Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

私は御身を信じ、礼拝し、希望し、御身を愛します!御身を信じぬ人々、希望せず愛さぬ人々のために、赦しを求めます(天使の祈)

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
2019年 8月の聖伝のミサの予定
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】


8月 聖母の被昇天を祝いましょう。
意向:聖母の汚れなき御心の凱旋のため
実践すべき徳:心の柔和と謙遜
守護の聖人:聖母の汚れ無き御心

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します

◎2019年 8月の予定
【大阪】聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂(アクセスEG新御堂4階 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 
〒532-0002 (JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分)

  8月2日(初金)教会博士証聖者司教聖アルフォンソ・デ・リグオリ(3級祝日)白
          午後5時半 ロザリオ及び告解
          午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月3日(初土) 聖母の土曜日(4級)白
          午前10時 ロザリオ及び告解
          午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月11日(主)聖霊降臨後第9主日(2級)緑
          午後5時半 ロザリオ及び告解
          午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月12日(月) 童貞聖クララ(3級祝日)白
          午前10時 ロザリオ及び告解
          午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月18日(主)聖霊降臨後第10主日(2級)緑
          午後5時半 ロザリオ及び告解
          午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月19日(月) 証聖者聖ヨハネ・ユード(3級祝日)白
          午前6時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

【東京】東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図)「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」

  8月4日(主)聖霊降臨後第8主日(2級)緑
          午前10時  ロザリオ及び告解
          午前10時半  ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月5日(月)  雪の聖母の大聖堂の奉献(3級祝日)白
          午前7時 ミサ聖祭

  8月18日(主)  聖霊降臨後第10主日(2級)緑
          午前10時  ロザリオ及び告解
          午前10時半  ミサ聖祭(歌ミサ)

愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております。

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無原罪の聖母の騎士全員への指導司祭の手紙【第13号】―無原罪の聖母を通じた召命ー

2019年03月20日 | M.I.(無原罪の聖...
無原罪の聖母の騎士全員への指導司祭の手紙【第13号】

無原罪の聖母を通じた召命


無原罪の聖母の騎士の皆さん!

私たちは無原罪の聖母のものであり、聖母のご意志を行いたいと思い、聖母の望みが満たされ得るように出来る限りのすべてのことを行いたいと思っています。しかし、私たちの天の母の最も深いお望みは何でしょうか? 御子に対して出来得る限り多くの栄光を捧げること(聖マキシミリアノ・コルベは「ad maximam Dei gloriam―天主の最も大いなる栄光のため」と言いました)、出来る限り多くの霊魂を地獄の火から救い、彼らを天国に導くこと(ルルドやラ・サレット、ファチマなどでの聖母の緊急の訴えを見てください)です。

しかしながら、天主に対して最も大いなる栄光を捧げるための方法はただ一つしか存在せず、それは、祭壇上で日々更新される私たちの主の十字架上の犠牲を通じてです。ここにおいて、キリストによって、キリストとともに、キリストのうちにおいてのみ、すべてのほまれと栄光が至聖なる三位一体に捧げられます。同じように、霊魂を贖い、彼らを天主のいのちへと戻す可能性はただ一つしか存在せず、それは、諸秘蹟という経路を通して霊魂たちの中に流れ込む私たちの主の御血を通じて、彼らを原罪という牢獄から解放し、すべての汚れから清め、浄化し、霊的な病から癒やし、光と天主のすべての宝で満たすことです。

私たちの主イエズス・キリストのご意志によれば、地上で贖いのわざを完成させ、天主にすべての栄光を捧げ続け、霊魂の中にキリストの御血を流し込むことができるのは、どのような人に限られるでしょうか? それは司祭です。それゆえに、そのあわれな迷える子供たちの救いに対して非常に熱心なかの童貞の汚れなき御心の中で最も大きな場所を占めているのは、司祭職です。私たちの元后の最も深いお望みは、御子の救いのみわざを継続させる人々を御子にお与えすることであり、それによって、司祭の人格を通して御子と親密に一致したこれらの道具によって、道であり真理でありいのちである御子の聖心の炎が地上のあらゆるところで燃え上がるようになるためです。

すべてのキリスト教徒が、堅振の秘蹟および隣人愛の掟によって、私たちの主をお助けして、霊魂たちの救いと地上での主の御国の拡張のために、すでに呼ばれているということを、私たちはよく知っています。また、すべての恩寵の仲介者である聖母が回心と聖化の恩寵を霊魂たちに注ぎ込むことができるように、私たちがその汚れなき御手の道具として自分を聖母に従わせることによってのみ、これを実行することが可能になるということも知っています。聖母は通常、その道具の助けによってのみ霊魂たちに恩寵を与えることがおできになるのですから、聖母は出来る限り多くの道具を持つことを非常にお望みになっています。

しかし、聖マキシミリアノは、良きカトリックの平信徒と司祭の違いは天と地の違いと同じだと言いました。なぜなら、平信徒は、助力の恩寵の道具、特に霊魂たちに対して真理といのちへの準備をさせ、心構えを持たせる恩寵の道具となることができるとしても、霊魂たちに対して、天主のいのちであり、永遠の光明であり、キリストご自身である成聖の恩寵を与え、回復させることができるのは司祭だけだからです。

それならば、至るところでこれらの天主の恩寵の分配者たち、「特にすぐれた」キリストの道具たちが増えるようにとの祝されし童貞のお望みは、いかに大きいものでしょうか。イエズスをこの世に与え、霊魂たちを聖化し、彼らをもう一人のキリストに変容させるというその使命を聖母が果たすことがおできになるのは、何にもまして司祭たちによってなのです。司祭たちがいなければ、彼らのために聖母が非常に祈り、非常に苦しみ、御子を犠牲となさったそれらの霊魂たち、聖母の愛する子供たちであるそれらの霊魂たちは、自分たちの母から永遠に離され、永遠に滅ぶという危険にさらされてしまうでしょう。

これが、聖母がすべての恩寵の仲介者という任務を果たそうと望んでおられる理由です。このすべての恩寵の仲介者としての任務は、特に、聖母が召命を起こされ、より高い生活へと呼ばれる寛大な霊魂たちに対して、ためらいや障害物を克服する光と力という恩寵によって、また司祭職への直接の準備という数えきれないほどの恩寵によって、聖母が受階者を司教の手を通して御子にお渡しになり、御子が本当にこの人をもう一人のご自分とされる祝福された瞬間にまで、なされるものです。まことに、「天主の御母である童貞は、熱心な愛によってすべての霊魂をお愛しになっているが、イエズス・キリストの生ける似姿である司祭を好んでおられる」(ピオ十一世)のです。

無原罪の聖母の騎士の本質は、霊魂たちを回心させ、聖化するために聖母をお助けするあらゆる努力を行うことです。すべての回心と聖化は、司祭のみが行うことのできるミサの聖なるいけにえおよび諸秘蹟を通してなされます。そうすると、聖母の道具である私たちが私たちの元后にもたらすことのできる最も高貴なる助けとは何になるでしょうか? 召命を目覚めさせ、そのあとそれを保持するための聖母の道具となることです!

ファチマで聖母は、なぜ非常に多くの霊魂が地獄に行くのかを説明なさっています。それは、彼らのために祈り、犠牲をする人が誰もいないからであり、聖母が、自分の祈りと犠牲を通して回心の恩寵をお与えになることのできる人を、誰も見つけられないからです。同じように、私たちは自問することができます。なぜ司祭や修道者がこれほど少なく、また聖なる司祭や修道者がもっと少ないのでしょうか? それは、無原罪の聖母が、自分の祈りと犠牲を通して聖母が召命を目覚めさせ、そのあとその召命を保持することのできる人を、誰も見つけられないからです!

これこそが、聖マキシミリアノが、騎士が司祭および修道者の召命のためにたくさん祈ることを繰り返し主張し、これらの奉献された霊魂たちを通して祝されし童貞が世界中に数え切れないほどの恩寵を注ぐことがおできになると説明した理由なのです。

それゆえに、聖グリニョン・ド・モンフォールが聖三位一体に対してこいもとめるためにその「熱心な祈り」によって大変素晴らしく表されたように、私たちの母に対して、私たち自身の緊急の呼びかけを行いましょう。それは、聖母が、危機にあるこの世に、まことの、数多くの「イエズスとマリアの使徒たち」を与えてくだされるようにするためです。私が思うには、召命のための出来る限りのすべてのことをする以上に、無原罪の聖母をお喜ばせすることはありません! さらに言えば、すべての騎士が無原罪の聖母を通して良きかつ聖なる司祭および修道者の召命を得るために熱意と粘り強さで祈るように努めることは、聖伝遵守のMIの最高権威である私たちの総長の明白なご意志です

2019年にあたって、無原罪の聖母への私たちの奉献を生きるために、従って聖母への奉仕におけるさらに熱心でさらに粘り強い道具になるために、この決心が提案されています。今日、私たちは、自分が聖母をお助けして地上でもう一人のキリストたち、すなわち良きかつ聖なる司祭たちを生み、かつ形作るための聖母の御手の道具になるほど素晴らしい方法は他にありえないことを学んでいます。そのためには、嵐のような本当の祈りに、すべての騎士が、これまで受けた非常に多くの恩寵に対する感謝のしるしとして、私たちの元后に捧げるべき犠牲が伴わなければなりません。そして、私たちがこれらすべての恩寵を受けたのは、まさに司祭を通してではなかったでしょうか?

もちろん、私たちは皆さんにこれを行うよう強制することはできません。それは、毎日の射祷以外には、皆さんが何かをするように義務付けられていないからです。しかし、この手紙を通して、聖母のために素晴らしいことを、最も素晴らしいことさえをも行うよう皆さんを招いておられる(聖マキシミリアノが非常にしばしば繰り返していたように、長上という手段を通じて私たちに対して常に話しておられる)無原罪の聖母ご自身の声を聞いてください!

ですから、私たちは騎士全員に、今年中、一日に少なくとも3回、次の祈願を繰り返すよう提案します。
「主よ、われらに司祭を与え給え! 主よ、われらに聖なる司祭を与え給え! 主よ、われらに多くの聖なる司祭を与え給え! 主よ、われらに多くの聖なる修道者の召命を与え給え! マリアによって!」。


聖母のためにさらに多くのことをしたいと望んでいる騎士に対しては、私たちは、これらの意向のためにロザリオ一連、またはロザリオ全環までも唱えるよう、そして一年中唱えるよう提案します。私たちはまた、5月と10月を特別に聖母に捧げることができます。特にこの意向のために、聖母のほまれにおいて祈りと犠牲を捧げるのです。

私たちは四旬節に入っていますから、私たちの四旬節の決心に、確実に悲しみに満ちた汚れなきマリアの御心に深く触れ、お慰めすることになる、この素晴らしい意向を付け加えましょう! これこそが、マリアの凱旋と、私たちの主の永遠の勝利の実現のために、私たちがさらに効果的に準備をする方法なのですから。

この四旬節が、皆さんにとって祝福された聖なる時間となりますように、
そして、皆さんに私の心を込めた祝福を送ります。
カール・シュテーリン神父
2019年3月13日、バイェジェ(ポーランド)にて


【英語原文】
Father Director's Letter No 13 to all Knights of the Immaculata

VOCATIONS THROUGH THE IMMACULATA


Dear Knights of the Immaculata!

We belong to the Immaculata, we want to do her will, to do everything possible so that her desires can be fulfilled. But what are Our Heavenly Mother's deepest desires? To give as much glory as possible to her Son (St. Maximilian Kolbe said: "ad maximam Dei gloriam - for the greatest glory of God"), to save as many souls as possible from the fire of hell and to lead them to heaven (see his urgent appeals in Lourdes, La Salette, Fatima etc.).

However, there is only one way to give the maximum glory to God, it is through the very sacrifice of Our Lord on the Cross, renewed every day on the altar. Here only through Christ, with Christ and in Christ is given to the Most Holy Trinity all honour and glory. Likewise, there is only one possibility of redeeming souls and giving them back the life of God, it is through the Blood of Our Lord which flows into souls through the channels of the sacraments, to deliver them from the prison of original sin, to cleanse them from all filth, to purify them and heal them of their spiritual leprosy, to fill them with light and all the divine treasures.

According to the will of Our Lord Jesus Christ, who alone is able to accomplish on earth the work of redemption, to continue to give God all glory and to shed the Blood of Christ into souls? The priest. Consequently, what most preoccupies the Immaculate Heart of the Virgin, so eager for the salvation of her poor lost children, is the priesthood. Our Queen's deepest desire is to give to her Son continuers of His work of salvation, so that through these instruments, intimately united with her Son through the priestly character, the flame of His Sacred Heart may burn everywhere on earth: the Way, the Truth and the Life.

We know well that every Christian is already called by the sacrament of Confirmation and the commandment of love for the neighbour to help Our Lord for the salvation of souls and the extension of His Kingdom on earth. And we also know that this can only be done if we submit ourselves to Our Lady as an instrument in her immaculate hands so that she - Mediatrix of all graces - can pour into souls graces of conversion and sanctification. And since she usually can only give her graces to souls with the help of her instruments, she desires so much to have as many as possible.

However, Saint Maximilian said that the difference between a good lay Catholic and a priest is the same as between heaven and earth. For if the laity can be an instrument of actual graces, especially graces that prepare and dispose souls to the Truth and Life, it is only the priest who can give and restore to souls the sanctifying grace, the Life of God, the eternal Light, the Christ himself.

How great, then, must be the desire of the Blessed Virgin that everywhere these dispensers of divine graces, Christ’s instruments "par excellence", may multiply. For it is through them above all that she can fulfill her mission to give Jesus to the world, to sanctify souls and to transform them into other Christs. Without them, those souls for whom she prayed so much and suffered so much and sacrificed her Son, those souls, her beloved children, would risk being eternally separated from their Mother, eternally damned.

This is why she wants to perform her office of Mediatrix of all graces, especially among generous souls, in whom she raises up the vocation, calls them to a higher life with graces of light and strength to overcome hesitations and obstacles, also numberless graces of direct preparation to the priesthood, until the blessed moment when she can present the ordinand to her Son who, through the hands of the Bishop, really makes him another Himself. Truly, "If the Virgin, Mother of God, loves all souls with an ardent love, she has a predilection for priests who are the living image of Jesus Christ" (Pius XI).

The essence of the Knight of the Immaculate is to make every effort to help her to convert and sanctify souls. All conversion and sanctification passes through the Holy Sacrifice of the Mass and the sacraments that only the priest can give. What, then, will be the noblest help that we, her instruments, can bring to Our Queen? To be her instruments to awaken and then preserve vocations!

In Fatima she explains why so many souls go to hell: because they have no one to pray and sacrifice for them, because Our Lady finds no one through the prayers and sacrifices of whom she can give the graces of conversion. Analogically we can ask ourselves: Why are there so few priests and religious, and even fewer holy priests and religious? Because the Immaculata finds no one through the prayers and sacrifices of whom she can awaken and then preserve vocations!

This is why Saint Maximilian repeatedly insisted that the Knights pray a lot for priestly and religious vocations, explaining that through these consecrated souls the Blessed Virgin can pour countless graces over the whole world.

Let us therefore make our own the urgent call upon our Mother that Saint Grignion so wonderfully expressed in his “ardent prayer”, to beg the Holy Trinity, so that she may give to the world in danger, true and numerous "Apostles of Jesus and Mary". I think that one cannot give more delight to the Immaculata than to do everything possible for vocations! It is moreover the express will of our Superior General, the supreme authority of the MI of traditional observance, that all the Knights strive to pray with fervour and constancy to obtain good and holy priestly and religious vocations through the Immaculate.

For the year 2019 the resolution was proposed to live our consecration to the Immaculate, thus to be more fervent and more constant instruments in her service. Today we are learning that we cannot be a better instrument in her hands than to help her to bear and shape other Christs on earth, good and holy priests. It should be a real prayerstorm accompanied by sacrifices that each Knight should give to his Queen as a token of gratitude for so many graces received - and did we not receive all these graces precisely through the priest?

Of course, we cannot force you to do this, because apart from the daily ejaculatory prayer you are not obliged to do anything. But please hear through this letter, the Immaculate herself who invites you (always speaking to us through the way of superiors as Saint Maximilian so often repeated) to do great things for her, even the greatest!

So we propose to all the Knights to repeat throughout this year at least three times a day the invocations:
"Lord, grant us priests! Lord, grant us holy priests! Lord, grant us many holy priests! Lord, grant us many holy religious vocations! BY MARY!"


To the Knights who wish to do more for her, we propose to recite a decade of the rosary or even a whole rosary for these intentions, and this throughout the year. We can also offer to our Queen the months of May and October in a special capacity, with the prayers and sacrifices we will make in her honour, especially for this intention.

And since we are in Lent, why not add to our Lenten resolutions this great resolution by which certainly the Sorrowful and Immaculate Heart of Mary will be deeply touched and consoled! This is how we prepare more effectively for her triumph and the achievement of Our Lord's eternal victory.

Wishing you a Blessed and Holy time of Lent
And blessing you with all my heart
Fr. Karl Stehlin
Bajerze, 13 March 2019
コメント

無原罪の聖母の騎士全員への指導司祭の手紙【第12号】―2019年のモットーFather Director's Letter No 12 to all Knights of the Immaculata

2018年12月14日 | M.I.(無原罪の聖...
親愛なる無原罪の聖母の騎士の皆さん!

喜びと感謝をもって、私は皆さんにお知らせしたいと思います。私たちの新しい総長は、無原罪の聖母の騎士会(MI)の国際本部をワルシャワに設立することをお許しになり、祝福してくださいました。総長はまた、「MIハンドブック」の推薦の言葉を書いてくださいました。この本は英語、フランス語、スペイン語版がすでに出版されていますが、もうすぐドイツ語版も入手できるようになります。この本はMIが取り組むことすべての要約であり、とりわけ、MIの本質と正当性、有益性、今日性について述べています。特別な章も一つあって、MIと他のマリア運動の関係を説明しています。なぜなら、それらの運動によって誤解と不信が繰り返し発生するからです。恐らく最も重要な章は、MIの具体的な在り方、すなわちMIへの入会および特に騎士の堅忍を取り扱っています。何かを始めるのはいつも簡単ですが、何かを継続させ保持するのは極めて困難です。あらゆる団体が持ちこたえていくか駄目になってしまうかは、いかにしてメンバーがいつも注意を払っているようにしているか、いかにしてメンバーに最初の熱意を維持させているか、あるいはその熱意をさらに深めさせているか、という問題にかかっているのです。このことは、すべてのカトリック信者にとって、特にすべての騎士にとって、確かに大きな問題です。自分が、いかにすれば、忠実にとどまることができ、またそれ以上に忠実になることができるのでしょうか?

第一の答えは外部から来ます。騎士たちに霊魂の戦いのための武器や弾薬を常に供給し、無原罪の聖母の御手にある、さらにより良い道具となるよう、騎士たちをさまざまな方法で激励することは、MI指導部の責任です。MIの全構造は、使徒的な素材を生み出して、それを適切な使用説明書と一緒に、騎士たちに渡すように設計されてきています。それゆえに、定期的な雑誌や手紙、リーフレット、MIコーナーなどがあるのです。

もう一つの答えは、騎士自身の内部から来なくてはなりません。騎士自身がMI指導部のこれらすべての努力を無視するとしたら、その努力はいったい何になるというのでしょうか。もし騎士が自分に差し出されたものを手に取らず、それを考慮するのを怠ったとしたらどうでしょうか? そうすれば、私たちは、自分が一日に少なくとも一回は無原罪の聖母のために、霊魂の救いのために何かをするという約束に不忠実となってしまった眠れる騎士の一人、名前だけの騎士の一人であるということに突然気づいてしまっても驚くには当たりません。

それゆえに、私たちは自分が忠実にして寛大であるよう祈るだけでなく、奉献の祈りの中に非常にうまく要約されている騎士というものの本質を観想し続けることも、いかに重要でしょうか。

このことを、もう少しよく理解してみるようにしましょう。
すべての恩寵の仲介者であるマリアがMIの土台です。すべての恩寵の仲介者というのは、主によって、その御苦しみと十字架上の死を通して獲得された回心と聖化というすべての恩寵がマリアに委託された、というマリアの特権に関する教えです。それは、マリアがその恩寵を「マリアがお望みのときに、マリアがお望みの人に、マリアがお望みの方法で、マリアがお望みの分量を」(聖ベルナルド)善意の人々に分配できるようにするためでした。この恩寵の仲介は、二つの方向に働きます。まず、恩寵はイエズスの聖心から流れ出て無原罪の聖母の御手を通してやって来ます。天主の光と恩寵が私たちに触れ、私たちを回心させ、聖化します。私たちは、この天主の創造の、かつ贖いのわざにお応えしなければなりません。私たちの全存在は天主に帰るためにあります。さて、私たちが天主に帰るには、天主がマリアを通して私たちのところにやって来られたのと同じように、マリアを通して、でなければなりません。このことは、キリスト教の古い時代から有名な格言で表現されてきました。「マリアを通してイエズスへ」です。ファチマの聖母も、このことを次の分かりやすい言葉によって確認なさいました。「私の汚れなき心はあなたたちの避難所であり、あなたたちを天主へと導く道になるでしょう」。

天主は人間に強制なさるのではなく、むしろ私たちに天主の救いのみわざへの自由な同意をお求めになります。それゆえに、私たちがこのことを明確に求め、私たち自身の意志によって、意識的で決定的な「はい」によって私たちが聖母を受け入れる条件でのみ、聖母は仲介者としてのご自分の任務を私たちにおいて実現させることがおできになるのです。仲介者である聖母は、私たちが自分自身を明け渡すという行い、すなわち自分自身の奉献によって自分自身を聖母に捧げるならば、それに応じて私たちの内に聖母のあらゆる愛の活動を広めてくださることでしょう。

私たちの奉献において聖母に捧げるものを、もっと正確に特定しましょう。私たちはこれまで、霊的生活においては二つの偉大なる現実があることを見てきました。それは、私たちの天主との関係および私たちの隣人との関係です。これは結果として、二つの異なる奉献となり、それらは互いに補いあうものです。

a)まず、私たちは、マリアが私たちの母にして女主人となるように、また私たちがマリアの子どもにして奴隷となるように、自分をマリアに捧げます。これは重要かつ土台となる奉献の行為ですが、基本的には、このことはすでに私たちのマリアへの完全な明け渡しを表してはいるものの、具体的には、私たち自身の聖化や、マリアを通して私たち自身が天主へ帰ることに限定されています。これは、御摂理が聖ルイ・マリア・グリニョン・ド・モンフォールに霊感を与えることによって、「聖母マリアへのまことの信心」の中で驚くほど素晴らしく私たちに示すことを望まれた、マリアへの完全な信心の説明です。

b)次に、マリアが私たちのこの世でのいのちをご自分の御手にお取りになるように、すなわち、私たちが成し遂げなければならない務めをお取りになるように、自分自身をマリアにお捧げします。マリアは今や、私たちのすべての行いと他人との関係についての主要な原因(もちろん、常に天主の下位ですが)となられ、私たちを「マリアの汚れなき御手の道具」とみなされることになります。聖マキシミリアノ・コルベの奉献の祈りは、聖グリニョン・ド・モンフォールの奉献の短い要約で始まります。しかし、中心となるものは、私たちがマリアに、私たちのすべての能力を所有し、それを通してマリアが霊魂における回心と聖化の奇蹟を行うことができるように願うことです。これによってマリアは、「ヘビの頭を踏み砕き」、「世界中のあらゆる異端に打ち勝つ」ことができるようになるのであり、こうして「主の聖心の支配」をもっともっと打ち立てることができるようになるのです。

ですから、これこそが、2019年の年間の決心として、私が皆さんに提案したいことなのです。つまり、私たち自身を聖母の道具として無原罪の聖母へ奉献することを、私たちの生活のあらゆる領域へもっともっと浸透させることであり、それによって、私たちが祈りによって聖母に捧げるものを、また毎日の生活においても実践に移すようにするためです。

このことは第一に、しばしば奉献の祈りを観想しながら祈ること、その祈りにある一つ一つの文と一つ一つの言葉を味わうことであり、これはいわば、可能な限り深くその祈りを理解するためなのです。「我らの愛深き母よ」、「天主は、あわれみの全秩序を御身に委ねることを望み給えり」、「道具」などの言葉の背後には、霊的世界全体が開かれます。今年の騎士への手紙は、とりわけこれらの霊的な深みへと私たちを導くはずです。

しかしその後、本当に重要で困難なものがやって来ます。それは、私たちの奉献を毎日の生活において実践することです。これには、ただ一つの基本的な態度を必要とします。寛大さです! もしいつも狭量でけちであるならば、もしいつも自分の利益だけにしか関心がないならば、その人は王たるキリストの呼びかけに従うことができず、天主を愛し天主のご意志を成就させようとするあらゆる願いは、つぼみのうちに摘み取られてしまうことでしょう。それゆえに、まず第一に、私たちはみな、毎日の生活において寛大であるようにしなければなりません。寛大に屈辱を受け入れ、寛大に他人の誤りや不完全さに耐え、寛大に不思議のメダイやちらしを配布し、寛大にロザリオを終わりまで祈り、寛大に汚れなき御宿りに何かを捧げるのです。小出しに何かを行うのではなく、寛大に行ってください。

私たちはみな、無原罪の聖母への私たちの奉献を表明するとき、幼子イエズスと御母の足元に騎士たちを置くことによって、この寛大さを求めて祈る必要があります。それは、聖なるクリスマスの輝く光が私たちみなを恩寵で満たし、その恩寵が私たちの騎士としての振る舞いを通して、あわれな罪びとの心に流れ込むようにするためです。

祝福とともに
カール・シュテーリン神父
2018年11月25日、ブカラマンガ(コロンビア)にて。


【英語原文】

Father Director’s Letter No. 12


Dear Knights of the Immaculata!

