノは、すべての力と勇気を共に同じ根源から引き出しました。彼らは聖母に全き信頼を置き、すべてにおいて聖母に絶対服従しました。いつであってもどこであっても完全に、聖母だけを頼りにしました!

しかしながら、さらに重要とさえ言える偶然の一致があります。グリニョン・ド・モンフォールは、終末の時代のマリア様の役割を指摘したとき、「上から」霊感を与えられました。もし竜とその手下たちの支配権が非常に強力なため、教会を破壊することにほとんど成功してしまい、ほとんどすべての人を破滅への道へとそそのかすならば、そのとき黙示録の婦人が現れるでしょう(黙示録12章1節)。忠実なしもべたちを通して、その婦人はサタンのかしらを踏み砕き、サタンのすべての攻撃に打ち勝つでしょうが、とりわけ、この少数の忠実な「終末の時代のイエズスとマリアの使徒」を通して、婦人は数え切れない霊魂を患難から奪い取るのです。

聖マキシミリアノは無原罪の聖母の騎士の注意を、このマリアの忠実な奴隷というグリニョンの描写に引き付けています。この奴隷たちは権力を恐れず、元后が送り出そうと命ずるところならどこへでも行き、右手に十字架像、左手にはロザリオを持ち、心にはイエズスとマリアの聖名を刻んでいました。

聖マキシミリアノは無原罪の聖母の騎士に対して、自分たちを終末の時代のイエズスとマリアの使徒だと見なすよう求めています。「この理想(イエズスとマリアの使徒)を実現するための私たちの目標とその手段は、聖ルイ・マリーの考えと完全に一致しています。彼の最も熱心な望み、彼の全生涯の望みは、無原罪の聖母を全人類の元后としてたたえ、人間の鼓動する心臓をすべて、聖母の愛に引き渡すことでした」。

この理由から、聖マキシミリアノの望みによって、無原罪の聖母の園に住む人々はすべて、ポーランドであれ日本であれ、聖モンフォールによる奉献をしてきました。言葉の完全な意味において、まことに無原罪の御宿りの騎士になるためには、聖母の従順な子ども、聖母に服従する奴隷にならねばならないのです。人が所有物として完全に芸術家のものになるならば、その限りにおいてのみ、完全にその芸術家の道具となることができるのです。

聖マキシミリアノが、誰でも簡単に騎士になれるようにし、毎日一つの短い祈りをすることと、不思議のメダイを身に着けるという奉献以外には、実践として何も要求していないというのは、確かに本当です。それにもかかわらず、彼は、すべての騎士が壮大で言い表せないほど重要な宣教の使命を受けたという偉大な理想に満たされるべきだという、自分の心からの望みを表しました。私たちは、完全に無原罪の聖母のものになるよう、聖母に完全に従って聖母が望みのままにお使いになる道具となるよう、可能な限り多くの霊魂を救うよう、もっともっと努力すべきです。

しかしながら、このことは言い表せないほど困難です、特に私たちの時代においては。終末が近づけば近づくほど、戦いは厳しくかつ危険になります! そんなとき、私たちが無原罪の聖母のために行う最も小さなことでも、聖母によって寛大に報いられるということを、私たちは忘れるべきではありません。進んで無原罪の聖母による御恵みで満たされる人は、聖母の忠実な道具そのものになるでしょう。あわれな罪びとの回心のための私の努力が、まず第一に、あわれな罪びとの中でも最もあわれな罪びとである私に利益を与えるのです。

しかし、この二つの奉献の違いは何でしょうか? 二つは互いにどのように関係しているのでしょうか?

聖母は聖ルイ・マリーに対して、聖母へのまことにして完全な信心という御恵みをお与えになりました。この奉献によって、聖母は、言葉の本当の意味で、私たちの母にして元后になられ、私たちは聖母の子どもにして奴隷になります。母として、聖母は私たちの手をお取りになって、私たちを助けて天主へ立ち返るよう、霊魂を救うよう、悪魔のわなから自由になるよう、イエズス・キリストから離れないようにさせてくださいます。このようにして、私たちは洗礼の誓いを守り天主の最も偉大なる掟、すなわちすべてに超えて天主を愛するということを守るのです! 明らかに、私たち自身の回心と聖化のため、私たちの天主ご自身との関係のため、「完全な信心」が私たちに与えられます。「私の母にして元后がいなければ、私は主の真理、主のいのち、主の道を見つけられないだろう。もし私がこの真理といのちをいったん見つけたとしても、マリア様がいなければ確実に再びそれを失っていただろう。しかし今、聖母が私のいのちという船を指揮されるからには、聖母は私を港まで安全に連れて行ってくださるだろう」。

天主への愛の第一にして最大の掟をお与えになったのち、私たちの主イエズス・キリストは私たちに、「私があなたたちを愛したように、あなたたちも愛し合いなさい」とも要求され、また主はこれを主の新しい掟と呼ばれました。キリストはどのようにして私たちを愛されたのでしょうか? 主は、私たちを永遠の滅びから救うため、また私たちを永遠の至福へと導くため、ご自分をお捧げになったのです。

ですから、ここでもまた、私たちは自問しなければなりません。私たちは、一体どれほど私たちの仲間である人類の救いのことを考えているでしょうか? 私たちは、人類の大部分について全く気にかけておらず、他人は私を悩ませていると思い、もしたまたま誰かに善きことがあるよう願うとしても、それはほとんど全てが「健康、福祉、成功」のことです。

ですから、ここでもまた、主は、愛徳という素晴らしい掟をもっとよく実践できるよう、私たちに助けを送られます。それは、愛情あふれる御母、元后であり、この方は、キリストに次いで、すべての人々一人一人を、この世の最高の母親たちが最愛の子どもを愛することのできる以上に愛してくださるのです。その上、キリストは、これらの人々が回心して救われるよう、御母にすべての御恵みを与えられました。しかし今、天主は私たちに、この務めに参加するよう望んでおられます。そういうわけで、私たちはもう一つの秘蹟、聖なる堅振の秘蹟を受けたのです。この秘蹟は、私たちの聖化のためだけでなく、私たちをキリストの兵士にし、キリストの神秘体の啓発に参加するよう、私たちに聖霊を与えるのですから。

堅振の秘蹟によるこの偉大なる御恵みを無駄にしないために、また王の軍隊に入って王の召集に従うために、主は、私たちに無原罪の聖母を送られて、私たちが聖母の騎士になり、聖母の小さな軍隊に加わって、できる限り多くの聖母の子どもたちの霊魂を聖母が救うのを助けるようになさったのです。見てください、天と地の元后は物乞いとなられ、私のところに来て謙遜に嘆願なさいます。「わが子よ、あなたが必要です。あなたは、不死の霊魂であるわが子どもたちを救うため、私を助けたいと望みますか? 非常に多くの霊魂が永遠に失われています。彼らのために祈り犠牲をする人が誰もいないからです」(1917年8月19日、ファチマ)。

ここでもまた無原罪の聖母は私たちに、聖母の道具として、これまで以上に霊魂を救うよう、堅振の秘蹟の御恵みを維持するよう、私たちに教えることになるしもべを送られました。聖マキシミリアノ・コルベは、全世界を聖母の足元に置いて、「聖母が悪魔のかしらを踏み砕き、世界中の異端に打ち勝つことができる」ように、無原罪の聖母の騎士会を創立しました。

ちょうど隣人への愛が天主への愛を基礎とし、それを前提とするように、堅振の秘蹟が洗礼の秘蹟を基礎とし、それを前提とし補うように、マキシミリアノの事業はグリニョンの全面的な奉献の拡張かつ補足として、その奉献に基づいています。言い換えれば、聖グリニョンのマリアへの全面的な奉献を完成させるために、聖マキシミリアノの奉献の祈りが必要とされるのです。そのときだけ、私たちの全存在は、聖母の現存と聖母の御恵みの充満が浸透することで、マリア様に依存するようになるのです。私たちの天主との関係だけでなく、私たちと隣人との関係においても、また私たちの自己聖化だけでなく、私たちがこの世で天主から受けた宣教の使命、すなわちキリストの御国を求めるキリストの戦士になるという宣教の使命においてもです。私たちの天国への道、地上で霊魂の救いを求める私たちの闘い―すべてが、例外なくすべてが、聖母に属しているのです。ちょうど、聖母が天主に属しているように。

