Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

私は御身を信じ、礼拝し、希望し、御身を愛します!御身を信じぬ人々、希望せず愛さぬ人々のために、赦しを求めます(天使の祈)

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
2018年 8月の聖伝のミサの予定
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】


8月
聖母の被昇天を祝いましょう。
意向:聖母の汚れなき御心の凱旋のため
実践すべき徳:心の柔和と謙遜
守護の聖人:聖母の汚れ無き御心

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します

◎2018年 8月の予定
【大阪】聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂(アクセス EG新御堂4階 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 〒532-0002
(JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分)

    8月3日(初金)聖霊降臨後の平日(4級)
            午後5時半 ロザリオ及び告解 
            午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

    8月4日(初土)証聖者聖ドミニコ(3級祝日)白
            午前10時 ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

    8月11日(土)~15(水) 聖母小黙想会 (毎日午後) 
            午前10時 ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

    8月17日(金) 証聖者聖ヒヤチント(3級祝日)白
            午後4時半 ロザリオ及び告解 
            午後5時 ミサ聖祭 
            午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

    8月18日(土)聖母の土曜日(4級)白
            午前8時 ミサ聖祭
            午前10時 ロザリオ及び告解
            デ・ガラレタ司教様による堅振式
            午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

    8月22日(水)聖マリアの汚れ無き御心(日本では1級祝日)白
            午後5時半 ロザリオ及び告解 
            午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

    8月31日(金)証聖者聖ライムンド・ノンナート(3級祝日)白
            午後5時半 ロザリオ及び告解 
            午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

【東京】東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図) 「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」
    8月5日(主) 聖霊降臨後第11主日(2級)緑 
            午前10時  ロザリオ及び告解
            午前10時半  ミサ聖祭(歌ミサ)

    8月6日(月) 私たちの主イエズス・キリストの御変容(2級祝日)白
            午前7時 ミサ聖祭

    8月19日(主)聖霊降臨後第13主日(2級)緑  
            午前8時 ミサ聖祭
            午前10時  ロザリオ及び告解
            デ・ガラレタ司教様による堅振式
            午前10時半  ミサ聖祭(歌ミサ)

    8月20日(月) 教会博士大修院長聖ベルナルド(3級祝日)白
            午前7時  ミサ聖祭
            午前7時45分  ミサ聖祭

愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております。

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2月2日 童貞聖マリアの御潔めの祝日 聖伝のミサ(1962年版の典礼法規)

2018年01月31日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

来る2月2日には大阪の聖母の汚れなき御心聖堂で童貞聖マリアの御潔めの祝日を祝います。ミサの前に、ろうそくの祝別式と行列があります。

翌2月3日には聖伝のミサの後に、聖ブラジオのロウソクによる喉の祝福を行います。

ここでは2月2日の童貞聖マリアの御潔めのミサをご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように! トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

入祭文Introit 詩篇Psalm 47:10,11  
SUSCÉPIMUS, Deus, misericórdiam tuam in médio templi tui: secúndum nomen tuum, Deus, ita et laus tua in fines terræ: justítia plena est déxtera tua. 天主よ、御身の神殿の中にあって、われらは御あわれみを受けた。御身と御名との称讃は、地上あまねく響き渡る。正義は御右手のものである。
Ps. 47:2 Magnus Dóminus, et laudábilis nimis: in civitáte Dei nostri, in monte sancto ejus. Glória Patri et Fílio et Spirítui Sancto. Sicut erat in princípio et nunc et semper et in sǽcula sæculórum. Amen. 詩篇47:2主は、天主の町、その聖なる山において、偉大なもの、あらゆる称讃に値する御者である。願わくは聖父と聖子と聖霊とに光栄あれ。はじめと同じく、今もいつも、世々に、アメン。
Suscépimus, Deus… 天主よ、御身の神殿の…

 

集祷文

 
  OMNÍPOTENS sempitérne Deus, majestátem tuam súpplices exorámus: ut, sicut unigénitus Fílius tuus hodiérna die cum nostræ carnis substántia in templo est præsentátus; ita nos fácias purificátis tibi méntibus præsentáti. Per eúmdem Dóminum nostrum Jesum Christum Fílium tuum, qui tecum vivit et regnat in unitáte ejúsdem Spíritus Sancti, Deus, per ómnia sǽcula sæculórum. 全能永遠の天主よ、われらは、みいずに向かって、へりくだって願い奉る。われらと同じ肉体をもって、本日神殿に捧げられ給うた御独り子に倣い、われらの清い心を、主に捧げるを許し給え。その同じわれらの主イエズス・キリスト、天主として、聖霊との一致において、御身と共に、世々に生き且つ治め給う聖子によりて。
  ℞. Amen. ℞.アメン。

 

書簡Epistle マラキアMalachias 3:1-4

 
LÉCTIO Malachíæ Prophétæ. マラキア預言書の朗読。
Hæc dicit Dóminus Deus: Ecce ego mitto Angelum meus, et præparábit viam ante fáciem meam. Et statim véniet ad tempulum suum Dominátor, quem vos quǽritis, et Angelus testaménti, quem vos vultis. Ecce venit, dicit Dóminus exercítuum: et quis póterit cogitáre diem advéntus ejus, et quis stabit ad vidéndum eum? Ipse enim quasi ignis conflans, et quasi herba fullónum: et sedébit conflans, et emúndans argéntum, et purgábit fílios Levi et colábit eos quasi aurum et quasi argéntum: et erunt Dómino offeréntes sacrifícia in justítia. Et placébit Dómino sacrifícium Juda, et Jerúsalem, sicut dies sǽculi, et sicut anni antíqui: dicit Dóminus omnípotens. 天主なる主は言い給う。見よ、私は天使を遣わす。彼は、私の前に道をととのえるであろう。汝らの探し求める主権者、汝らの望む契約の使いは、すぐさま、神殿に来るであろう。見よ、彼は来る、と万軍の主は仰せられる。誰が、その来るべき日を悟り得ようか。誰が、彼を見るに堪え得ようか。なぜなら、彼は、溶かす火、布さらしの草の汁のようである。彼は座って、銀を溶き清めるように、レヴィの子らを清め、彼らを金銀のように清め、彼らは正義において、主にいけにえを捧げるであろう。ユダとエルザレムとのいけにえは、昔の日々のごとく、古き年々のごとく、主に嘉せられるであろう。全能の主は、こう言い給う。
  ℞. Deo grátias. ℞.天主に感謝し奉る。

 

昇階誦Gradual 詩編Psalm 47:10-11,9

 
SUSCÉPIMUS, Deus, misericórdiam tuam in médio templi tui: secúndum nomen tuum, Deus, ita et laus tua in fines terræ: Sicut audívimus, ita et vídimus, civitáte Dei nostril, in monte sancto ejus. 天主よ、御身の神殿の中にあって、われらは御あわれみを受けた。わが天主よ、御身のほまれのごとく、御名は全地に響き渡る。われらは、先に聞いたことを、わが天主の町、聖い山の上で見た。
アレルヤ誦Alleluia 聖アウグスティノSt. Augustine
ALLELÚIA, allelúia. Senex púerum portábat: Puer autem senem regébat. Allelúia. アレルヤ、アレルヤ。老人は幼子を連れてきたが、幼子が老人を支えていた、アレルヤ。
聖福音Gospel ルカLuke 2:22-32  
SEQUÉNTIA sancti Evangélii secúndum Lucam. ルカによる聖福音の続誦。
  ℞. Glória tibi, Dómine. ℞.主よ、御身に光栄あれ。
In illo témpore: postquam impléti sunt dies purgatiónis Maríæ, secúndum legem Móysi, tulérunt Jesum in Jerúsalem, ut sísterent eum Dómino, sicut scriptum est in lege Dómini: Quia omne masculínum adapériens vulvam sanctum Dómino vocábitur. Et ut darent hóstiam secúndum quod dictum est in lege Dómini, par túrturum, aut duos pullos columbárum. Et ecce homo erat in Jerúrelem, cui nomen Símeon, et homo iste justus et timorátus, exspéctans consolatiónem Israël, et Spíritus Sanctus erat in eo. Et respónsum accéperat a Spíritu Sancto, non visúrum se mortem, nisi prius vidéret Christum Dómini. Et venit in spíritu in templum. Et cum indúcerent púerum Jesum paréntes ejus, ut fúcerent secúndum consuetédinem legis pro eo: et ipse accípit eum in ulnas suas, et benedíxit Deum, et dixit: Nunc dimíttis servum tuum, Dómine, secúndum verbum tuum in pace: Quia vidérunt óculi mei salutáre tuum: Quod parásti ante fáciem ómnium populórum: Lumen ad revelatiónem géntium, et glóriam plebis tuæ Israël. そのころ、モイゼの律法に従って、潔めの日数が満ちたので、彼らは幼子を連れてエルザレムに上った。これは、主の律法に「はじめに生まれる男の子はすべて、主の聖別された者と宣言されねばならぬ」と録されてあり、また主の律法にあるとおり、「山鳩一つがい、あるいは鳩のひな二羽」をいけにえに捧げるためであった。見よ、エルザレムにシメオンという人がいた。彼は義人で、敬虔で、イスラエルの慰めを待ち望んでいた。聖霊は彼の上にあった。また聖霊によって、主のキリストを見るまで死なないと示されていたが、このとき、霊に導かれて神殿に来た。両親がその子イエズスを連れ、この子のために律法の慣例(ならわし)どおり行おうとして来たとき、シメオンは幼子をいだき、天主を讃美して言った。「御言葉のままに、主よ、今こそ御身の下僕を安らかに逝かせ給え。わが目は、もはや主の救いを見たゆえに。これは、万民の前に備え給うた御者、異邦人を照らす光、御民イスラエルのほまれである」。
℞. Laus tibi, Christe. ℞.キリストよ、御身に誉れあれ。