With joy and gratitude I would like to inform you that our new Superior General has allowed and blessed the establishment of the International Headquarters of the M.I. in Warsaw. He has also written a word of recommendation for the "M.I. Handbook", which has already been published in English, French and Spanish and will soon be available in German. It is a summary of all the concerns of the M.I.: above all, its essence and its justification, usefulness and topicality. A special chapter also explains the relationship of the M.I. to other Marian movements, as misunderstandings and mistrust repeatedly arise with them. Probably the most important section deals with the concrete existence of the M.I.: the enrolment into the M.I. and especially the perseverance of the Knights. It is always easy to start something, but extremely difficult to continue and preserve something. Every association stands or falls upon the question of how to keep its members on their toes and keep their first zeal or even deepen their initial zeal. This is surely also the big question for every Catholic and especially for every Knight: how can I remain faithful and become even more faithful?

The first answer comes from the outside: it is the responsibility of the M.I. direction to provide the Knights constantly with weapons and ammunition for the combat of souls, and to motivate them in various ways to become ever better instruments in the hands of the Immaculata. The whole structure of the M.I. has been designed to produce the apostolic materials and to hand them over to the Knights with an appropriate instruction manual: hence the regular magazines, letters, leaflets, the M.I. corners, etc.

Another answer must come from inside the Knight himself: what is the use of all these efforts if the Knight himself ignores them? If he does not take what is offered to him and neglects to consider it? Then we should not be surprised by the sudden realisation that he belongs to the sleeping knights, to the Knights in name only, who become unfaithful to their promise to do something for the Immaculata and for the salvation of souls at least once a day.

How important it is, therefore, that we pray for fidelity and generosity, but also that we keep contemplating the nature of the Knight, which is so ably summarized in the consecration prayer.

Let us try to understand this a little better:
Mary, the Mediatrix of all graces is the foundation of the M.I.: a privilege which teaches us that all the graces of conversion and sanctification earned by our Lord through his suffering and death on the cross are entrusted to Mary so that she can distribute them to people of good will "whenever she wants, to whomever she wants, howsoever she wants, as much as she wants" (St. Bernard). This mediation of graces takes place in two directions: first they flow down from the Sacred Heart of Jesus through the hands of the Immaculata. God's light and grace touches us, converts and sanctifies us. We have to respond to this creative and redeeming work of God: our whole existence consists in returning to God. Now, our return to God must take place in the same way in which God came to us, through Mary. This has been expressed since Christian antiquity by the famous axiom: "through Mary to Jesus". Even Our Lady in Fatima confirms this with the simple words: "My Immaculate Heart will be your refuge and the way that leads you to God".

God does not force man, but he wants our free consent to his salvific work on us. Therefore, Our Lady can realize her mission as Mediatrix in us only if we also want this clearly, if we accept her by an act of will, by a conscious and decisive "yes". The Mediatrix will unfold all her loving activity within us to the extent that we give ourselves to her through an act of surrender, the consecration of ourselves.

Let us specify more precisely what we give to Our Lady in our act of consecration. We have seen that in our spiritual life there are two great realities: our relationship with God and our relationship with our neighbour. This results in two different acts of consecration that complement each other:

a.) First we give ourselves to Mary so that she may become our mother and mistress and that we may become her children and slaves. This is the important and fundamental act of consecration, which basically already expresses our total surrender to Mary, but which is concretely limited to our own sanctification, our personal return to God through Mary. This is how Providence, by inspiring Saint Louis Maria Grignion de Montfort, wanted to explain total devotion to Mary which is wonderfully presented to us in the "Golden Book on True Devotion to Mary".

b.) Then we give ourselves to Mary so that she may take our lives in the world into her hands, namely the tasks that we have to fulfil. She should now be the main cause (always subordinated to God, of course) of all our actions and our relationship with others, and she should regard us as "instruments in her immaculate hands". The act of consecration of St. Maximilian Kolbe begins with a brief summary of the consecration of St. Grignion de Montfort. But the main thing is that we ask Mary to possess all our abilities in order to make them channels through which she can perform miracles of conversion and sanctification in souls. This enables her to "crush the head of the serpent", to "overcome all heresies all over the world" and thus to establish more and more "the dominion of the Sacred Heart of Our Lord".

And this is exactly what I would like to propose to you as the Yearly Resolution for 2019: that our consecration to the Immaculata - as her instruments - should penetrate more and more all areas of our lives, so that what we give her through prayer may also be put into practice in daily life.

This means, first of all, to pray, often contemplating the act of consecration, to savour every sentence, every word in it, so to speak, in order to grasp it as deeply as possible. Whole spiritual worlds are opened behind the words "Mary who loves us so much", "to whom God has entrusted the whole order of mercy", "instrument", etc. Our letters during this year should lead us above all into these spiritual depths.

But then comes the really important and difficult one: the implementation of our consecration in everyday life. This requires a single fundamental attitude: generosity! If one is usually petty and miserly, if one is constantly concerned only with one's own advantage, then one cannot follow the call of Christ the King, then every desire to love God and fulfil his will is nipped in the bud. Therefore, first of all, we must all try to be generous in our daily lives: generously accept a humiliation, generously endure the mistakes and imperfections of others, generously distribute the Miraculous Medal and flyers, generously pray the Rosary to its end, generously give something for the Immaculate Conception. Don't just do something sparingly, do it generously!

We all need to pray for this generosity in the manifestation of our consecration to the Immaculata, by laying all Knights at the feet of the Christ Child and His Mother, so that the bright light of Holy Christmas may fill all of us with graces, and that these may flow through our knighthood into the hearts of poor sinners.

With my blessing
Father Karl Stehlin
Bucaramanga, on the 25th of November 2018
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無原罪の聖母の騎士全員への指導司祭の手紙【第10号】ーFather Director's Letter No 10 to all Knights of the Immaculata

2018年03月19日 | M.I.(無原罪の聖...
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

童貞聖マリアの浄配、聖ヨゼフの祝日、おめでとうございます。
無原罪の聖母の騎士全員への指導司祭の手紙【第10号】をご紹介いたします。

聖ヨゼフ、我らのために祈りたまえ。
聖ヨゼフ、我らのために祈りたまえ。
聖ヨゼフ、我らのために祈りたまえ。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


無原罪の聖母の騎士全員への指導司祭の手紙 第10号


親愛なる無原罪の聖母の騎士の皆さん、

聖マキシミリアノ・コルベを正しく理解するためには、彼の内的生活を形づくり促進させた最も重要な根源にまで立ち戻らなければなりません。それは、マリア様の現存によって完全に特徴づけられ、特にマリア様がキリスト信者の軍隊の「司令官」として敬われているポーランドという彼の国の歴史、不思議のメダイ、ルルドのマリア様のご出現、そして聖ルイ・マリー・グリニョン・ド・モンフォールです。

おそらくは、聖コルベがローマで勉強している間に、この「マリアへの完全なる明け渡し」の偉大なる師に出会ったのでしょう。聖コルベが、ちょうど100年前の聖ルイ・マリー(当時はまだ福者ルイ・マリー)の祝日である4月28日に叙階されたのは、確かに偶然ではありません。

彼は聖ルイ・マリーをポーランドに知らせ、「マリアの秘密」の最初のポーランド語版を印刷、出版しました。その序文では、彼自身が聖グリニョンの短い伝記とその霊性の要約を書きました。とりわけ彼は、二人が生きた時代は違うものの、似たような状況に生きていたことを強調しました。聖ルイ・マリーの当時の敵はジャンセニストでしたが、こんにちの敵はフリーメーソンとその他のセクトです。どの敵も皆、特徴的なしるしがありました。それはイエズスとマリアへのまことの信心に対する嫌悪でした。こんにちの無原罪の聖母の騎士のように、当時、グリニョンはすべての恵みの仲介者の偉大なる使徒でした。聖母の汚れなき御手の完璧な道具として、グリニョンは、そのよく知られた宣教活動の間に、サタンの鎖から数え切れない霊魂を救いました。ちょうどこんにちの無原罪の聖母の騎士会(MI)が、すべてを支配しつつある悪の軍団に直面しているように、グリニョンも敵の強大な力にさらされていました。しばしば一人ぼっちで、友人にさえ見捨てられて、彼は異端者の悪意と妬みの標的になりました。しかしながら、何にもましてグリニョンとマキシミリアノは、すべての力と勇気を共に同じ根源から引き出しました。彼らは聖母に全き信頼を置き、すべてにおいて聖母に絶対服従しました。いつであってもどこであっても完全に、聖母だけを頼りにしました!

しかしながら、さらに重要とさえ言える偶然の一致があります。グリニョン・ド・モンフォールは、終末の時代のマリア様の役割を指摘したとき、「上から」霊感を与えられました。もし竜とその手下たちの支配権が非常に強力なため、教会を破壊することにほとんど成功してしまい、ほとんどすべての人を破滅への道へとそそのかすならば、そのとき黙示録の婦人が現れるでしょう(黙示録12章1節)。忠実なしもべたちを通して、その婦人はサタンのかしらを踏み砕き、サタンのすべての攻撃に打ち勝つでしょうが、とりわけ、この少数の忠実な「終末の時代のイエズスとマリアの使徒」を通して、婦人は数え切れない霊魂を患難から奪い取るのです。

聖マキシミリアノは無原罪の聖母の騎士の注意を、このマリアの忠実な奴隷というグリニョンの描写に引き付けています。この奴隷たちは権力を恐れず、元后が送り出そうと命ずるところならどこへでも行き、右手に十字架像、左手にはロザリオを持ち、心にはイエズスとマリアの聖名を刻んでいました。

聖マキシミリアノは無原罪の聖母の騎士に対して、自分たちを終末の時代のイエズスとマリアの使徒だと見なすよう求めています。「この理想(イエズスとマリアの使徒)を実現するための私たちの目標とその手段は、聖ルイ・マリーの考えと完全に一致しています。彼の最も熱心な望み、彼の全生涯の望みは、無原罪の聖母を全人類の元后としてたたえ、人間の鼓動する心臓をすべて、聖母の愛に引き渡すことでした」。

この理由から、聖マキシミリアノの望みによって、無原罪の聖母の園に住む人々はすべて、ポーランドであれ日本であれ、聖モンフォールによる奉献をしてきました。言葉の完全な意味において、まことに無原罪の御宿りの騎士になるためには、聖母の従順な子ども、聖母に服従する奴隷にならねばならないのです。人が所有物として完全に芸術家のものになるならば、その限りにおいてのみ、完全にその芸術家の道具となることができるのです。

聖マキシミリアノが、誰でも簡単に騎士になれるようにし、毎日一つの短い祈りをすることと、不思議のメダイを身に着けるという奉献以外には、実践として何も要求していないというのは、確かに本当です。それにもかかわらず、彼は、すべての騎士が壮大で言い表せないほど重要な宣教の使命を受けたという偉大な理想に満たされるべきだという、自分の心からの望みを表しました。私たちは、完全に無原罪の聖母のものになるよう、聖母に完全に従って聖母が望みのままにお使いになる道具となるよう、可能な限り多くの霊魂を救うよう、もっともっと努力すべきです。

しかしながら、このことは言い表せないほど困難です、特に私たちの時代においては。終末が近づけば近づくほど、戦いは厳しくかつ危険になります! そんなとき、私たちが無原罪の聖母のために行う最も小さなことでも、聖母によって寛大に報いられるということを、私たちは忘れるべきではありません。進んで無原罪の聖母による御恵みで満たされる人は、聖母の忠実な道具そのものになるでしょう。あわれな罪びとの回心のための私の努力が、まず第一に、あわれな罪びとの中でも最もあわれな罪びとである私に利益を与えるのです。

しかし、この二つの奉献の違いは何でしょうか? 二つは互いにどのように関係しているのでしょうか?

聖母は聖ルイ・マリーに対して、聖母へのまことにして完全な信心という御恵みをお与えになりました。この奉献によって、聖母は、言葉の本当の意味で、私たちの母にして元后になられ、私たちは聖母の子どもにして奴隷になります。母として、聖母は私たちの手をお取りになって、私たちを助けて天主へ立ち返るよう、霊魂を救うよう、悪魔のわなから自由になるよう、イエズス・キリストから離れないようにさせてくださいます。このようにして、私たちは洗礼の誓いを守り天主の最も偉大なる掟、すなわちすべてに超えて天主を愛するということを守るのです! 明らかに、私たち自身の回心と聖化のため、私たちの天主ご自身との関係のため、「完全な信心」が私たちに与えられます。「私の母にして元后がいなければ、私は主の真理、主のいのち、主の道を見つけられないだろう。もし私がこの真理といのちをいったん見つけたとしても、マリア様がいなければ確実に再びそれを失っていただろう。しかし今、聖母が私のいのちという船を指揮されるからには、聖母は私を港まで安全に連れて行ってくださるだろう」。

天主への愛の第一にして最大の掟をお与えになったのち、私たちの主イエズス・キリストは私たちに、「私があなたたちを愛したように、あなたたちも愛し合いなさい」とも要求され、また主はこれを主の新しい掟と呼ばれました。キリストはどのようにして私たちを愛されたのでしょうか? 主は、私たちを永遠の滅びから救うため、また私たちを永遠の至福へと導くため、ご自分をお捧げになったのです。

ですから、ここでもまた、私たちは自問しなければなりません。私たちは、一体どれほど私たちの仲間である人類の救いのことを考えているでしょうか? 私たちは、人類の大部分について全く気にかけておらず、他人は私を悩ませていると思い、もしたまたま誰かに善きことがあるよう願うとしても、それはほとんど全てが「健康、福祉、成功」のことです。

ですから、ここでもまた、主は、愛徳という素晴らしい掟をもっとよく実践できるよう、私たちに助けを送られます。それは、愛情あふれる御母、元后であり、この方は、キリストに次いで、すべての人々一人一人を、この世の最高の母親たちが最愛の子どもを愛することのできる以上に愛してくださるのです。その上、キリストは、これらの人々が回心して救われるよう、御母にすべての御恵みを与えられました。しかし今、天主は私たちに、この務めに参加するよう望んでおられます。そういうわけで、私たちはもう一つの秘蹟、聖なる堅振の秘蹟を受けたのです。この秘蹟は、私たちの聖化のためだけでなく、私たちをキリストの兵士にし、キリストの神秘体の啓発に参加するよう、私たちに聖霊を与えるのですから。

堅振の秘蹟によるこの偉大なる御恵みを無駄にしないために、また王の軍隊に入って王の召集に従うために、主は、私たちに無原罪の聖母を送られて、私たちが聖母の騎士になり、聖母の小さな軍隊に加わって、できる限り多くの聖母の子どもたちの霊魂を聖母が救うのを助けるようになさったのです。見てください、天と地の元后は物乞いとなられ、私のところに来て謙遜に嘆願なさいます。「わが子よ、あなたが必要です。あなたは、不死の霊魂であるわが子どもたちを救うため、私を助けたいと望みますか? 非常に多くの霊魂が永遠に失われています。彼らのために祈り犠牲をする人が誰もいないからです」(1917年8月19日、ファチマ)。

ここでもまた無原罪の聖母は私たちに、聖母の道具として、これまで以上に霊魂を救うよう、堅振の秘蹟の御恵みを維持するよう、私たちに教えることになるしもべを送られました。聖マキシミリアノ・コルベは、全世界を聖母の足元に置いて、「聖母が悪魔のかしらを踏み砕き、世界中の異端に打ち勝つことができる」ように、無原罪の聖母の騎士会を創立しました。

ちょうど隣人への愛が天主への愛を基礎とし、それを前提とするように、堅振の秘蹟が洗礼の秘蹟を基礎とし、それを前提とし補うように、マキシミリアノの事業はグリニョンの全面的な奉献の拡張かつ補足として、その奉献に基づいています。言い換えれば、聖グリニョンのマリアへの全面的な奉献を完成させるために、聖マキシミリアノの奉献の祈りが必要とされるのです。そのときだけ、私たちの全存在は、聖母の現存と聖母の御恵みの充満が浸透することで、マリア様に依存するようになるのです。私たちの天主との関係だけでなく、私たちと隣人との関係においても、また私たちの自己聖化だけでなく、私たちがこの世で天主から受けた宣教の使命、すなわちキリストの御国を求めるキリストの戦士になるという宣教の使命においてもです。私たちの天国への道、地上で霊魂の救いを求める私たちの闘い―すべてが、例外なくすべてが、聖母に属しているのです。ちょうど、聖母が天主に属しているように。

しかしながら他方では、このことは、無原罪の聖母の騎士は、繰り返し自分の霊的な基礎を知らねばならないことをも意味しています。「天主のすべての戦いにおいて勝利を収め給う私の元后、私は御身の軍隊の道具にして騎士になることができます。それは、ただ私が全面的に御身の子どもであって御身は私の母であり、私は御身の奴隷であって御身は私の主人であるという段階になったときだけです」。

厳密に言えば、マリア様を私たちの母にして元后であると荘厳に認める全面的な奉献がなければ、そしてそれゆえに、聖母の子どもかつ奴隷として聖母への絶対的な依存がなければ、誰も本当の意味で聖母の騎士にはなれません。

もし皆さんが、まだ聖グリニョンによる奉献をしていないなら、司令官は、すべての戦いにおける確実な勝利の秘密を発見するよう、皆さんを招きたいと望んでおられます。皆さんがこの招待を拒否するならば、皆さんは無原罪の聖母の熱心な戦士には決してなれないでしょう。それどころか、非常に弱くなってしまい、恐るべき敵の攻撃に抵抗できないでしょう。そのうえ、戦いにおいて特別なことは何もできないでしょう。なぜなら、将軍は皆さんを少ししか頼りにすることができず、皆さんの武器は錆びついているか、弾丸を使い切っていたりするかであるからです。

元后が皆さんを奴隷かつ子どもとして受け入れ、理論的には今や完徳の高みにまで安全に皆さんを導くことのできるという言葉で表せない御恵みを、皆さんがすでに受けているのなら、少なくとも年に一回は、繰り返しマリアへの完全なる明け渡しを更新することが非常に重要です。

その理由は単純です。私たちは生きている限り、常にこの信心を完全かつ真剣に理解する自信がないからです。私たちの奉献が更新されるたびに、私たちは少しだけそれにふさわしくなり、少しだけより忠実になるのですから!

もう一つ理由があります。戦いは恐ろしいものであり、私たちは常に戦場にいるのです。騎士は簡単に疲れてしまい、霊魂を救うために無原罪の聖母を助けることに従事し続けているときは特にそうです。終わりなき混乱が私たちを消耗させます。そのようなわけで、私たちが母親の胸元にいる子どものようにしばらく休むことができるよう、御母は私たちをご自分の方へ引き寄せたいと望まれます。聖母は、ご自分がどれほど私たちを愛しておられるのか、どれほどまで私たちの母でいらっしゃるのか、私たちから何を望んでおられるのかを、もう一度私たちに思い出させようと望んでおられます(準備の第2週)。聖母は、天主に全面的に依存している被造物として、しかしまたあわれな堕落した人間として、私たちが何者なのかを何度も繰り返してじっくり考えるよう私たちに望んでおられます(準備の第1週)。とりわけ、聖母は御子へと私たちを導きたいとお望みです。それは、聖母を通して、私たちが主を十分に知って愛し、私たちが、私たちを「限りなく」愛し「私たちのために十字架上の死に至るまでご自分を捧げられた」主のものになるためです(準備の第3週)。[注1]

聖グリニョンの奉献のための望ましい日は3月25日のお告げの祝日です。この日には、すべての人が奉献の祈りの更新するよう(あるいは初めての場合はそれを行うよう)招かれています。MIの大きな祝日は、12月8日の無原罪の御宿りの祝日です。この日には、私たちは、聖母の道具としての奉献の祈りを更新することになっています。ですから、奴隷としての準備と奉献は、通常は四旬節に当たり、騎士としての奉献は待降節に当たります。これは、御摂理による忘れないためのしるしであって、このようにして、御摂理は、これらの悔悛と回心の時期に私たちが素晴らしい決心を立てるよう助けてくだっているのではないでしょうか?

これとは別に、すべてのマリア様の祝日もまた、無原罪の聖母への奉献、私たちが何者であるかを決して忘れないための重要な信心である奉献を更新するのにふさわしい日です。今も永遠においても、私たちは、無原罪の聖母の子どもであり、奴隷であり、騎士であるという特権を持っているのですから。

そのような私たちには過ぎたる御恵みに対して、無原罪の聖母がたたえられ、讃美されますように!

2018年2月26日、ジャカルタにて
カール・シュテーリン神父


[注1]奉献の祈りの年に一度の更新のため、聖ルイ・マリーは私たちが3週間にわたってその準備をするよう望んでいます。「毎年同じ日に、同じ修業のあとで3週間、奉献を更新すべきである。また、毎月あるいは毎日、次の短い祈り『わが愛し奉る主イエズスよ、聖なる御母マリアによりて、われすべて御身のもの、わが持ち物はすべて御身のもの』を唱えることで奉献を更新することもできる」(聖母マリアへのまことの信心233番)



【英語原文】

Father Director's Letter No 10 to all Knights of the Immaculata


Dear Knights of the Immaculata!

In order to understand St. Maximilian Kolbe correctly, one must go back to the most important sources that have shaped and inspired his inner life: the history of his country, completely marked by the presence of Mary, in Poland specially venerated as the “commander in chief” of the Christian armies; the Miraculous Medal; the apparitions of Mary in Lourdes, and especially St. Louis Marie Grignion of Montfort.

Most likely, he met the great master of "perfect surrender to Mary" during his studies in Rome. It is certainly no coincidence that he was ordained a priest on the 28th of April, the feast of St. Louis Marie (at that time yet Blessed Louis Marie), exactly 100 years ago.

He made St. Louis Marie known in Poland, and printed and published the first Polish translation of the "Secret of Mary". In the foreword he himself wrote a short biography and summary of Grignion’s spirituality. Above all, he emphasizes the similarity of the situation in the different times in which both lived. At that time the enemies were the Jansenists; today it is the Freemasons and other sects. The distinctive mark of all of them — a hatred for true devotion to Jesus and Mary. Like the Knights of the Immaculata today, Grignion was then the great apostle of the Mediatrix of all graces: as a perfect instrument in her immaculate hands, he has saved countless souls from the chains of Satan during his popular missions. Just as today's M.I. faces the all-dominating armies of evil, so too Grignion was exposed to the mighty power of the enemies. Often alone, abandoned even by his friends, he became the target of the malice and envy of the heretics. Above all, however, Grignion and Maximilian draw together from the source of all strength and courage: they put all their trust in Our Lady and were absolutely obedient to her in everything; always and everywhere and completely only HER will counts!

There is, however, an even more important coincidence: Grignion of Montfort was certainly inspired "from above" when he pointed out the role of Mary in the latter times: if the supremacy of the dragon and its servants is so great that they almost succeed in destroying the Church and entice almost all men on the path of damnation, then the apocalyptic Woman appears (Apoc. 12, 1). Through her faithful servants, she crushes the head of Satan and overcomes all his attacks, but above all, through these few faithful "apostles of Jesus and Mary of the last times", she snatches countless souls from the adversary.

St. Maximilian draws the attention of the Knights of the Immaculata to the description by Grignion of these faithful slaves of Mary, who fear no power, who go wherever the Queen sends them, who hold the crucifix in their right hand, the rosary in their left hand and have written the names of Jesus and Mary in their hearts.

He wants the Knights of the Immaculata to identify themselves with the Apostles of Jesus and Mary of the last times: “Our goal and the means to achieve this ideal (apostles of Jesus and Mary) are in complete agreement with St. Louis Maria's views. His most earnest desire — the desire of his whole life — was to honour the Immaculata as the Queen of all humankind, to hand over to her love all beating hearts of men".

For this reason, according to St. Maximilian's wish, all inhabitants of the City of the Immaculata, both in Poland and Japan, have made the consecration according to St. Montfort. In order to truly become a Knight of the Immaculate Conception in the full sense of the word, one must be her obedient child and her submissive slave. One can be totally an instrument only if one belongs totally to the artist as his property.

It is certainly true that St. Maximilian makes it easy for everyone to become a knight, and basically demands practically nothing other than the consecration, a daily little prayer and wearing the Miraculous Medal. Nevertheless, he expresses his deepest wish that every knight should be filled with the great ideal of having received a magnificent, unspeakably significant mission: We should strive more and more to belong fully to the Immaculata, to be completely obedient to her and thus be her instrument that she can use as she wants, to save as many souls as possible.

However, this is unspeakably difficult, especially in our times. And the closer the end, the harder and more dangerous the fight! In such moments we should never forget that the least we do for the Immaculata is generously rewarded by her. The first to be filled with graces by the Immaculata, will be her faithful instrument itself. My efforts for the conversion of the poor sinners will first of all benefit me, the poorest of the poor sinners.

But what is the difference between the two consecrations? How do they relate to each other?

Our Lady gave St. Louis Marie the grace of true and perfect devotion to her. Through this devotion she becomes our mother and queen in the truest sense of the word, and we her children and slaves. As a mother, she takes our hands and helps us to return to God, to save our souls, to free ourselves from the devil's traps and cling to Jesus Christ. In this way we fulfill our Baptismal vows and begin to fulfill God's greatest commandment: the love of God above all else! Visibly, the "perfect devotion" is given to us for our own conversion and sanctification, for our relationship with God himself: “Without my mother and queen I will never find HIS truth, HIS life and HIS way. Even if I found this truth and life once, I would surely lose it again without Mary. But now that she commands the ship of my life, she will take me safely to the harbour”.

After the first and major commandment of love for God, Our Lord Jesus Christ requires us also to "love one another as I have loved you", and He calls this His new commandment. How did Christ love us? He gave himself to save us from eternal damnation and to lead us into eternal bliss.

And here too, we have to ask ourselves: How often do we think of the salvation of our fellow human beings? We don't care at all about most of them, others bother us, and if we happen to wish someone good, then it is mostly all about "health, well-being and success".

And here too, the Lord sends us a help so that we can practice the great commandment of charity better and better: It is the loving mother, the queen, who after Christ loves all people so much, each one more than all the best mothers of the world can love their beloved children together. Furthermore, Christ gave her all his graces so that these people could be converted and saved. But now God also wants us to participate in this work. That is why we have received another sacrament, the Holy Confirmation, which bestows on us the Holy Ghost not only for our own sanctification, but to become Christ's soldiers and to participate in the edification of the Mystical Body of Christ.

In order not to waste these great graces of Holy Confirmation, and to finally enter into the King's army and to follow his call, the Lord sends us the Immaculata so that we may become her knights, join her small army and help her to save the souls of her children — as many as possible. And behold, the queen of heaven and earth becomes a beggar, comes to me and humbly pleads: “My child, I need you! Do you want to help me save my children, the immortal souls? So many are lost forever because there is no one who prays and sacrifices for them” (Fatima, 19th of August 1917).