しかしながら他方では、このことは、無原罪の聖母の騎士は、繰り返し自分の霊的な基礎を知らねばならないことをも意味しています。「天主のすべての戦いにおいて勝利を収め給う私の元后、私は御身の軍隊の道具にして騎士になることができます。それは、ただ私が全面的に御身の子どもであって御身は私の母であり、私は御身の奴隷であって御身は私の主人であるという段階になったときだけです」。

厳密に言えば、マリア様を私たちの母にして元后であると荘厳に認める全面的な奉献がなければ、そしてそれゆえに、聖母の子どもかつ奴隷として聖母への絶対的な依存がなければ、誰も本当の意味で聖母の騎士にはなれません。

もし皆さんが、まだ聖グリニョンによる奉献をしていないなら、司令官は、すべての戦いにおける確実な勝利の秘密を発見するよう、皆さんを招きたいと望んでおられます。皆さんがこの招待を拒否するならば、皆さんは無原罪の聖母の熱心な戦士には決してなれないでしょう。それどころか、非常に弱くなってしまい、恐るべき敵の攻撃に抵抗できないでしょう。そのうえ、戦いにおいて特別なことは何もできないでしょう。なぜなら、将軍は皆さんを少ししか頼りにすることができず、皆さんの武器は錆びついているか、弾丸を使い切っていたりするかであるからです。

元后が皆さんを奴隷かつ子どもとして受け入れ、理論的には今や完徳の高みにまで安全に皆さんを導くことのできるという言葉で表せない御恵みを、皆さんがすでに受けているのなら、少なくとも年に一回は、繰り返しマリアへの完全なる明け渡しを更新することが非常に重要です。

その理由は単純です。私たちは生きている限り、常にこの信心を完全かつ真剣に理解する自信がないからです。私たちの奉献が更新されるたびに、私たちは少しだけそれにふさわしくなり、少しだけより忠実になるのですから!

もう一つ理由があります。戦いは恐ろしいものであり、私たちは常に戦場にいるのです。騎士は簡単に疲れてしまい、霊魂を救うために無原罪の聖母を助けることに従事し続けているときは特にそうです。終わりなき混乱が私たちを消耗させます。そのようなわけで、私たちが母親の胸元にいる子どものようにしばらく休むことができるよう、御母は私たちをご自分の方へ引き寄せたいと望まれます。聖母は、ご自分がどれほど私たちを愛しておられるのか、どれほどまで私たちの母でいらっしゃるのか、私たちから何を望んでおられるのかを、もう一度私たちに思い出させようと望んでおられます(準備の第2週)。聖母は、天主に全面的に依存している被造物として、しかしまたあわれな堕落した人間として、私たちが何者なのかを何度も繰り返してじっくり考えるよう私たちに望んでおられます(準備の第1週)。とりわけ、聖母は御子へと私たちを導きたいとお望みです。それは、聖母を通して、私たちが主を十分に知って愛し、私たちが、私たちを「限りなく」愛し「私たちのために十字架上の死に至るまでご自分を捧げられた」主のものになるためです(準備の第3週)。[注1]

聖グリニョンの奉献のための望ましい日は3月25日のお告げの祝日です。この日には、すべての人が奉献の祈りの更新するよう(あるいは初めての場合はそれを行うよう)招かれています。MIの大きな祝日は、12月8日の無原罪の御宿りの祝日です。この日には、私たちは、聖母の道具としての奉献の祈りを更新することになっています。ですから、奴隷としての準備と奉献は、通常は四旬節に当たり、騎士としての奉献は待降節に当たります。これは、御摂理による忘れないためのしるしであって、このようにして、御摂理は、これらの悔悛と回心の時期に私たちが素晴らしい決心を立てるよう助けてくだっているのではないでしょうか?

これとは別に、すべてのマリア様の祝日もまた、無原罪の聖母への奉献、私たちが何者であるかを決して忘れないための重要な信心である奉献を更新するのにふさわしい日です。今も永遠においても、私たちは、無原罪の聖母の子どもであり、奴隷であり、騎士であるという特権を持っているのですから。

そのような私たちには過ぎたる御恵みに対して、無原罪の聖母がたたえられ、讃美されますように!

2018年2月26日、ジャカルタにて
カール・シュテーリン神父


[注1]奉献の祈りの年に一度の更新のため、聖ルイ・マリーは私たちが3週間にわたってその準備をするよう望んでいます。「毎年同じ日に、同じ修業のあとで3週間、奉献を更新すべきである。また、毎月あるいは毎日、次の短い祈り『わが愛し奉る主イエズスよ、聖なる御母マリアによりて、われすべて御身のもの、わが持ち物はすべて御身のもの』を唱えることで奉献を更新することもできる」(聖母マリアへのまことの信心233番)



【英語原文】

Father Director's Letter No 10 to all Knights of the Immaculata


Dear Knights of the Immaculata!

In order to understand St. Maximilian Kolbe correctly, one must go back to the most important sources that have shaped and inspired his inner life: the history of his country, completely marked by the presence of Mary, in Poland specially venerated as the “commander in chief” of the Christian armies; the Miraculous Medal; the apparitions of Mary in Lourdes, and especially St. Louis Marie Grignion of Montfort.

Most likely, he met the great master of "perfect surrender to Mary" during his studies in Rome. It is certainly no coincidence that he was ordained a priest on the 28th of April, the feast of St. Louis Marie (at that time yet Blessed Louis Marie), exactly 100 years ago.

He made St. Louis Marie known in Poland, and printed and published the first Polish translation of the "Secret of Mary". In the foreword he himself wrote a short biography and summary of Grignion’s spirituality. Above all, he emphasizes the similarity of the situation in the different times in which both lived. At that time the enemies were the Jansenists; today it is the Freemasons and other sects. The distinctive mark of all of them — a hatred for true devotion to Jesus and Mary. Like the Knights of the Immaculata today, Grignion was then the great apostle of the Mediatrix of all graces: as a perfect instrument in her immaculate hands, he has saved countless souls from the chains of Satan during his popular missions. Just as today's M.I. faces the all-dominating armies of evil, so too Grignion was exposed to the mighty power of the enemies. Often alone, abandoned even by his friends, he became the target of the malice and envy of the heretics. Above all, however, Grignion and Maximilian draw together from the source of all strength and courage: they put all their trust in Our Lady and were absolutely obedient to her in everything; always and everywhere and completely only HER will counts!

There is, however, an even more important coincidence: Grignion of Montfort was certainly inspired "from above" when he pointed out the role of Mary in the latter times: if the supremacy of the dragon and its servants is so great that they almost succeed in destroying the Church and entice almost all men on the path of damnation, then the apocalyptic Woman appears (Apoc. 12, 1). Through her faithful servants, she crushes the head of Satan and overcomes all his attacks, but above all, through these few faithful "apostles of Jesus and Mary of the last times", she snatches countless souls from the adversary.

St. Maximilian draws the attention of the Knights of the Immaculata to the description by Grignion of these faithful slaves of Mary, who fear no power, who go wherever the Queen sends them, who hold the crucifix in their right hand, the rosary in their left hand and have written the names of Jesus and Mary in their hearts.

He wants the Knights of the Immaculata to identify themselves with the Apostles of Jesus and Mary of the last times: “Our goal and the means to achieve this ideal (apostles of Jesus and Mary) are in complete agreement with St. Louis Maria's views. His most earnest desire — the desire of his whole life — was to honour the Immaculata as the Queen of all humankind, to hand over to her love all beating hearts of men".