 

信経Creed

 

 

奉献文Offertory

 
DIFFÚSA est grátia in lábiis tuis: protérea benedíxit te Deus in ætérnum, et in sǽculum sǽculi. あなたの唇の上に、いつくしみが置かれた。天主はあなたを、永遠の祝福で満たし給うたからである。
密誦Secret  
EXÁUDI, Dómine, preces nostras: et, ut digna sint múnera, quæ óculis tuæ majestátis offérimus, subsídium nobis tuæ pietátis impénde Per Dóminum nostrum Jesum Christum Fílium tuum, qui tecum vivit et regnat in unitáte Spíritus Sancti, Deus, per ómnia sǽcula sæculórum. 主よ、われらの祈りを聞き入れ、われらがみいずに捧げ奉るこの供え物を、ふさわしいものとなすため、御身の父としての御慈悲を注ぎ給え。天主として、聖霊との一致において、御身と共に、世々に生き且つ治め給う主よ、聖子、イエズス・キリストによりて。
℞. Amen. ℞.アメン。

 

序誦Preface 御降誕の序誦The Preface of Nativity

VERE dignum et justum est, æquum et salutáre, nos tibi semper, et ubíque grátias ágere: Dómine sancte, Pater omnípotens, ætérne Deus. Quia per incarnáti Verbi mystérium nova mentis nostræ óculis lux tuæ claritátis infúlsit: ut, dum visibíliter Deum cognóscimus, per hunc in invisibílium amórem rapiámur. Et ídeo cum Angelis et Archángelis, cum Thronis et Dominatiónibus, cumque omni milítia cœléstis exércitus, hymnum glóriæ tuæ cánimus, sine fine dicéntes: Sanctus...  聖なる主、全能の父、永遠の天主よ、われらがいつも、どこにても、主に感謝を捧げるのは、実にふさわしく正しいことであり、われらの義務と救いである。なぜなら、御託身の御言葉の玄義によって、主のみいずより発する新しい光明が、われらの霊魂の目の前に、輝き出たからである。われらは、見えるものとなり給うた天主を見奉り、それによって、見えざるものへの愛に心ひかれるのである。ゆえに、天使、大天使と共に、座天使と主天使と共に、また、天の万軍と共に、われらはきわまりなく、主の御光栄の讃歌を歌い続けよう。聖なるかな…

 

聖体拝領誦Communion

 
RESPÓNSUM accépit Símeon a Spíritu Sancto, non visúrum se mortem, nisi vidéret Christum Dómini. シメオンは、聖霊によって、主のキリストを見るまで死なないと示されていた。
聖体拝領後の祈Postcommunion  
QUǼSUMUS, Dómine Deus noster: ut sacrosáncta mystéria, queæ pro reparatiónis nostræ munímine contulísti, intercedénte beáta María semper Vírgine, et præsens nobis remédium esse fácias, et futúrum. Per Dóminum nostrum Jesum Christum Fílium tuum, qui tecum vivit et regnat in unitáte Spíritus Sancti, Deus, per ómnia sǽcula sæculórum. われらの天主なる主よ、願わくは、われらの救いをより固くするために、われらに与え給うたこの聖なる奥義を、終生童貞聖マリアの取り次ぎにより、われらの現在と来世との生活の助けとならせ給え。天主として、聖霊との一致において、御身と共に、世々に生き且つ治め給う主よ、聖子、イエズス・キリストによりて。
  ℞. Amen. ℞.アメン。
コメント

ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」第二部 活動的生活と内的生活を一致結合させる 二、使徒的事業は内的生活のあふれから自然に生まれでるものであるべき

2018年01月31日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第二部 活動的生活と内的生活を一致結合させること
その二、使徒的事業は、内的生活のあふれから自然に生まれでるものでなければならぬ
 をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

二、使徒的事業は、内的生活のあふれから自然に生まれでるものでなければならぬ


 「あなたがたの天のおん父が、完全でいらっしゃるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マテオ5・48)
 むろん、それには無限の差があるだろうが、天主のやりかたこそは、われわれ天主の子らの内的生活、および外的行為の基準であり、モデルでなければならぬ。
 さて、すでにごぞんじのとおり、天主はその本性からして、“与える”ところの御者である。そして、これは経験的事実だが、天主は地上において、そのすべての被造物、とりわけ人間のうえに、あふれるばかりおおらかに、お恵みをほどこされる。あらゆる世紀を通じて、全宇宙は、天主のこの汲めども尽きぬおおらかさから、あらゆる恩恵をたまわる、天主の無限愛の生ける対象となってきた。

 しかしながら、天主は、そのために、けっして貧しくはなられない。天主の無限の富、この富を被造物のうえに雨ふらそうとする天主のおおらかさ――それらはけっして“与える”ことによって、いささかも減少することはない。
 天主が人類にお与えになるのは、ただ外的善ばかりではない。そのうえ、天主はその聖言を、ご自分の御ひとり子を、人類にお与えになった。
 その御ひとり子を、この世におつかわしになる、という行為においても、すなわち、ご自分自身を与えることにほかならぬ、この最高のおおらかさにおいてもまた、天主はそれがために、なにものも、ご自身から失うことはない。ご自分の本性から、なにものも、失わない。したがって、ご自分の本性の完全さを、すこしもそこなわないのである。

 天主は、われわれに、ご自分の御ひとり子をおわたしになっても、このおなじ御ひとり子を、いつも、ご自分のうちに保持しておいでになるのだ。天にいます御父の、この聖言の差遺と保持――これこそは、聖ベルナルドがいっているように、われわれの行為の最高の基準でなければならぬ。(聖ベルナルド『反省録』)

 秘跡によって、わけても聖体の秘跡によって、イエズス・キリストは、ご自分の恩寵をもって、われわれの霊魂を富ませるために、われわれの心においでになる。
 キリストは、天主の恩寵を、際限もなく、われわれの霊魂にそそぎ入れられる。キリストこそは、はてしもしらぬ恩寵の大海原であり、われわれはみな、その充満しあふれているものの中から受けて、恩寵に恩寵を加えられたのである。(ヨハネ1・16)
 しかも、それがために、キリストはいささかも、貧しくはなられない。
 他人の霊魂を救い、かつ聖化するという、高貴な職務にたずさわっている、われわれ使徒たる者は、天主のこのやりかたを、ある仕方で、模倣しなければならぬ。(むろん、そこには、無限に程度の差があるだろうが……)

 「あなたの聖言こそは、あなたの“反省”そのものであるべきです。俗務のために、しばしばこれから離れることがございましても、これを全然放棄してはなりません」
 聖ベルナルドは、教皇エウジェニオ三世にあてた『反省録』のなかで、こう忠告している。(第二部第三章)

 われわれにとって、この“聖言”とは、どんなものだろうか。
 ――内的精神である。成聖の恩寵によって、霊魂の秘奥にかたち造られた、内的精神である。この内的精神こそは、内にもえる奮発心の流露たる、いっさいの使徒的事業を,生き生きと活気づけるものでなければならぬ。他人の救霊と聖化のために、たえまなくわが身も心も、消耗しつくすものでなければならぬ、。と同時に、間断なくキリストにお捧げする、なにかの犠牲、なんらかの方法によって、刹那ごとに、いっそう活発な生気にみなぎっていくものでなければならぬ。
 われわれの内的生活は、天主的生命の強烈な、豊満な樹液に満ちみちた枝であってほしい。そして、われわれの事業は、この霊樹の枝に咲きみだれる花、自然にみのる果実であってほしい。
 わたしは“使徒”である、
 よろしい。りっぱなことだ。
 だが、使徒だからこそ、真理の光りはまず、わたしの精神にみなぎり、天主の愛はまず、わたしの心に燃えさからねばならないのではないか。
 真理の光りがまず、わたしの精神にみなぎってこそ、はじめてわたしは、他人の精神も照明することができるのではないか。
 天主の愛がまず、わたしの心にもえさかってこそ、はじめてわたしは、他人の心も天主への愛に、もえたたせることができるのではないか。
 わたしはそれを実際に見た、わたしの目でつらつら眺めた、わたしの手でじかにさわった。――こうして知りえたことを、他人に教える。自分の体験を、他人に伝える。こういう人だけが、“使徒”と呼ばれるべき者、使徒の名をはずかしめない者である。(ヨハネ第一の手紙1・1参照)

 大聖グレゴリオ教皇もいっているように、こういう人たちこそは、自分が親しく経験した天上の甘味を、そのあふれから、他人の霊魂にそそぎ入れるのである。
 以上の議論から、結論として、次のような定理をひきだすことができよう。
 「観想的生活は、どうしても、活動的生活に先行しなければならぬ。活動的生活は、観想的生活を、自然に外部に流露させ、持続させるものでなければならぬ。だが、活動的生活から、観想的生活を切り離すことは、絶対にゆるされない」
 歴代の教父、教会博士たちは、きそって、右の教えを力説してきた。

聖アウグスチノはいっている。「すべて、使徒たる者は、教えの言葉を発するまえに、まずおのれの乾く魂を、高く天主にあげ、したしく天主の泉から飲んだのちはじめて、その充満から、言葉を発する。まずおのれの魂を、それでいっぱいにしたのちはじめて、そのあふれから、他人の霊魂にもそそぎ入れる。こういう要領を心得ていなければならぬ。」
Priusquam exeunt proferentem linguam, dit saint Augustin, ad Deum levet animam sitientem ut eructet quod biberit, vel quod implevit dundat?
(『キリストの教え』四)

 ある教父も、こういっている。「他人に分けあたえるためには、まず自分が受けなければならぬ。上位の天使たちは、下位の天使たちに、天上の光りを分けあたえるのだが、それは自分らが、天主からいただいた光の、充満しあふれでるものだけしか、あたえることはできないのだ。」
Il faut recevoir, dit le Pseudo-Denys, avant que de communiquer, et les anges supérieurs ne transmettent aux inférieurs que les lumières dont ils ont reçu la plénitude.
(偽ディオニジウス PSEUDO DION. Coel, hier., C, Ⅲ)

 造物主は、天主的事物にかんして、このように普遍的な法則を定められた。すなわち、天主の恩寵を、他人に分配する使命をおびている人たちは、誰よりもさきに、まず自分自身が、天主の恩寵にあずかる、それに充満される。そのとき、そのときはじめて、おのれのあふれから、他人にもあたえることができるのである。

 聖ベルナルドが、当時の使徒たちに与えた、あの有名な言葉は、読者もごぞんじだろう。
 「賢い使徒でありたいのでしたら、天主の恩寵の貯水池でおありなさい。水道であってはなりません」(『雅歌についての説教』十八)
Si vous êtes sages, soyez des réservoirs et non des canaux.