Here, too, the Immaculata has sent us her servant, who is to teach us to save souls as her instruments and to unfold the graces of Holy Confirmation more and more: St. Maximilian Kolbe founded the Militia Immaculatae to lay the whole world at her feet, so that “She can crush the devil's head everywhere and overcome heresies all over the world”.

Just as the love of the neighbour builds on the love of God and presupposes it, as Confirmation builds on Baptism, presupposes and supplements it, so all of Maximilian's work is based on the total consecration of Grignion, as its extension and complement. In other words, in order to complete the total Consecration to Mary according to St. Grignion, one needs the act of consecration of St. Maximilian. Only then will our entire existence be made dependent on Mary, permeated by her presence and her fullness of grace: not only our relationship with God, but also our relationship with our neighbour; not only our self-sanctification, but also the mission that we have received from God in this world, namely to be the champion of Christ for the expansion of His kingdom. Our way to Heaven, our struggles on earth for the salvation of souls — everything, without exception everything belongs to her, just as she belongs to God.

On the other hand, however, this also means that the Knight of the Immaculata must again and again be aware of his spiritual foundation: “O my Queen, victorious in all the battles of God, I can be your instrument and knight in your army only to the extent, in which I am wholly your child, and you my mother, I your slave, and you my mistress”.

Strictly speaking, one cannot really be her knight without the total consecration through which we solemnly recognize Mary as our Mother and Queen, and thus our absolute dependence on her as her children and slaves.

If you have not yet made your Consecration according to St. Grignion, the Commander-in-chief would like to invite you to discover the secret of the sure victory in all battles and fights. If you reject this invitation you will never be an eager fighter of the Immaculata; on the contrary, you will often be too weak to resist the attacks of the terrible enemies. Besides, you won't be able to do anything special in battle, because the general can only count on you a little, your weapons are rusty or your ammunition is used up.

If you have already received the unspeakable grace that the Queen has accepted you as a slave and child and is now theoretically able to lead you safely to the heights of perfection, it is very important to renew again and again the total surrender to Mary, at least once a year.

The reason is simple: as long as we live, we will always lack the confidence to understand fully and seriously this devotion. With each renewal of our consecration we become a little less unworthy and a little bit more faithful!

There is another reason: the fight is terrible, we're always on the battlefield. The knight can easily get tired, especially when he is constantly occupied in helping the Immaculata to save souls. The never-ending turmoil wears us out. That is why the Mother wants to draw us to herself, so that we can rest for a while, like a child on the heart of the Mother. She wants to remind us again how much she loves us, how much she is our mother and what she wants from us (2nd week of preparation). She wants us to reflect over and over again on who we ourselves are, as creatures totally dependent on God, but also as poor, fallen men (1st week of preparation). Above all, she desires to lead us to her Son, so that through her we may know and love Him fully and belong to Him who has loved us "boundlessly and who has given himself up for us unto death on the cross "(3rd week of preparation)[1].

The preferred solemnity for St. Grignion is the 25th of March, the Feast of the Annunciation, on which all are invited to renew the act of consecration (or to do it for the first time). The great solemnity of the M.I. is the 8th of December, the Feast of the Immaculate Conception, on which we are to renew the act of consecration as her instruments. Thus, the preparation and the consecration as slaves usually falls into Lent, whereas the consecration as knights into the Advent season. Is this not a reminder of Providence, which in this way helps us to make a wonderful resolution in these times of penance and conversion?

Apart from this, all Feasts of Mary are also suitable for renewing our consecrations to the Immaculata — an important devotion so that we never forget our identity: Now and for all eternity we have the privilege of being children, slaves and knights of the Immaculata.

MAY SHE BE PRAISED AND GLORIFIED for such an undeserved grace!

Jakarta, on the 26th of February 2018
Fr. Karl Stehlin


[1]For the annual renewal of the act of consecration, St. Louis Marie wishes that we prepare it during three weeks: "Every year, on the same day, you should renew the consecration for three weeks after the same exercises. You can also renew it every month or even every day by saying this short prayer: "I am all Thine and all that I have is Thine, my beloved Jesus through Mary, Thy holy Mother" (Treatise No. 233).
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無原罪の聖母の騎士全員への指導司祭の手紙【第9号】―2018年のモットーFather Director's Letter No 9 to all Knights of the Immaculata

2018年01月03日 | M.I.(無原罪の聖...
親愛なるモデレーター、コーディネーター、親愛なる騎士の皆さん―この手紙をすべての騎士および興味を持ちそうな人々に送ってください。

新年おめでとうございます、そして聖なる新年をお迎えください!

2018年
マリアの汚れなき御心を通してイエズスの聖心へ


親愛なる無原罪の聖母の騎士の皆さん!

記念の年2017年も終わろうとしています。多くの人々が、今年何が起こったのかと思っていることでしょう。多くの人々が、100年前にファチマで起きた太陽の奇蹟のような、天からの特別な介入を期待していたことでしょう。他には、ファチマ第三の秘密の全体が明かされるのを熱心に待ち望んでいた人々もいましたし、私たちは皆、今年ロシアがマリアの汚れなき御心に奉献されるのではと非常に望んでいました。これらすべての希望は打ち砕かれました。それどころか、教会においては状況がかつてないほど悪くなっているように見える、と言えるかもしれません。それゆえに、来年からは、ファチマのことが多かれ少なかれ、多くの人々に忘れられてゆくのではないかという恐れがあります。

しかし、もう少し深くものを見る人々は、無原罪の聖母がこの記念の年の間に多くのことをなさったのを認めない訳にはいきません。年の初めには無原罪の聖母の騎士会(MI)の騎士は約2万人でしたが、年の終わりには、聖母の周りに10万人もの騎士を集めることで無原罪の聖母が私たちの祈りに応えてくださり、私たちの努力を祝福してくださったのを見て、私たちは感謝しています。フィリピン全土に及ぶマリア様の旅行ミッションは、この国に揺らぐことのない恩寵を与え、それにはしばしば、聖母の御あわれみによる実際の奇蹟がありました。多くの国々でMIは花開き、多くの信者の側に深いマリア様中心の生活がともにありました。以前には決してなかったことですが、ファチマの神秘に引き付けられて、聖伝に近づいてきた司祭たちや修道者たちとの非常に多くの接触がありました。

私たちがさらに深く見ていくならば、無原罪の聖母が私たちに与えてくださった非常に特別な恩寵があります。今年誠実に努力した人なら誰であれ、聖母によってその御心の神秘の中へさらに全面的に導かれたのです。私たちが受けたこの種の証言がいかに多かったことでしょうか。「これほど深くマリア様を理解することは、これまでありませんでした・・・今年ほどマリア様の愛を経験したことは、これまでありませんでした・・・私の生活全体でマリア様がいかに必要なのかということが、これまでにないほどよく分かりました・・・マリア様に奉献した生活をするということが、これまでよりずっとよくできるようになりました」!

ファチマ100周年の今年、マリア様の最も貴重なものが何かということが私たちに明らかにされました。聖寵充ち満てる御心、私たちに与えられる御心、これは聖母がすべての人にあらゆる回心と聖化の恩寵を与えようと望んでおられるということを意味しています。無原罪の聖母の騎士会100周年は、多くの新たな騎士を生み出しただけでなく、彼ら全員に彼らが聖母を信頼していること、また聖霊の浄配である聖母を通して聖霊のすべての賜物と実が私たちの心に置かれたことを示してもいるのです。

しかしここで、「私たちはマリア様について十分黙想しました。さあ、今度は何か別のことをしなければなりません。昨年、ファチマに関するすべてのことが決着しました。さあ今度は変化が必要です」と思うのは、大きな間違いです。

その反対です。もし私たちに、マリアの汚れなき御心の深みに入り込んでいく機会が与えられたのなら、それはマリア様が、私たちをご自分に完全に引き寄せて、その母としての御心を駆り立てているものを私たちに見せようと望んでおられるからです。マリア様は、ご自分のためには決して何も望んではおられません! マリア様は、ご自分に与えられたすべての栄光とほまれを、当然ながら御子へお渡しになります。汚れなき御心の本質そのもの、そのすべての聖域とご出現の目的そのものは、御子の聖心の神秘に私たちを導くことです。

ですから、これが私たちを新しい年2018年に、発見の旅にならなければならない年、言ってみれば、母親の指導の下で子どもが最も偉大な宝と最も偉大な真珠を見いだすことのできる年に導くのです。聖母はただ一つの望みをお持ちです。それは、私たちに天主の愛の広さと長さ、高さと深さを明らかにしてくださる(エフェゾ3章18節参照)天主の聖心に私たちを入り込ませることです。事実、マリア様ほどイエズスの聖心を深く、またよく理解し愛した人はこれまで誰もいませんでした。この理由のために、マリアの汚れなき御心において以外に、また御心を通して以外には、救い主の最も深い神秘に入れる人は誰もいません。

ですから、私たちは、イエズスが本当はどんな方なのか、イエズスの聖心の神秘とは何かを発見して驚くことをやめることは決してないでしょう。マリアの御心に完全に入り込んでいるときのみ、キリストは私たちに、小さき者たち、謙遜な者たちのために取っておかれた主の最も深い秘密を明らかにしてくださるでしょう。

それゆえに、私たちは二つの信心を別々に置いておくという危険、すなわち一方にマリアの御心への信心を置き、他方にイエズスの聖心への礼拝を置くという危険を避けなければなりません! 違います、本当の洞察は次のものです。「マリアは完全に常に、また常にマリアにおいてマリアを通して、イエズスへ至る!」。聖マキシミリアノ・コルベは、これを非常に明確に知り、生き、教えたのです(MIの奉献の祈りとイエズスの聖心をたたえるMIの講演を参照)。


ですから、2018年の第一の決心は以下のものです。

◆常にマリア様とともにいましょう。イエズスの聖心に近づくために、すべてにおいて聖母に頼り、すべてにおいて完全に、聖母の子ども、奴隷、騎士として自分を聖母に明け渡しましょう。

◆マリア様によってイエズスの聖心への信心を育みましょう(イエズスの聖心の月の初金曜日、イエズスの聖心の祝日など)。

◆今年、聖ルイ・マリー・グリニョン・ド・モンフォールによるマリアを通したイエズスへの全面的奉献を荘厳に行うか、更新しましょう(例えば3月25日に)。

◆聖母が王たるキリストに最も偉大なる栄光を与えられるようにするために、汚れなき御心の凱旋のために努力しましょう。イエズスの聖心の普遍的かつ社会的な王権を宣べ伝え、広めましょう。

◆多くの堕落した霊魂を可能な限り救うため、そしてそうすることで彼らをイエズスの至聖なる聖心に導くため、これまで以上に無原罪の御宿りの騎士および道具となりましょう(MIの奉献の祈り参照)。


しかし、私たちはまださらに進まなければなりません。

いとも聖なる二つの聖心が私たちにとっての現実となるとき、私たちがイエズスとマリアの聖心をまことに崇める者となるとき、私たちはさらに深い現実にまで、すなわち一つになった二つの聖心にまで導かれるのです。私たちがこれら二つの聖心の測りがたいほど深い面を知って愛するならば、私たちが、二つの聖心がどれほどお互いに表現できないほどの愛、一致、結合に至っているのかを知るならば、いわば、私たちが二つの聖心のお互いの関係をよく見つめるとき、いったい私たちは何と言うでしょうか?

ここにおいて私たちは、絶対的な愛の頂点の前に立っているのです。至聖なるイエズスの聖心において、この世への天主の愛がすべて明らかにされ、マリアの汚れなき御心において、天主への被造物の愛がすべて明らかにされるのです! 一つになった二つの聖心は、天主と被造物が永遠に一つになることの象徴です。愛の勝利です!

また、ここに、無原罪の聖母の騎士会の最も深い存在理由があります。私たちはそれを、2018年の間に、愛を込めた黙想のために騎士の皆さんに提供したいと思います。MIのエンブレムを見れば、一つになったイエズスとマリアの聖心と、これら二つの聖心の真ん中にMIの文字があるのが分かるでしょう。


ですから、2018年の第二の決心は以下のものです。

◆マリアを通してイエズスへ、しかしまたイエズスとともにマリアへ! この一方から他方への流れ、この相互の実り豊かさは、エミール・ヌーベール神父の著書「わが至高の理想マリアの御子イエズス」に非常に深くかつ美しく描写されています。今年、私たちはこの小冊子を手元に置き、繰り返し読みたいと思います。

◆騎士として、人類にもたらすことを許された最も偉大で最も重要なことが、ここに描写されていることを知りましょう。MIのバッジを身に着け、MIの旗に感謝し、MIの使徒職においてその旗の周りに集まることを幸せに思いましょう。

◆ひと月に一回、一つになったイエズスとマリアの聖心をたたえて大斎をしましょう。なぜなら、断食をすることは、私たちと私たちに委ねられた霊魂のための多くの恩寵の素晴らしい源泉であるからです。

◆「世の汚れに染まらず、自らを清く保つこと」(ヤコボ1章27節)を常に心がけましょう。イエズスとマリアに対する愛、そして霊魂たちに対する愛を表す次の祈りは、特に勧められます。「イエズス、マリア、われ御身を愛し奉る、霊魂たちを救い給え」。

ですから私たちは、2018年に、ファチマのメッセージという宝とMIを忘れないだけでなく、さらに深く見つめ、さらに熱心にそれを実践していくのです。なぜなら、このすべては、天主に最も偉大なる栄光を捧げ、できるだけ多くの霊魂を無原罪の聖母を通じてイエズスの聖心の下に置くために、私たちに与えられたのですから。

カール・シュテーリン神父



【英語原文】

Father Director's Letter No 9 to all Knights of the Immaculata - Motto for 2018

Dear Moderators and Coordinators, dear Knights - please forward this letter to all Knights and to those who could be interested!
HAPPY AND HOLY NEW YEAR!


2018
Through the Immaculate Heart of Mary to the Sacred Heart of Jesus


Dear Knights of the Immaculata!

The jubilee year 2017 is drawing to a close. Many wonder what happened this year. Many expected a special intervention from heaven, similar to the solar miracle 100 years ago in Fatima. Others longed for the whole of Fatima's third secret to be revealed, and we all wished so much that this year Russia would be consecrated to the Immaculate Heart of Mary. All these hopes were dashed. On the contrary, one could say that it looks worse than ever in the Church. Therefore, it is to be feared that after this year Fatima will more or less be forgotten by many.

But those who look a little deeper have to admit that the Immaculata has worked a lot during this jubilee year: at the beginning of the year there were about 20,000 knights in the M.I., and at the end of the year we are grateful to see that the Immaculata has answered our prayers and blessed our efforts by gathering 100,000 knights around her.
Mary's Mission Tour throughout the Philippines has given this country unspeakable graces, often associated with real miracles of her mercy. In many countries the M.I. has blossomed, together with a deepened Marian life on the part of many faithful. Never before have there been so many contacts with priests and religious who, attracted by the mystery of Fatima, have approached Tradition.

If we look yet deeper, there is a very special grace which the Immaculata has given us: whoever has made a sincere effort this year, has been introduced by her more thoroughly into the mystery of her Heart. How many testimonies of this kind have we received: "Never before have I understood Mary so profoundly … Never before have I experienced her love so much as this year... More than ever, I have come to realize how necessary she is in my whole life... Better than ever before have I been able to live my consecration to her"!

This year of the Fatima centennial gave us the revelation of what the most precious thing in Mary is: her Heart - full of grace, her Heart - given to us, which means that she wants to give everyone all graces of conversion and sanctification; she wants to pull us out of a sinful life and lead us to holiness. The centenary of the Militia Immaculatae has not only brought forth many new knights, but has also shown all of them how much they can trust their Lady and that through her, the Spouse of the Holy Ghost, all his gifts and fruits are placed in our hearts.

Whoever approached her this year did not seem surprised by her greatness and majesty, her royal power and maternal love, her great mercy.

But now, it would be a big mistake to think: "We have meditated enough on Mary, now something else has to happen. Everything revolved around Fatima last year, now a change is necessary."

ON THE CONTRARY: If we were given a chance to penetrate the depth of Mary's Immaculate Heart, it is because Mary wants to draw us completely to herself in order to show us what motivates her motherly Heart. Never Mary wants anything for herself! All the glory and honour given to her, she necessarily passes on to her Son: the very essence of the Immaculate Heart and the very purpose of all her sanctuaries and apparitions are to introduce us into the mystery of the Sacred Heart of her Son.

And this brings us to the new year 2018, which must become a journey of discovery, so to speak, during which the child can find the greatest treasure and the most precious pearl, under the guidance of his mother. She has only one wish: to make us plunge into the Heart of God, who reveals to us the breadth and length, the height and depth of His love (cf. Eph 3:18). In fact, no one has ever understood and loved the Sacred Heart of Jesus more deeply and better than Mary. For this reason, there is no other access to the deepest mystery of the Saviour than in and through the Immaculate Heart of Mary.

And we will never cease to be amazed upon discovering who Jesus really is, and what the mystery of His heart is. Only when completely submerged into the Heart of Mary will Christ reveal to us His deepest secrets, which He has reserved for the little ones and the humble ones.

We must therefore avoid the danger of placing both devotions side by side: on the one hand, the devotion to Mary's Heart, and on the other hand, the worship of Jesus' Heart! No, the real insight is the following: Mary wholly and always, and in her and through her always, Jesus! Very clearly did St. Maximilian Kolbe perceive, live and teach this (see the prayer of consecration of the M.I. and its conferences in honour of the Sacred Heart of Jesus).


Hence, the annual resolution No. 1:

/ Be always with Mary; depend totally on her; surrender to her totally and completely as her child, slave and knight close to the Heart of Jesus:

/ Foster devotion to the Heart of Jesus with Mary (1st Fridays, Month of the Sacred Heart, Feast of the Sacred Heart, etc.);

/ Solemnly make or renew this year your total consecration to Jesus through Mary according St. Louis-Marie Grignion de Montfort (e. g. on March 25th);

/ Strive for the triumph of the Immaculate Heart that She may give Christ the King the greatest glory; proclaim and spread the universal and social kingship of the Sacred Heart of Jesus;

/ More than ever, be the knights and instruments of the Immaculate Conception to save as many lapse souls as possible and thus to lead them to the most holy Heart of Jesus (see act of consecration of the M.I.).


But we must go further still:

When both holiest Hearts have become reality for us, when we have truly become worshippers of the Hearts of Jesus and Mary, we are introduced to an even deeper reality, that is, to the union of both Hearts. If we are able to acknowledge and love so unfathomable deep aspects of these two Hearts, if we per how both of them turn to each other in indescribable love, unite, merge, as it were, when we look at the relationship of both hearts to each other — what shall we say?

Here we stand before the absolute summum of LOVE: in the most holy Heart of Jesus the whole love of God for the world is revealed; in the Immaculate Heart of Mary the whole love of the creature for God is revealed! The united Hearts are the symbol of the eternal union of God and creature. The triumph of love!

And here lies the Militia Immaculatae deepest raison d’être, which we would like to present to the knights for loving contemplation during the year 2018. When we look at the M.I. emblem, we see the united Hearts of Jesus and Mary and the M.I. in the midst of these Hearts!


Hence the annual resolution No. 2:

/ Through Mary to Jesus, but also with Jesus to Mary! This flow from one to the other, this mutual fertilization, is depicted very deeply and beautifully in Father Emil Neubert's book "My Supreme Ideal, Jesus — the Son of Mary". This year, we want to take this booklet in hand and look at it again and again;

/ Be aware that the greatest and most important thing, as a knight, to be allowed to bring to mankind is depicted here: be happy to wear the badge of the M.I. and appreciate its banner and gather around it in the apostolate of the M.I.

/ As much as possible fast once a month, in honour of the united Hearts of Jesus and Mary, because fasting is a great source of many graces for us and the souls entrusted to us. The 1st Friday could be the worldwide fast day of M.I. (on a voluntary basis).

/ Constantly strive at "keeping yourself immaculate from this world" (James 1:27). The prayer that expresses the love for Jesus and Mary and also for souls is especially recommended: “Jesus, Mary, I love you - save souls!”

And so, in 2018, not only will we not forget the treasures of the message of Fatima and the M.I., but we will also look deeper and more earnestly put it into practice, because all this was given to us only to give God the greatest glory and to lay as many souls as possible at the feet of Jesus' Heart through the Immaculata!

Fr. Karl Stehlin
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聖伝の「無原罪の聖母の騎士会」(M.I.)についての小冊子 ダウンロード用のリンク

2017年12月03日 | M.I.(無原罪の聖...
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 12月17日(主日)には、レネー神父様が東京でのミサの後に、聖伝の「無原罪の聖母の騎士会」(M.I.)についてのお話と、入会式をなさってくださいます。

 東京でのミサは10時半からです。ミサの後の祈りの後、ほぼ直後にされますので、ミサに与ってから入会式にも与ってください。聖伝の「無原罪の聖母の騎士会」(M.I.)についての小冊子もあります。以下のリンクからダウンロードしてください。

聖伝の「無原罪の聖母の騎士会」(M.I.)についての小冊子






天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
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聖マキシミリアノ・コルベによる「無原罪の聖母の騎士会」創立100周年記念の「汚れなき聖母の騎士会の歌」

2017年08月04日 | M.I.(無原罪の聖...
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖マキシミリアノ・コルベによる「無原罪の聖母の騎士会」創立100周年を記念して、「汚れなき聖母の騎士会の歌」を作ってみました。
み母マリア みもこころも」のメロディーで歌って下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

「汚れなき聖母の騎士会の歌」


汚れ知らぬ 清きみ母
天(あめ)と地との きさいマリア
罪人らの よりどころよ
我らの愛 母なる君
主はことごとく 慈悲の恵みを
君の御手に ゆだね給う
罪ふかき 我らなれど
身許に馳せより 伏して祈る


御身こそは 「み踵(かかと)もて
蛇のかしら 踏みて砕く」
そのお方よ、ただ一人で
全ての誤謬 滅ぼし給う。
マリアの騎士は うまずたゆまで
我が身すべて 御手に委(ゆだ)ねん。
命も死も 身も心も
御旨のままにぞ 使い給え


いと優しき われらの母
汚れの無き 愛の炎 
真理(まこと)の道 避難所(よりどころ)よ、
み母を知る 慈悲の恵み
迷える子らに 与え給えよ。
主の恵みは 御手を通し
救い主の 聖心から
潤いあふれて 与えらるる。


上の歌詞は次の祈りからインスピレーションを受けました

 「ああ、インマクラータ(汚れなき聖母)よ、天と地の元后、罪人の拠り所、我らの愛深き母よ、天主は、あわれみの全秩序を御身に委ねることを望まれ給えり。不肖なる罪人、我(名前)は、御身の足もとにひれ伏し、御身にひれ伏してこいねがい奉る。
我がすべてを全く、御身のもの、御身の所有物として受け取り給え。
 また、我について、霊と肉体のすべての能力について、我が全生涯、死、永遠について、御身がよりお望みになることを全て成し給え。
 もしも御心にかなうならば、我が全てを完全に使い給え。そは、御身について言われた「かの女は、おまえの頭を踏みくだく」また「御身は、ひとりで全世界の異端をことごとく滅ぼされた」が実現されるべき御業のためなり。
 我が、 御身のインマクラータの憐れみ深い御手のうちに、ふさわしい道具としてあらしめたまえ。そは、道を迷い、無関心の、かくも多くの霊魂たちに、御身を知る喜 びを引き起こさせ、御身の栄光をこれ以上ないほど最高にいや増し、かくてイエズスの至聖なる聖心のいとも甘美なる御国が、最高度に拡張するためなり。
 御身が入り給うところはどこであれ、そこで御身は回心と成聖の聖寵を祈り求め給うなり。そは、御身のみ手を通してイエズスの至聖なる聖心から、全ての聖寵は、我らにたどり着くが故なり。」


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われらの指揮官なる神父の手紙【第1号】 ~聖伝のM.I.(Militia Immaculatae 無原罪の聖母の騎士会)

2017年03月15日 | M.I.(無原罪の聖...
親愛なる無原罪の聖母の騎士の皆さん!