For this reason, according to St. Maximilian's wish, all inhabitants of the City of the Immaculata, both in Poland and Japan, have made the consecration according to St. Montfort. In order to truly become a Knight of the Immaculate Conception in the full sense of the word, one must be her obedient child and her submissive slave. One can be totally an instrument only if one belongs totally to the artist as his property.

It is certainly true that St. Maximilian makes it easy for everyone to become a knight, and basically demands practically nothing other than the consecration, a daily little prayer and wearing the Miraculous Medal. Nevertheless, he expresses his deepest wish that every knight should be filled with the great ideal of having received a magnificent, unspeakably significant mission: We should strive more and more to belong fully to the Immaculata, to be completely obedient to her and thus be her instrument that she can use as she wants, to save as many souls as possible.

However, this is unspeakably difficult, especially in our times. And the closer the end, the harder and more dangerous the fight! In such moments we should never forget that the least we do for the Immaculata is generously rewarded by her. The first to be filled with graces by the Immaculata, will be her faithful instrument itself. My efforts for the conversion of the poor sinners will first of all benefit me, the poorest of the poor sinners.

But what is the difference between the two consecrations? How do they relate to each other?

Our Lady gave St. Louis Marie the grace of true and perfect devotion to her. Through this devotion she becomes our mother and queen in the truest sense of the word, and we her children and slaves. As a mother, she takes our hands and helps us to return to God, to save our souls, to free ourselves from the devil's traps and cling to Jesus Christ. In this way we fulfill our Baptismal vows and begin to fulfill God's greatest commandment: the love of God above all else! Visibly, the "perfect devotion" is given to us for our own conversion and sanctification, for our relationship with God himself: “Without my mother and queen I will never find HIS truth, HIS life and HIS way. Even if I found this truth and life once, I would surely lose it again without Mary. But now that she commands the ship of my life, she will take me safely to the harbour”.

After the first and major commandment of love for God, Our Lord Jesus Christ requires us also to "love one another as I have loved you", and He calls this His new commandment. How did Christ love us? He gave himself to save us from eternal damnation and to lead us into eternal bliss.

And here too, we have to ask ourselves: How often do we think of the salvation of our fellow human beings? We don't care at all about most of them, others bother us, and if we happen to wish someone good, then it is mostly all about "health, well-being and success".

And here too, the Lord sends us a help so that we can practice the great commandment of charity better and better: It is the loving mother, the queen, who after Christ loves all people so much, each one more than all the best mothers of the world can love their beloved children together. Furthermore, Christ gave her all his graces so that these people could be converted and saved. But now God also wants us to participate in this work. That is why we have received another sacrament, the Holy Confirmation, which bestows on us the Holy Ghost not only for our own sanctification, but to become Christ's soldiers and to participate in the edification of the Mystical Body of Christ.

In order not to waste these great graces of Holy Confirmation, and to finally enter into the King's army and to follow his call, the Lord sends us the Immaculata so that we may become her knights, join her small army and help her to save the souls of her children — as many as possible. And behold, the queen of heaven and earth becomes a beggar, comes to me and humbly pleads: “My child, I need you! Do you want to help me save my children, the immortal souls? So many are lost forever because there is no one who prays and sacrifices for them” (Fatima, 19th of August 1917).

Here, too, the Immaculata has sent us her servant, who is to teach us to save souls as her instruments and to unfold the graces of Holy Confirmation more and more: St. Maximilian Kolbe founded the Militia Immaculatae to lay the whole world at her feet, so that “She can crush the devil's head everywhere and overcome heresies all over the world”.

Just as the love of the neighbour builds on the love of God and presupposes it, as Confirmation builds on Baptism, presupposes and supplements it, so all of Maximilian's work is based on the total consecration of Grignion, as its extension and complement. In other words, in order to complete the total Consecration to Mary according to St. Grignion, one needs the act of consecration of St. Maximilian. Only then will our entire existence be made dependent on Mary, permeated by her presence and her fullness of grace: not only our relationship with God, but also our relationship with our neighbour; not only our self-sanctification, but also the mission that we have received from God in this world, namely to be the champion of Christ for the expansion of His kingdom. Our way to Heaven, our struggles on earth for the salvation of souls — everything, without exception everything belongs to her, just as she belongs to God.

On the other hand, however, this also means that the Knight of the Immaculata must again and again be aware of his spiritual foundation: “O my Queen, victorious in all the battles of God, I can be your instrument and knight in your army only to the extent, in which I am wholly your child, and you my mother, I your slave, and you my mistress”.

Strictly speaking, one cannot really be her knight without the total consecration through which we solemnly recognize Mary as our Mother and Queen, and thus our absolute dependence on her as her children and slaves.

If you have not yet made your Consecration according to St. Grignion, the Commander-in-chief would like to invite you to discover the secret of the sure victory in all battles and fights. If you reject this invitation you will never be an eager fighter of the Immaculata; on the contrary, you will often be too weak to resist the attacks of the terrible enemies. Besides, you won't be able to do anything special in battle, because the general can only count on you a little, your weapons are rusty or your ammunition is used up.

If you have already received the unspeakable grace that the Queen has accepted you as a slave and child and is now theoretically able to lead you safely to the heights of perfection, it is very important to renew again and again the total surrender to Mary, at least once a year.

The reason is simple: as long as we live, we will always lack the confidence to understand fully and seriously this devotion. With each renewal of our consecration we become a little less unworthy and a little bit more faithful!

There is another reason: the fight is terrible, we're always on the battlefield. The knight can easily get tired, especially when he is constantly occupied in helping the Immaculata to save souls. The never-ending turmoil wears us out. That is why the Mother wants to draw us to herself, so that we can rest for a while, like a child on the heart of the Mother. She wants to remind us again how much she loves us, how much she is our mother and what she wants from us (2nd week of preparation). She wants us to reflect over and over again on who we ourselves are, as creatures totally dependent on God, but also as poor, fallen men (1st week of preparation). Above all, she desires to lead us to her Son, so that through her we may know and love Him fully and belong to Him who has loved us "boundlessly and who has given himself up for us unto death on the cross "(3rd week of preparation)[1].

The preferred solemnity for St. Grignion is the 25th of March, the Feast of the Annunciation, on which all are invited to renew the act of consecration (or to do it for the first time). The great solemnity of the M.I. is the 8th of December, the Feast of the Immaculate Conception, on which we are to renew the act of consecration as her instruments. Thus, the preparation and the consecration as slaves usually falls into Lent, whereas the consecration as knights into the Advent season. Is this not a reminder of Providence, which in this way helps us to make a wonderful resolution in these times of penance and conversion?

Apart from this, all Feasts of Mary are also suitable for renewing our consecrations to the Immaculata — an important devotion so that we never forget our identity: Now and for all eternity we have the privilege of being children, slaves and knights of the Immaculata.

MAY SHE BE PRAISED AND GLORIFIED for such an undeserved grace!

Jakarta, on the 26th of February 2018
Fr. Karl Stehlin


[1]For the annual renewal of the act of consecration, St. Louis Marie wishes that we prepare it during three weeks: "Every year, on the same day, you should renew the consecration for three weeks after the same exercises. You can also renew it every month or even every day by saying this short prayer: "I am all Thine and all that I have is Thine, my beloved Jesus through Mary, Thy holy Mother" (Treatise No. 233).
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無原罪の聖母の騎士全員への指導司祭の手紙【第9号】―2018年のモットーFather Director's Letter No 9 to all Knights of the Immaculata

2018年01月03日 | M.I.(無原罪の聖...
親愛なるモデレーター、コーディネーター、親愛なる騎士の皆さん―この手紙をすべての騎士および興味を持ちそうな人々に送ってください。

新年おめでとうございます、そして聖なる新年をお迎えください!

2018年
マリアの汚れなき御心を通してイエズスの聖心へ


親愛なる無原罪の聖母の騎士の皆さん!