 水道は、もらった水をただとおすだけで、おのれのためには、一滴の水もたくわえておかない。これに反して、貯水池は、まずおのれのために、水量をいっぱいにたたえている。次に、そのたえまなく新たにあふれでる処から、田畑に水を送って、これをかんがいする。だが、そのために、からになるようなことはない。
 使徒的事業に身をゆだねて、すっかり恩寵の水道になってしまい、他人の霊魂はゆたかにうるおしながら、自分はコチコチにひからびている人が、どんなに多いことか!
 「こんにち、カトリック教会に、“水道”は、くさるほど多いが、貯水池はきわめて少ない」
Canales multas hodie habemus in Ecclesia, conchas vero perpaucas (St. Bernard, Serm. xviii in Cantica)
 最後の文句を、聖ベルナルドは、悲しい口調で叫んでいる。

 「原因は、結果よりも大なり」――とのことわざどおり、他人を聖化するためには、ただ自分自身だけを聖化するのよりも、いっそう大きな完徳が必要なのだ。聖トマスも、そういっている。
 赤ちゃんに乳房をふくませる母親は、自分自身のもっている営養以上に、こどもに営養をあたえることはできない。同様に、聴罪師、指導師、説教師、伝道師、教師らは、霊の食物を、まず自分自身が摂取して、おのれに消化し同化してのちにこそ、はじめてこれをもって、教会の子どもたちを養うことができるのではないか。(聖ボナヴェントゥラの言葉)

 そして、この食物とは、天主の真理、天主の愛のことである。
 天主の真理と天主の愛――これらを、まずおのれに消化し同化して、ほんとうに霊魂の営養にし、他に生命を生みだす能力をあたえるもの――それはただ、内的生活だけなのだ。
コメント

2月4日は、東京で六旬節の聖伝のミサが挙行されます:固有文のグレゴリオ聖歌を紹介いたします

2018年01月31日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
 2月4日は、東京で六旬節の聖伝のミサが挙行されます。午前10時半からです。聖伝のミサ典礼は次の通りです。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

Ant. ad Introitum. Ps. 43, 23-26. 入祭文(詩篇、43ノ23-26)
Exsúrge, quare obdórmis, Dómine ? exsúrge, et ne repéllas in finem : quare fáciem tuam avértis, oblivísceris tribulatiónem nostram ? Adhǽsit in terra venter noster : exsúrge, Dómine, ádiuva nos, et líbera nos. 目ざめ給え主よ、なぜまだねむり給うか。目ざめ給え、われらをいつまでも見すて給うな。なぜ御顔をそむけ給うか。なぜわれらの苦しみをすて置き給うか。われらの肉体は土地につながっている、主よ、目ざめてわれらを助け、われらを解放した給え。
Ps. ibid., 2. (詩篇、43ノ2)
Deus, áuribus nostris audívimus : patres nostri annuntiavérunt nobis. わが主よ、われらは、自分の耳で、祖先が主の御業をわれらに語るのをきいた。
V/.Glória Patri. ℣. 願わくは、聖父と(栄誦)。
Exsúrge, quare obdórmis, Dómine ? exsúrge, et ne repéllas in finem : quare fáciem tuam avértis, oblivísceris tribulatiónem nostram ? Adhǽsit in terra venter noster : exsúrge, Dómine, ádiuva nos, et líbera nos. 目ざめ給え主よ、なぜまだねむり給うか。目ざめ給え、われらをいつまでも見すて給うな。なぜ御顔をそむけ給うか。なぜわれらの苦しみをすて置き給うか。われらの肉体は土地につながっている、主よ、目ざめてわれらを助け、われらを解放した給え。

Oratio. 集祷文
Deus, qui cónspicis, quia ex nulla nostra actióne confídimus : concéde propítius ; ut, contra advérsa ómnia, Doctóris géntium protectióne muniámur. Per Dóminum. 天主よ、自分の行うどんな行いにも頼りえないわれらのことを、御身は知り給う。願わくは、異邦人の博士(聖パウロ)の御保護により、われらを患難より守り給わんことを、天主として、‥。  
Léctio Epístolæ beáti Pauli Apóstoli ad Corínthios. 使徒聖パウロの、コリント人への書簡の朗読
2 Cor. 11, 19-33 ; 12, 1-9. (後書、11ノ19-33。12ノ1-9)
Fratres : Libénter suffértis insipiéntens : cum sitis ipsi sapiéntes. Sustinétis enim, si quis vos in servitútem rédigit, si quis dévorat, si quis áccipit, si quis extóllitur, si quis in fáciem vos cædit. Secúndum ignobilitátem dico, quasi nos infírmi fuérimus in hac parte. In quo quis audet, (in insipiéntia dico) áudeo et ego : Hebrǽi sunt, et ego : Isrælítæ sunt, et ego : Semen Abrahæ sunt, et ego : Minístri Christi sunt, (ut minus sápiens dico) plus ego : in labóribus plúrimis, in carcéribus abundántius, in plagis supra modum, in mórtibus frequénter. A Iudǽis quínquies quadragénas, una minus, accépi. Ter virgis cæsus sum, semel lapidátus sum, ter naufrágium feci, nocte et die in profúndo maris fui : in itinéribus sæpe, perículis flúminum, perículis latrónum, perículis ex génere, perículis ex géntibus, perículis in civitáte, perículis in solitúdine, perículis in mari, perículis in falsis frátribus : in labóre et ærúmna, in vigíliis multis, in fame et siti, in ieiúniis multis, in frigóre et nuditáte : præter illa, quæ extrínsecus sunt, instántia mea cotidiána, sollicitúdo ómnium Ecclesiárum. Quis infirmátur, et ego non infírmor ? quis scandalizátur, et ego non uror ? Si gloriári opórtet : quæ infirmitátis meæ sunt, gloriábor. Deus et Pater Dómini nostri Iesu Christi, qui est benedíctus in sǽcula, scit quod non méntior.Damásci præpósitus gentis Arétæ regis, custodiébat civitátem Damascenórum, ut me comprehénderet : et per fenéstram in sporta dimíssus sum per murum, et sic effúgi manus eius. Si gloriári opórtet (non éxpedit quidem), véniam autem ad visiónes et revelatiónes Dómini. Scio hóminem in Christo ante annos quatuórdecim, (sive in córpore néscio, sive extra corpus néscio, Deus scit :) raptum huiúsmodi usque ad tértium cælum. Et scio huiúsmodi hóminem, (sive in córpore, sive extra corpus néscio, Deus scit :) quóniam raptus est in paradisum : et audivit arcána verba, quæ non licet homini loqui. Pro huiúsmodi gloriábor : pro me autem nihil gloriábor nisi in infirmitátibus meis. Nam, et si volúero gloriári, non ero insípiens : veritátem enim dicam : parco autem, ne quis me exístimet supra id, quod videt in me, aut áliquid audit ex me. Et ne magnitúdo revelatiónem extóllat me, datus est mihi stímulus carnis meæ ángelus sátanæ, qui me colaphízet. Propter quod ter Dóminum rogávi, ut discéderet a me : et dixit mihi : Súfficit tibi grátia mea : nam virtus in infirmitáte perfícitur. Libénter ígitur gloriábor in infirmitátibus meis, ut inhábitet in me virtus Christi. 兄弟たちよ、あなたたちは賢い者であるから、よろこんで愚かな者をたえ忍んでいる。そうだ、あなたたちは、奴隷にされても、食われても、掠めとられても、無礼に扱われても、顔を打たれても、たえ忍んでいる。私は恥じて言う、我々は弱かったと。しかし、ある人が鼻にかけることなら、私にも自慢出来る、(私はおろかにも、こういう)。彼らはヘブライ人か? 私もそうだ。彼らはイスラエル人か? 私もそうだ。彼らはアブラハムの裔か? 私もそうだ、彼らはキリストの役者か? (狂気のように私はいう)、私は彼ら以上にそうだ。私の苦労は彼らより多く、牢に入れられたことも彼らより多く、鞭打ちをうけたのは、彼らよりさらにさらに多く、しばしば死の危険にあった。ユダヤ人から、四十に一つ足らぬ鞭を受けたのは五度、三度笞でうたれ、一度石でうたれ、三度難船し、一昼夜海で過ごした。しばしば旅行して、河の難、盗賊の難、同民族からの難、異邦人からの難、町での難、沙漠での難、海での難、偽の兄弟からの難に遭い、苦労し、苦しみ、度度眠らず、飢えかわき、よく断食し、寒気、裸であった。そして、外からのこの〔試煉の〕ほかに、日々の私の重荷、すなわち諸教会への心づかいがある。誰か弱る者があれば、私も弱らざるをえない。誰かが躓けば、私も燃えざるを得ない。もし誇るならば、私の弱さを誇ろう。世々に祝せられ給うわれらの主イエズスの天主および父は、私の偽りなきを知り給う。ダマスコの、アレタ王の下にいる総督が、私を捕えようとして、ダマスコ人の町を守ったが、私は籠にはいって、窓から石垣にそって下され、そして彼の手からのがれた。私も誇るべきか? (それは益ないことであるが、)私はこれから、主の幻視と啓示に〔話を〕移そう。私は、キリストに在る一人の人を知っている。この人は、十四年前に、第三天にまで上げられた――肉体とともにかどうか、肉体を離れてかどうかはしらない、天主が知り給う――。私がこの人について知っていることは、――肉体とともにかどうか、肉体をはなれてかどうかは知らない、天主が知り給う――。この人は天国に上げられて、人に話してはならぬいい表わせない言葉を聞いた。私はこの人について誇ろう、かえって私自身については、自分の弱さだけを誇るつもりである。もし私が自分のことを誇っても、真実のことだけいうのであるから、愚かな者ではない。しかしそれは遠慮する。私を見、あるいは私から聞くことがらより過大な評価を、私に対して持つ人があってはならないからである。私が受けた啓示が偉大なので、高ぶらないように、肉体に一つの刺があたえられた、高ぶらないように私を打つサタンの使いである。私はそれについて、「これを遠ざけ給え」と三度主に祈った。しかし主は「おまえには私の恩寵でたりる、なぜなら〔恩寵の〕力は、弱さのうちに顕われるからである」と答え給うた。それで、私は、特に喜んで私の弱さを誇りにしよう、そうすればキリストの力は私に住み給うであろう。