聖マキシミリアノ・コルベが騎士たちにメッセージを書いたとき、騎士たちはそのメッセージに「われらの指揮官なる神父の手紙」と名付けたものでした。聖コルベの死後、後継者である無原罪の聖母の騎士会(MI)の歴代国際モデレーターたちが、「国際モデレーター(調整官)」という少し複雑な教会法上の名称よりも、「指揮官」という名称を使う方が騎士たちにとっては簡単だという単純な理由から、この伝統を長く継続させました。天主の御摂理が長上たちの声を通して皆さんのしもべを「無原罪の聖母の騎士会-伝統厳守会」の国際モデレーターとしてお選びになったのですから、聖なる創立者の足跡に従って、ある程度定期的に皆さんに「指揮官なる神父の手紙」を送らせてください。当時の騎士たちは、聖マキシミリアノを父そして案内者の両方と認識していました。ですから今日、私は皆さんの祈りをこいねがうのです。私が聖マキシミリアノの忠実なこだまとなり、そうすることで、私たちに本当の父と案内者がまったくいない今日、聖マキシミリアノがもう一度、そしてこれまで以上に「われらの愛する指揮官なる神父」になってくださいますように。

この最初の手紙で、私は皆さんに、伝統を厳守する無原罪の聖母の騎士会の起源についてお知らせし、またその始まりから私たちの時代までの簡単な歴史的説明をしたいと思います。

それは、私が神学校に入った最初の年である1981年のことでした。ドイツの聖伝のカトリック青年運動(KJB)の指導者たちが、聖マキシミリアノ・コルベの生涯と使徒的業績に捧げた会報を発行しました。私たち神学生は、この私たちの時代の聖人を見いだして魅了されました。それは、聖コルベが、この深い信仰と使徒的情熱において完全に伝統的でしたが、同時に今の現代技術の手段を使って仕事をしたからです。現代の若者さえをも魅了する聖人です。

この若者たちの回心についての問いが、1986年以来私たちがアフリカに配属されているときに持ち上がりました。ファチマの聖母のご出現のメッセージ(聖三位一体のミシェル修道士による三巻)と聖マキシミリアノ・コルベの伝記(マリア・ウィノウスカ著)に触発され、ロイック・デュベルジェ神父は1988年、少女のための運動「無原罪の聖母の仲間たち(CI)」を創立しました。MIに三つのグループがあるように、少女たちは「無原罪の聖母の子どもたち、しもめたち、使徒たち」に分かれており、それぞれがファチマの汚れなき御心のお望みを寛大に実現させようとしました。そのひとりひとりがほかの少女たちの回心のためにもっと寛大になってゆきました。その結果は圧倒的でした。創立5年後には、「CI」のグループが近所の子どもたちを回心させるためにガボンの首都のいろいろな地域に設立され、多くの「使徒たち」が聖ピオ十世会のミッションの1500人の子どもたちのためにカテキストとして登録されました。ファチマの75周年を祝う年には、CIは多くの回数、ご出現についての芝居を上演し、新たに何百人もの人々を教会に導きました。しかし最も驚くべき実りは、多くの若い女性たちの内的な変化でした。彼女たちは本物の内的な生活を生き、異教の環境、または家族の中でさえ、信仰を守ろうという時には英雄的な勇気を見せたのです。彼女たちの中には、両親や兄弟姉妹を回心にまで至らせた者もいました。いろいろな熱帯病のために早死にした人々の中に、私たちはまれな段階に至った徳と聖性さえ見ることができました。この信じられないような驚くべき出来事によって、私たちの時代における無原罪の聖母の抜きんでた力に対する信頼、ファチマの特異な重要性、そして私たちのあらゆる使徒的なわざを聖母とともに、聖母の命令のもとでのみ行うことの必要性を、私たちは確信したのです。

しかし、のちの1994年のことでしたが、驚くべきことにポーランドにおいてカトリック聖伝のわざを始めるよう指名されたとき、聖マキシミリアノ・コルベとその騎士会がどのような人々であるのかを本当に発見したのです。母語で書かれた聖コルベの手紙や講話を読んで私たちが発見したのは、黙想的でありかつ最も行動的である万能の天才、マリア様の最も深い神秘に関する神学者であり、何百万もの人々が聖母を知るようにさせ、かつ愛させるために現代の技術的手段と発明を利用した組織づくりの師です。このいつも死ぬような病気にかかっていた小さな修道士は、「レジオ・マリエ」と「ファチマの聖母のブルー・アーミー」に続く世界で三番目に大きい最も重要なマリア様の運動を設立し、また大きな資金もなしに「無原罪の聖母の町」と呼ばれる修道院を開きました。そこは15年以内に、中世以来世界で最も大きな千人近くの修道士を擁する修道院になりました。自分の祖国でマリア様への愛の炎に火をつけるだけでは足りず、遠いアジアへのミッションにも、「何十億もの霊魂」に聖母の足元へもたらしたいとの望みを抱いてそれに着手したのでした。最後には、その英雄的な一生のあと、一家の父親である囚人仲間の代わりに死ぬというアウシュヴィッツの餓死室での英雄的な死を迎えました。

1998年にワルシャワに最初の修道院を開いたとき、もちろん、無原罪の聖母の町であるニエポカラノフをしばしば訪問しました。私たちがこの巨大な使徒職の名残(博物館、最初の礼拝堂や聖マキシミリアノが住んでいた各部屋、聖人の英雄的な同志たちの墓など)を黙想すると、まるで聖人自身が私たちに会っているかのようでした。また聖マキシミリアノを直接知っていた年老いた修道士たちと長い会話をすることは、他に類を見ない貴重な体験でした。しかし、私たちはMIの別の面も発見せざるをえませんでした。この場所はカリスマ運動でいっぱいのところで、その書店はリベラルかつ近代主義の書物で満杯であり、私たちはしばしば、野外ロックコンサートに見られるような、人々に空しい感情を引き起こす集会を目撃しました。1997年にはMIの新しい会則が公表されましたが、それは以前の会則とは大変異なるものでした。ベストセラーのうちの一冊は、騎士会の総長であるシンブラ神父の本でした。その本で同神父は聖なる創立者を、その考えが狭量であり、「彼の時代の意見に固執した」として、強く批判しました。聖マキシミリアノを知っていた年老いた修道士たちにこれらの変化について尋ねたところ、私たちはしばしば、悲しげに「今やすべては変わった」と言うのを聞きました。「無原罪の聖母の騎士誌」は近代主義的な暗示に満ちた信心会報になっており、創刊当時の雰囲気は失われました。

このとき、若い信者が何人か私たちのところにきて、無原罪の聖母の騎士会を、まさに聖マキシミリアノが創立したそのままの形で、私たちが再発足させることができないかどうかを尋ねました。1920年代以来ポーランドのカトリックはMIによって深く影響を受けていますから、聖なる創立者がMIを設立したのと同じ精神でMIを再創立することを…。

この願いのために、このアイディアが理にかなっているかどうかを分析しなければならなくなりました。聖伝のカトリックには、マリア様の運動が他にも既に沢山あったからです。単にもうひとつ別の運動を創立するだけでは、存在している多くの運動の参加者の数や力を分裂させてしまいかねません。ですから、無原罪の聖母がそのご意志を私たちに示してくださるよう、小さな祈りの十字軍を組織しました。

この時、私たちは騎士会とその聖なる創立者のさらに深い側面を発見して、この運動が世界で他に類を見ないものであり、私たちの時代に完全に適合していることを、以下の理由から、確信したのです。

1)その名称が示しているように、無原罪の聖母の騎士会(Militia Immaculatae)は戦闘の教会(Militant Church)、すなわち地上での悪魔や罪、誤謬との絶えることのない戦いの中にいるまことのカトリック教会を思い起こさせます。50年前から、これらカトリックの本質的な事項は、全世界の平和やすべての宗教の相互の尊重のために努力するよう教えられてきた信者たちの心から取り去られてしまっていました。さらに悪いことに、同じころから、天国や地獄、煉獄、死、審判、悪魔との戦い、誤謬から唯一のカトリックの真理への回心など、永遠にして最も重要な現実が広く捨てさられ、相互理解と平和において世界を統一する望みというものと置き換えられてしまっていました。フリーメーソン的な新しい世界秩序が多くのカトリック信者の理想となってしまったのです。

この現代主義の病に対抗して、MIは私たちの時代の平和主義に対する薬となり、唯一のまことの視点、すなわち、私たちはこの世では霊魂の救いのために戦っている、という事実を強く思い起こされるものとなるのです。MIは、永遠の価値と、私たちがこの世での短い時間を正しく使うことに重きをおいています。MIは、その定義自体において、すべての反教会主義者たちや偽りの宗教を、唯一のまことの教会へ回心させる、という反エキュメニズムの召命をもっているからです。

2)私たちの時代において非常に必要とされる霊的戦いというこの考えは、寛大な霊魂たち、特に青年たちに、偉大で魅力的な理想のために自らを捧げるという熱意を起こします。個人主義的な私たちの時代において、私たちは自分の霊的な安逸に閉じこもって自己中心になり、宗教的実践を個人的なこととしてのみ理解するという大きな危険の中にいます。このように長い間恐ろしい危機が続くと、私たちは自分が聖にして母なる教会に属しており、キリストの神秘体全員への責任があるのだということを忘れてしまうという危険があります。MIは私たちに、主の偉大なる新しい掟「主が愛されたように私たちの隣人を愛せよ」を深く理解させてくれます。これはすなわち、永遠の破滅の淵へ向かって走っている霊魂たちの救いのために私たちができるだけの努力をすることです。教会の中で誰かがまことの価値に立ち戻り、最も小さな小教区からバチカンに至るまでのそれぞれの場所で、無原罪の聖母を取り戻し、そして無原罪の聖母と共に全てのカトリックの聖伝を取り戻そうと望むときはいつでも、私たちは幸せであり感謝でいっぱいです。私たちは、霊的な病をもっているかわいそうな霊魂たちに対して、軽蔑をもって「そんな異端者とはかかわりたくない」と言うのではなく、その人を、無原罪の聖母を通じて私たちの主の不変の真理へ連れ戻すために私たちができうることをしたいと思うのです。

3)MIは私たちにカトリック信者としての真のアイデンティティを取り戻させ、またそれとともに、地上で天主の国を広げるため努力するイエズス・キリストの兵士になるという、ここ地上での自分たちの役割を深く理解させてくれます。この生涯の任務を達成するため、私たちは堅振の秘蹟を受けたのです。無原罪の聖母の騎士会は、祈りや実践において他の運動や団体と並ぶようなものというよりは、私たちの生活に対する新しい法のように本質的なものなのです。その新しい法とは、つまり、何をするにしても、敵を改宗させることによって攻撃し、イエズスの聖心の国を広げる聖母の御手の道具、聖母の軍団の騎士として、それをするのだということです。この法が私たちの生活全般にわたって浸透するならば、私たちは空しいもので自分の時間を浪費せず、むしろ私たちが地上にいる短い期間を、最大限の最も偉大な行い、永遠の行い、霊魂の救いに満ちたものにするでしょう。

4)別の魅力的な側面:この運動は、無原罪の聖母への奉仕において、最も現代的な手段を使うことに熱心です。現代人をして、マスメディアへの新しいカトリック的なアプローチを取らせるのです。マスメディアは、強力な最悪の誘惑の手段として、大抵が闇の力によって悪用されています。とにかく若者が電子機器の中毒になるように、MIはこの中毒を、無原罪の聖母と霊魂の救いのための奉仕へと変えるのです。この側面によって、この運動が私たちの時代の状況やニーズに完全に適合することを多くの人々が理解して、彼らが外からMIに加入するようにさせることができるのです。

しかし同時に、この運動は、霊魂を救うための騎士たちの最も重要な武器として、祈りと犠牲の精神に深く根付いているのです。この運動は、非常に多くの霊魂が地獄に落ちており、それは彼らのために祈ったり犠牲をしたりする人がいないため、祈り、犠牲をするように、というファチマの聖母のお求めに完全に適合しています。さらに、聖マキシミリアノの使徒的祈りのための方法は、良き祈りの生活を送ることが困難である私たちの時代に完全に適しています。

5)しかし、最も重要な点は、私たちの生活の中で無原罪の聖母が占める場所にあります。MIは現実的な日々の生活において、聖ベルナルドや多くの聖母信心のあった聖人たちの主張を、特に聖ルイ・マリー・グリニョン・ド・モンフォールのまことの信心を適用しています。彼は、すべてのことを、マリアを通して、マリアとともに、マリアにおいて、マリアのために行うように教えています。MIは、聖母の無原罪の御宿りという偉大なる真理、特にすべての人々のための回心と聖化の恩寵すべての仲介者としての聖母の役割という偉大なる真理を、具体的で寛大な実践へと至らせます。MIは、騎士の個人的な生活の中において無原罪の聖母の重要性を騎士に理解させ、特にいまだに誤謬と罪の中にいる失われた愛する子どもたちを永遠の破滅から救うためにご自分を助けてくれるようにとの聖母のお求めの重要性を騎士に理解させます。ここにおいてカトリック信者は、この世における自分の役割が何であるのか、人間がこの地上でできる最も偉大なわざにおいて自分がいかに重要であるのかを毎日学ぶのです。そのわざとは、永遠の幸せの最上のものを他の人たちに贈ることです。同時に、MIは騎士に必要な謙遜を教えます。騎士一人だけでは何もできませんが、無原罪の聖母の道具としてならば、聖母の忠実な騎士としてならば、なんでもすることができるのです。

6)これらすべての点は、確かにいくつかの国で聖伝に忠実に再創立されたレジオ・マリエにも見られます。しかし、レジオ・マリエはローマの軍団の形式に従って、エリート兵士たちの運動として作られたもので、そのメンバーには本質的に非常に多くのことが要求されます。ところが反対に、無原罪の聖母の騎士会はあらゆる人、たとえもっとも怠惰なひとでさえ加入でき、騎士になるのにほとんど何も要求しません。MIは、すべての人を聖母の足元に投げ出すための大衆運動であり、各人が聖母に少なくとも小指一本を捧げるように強いるのです。その後聖母はその人の手とその人自身をお取りになって運動を導かれます。フィリピンのレジオ・マリエが見いだしたのは、MIが、レジオ・マリエ会員が毎週訪問する多くの人々を、彼らを聖母の騎士にすることによって、聖母により近く結びつける特別な手段となることでした。

7)この運動は、多くの大衆のために設立されたとはいえ、救いのわざのために私たちが協力するあらゆる可能性を内包しています。この運動は、個人として無原罪の聖母に奉仕したいと思う人々(MI 1)を招いていますが、より良くより広い使徒的結果に到達するためのグループやサークル、団体での共通使徒職(MI 2)も想定しています。最後にまた、霊的なエリートに加わって無原罪の聖母に完全に自分を明け渡して英雄的に一生を奉献する最も熱心なメンバー(MI 3)をも招いています。

このような運動はこれまで世界で創立されたことはありませんでしたが、その聖なる創立者の普遍性を伝えています。完全に観想的かつ同時に活動的であり、個人個人の努力を尊重しかつ大衆を集め、最も高い知的な活動(無原罪の聖母のアカデミー)の概念も、最も実践的な実現も包み込み、二千年の聖伝とともに永遠に変わることのないカトリック信仰を守るとともに、最も現代的な技術と現代の発明を利用するのです。

聖ピオ十世会総長は提案した議論に賛成し、ポーランドにおいて伝統を厳守するMIを創立することを認めてくださいました。2000年5月6日、マリア様の月の初土曜日に、約50人のカトリック信者が最初に無原罪の聖母の騎士になりました。彼らは、聖マキシミリアノ自身によって書かれ、署名された「ディプロミク(ちいさな学位証)」の写しを受けました。この創立の実りはすぐにやって来ました。騎士たちの中の寛大さ、規則的な祈りの生活、使徒的な精神が増え、特に書物による使徒職(冊子、書籍、パンフレット、ちらし)が著しく増え、それによってポーランドでカトリック聖伝が知られるようになりました。第二次世界大戦前に聖マキシミリアノ・コルベとその仲間の騎士たちが書いたそのままの文章を出版したため、第二バチカン公会議の精神による教会内の新奇なものと、MIの最初の50年の霊性や理想との間の大きな違い、さらには矛盾さえも、多くの信者が簡単に知ることができるようになりました。

2002年にはモルゴンの聖伝のカプチン会の神父たちがMIに加わりたいと望み、フランスでMIを創立したいと望みました。2004年には最初のアメリカ人司祭たちが、アメリカのいくつかの修道院や聖堂でMIを創立し、2006年にはスイスでも設立されました。しかし最初はすべて、聖マキシミリアノの「ファン」が何か個人的な誓約をしたのであり、この運動は聖伝のカトリックの世界では(ポーランドを除いて)一般的に知られていませんでした。やっと直近の3年間、聖母ご自身がこの小さな軍隊を成長させようと望まれていたように思えました。何も特別な宣伝や告知がなかったにもかかわらずどんどん多くの信者が興味を持ったのは、MIに関するパンフレットや書物の出版と、ポーランドとスイスとアジアでの三つの重要なウェブサイトの設立のおかげでした。3年の間に騎士の数は2013年の約5000人から2016年の1万3000人へと倍以上になりました。現在までさまざまな国でのMIの管理はそれぞれのMIの司祭たちの主導に任されており、司祭たちは長上の許可を得ながら彼ら自身主導によって個人的に「何かをしようと」してきたのです。そこでさまざまな努力を一つにまとめ、MIをカトリック聖伝の小さな軍隊として構成するために、MIの最高権威である聖ピオ十世会総長は、皆さんのしもべを国際コーディネーターに、すなわち聖マキシミリアノの言い方に従えばMIの「指揮官」に任命しました。

この私たちの時代におけるMIの重要性に関する上で述べた七つのポイントについてもう少し長く黙想してくだされば、私たちの夢がなぜファチマ聖母ご出現の100周年に十万人の騎士を聖母の足元に捧げることなのかを皆さんは理解してくださるかもしれません。1917年に巨大な反キリスト教の軍隊(ローマのフリーメーソン、モスクワの共産主義)がこの世に現れたとき、聖母はファチマとMIの創立によってそれに応えられました。2017年に反キリスト教の軍隊が、自分たちが全世界を支配する勝利の象徴として100周年を祝うとき、聖母が再び小さな軍隊、「最後の時代の聖母の使徒たち」(聖グリニョン・ド・モンフォール)、聖母の汚れなき御心に奉献された子どもたち(ファチマ)、聖母の忠実な騎士たち(聖マキシミリアノ・コルベ)によって再びお応えになる、と皆さんはお考えになりませんか?

ですから、皆さん一人一人への謙遜なお願いをもって私の話を終わらせてください。8月14日に私たちは聖マキシミリアノの英雄的な死の75周年をお祝いします。どうかその日までに、カトリック信者を一人見つけて、その人に無原罪の聖母の騎士会に加入してもらうよう、可能な限りの力を尽くしてくださいませんか?!

2016年5月31日、「元后なる聖マリア」の祝日に
私の司祭としての祝福をもって
感謝のうちに


英語原文はこちら  Father Director’s letter No#1 MI “Militia Immaculatae – traditional observance”
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Father Director’s letter No#1 MI “Militia Immaculatae – traditional observance”

2017年03月15日 | M.I.(無原罪の聖...
Dear Knights of the Immaculata!

When Saint Maximilian wrote to the knights, they used to name his messages “Our Father Director’s letters”. After his death his successors, the international moderators of the MI, continued long time this tradition for the simple reason that it was easier for the knights to use the term ‘director’ than the somehow complicated canonical term “international moderator”. As the Divine Providence through the voice of the superiors has chosen your servant as international moderator of the “Militia Immaculatae – traditional observance”, allow me to go in the footsteps of the holy founder and send you more or less regularly “Father Director’s letter”. As the knights in those times recognized Saint Maximilian both as their father and guide, so today I ask humbly your prayers, that I would become a faithful echo of him, so that today, when we lack terribly true fathers and guides, he may be again and even more “our beloved Father director”.

In this first letter I wish to inform you about the origins of the Militia Immaculatae in its traditional observance and to give you a brief historical account from its beginnings until our times.

It was in our first year of the seminary, in 1981, when the leaders of the traditional Catholic Youth Movement in Germany (KJB) issued a bulletin consecrated to the life and the apostolic work of Saint Maximilian Kolbe. We Seminarians were fascinated to discover this Saint of our times, who was so absolutely traditional in this deep faith and apostolic zeal but at the same time working with contemporary modern technical means. A Saint who fascinates young people even our times.

This question about the conversion of young people came up again, when since 1986 we were appointed to Africa. Inspired by the message of the apparitions of Our Lady in Fatima (the three volumes of Frere. Michel of the Holy Trinity) and the biography of Saint Maximilian Kolbe (written by Maria Winowska), Fr. Loic Duverger then founded in 1988 a movement for girls, the “Compagnie de l’Immaculee”. As the MI counts three groups, the girls were divided in “children, servants, and apostles of the Immaculata”, each of them would realize more generously the requests of the Immaculate Heart in Fatima. Each of them would become more generous in striving for the conversion of other girls. The results were overwhelming: After 5 years of existence, groups of the “CI” were founded in various regions of the capital of Gabon to convert the children in the neighborhood, many “apostles” were engaged as catechists for 1500 children in our Mission Saint Pius X. During the jubilee of the 75 anniversary of Fatima the CI played many times the theater about the apparitions and attracted hundreds of new people to the Church. But the most marvelous fruit was the inner change of many young girls who lived an authentic inner life and showed sometimes heroic courage to defend the faith within the pagan milieu or even family. Some of them brought their parents, brothers and sisters, to conversion. Amongst those who died an early death due to the various tropic diseases, we could observe a rare degree of virtue and even holiness. Such incredible surprises confirmed us in the conviction about the outstanding power of the Immaculata in our times, the exceptional importance of Fatima, and the necessity of doing all our apostolic work only with HER and under HER command.

But it was only in 1994, when surprisingly appointed to begin the work of Catholic Tradition in Poland, that we discovered really, who was Saint Maximilian Kolbe and his Militia. The reading of his letters and conferences in the maternal language made us discover a universal genius, both contemplative and most active, a theologian of the deepest mysteries of Mary and a master of organization who used the modern technical means and inventions to make Our Queen known and loved by millions of people. This always mortally sick little monk founded one of the most important Marian movements in the world, the third after the “Legion of Mary”, and the “Blue Army of Our Lady of Fatima”, opened with no material means a convent called “City of the Immaculata” who within 15 years became the largest in the world since the medieval times with almost 1000 inhabitants. Not enough to enkindle the flame of love towards Mary in his fatherland, he set out for the Mission in far Asia with the desire to bring to her footsteps “a billion souls”. Finally, after a heroic life his heroic death in the hungerbunker in Auschwitz dying for a co-prisoner, a father of a family.

When 1998 we settled in Warsaw to open the first priory, it was obvious, that we payed frequent visits to the nearby Niepokalanów, the City of the Immaculata. It was, as if the Saint himself would meet us, when we contemplated the remnants of this gigantic apostolate (museum, original chapel and the rooms where the Saint lived, the cemetery with his heroic companions etc.). It was a unique experience to have long conversations with the elder brothers who knew him personally. However, we had to discover the other side of the MI: the place was full of charismatic movements, the bookstore packed with very liberal and modernist books, we were often witness of liturgical ceremonies and meetings as a gathering of the masses to excite empty emotions similar to those you can find in any open-air rock concert. In 1997 were also published the new statutes of the MI very different from those before. One of the bestsellers was a book of the general moderator of the Militia, Fr. Simbula, who criticized strongly the holy founder for this narrowness and ‘being stuck in the opinions of his times’. When asking the elder brothers who knew the Saint about these changes, we heard often saying him sadly: “now all is changed”. The ‘knight of the Immaculata’ became a pious bulletin full of modern allusions, and empty of the original tone.

At the same time we were approached by some of our young faithful who asked, whether we could not restart the Militia Immaculatae exactly as Saint Maximilian founded it. As Catholic Poland since the twenties was deeply influenced by the MI, the re-founding of it exactly in the same spirit in which the Holy Founder established it …

This request obliged to analyze, whether this idea would make sense, as we had in the Catholic Tradition already quite a number other Marian movements. To found just yet another one, could divide the number and strength of the existing. So little prayer crusade was organized, that the Immaculata would show us her will.

At this moment we discovered a yet deeper aspect of the Militia and its holy founder and we realized that this movement is unique in the world and perfectly appropriate for our times for the following reasons:

1/ As the name indicates, Militia Immaculatae reminds the Militant Church, the true Catholic Church on earth in its permanent fight against the devil, sin and error. Since 50 years these essential catholic themes had been removed from the minds of the faithful who are taught to strive for universal peace and mutual respect of all religions. What is worse: since the same time the everlasting and most important realities about heaven, hell, purgatory, death, judgement, fight against the devil and conversion from error to the only catholic truth … had been widely abandoned and replaced by the desire of unifying the world in a mutual understanding and peace. The masonic new world order has become the ideal of many Catholics.

Against this modernist plague the MI appears as a remedy against the pacifism of our times and becomes a strong reminder of the only true perspective: we are on earth to fight for the salvation of souls. It emphasizes of the everlasting values and the right use of our short time on earth. It is in its definition anti-ecumenical calling of the conversion of all dissidents, false religions to the only true Church.

2/ This idea of spiritual fight so needed in our times provokes the enthusiasm of generous souls, especially the youth, to give herself up for a great and fascinating ideal. In our individualistic times, we are in great danger to close up ourselves in our own spiritual comfort and become self-centered and to understand religious practice only as private affair. After such a long period of terrible crisis we risk to forget, that we belong to Holy Mother Church and responsible for all members of the Mystical Body of Christ. The MI makes us deeply understand the great NEW commandment of Our Lord: “to love our neighbor, as he has loved him”, that is to do what we can to strive for the salvation of souls running towards the abyss of eternal damnation. We will be happy and thankful, whenever somebody in the Church returns to the true values and wish to bring HER and with HER the whole Catholic Tradition back in each place, from the smallest parish until the Vatican. We will not point to the poor spiritually sick souls with despise saying ‘with such a heretic I don’t want to have anything to do’, but we want to do what we can to bring him back to the unchangeable truth of Our Lord through the Immaculata.

3/ The MI gives us back our true identity as Catholics together with the deeper understanding of our role here on earth, to become a soldiers of Jesus Christ striving for the extension of the Kingdom of God on earth. To accomplish this life task, we have received the sacrament of Confirmation. The Militia Immaculatae is not so much another movement and associations amongst many with its prayers and practices, but it is essential like a NEW LAW for our life, that says: whatever you do, you do it as instrument in Our Lady’s hands, as knight in her army to attack the enemy by converting him, and so to extend the kingdom of the Sacred Heart of Jesus. If this law penetrates our whole life, we will not any more waste our time with nothing, but fill our short period on earth with a maximum of greatest deeds, eternal deeds, salvation of souls.

4/ Another fascinating aspect: this movement is eager to use the most modern means in the service of the Immaculata. It makes the contemporary man have a new, a Catholic approach to the mass-media, which are mostly abused by the powers of darkness as powerful means of the worst of temptations. As anyway the youth is addicted to their electronic devices, the MI turns this addiction into the service of the Immaculata and the salvation of souls. This aspect can bring many people from outside to join the MI, as they see, that this movement perfectly adapts to the situation and needs of our times.

But in the same time it is deeply grounded in the spirit of prayer and sacrifice as the most important weapons of the knights to save souls. It applies fully the request of Our Lady of Fatima to pray and do sacrifices, because so many souls go to hell, as there is nobody who prays and does sacrifices for them. Moreover, the methods of Saint Maximilian for the apostolic prayer are perfectly fit for the difficulties of our times to have a good prayer life.

5/ The most important point, however, consists in the place of the Our Lady, the Immaculata in our life. The MI applies in concrete daily life the claims of Saint Bernard and all the Marian saints, especially the true devotion of Saint Louis Mary Grignion who teaches to do all things through Mary, with Mary, in and for Mary. It puts into the concrete and generous practice the great truths of Her Immaculate Conception and especially of her role as Mediatrix of all graces of conversion and sanctification for all people. It makes understand the knight about the importance of the Immaculata in his personal life, and specially HER request to help her to save from eternal damnation her beloved children who are yet lost in error and sin. Here the Catholics learns every day, what is his role in the world and how important he is in the greatest work a man can do here on earth: to give others “all the best” of eternal happiness. In the same time it teaches him the necessary humility: alone he can do nothing, but he can do everything as instrument of the Immaculata, as her faithful knight.