記念の年2017年も終わろうとしています。多くの人々が、今年何が起こったのかと思っていることでしょう。多くの人々が、100年前にファチマで起きた太陽の奇蹟のような、天からの特別な介入を期待していたことでしょう。他には、ファチマ第三の秘密の全体が明かされるのを熱心に待ち望んでいた人々もいましたし、私たちは皆、今年ロシアがマリアの汚れなき御心に奉献されるのではと非常に望んでいました。これらすべての希望は打ち砕かれました。それどころか、教会においては状況がかつてないほど悪くなっているように見える、と言えるかもしれません。それゆえに、来年からは、ファチマのことが多かれ少なかれ、多くの人々に忘れられてゆくのではないかという恐れがあります。

しかし、もう少し深くものを見る人々は、無原罪の聖母がこの記念の年の間に多くのことをなさったのを認めない訳にはいきません。年の初めには無原罪の聖母の騎士会(MI)の騎士は約2万人でしたが、年の終わりには、聖母の周りに10万人もの騎士を集めることで無原罪の聖母が私たちの祈りに応えてくださり、私たちの努力を祝福してくださったのを見て、私たちは感謝しています。フィリピン全土に及ぶマリア様の旅行ミッションは、この国に揺らぐことのない恩寵を与え、それにはしばしば、聖母の御あわれみによる実際の奇蹟がありました。多くの国々でMIは花開き、多くの信者の側に深いマリア様中心の生活がともにありました。以前には決してなかったことですが、ファチマの神秘に引き付けられて、聖伝に近づいてきた司祭たちや修道者たちとの非常に多くの接触がありました。

私たちがさらに深く見ていくならば、無原罪の聖母が私たちに与えてくださった非常に特別な恩寵があります。今年誠実に努力した人なら誰であれ、聖母によってその御心の神秘の中へさらに全面的に導かれたのです。私たちが受けたこの種の証言がいかに多かったことでしょうか。「これほど深くマリア様を理解することは、これまでありませんでした・・・今年ほどマリア様の愛を経験したことは、これまでありませんでした・・・私の生活全体でマリア様がいかに必要なのかということが、これまでにないほどよく分かりました・・・マリア様に奉献した生活をするということが、これまでよりずっとよくできるようになりました」!

ファチマ100周年の今年、マリア様の最も貴重なものが何かということが私たちに明らかにされました。聖寵充ち満てる御心、私たちに与えられる御心、これは聖母がすべての人にあらゆる回心と聖化の恩寵を与えようと望んでおられるということを意味しています。無原罪の聖母の騎士会100周年は、多くの新たな騎士を生み出しただけでなく、彼ら全員に彼らが聖母を信頼していること、また聖霊の浄配である聖母を通して聖霊のすべての賜物と実が私たちの心に置かれたことを示してもいるのです。

しかしここで、「私たちはマリア様について十分黙想しました。さあ、今度は何か別のことをしなければなりません。昨年、ファチマに関するすべてのことが決着しました。さあ今度は変化が必要です」と思うのは、大きな間違いです。

その反対です。もし私たちに、マリアの汚れなき御心の深みに入り込んでいく機会が与えられたのなら、それはマリア様が、私たちをご自分に完全に引き寄せて、その母としての御心を駆り立てているものを私たちに見せようと望んでおられるからです。マリア様は、ご自分のためには決して何も望んではおられません! マリア様は、ご自分に与えられたすべての栄光とほまれを、当然ながら御子へお渡しになります。汚れなき御心の本質そのもの、そのすべての聖域とご出現の目的そのものは、御子の聖心の神秘に私たちを導くことです。

ですから、これが私たちを新しい年2018年に、発見の旅にならなければならない年、言ってみれば、母親の指導の下で子どもが最も偉大な宝と最も偉大な真珠を見いだすことのできる年に導くのです。聖母はただ一つの望みをお持ちです。それは、私たちに天主の愛の広さと長さ、高さと深さを明らかにしてくださる(エフェゾ3章18節参照)天主の聖心に私たちを入り込ませることです。事実、マリア様ほどイエズスの聖心を深く、またよく理解し愛した人はこれまで誰もいませんでした。この理由のために、マリアの汚れなき御心において以外に、また御心を通して以外には、救い主の最も深い神秘に入れる人は誰もいません。

ですから、私たちは、イエズスが本当はどんな方なのか、イエズスの聖心の神秘とは何かを発見して驚くことをやめることは決してないでしょう。マリアの御心に完全に入り込んでいるときのみ、キリストは私たちに、小さき者たち、謙遜な者たちのために取っておかれた主の最も深い秘密を明らかにしてくださるでしょう。

それゆえに、私たちは二つの信心を別々に置いておくという危険、すなわち一方にマリアの御心への信心を置き、他方にイエズスの聖心への礼拝を置くという危険を避けなければなりません! 違います、本当の洞察は次のものです。「マリアは完全に常に、また常にマリアにおいてマリアを通して、イエズスへ至る!」。聖マキシミリアノ・コルベは、これを非常に明確に知り、生き、教えたのです(MIの奉献の祈りとイエズスの聖心をたたえるMIの講演を参照)。


ですから、2018年の第一の決心は以下のものです。

◆常にマリア様とともにいましょう。イエズスの聖心に近づくために、すべてにおいて聖母に頼り、すべてにおいて完全に、聖母の子ども、奴隷、騎士として自分を聖母に明け渡しましょう。

◆マリア様によってイエズスの聖心への信心を育みましょう(イエズスの聖心の月の初金曜日、イエズスの聖心の祝日など)。

◆今年、聖ルイ・マリー・グリニョン・ド・モンフォールによるマリアを通したイエズスへの全面的奉献を荘厳に行うか、更新しましょう(例えば3月25日に)。

◆聖母が王たるキリストに最も偉大なる栄光を与えられるようにするために、汚れなき御心の凱旋のために努力しましょう。イエズスの聖心の普遍的かつ社会的な王権を宣べ伝え、広めましょう。

◆多くの堕落した霊魂を可能な限り救うため、そしてそうすることで彼らをイエズスの至聖なる聖心に導くため、これまで以上に無原罪の御宿りの騎士および道具となりましょう(MIの奉献の祈り参照)。


しかし、私たちはまださらに進まなければなりません。

いとも聖なる二つの聖心が私たちにとっての現実となるとき、私たちがイエズスとマリアの聖心をまことに崇める者となるとき、私たちはさらに深い現実にまで、すなわち一つになった二つの聖心にまで導かれるのです。私たちがこれら二つの聖心の測りがたいほど深い面を知って愛するならば、私たちが、二つの聖心がどれほどお互いに表現できないほどの愛、一致、結合に至っているのかを知るならば、いわば、私たちが二つの聖心のお互いの関係をよく見つめるとき、いったい私たちは何と言うでしょうか?

ここにおいて私たちは、絶対的な愛の頂点の前に立っているのです。至聖なるイエズスの聖心において、この世への天主の愛がすべて明らかにされ、マリアの汚れなき御心において、天主への被造物の愛がすべて明らかにされるのです! 一つになった二つの聖心は、天主と被造物が永遠に一つになることの象徴です。愛の勝利です!