 

Graduale. Ps. 82, 19 et 14. 昇階誦(詩篇、82ノ19、14)
Sciant gentes, quóniam nomen tibi Deus : tu solus Altíssimus super omnem terram. 天主よ、御身は天主ととなえられ、御身のみ、いと高きもの、全地を司るものであることを異邦人にも知らせ給え。
V/.  Deus meus, pone illos ut rotam, et sicut stípulam ante fáciem venti. ℣. 天主よ、かれらを、つむじ風の如くまわし、風の前のわらのようにあしらい給え。

 

Tractus. Ps. 59, 4 et 6. 詠誦(詩篇、59ノ4、6)
Commovísti, Dómine, terram, et conturbásti eam. 主よ、御身は、地をふるわせ、引き裂き給うた。
V/. Sana contritiónes eius, quia mota est. ℣. 願わくは、そのすき間をなおし給え。地はゆりうごいた。
V/. Ut fúgiant a fácie arcus : ut liberéntur elécti tui. ℣. 主の敵は、弓の前からにげ去り、選ばれたものが救われんことを。

+ Sequéntia sancti Evangélii secundum Lucam. 聖福音 ルカによる聖福音の続誦
Luc. 8, 4-15. (8ノ4-15)
In illo témpore : Cum turba plúrima convenírent, et de civitátibus properárent ad Iesum, dixit per similitúdinem : Exiit, qui séminat, semináre semen suum : et dum séminat, áliud cécidit secus viam, et conculcátum est, et vólucres cæli comedérunt illud. Et áliud cécidit supra petram : et natum áruit, quia non habébat humórem. Et áliud cécidit inter spinas, et simul exórtæ spinæ suffocavérunt illud. Et áliud cécidit in terram bonam : et ortum fecit fructum céntuplum. Hæc dicens, clamábat : Qui habet aures audiéndi, audiat. Interrogábant autem eum discípuli eius, quæ esset hæc parábola. Quibus ipse dixit : Vobis datum est nosse mystérium regni Dei, céteris autem in parábolis : ut vidéntes non videant, et audientes non intéllegant. Est autem hæc parábola : Semen est verbum Dei. Qui autem secus viam, hi sunt qui áudiunt : déinde venit diábolus, et tollit verbum de corde eórum, ne credéntes salvi fiant. Nam qui supra petram : qui cum audierint, cum gáudio suscipiunt verbum : et hi radíces non habent : qui ad tempus credunt, et in témpore tentatiónis recédunt. Quod autem in spinas cécidit : hi sunt, qui audiérunt, et a sollicitudínibus et divítiis et voluptátibus vitæ eúntes, suffocántur, et non réferunt fructum. Quod autem in bonam terram : hi sunt, qui in corde bono et óptimo audiéntes verbum rétinent, et fructum áfferunt in patiéntia. そのとき、おびただしい人々が町々からイエズスの御もとに集ったので、イエズスはたとえをもって話し給うた。「種まく人が種まきに出た。まくとき、道のかたわらに落ちたものは、ふみつけられ、そして空の鳥がこれをついばんだ。岩の上に落ちたものは、生え出たが、うるおいがなかったので枯れた。ほかのは、茨の中に落ちた。茨がこれとともに生え出たのでおおいふさがれた。また、ほかのは、良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」これらのことを話して、「聞く耳ある者はきけ」と呼ばわり給うた。弟子らが、この譬はどんな意味ですかとたずねると、いい給うた、「あなたたちには、天主の国の奥義を知ることを許されたが、他の者には譬で〔話される〕、それは彼らが見て見ず、聞いて悟らないからである。譬の意味はこれである。種は天主の御言葉である。路ばたのは、聞いたのち、悪魔が来て、信じて救われることのないように、その心から御言葉を奪うのである。岩の上のは、御言葉をきいて喜び受けるが、根がないから、しばらくの間信じて、試みのときに退く。茨の中に落ちたのは、聞いてのち、次第に、世の心労と富と快楽とにふさがれて実らない。良い土地のは、正しく良い心で御言葉をきき、これを守り、辛抱づよく、実を結ぶのである」と。
Credo 信経
Ant. ad Offertorium. Ps. 16, 5, 6-7. 奉献文(詩篇、16-5、6-7)
Pérfice gressus meos in sémitis tuis, ut non moveántur vestígia mea : inclína aurem tuam, et exáudi verba mea : mirífica misericórdias tuas, qui salvos facis sperántes in te, Dómine. 私の歩みがよろめかぬよう、主の道において堅め給え。御耳をかたむけて、私の祈りをきき給え。より頼むものを救い給う主よ、御慈悲を示し給え。

Secreta. 密誦
Oblátum tibi, Dómine, sacrifícium, vivíficet nos semper et múniat. Per Dóminum nostrum. 主よ、主にささげられた供物によって、常にわれらを生かし。保護し給え。天主として・・・。

 

Ant. ad Communionem. Ps. 42, 4. 聖体拝領誦(詩編、42ノ4)
Introíbo ad altáre Dei, ad Deum, qui lætíficat iuventútem meam. 私は天主の祭壇に上がろう、私の若さをよろこびでみたし給う天主の方へ。

Postcommunio. 聖体拝領後の祈
Súpplices te rogámus,omnípotens Deus : ut, quos tuis réficis sacraméntis, tibi étiam plácitis móribus dignánter deservíre concédas. Per Dóminum. 全能の天主よ、ひれ伏して願い奉る。この秘蹟によって養われた者に、思召にしたがって生き、ふさわしく奉仕する恵みを与え給え。天主として・・・。
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ラテン語典礼 ローマ聖務日課 2018年2月の聖務日課をKindleの中に入れるためのmovi ファイルをご紹介します

2018年01月30日 | カトリックとは
ラテン語典礼 ローマ聖務日課 2017年12月の聖務日課をKindleの中に入れるためのmovi ファイルをご紹介します


アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 レネー神父様が作って下さった大変良くできた聖務日課のファイルを愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。レネー神父様のために、感謝を込めて天使祝詞をたくさん唱えて下さい。

 2018年2月分のローマ聖務日課のmoviファイル

I am very happy to be able to share a well done file in movi format in order to pray the Divine Office (Breviary) during the whole month of February 2018. This was made by Rev. Fr. Laisney. Please offer prayers for him as well while you are praying with his file.

 Breviarium Romanum mensis Februarii anno MMIIXX


 天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
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2017年9月29日 大天使聖ミカエルの祝日「大天使聖ミカエル、ファチマの天使が教える 『謙遜』について」

2018年01月30日 | お説教・霊的講話
2017年9月29日(金)大天使聖ミカエルのミサ
小野田神父 説教


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

今日は2017年9月29日、大天使聖ミカエルの大祝日を祝っています。
特に大天使聖ミカエルは聖フランシスコ・ザヴェリオによって日本の守護の天使として定められました。ですから大天使聖ミカエルは日本にとって、とても大切な天使です。
私たちは今日この祝日を、特別な敬虔の念を以て捧げたいと思っています。

そこでこの大天使聖ミカエルの祝日、また初金曜日に私たちが聖時間をする事ができないので、今日は特別にミサの後に、初金曜日ではないのですけれども、短い御聖体降福式を捧げます。

今日は大天使聖ミカエルの大祝日にあたって、3つの点を簡単に黙想する事を提案します。

1つは、大天使聖ミカエルとは一体そのどういう御方なのか、皆さんぜひ知って下さい。

そして、大天使聖ミカエルは私たちに一体何を教えているのでしょうか?まずその名前が、また大天使聖ミカエルはつい最近、100年前ファチマで子供たちに私たちに、何をしなければならないかという事を教えてくれました。

最後にその教えてくれた事を、私たちは遷善の決心として立てる事に致しましょう。

大天使聖ミカエルという方は一体どんな方なのでしょうか?