6/ It is true, all these points can be found also in the Legion of Mary which already was re-established in its fidelity to Tradition in several countries. But the Legion of Mary is built according to the pattern of the Roman Legion, a movement of elite soldiers, what essentially demands very much from its members. On the contrary, the Militia Immaculatae goes to everybody, even to the laziest, and demands almost nothing to become a knight. It is movement of Masses to throw everybody at the footsteps of Our Lady, forcing him to give HER at least one little finger – she would manage it afterwards to take his hand and his full self. The Philippine Legion of Mary discovered in the MI an extraordinary means to engage the many people visited weekly by the legionaries to bind them closer to Our Lady by becoming Her knight.

7/ Even founded for the large Masses, the movement contains all possibilities of our collaboration in the work of salvation: it invites those who want to serve the Immaculata individually (MI 1), but also foresees the common apostolate in groups, circles, associations to reach a better and wider apostolic result (MI 2). And finally it invites the most fervent members to join the spiritual elite tending to total surrender and heroic life consecration to HER (MI 3).

Never such a movement has yet been established in the world, and it carries the universality of its Holy Founder: at the same time totally contemplative and active, respecting each individual effort and gathering Masses, englobing the idea of highest intellectual work (Academies of the Immaculata) and the most practical realizations, the everlasting unchanging catholic faith with 2000 years of Tradition with the most modern skill and inventions of our times.

The General superior agreed with the proposed arguments and allowed the foundation of the MI traditional observance in Poland. On May 6, 2000, the first Saturday of the month of Mary, around 50 Catholic faithful were the first to become Knights of the Immaculata. They received the “dyplomik” (little diploma), a copy of that written and signed by St. Maximilian himself. The fruits of this foundation were immediate: increase of generosity amongst the knights, regular prayer life, and apostolic spirit, expressed specially in an intensive increase of the written apostolate (bulletins, books, brochures, flyers) which made the Catholic Tradition known in Poland. Thanks to the publishing of the very texts of Saint Maximilian Kolbe and his fellow knights before the 2nd World War, many faithful could easily make the immense difference and even contradiction between the novelties within the Church in the spirit of Vatican II and the spirituality and ideals of the first 50 years of the MI.

In 2002 the traditional Capuchin Fathers of Morgon desired to join the MI and to found it in France. In 2004 the first American priests founded the MI in some priories and chapels of the US, followed in 2006, in Switzerland. But all the beginning were somehow the individual engagements of ‘fans’ of Saint Maximilian and the movement generally was unknown in the traditional world (except Poland). Only the last 3 years it seemed that Our Lady herself wanted her little army grow. Without any special advertisement or publicity more and more faithful got interested, thanks to the publication of the brochures and books about the MI and establishment of 3 important websites, in Poland, in Switzerland, and in Asia. Within 3 years, the number of the knights more than doubled from around 5,000 in 2013 to around 13,000 in 2016. Until now the care of the MI in the different countries was left to the initiative of the MI priests who individually by their proper initiative tried “to do something” with the permission of their superiors. In order to unite the different efforts and to constitute the MI as a little army of the Catholic Tradition, the General Superior – the supreme authority of the MI – delegated your servant to be the international coordinator or in the terms of Saint Maximilian ‘the director’ of the MI.

If you meditate a bit longer about the seven points above concerning the importance of the MI in our specific times, you may understand, why it is our dream to present 100,000 knights to the footsteps of Our Lady for Her 100 anniversary of Her apparitions in Fatima. When in 1917 gigantic antichristian armies emerged in the world (Freemasonry in Rome, Communism in Moscow), Our Lady answered with Fatima and the foundation of the MI. In 2017 the antichristian armies celebrate their anniversary as a symbol of triumph that they dominate the whole world, don’t you think, that Our Lady wishes again to answer with her little army, “HER apostles of the latter times” (Saint Grignion de Montfort), her children consecrated to HER Immaculate Heart (Fatima), HER faithful Knights (Saint Maximilian Kolbe)?

Let me therefore finish with on humble request to each one of you: on the 14 August we celebrate the 75 anniversary of the heroic death of Saint Maximilian. Would you please make all possible efforts, to find ONE Catholic and to convince him to join the Militia Immaculatae until that date?!

On the feast of the “MARY THE QUEEN”, the 31 May 2016
With my priestly blessings
Yours thankfully
Fr. Karl Stehlin
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聖伝のM.I.(Militia Immaculatae 無原罪の聖母の騎士会)についてのまとめ

2016年09月23日 | M.I.(無原罪の聖...
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖伝のM.I.(Militia Immaculatae 無原罪の聖母の騎士会)に、ご招待いたします。

ファチマの太陽の奇跡が起きた三日後の1917年10月16日、長上の許可を得たマキシミリアノ修道士は、6名の同志たちとともに、ローマのセラフィクム神学大学(教皇庁立聖ボナヴェントゥーラ大学)のチャペルの聖母祭壇の前にひざまずき、無原罪聖母の騎士会(Militia Immaculatae)を創立しました。
1922年5月に、聖コルベは最初の会報「無原罪の聖母の騎士(Rycerz Niepokalanej)」を5,000部発行しました。この会報は15年後には約100万部になりました。1930年5月には、日本で「無原罪の聖母の園」を発足させました。

聖マキシミリアノ・コルベの精神に完全に忠実に従った、聖なる創立者の作ったままの会則(これは1974年に公式のMIによって捨てられてしまった)によって「無原罪の聖母の騎士会」(M.I.)が2000年5月6日に、ワルシャワの聖ピオ十世会修道院において再び始められ、この聖伝のM.I.はフランス、米国、スイス、ドイツ、オーストリア、アジアで公式に設立されました。2014年8月、M.I.の国際事務局はポーランドからスイスの聖ピオ十世会本部へ移されました。そのとき、騎士の数は約7,000人でした。2015年5月6日、日本の秋田で15周年を祝うかのように入会式がありました。2015年5月時点で、私たちの軍隊はすでに約1万人を数えます。

このように M.I.が非常に急速に拡大したことがおわかりいただけるでしょう。これは、まぎれもなく無原罪の聖母ご自身から来る特別な聖寵です。無原罪の聖母は、自分たちの霊魂を救いたいと強く望んでいるカトリック信者、あらゆる方向から攻撃を受けていると自覚しているカトリック信者に対して大変慈悲深くしてくださるのです。無原罪の聖母は次のことを私たちにはっきりと示してくださいます。すなわち、私たちがこの世で最も危険なこの時代に、妥協せずに信仰を保ちたい、聖人になりたいと望んでいるのなら、私たちは無原罪の聖母の忠実な子どもに、奴隷に、騎士になり、無原罪の聖母の英雄的徳、最も深い謙遜、汚れなき純粋さ、完全な従順をまねなければならない、ということです。
(無原罪の聖母の騎士たちへの手紙 第6号 カール・シュテーリン(聖ピオ十世会アジア管区長)より抜粋)

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



”M.I.(無原罪の聖母の騎士会)”の新しいカテゴリができました。


アジアの無原罪の聖母の騎士たちへの手紙 第6号

アジアの無原罪の聖母の騎士たちへの手紙 第7号― 聖母の汚れなき御手の道具となった約束を忘れないために、ファティマ2017に向けて

アジアの無原罪の聖母の騎士たちへの手紙 第8号 ファチマ100周年に向けて

アジアの無原罪の聖母の騎士たちへの手紙 第9号 ”騎士",その4つの重要な意味

アジアの無原罪の聖母の騎士たちへの手紙 第10号― 無原罪の御宿りといつくしみ(あわれみ)の年

アジアの無原罪の聖母の騎士たちへの手紙 第11号― 2016年にまことの「ファチマの使徒」になるための決心

アジアの無原罪の聖母の騎士たちへの手紙 第12号― 無原罪の聖母、あなたは最も謙遜なお方です!

アジアの無原罪の聖母の騎士たちへの手紙 第13号 ― ファチマでの聖母の最初の御出現

アジアの無原罪の聖母の騎士たちへの手紙 第14号― 無原罪の聖母の騎士会祈りの十字軍の創設,私たちの中の無原罪の聖母
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アジアの無原罪の聖母の騎士への手紙 第14号 ― 無原罪の聖母の騎士会祈りの十字軍の創設,私たちの中の無原罪の聖母

2016年09月23日 | M.I.(無原罪の聖...
アジアの無原罪の聖母の騎士への手紙第14号

*** 無原罪の聖母の騎士会祈りの十字軍の創設 ***


無原罪の聖母の騎士の皆さん。

聖マキシミリアノ・コルベは、「Rycerz Niepokalanej―無原罪の聖母の騎士」誌の最初の号から、仲間の騎士の意向のために毎日祈るよう、すべての騎士を招きました。聖コルベはまた、自分たちの祈りの依頼を本部に送るよう、騎士たちを招きました。その依頼の中で最も重要なものは、聖コルベが「聖母の騎士」誌に掲載することさえしました。

この使徒職の効果は予想外のものでした。聖コルベが受け取った、依頼が奇跡的にかなえられたという感謝の手紙の数はどんどん増えてゆきました。そこで聖コルベは、雑誌の中で、「無原罪の聖母への感謝」というタイトルの特別ページを捧げることを決めました。このページには、非常に小さな文字で次のような百から二百の証言がありました。「ありがとう、親愛なる聖母の騎士の皆さん、死にかけていた息子が、祈りを依頼してちょうど九日後に奇跡的に回復しました」「ありがとうございます、無原罪の聖母、あなたの騎士たちの祈りによって、私は自分の召命を見いだしました」「〇〇地区の騎士の皆さんに特別に感謝します。閉校されそうだったカトリックの学校が救われました。そうなっていたら、私たちの多くの子どもたちにとって損害でした」。

六カ月後、編集者(聖コルベ)はもう一ページ増やさざるを得ませんでした。「聖母の騎士」誌の部数が八十万部という記録に到達したときには、いただいた恩寵が多く、月に七百から八百の感謝の言葉を掲載するために四ページを捧げました。これはつまり、騎士たちの祈りのお蔭で実現した天からの明らかな介入に感謝するため、毎年一万人ほどの人々が手紙を編集部へ送っていたということです。しかし、恩寵を受けた人たちのうちで、感謝の手紙を書かなかった人たちは、さらにどれほど多かったことでしょうか?

これは、私たちにとって重要な教訓です。聖母は常に私たちの祈りを聞いておられます(その祈りが良い意向で良く唱えられたらの話です。この面についての公教要理を読んでください!)。ですから、私たちが真面目に絶え間なく聖母に願うなら、聖母は奇跡的な答えさえもお使いになって、私たちを驚かせてくださるでしょう。私たちの祈りに対して、そんな予期せぬ実があるのはなぜでしょうか? それは、聖母が寛大な霊魂を愛しておられるからです。私たちが聖母のお求めに対して寛大であればあるほど、聖母も私たちに対して寛大になられるでしょう。聖母の寛大さが、私たちの寛大さよりも数千倍、百万倍なのは間違いありません。

しかし、それ以外にも、もう一つのさらに深い理由があります。それは、私たちに聖母の騎士会の本質を理解させてくれるということです。つまり、騎士会が、聖母の道具を通して、聖母の道具によって実現する、この世における無原罪の聖母ご自身の勝利の存在であるということです。無原罪の聖母の騎士会(M.I.)は、すべての恩寵の仲介者のご活躍の体現なのです。聖母は、ご自分の失われた子どもたちを正しい道に連れていき、回心と聖化という恩寵を彼らの霊魂に注ぎ込もうと望んでおられます。これが、聖母が天主なる御子から、御子が十字架上で亡くなろうとされているときに受けられた使命です。しかし、これらの霊魂にあふれるほどの恩寵を流し込むことのできる道具、経路がなければ、聖母がその使命を果たされることは不可能なのです。

皆さんは聖母の騎士会への入会によって、そのような道具である聖母の騎士になっています! しかし、皆さんが聖母の道具であるのは、皆さんが「罪びとや離教者、異端者、そして特にフリーメーソンらの回心のために努力する」というまさにその目標をもって行動するときだけです。それはこんな場合です。皆さんが彼らの救いのために何かをするとき、不思議のメダイを配るとき、良き模範を示すとき、特にその意向で自分の苦しみと犠牲を捧げるとき、しかし何よりも祈るときです。

聖マキシミリアノ・コルベは何回も強く述べています。MIの普遍的かつ第一の手段は祈り、具体的には使徒的な祈りです。「無原罪の聖母の騎士の目標は、世界中の霊魂の回心、無原罪の聖母の勝利です。しかし、外的な活動や事業をすべてもってしても、それが天主の恩寵によるみわざによらなければ、一人の霊魂さえも回心させることはできません」。

自由な人間の中の使徒職は、意志を、おそらく悪しきものであろうその意志を、善きものに向けることから成っています。そうすれば、天主から遠く離れていたり、天主の敵でさえあったりする人が、天主の方へ引き寄せられ、天主の友となるかもしれません。そして天主は、この任務を、無原罪の聖母を通して騎士たちに割り当てられます。彼らが霊魂の救済へ向かい、キリストの王国の宣教者となるように。人々が地獄の火から引き離されるかどうか、どれほど多くの霊魂がそうなるかどうかは、騎士たちにかかっているのです。しかしながら、これがすべての恩寵のうちで最も大きなものです。どのようにすれば、騎士は天からこの恩寵を引き出せるのでしょうか? それは、主に祈りによってです。

「祈りと苦しみによって、私たちは多くの恩寵を獲得することができます。外的な活動は、恩寵を得るための道を準備しますが、それ自体によって恩寵を提供することはできません。天主のご意志に確実に対応する一つの祈りがあります。すなわち、自分自身の聖化と隣人の聖化の依頼です。無原罪の聖母がすべての霊魂を勝ち取られるように私たちが祈るとき、それは確実に天主のご意志です。この意向のために私たちは、聖母が世を征服されるよう、私たちのすべての努力、困難、苦しみを無原罪の聖母に捧げることができるのです。

ナポレオンはかつて、戦いに勝つのに何が必要とされるのかと尋ねられました。彼は答えました。「三つのものが必要だ。お金、お金、そしてさらなるお金だ」。

霊魂を聖化するという問題のときも、まさにそうです。必要なのは祈り、祈り、そしてさらなる祈りです。祈りが不足していれば、霊魂は弱まります。人は恩寵の宝蔵から恩寵を引き出せば引き出すほど、それを宝蔵から得ることになるでしょう。祈りは最も誤解されやすいものですが、霊魂たちに平安を回復させ、幸せにし、天主の愛に近づけるための最も強力な手段です。祈りは世を新たにします。祈りは、すべての霊魂の再生と命に必要不可欠です。修道院の壁の外に一度も出たことがないにもかかわらず、祈りによって、[リジューの]聖テレジアはすべての宣教者の保護聖人になりました。

私たちもまたそのように祈ることを望みます。よく祈り、多く祈り、口によって祈り、心によって祈ることです。そうするならば私たちは、無原罪の聖母がどれほど強く私たちの霊魂を支配されるのか、私たちがどれほどもっと完全に聖母のものになるのか、どれほど罪が消えて過ちが少なくなるのか、どれほど優しく力強く天主の近くに引き寄せられているのかを、個人的に経験することになるでしょう。外的な活動はよいものですが、それが二次的なものであることは言うまでもなく、内的な生活に比べれば、黙想や祈りの生活に比べれば、天主への個人的な愛の生活に比べれば、二次的なもの以下に過ぎないのです。私たちが天主の愛でもっともっと燃える限り、この愛で他人の心を燃え立たせることができるでしょう。天主のために霊魂を勝ち取ることは、大変困難な仕事です。人間的な方法ではしばしば失敗するものです。実りのない会話や議論、砂の中にしたたり落ちてなくなってしまう事業、無駄に印刷される出版物、といったものです。しかし、祈りは決して失望させません!

「働いているとき心から出てくる小さなため息は、最高の祈りです。なぜなら、それは私たちを何度も何度も、更に強く無原罪の聖母と一致させ、聖母の道具である私たちと聖母の御手をつなぎ、それによって、私たちは多くの恩寵を受けるからです。生活の中で何か悪い状況になるとき、騎士が敵に敗れたり勝利を得られなかったりしたとき、まず自問すべきです。私たちは十分に祈っただろうか? 私たちの一人一人が、本当にこの問題について祈っただろうか? 私たちは、事業のすべての効果を外的な行動の中に見るという行動主義の危険から自らを守らなければなりません。こういう外的な行動だけに力を費やす騎士は、自らを実りのないものにしたり、自らを大きな欺きに陥らせたりするという大変危険な状態にいるのです」

伝統を厳守する無原罪の聖母の騎士会を再創設したあと、ようやく2012年になって、私はこの祈りの使徒職を始めたいというポーランドの何人かの騎士の依頼に答えて、事務局が提示した意向でロザリオ一連とメモラーレを唱えることに賛同した騎士たちの特別なリストをつくりました。一カ月後には、この使徒職に五十人の騎士を獲得し、一年後にはほぼ百人がいました。その理由は?

三カ月後には、上で述べたのと同じような「感謝」のページを私たちの情報誌に載せなければなりませんでした。その効果は、まったく圧倒的でした。無原罪の聖母が、愛する騎士たちに恩寵を注ぎ込もうと、まさにこの使徒職を待っておられたとは、私はまったく想像することもできませんでした。

そのため、私はアジアで同じような使徒職を始めようと決めました。

これは、皆さんが書き送ることのできる特別なメールアドレスです。

prayer@militia-immaculatae.asia

1)無原罪の聖母の騎士―祈りの十字軍(M.I.—PRAYER CRUSADE)に参加したいということを書いてください。そのために、毎日少なくともロザリオ一連とM.I.の祈り「ああ原罪なくして宿り給いし聖マリアよ、御身に依り頼み奉るわれらのために祈り給え。また御身に依り頼まざるすべての人々、特にフリーメーソン会員のため、また御身に委ねられ奉りしすべての人々のために祈り給え」と、聖ベルナルドのメモラーレ「慈悲深き童貞マリア、御保護によりすがりて御助けを求め、あえて御取次ぎを願える者、一人として棄てられしこと、いにしえより今に至るまで、世に聞こえざるを思い給え。ああ童貞中の童貞なる御母、我これによりて頼もしく思いて走せ来り、罪人の身をもって御前になげき奉る。ああ御言葉の御母、わが祈りを軽んじ給わず、御憐れみをたれてこれを聴き給え。これを聴き容れ給え。アーメン。」を唱えるという約束をしてください。

注意 どのような理由であれ、皆さんがこのロザリオ一連を祈らないとしても(忘れたり、時間がなかったり、病気になったりで)、皆さんは罪を犯すのではありません。しかし、その場合でも翌日にロザリオ二連を唱えるのは良いことです。この一連の意向は、下記の祈りの依頼全部のために祈ることです。

a)無原罪の聖母の騎士―祈りの十字軍に参加する騎士からの祈りの依頼

b)M.I.のモデレーターからの祈りの依頼

2)皆さんが望むだけいくつでも、望むだけ何回でも、祈りの依頼を送ってください! 事務局は、無原罪の聖母の騎士―祈りの十字軍に参加している騎士全員に、この依頼をそのまま転送します(例外として、皆さんの依頼が教会の掟に適切でない場合は、修正するよう送り返されます)。

注意 皆さんの祈りの依頼が、仲間の騎士たちに具体的に送られるか、または一般的な内容(例えば、「自分の家族たちの回心のために、二十人の騎士たちが祈りを依頼している」など)で送られるか、については、事務局が決定します。自分の依頼が公表されることを望まない場合は、メールの中でそれを述べてください。

3)祈りがかなえられたなら、感謝の言葉を送ってくださるよう強くお勧めします。

無原罪の聖母の騎士―祈りの十字軍に、皆さん全員をお招きします。想像してみてください。一万人の騎士たちが毎日ロザリオ一連を祈り、そうすると、二千環のロザリオが騎士たちの意向で毎日唱えられることになるのです。それに加えて、皆さんは聖母の特別な使徒職を毎日行ったことになるのです。

いつも覚えていてください。自分のために真剣に祈れば、恩寵を受けるでしょう。

他人のために祈れば、二倍の恩寵を受けるでしょう。

カール・シュテーリン神父

2016年4月5日、マニラにて。

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ファチマ2017に向けて(第6部)

*** 1917年5月13日(2)―私たちの中の無原罪の聖母 ***


「おおマリアよ、あなたはすべて美しい」と、私たちの典礼は歌います。これはまた、ヤシンタが天からの幻視を黙想したあと、繰り返していたものでもありました。「おお何と美しいお方、おお何と美しいお方」。そのお姿があまりに美しいため、ご出現についてのあらゆる絵、あらゆる像にヤシンタはがっかりします。「実際の聖母がどんな方なのか、描写するのは不可能です。この地上の言葉で聖母のことを説明することさえできません」。

疑いなく、ファチマの子どもたちは、(ルルドの聖ベルナデッタ、パリの聖カタリナ・ラブレ、ラ・サレットのメラニーとマクシマンと同じように)無原罪の童貞、天と地の元后の栄光のお姿を、聖母が天に上げられたその御体を見るという特権を持っていました。子どもたちが見たマリアは、聖母の天主なる御子のそばに今も、そして永遠に座しておられるお姿です!

聖母を黙想すること、ルチアが詳しく述べたような様々な幻視者にご出現になった御姿の聖母を黙想することは価値あることです。そうすれば、私たちが、以前にも増して聖母に近づき、聖母をお愛しするのに助けとなるでしょう。

1)以前のルルドと同じように、ファチマでも、聖母は非常に若いお姿に見え、ルチアは15歳くらいだった、と言いました。
この驚くべき若さは、聖母の神秘のうち一つの面を思い出させます。私たちが子どもや若い人を見るなら、しばしば彼らの両親のことを考えます。マリア様の若さは、マリア様が「天の御父の永遠の娘」であることを、私たちに思い出させてくれます。この面は、私たちに、聖母の源、聖母の創造、聖母の誕生の日、そして何より聖母の御宿り、聖母の無原罪の御宿りについて考えさせます。聖母は、「いとも聖なる三位一体のふところ」から出た天主の光の最深部から来られるのであり、聖母は常に新たに天主の力と光と美を受けておられるのです。

「若いこと」は純粋さと美を意味しています―無原罪の聖母です! マリア様は常に霊魂と心と体が新たになっておられるのです。なぜなら、天主の光と命で満ちておられるからです。私たちはたびたび、この永遠の美に、天主の御業の傑作に、天主ご自身の永遠の光を映す生ける鏡、生ける像に目を上げるべきです。

2)再びルルドと同じように、(ファチマでも、)聖母は背丈が非常に小さく、5フィート(約150センチ)もないように見えた、とルチアは言いました。
この小さいこともまた意味を持っており、私たちに何かを語っています。聖務日課において、私たちは聖母について歌います。「私が小さな子どもだったとき、いと高き御者をお喜ばせし、私の胎内で人となった天主を生んだ」。天主の御前では、聖母は小さきものであるのを望んでおられ、できれば完全に消え去るほど小さきものであることを望んでおられます。これが聖母の謙遜であり、天主はこの謙遜に非常に引きつけられて、聖母を天主の御母となるよう選ばれたのです。

「大きく」なりたがり、目立ちたがり、有名になりたがり、高い評価を受けたがり、感謝されたがり、「消え去る」ことなど耐えられない私たちとは、何という違いでしょうか! しかし、聖性への道は、ここにあります。小さきものとなり、天主に栄光が与えられるよう、消え去ってしまいたいと望むことなのです。

3)もう一つ細かい点があります:聖母は三人の子どもたちに非常に接近なさいました。
足台として、聖母は高さ1メートルほどの小さなトキワガシの木をお選びになりました。「私たちは大変近くにいたため、自分たちが聖母の周りにある光、というか聖母から出てくる光の中にいて、聖母からおおよそ1メートル半ほどのところにいることに気づきました」。聖母は常に子どもたちを見ておられます。「聖母のお声は優しくて心地よいものでした」。本当に愛していれば、私たちはその愛する人たちに近づきたいと思いませんか? そして、その人たちを愛すれば愛するほど、私たちはその人たちにもっと近づきたいものです! また、私たちが愛する人たちのところにいるとき、親しみと愛の雰囲気を乱すようなことを話したり、そのような振る舞いをしたりしないよう気を付けます。まさにこのことがファチマで起こりました。しかし注意してください! 私たちに近づいてくるのは聖母であり、聖母は私たちを大変大変愛しておられるのです。聖母がどれほど私たちに、私たちの心に、私たちの人生の各瞬間に近づきたいと望んでおられるのかを理解し、認識することは、私たちの人生にとって最も大きな利益の一つとなるでしょう。

4)「ERA DE LUZ(光の時代)」
しかし、聖母のお姿を描写した最も重要な言葉は、「太陽より明るい光」です。ルチアはしばしば、「私たちは、白い服を着て、太陽よりも光輝く婦人を見ました」と証言しており、その光は非常にきらきら光っていたため、彼らはまぶしく思いました。「婦人は光の真ん中に来ました。今度も、私たちは(まぶしくて)目が見えませんでした。ときどき私は目を手でこすらなければなりませんでした」。

要するに、それは栄光の輝きに満ちた聖母の復活した御体だったのであり、そのお姿でコヴァ・ダ・イリヤにご出現になったのです。この聖母の御体は、ご変容のときのイエズスの御体と似ています。「顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」(マテオ17章2節)。黙示録の最初に出てくる栄光のキリストの素晴らしい示現において、イエズスは「顔は照りわたる太陽のようであった人の子のような者として」(黙示録1章16節)ご出現になります。主はダマスコへの道でサウロを地面に倒れさせられたとき、それも同じ光の中で起こりました。「真昼ごろ、私と一緒にいた人々の回りに、太陽よりも輝かしい光が天から下るのが見えました」(使徒行録26章13節)。この光は大変強かったため、サウロは視力を失いました。