また、ここに、無原罪の聖母の騎士会の最も深い存在理由があります。私たちはそれを、2018年の間に、愛を込めた黙想のために騎士の皆さんに提供したいと思います。MIのエンブレムを見れば、一つになったイエズスとマリアの聖心と、これら二つの聖心の真ん中にMIの文字があるのが分かるでしょう。


ですから、2018年の第二の決心は以下のものです。

◆マリアを通してイエズスへ、しかしまたイエズスとともにマリアへ! この一方から他方への流れ、この相互の実り豊かさは、エミール・ヌーベール神父の著書「わが至高の理想マリアの御子イエズス」に非常に深くかつ美しく描写されています。今年、私たちはこの小冊子を手元に置き、繰り返し読みたいと思います。

◆騎士として、人類にもたらすことを許された最も偉大で最も重要なことが、ここに描写されていることを知りましょう。MIのバッジを身に着け、MIの旗に感謝し、MIの使徒職においてその旗の周りに集まることを幸せに思いましょう。

◆ひと月に一回、一つになったイエズスとマリアの聖心をたたえて大斎をしましょう。なぜなら、断食をすることは、私たちと私たちに委ねられた霊魂のための多くの恩寵の素晴らしい源泉であるからです。

◆「世の汚れに染まらず、自らを清く保つこと」(ヤコボ1章27節)を常に心がけましょう。イエズスとマリアに対する愛、そして霊魂たちに対する愛を表す次の祈りは、特に勧められます。「イエズス、マリア、われ御身を愛し奉る、霊魂たちを救い給え」。

ですから私たちは、2018年に、ファチマのメッセージという宝とMIを忘れないだけでなく、さらに深く見つめ、さらに熱心にそれを実践していくのです。なぜなら、このすべては、天主に最も偉大なる栄光を捧げ、できるだけ多くの霊魂を無原罪の聖母を通じてイエズスの聖心の下に置くために、私たちに与えられたのですから。

カール・シュテーリン神父



【英語原文】

Father Director's Letter No 9 to all Knights of the Immaculata - Motto for 2018

Dear Moderators and Coordinators, dear Knights - please forward this letter to all Knights and to those who could be interested!
HAPPY AND HOLY NEW YEAR!


2018
Through the Immaculate Heart of Mary to the Sacred Heart of Jesus


Dear Knights of the Immaculata!

The jubilee year 2017 is drawing to a close. Many wonder what happened this year. Many expected a special intervention from heaven, similar to the solar miracle 100 years ago in Fatima. Others longed for the whole of Fatima's third secret to be revealed, and we all wished so much that this year Russia would be consecrated to the Immaculate Heart of Mary. All these hopes were dashed. On the contrary, one could say that it looks worse than ever in the Church. Therefore, it is to be feared that after this year Fatima will more or less be forgotten by many.

But those who look a little deeper have to admit that the Immaculata has worked a lot during this jubilee year: at the beginning of the year there were about 20,000 knights in the M.I., and at the end of the year we are grateful to see that the Immaculata has answered our prayers and blessed our efforts by gathering 100,000 knights around her.
Mary's Mission Tour throughout the Philippines has given this country unspeakable graces, often associated with real miracles of her mercy. In many countries the M.I. has blossomed, together with a deepened Marian life on the part of many faithful. Never before have there been so many contacts with priests and religious who, attracted by the mystery of Fatima, have approached Tradition.

If we look yet deeper, there is a very special grace which the Immaculata has given us: whoever has made a sincere effort this year, has been introduced by her more thoroughly into the mystery of her Heart. How many testimonies of this kind have we received: "Never before have I understood Mary so profoundly … Never before have I experienced her love so much as this year... More than ever, I have come to realize how necessary she is in my whole life... Better than ever before have I been able to live my consecration to her"!

This year of the Fatima centennial gave us the revelation of what the most precious thing in Mary is: her Heart - full of grace, her Heart - given to us, which means that she wants to give everyone all graces of conversion and sanctification; she wants to pull us out of a sinful life and lead us to holiness. The centenary of the Militia Immaculatae has not only brought forth many new knights, but has also shown all of them how much they can trust their Lady and that through her, the Spouse of the Holy Ghost, all his gifts and fruits are placed in our hearts.

Whoever approached her this year did not seem surprised by her greatness and majesty, her royal power and maternal love, her great mercy.

But now, it would be a big mistake to think: "We have meditated enough on Mary, now something else has to happen. Everything revolved around Fatima last year, now a change is necessary."

ON THE CONTRARY: If we were given a chance to penetrate the depth of Mary's Immaculate Heart, it is because Mary wants to draw us completely to herself in order to show us what motivates her motherly Heart. Never Mary wants anything for herself! All the glory and honour given to her, she necessarily passes on to her Son: the very essence of the Immaculate Heart and the very purpose of all her sanctuaries and apparitions are to introduce us into the mystery of the Sacred Heart of her Son.

And this brings us to the new year 2018, which must become a journey of discovery, so to speak, during which the child can find the greatest treasure and the most precious pearl, under the guidance of his mother. She has only one wish: to make us plunge into the Heart of God, who reveals to us the breadth and length, the height and depth of His love (cf. Eph 3:18). In fact, no one has ever understood and loved the Sacred Heart of Jesus more deeply and better than Mary. For this reason, there is no other access to the deepest mystery of the Saviour than in and through the Immaculate Heart of Mary.

And we will never cease to be amazed upon discovering who Jesus really is, and what the mystery of His heart is. Only when completely submerged into the Heart of Mary will Christ reveal to us His deepest secrets, which He has reserved for the little ones and the humble ones.

We must therefore avoid the danger of placing both devotions side by side: on the one hand, the devotion to Mary's Heart, and on the other hand, the worship of Jesus' Heart! No, the real insight is the following: Mary wholly and always, and in her and through her always, Jesus! Very clearly did St. Maximilian Kolbe perceive, live and teach this (see the prayer of consecration of the M.I. and its conferences in honour of the Sacred Heart of Jesus).


Hence, the annual resolution No. 1:

/ Be always with Mary; depend totally on her; surrender to her totally and completely as her child, slave and knight close to the Heart of Jesus:

/ Foster devotion to the Heart of Jesus with Mary (1st Fridays, Month of the Sacred Heart, Feast of the Sacred Heart, etc.);

/ Solemnly make or renew this year your total consecration to Jesus through Mary according St. Louis-Marie Grignion de Montfort (e. g. on March 25th);

/ Strive for the triumph of the Immaculate Heart that She may give Christ the King the greatest glory; proclaim and spread the universal and social kingship of the Sacred Heart of Jesus;

/ More than ever, be the knights and instruments of the Immaculate Conception to save as many lapse souls as possible and thus to lead them to the most holy Heart of Jesus (see act of consecration of the M.I.).


But we must go further still:

When both holiest Hearts have become reality for us, when we have truly become worshippers of the Hearts of Jesus and Mary, we are introduced to an even deeper reality, that is, to the union of both Hearts. If we are able to acknowledge and love so unfathomable deep aspects of these two Hearts, if we per how both of them turn to each other in indescribable love, unite, merge, as it were, when we look at the relationship of both hearts to each other — what shall we say?

Here we stand before the absolute summum of LOVE: in the most holy Heart of Jesus the whole love of God for the world is revealed; in the Immaculate Heart of Mary the whole love of the creature for God is revealed! The united Hearts are the symbol of the eternal union of God and creature. The triumph of love!

And here lies the Militia Immaculatae deepest raison d’être, which we would like to present to the knights for loving contemplation during the year 2018. When we look at the M.I. emblem, we see the united Hearts of Jesus and Mary and the M.I. in the midst of these Hearts!


Hence the annual resolution No. 2:

/ Through Mary to Jesus, but also with Jesus to Mary! This flow from one to the other, this mutual fertilization, is depicted very deeply and beautifully in Father Emil Neubert's book "My Supreme Ideal, Jesus — the Son of Mary". This year, we want to take this booklet in hand and look at it again and again;

/ Be aware that the greatest and most important thing, as a knight, to be allowed to bring to mankind is depicted here: be happy to wear the badge of the M.I. and appreciate its banner and gather around it in the apostolate of the M.I.

/ As much as possible fast once a month, in honour of the united Hearts of Jesus and Mary, because fasting is a great source of many graces for us and the souls entrusted to us. The 1st Friday could be the worldwide fast day of M.I. (on a voluntary basis).

/ Constantly strive at "keeping yourself immaculate from this world" (James 1:27). The prayer that expresses the love for Jesus and Mary and also for souls is especially recommended: “Jesus, Mary, I love you - save souls!”