皆さんよくご存知の通り、大天使聖ミカエルは目に見えない純粋の霊であり、被造物であって、聖書においては「天使」といわれている特別の被造物に属しています。この天使は詳しく言うと、聖パウロと旧約聖書によれば、9つの階級があります。

大天使聖ミカエルはある日、創造を受けました、他の天使たちと共に創造されました。これはどういう事かというと、人間やこの目に見える動植物や、この目に見える三次元の大宇宙の世界と全く異なり、私たちが一般に、聖書で一般に「天使」と言われている純粋の霊は、物体も肉体も持たない存在です。それなので天主様から直接に創造されます。

また動物や人間のように感覚、目で見たり、耳で聞いたり、手で触ったりする事なく、天使たちは全て直接に、生まれながら知識を持って生まれてきました。人間よりも更に優れた知性を持っています。

天使たちの意思は人間よりもはるかに強く、もしも天使が「これだ!」と決めれば、もうその意志は固く、何も誰もそれを覆す事ができません。

天使の力は私たちりもはるかに超えて、移動する事もその力も、人間の想像を全く超える大きなものになっています。

天使たちは、天主の御旨を果たす為に創られました。天主と天使の違いは何かというと、ただ天使には始まりがあり、天主様には永遠の、始まりもなく、永遠の昔から永遠の未来まで無限にいつも常に存在してるのですけれども、天使は被造物であるが故に、限界があり、限りがあり、始めがあって、終わりがない存在です。もちろん天使はその事をよく知っていて、その永遠の威光の天主の御稜威の前に、いつも讃美と感謝と礼拝を捧げています。

天使たちの数は人間の、私たちがアダムとエヴァとその中の人間の最後の数をはるかに超えるほどいます。人間の数の何十倍何百倍かは私たちはその数を言う事はできませんが、それをはるかに超えるほどの数があります。

そして天使の一位一位は、天使の存在1つ1つは全て、全く異なった存在なのです。これはどのような事になっているかというと、例えば人間は同じ、何億の人間がいたとしても1つの種として、「人間」という種の中に1つです。人間と、犬とか、猫とか、猿とか、ロバとか、馬とかは別の種で、1つ1つが違いますが、天使たちは一位一位が、馬と、猫と、猿と、鳩が違うほど、種が違っています。

天主の全能は、その天使たちの一位一位をそれぞれ別の全く違う種として創るほどの無限の存在ですから、そのようなバラエティーに富んだ色々な種類の種の天使たちを創る事ができました。

その9つの階級に従って天主を愛しているのですけれども、ある日その天使の一部が反乱を起こしました、「天主の御旨には従わない、私は従わない!“Non serviam!”」

その反乱の時に、9つの下から2番目だった階級の大天使聖ミカエルは、「誰が一体、天主と等しいものがあるだろうか!」

私たちは天主から創られた身である。私たちは天主に従わなければならない。一体どのような事があっても、天主の御旨に従わなければならない。私たちは従う、反乱しない。どのような屈辱があったとしても、どのような辛い事があろうと、どのような何があろうと、私たちは従う。天主こそ私たちの主である。「誰が天主に等しいだろうか!」

大天使聖ミカエルは、その反乱軍の天使たちに対して他の天使たちと共に戦って、遂に彼らを地獄に突き落とすのです。そこで大天使聖ミカエルは、その天主への忠実の為に、反乱軍に代わる天使の長となりました。

ではこの大天使聖ミカエルは私たちに、何を教えているでしょうか?

「謙遜」を教えています、「一体誰が、天主に如(し)く者があるだろうか。」その名前の通りです。大天使聖ミカエルはファチマにおいて100年前に、3回子供たちに現われました。その時に大天使聖ミカエルが言った事をぜひ私たちも考察致しましょう。

まず大天使聖ミカエルは、第1の現われた時に、「私はポルトガルの平和の天使である。守護の天使である」と言って、そしてこの祈りをしました、「我が天主よ、」大天使聖ミカエルにとって、その自分の、あるいは最も被造物にとって大切なのは、この一語に尽きます、「我が天主よ。」

ファチマのメッセージはここから始まらなければなりませんでした。そして私たちの人生も、私たちにとって最も中心になる考えも、ここから始まらなければなりません。「我が天主よ、」謙遜とは何かというと、まさにここにあります。私たちが被造物であるという事を認めて、天主が在すという事を認識する事です。「我が天主よ、」大天使聖ミカエルは子供たちに、自分の態度をもって教えました。

子供たちによるとシスタールチアによると、「15、6歳の若い、とても美しい青年でした。体はクリスタルのように透き通っていて、太陽の光が通ると非常に輝く、美しく輝いていました。そしてそれと同時に、畏怖の念を起こさせるもので、力強さと、その尊厳と威厳に満ちていました。」

皆さんも、大自然のものすごい山の頂きの中から上から崖を見たり、あるいはきれいに咲く花々を見たり、あるいは恐ろしい雷や大地震や、大自然の力を目の当たりにした時に、その自然界の恐ろしいその力に、偉大な力の前に、畏怖の念を感じるかもしれませんが、子供たちも大天使聖ミカエルを見て非常に、その力強さに畏怖を感じました、恐れおののきました。

その大天使聖ミカエルは自分の体を屈めて、膝を屈めて額突いて、額を地面に付けて、「我が天主よ、我信じ、礼拝し、希望し、御身を愛し奉る」と子供たちに教えました。「さぁ、このように祈れ。」

私たちはまさに謙遜でなければなりければなりません。聖フランシスコ・ザヴェリオがなぜ日本の守護の天使に大天使聖ミカエルを選んだかというと、「日本は謙遜でなければならないから」と言っています。まさに私たちも、真の天主を信じ、礼拝し、希望し、愛さなければなりません。

「信ずる」という事は、「天主が仰った事は確かに正しい」という事です。科学者が何を言おうと、あるいはどこかの大学の先生が何を言おうと、あるいは何とか新聞が何とか言おうと、ツイッターが何を言おうと、イギリスのエコノミストが雑誌が何を言おうと、「天主がこう仰ったという事は、絶対の真理だ」と信じる事です。天主は真理そのものにて在して、自分が間違える事も、私たちも騙す事もない。その権威がゆえに、そのそれに私たちの知性を従えさせる事です。

「礼拝する」という事は、私たちが天主から創られたという事で、「天主が創造主である」という事を認識する事です、「全て天主のもとに私たちを従わせる」事です。それが礼拝という事です。その事はもちろん態度で、跪いたり、額突いたり、あるいは香を焚いたり、あるいはいけにえを捧げたりする事で表明できます。また私たちの意思を全く主の意思に従わせる事によって、礼拝を示す事ができます。

「主を希望する」という事は、「主は私たちの善を願っている」という事を認めて、「主は決して私たちに約束を違える事がない。私たちに必ず永遠の命と、それに必要な全ての手段を、助けを下さる、約束を守られる」という事を希望する事です。それを信頼する事です。

「主を愛する」という事は、「主がこの地上の全ての目に見える善に勝って、全てのありとあらゆる有限の存在それらに勝って、この森羅万象の全てのものに勝って、全てに超えて、全てに超える善である」という事を認めて、私たちはそれを愛する事です。それを望んで、それだけを、それをも自分自身よりも更にそれを求めて愛する事です。そして遂にそれを永遠に享受するという事です、楽しむという事です。

ここにこそ私たちの本当の創造の目的があって、ここにこそ本当の幸せがあって、ここにこそ本当の私たちの憩いがあります。それを大天使聖ミカエルは私たちに教えようとしています。

しかし残念ながら、残念ながら世界の人々は、特に日本では、この本当の幸せを、本当の真理を信じる人も、礼拝する人も、希望する人も、愛する人もほとんどいません。主が私たちを、特に日本の国の人々をこれほど愛しておられるにもかかわらず、それは無関心と、あるいは無知の為に、冒瀆やあるいは侮辱によって、その主の愛は返されています。

そこで大天使聖ミカエルは私たちに、彼らに代わって赦しを願うように、「信じない人々、礼拝しない人々、希望しない人々、愛さない人々に代わって、御赦しを乞い願い奉る」と祈るように教えています。また「恐ろしくも冒瀆されている、屈辱を受けている、犯されているイエズス・キリストをお慰めする為に、私たちが愛をこめて、償いの為に聖体拝領をするように」と子供たちに教えました。聖母の汚れなき御心の教会の中に招かれている私たちは、その真理を知っています。そして私たちは、大天使聖ミカエルが何を求めているかを知っています。

ですから今日、遷善の決心を立てましょう。

ぜひ大天使聖ミカエルの名前の通りに、私たちもこの雄叫びを心に響かす事ができますように、「誰が一体、天主に等しい者があるだろうか!」私は一体誰か?被造物であり、罪人であり、贖いを、赦された、贖いの恵みを受けた者である。大天使聖ミカエル、我らの為に祈り給え。私たちの為に取り次いで下さい。私たちがいつも主の御旨だけを果たす事ができますように、もしも主の御旨に背くような事が、私の心がそれに逆らうように誘われても、「一体誰が天主に等しい者があるだろうか!いや、私は主に従わなければならない。イエズス・キリストの望みを果たさなければならない!」と聖ミカエルに付いて行く事ができますように、そして大天使聖ミカエルのように、どのような誘惑があっても、「いや、No!私は従う!」と言う事ができますように、主に背く全てのものを排除するできますように、大天使聖ミカエルの御旗の元に従う事ができますように、付いて行く事ができますように、それを求めましょう。

そして大天使聖ミカエルが教えて下さった祈りを私たちがいつも唱えますように、心の中で、「あぁ我が天主よ、我信じ、礼拝し、希望し、御身を愛し奉る」といつも祈り続けている事ができますように、何をしている時もこの祈りを射祷で唱える事ができますように、そしてミサの時には、あるいは霊的な聖体拝領としてイエズス様を、恐ろしくも侮辱されているイエズス様をお慰めする、償いの聖体拝領ができますように、特にマリア様の汚れなき御心を通して、その聖体拝領をする事ができますように、特別のお恵みを乞い求めましょう。

「大天使聖ミカエル、我らの為に祈り給え。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
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ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」第二部 活動的生活と内的生活を一致結合させること 一、天主の御眼からみれば、内的生活は活動的生活にまさっている