太陽は、イエズスとマリアの復活の御体が発する天主の御光の象徴にしかすぎません。こういうわけで、童貞聖マリアは、雅歌の中に出てくる花嫁のように「月のように美しく、太陽のように輝き」(雅歌6章10節)、また黙示録の婦人のように「太陽に包まれた婦人」(黙示録12章1節)として、ファチマでご出現になったのです。コヴァ・ダ・イリヤでのご出現によって、童貞聖マリアは、「正義の太陽」の御母として、被昇天以来、天主の御光をまとっておられると私たちに確信させてくださいます。被造物でありかつ全く人間のままでありながら、聖母は、いわば(天主のおられる)至高天にまで入られたのです。

5)栄光の体:
「光ですべてが輝いていた」にもかかわらず、それでも出現されたのは、本当の人間のように見え、言いようのない美しさでした。聖母の御体は、さまざまな「その言いようのない光でできた波」のようでした。聖母に祈るとき、私たちは時折、まず聖母に対する深い霊的な眼差しを持ち、そしてこの子どもたちが聖母をどのように見たのかを想像しようとすべきです。「無限の清らかさと繊細な輪郭を持つそのお顔は、太陽の光輪の中で輝いています。御目は黒く、御手は胸の上で合わせられています。右手から美しいロザリオが提げられていて、真珠のように輝く白い玉があり、一番下には銀の小さな十字架がついていて、きらめいていました。足は、低木の緑の枝の上の小さなアーミンの雲の上にやさしくおかれていました。衣服は雪のように白く、真っすぐ足まであります。(まるでマントのような)白いベールは、縁が細密に編まれた金で飾られ、頭、肩を覆い、衣と同じほど低くまで垂れて、御体全部を包んでいます」。

教会は、無原罪の御宿りの祝日にこう歌います。「霊魂は天主において喜べ。天主は私に救いの衣を着せ、宝石を纏った花嫁のように、私に正義の衣を着けさせ給うた」(入祭文)。聖母はこういう風にファチマでご出現にならなかったでしょうか? 並外れた特権の象徴である光の衣を着ておられ、この特権によって、他のだれよりも救いの恩寵を獲得なさるのです。なぜなら、御子の将来の功徳によって、聖母はあらゆる罪のけがれから守られたからです。白く輝くマントをまとわれて、金色のまばゆい光で輝く聖母は、より大いなる輝きの内に再び見いだされ、回復された原初の正義の象徴です。「主は私を正義の外套で覆われた」(イザヤ61章10節)。

さらに、シスター・ルチアは、聖母が「どのように宝石で飾られておられたか」を見たかも説明します。ルチアは特に、その宝石の中の一つを「光の球」のようだと語りますが、それ以上の説明はありません。ファチマの聖母は外見から、雅歌の花嫁や黙示録の女性と正確に理解され、同一視されることを望んでおられます。このご出現は、他のどの宗教とも違う、マリア様に関するカトリックの教理を目に見えるよう表現したものです。すなわちマリア様は無原罪の御宿りであり(雅歌の花嫁)、身体と霊魂とともに天に上げられた童貞であり(光)、すべての恩寵の仲介者であり、天と地の元后であって、龍の頭を砕くお方(黙示録の婦人)だということです。



まとめ:
ファチマは単に「メッセージ」であるだけでなく、私たちを圧倒する現実です。天の元后のここ地上でのご臨在です。そして聖母は私たちに近づき、私たちが聖母に近づくことを望まれます。私たちが心の中で聖母のことを思えば思うほど、光と威厳にあふれた、しかし謙遜と優雅にあふれたご出現における聖母のことを考えれば考えるほど、聖母が私たちを守り導き、誤謬と罪の危険から守ることがおできになります。ファチマの子どもたちの目で聖母を見つめるとき、私たちにできるのは、その示現に魅了され、非常に多くの光によって「盲目」になることだけです! ですから、この光の中で生きるなら、私たちは、この世の輝きで私たちを試みようとする偽りの光を簡単に見つけることができますから、もうそれに心を動かされることはないのです。

聖伝のM.I.(Militia Immaculatae 無原罪の聖母の騎士会)についてのまとめ
コメント

アジアの無原罪の聖母の騎士への手紙 第13号 ― ファチマでの聖母の最初の御出現

2016年09月21日 | M.I.(無原罪の聖...
アジアの無原罪の聖母の騎士への手紙第13号

*** ファチマでの聖母の最初の御出現 ***


親愛なる無原罪の聖母の騎士の皆さん!

私たちの主イエズス・キリストの御受難と御復活という偉大なる神秘が近づいているため、1917年5月13日のファチマでの聖母の最初の御出現のときの出来事、およびそれについての解説を、皆さんにお送りさせてください。これによって、無原罪の聖母のみ言葉とお望みを皆さんが黙想する助けとなるかもしれません。私はまた、皆さんにもっともっとファチマの使徒たるよう心に留めておいてくださることを、お願いしたいのです。ですから、皆さんが他の人々を聖母に引き寄せることができるよう、皆さんはファチマの出来事とその奥深い意味を、どちらもよく知らなければなりません。

この聖なる御受難節のための私の司祭としての祝福とともに。
カール・シュテーリン神父

1917年5月13日
ファチマでの聖母の最初の御出現

私たちが聖母の現存そのものに入り、また聖母が愛しておられる子供である私たちを救うためになさった称讃すべき御介入について黙想する前に、私たちはまずなによりも、私たちが表現できないほど聖にして純粋で繊細である霊的な世界に入っていくということを知らなければなりません。

聖マクシミリアノ・コルベは、これを最も深遠な言葉でこう表現しました。「あなたが無原罪の聖母について読む準備をするとき、あなたはこれからいかなるけがれも全くない最も純粋な存在との接触に入ってゆくのだということを忘れてはなりません。また、あなたが読む言葉は聖母がどんな方なのかを表現することはできないということを考えておいてください。なぜなら、その言葉は人間の言葉であって、すべてをこの世的な方法で提示する人間の概念から引き出されたものである一方、無原罪の聖母は完全に天主に属する存在であって、そのため、あなたの周りのあらゆるものよりも無限に高いところにおられるからです。

…また、次のことを率直に認識してください。聖母の助けなしに一人だけでは、あなたは聖母について何も知ることができず、その結果、あなたはまことに聖母を愛することができないということ、さらに愛によってあなたの心を聖母に引き寄せるためには、聖母御自身がもっともっとあなたを照らしてくださらなければならないということを。」

これが聖母について私たちが読むどんなことにでも当てはまるのであるならば、私たちが聖母御自身にお会いし、聖母の御言葉や御振る舞いを理解し始めるとき、それはどれほどもっと当てはまるでしょうか。

第二の準備の黙想は次の通りです。私たちが御出現という出来事について読む際には、あたかもファチマが天主の御母と三人の子供たちの出会いでしかないかのように、つまりある歴史上の事実を思い起こすためだけにこれを読んではいけません。幻視者たちは常に、聖母の伝達手段となって聖母のメッセージを伝えるために、聖母によって選ばれた道具にすぎません。聖母はルチア、フランシスコ、ヤシンタに直接話されますが、聖母は彼らをすべての人間の代表として、すべての人に間接的に話しておられるのです。私たちも、1917年のコヴァ・ダ・イリアに自分自身がいたかのように、聖母のお言葉を私たちの心に直接受け入れなくてはなりません。

ここに、シスター・ルチアによって書かれた最初の御出現の記録があります。

<コヴァ・ダ・イリアの坂の上で、私はヤシンタとフランシスコと遊んでいました。
突然、私たちは稲光の閃光のようなものを見ました。
「家に帰った方がいいわ」と、私はいとこたちに言いました。
「稲光よ、雷と嵐かもしれない。」
「ええ、確かに。」と二人は言いました。
私たちは坂を下り始め、道の方へ羊を急いで行かせました。私たちは坂の中程、そこに立っていた大きなトキワガシの木とほとんど同じくらいの高さにまで行ったとき、また別の稲光の閃光を見ました。私たちがもう数歩だけ進むや否や、目の前の小さなトキワガシの木の上に全身純白の服をお召しになった御婦人を見ました。御婦人は太陽よりさらに光り輝き、きらきらと輝く水でいっぱいになったクリスタルグラスが燃えるような太陽の光線で貫かれている時よりも、もっと明るく強烈な光を放っていらっしゃいました。

私たちはそのお姿に大変驚いて、その前に止まりました。私たちは御婦人から数歩しか離れていない所にいたので、御婦人の周りを取り巻いているというか、むしろ御夫人から出ている光に覆われていました。
その時、聖母マリア様は私たちにお話しになりました。

-「恐れることはありません。私はあなたたちを傷付けたりはしません。」
「あなた様はどこからいらっしゃったのですか?」
-「私は天国からの者です。」
「あなた様は私に何をお望みなのですか?」
-「私がここに来たのは、あなたたちがこれから6ヶ月間の間、毎月13日のこの同じ時刻にここに来るように頼むためです。私が誰か、そして何を望んでいるかは後で教えましょう。その後、私は7回目にここに戻ってきます。」
「私も天国へ行くでしょうか。」
-「はい、あなたは天国へ行くでしょう。」
「ヤシンタも行くでしょうか?」
-「はい、彼女も行くでしょう。」
「フランシスコも?」
-「はい、彼も行くでしょう。でも、彼はロザリオをたくさん唱えねばなりません。」

その時、私は最近亡くなった2人の女の子について尋ねることを忘れませんでした。彼女たちは私の友人で、私の姉と共に織物を学ぶために私の家にきていました。
「マリア・ダス・ネヴェスは天国にいますか?」
-「はい、彼女は天国にいますよ。」
「では、アメリアは?」
-「彼女は世の終わりまで煉獄にいることになります。」
-「天主をお怒りさせる罪に対する償いの行為として、そして、罪人の改心を願うために、あなた自身を捧げて、また天主があなたにお送りになる全ての苦しみに耐える覚悟がありますか?」
「はい、その覚悟があります。」
-「それなら、あなたは非常に苦しまなければならないことになるでしょう。しかし、天主の聖寵があなたの慰めになるでしょう。」

聖母は最後に「天主の聖寵があなたの慰めになるでしょう」とお話しなさいつつ、初めて両手を広げられました。するとマリア様の両手から非常に強い光線が出て私たちに届き、その光線は私たちの心臓と魂の最も奥深い所までも貫き、私たちはどんなにすばらしい鏡に自分自身を映すよりももっとはっきりと、その光そのものであった天主の中に自分たちの姿を見ることができました。そして同時に私たちに与えられた深い内的な衝動に突き動かされて私たちはひざまずき、心の中でこう繰り返しました。
「おお、至聖なる三位一体よ、我、御身を崇め奉る。我が天主、我が天主よ、我は至誠なる御聖体の秘跡にまします御身を愛し奉る。」

数秒の後、マリア様はお話しになりました。
-「世界の平和のため、そして戦争が終わるように毎日ロザリオを唱えてください。」
「戦争は長く続くでしょうか、それともすぐに終わるでしょうか?」
-「私が何を望むかまだあなたに話していないので、まだそれを教えることはできません。」

そして、天の御母は穏やかに東の空へ昇って行き、広い空に見えなくなってしまわれました。聖母を囲んでいた光が天空で聖母の前に道を開けたようでした、そして、この現象から、私たちは時々それを「天が開いているのを見た」と言ったものでした。>

では、聖母マリア様がおっしゃったお言葉について考えてみましょう。

1/「恐れることはありません。私はあなたたちを傷付けたりはしません。」
このマリア様の最初のお言葉、これは最初におっしゃったお言葉ですので非常に重要です。

-「恐れることはありません。私はあなたたちを傷付けたりはしません。」
ルチアはこう説明しています。「私たちが感じた恐れはマリア様に対する恐れでは全くなく、むしろ、雷を伴った嵐が来ることに対する恐れだったのです。マリア様の御出現によって私たちは恐れも恐怖も感じず、ただ驚きだけを感じました。」

ファチマにおける聖母の御出現から100年後の今、私たちはこれらの言葉のより深い解釈を見いだすことができます。暗闇の多数の力が、私たちを傷付けています。このことに対して、最初の主要な宣言がなされたのです。「私は、あなたたちの母親として、 あなたたちを傷付けたりはしません。」つまり、私と一緒ならば何も怖がることはありません、私の言うことを聞き、私に従い、私を受け入れるならば、あなたたちを本当に傷付けるようなことは許しません、という宣言です。


2/「私は天国からの者です。」
確かに聖霊に霊感を受けて、ルチアは、聖母に話しかけ、質問をする勇気を見出しました。
-「あなた様はどこからいらっしゃったのですか?」
その時、聖母は彼女に最初のお返事をされましたが、その質問に正確にはお答えになりませんでした。
「私は天国から参りました」とおっしゃったなら、それは確かに真実だったでしょう。
しかし、聖母は文字通り、こうおっしゃいました、
-「私は天国のものです。」(1922年にはじめてルチア自身が書いた記録には、「私自身、天国のものです!」と書かれています。)
この言葉だけで、私たちは聖母の神秘の全てを見るのです。

私たちが、諸天使と聖人たちと共に、「おお、インマクラータよ、あなたはどなたですか?」と尋ねると、
聖母はお答えになります。「私は、天国のものです!」
「天国の」という言葉、それは主祷文の「天にまします我らの父よ」という言葉をこだましています。そして、聖母はその全ての存在と人格をもって、この天国のものとして存在しておられるのです。

さて、すべての人間は、人間を両親にもつ子供ですから、第一に「地上のもの」です。それに対して、聖母マリアは人間としてはただ一人、一般の原則から除外されたお方であり、『地上のもの』である前に、第一に、主に『天国のもの』なのです。
何故でしょうか?

なぜなら、「神はそのみ業を始められたときから、そのみ業より早く、私を有しておられた。永遠から、初めから、地が始まる前から、私は立てられた。淵もまだなく…私は生まれた。…私は建築技師のように、彼のそばにいた。」(格言の書8章23-30節)聖母の『存在』の理由は、天主の神秘の中に埋もれています。すなわち、聖母の地上でのご生活は、聖母「自身、天国のもの」であることが目に見えるかたちで表現されているにすぎません。聖母の本質、聖母の存在の基礎、聖母の最も奥深いところは、被造物ではなく創造主にあり、時間ではなく永遠にあり、一言で言えば天国にあるのです。聖母は天主以外のものの為に生きることは決してなさいません。聖母は御自身の全存在において、ただ天主御父の娘、天主御子の母、聖霊の神殿、聖霊の浄配だけでいらっしゃるのです。

私は、…です。
聖母は、「私は…から来ました」とはおっしゃらず、「私は…です」とおっしゃいました。
それは、聖母御自身の自己定義といえるでしょう。私の存在、私の本性、私『自身』は「天国のもの」です。
さて、天国は永遠の命であり、聖なるものであり、闇の無い光であり、永遠の平和であり、完全の充満であり、無垢で汚れなきすべてです!

したがって、この自分自身に関する御説明は、ベルナデッタの質問に対する聖母のお答えを誠実にこだましています。
「あなたはどなたですか?」
「私は、無原罪の御宿りです。」

さらにもう一つ、考慮すべき重要な詳細があります。
正しくは、天主のみが「私は有る(存在する)!」とおっしゃることができます。実際に天主のみが存在されるからです。もし、被造物が「私は有る(存在する)」と言うならば、それは「私は持っている」という意味です。誰も「私は命である、私だけが命を持つ」とか、「私が真実である」とか言うことはありえませんが、「私は真実を話す」ということはできます。「私は有る(存在する)」というのは、私が、自分の持っているものの本源であるという意味です。

従って、私たちの天主だけが、天主であるが故に、こうおっしゃる事ができます。「私は復活であり命である。アブラハムより前に、私は有る。」
では、聖母マリアがルルドで「私は無原罪の御宿りです」とおっしゃり、またファチマで「私は天国のものです」とおっしゃったのは、誇張だったり、はたまた不正確なものだったりするのではないでしょうか? もし聖母が創造されたご自身の存在のことを話されたとすれば、それは厳密には「無」に等しいものですから、その通りということになるでしょう。ですが、聖母がそのようにご自身を示されるのを天主が許されるという事は、つまり聖母の中に、本質的に神的ななにものかが本当にあるということです。

どういう事でしょうか?
聖母は聖寵に満ち、あらゆる罪から解き放たれたことにより、 「御父と御子の賜物」、すなわち天主から私たちの心の中に送られる聖霊を十分に、完全に受け取られました。聖霊は聖母の内に完全に住まわれ、奥深く入り込まれるので、聖母の内には「彼女自身」が何も残らず、すべて天主で満たされます。聖母のお考えも、お言葉も、行動も、その他あらゆる事が、聖母御自身のものというより聖霊のお考え、お言葉、行動なのです。従って、
聖母は「私は…です」とおっしゃる事ができるのです。

聖マキシミリアノ・コルベはこの称賛すべき神秘についてこう説明しています。
「彼女は言い表せないほど崇高な方法で聖霊と結びついています。何故なら彼女は聖霊の浄配だからです。この結びつきという言葉は、被造物について使われるどんな場合よりも比類なく、より完全な意味において聖母に当てはまります。これはどんな結びつきなのでしょうか? それはとりわけ内的なもので、聖母の存在自体と聖霊の存在との結合です。聖母の存在の最初の瞬間から聖霊が聖母の内に住み、聖母の内に生き、それは永遠に続きます。この聖母の内における聖霊の存在は何から成っているのでしょうか? 聖霊御自身は聖母の内の愛であり、御父と御子の愛であり、天主が御自身を愛される愛であり、至聖三位一体全体の愛であり、実りの多い愛であり、御宿りです。被造物中では、愛の結合がこれに最も似ています。聖書はこのことを確認します。『二人は一体になる。』(創世記2章24節)また、イエズスも再びおっしゃいます。『もう二人ではなく一体である。』(マテオ19章6節)聖霊は、比類なきほど、より厳密な、より内的な、より本質的な仕方でインマクラータの霊魂の内に、聖母の存在そのものの内に住んでおられ、聖母の存在の最初の瞬間からその御生涯を通じて、すなわち永遠に、聖母の実りを豊かなものとされるのです。」


3/唯一必要なこと、つまり永遠に続くこと
ファチマでの御出現の一番最初からの重要なテーマは何でしょうか?
天使の出現によって、天主の絶対的優越性、至聖三位一体の栄光、天主への改心、そして、天主に反抗する侮辱への償いが示されました。 聖母は、後に子供たちを天主の威厳と無限の愛の深みに沈める天主の光を伝達されることによって、この同じテーマを子供たちの心に植え付けられました。また、聖母がお話しになった最初のお言葉は、死後の現実のみ、とりわけまず天国と煉獄の現実に関わるものでした。三回目の御出現の際、聖母は印象的な方法で地獄の現実をお見せになりました。

また聖霊の霊感によって、ルチアは大事な質問をします。
「では、私、私は天国へ行くでしょうか?」
ほとんど誰もがこの世と自分の短いこの世での人生へ完全に向いている物質的で無神論的なこの時代において、これはいかに良い訓戒でしょうか。今日、信者であっても、たとえ熱心なカトリック信者であっても、この質問はどれほど人々の心の中に浮かぶでしょうか。ルチアのこの小さな質問は、全ての聖人たちの生活の要旨であるだけでなく、私たちの救霊の業の目的でもあります。つまり、私たちの生活の中のすべてのことは、UNUM NECESSARIUM(唯一必要なこと)、すなわち「私は天国へ行くでしょうか?」を中心に展開すべきであるということです。私は天国へ行くために今日何をしたでしょうか? おお、聖母マリアよ、あなたはこの質問にお答えになるためにいらっしゃいました。もしファチマの子供たちが聖母にお答えしたように、私が聖母の望みにお答えするならば、聖母は「はい」とおっしゃるでしょう。

「ではヤシンタは? フランシスコは? マリア・ダス・ネヴェスは? アメリアは?」
この二番目の質問は、私たちにとって、(自身の救霊の)次に何が本当に大切であるかを示しています。ここに、隣人愛という私たちの主の新しい律法の全てが含まれています。常に私たちの周りの世界の物質的幸福ばかりについて心配し、「隣人愛」を、 物質的なものやこの世の楽しみを隣人たちに与えることにほぼ限定してしまっている私たちにとって、これもまた、いかに良い訓戒でしょうか!

私たちは次の質問をもってこの世界を見ることを学ぶ必要があります。「自分の子供たち、友人たち、隣人たち、親戚、私の敵、同胞、教会の神秘体の他のメンバーについてはどうでしょうか? 彼らの人生の問題は何でしょうか? 彼らは天国へ行くでしょうか?」そしてまたその答えは聖母マリアの手の中にあります。人々が彼らの救霊のために必要な手段を使い、特に聖母が「多くのロザリオを祈る必要があります」とおっしゃったロザリオを祈るならば、再び聖母のお答えは「はい」でしょう。「はい、彼らは天国に行くでしょう。」

私たちは、私たちの天の御母のこの慰めの御約束から深い感銘を受けるべきです。この御約束は、聖母に従い、幼い3人の子供たちの足跡を辿ることを望む全ての人々になされたものです。 またルチアの友達、マリア・ダス・ネヴェスが既に天国にいるということを聖母がルチアに明かされたのも、注目すべきことです。通常このようなことは、列聖された聖人を除いては、ほとんど明らかにされることがないからです。聖母は、御自分が天国からいらっしゃった唯一の大きな目的は、この唯一必要なことを私たちに思い出させるため、また、私たちが天国に至るのを助けるためであることを、このようなやり方で確認してくださいます。

/煉獄
「アメリアは?」「彼女は世の終わりまで煉獄にいることになります!」
次に聖母の要理は、「天国へ行く」のはそんなに簡単なことではない、という重要な点に進みます。聖性への道は骨の折れる努力であり、英雄的な寛大さが必要です。「天国へ行く」こと、つまり、救霊、聖性、「天主御自身である光」の内におけるあふれんばかりの幸福は、確かに聖母の御出現の主要な目的です。しかし、人が暗闇(罪)に汚染されている限り、純粋の光である天主御自身と一体になる ことはできず、完全に「心の清い人」のみが「天主を見る」という事を知っておくのも重要です。

もし天主が憐れみによって煉獄(死後の清めの可能性)を創造なさらなかったならば、ほとんどの人は死の瞬間に完全に心の清い状態にはないので、ほとんど誰も天国へ行くことはできなかったことでしょう。しかしこの清めの場所は、とても大きな苦しみを通して霊魂を浄化する霊的な炎です。聖母はルチアの友人であるアメリアの例をとって、こう言って、その苦しみがいかに激しいものかをお示しになりました。「…世の終わりまで!」これを私たちの言葉に翻訳すると、「全ての起こり得る事柄が終わるまでの完全な苦しみ」となります。教父たちによると、煉獄にいる1分は、この世での100年の最も辛い苦しみに勝る苦しみだ、ということですから、「…世の終わりまで」という言葉が何を意味するのか、私たちも想像することができるでしょう。

この世の問題や苦しみに捕われ、この世での短い月日と周囲の人々の小さな群れに閉じ込められている私たちにとっては、これもいかに良い訓戒でしょうか。この世での生活は、小さな丘のようです。その丘の先には、広大な谷があり、そこではあらゆる燃え盛る炎が数え切れない霊魂で満ちているのです。 その中に私たちは自分たちの先祖たち、親戚たち、友人たちがいるのを見ます…そして、彼らは皆、天国と、そして、この小さな丘である地上へと目を向けています。人々が自分自身のことのみにかかずらわず、自分たちの犠牲で隣人たちをこの苦しみから救うための小さな愛さえ持っているならば、その隣人たちは大きな慰めを得るでしょうし、またしばしばその苦しみからの完全な救済を受ける事もできるのです。

聖母はその御出現のはじめから、この何十億もの霊魂に満たされている煉獄という巨大な世界について、私たちに思い起こさせようとされます。その第一の理由は、(彼らは全て聖母の最愛の子供たちですから)彼らを助けることを私たちに奨励するため、そして第二の理由は、私たちが「天国へ行くこと」を気にせずに生活するならば、地上でのしばしの時の後に私たち自身が行って長い長い時間を過ごすかもしれない場所がまさにここである、ということを私たちに思い起こさせるためです。煉獄について考えることは、私たちが馬鹿げた小さな世界から離れ、むしろ『もうひとつの世界』、すなわち本質的な真実の世界を私たちが見て、そのために真理の内に生きる助けになります。

/最後に
聖母は教会についての重要な訓戒をお与えになりました。聖母は戦闘の教会の子供たちと共にあるために地上に御出現になります。しかし、戦闘の教会の存在理由は、ただ「天国に」ある勝利の教会のための準備をすることだけです。この間にある苦しみの教会は、哀れな罪人たちに死後の永遠の至福の為の準備をする機会を与えるためにあるのです。そして、これら三つは一つの教会であり、彼らを結びつけるものは、天主の御憐れみと、天主の恩寵の道具である聖母マリアです。


4/天国への道、つまり祈りと犠牲
目的を定めた後、聖母は、そのために使うべき手段についてお話しになります。
-「私はこの世ではあなたの幸福を約束しません、来世でのみ約束します。」インマクラータは、聖ベルナデッタにルルドでそうおっしゃっていました。

同様にファチマでは、3人の子供たちに天国を約束された後、すぐ聖母は彼らに『苦しみ』を告げられます。これが、光に導く十字架の王道です。1916年、天使は既に子供たちに対して、絶え間なく天主に犠牲を捧げるように招いていました。「そして特に天主があなたたちに送る苦しみを受け入れ、従順を持って忍耐しなさい。」

今日、聖母は子供たちに、ずっと多くのことを行うようにおっしゃいます。「天主をお怒りさせる罪に対する償いの行為として、そして、罪人の改心を願うために、あなた自身を捧げて、また天主があなたにお送りになる全ての苦しみに耐える覚悟がありますか?」再び聖母は天主の栄光と霊魂の救いのための犠牲、十字架と苦しみがもつ計り知れない価値を強調なさいます。

きたるべき永遠のものを子供たちに示した後、聖母は、このことを他の人たちに伝えたり、司祭のところに言ってミサを挙げるように頼んだり、祈りの会を開いたり、その他使徒的な行動を取るように子供たちに指示されるだろう、と私たちは想像するかもしれません。

いいえ、そうではありません。第一の手段は祈りでさえなく、むしろ償いと罪人の改心のために自ら進んで捧げる苦しみなのです!
また最も重要なことは、これらの苦しみが超自然の実りをもたらすためには、それを進んで受け入れなければならないということです。その苦しみは、天主と隣人とに対する愛の行為であって、その意味で、最も大事な掟を完全に満たすことになるのです。そして、苦しみを進んで受け入れれば受け入れるほど、それはさらなる愛の行為となり、より多くの実りがもたらされるのです。

従って、聖母は子供たちに自由な同意をお求めになります。そして子供たちの同意を得た後、聖母はこう宣言なさいます。「それなら、あなたは非常に苦しまなければならないことになるでしょう。」

このことによって、聖母は、「世間話」や取るに足りない内容の話は決してされないことがわかります。聖母とのお話しは完全な約束を伴うものです。もし、あなたが「はい」と答えるなら、それは引き続いて起こる結果の全てを含んだ「はい」なのです。

/犠牲と苦しみの他にも、聖母はそれぞれの御出現でもう一つの手段についてもお話しになります。それは祈りです! 