And so, in 2018, not only will we not forget the treasures of the message of Fatima and the M.I., but we will also look deeper and more earnestly put it into practice, because all this was given to us only to give God the greatest glory and to lay as many souls as possible at the feet of Jesus' Heart through the Immaculata!

Fr. Karl Stehlin
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聖伝の「無原罪の聖母の騎士会」(M.I.)についての小冊子 ダウンロード用のリンク

2017年12月03日 | M.I.(無原罪の聖...
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 12月17日(主日)には、レネー神父様が東京でのミサの後に、聖伝の「無原罪の聖母の騎士会」(M.I.)についてのお話と、入会式をなさってくださいます。

 東京でのミサは10時半からです。ミサの後の祈りの後、ほぼ直後にされますので、ミサに与ってから入会式にも与ってください。聖伝の「無原罪の聖母の騎士会」(M.I.)についての小冊子もあります。以下のリンクからダウンロードしてください。

聖伝の「無原罪の聖母の騎士会」(M.I.)についての小冊子






天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
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聖マキシミリアノ・コルベによる「無原罪の聖母の騎士会」創立100周年記念の「汚れなき聖母の騎士会の歌」

2017年08月04日 | M.I.(無原罪の聖...
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖マキシミリアノ・コルベによる「無原罪の聖母の騎士会」創立100周年を記念して、「汚れなき聖母の騎士会の歌」を作ってみました。
み母マリア みもこころも」のメロディーで歌って下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

「汚れなき聖母の騎士会の歌」


汚れ知らぬ 清きみ母
天(あめ)と地との きさいマリア
罪人らの よりどころよ
我らの愛 母なる君
主はことごとく 慈悲の恵みを
君の御手に ゆだね給う
罪ふかき 我らなれど
身許に馳せより 伏して祈る


御身こそは 「み踵(かかと)もて
蛇のかしら 踏みて砕く」
そのお方よ、ただ一人で
全ての誤謬 滅ぼし給う。
マリアの騎士は うまずたゆまで
我が身すべて 御手に委(ゆだ)ねん。
命も死も 身も心も
御旨のままにぞ 使い給え


いと優しき われらの母
汚れの無き 愛の炎 
真理(まこと)の道 避難所(よりどころ)よ、
み母を知る 慈悲の恵み
迷える子らに 与え給えよ。
主の恵みは 御手を通し
救い主の 聖心から
潤いあふれて 与えらるる。


上の歌詞は次の祈りからインスピレーションを受けました

 「ああ、インマクラータ(汚れなき聖母)よ、天と地の元后、罪人の拠り所、我らの愛深き母よ、天主は、あわれみの全秩序を御身に委ねることを望まれ給えり。不肖なる罪人、我(名前)は、御身の足もとにひれ伏し、御身にひれ伏してこいねがい奉る。
我がすべてを全く、御身のもの、御身の所有物として受け取り給え。
 また、我について、霊と肉体のすべての能力について、我が全生涯、死、永遠について、御身がよりお望みになることを全て成し給え。
 もしも御心にかなうならば、我が全てを完全に使い給え。そは、御身について言われた「かの女は、おまえの頭を踏みくだく」また「御身は、ひとりで全世界の異端をことごとく滅ぼされた」が実現されるべき御業のためなり。
 我が、 御身のインマクラータの憐れみ深い御手のうちに、ふさわしい道具としてあらしめたまえ。そは、道を迷い、無関心の、かくも多くの霊魂たちに、御身を知る喜 びを引き起こさせ、御身の栄光をこれ以上ないほど最高にいや増し、かくてイエズスの至聖なる聖心のいとも甘美なる御国が、最高度に拡張するためなり。
 御身が入り給うところはどこであれ、そこで御身は回心と成聖の聖寵を祈り求め給うなり。そは、御身のみ手を通してイエズスの至聖なる聖心から、全ての聖寵は、我らにたどり着くが故なり。」


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われらの指揮官なる神父の手紙【第1号】 ~聖伝のM.I.(Militia Immaculatae 無原罪の聖母の騎士会)

2017年03月15日 | M.I.(無原罪の聖...
親愛なる無原罪の聖母の騎士の皆さん!

聖マキシミリアノ・コルベが騎士たちにメッセージを書いたとき、騎士たちはそのメッセージに「われらの指揮官なる神父の手紙」と名付けたものでした。聖コルベの死後、後継者である無原罪の聖母の騎士会(MI)の歴代国際モデレーターたちが、「国際モデレーター(調整官)」という少し複雑な教会法上の名称よりも、「指揮官」という名称を使う方が騎士たちにとっては簡単だという単純な理由から、この伝統を長く継続させました。天主の御摂理が長上たちの声を通して皆さんのしもべを「無原罪の聖母の騎士会-伝統厳守会」の国際モデレーターとしてお選びになったのですから、聖なる創立者の足跡に従って、ある程度定期的に皆さんに「指揮官なる神父の手紙」を送らせてください。当時の騎士たちは、聖マキシミリアノを父そして案内者の両方と認識していました。ですから今日、私は皆さんの祈りをこいねがうのです。私が聖マキシミリアノの忠実なこだまとなり、そうすることで、私たちに本当の父と案内者がまったくいない今日、聖マキシミリアノがもう一度、そしてこれまで以上に「われらの愛する指揮官なる神父」になってくださいますように。

この最初の手紙で、私は皆さんに、伝統を厳守する無原罪の聖母の騎士会の起源についてお知らせし、またその始まりから私たちの時代までの簡単な歴史的説明をしたいと思います。

それは、私が神学校に入った最初の年である1981年のことでした。ドイツの聖伝のカトリック青年運動(KJB)の指導者たちが、聖マキシミリアノ・コルベの生涯と使徒的業績に捧げた会報を発行しました。私たち神学生は、この私たちの時代の聖人を見いだして魅了されました。それは、聖コルベが、この深い信仰と使徒的情熱において完全に伝統的でしたが、同時に今の現代技術の手段を使って仕事をしたからです。現代の若者さえをも魅了する聖人です。

この若者たちの回心についての問いが、1986年以来私たちがアフリカに配属されているときに持ち上がりました。ファチマの聖母のご出現のメッセージ(聖三位一体のミシェル修道士による三巻)と聖マキシミリアノ・コルベの伝記(マリア・ウィノウスカ著)に触発され、ロイック・デュベルジェ神父は1988年、少女のための運動「無原罪の聖母の仲間たち(CI)」を創立しました。MIに三つのグループがあるように、少女たちは「無原罪の聖母の子どもたち、しもめたち、使徒たち」に分かれており、それぞれがファチマの汚れなき御心のお望みを寛大に実現させようとしました。そのひとりひとりがほかの少女たちの回心のためにもっと寛大になってゆきました。その結果は圧倒的でした。創立5年後には、「CI」のグループが近所の子どもたちを回心させるためにガボンの首都のいろいろな地域に設立され、多くの「使徒たち」が聖ピオ十世会のミッションの1500人の子どもたちのためにカテキストとして登録されました。ファチマの75周年を祝う年には、CIは多くの回数、ご出現についての芝居を上演し、新たに何百人もの人々を教会に導きました。しかし最も驚くべき実りは、多くの若い女性たちの内的な変化でした。彼女たちは本物の内的な生活を生き、異教の環境、または家族の中でさえ、信仰を守ろうという時には英雄的な勇気を見せたのです。彼女たちの中には、両親や兄弟姉妹を回心にまで至らせた者もいました。いろいろな熱帯病のために早死にした人々の中に、私たちはまれな段階に至った徳と聖性さえ見ることができました。この信じられないような驚くべき出来事によって、私たちの時代における無原罪の聖母の抜きんでた力に対する信頼、ファチマの特異な重要性、そして私たちのあらゆる使徒的なわざを聖母とともに、聖母の命令のもとでのみ行うことの必要性を、私たちは確信したのです。