2018年01月30日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第二部 活動的生活と内的生活を一致結合させること
その一、 天主の御眼からみれば、内的生活は活動的生活にまさっている

をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

第二部 活動的生活と内的生活を一致結合させること

一、 天主の御眼からみれば、内的生活は活動的生活にまさっている


 天主においては、いっさいが“生命”である。
 天主は、“生命”そのものである。
 さて、無限の天主が、この生命を、最も鮮烈に、最も濃厚に、最も花やかにおあらわしになるのは、けっして、たとえば天地創造のような、その外的事業においてではない。それは、神学者たちが、「Operatio ad intra」「天主の内奥においていとなまれる業」と呼んでいる、その形容しがたい内的活動においてであり、この天主的活動の究局の成果は、御父が、永遠から永遠にわたって御子を生む、ということ、さらに御父と御子から、聖霊が、永遠から永遠にわたって発出する、ということ、この二つである。
 御子の出生と、聖霊の発出――ここにこそ、天主の本質的な、永遠的な事業があるのだ。
 いましばらく、われらの主イエズス・キリストの地上生涯に、目をそそいでみよう。
 イエズスこそは、天主のご計画の、完全な実現でいらっしゃるからである。
 イエズスは、まず三十年間を、沈黙と隠棲のうちに、お過ごしになった。次に、四十日間の黙想と苦業が、その短い三か年間の公生活の序曲だった。しかも、その短い公生活の間ですら、イエズスは祈るために、どれほどしばしば、あるいは山に、あるいは砂漠に、おしりぞきになったことだろう。Recedebat in desertum et orabat(ルカ5・16)あるいはまた、夜を徹して、天主に祈られたことだろう。Pernoctans in oratione Dei(ルカ6・12)

 さらに、意味深長なエピソードが、ここにある。マルタとマリアの争いがそれだ。
 イエズスを接待したさい、マルタは、マリアが何もしないで遊んでいる、といって、さかんにマリアを非難する。イエズスに、マリアをしかっていただきたいのである。活動的生活が、「主の足もとにすわって、み言葉にきき入る」(ルカ10・39)観想的生活にまさっているゆえんを、力説していただきたいのである。

 だが、イエズスのお答えは、意外だ。
 「なくてはならぬものは、一つだけである。マリアは、最良の部分を選んだのだ」(ルカ10・42)とおっしゃったイエズスは、あきらかに、内的生活の優越性を、ご宣言なさったのである。祈りの生活、念禱の生活が、活動の生活にはるかにまさっていることを、ふかくわれわれに納得させたいおぼし召しがあったればこそ、イエズスはそう仰せられたのである。

 聖霊降臨のあと、伝道事業が多忙をきわめたとき、使徒たちはあくまでも、師の教訓を忠実に守って、まず祈りの務めに専心するのだった。そして、天主のみ言葉の宣伝に専念することができるようにと、俗務はすべてこれを助祭に一任するのだった。
 「わたしたちが、天主のみ言葉をさしおいて、食卓のことにたずさわるのはおもしろくない。そこで、兄弟たちよ、あなたがたの中から……七人をさがしだしてほしい。その人たちに、この仕事をまかせ、わたしたちは、もっぱら祈りとみ言葉のご用に当たることにしよう」(使徒行録6・3~4)

 師たるイエズスに源を発する、この伝統的考え方は、世紀の坂をくだっても、すこしも衰えをみせず、いつも歴代の教皇、教会博士、神学者たちの脳裏を支配してきた。かれらはみな一様に、内的生活は、それ自体、活動生活にまさるのだ、と断言してきた。

 かれこれ五六十年前のことだが、フランスはアベロン市(Aveyron)に、女子教育専門の修道会の総長がいた。彼女は信仰の人であり、人格者であり、偉大な性格のもちぬしだった。教区の上長たちは、彼女に、配下の修道女らの世俗化(la sécularisation)を極力勧めた。

(時の革命政府の宗教圧迫の結果、フランスでは修道会は禁止された。宗教教育を主旨とする自分の学校経営をつづけていくためには、どうしても修道生活を捨て、修道服をぬがなければならぬ。――彼女はジレンマにおちいった。―訳者)

修道生活のために、学校経営という事業を犠牲にすべきか、或いは修道生活を捨てて学校経営という事業を守るべきか?どうして良いか分からず、

天主のみ旨をどうやって知るかが分からなかったので、彼女はひそかにローマに行き、時の教皇レオ十三世に、謁見をもとめ、自分の疑いを打ち明け、また、修道生活を続けて事業を続けるようにとの圧力を受けていることを話した。

(「学校事業を続けてほしいと、人びとがしきりにわたしにすすめ、わたしの同意を強要しているのでございます。学校を続けますと、わたしどもは修道生活に、お別れしなければなりません。どちらにしてよろしいのか、わたしには判断ができませんので……」―訳者)

 いとも尊敬すべき老教皇は、耳をかたむけて、彼女の言葉にきき入り、しばし沈思熟考の様子だったが、やがて頭を上げて、次のような、まことに断固たるお答えをなさったのである。

 「あなたの娘たちの中で、ほんとうに修道精神を持っているひとが、ほんとうに念禱生活を愛好しているひとがおありでしょう。それなら、何より先に、またどんな事業を犠牲にしても、まずこれらの修道女に、修道生活をりっぱに確保してやることです。もしあなたが、修道生活も確保できない、学校経営も確保できない、というのでしたら、天主さまはきっとフランスに、他の事業をいくつも起こしてくださるでしょう。もしそれが必要だと、おぼし召されるのなら。
 あなたがたが、ほんとうにりっぱに修道生活をおやりでしたら、たとえそのためにフランス政府から、外国へ追放されるようなことがありましても、あなたがたは、あなたがたのお祈りと犠牲の功徳によって、以前にもまして、祖国フランスのためにお役に立ちましょう。せっかく天主様に一生をおささげした結果、手に入れた霊のたからなる修道生活を奪われたまま、国内にとどまって、教育事業にたずさわっているよりも、そのほうがもっともっと、フランスのためにはなるでしょう。」
« Avant toutes choses, avant toutes oeuvres, gardez la vie religieuse à celles de vos filles qui ont vraiment l'esprit de leur saint état et l'amour de la vie d'oraison. Et si vous ne pouvez conserver et cela et les oeuvres, Dieu saura susciter en France d'autres ouvrières, s'il le faut. Pour vous, par votre vie intérieure, surtout par vos prières, par vos sacrifices, vous serez plus utiles à la France, en Testant vraiment religieuses, même loin d'elle, qu'en demeurant sur le sol de votre patrie, privées des trésors de votre consécration à Dieu. »
 これと同じ所信を、聖ピオ十世教皇は、ある教育専門の大修道会にあてた書簡のなかで、表明していられる。
 「わたしのきいたところによれば、こういう意見が、世間に流行している、と。しかもこの意見に追従して、あなたがたは、青少年の教育事業を、第一位におき、あなたがたの修道生活を、その次においている、そして、現代の精神と必要が、それを要請している、と。
 だが、わたしは、このようなまちがった意見が、あなたがたの修道会において、また、あなたがたと同じように、教育を主旨とする他の修道会において、たとえごくわずかにもせよ、修道者たちから信用をかちえることを、絶対に許さない者である。物には序列がある。順位がある。この序列、この順位を、あなたがたの生活にハッキリさせてほしい。すなわち、修道生活は、普通一般の生活よりも、はるかに優越する地位を占めるべきである。
 また、あなたがたは、自分たちの教育の義務によって、隣人にたいして重大な負債がある、とおっしゃっておられる。ごもっともである。だが、あなたがたは、それよりさき、天主に宣立した修道誓願のゆえに、天主にたいしては、いっそう重大な負債があることを、了承しなければならぬ。」
Nous apprenons qu’une opinion est en train de se répandre, d’après laquelle vous devriez mettre au premier rang l’éducation des enfants, et la profession religieuse seulement au second : ainsi l'exigeraient l'esprit et les besoins du temps, Nous ne voulons absolument pas que cette opinion trouve tant soit peu de crédit auprès de vous et des autres Instituts religieux, qui, comme le vôtre, ont pour but d'édurcation. Qu’il soit donc bien établi, en ce qui vous concerne, que la vie religieuse l’emporte de beaucoup sur la vie commune et que si vous êtes gravement obligés à l’égard du prochain par le devoir d’enseigner, bien plus graves encore sont les obligations qui vous lient envers Dieu.