まずなによりも第一に毎日のロザリオです。天使は既に子供たちに祈りの生活の準備をさせ、小さな射祷を唱えるよう求めていましたが、それに「天使の祈り」を付け加えることもできるでしょう。私たちは、ファチマでのそれぞれの御出現が、規則的な、そして深い霊的生活を私たちに教える方法でもあることがわかるでしょう。もしファチマの子供たちが祈りという手段を使ったのにならって私たちもその祈りを実践するならば、彼らの心にもたらされたのと同じ効果が私たちの心のうちにももたらされることでしょう。

/そのような祈りと犠牲の生活のうちで最も重要なことは、天主御自身から与えられた最高の手段です。
-「天主の聖寵が、あなたの慰めになるでしょう。」
天国へ至る道において、私たちは確かに不断の努力をする必要があります。しかし、私たちの聖性が私たちの努力に依存していると考えることは大きな誤りです。私たちの努力は確かに重要なものですが、それは私たちの心を正しい向きに向け、天主御自身が私たちの生活の中に介入され、私たちに天主の光と生命、すなわち私たちの霊魂を聖化する天主の恩寵をお与えいただけるような状態にする、という意義しかないのです。この真理の証拠は下記の通りです。


5/ 天主の御出現
『聖母は、最後に「天主の聖寵があなたの慰めになるでしょう」とお話しなさいつつ、初めて両手を広げられました。するとマリア様の両手から非常に強い光線が出て私たちに届き、その光線は私たちの心臓と最も奥深い所までも貫き、私たちはどんなにすばらしい鏡に自分自身を映すよりももっとはっきりと、その光そのものであった天主の中に自分たちの姿を見ることができました。』

これは神秘的、驚異的な御出現です。それは、霊魂たちを天主の光に導くため、はかり知れない恩寵によって聖母に与えられた普遍的な仲介権を、驚くべき方法で示しているからです。子供たちはこの驚異的な出来事を三度にわたって黙想しますが、これは、1830年、リュー・ド・バックでの不思議のメダイに関する『光線をまとった聖母』の御出現を思い起こさせます。

そして、ルチアは重要なことを述べます。
「私たちはひざまずきました。それは私たちに、天主に関するとても偉大な知識の霊感を受けましたが、それについて話すことは容易ではありません。」ファチマでの出来事の最も偉大な専門家たちによると、これらすべての御出現の中核はインマクラータを通しての3回の「天主の光」の伝達にあります。

ここでは全てのことが重要です。そして、
/まず、まさに聖母のそのしぐさです。聖母は「はじめて両手を広げられました。するとマリア様の両手から非常に強い光線が出て私たちに届き…」
私たちは、子供たちがしたようにひざまずき、幼子イエズスを抱き、その御生涯の間懸命に働かれた聖母の御手を見なければなりません。しかし、この聖母の御手は象徴をはるかに超えるものです。私たちは持っているものを他の人に伝えるために、手を必要とします。私が両手を開くということは、私の心を開くということ、私自身を開くということ、私の霊魂の最も奥深いところを開くということです。

聖母は『聖寵の充満』ですから、聖母がその両手を開くと聖寵の大海は聖母の側に立つ全ての霊魂の中に溢れます。ルチアは、その恩寵(その光)は聖母の両手から流れ出でたと強調しています。その意味は、天国の扉が聖母によって開かれるだけでなく、聖母御自身が天国の扉であるという事です。

/聖母は何をお与えになるでしょう? 「非常に強い光線…どんなにすばらしい鏡に自分自身を映すよりももっとはっきりと、その光そのものであった天主の中に自分たちの姿を見る…」この『光』が現実、唯一真実である現実です。残りは影と虚無だけです。ここで、子供たちは最高の神秘的な恩寵の一つである、『天主御自身の御出現』を受けました。

子供たちがその時、本当に何を見て、何を受け取ったかについては、私たちはその効果によってのみ定義することができます。最初の反応は射祷を祈ることでした。「おお、至聖なる三位一体よ、我、御身を崇め奉る!」 

この光の中に、彼らは 至聖三位一体の言い表すことのできない神秘である三つの位格において、唯一真の天主を見ました。「我が天主、我が天主よ、我は至聖なる御聖体の秘跡にまします御身を愛し奉る!」この光の中に、彼らは世界における天主の現存、御聖体における現存に至る救霊の神秘の概要を見たに違いありません。

フランシスコは後でこう言います。「私は天使と会うことが好きでした。それよりも聖母とお会いするのが好きでした。私が一番好きだったのは、聖母から放たれる、私たちの心臓を貫く光の中で主を見ることでした。私は天主をとても愛しています!」

/この御出現の効果で、子供たちは三人とも愛と自己放棄の充満に満たされました。
彼ら自身が話しているように、御出現の時だけでなく、死を迎えるまでこの世での生活の間中そうでした。三人の人生全ては 途切れることのない天主への愛の爆発、天主の現存の下での生活、天主の御意志と良い喜びを求めること以外のなにものでもなかったと言うことができるでしょう。

これらの御出現は非常に多くの恩寵をもたらしたので、天主がふつう御自分の親友たち(聖人たち)に長い時間をかけてお与えになる恩寵を、天主は数分の内に子供たちにお与えになったことになります。天主の光を経験して、彼らは天主以外に他の何も望みませんでした。そしてこの恩寵こそ、天主がファチマの神秘に近づく人々全てに与えることを望んでおられるものなのです!

/天主の悲しみ。この光の御出現の中でフランシスコは、特に一つの現実に感銘を受けました。
「天主は、数多くの罪のため、とても悲しまれていました! 私たちはもう二度とどんな罪も決して犯してはいけません。」

実際、彼はその短い生涯を特にこの神秘の黙想に捧げることになります。「私は数多くの罪のためにとても悲しまれる天主のことを考えています! 私が天主をお慰めすることができさえすれば!」ーちょうど、1916年に神秘的な御聖体を彼らに与えられた時の天使の望みに対する答えです。「天主をお慰めしなさい!」

/アロンソ神父様は、私たちがファチマのメッセージの外面的様相と内面的様相を区別する必要があると説明しています。外的な目に見えるものは、より護教的なものであって、それは世界にファチマの真実性を証明し、聖母マリアのお望みを実現するために働く信者を動かすものです。しかし、ファチマの本質的なメッセージ、「本質的な現実」は内的にのみ与えられています。それは、「神的な世界、天主と天主の御意志の具体的経験、聖母マリアによって世界にもたらされた天主の伝達そのもの」です。私たちは、聖母を通した3回の『天主の光の伝達』をすべて黙想した後、ファチマのこの本質的な面に戻ることにしましょう。

最初の御出現の概略
もし、あなたがこの1917年5月13日の出来事について度々黙想するならば、人間とその地上での生活こそが最も重要でしばしば唯一価値あることとしてそれに焦点をあわせるような現代の世俗的、宗教的雰囲気から、ファチマがどれほど離れているか、ますます理解されることでしょう。たとえ私たちが天主を信じているとしても、天主は重要な要因ではなく、ちょうど、安心のための機関のようなもので、私たちの実際の生活とは関係しない、遠く離れた存在としてしまっているのです。まるで天主が存在しないかのように人々が生活したり振舞ったりするので私たちは反キリストの時代にいる、と聖ピオ十世が宣言されたのですから、私たちは、天主が全てである、というファチマの最初のメッセージの重要性をよりよく理解することができます。天主は光であり、天主以外には闇しかありません。このようにファチマは、私たちを幻想から目覚めさせ、この世の支配者の嘘に反対させるのです。重要なことは永遠の事柄です。それは、天国か地獄か、永遠への道である祈り、犠牲、罪との戦い、霊魂の救い、そして、なによりも天主の光、すなわち天主の愛という信じがたい幸せなのです!

聖伝のM.I.(Militia Immaculatae 無原罪の聖母の騎士会)についてのまとめ
コメント

M.I.(Militia Immaculatae 無原罪の聖母の騎士会)祈りの十字軍へご参加ください

2016年05月30日 | M.I.(無原罪の聖...
親愛なる無原罪の聖母の騎士の皆さん、

聖マキシミリアノ・コルベは M.I.(Miliria Immaculatae 無原罪聖母の騎士)の普遍・主要な手段は祈りであり、具体的には使徒的な祈りであると何度も力説していました。

従って、私はアジアで同様の使徒職をはじめることを決めました。ここにあなた方のための特別なメールアドレスを載せます。

   prayer@militia-immaculatae.asia

1.まずはじめに、あなたがこのM.I.祈りの十字軍に参加したいと書いてください。
毎日、聖ベルナルドの「聖母の御保護を求むる祈り」(公教会祈祷文 239ページ)と、「ああ原罪なくして宿り賜いし聖マリアよ...」という M.I. の射祷と、少なくとも1連のロザリオを唱えると約束してください。 

このロザリオの祈りを、以下の人達から与えられる全ての意向で捧げてください。
 a)M.I. 祈りの十字軍の騎士たち  
 b)M.I. の代表者

2.あなたの祈りの意向を私に送ってください。これらの祈りの意向・祈りの要請は、M.I. 祈りの十字軍に参加する騎士達に自動的に送られます。
(もし、あなたの祈りの意向が教会法に沿ったものでないならば、意向を変更するようにメールを送り返します。)

3.もし、祈りの意向が叶えられたならば、感謝のメールを送るように強く勧めます。 私は、M.I. 祈りの十字軍に加わるように皆さんをお招きいたします。
(注意:あなたの祈りの意向が公開されることを望まないならば、メールを送る際にその旨を伝えてください。)

いつもこれを忘れないでください、
もし、あなたがあなた自身の為に祈るならば叶えられるでしょう。
あなたがほかの人のためにも祈るなら、2倍の報いを受け取るでしょう。

カール・シュテーリン神父

無原罪の聖母の騎士会の祈りの十字軍(日本語)
http://militia-immaculatae.asia/japanese/info15.php

無原罪の聖母の騎士会(聖伝) アジアのWEBサイト(日本語も対応しています)
http://militia-immaculatae.asia/



Join the M.I. ― PRAYER CRUSADE

Dear Knights of the Immaculata,
Saint Maximilian Kolbe insisted many times: The universal and primary means of the M.I. is prayer, and concretely the apostolic prayer.
Therefore I have decided to start a similar apostolate in Asia. Here is the special email address to which you may write:

   prayer@militia-immaculatae.asia

1/ Please write that you want join the M.I. ― PRAYER CRUSADE. For that you promise to say every day at least one decade of the Rosary with the M.I. prayer "O Mary conceived without sin ...." as well as the Memorare of Saint Bernard ("Remember, o most blessed Virgin Mary...").

The intention of this decade is: to pray for all prayer requests given:
a) by the Knights of the Immaculata who join the M.I. ― PRAYER CRUSADE,
b) by the moderators of the M.I.

2/ Send your prayer requests as much and as often you want! These requests will be automatically forwarded to all Knights who participate in the M.I. ― PRAYER CRUSADE (exception: if your request would not be in concordance with the laws of the Church, it will be sent back to you asking you to modify).

3/ You are strongly encouraged to send a note of thanksgiving if your prayer request was granted. May I invite you all to join the MI PRAYER CRUSADE.

Attention: If you do NOT want your request to be published, please mention that in your email.

Remember always: If you pray for yourself seriously, you will receive.
If you pray for others, you yourself will receive double.

Fr. Karl Stehlin

M.I. ― PRAYER CRUSADE
http://militia-immaculatae.asia/english/info260.php

M.I. ASIA
http://militia-immaculatae.asia/
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アジアの無原罪の聖母の騎士への手紙 第12号 ― 無原罪の聖母、あなたは最も謙遜なお方です!

2016年04月30日 | M.I.(無原罪の聖...
アジアの無原罪の聖母の騎士への手紙第12号

*** 無原罪の聖母、あなたは最も謙遜なお方です! ***


無原罪の聖母の騎士の皆さん!

今年の聖金曜日は3月25日ですから、天主の御摂理は、二つの最も偉大なる信仰の神秘を一つにして黙想することで、私たち自身を聖化する方法に私たちを導きたいと望んでおられます!

(通常は3月25日であるお告げの祝日の)ご托身の神秘を、主のご受難と一つにさせるものは何ですか?

 謙遜です!

両方の神秘において、私たちは屈辱のまったくの頂点を目の当たりにするのです。3月25日(お告げの日)に天主は人となられ、まるでほとんどとるに足りないものになることによって、ご自分を無にされました。天主の御母、天と地の元后は、ご自分を主の最も謙遜な奴隷としかお考えにならないのです。

聖金曜日には、御子と御母はお二人とも、邪悪で、「うじ虫で、人間ではな」く、人間に捨てられたもの、らい病者…のようにみなされるという最大の不名誉のうちに無となられました。

私たちがただしなければならないことは、謙遜において無原罪の聖母に従い、聖母に倣うことだけです。聖母はなぜ、すべての聖人の中で最も偉大な方になられたのでしょうか? それは、聖母の謙遜によってです! 謙遜によって、いとも聖なる童貞マリアは完全にご自分から離れられ、天主のものではないすべてのものをご自分からなくされました。聖母の霊魂は貧しく、自分の「所有する」ものは全く何もありません。金でできた貴いカリスのようです。貴い液体を満たすために、このカリスは空っぽで、ほんのわずかなほこりもないものでなければなりません。貴い液体は、他の何とも混ざることなく、その新鮮さが保たれなければなりません。

マリア様の人生は謙遜の行い、屈辱の連続です。その人生は、最も謙遜な霊魂のまま揺るぎがない状態です。しかし、前提として、聖母の謙遜と、他のすべての人々の謙遜との間に大きな差があることに注意すべきです。人々は第一に、原罪と多くの個人の罪を原因とする、自らのあらゆる悲惨な状態を見ることができます。彼らの霊魂の廃墟と化した宮殿のような屈辱的な光景が、その謙遜の主な原因です。

マリア様の謙遜は罪の意識によるものではなく、それはマリア様がいかなる罪も決して犯したことがないからです。マリア様の謙遜は愛の謙遜、天主の友情を受け入れた友の謙遜であって、マリア様は、この友情が完全に公平で純粋な賜物であり、まったく功徳によらない恩寵であることを知っておられます。ご自分に授けられた賜物の計り知れないほどの偉大さを知っている愛すべき浄配(聖母)は、全くの献身と自己否定の行いで応えられます。

この比類なき謙遜な霊魂は、天主の美しさを非常に喜ばれ、天主の偉大さ、天主の無限の完全さに非常に心を奪われておられるため、その望まれることは、天主が自由にマリア様に与えられるすべてのものについて、ただ天主を讃美することです。天主とは何か、天主がお与えになるのは何かを知れば知るほど、マリア様の謙遜は増していきます。ですから、マリア様はその賛歌「マグニフィカト」で、こう歌われます。「けだし全能にまします御者、われに大事をなし給いたればなり。聖なるかな、その御名」。

従って、マリア様の人生で起こることは、私たちの人生で起こることとは逆です。私たちは自分に徳や才能を見いだせば見いだすほど、そしてそれを伸ばせば伸ばすほど、すべては自分自身の力だと思う危険、自分自身を喜ぶ危険が大きくなります。観客の前で披露すること、他人を自分自身で喜ばせること、注目を集めること、賞賛されること―これらはすべて、私たちの人生に満ちあふれている古典的な高慢の例です。

マリア様は、ご自分の霊魂にある宝を知っておられましたが、そこにそれらの宝を置いたお方を忘れてはおられませんでした。しかし、私たちは、自分の才能や強さ、徳を自分の力だと考えます。賜物の与え主としての天主は、私たちの視界から消えているのです。私たちは、アヴィラの聖テレジアの賢明な言葉を忘れるのです。「謙遜は、天主の賜物を無視することにあるのではなく、その賜物がどこから来たのかを学ぶことにあるのです」。

マリア様の人生における特定の各出来事を考察すれば、私たちもまた、謙遜についてのさまざまな特性と表現を学べます。今特に、マリア様の秘密について黙想しているときに起こってくる問題を自問することは価値があります。すなわち、私たちは、これらの深遠な真理を生きる(実現する)のか? 人生における最高の誤りなき模範として私たちに与えられたマリア様に、私たちはどのようにして倣うのか?

まず(聖母の無原罪の御宿りとご出生の後)、私たちが見るのは、エルザレムの神殿にいる幼い子どもとしてのマリア様です。多くの教父や神学者によれば、聖母は「scientia infusa(天賦的知、すなわち天主によって注ぎ込まれた知)」を受けておられ、その存在のまさに最初の瞬間から、天主によってあらゆる知識を持つという特別な権限を与えられておられました。従ってマリア様は、聖書全体だけでなく、聖書の最も深い意味をも完全に知っておられました。

しかし、何年もの間、マリア様は、人々からその知識を隠しておられただけでなく、神殿の当局者によって育てられ、教育される間、辛抱強く服従されました。神殿の司祭がユダヤ教の決疑論についての授業をしたとき、マリア様は辛抱強く耳を傾けられました。マリア様はまた、律法学士の教えに耳を傾けられましたが、主イエズスは後に彼らを、文字にとらわれて霊を殺すと非難なさるのです。

次に例を示します。「いつ朝の祈りを始めるべきですか? 夜明けの、光が夜の青さに対して目立ち始めるときです。しかし、それはどの程度の青さですか? 山のような青さですか、それとも空のような青さですか? それに、どんな見え方ですか。穏やかですか、それとも鋭い感じですか?」。その教えを受ける生徒は、すべての解釈を知らなければならず、一人の師が一つの方法を教え、別の師が別の方法を教えたことを知らなければなりませんでした!

ですからマリア様は、ご自分が経験することをただ退屈に思ったり、それらに批判的になるあらゆる権利を持っておられました。それでもなお、マリア様は神殿の当局者に服従なさったままでした。謙遜のこの面はdocilitas(従順、服従)です。確かにこの時点で、マリア様は偉大で素晴らしいことを学ばれ、それをさらに大きな愛のために用いられました。その反対のことが私たちに起こります。私たちがいったん神学的知識を得れば、それが誰かによって繰り返されるのを聞いて、私たちはすぐに退屈だと意志表示します。私たちが誰かよりも多くを知っていると思う場合は、自分が優位にあるのを誇りとする感覚が私たちのうちに起こり、私たちは他の人たちに軽蔑を見せようとします。しかし、私たちはそのような状況からも利益を得ることができるのです。なぜなら、知識の10%だけでも私たちにとって新しいものである場合、あるいは私たちが知っている主題の新たな一面を発見した場合、私たちは天主にさらに近づくことができるからです。

また、天主の神秘は無限であり、謙遜な従順(docilitas)の行いに対して、天主はしばしば、何年もの真剣な研究で得ることができる以上のものを与えてくださいます。天主の霊感から、マリア様は貞潔の誓いを立てることによってご自分を天主に奉献なさいました。これは、童貞聖マリアの奉献の祝日として、典礼暦にあります。

神殿の当局者は童貞性に対して非常に否定的な態度をとっており、子のいない女性を天主によって呪われたものと見なしていました。それゆえに彼らは、結婚生活以外の、女性のまともな生き方を知りませんでした。当時、両親が子どもの結婚を決めましたから、女の子が神殿で奉仕するために送られたとき、神殿の当局者は親の責任を引き継ぎました。その時代の女の子は、結婚したいかどうか、また誰と結婚したいかについて尋ねられることはありませんでした。神殿の当局者は、女の子のためにただ夫を選んだだけでした。ですから、彼らはマリア様にそうしました。ダビド家のヨゼフをマリア様のために選んだのです。

マリア様が、ご自分の霊魂の状態について何も理解していなかった人々に対して逆らわないため、いかに多くの謙遜が必要であったのかは簡単に分かります。童貞のままでとどまりたいというご自分の意向に対して、ヨゼフがどのように反応するかという恐れを克服するため、どのくらいの忍耐と信頼が必要だったでしょうか。このような状況では、女の子たちは通常、心では逆らい、天主に不平を言い、天主に対してささやくものでした。

マリア様は謙遜な信頼を保ったままでした。謙遜であることの素晴らしい表現のひとつは、盲目的に神の御摂理を信頼することです。私たちが問題の解決法を見つけられないとき、すべてが失敗や悲惨な状態になろうとしているとき、すべてがもう失われたように思えるとき、資源を使い果たしてしまったとき、そして自分が無力だと体験したとき、混乱や心配をすることなく、詮索もすることなく、すべてを天主にお委ねし、辛抱強く待つべきです。これは謙遜の頂点です。謙遜であって自分の惨めさと無力さを知っている人は、一生懸命に天主のご意志を行おうとしますが、いつでもどこでも、何とかしてすべてを与えてくださる天主からすべてのものが与えられることを期待しています。

最も重要な瞬間であり、謙遜が最大に現れたのは、受胎告知です。その瞬間、すべてはただ謙遜だけしかありませんでした。偉大な天使ガブリエル(その名は「天主の力」を意味します)は、最大限の謙遜をもって少女の前で深くおじぎをしました。それから、マリア様の謙遜が示されました。そしてついに、謙遜の頂点、人間の肉・本性への天主のご托身がありました。

その決定的な瞬間に、マリア様の中で何が起きていたのでしょうか? マリア様は、天主の本質、天主の御稜威、天主の無限についての黙想に集中なさっていたのを、私たちは知っています。マリア様は、天主がすべてのものの絶対的な主であるという真理を熱愛なさいました。でも天使がマリア様の前に立ったとき、マリア様は深く心を動かされました。マリア様は天使の挨拶を聞いたとき、同様に心を動かされました。誰もそんな言葉を聞いたことはなかったのです! マリア様は、「聖寵充ち満てるマリア、主御身と共にまします。御身は女のうちにて祝せられた」という言葉が何を意味するのか、完全に理解されました。ですから、「これを聞いて心乱れ」られたということは、マリア様はこのような名誉の背後にある理由が分からず、すべての人々の中で最も小さい者であるご自分が、なぜそんな賜物を受けたのか理解できなかったということです。天使は話しました。そして、マリア様が最大の名誉、天主が被造物に授けることができる最高の賜物を受け取ったことが明らかになりました。マリア様は天主の御母となり、いとも聖なる三位一体への最も親密な命に導かれました。それに対するマリア様のお答えは何だったでしょうか? マリア様が最初に発した言葉はこうでした。「私は男を知りませんが、どうしてそうなるのですか?」。これが、天主のご意志を行うための、マリア様の唯一の心配事です。天主のご意志を行うことは、聖なる童貞性を天主に奉献することにあると、マリア様はあらかじめ理解しておられたからです。

そこで天主は、マリア様に夫として聖ヨゼフをお与えになることによって、マリア様の童貞性が守られることを厳粛に承認されました。この男性は、マリア様の童貞の誓いを尊重するだけでなく、まったく同じ理想を持っていたのです。従って、童貞の捧げものによって、マリア様は天主に完全に自分自身を捧げ、天主の御あわれみに限りなく自分自身を開くことができたのです。そして今、マリア様はメシアの御母になろうとしていました。自然の秩序では、これら二つの現実、つまり童貞であって同時に母であることはできませんから、マリア様は説明を求めて天使に尋ねました。すると天使は、預言者イザヤによって七百年前に予告された偉大な奇跡を説明しました。「見よ、おとめが身ごもる!」。天主には不可能なことは何もないという結論を目の前にして、マリア様は「フィアット(われになれかし)」を言われ、同意をお与えになりました。

非常に敬虔な、聖人のような人であっても、このような状況にあれば、天主がまさに自分をお選びになったという満足感を少し感じたかもしれません。次のように思うのは簡単でした。「このような名誉を与えられたことは何と素晴らしいことでしょう、他の人々に対して私はどんなに多くのよいことをすることができるのでしょう、私にこのような名誉を与えてくださるとは、なんとお優しい天主でいらっしゃるでしょうか」。ほんの少しでも自分自身に喜びを感じることがないというのは、そのような瞬間には困難なことです。では、マリア様は? マリア様は、すべての被造物の中で祝福され、人類で可能な最高の名誉を受けるよう選ばれましたが、それがすべての天主の賜物であることを完全に知っておられました。いと高き御者は御あわれみによって、マリア様の偉大な使命にもかかわらず、自分では何も持たないはしためであるマリア様の謙遜をご覧になりました。マリア様は、天主の創造のみわざによって、無からつくられました。マリア様は自分のものは何も持っておられませんでした。マリア様の中にあるすべての美しいもの、すべてが美しいと私たちが知っているものは、天主によって与えられました。天主の無限の御稜威と、マリア様自身の無限の無を考察して、マリア様は論理的な結論を引き出されます。「御身はすべて、われは無。御身はわれにおけるすべて。仰せのごとく、われになれかし。われは主のつかいめなり!」。私たちは知っています。この完全な信心が、そのお返しとして、失われた世界に救済をもたらす天主の本性からあふれ出る天主の愛の大海を動かしたことを。

一日三回、私たちは、お告げの祈りでこの神秘を思い起こします。三という数字は、充満、全体、不変、持続を表します。三度の祈りは、一日を通して私たちがいつもマリア様の謙遜に倣うべきであることを意味します。これにより、教会は、世界の救いのための受胎告知の重要性だけでなく、謙遜の徳の重要性をも強調するのです。この出来事で、謙遜が、その最も深い本質において、完全なる自己放棄、完全なる天主への信心、天主への回帰であることが示されています。マリア様のお答えがこれをなんとよく示していることでしょうか。Ecce ancilla Domini(ここに主のつかいめがおります)。この言葉には、人称代名詞の「私」はありません。人間の言語の中で最も大きな従順さを伝える言葉、つまりancilla―つかいめ、奴隷という言葉しかないのです! マリア様は常に最も謙遜で、天主の御前で自分を無とお考えだったのです。