しかし、のちの1994年のことでしたが、驚くべきことにポーランドにおいてカトリック聖伝のわざを始めるよう指名されたとき、聖マキシミリアノ・コルベとその騎士会がどのような人々であるのかを本当に発見したのです。母語で書かれた聖コルベの手紙や講話を読んで私たちが発見したのは、黙想的でありかつ最も行動的である万能の天才、マリア様の最も深い神秘に関する神学者であり、何百万もの人々が聖母を知るようにさせ、かつ愛させるために現代の技術的手段と発明を利用した組織づくりの師です。このいつも死ぬような病気にかかっていた小さな修道士は、「レジオ・マリエ」と「ファチマの聖母のブルー・アーミー」に続く世界で三番目に大きい最も重要なマリア様の運動を設立し、また大きな資金もなしに「無原罪の聖母の町」と呼ばれる修道院を開きました。そこは15年以内に、中世以来世界で最も大きな千人近くの修道士を擁する修道院になりました。自分の祖国でマリア様への愛の炎に火をつけるだけでは足りず、遠いアジアへのミッションにも、「何十億もの霊魂」に聖母の足元へもたらしたいとの望みを抱いてそれに着手したのでした。最後には、その英雄的な一生のあと、一家の父親である囚人仲間の代わりに死ぬというアウシュヴィッツの餓死室での英雄的な死を迎えました。

1998年にワルシャワに最初の修道院を開いたとき、もちろん、無原罪の聖母の町であるニエポカラノフをしばしば訪問しました。私たちがこの巨大な使徒職の名残(博物館、最初の礼拝堂や聖マキシミリアノが住んでいた各部屋、聖人の英雄的な同志たちの墓など)を黙想すると、まるで聖人自身が私たちに会っているかのようでした。また聖マキシミリアノを直接知っていた年老いた修道士たちと長い会話をすることは、他に類を見ない貴重な体験でした。しかし、私たちはMIの別の面も発見せざるをえませんでした。この場所はカリスマ運動でいっぱいのところで、その書店はリベラルかつ近代主義の書物で満杯であり、私たちはしばしば、野外ロックコンサートに見られるような、人々に空しい感情を引き起こす集会を目撃しました。1997年にはMIの新しい会則が公表されましたが、それは以前の会則とは大変異なるものでした。ベストセラーのうちの一冊は、騎士会の総長であるシンブラ神父の本でした。その本で同神父は聖なる創立者を、その考えが狭量であり、「彼の時代の意見に固執した」として、強く批判しました。聖マキシミリアノを知っていた年老いた修道士たちにこれらの変化について尋ねたところ、私たちはしばしば、悲しげに「今やすべては変わった」と言うのを聞きました。「無原罪の聖母の騎士誌」は近代主義的な暗示に満ちた信心会報になっており、創刊当時の雰囲気は失われました。

このとき、若い信者が何人か私たちのところにきて、無原罪の聖母の騎士会を、まさに聖マキシミリアノが創立したそのままの形で、私たちが再発足させることができないかどうかを尋ねました。1920年代以来ポーランドのカトリックはMIによって深く影響を受けていますから、聖なる創立者がMIを設立したのと同じ精神でMIを再創立することを…。

この願いのために、このアイディアが理にかなっているかどうかを分析しなければならなくなりました。聖伝のカトリックには、マリア様の運動が他にも既に沢山あったからです。単にもうひとつ別の運動を創立するだけでは、存在している多くの運動の参加者の数や力を分裂させてしまいかねません。ですから、無原罪の聖母がそのご意志を私たちに示してくださるよう、小さな祈りの十字軍を組織しました。

この時、私たちは騎士会とその聖なる創立者のさらに深い側面を発見して、この運動が世界で他に類を見ないものであり、私たちの時代に完全に適合していることを、以下の理由から、確信したのです。

1)その名称が示しているように、無原罪の聖母の騎士会(Militia Immaculatae)は戦闘の教会(Militant Church)、すなわち地上での悪魔や罪、誤謬との絶えることのない戦いの中にいるまことのカトリック教会を思い起こさせます。50年前から、これらカトリックの本質的な事項は、全世界の平和やすべての宗教の相互の尊重のために努力するよう教えられてきた信者たちの心から取り去られてしまっていました。さらに悪いことに、同じころから、天国や地獄、煉獄、死、審判、悪魔との戦い、誤謬から唯一のカトリックの真理への回心など、永遠にして最も重要な現実が広く捨てさられ、相互理解と平和において世界を統一する望みというものと置き換えられてしまっていました。フリーメーソン的な新しい世界秩序が多くのカトリック信者の理想となってしまったのです。

この現代主義の病に対抗して、MIは私たちの時代の平和主義に対する薬となり、唯一のまことの視点、すなわち、私たちはこの世では霊魂の救いのために戦っている、という事実を強く思い起こされるものとなるのです。MIは、永遠の価値と、私たちがこの世での短い時間を正しく使うことに重きをおいています。MIは、その定義自体において、すべての反教会主義者たちや偽りの宗教を、唯一のまことの教会へ回心させる、という反エキュメニズムの召命をもっているからです。

2)私たちの時代において非常に必要とされる霊的戦いというこの考えは、寛大な霊魂たち、特に青年たちに、偉大で魅力的な理想のために自らを捧げるという熱意を起こします。個人主義的な私たちの時代において、私たちは自分の霊的な安逸に閉じこもって自己中心になり、宗教的実践を個人的なこととしてのみ理解するという大きな危険の中にいます。このように長い間恐ろしい危機が続くと、私たちは自分が聖にして母なる教会に属しており、キリストの神秘体全員への責任があるのだということを忘れてしまうという危険があります。MIは私たちに、主の偉大なる新しい掟「主が愛されたように私たちの隣人を愛せよ」を深く理解させてくれます。これはすなわち、永遠の破滅の淵へ向かって走っている霊魂たちの救いのために私たちができるだけの努力をすることです。教会の中で誰かがまことの価値に立ち戻り、最も小さな小教区からバチカンに至るまでのそれぞれの場所で、無原罪の聖母を取り戻し、そして無原罪の聖母と共に全てのカトリックの聖伝を取り戻そうと望むときはいつでも、私たちは幸せであり感謝でいっぱいです。私たちは、霊的な病をもっているかわいそうな霊魂たちに対して、軽蔑をもって「そんな異端者とはかかわりたくない」と言うのではなく、その人を、無原罪の聖母を通じて私たちの主の不変の真理へ連れ戻すために私たちができうることをしたいと思うのです。

3)MIは私たちにカトリック信者としての真のアイデンティティを取り戻させ、またそれとともに、地上で天主の国を広げるため努力するイエズス・キリストの兵士になるという、ここ地上での自分たちの役割を深く理解させてくれます。この生涯の任務を達成するため、私たちは堅振の秘蹟を受けたのです。無原罪の聖母の騎士会は、祈りや実践において他の運動や団体と並ぶようなものというよりは、私たちの生活に対する新しい法のように本質的なものなのです。その新しい法とは、つまり、何をするにしても、敵を改宗させることによって攻撃し、イエズスの聖心の国を広げる聖母の御手の道具、聖母の軍団の騎士として、それをするのだということです。この法が私たちの生活全般にわたって浸透するならば、私たちは空しいもので自分の時間を浪費せず、むしろ私たちが地上にいる短い期間を、最大限の最も偉大な行い、永遠の行い、霊魂の救いに満ちたものにするでしょう。

4)別の魅力的な側面:この運動は、無原罪の聖母への奉仕において、最も現代的な手段を使うことに熱心です。現代人をして、マスメディアへの新しいカトリック的なアプローチを取らせるのです。マスメディアは、強力な最悪の誘惑の手段として、大抵が闇の力によって悪用されています。とにかく若者が電子機器の中毒になるように、MIはこの中毒を、無原罪の聖母と霊魂の救いのための奉仕へと変えるのです。この側面によって、この運動が私たちの時代の状況やニーズに完全に適合することを多くの人々が理解して、彼らが外からMIに加入するようにさせることができるのです。