 さて、修道生活の存在理由、その主要目的は、内的生活を身につけることである。
 これ以外のなにものでもないはずだ。
天使的博士・聖トマスは、次のようにいっている。
「観想的生活は、それ自体、活動的生活よりも、いっそうすぐれている。いっそう好ましいものである。」

 さらに、聖ボナヴェントゥラは、内的生活が、活動的生活にまさっていることを示すために、多くの比較形容詞を使って、次のようにいっている。
 「内的生活は、活動生活にくらべて、いっそう高貴である。いっそう安全である。いっそう効果に富んでいる。いっそう甘美である。いっそう恒久的である。Vita sublimior, securior, opulentior, suavior, siabilior」


 (一)Vita sublimior ――内的生活は、いっそう高貴である。
 活動的生活は、人間あいての生活である。
 観想的生活は、天主あいての生活である。
 観想的生活は、われわれを、いっそう高尚な真理の境地に、ひき入れる。それでも、真理の観照によって、現実の生活を忘れさせない。人間生活の第一原因なる天主から、常にまなざしを離させないからである。
 観想的生活は、活動的生活よりも、いっそう高尚である。高尚だからこそ、活動的生活に比べて、いっそう広範な分野をもっている。
 「マルタは、からだで、タッタ一つの場所にしかいなかった。そして、ただわずかなことについてだけ思いわずらい、わずかなことのためにだけ、せわしく立ち働いていた。これに反して、マリアは、心に燃えさかっている愛によって、多くの場所におり、多くの仕事をしている。マリアは、天主を観想し、天主を愛することによって、あらゆる事物を見ている。そのために、心が広くなって、あらゆる事物に達し、あらゆる事物をとらえ、あらゆる事物をわが身に抱容する。
 マリアにくらべると、マルタはごくわずかなことについてしか、思いわずらわなかった、といえるだろう」(『雅歌について』八)
 これは、サン・ビクトールのリシャール師の言葉だが、まことに真理をうがっている。

(二)Vita securior ――内的生活は、いっそう安全である。
  内的生活には、危険は、ほとんどないといってよい。
  活動にばかり没頭している生活には、危険はつきものだ。
  霊魂は、いらだつ。熱に浮かされたように、興奮する。エネルギーは消耗する。
  それで、霊魂のちからは、よわっていく。
  活動的生活には、三つの危険がある。
  「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことについて、思いわずらい、心を騒がしている」(ルカ10・41)

  第一の危険「思いわずらう」――これは頭のなかに起きる心配ごとである。
  第二の危険「心を騒がす」――これは、心のなかに起きる感情のあらしである。
  第三の危険「多くのことについて」――たくさんの用務にたずさわっているから、そこから自然、努力にも、行動にも、分裂が生じてくる。
  これに反して、内的生活を心に確保するためには、いっさいの事がらを、タッタひとつのこと――すなわち天主との一致に、集中してしまう必要がある。げに、なくてはならぬものはタダ一つ!他のことはみな、第二次的の価値しかない。天主との一致を達成するための、また、天主との一致をいっそう深めていくための、手段でしかないのだ。
(三)Vita opulentior ――内的生活は、いっそう効果に富む。
 内的生活は、観想的生活とともに、「よいものがすべて、同時に、わたしにくる」(知恵の書7・11)
 内的生活は、人間のあらゆる生活様式のなかで、「最良の部分」(ルカ10・42)なのである。
 内的生活は、活動的生活よりも、功徳が多い。なぜか。
 内的生活をすれば、意志は天主にむかって、ますます高く飛翔するからである。
 成聖の恩寵は、霊魂に、ますますみなぎりあふれるからである。
 霊魂は、天主を“愛する”という唯一の動機から、いっさいの行動を起こすようになるからである。

 (四)Vita suavior ――内的生活は、いっそう甘美である。
 ほんとうに内的な霊魂は、天主のおぼし召しに、おのれをゆだねる。
 天主をおよろこばせすることだけを考える。
 楽しいことも、苦しいことも、同じ心をもって、忍耐づよい心をもって、甘んじ受ける。
 艱難にあっても、よろこばしい顔つきをしている。
 十字架をになうのを、幸福のきわみとさえ思っている。
 世の中に、これほど幸福な人がいるだろうか。

 (五)Vita stabilior ――内的生活は、いっそう恒久的である。
 活動的生活が、どんなに激烈であっても、それはしょせん、この世かぎりのものである。
 説教も、教育も、その他あらゆる事業も、死の関門にたてば、たちまちおきざりにされて、永遠の世界にまでついていくことはできない。
 内的生活だけは、永遠に絶えることがない。
 だれも、これを奪い去ることはできない。(ルカ10・42)
 内的生活によって、この世の旅路は、永遠の光照にむかっての、内心の絶えまない向上となるのだ。内心の向上の果てる処、そこには死の関門が、ひかえてはいるだろう。だが、この死の想定さえも、内心の向上を、たぐいなくいっそう強烈に、いっそう迅速にするのみである。
 内的生活の優越性についての本章を総括する、聖ベルナルドの有名な言葉がここにある。

 「内的生活によって、人はいっそう純潔になる。
 あやまちに落ちいることは、いっそう少なくなる。
 あやまちに落ちいっても、いっそう早くたちなおる。
 救霊の道を、いっそう安全にたどる。
 いっそう多くの恩寵をいただく。 
 いっそう安らかにいこう。
 いっそう安らかに死ぬ。
 煉獄では、いっそう早くきよめられる。
 天国では、いっそう大きなむくいをいただくのである」(聖ベルナルド『福音書注解』)
« En elle l’homme vit plus purement, tombe plus rarement, se relève plus promptement, marche plus sûrement, reçoit plus de grâces, repose plus tranquille, meurt plus rassuré, est plus vite purifié et obtient une plus grande récompense.»

[Haec (vita) sancta, pura et immaculata, in quo homo vivit purius, cadit rarius, surgit velocius, incedit cautius, irrogatur frequentius, quiescit securius, moritur fiducius, purgatur citius, praemiatur copiosius (S. BERNARD, Hom. Simile est.).


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2017年9月10日(主) 説教 「まず、天主の国とその正義を求めよ。」 

2018年01月28日 | お説教・霊的講話
2017年9月10日(主日)聖霊降臨後第14主日のミサ
小野田神父 説教


聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。

今日は2017年9月10日、聖霊降臨後第14主日のミサをしています。

今日のこのミサの後には14時から公教要理の続き、特に聖書の背景として、ファリザイ派やサドカイ派について話をしましたので、今度はエルサレムの神殿について話を進めたいと思っています。
16時からは主日の晩課があります。明日は朝7時からミサがあります。

この次のミサは10月1日です。10月は1日と22日です。


「まず、天主の国とその正義を求めよ。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日のこのミサは、全て天主の国と肉の国、マンモンの国との比較になっています。そしてミサでは、「その肉の国にいるよりは、天主の御元にいるほうが、すぐ近くにいるほうが、他の所に何千日いるよりも、あなたの元で1日いる方がもっと楽しい。もっと幸せだ。肉のどんなに力のある人々に頼るよりも、御身に信頼した方がよっぽど信頼が置ける。どれほど利益がある事か」と歌っています。

そこでまず今日は、今日のミサのメインテーマをまず垣間見て、

次に私たちの現実を、一体私たちはどうなのかという事を見て、ミサに従って、私たちにはどんな事が与えられているか、という事を黙想します。

そして最後に、では私たちに与えられた助けを黙想して、そして最後に遷善の決心を立てる事に致しましょう。

今日の書簡も福音書も、はっきりと2つの国について話しています。

「肉の国、肉の業は何か。」肉の業は色々聖パウロが名前を挙げていますが、「はっきり言うけれども、これらの事をする人は天の国を継がない、天国には行かない」と非常にはっきり言います。

「ところが、霊に従って生きる人は、天主の精神に従って生きる人は、聖霊の実りを頂く、12の実りを頂く。そしてこれらに反する法というものは全くない。」

イエズス様も聖福音で言います、「人は2つの主人に仕える事はできない。一人を尊重してあるいは一人を憎むか、一人を信頼して一人を裏切るか、どちらかを選ばなければならない。」

そして私たちについては、「心配するな。なぜかというと、天主は私たちの父であって、私たちが必要なものを全て知っておられて、私たちと共に心を配って下さっているから。私たちが天主の事に心を使えば使うほど、天主が私たちの代わりに私たちに必要なものは全て与えて下さる。だからまず天主の国を求めよ。そして肉の国に仕えようなどという罠にかかるな」と仰っています。この2つのテーマは、私たちにとって非常に良く黙想、私たちが黙想するとても親しみのある事です。

ところで第2の点は、私たちは一体そのような事をよく知りつつも、実際の生活はどうなのでしょうか?

「私たちは天の国をまず求める、その義を求める。天にまします我らの父よ、願わくは御名の尊まれん事を、御国の来たらん事を」とお祈りしますが、しかし残念ながらこれらのお祈りは時々機械的になってしまって、いざ私たちが選択に迫られると、「天主の御旨を、天主の御望みのものを」というよりは、「私の望みを、私の思う通りに」となってしまうのではないでしょうか。あるいは、「天主の御旨を果たす」と言いながらも、実は妥協して、それでも私の思いを中に入れて、そして結局はあまり霊魂の救いの為にも、天主の御国を求める為にもあまり役に立たない、中途半端なものしか出来上がらないのではないでしょうか。皆さんもご存知の通り、服を着るにも、車を作るにも、やはり中途半端であると、それは使い物になりません。まさに天主様に捧げるものはそうです。私たちのその心は見るでしょうが、しかし中途半端は中途半端で、使いものになりません、役に立たないものとなってしまいます。

では、このような私たちの現実を見ると、弱い私たちを見ると、必ずしも主の御旨を求めて、というよりは、「両方に仕えたい、両方に妥協する。」あるいは「ちょっと待って、明日。今日はこれをやって、明日、天主様の御旨を。」明日になると、「また明日、」と伸ばしたり、バーゲンをしたり、値引きをしたりとするのではないでしょうか。

まさに主祷文が言っているように、主の御助けなければ、私たちは本当に人間の弱さの内に倒れてしまって、主の助けをもって私たちは初めて良く生きる事ができるという現実を目の前にして生きています。これは私たちが毎日経験する事です。

そこでそのような私たちに、良い救いが与えられています。「御身なければ私たちにはできない」という私たちの祈りを聞き入れて下さったかのようです。それは何かというと、私たちのいつもそばにいる「マリア様」です。特に今年はファチマのマリア様の100周年を祝っていますから、マリア様の私たちに思い出させてくれる助けをよく思い出す事に致しましょう。

ファチマではマリア様は、御現れになる毎に子供たちにお願いしました、「毎日ロザリオを唱えて下さい。来たるべき危険から救う事ができるのはこの方だけです、ロザリオの元后だけです。」秋田でも同じ事を仰いました、「あなたたちに残された武器は、ロザリオと御子の残されたしるしだけです。私に取りすがる者は助けられるでしょう。」