お告げのとき、マリア様の謙遜は試され、最も過酷な試練を受けました。マリア様は、ご自分が地上にいるすべての人々に勝っているだけでなく、位階において、天のすべての天使より無限に勝っているというメッセージをお受けになりました。天と地の元后であり、天主を除いて、最高にして最も偉大で最も力あるお方…。実際、人がそんなメッセージを聞くと、めまいを感じますが、マリア様の場合は、それほど大きな名誉を与えられたにもかかわらず、平安のうちに、御自ら唯一聖にして偉大である天主とご自分の中におられる天主への静かな礼拝を育まれたのです。

マリア様の謙遜は、お告げの直後にも現れました。急いでザカリアとエリザベトの家へ行き、家事やささいな仕事を行い、こうして従姉を助けられたのです。

マリア様は、謙遜な人々、屈辱を受ける人々とさえも付き合いを求められました。そのような人々の中にいる時にのみ、マリア様は心安く感じられました。ザカリアとエリザベトは、律法の細則に正当性を見つけるのを誇りとしていたファリザイ人とは逆に、慈悲深い天主からの助けと救いを、天主の約束への信心と信頼を通して待っていた数少ない謙遜な人々の内に含まれる人たちでした。また、二人は世間から侮辱されていました。結婚していても子どもがいないことで、二人は天主によって罰せられ、天主に呪われているとさえ見なされていました。ザカリアがものをいうことができなくなり、天主への奉仕を終えてもおしであった時、それはこの呪いの明確な証拠であると村の人々は信じました。多くの人々は、それが彼の隠された罪に対する天主の罰であると信じたのです。そのため、彼らはザカリアを軽蔑しました。しかし、ザカリアはどんな言い訳もせず、書面または手話で説明することもしませんでした。

これもまた、謙遜の大きな現れです。私たちは皆、天主の御前では無ですから、謙遜な霊魂は、この真理を認める人々を好みます。また、地上では謙遜は常に屈辱を伴うため、謙遜な霊魂は屈辱を受け入れる人々に、特に甘んじて天主の御手で屈辱を受け入れる人々に引きつけられます。マリア様がザカリアとエリザベトの家を訪問なさったときに、心を開いて賛歌「マグニフィカト」を歌われたことは、この意味において理解すべきです。

謙遜のもう一つの側面は、最も重要なこと、つまり天主の御あわれみについて、無である私たちを満たそうと望まれる天主の聖心の偉大さについて思い起こすことです。しかし、天主はこのことを謙遜な霊魂にだけ行おうと望まれます。賛歌「マグニフィカト」は非常に複合的な祈りであって、全能である御者を讃美する新たな方法を継続的に探し求めずにいられない謙遜な霊魂の状態を伝えています。

謙遜のもう一つの側面は苦しみです。謙遜の行いそのもの(これは天主の方に向かおうとする霊魂の状態です)は、多くの場合、他の被造物に関して苦しむことにつながります。謙遜な霊魂が天主の聖心の偉大さの前に自分自身を開くと、天主はその霊魂に天主の無限の神秘を与え給うのです。この神秘は無限ですから、その霊魂は自分の心に起きていることを他人に語ることはできないか、また時には語ってはならないのです。その霊魂の最も親しい友人たちでさえ、そのときにはもはやその霊魂を理解することはできません。友人たちは、このために苦しみ、その霊魂も苦しみます。彼らは誤解され、あるいは拒否さえされたように感じ、引き下がり、そして古い友情と親密さが次第に消えていき、なくなってしまうかもしれません。

マリア様が身ごもったと知ったときの聖ヨゼフの苦しみは、この意味において理解すべきです。聖ヨゼフには、愛する人のもとを去り、自分は引き下がり、最愛の人の周辺から消える以外の可能性を見いだせませんでした。消える覚悟をするということは、自分が無であると認める行いでした! この覚悟はまた、聖ヨゼフが圧倒された御稜威をお持ちである天主の神秘的なやり方や命令に直面した際の謙遜の行いでもありました。

しかし、天主は常に謙遜の行いに報いられます。必要であれば、天主は奇跡を使ってでもそれをなさいます! そして、謙遜な霊魂は、天主を喜びにおいて信頼するだけでなく、苦しみにおいても信頼するのです。最後に、この世では謙遜は事実上、常に屈辱と結び付いています。堕落した被造物である私たちの場合は、屈辱なくして謙遜の徳を得ることは不可能です。マリア様は、原罪のけがれから守られていたという異なった状況でしたが、この点においても謙遜の模範となるために、私たちに比べ無限に大きくかつ多数の屈辱を自発的に受け入れられました。証明され、試された謙遜のみが真実のものです。「あなたがたのための部屋はない」という言葉がベトレヘムで発せられた瞬間から、マリア様は御子の屈辱にあずかられました。御子は御体においてその屈辱に耐えられる一方、マリア様は御心においてその屈辱を受けておられました。粗末な洞窟の中で天主の御子を生むという屈辱、逃亡者である屈辱、言葉で表せないほどのエジプトでの流浪の屈辱、ナザレトでの貧困の屈辱(その有力な証拠はロレトの家です!)、マリア様ご自身が悪しき人々の御子に対する敵意が増えていくのを経験された、イエズス・キリストの公生活の間の数多くの屈辱など。

キリストが全くの肉体的な無へと向かわれたとき、このすべてが屈辱の頂点にまで至りました。その瞬間、マリア様は、霊的に無となられ、十字架の下に立ち、そこで動かずにお立ちになったままでした。マリア様は、この最も過酷な試練に置かれたとき、引き下がることなく、動揺することなく、ためらうことなく、不平を言うことなく、逆らうことのない謙遜を示されました! それ以上に、これは、最も高貴な特性を示すことを完全に放棄した人の謙遜でした。

御子のためだけに生きておられるマリア様は、御子の代わりに、私たちをご自分の子どもとして受け入れられました! 最も聖なるお方の代わりに、マリア様は罪びとを受け入れられ、天主の愛の代わりに、マリア様は私たちの冷たさと無関心を受け入れられ、美の代わりに、怪物のような醜さを受け入れられました。そしてマリア様は、心をこめて天主のご意志を受け入れられました! 見よ、謙遜の頂点を!

これらの考察の助けによって、特にこの四旬節という聖なる期間に考察することによって、インマクラータの謙遜で悲しみに満ちた御心の中に入ることができ、私たちも心が謙遜になるように助けてくださるよう聖母に願うことができますように! そうすれば、槍にて貫かれたる主の聖心から流れ出る恩寵が、豊かに私たちを満たし、聖化し、変容させてくださるのです!

ジェネラル・サントスにて、2016年2月14日

カール・シュテーリン神父

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(ファチマに向けて この手紙は、ここまでですでに非常に長いため、皆さんは1917年5月13日の出来事に関連する別の手紙を3月の初めに受け取ることになります)

シュテーリン神父のすべての手紙は、ウェブサイトの Publication/Letters の階層にあります

聖伝のM.I.(Militia Immaculatae 無原罪の聖母の騎士会)についてのまとめ
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アジアの無原罪の聖母の騎士への手紙 第11号 ― 2016年にまことの「ファチマの使徒」になるための決心

2016年04月20日 | M.I.(無原罪の聖...
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 シュテーリン神父様からの「アジアの無原罪の聖母の騎士への手紙 第11号」の日本語訳をご紹介いたします。

今年、「あわれみの御母」なる聖母は、天主のあわれみ深い善良さが、永遠の死の闇と影の中で生きているもっと多くの霊魂に入っていくように、回心の恩寵という宝をもっと多くの人に広めたいと望んでおられます。聖母は、あわれな罪人たちに降り注ぐ恩寵がもっと簡単に与えられるように望んでおられます。

私たちは、霊魂を永遠の火から救うために「あわれみの御母」の道具になろうという情熱を増加させましょう。

聖母は、ファチマで私たちに、救いのための最終手段として、聖人になるための簡単で確実な方法として、汚れなき御心を与えてくださいました。従って、私たちは今、真剣に「ファチマの使徒」になることを始めるべきです。

シュテーリン神父様は、皆さんが今年、天主の無限の御あわれみの泉から、御あわれみを豊かに引き出すため、特別な決心を持つよう提案してくださいます。

 どうぞお読み下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

アジアの無原罪の聖母の騎士への手紙第11号

*** 2016年にまことの「ファチマの使徒」になるための決心 ***


親愛なる無原罪の聖母の騎士の皆さん!

新しい年になりました。私たちは自分たちの目的を思い出さなければなりません。

毎年、毎月、毎週、毎日、毎時間、毎分、毎秒がそれぞれただ一つの意味を持っています。無原罪の聖母を通して、私たちの主にますます近づくことです。私たちは聖母に奉献されているのですから、私たち聖母の騎士は、こう付け加えるべきです。この新しい年に、私は聖母のために、これまでにないほど多くの霊魂を、さらにずっと多くの霊魂を勝ち取らなくてはなりません。彼らが、聖母を母、そして元后として認めてお愛しし、そうして、その御子、私たちの主によって救われるように。

それぞれの年もまた、特徴を持っています。重要な記念日や聖年のお祝い、または他の重要な出来事(洗礼、初聖体、結婚、最終試験、仕事上の業績など)です。一般に、このような例外的な出来事は、天主の栄光と霊魂の救いのために、これらの出来事をお祝いするか、これらにあずかる人々に対して、天主の御摂理によって与えられる特別な恩寵の源です。私たち聖母の騎士は、これらの降り注ぐ天主の愛に感謝し、徳と使徒的熱意を成長させるよう、その愛から利益を得るべきです。

2016年に注目すべきなのは、二つの特別な行事があることです。天主のあわれみの年であることと、ファチマの聖母ご出現と無原罪の聖母の騎士会設立の100周年を荘厳に準備する年であることです。

私たちは、あわれな罪びとの回心と聖化のために彼らに捧げられた天主の無限の御あわれみという現実についてしばしば考え、黙想すべきです。

さて、聖ベルナルドによると、私たちの主は「御母にあわれみの秩序」を委託なさいました。

そのため、今年、聖母は特別な意味で「あわれみの御母」になられます。聖母は、天主のあわれみ深い善良さが、永遠の死の闇と影の中で生きているもっと多くの霊魂に入っていくように、回心の恩寵という宝をもっと多くの人に広めたいと望んでおられます。聖母は、あわれな罪人たちに降り注ぐ恩寵がもっと簡単に与えられるように望んでおられます。

私たち騎士にとって、これは、聖母の奉仕にもっと自分を捧げようとする信じられないほどのよい動機となります。通常時に私たちの小さな祈りと犠牲が一日あたり多分一つか二つの霊魂を救うとすれば、「あわれみの年」のおかげで、私たちの主は、私たちの小さなつまらない捧げものに対して、さらに寛大にお応えくださるでしょうし、同じ祈りや犠牲に対して、多分10から20の霊魂を救われるでしょう。

言い換えれば、騎士としての私たちの小さな使徒職は、天主の御あわれみのおかげで、はるかに効果的になります。このことは、私たちの望みを大きくしてくれるはずです。ああ、無原罪の聖母よ、あなたは多くの美しい絵を描く力を、あなたの小さなほうきにしか過ぎない私に与えようと望まれるほど、私をたくさん愛してくださいます。「私の愛する子よ、霊魂を救うために私を助けてください!」というあなたの要望と訴えに対して私はどれだけもっと進んでお応えしなければならないことでしょうか。

霊魂を永遠の火から救うためにあわれみの御母の道具になろうという情熱を、私たちが増加させる最良の手段は、私たちがこの2016年中に実現しなければならない第二の事柄です。それは、終わりの時代における聖母のすべてのご出現の中で、おそらく最も重要なご出現に対する準備です。この御出現では、聖母がファチマで私たちに、救いのための最終手段として、聖人になるための簡単で確実な方法として、汚れなき御心を与えてくださいました。従って、私たちは今、真剣に「ファチマの使徒」になることを始めるべきです。

皆さんが今年、天主の無限の御あわれみの泉から、御あわれみを豊かに引き出すため、特別な決心を持つよう提案させてください。


2016年にまことの「ファチマの使徒」になるための決心

1.知性のために
a)可能であれば、毎日数分間、少なくとも1週間に1時間、ファチマのメッセージと精神について、深い文章や記事、本を読んだり聞いたりすること(www.fatima.org/resources/books.aspに豊富な文献があります)。
b)少なくとも3回、可能なら各土曜日(聖母の日)に、この手紙に掲載されたファチマに関する文章「ファチマに向けて」を読んで黙想すること。

2.意志と心
a)毎日、可能であればできるだけ頻繁に、罪びとの回心のために射祷を唱える。特に「イエズス、マリア、われ御身を愛し奉る、霊魂たちを救い給え」。
b)毎日、可能であれば少なくとも3回、ファチマの天使の祈りを唱える。
c)毎日、ファチマの聖母の意向でロザリオを唱える。
d)可能であれば、毎月13日に、マリアの汚れなき御心の意向で大斎を捧げる(その日が日曜日または守るべき祝日である場合は、前日または翌日に大斎を移す)。
e)毎初土曜日の務めに参加する(汚れなき御心に対して犯された罪を償う精神で、聖体拝領をし、その月のうちに告白を行い、さらにロザリオとロザリオ十五玄義の黙想を行う)。

3.行動
無原罪の聖母の騎士会の使徒職(不思議のメダイやリーフレットなどを配布すること)に熱心に参加する。

皆さんが、これらの決心を実行に移そうと努力するなら、汚れなき御心が、この2016年に非常に特別な方法で、皆さんのうちに聖母のこの御約束を実現してくださるのは確実です。「私の汚れなき御心は、あなたの避難所となり、あなたを天主へ導く道となるでしょう」。

2016年1月4日、シンガポールにて
カール・シュテーリン神父


聖伝のM.I.(Militia Immaculatae 無原罪の聖母の騎士会)についてのまとめ

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アジアの無原罪の聖母の騎士への手紙 第10号 ― 無原罪の御宿りといつくしみ(あわれみ)の年

2016年02月05日 | M.I.(無原罪の聖...
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 シュテーリン神父様からの「アジアの無原罪の聖母の騎士への手紙 第10号」の日本語訳をご紹介いたします。

「あわれみの聖年」は2015年12月8日の「無原罪の御宿り」から荘厳に始まりました。
神父様は、「天主の御あわれみ」を私たちに黙想することを提案しています。
「無原罪の御宿り」こそ、「天主の御あわれみ」の神秘を表し、
「無原罪の御宿り」において、天主は、ご自身が被造物に対してまずどのような存在でいらっしゃるのかを世にお示しになられること。
「あわれみの年」は、その深奥においては、被造物に対する天主の呼びかけであり、この天主の呼びかけに、私たちが何をしなければならないか?を教えてくださいます。

 どうぞお読み下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

アジアの無原罪の聖母の騎士への手紙 第10号

*** 無原罪の御宿りといつくしみ(あわれみ)の年 ***


親愛なる無原罪の聖母の騎士の皆さん!

毎年、無原罪の御宿りの祝日が近づくと、聖マキシミリアノ・コルベはあふれんばかりの霊的な喜びで満たされ、修道士たちにその喜びを伝えていました。この偉大なる教義は聖母ご自身だけに関係するのではなく、私たちに対しても優れて実践的な結果をもたらす、と聖マキシミリアノは、しばしば彼らに説明していました。12月8日が近づきますから、彼と共にこの神秘に入り、それについて黙想しましょう。その日は、騎士全員が無原罪の聖母への奉献を確実に更新すべき日なのです。

今年、教皇様は「天主のいつくしみ(あわれみ)の年」を宣言しました。12月8日に荘厳に始まります。広く説明されてきていることは、不幸にも天主の御あわれみの理解そのものについても、その私たちの生活への影響についても、多くの霊魂を大変な災厄に導くことになるような全くの誤った解釈がおこなわれているということです。彼らを回心させて回心と聖化というあわれみ深い恩寵を受けさせる代わりに、この偽りのあわれみは、彼らに自らの罪を続ける決意を固めさせ、「天に向かって復讐を叫ぶ」忌まわしい行為さえも寛容に扱い、また正当化するのです。さらに、「光であり、その中に闇は一切ありえない」という天主の本質そのものについての完全に誤った理解を示しているのです。

それにもかかわらず、私たちは、教皇の意向すなわち教皇の個人的な考え方と、最高の権威者による行為とを区別しなければなりません。つまり、最高の権威者が、「聖年」を定めることによって、天からのあふれんばかりの恩寵が来るよう天を開いてくださったのであり、私たちがその恩寵に対して自分の心を開くなら、それを受けることができるのですから。エルザレムでの枝の主日の出来事のあとの大司祭の言葉を思い出しましょう。彼は言いました。「民のために一人の人が死ぬ方がよい」。カヤファの意向は確かに悪しきものでしたが、大司祭としての職務において彼が述べたその言葉は、預言的であり正しいものでした。同様に、「今年の大司祭」の意向にもかかわらず、最高の大司祭イエズス・キリストはご自分の代理者による客観的かつ法的に正当な決定を尊重され、そのため主は、世界と教会にかつて見られたうちで最悪のこの危機の時において、その無限の御あわれみをあわれな人類に注ごうと望んでおられるのだ、と私たちは結論できるのです。天主だけが、悪をより高い善へと変えることがおできになり、そのため、天主は多くの高位聖職者の心にあるあわれみについての誤った考えさえもお使いになり、この一年の間に、まことの御あわれみをお示しになることができるのです。

しかしながら、この地上にいる司祭一人一人の任務は、教会の教導権、教父たち、教会博士たち、まことの聖人たちによって明らかにされ、教えられた天主のまことの御あわれみを信者に提示することです。そうすれば、あわれみの年は、よい心構えをもって天主の愛の泉に近づく全ての人々にとり、大きな恩寵の源となるでしょう

「偶然によって」は何も起こりません。それゆえに私たちは、どこでも常に天主の御摂理の道を見いだすべきです。私たちの主が、無原罪の御宿りの祝日にあわれみの年を開始するよう、教皇様に霊感をお与えになったのは、「偶然によって」ではありません。事実、天主の御あわれみの神秘を表すのに、すべての被造物の中でただお一人だけ汚れなく、原罪を免れておられた聖母の御宿り、聖母の存在のまさに始まり、それ以上の時はありません。無原罪の御宿りにおいて、天主は、ご自身が被造物に対してまずどのような存在でいらっしゃるのか、そして、天主とのこの根本的な関係が無限の御あわれみであるよう望んでおられることを世にお示しになるのです。

天主の御あわれみは、無でしかない者への天主のまったくあわれみ深い謙遜の御業です。天主は、まったく見返りをうけることなく、無償の愛をくださいます。さらに、これは私たちに対する天主のまさに最初の御業なのであり、私たちの側からでき得るどのようなお応えよりも先にあるのです。天主は、その全能と上智をお使いになり、無条件であふれるほど豊かに、ご自身の愛、光、幸福、内的な喜びを与えてくださいます。天主は、私たちがこの永遠のあふれるほどの賜物の基礎の上に存在することを望んでおられます。天主は、その命で私たちを豊かに満たそうと望んでおられます。

しかし、私たちが、天主の賜物に対して、それを喜んで受け入れ、それに対して完全に心を開く場合にのみ、天主はこれを行うことがおできになります。罪を通して、私たちはこの天主の愛の流れを妨げており、天主に私たちへ御あわれみを与えていただく代わりに、私たちがこれらの賜物を受ける権利を持っていたかのように、私たちが自分自身でその賜物を得ることができるかのように思ってしまうのです。これは傲慢な態度であり、私たちの心の奥の本質はもちろん、天主の心の奥の本質まで否定しているだけでなく、それらを逆転させてしまうのです。天主が人類のしもべとしてとらえられているのです。人間は天主のようになりたいのです。

しかし、天主は、私たちの邪悪さと罪深さを使ってでも、さらに多くの御あわれみを示すことがおできになるのでした。天主は、半死半生の人類である私たちに、「良きサマリア人」である御独り子を送られ、私たちに赦しと浄めを与えてくださいます。この良き羊飼いは、迷える羊をあわれみ深く探し出し、御父の家へと戻してくださいます。イエズスが十字架に掛かり、私たちのために亡くなられたことは、天主の御あわれみの最大の現れです。「最後に至るまで」、主はご自分が持っておられるものすべてを、血のまさに最後の一滴まで、私たちにお与えになったのです。

しかし、人間の最大の悲劇は、多かれ少なかれ、その傲慢と自己満足の中に自らを閉じ込め、この至高のあわれみ深い天主の愛を受け入れないことにあるのです。天主の恩寵に自ら心を開いている人でさえ、天主がその御あわれみを完全にお見せになることを許しませんでした。なぜなら、「わが(天主の)心の計り知れないほどの愛に対する怠慢、無関心、忘却」があったからです。

では、天主の御あわれみを完全に受け入れ、天主のあふれるほどの恩寵に対する障害物を何も置かなかった人間がいるでしょうか? 実際に天主によって運命づけられ、天主がそうあるように計画なさったような人間を、私たちは見つけることができるでしょうか?

はい、その人こそが、インマクラータ、無原罪の聖母です! 聖母という存在はそのすべての点において、天主の御あわれみを反映したものです。聖母は天主からのものをすべて受け取り、受け入れられます。まさしくその結果、この天主の特性は、ある意味で、聖母においてご托身されているのです。聖母だけが、永遠の御父のすべての賜物を受け取られました。聖母は、天主がお下しになった善さに完全に心を開かれました。愛は、持っているすべてのものを与えることを望みます。天主は、被造物が受けることができるすべてのものを与えることを望まれます。そして、被造物の中で唯一聖母が、まことに天主の恩寵のすべてを受けたのです。なぜなら、聖母は、天主の愛に対して、いかなる障害物も置かれなかったからです。いつでも、どこでも、完全に、天主のご意志に対して「はい」と言われたのです。聖母は、絶対的に忠実に、天主の愛に応えられたのです。ためらいもなく、疑問もなく、疑いもなく! 天主ご自身が地上に来られるにあたって、聖母以上に良い道具と神殿はありえませんでした。それゆえに、最も善き御父の御摂理は、その汚れなき娘が、ほんの少しの悪に染まることをもお許しにならず、悪魔が聖母の霊魂へ触れることもお許しになりませんでした。これが聖母の無原罪のお宿りなのです。

無原罪のお宿りにおいて、私たちは、天主の御あわれみがまことに及ぶ範囲を発見するのです。まったく信じられないことであり、驚くべきことであるのは、天主が無でしかない被造物に対してどれほど多くを与えようと望まれるのか、天主の聖心が私たちの惨めさ(misery)に対してどれほど多く気にかけておられるのか、です。あわれみのラテン語である「ミゼリコルディア(Misericordia)」が示す通りです!

「見よ、わが最愛の子どもたちよ、われに造られし『無』よ、われに贖われし罪びとよ!
われは、わがあわれみを汝らに与えるに際して、無限の寛大さを示したい。汝らには無原罪の聖母が見えるか? 聖母がどれほど純粋か、どれほど美しいか、信じられないほどあらゆる徳にどれほど充ち満ちて、わが愛で燃える心を持っているかを? 最高の知恵、浸透する知性、わが永遠の命に満ち、聖霊の浄配、わが子の母、わが無限の力に参与するわが娘を? 汝らは、今までこのような被造物を見たことがあるか? これこそ、わがあわれみである!

しかし、さらに次の段階があるのです。聖母は天主の御あわれみを完全に受けられたため、今度は聖母がその子どもたちすべてに対するあわれみの源となるよう、天主は望まれたのです。イエズスが十字架の上で聖母に対して「あなたの子を見よ」と言われたとき、聖母は私たちの霊的な母となられました。それは、聖母が私たちのためにすべての恩寵の母なる源、すべての恩寵の仲介者、あわれみの御母―「マーテル・ミゼリコルディエ(mater misericordiae)」になられたことを意味しているのです! このゆえに私たちは理解するのです、人々が聖母の助けを請い求めるところがどこであれ、子どもが愛情深い母親について知っているように、聖母は「あわれみ深く」、常にあわれみ深く、母としてのあわれみに満ちておられるということを。

天主は、私たちの救いと私たちの永遠の幸福を大変望まれています。天主が、地上における天主の御あわれみの目に見えるしるしとして、御子の人間としての聖心を造られただけでなく、私たちに「あわれみの御母」を、私たちを非常に愛してくださるその御母のあわれみ深く汚れなき御心とともに与えてくださったほどに!

あわれみの年は、その深奥においては、被造物に対する天主の呼びかけなのです。「われは慈悲を示そう! 汝らにわが賜物を、わが光を、わが宝を、わが愛を与えよう!」。私たちがしなければならない唯一のことは、心の扉を広く開けて、自分を本当に天主の方に向け、インマクラータ、無原罪の聖母に倣うことです。私たちが、すべてを受け入れるという聖母の態度をもちさえすれば、私たちは、 天主の御あわれみをもう一度受け入れ、私たちの罪の浄めという天主からの驚くべき御業に始まるあふれんばかりに豊かな賜物を天主からいただくことができるのです。なぜなら、天主は何度も何度も私たちをお赦しになるのにお疲れになることは決してなく、私たちの強情さや不忠実をご覧になるのではなく、私たちの最も小さな悔い改めのしるしさえもお使いになって私たちを無限の愛の賜物に再び浸してくださるからです。

では、「無原罪の聖母の騎士」とは何でしょうか? 人間の霊魂に天主の御あわれみを注ぐための聖母の道具なのです。私たちのすべての祈り、犠牲、使徒的活動には、唯一の目標があります。汚れなきあわれみの御母を、罪と誤謬というあわれみのない闇に座したままの愛する子どもたちに近づけさせ、聖母が彼らの心に触れて、天主の無限の御あわれみに向かわせ、天主が彼らを救い、聖人にするのを可能にさせることなのです。

2015年12月3日、聖フランシスコ・ザビエルの祝日、ニゴンボ(スリランカ)にて。
カール・シュテーリン神父


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