しかし同時に、この運動は、霊魂を救うための騎士たちの最も重要な武器として、祈りと犠牲の精神に深く根付いているのです。この運動は、非常に多くの霊魂が地獄に落ちており、それは彼らのために祈ったり犠牲をしたりする人がいないため、祈り、犠牲をするように、というファチマの聖母のお求めに完全に適合しています。さらに、聖マキシミリアノの使徒的祈りのための方法は、良き祈りの生活を送ることが困難である私たちの時代に完全に適しています。

5)しかし、最も重要な点は、私たちの生活の中で無原罪の聖母が占める場所にあります。MIは現実的な日々の生活において、聖ベルナルドや多くの聖母信心のあった聖人たちの主張を、特に聖ルイ・マリー・グリニョン・ド・モンフォールのまことの信心を適用しています。彼は、すべてのことを、マリアを通して、マリアとともに、マリアにおいて、マリアのために行うように教えています。MIは、聖母の無原罪の御宿りという偉大なる真理、特にすべての人々のための回心と聖化の恩寵すべての仲介者としての聖母の役割という偉大なる真理を、具体的で寛大な実践へと至らせます。MIは、騎士の個人的な生活の中において無原罪の聖母の重要性を騎士に理解させ、特にいまだに誤謬と罪の中にいる失われた愛する子どもたちを永遠の破滅から救うためにご自分を助けてくれるようにとの聖母のお求めの重要性を騎士に理解させます。ここにおいてカトリック信者は、この世における自分の役割が何であるのか、人間がこの地上でできる最も偉大なわざにおいて自分がいかに重要であるのかを毎日学ぶのです。そのわざとは、永遠の幸せの最上のものを他の人たちに贈ることです。同時に、MIは騎士に必要な謙遜を教えます。騎士一人だけでは何もできませんが、無原罪の聖母の道具としてならば、聖母の忠実な騎士としてならば、なんでもすることができるのです。

6)これらすべての点は、確かにいくつかの国で聖伝に忠実に再創立されたレジオ・マリエにも見られます。しかし、レジオ・マリエはローマの軍団の形式に従って、エリート兵士たちの運動として作られたもので、そのメンバーには本質的に非常に多くのことが要求されます。ところが反対に、無原罪の聖母の騎士会はあらゆる人、たとえもっとも怠惰なひとでさえ加入でき、騎士になるのにほとんど何も要求しません。MIは、すべての人を聖母の足元に投げ出すための大衆運動であり、各人が聖母に少なくとも小指一本を捧げるように強いるのです。その後聖母はその人の手とその人自身をお取りになって運動を導かれます。フィリピンのレジオ・マリエが見いだしたのは、MIが、レジオ・マリエ会員が毎週訪問する多くの人々を、彼らを聖母の騎士にすることによって、聖母により近く結びつける特別な手段となることでした。

7)この運動は、多くの大衆のために設立されたとはいえ、救いのわざのために私たちが協力するあらゆる可能性を内包しています。この運動は、個人として無原罪の聖母に奉仕したいと思う人々(MI 1)を招いていますが、より良くより広い使徒的結果に到達するためのグループやサークル、団体での共通使徒職(MI 2)も想定しています。最後にまた、霊的なエリートに加わって無原罪の聖母に完全に自分を明け渡して英雄的に一生を奉献する最も熱心なメンバー(MI 3)をも招いています。

このような運動はこれまで世界で創立されたことはありませんでしたが、その聖なる創立者の普遍性を伝えています。完全に観想的かつ同時に活動的であり、個人個人の努力を尊重しかつ大衆を集め、最も高い知的な活動(無原罪の聖母のアカデミー)の概念も、最も実践的な実現も包み込み、二千年の聖伝とともに永遠に変わることのないカトリック信仰を守るとともに、最も現代的な技術と現代の発明を利用するのです。

聖ピオ十世会総長は提案した議論に賛成し、ポーランドにおいて伝統を厳守するMIを創立することを認めてくださいました。2000年5月6日、マリア様の月の初土曜日に、約50人のカトリック信者が最初に無原罪の聖母の騎士になりました。彼らは、聖マキシミリアノ自身によって書かれ、署名された「ディプロミク(ちいさな学位証)」の写しを受けました。この創立の実りはすぐにやって来ました。騎士たちの中の寛大さ、規則的な祈りの生活、使徒的な精神が増え、特に書物による使徒職(冊子、書籍、パンフレット、ちらし)が著しく増え、それによってポーランドでカトリック聖伝が知られるようになりました。第二次世界大戦前に聖マキシミリアノ・コルベとその仲間の騎士たちが書いたそのままの文章を出版したため、第二バチカン公会議の精神による教会内の新奇なものと、MIの最初の50年の霊性や理想との間の大きな違い、さらには矛盾さえも、多くの信者が簡単に知ることができるようになりました。

2002年にはモルゴンの聖伝のカプチン会の神父たちがMIに加わりたいと望み、フランスでMIを創立したいと望みました。2004年には最初のアメリカ人司祭たちが、アメリカのいくつかの修道院や聖堂でMIを創立し、2006年にはスイスでも設立されました。しかし最初はすべて、聖マキシミリアノの「ファン」が何か個人的な誓約をしたのであり、この運動は聖伝のカトリックの世界では(ポーランドを除いて)一般的に知られていませんでした。やっと直近の3年間、聖母ご自身がこの小さな軍隊を成長させようと望まれていたように思えました。何も特別な宣伝や告知がなかったにもかかわらずどんどん多くの信者が興味を持ったのは、MIに関するパンフレットや書物の出版と、ポーランドとスイスとアジアでの三つの重要なウェブサイトの設立のおかげでした。3年の間に騎士の数は2013年の約5000人から2016年の1万3000人へと倍以上になりました。現在までさまざまな国でのMIの管理はそれぞれのMIの司祭たちの主導に任されており、司祭たちは長上の許可を得ながら彼ら自身主導によって個人的に「何かをしようと」してきたのです。そこでさまざまな努力を一つにまとめ、MIをカトリック聖伝の小さな軍隊として構成するために、MIの最高権威である聖ピオ十世会総長は、皆さんのしもべを国際コーディネーターに、すなわち聖マキシミリアノの言い方に従えばMIの「指揮官」に任命しました。

この私たちの時代におけるMIの重要性に関する上で述べた七つのポイントについてもう少し長く黙想してくだされば、私たちの夢がなぜファチマ聖母ご出現の100周年に十万人の騎士を聖母の足元に捧げることなのかを皆さんは理解してくださるかもしれません。1917年に巨大な反キリスト教の軍隊(ローマのフリーメーソン、モスクワの共産主義)がこの世に現れたとき、聖母はファチマとMIの創立によってそれに応えられました。2017年に反キリスト教の軍隊が、自分たちが全世界を支配する勝利の象徴として100周年を祝うとき、聖母が再び小さな軍隊、「最後の時代の聖母の使徒たち」(聖グリニョン・ド・モンフォール)、聖母の汚れなき御心に奉献された子どもたち(ファチマ)、聖母の忠実な騎士たち(聖マキシミリアノ・コルベ)によって再びお応えになる、と皆さんはお考えになりませんか?

ですから、皆さん一人一人への謙遜なお願いをもって私の話を終わらせてください。8月14日に私たちは聖マキシミリアノの英雄的な死の75周年をお祝いします。どうかその日までに、カトリック信者を一人見つけて、その人に無原罪の聖母の騎士会に加入してもらうよう、可能な限りの力を尽くしてくださいませんか?!

2016年5月31日、「元后なる聖マリア」の祝日に
私の司祭としての祝福をもって
感謝のうちに


英語原文はこちら  Father Director’s letter No#1 MI “Militia Immaculatae – traditional observance”
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