マリア様はあたかも、現代になって、「あぁ、ロザリオというのは何か、時代遅れの祈りだ。」「ロザリオというのは迷信だ。」「ロザリオというのはもう唱えなくても良いんだ。もっとそれよりも聖書を読んだ方が良い」とか、あるいは「もっと他の事をした方が役に立つ」と言う時代が来る事をご存知であったかのようです。


マリア様はそうではなくて、「ロザリオを毎日唱えなさい。平和の為に祈りなさい」と仰っていました。実際にファチマの御出現の後に世界中で、特にピオ十二世教皇様のもとで、ファチマの聖母が非常に促進されて、ファチマの聖母の事が非常に重要視されて、世界中でこのマリア様の御像が各地を回ったり、ロザリオのお祈りを皆で唱えたり、マリア様に償いと祈りをたくさん捧げるという行事が世界中で行われました。その時に多くの奇跡が起こっています。

例えば戦後直後、第二次世界大戦の直後オーストリア、ハンガリー帝国は第1次世界大戦で分割され、そしてオーストリアという小さな国が残ったのです。小さなオーストリアさえもロシアに、ソ連に占拠されていました。特に首都ウィーンは共産国やスターリンの下で占拠していました。オーストリアが全部が共産党、赤化する赤くなる、共産党の支配の下に留まってしまうという事は、もう誰の目が見ても明らかでした。どうしてスターリンがキリスト教の中心であるオーストリアのウィーンを手放す事があるでしょうか、もっとも中心拠点の中心場所を手放す事ができるでしょうか。もう誰もが、「もう、もはやこれで失われた」と思っている時がありました。しかしその時にオーストリアの国民が、「私はロザリオを唱える」というふうに署名をして、100万人以上がそれに約束したのだそうです。

すると、なぜか分からないのですけれども、説明も無しにスターリンは、共産軍を赤軍を首都から撤去してしまいました。そしてオーストリアは自由諸国の中に留まる事になりました。別に戦ったわけでも何をしたわけでもなくて、ただロザリオを唱えていただけです。

現代私たちも、北朝鮮がミサイルを飛ばすとか、あるいはもしも米朝が戦ったならば朝鮮半島は壊滅するとか、首都は数日の内に壊滅して何百万人という難民が出るだろうとか、あるいは世界中でテロがあるとか、きな臭いニュースなどがたくさんあります。私たちはその時に、どうしてもロザリオの祈りに頼らなければなりません。

ではこの私たちが天主の国をいつも選ぶ事ができる為に、マリア様が私たちに与えられましたが、特に私たちにとってロザリオが大切です。ファチマのシスタールチアは私たちにこう言っています。

フエンテス神父様という、聖ジャシンタと聖フランシスコの列聖列福の為の責任者と選ばれた時に、フエンテス神父様がルチアにインタビューした時にルチアはこう答えています。

「神父様、今この世を救う為に最後の手段が与えられています。その手段は二つあります、『ロザリオ』と『聖母マリアの汚れなき御心に対する償いの信心』です。もしもこの2つを逃すならば、他にはもう手段がありません。」

ちょうど私たちは現代、教会の危機の神秘体の受難の時期にあるかのようです。ですからこそ皆さんは、この児童会館にミサに与って来ていますし、残念ながら教会の危機、多くの方が、「昔ながらの信仰」というよりは「新しい信仰」と、「イエズス・キリストへの信仰」というよりは「それ以外の事」を信じるようになっています。残念ながら。

そして、イエズス様の聖心が聖マルガリタ・マリア・アラコックに言うところによると、「特にイエズス様の聖心を悲しませているのは、洗礼を受けた人々が、あるいは特別に選ばれたイエズス様に捧げられた霊魂たちが、罪を犯したり、あるいは不信であったり、あるいは怠惰であったりして、その務めを果たさない時に、特にイエズス様の聖心が苦しむ。教会の敵がイエズス様を攻撃するよりも、教会の内部の、特にイエズス様から愛された霊魂たちがイエズス様に対して冷淡であると、イエズス様を屈辱する時に特に悲しむ」と言っています。

マリア様がファチマで6月13日にお見せになった御心にも、茨の冠が被せられていました。そのルチアによると、長い棘が刺さっていたそうです。その長い棘は、イエズス様から愛されていた霊魂がイエズス様を侮辱する、その悲しみでなくて一体何でありましょうか。

そうすると、ちょうど対比を見るかのようです。イエズス様の公生活の最後に、イエズス様は十字架に付けられました。イエズス様の肉体が十字架に付けられて受難を受けましたけれども、その時にマリア様は足下でずっと立っておられました。イエズス様の御受難の苦しみをマリア様は聖父に、イエズス様と共に捧げておられました。マリア様の御悲しみによって、七つの剣が貫かされたその御心の悲しみによって、あるいは聖ヨハネは信仰を保ちましたし、十字架の下に留まりましたし、異邦人であった百夫長は回心しました、「確かにこの人は、天主の子であった。」またマリア様のお祈りによってに違いありません、マリア様の側に立っていた善き盗賊は回心しました。聖マグダレナ・マリアも力づけられました。

それと同じようにファチマのマリア様も、イエズス様の御受難、イエズス様の神秘体の受難の今のこの時期に、私たちと共に留まっておられるかのようです。そして御自分の悲しみに満ちた汚れなき御心の中に私たちを招いて、多くの不信者や異教徒や、あるいは罪人たちを回心させようと、現代の良き盗賊と、現代の百夫長たちを回心させようと、あるいは公の罪人であっても回心させようと、現代のマグダレナ・マリアたちを回心させようと、マリア様は招いておられるのです。

もしも私たちもマリア様と共にいるのならば、汚れなき御心と共にいるならば、十字架と共に立ち留まる事ができます。聖ヨハネの真似をする事ができます。

実際に、ファチマのマリア様のこのキャンペーンがマリア様の信心が非常に高まった時に、第二次世界大戦の直後、多くの人々が回心しました。アメリカでは毎年10万人以上の成人が洗礼を受けました。中には共産党だった、有名な教会の敵であった共産党員たちも続々と回心して、カトリックになって、「自分が回心したのは、ファチマのマリア様のおかげだ」と言っています。

このような奇跡がマリア様は、今でも起こす事ができます。もしもマリア様が100年前に太陽の奇跡を起こす事ができたならば、多くの人が信じる事ができるように太陽の奇跡を起こす事ができたのならば、現代でも霊的な太陽の奇跡を、正義の太陽であるイエズス様を私たちの前に輝かせて、多くの不信者たちの目の前にその太陽の光を燦然と輝かせて、そのそれによって暖めて、びしょびしょに濡れている、罪で濡れているものを乾かさして、その前に跪かせて、「確かにイエズス・キリストこそ、真の唯一の天主である。救い主である」と信じさせる事ができます。マリア様はこれを望んでおられるのです。

その為にもお願いに来ました、「どうか、毎日ロザリオを唱えて下さい。」御出現の度にこれを子供たちにお願いしました。「ロザリオを唱えて下さい。来たるべき危険から救う事ができる方は私だけです。」

ですから私たちも、天主の国を求める為にも、天主の御摂理に全く信頼する為にも、私たちの必要なものを全てご存知の御方に信頼する為にも、空に飛ぶ鳥のように私たちもマリア様の元に翔け寄る事に致しましょう。マリア様は私たちに与えられた母であり、救いの避難所であり、天主へと導く道であるからです。

どうぞ良い遷善の決心を立てて下さい、「ロザリオのお祈りをますますしよう」と。もしもできればお友達にも勧めて下さい、ファチマのマリア様についてお話してあげて下さい。そしてロザリオについて反対する人がいたら、「いや、そうではない。ロザリオこそ必要な祈りであって、教会の最も重要な祈りだ」と教えてあげて下さい。

そしてできれば、私たちも家族でお祈をする事ができますように、毎日お祈りする事ができますように、良い遷善の決心を立てる事に致しましょう。

来たるべき木曜、金曜は、イエズス様の十字架の称賛と、悲しみに満ちた聖母の祝日でもあります。どうぞマリア様の悲しみをロザリオをもってお慰めする事ができるように、決心を取りましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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仮想通貨は危険だ!「信仰」によって成り立つ「カルト」だ。本当の穴場はどこに?

2018年01月28日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 先日、或る方から仮想通貨についてどう思うかと質問を受けました。私は、その時マネーゲームだから「危ない」と思うと申し上げました。

 ところでこのブログをお読みの愛する兄弟姉妹の皆様の中にも、どう考えたら良いかと思う方々もおられるかもしれません。

 秋田日記のテレジアさんも記事をアップされていました

 仮想通貨(cryptocurrency)の問題点は、底支えするものが何も無い、実体の支えが無いということです。

 元来は紙幣は額面の金や銀(正貨としての金貨や銀貨)と交換するという保証の上に成り立っていました。これを金本位制と言いますが、これは1971年のニクソン・ショックをきっかけに有名無実化しました。金本位制が完全に終わったのは今からたった40年まえの1978年のことです。

 本位貨幣との兌換が保障されなくなった法定紙幣は、不換紙幣とも信用紙幣とも言われます。現在は、印刷された紙きれですが、しかし法定通貨には「有益さ」があります。何故なら、例えば「円」という単位の通貨で、物を購入したり、税金を納めたり、電車に乗ったりすることができるからです。

 しかし仮想通貨は純粋に「信じる」ことによって成立しています。この特定の仮想通貨の値段が将来上がるだろうと信じて賭けることによってです。この値段が上がれば上がるほど自分の確信が強まります。しかし、特定の仮想通貨に価値があるから値段が上がるのではありません。値段が上がるだろうと推測するから、投機するから、値段が上がるのです。つまり「バブル」です。

 ビットコインなどのようなその他いろいろの仮想通貨は「通貨」ではありません。何故なら、それを使って日常生活を送ることが普通はできないからです。ビットコインの「有益さ」として一部の人々によって使われていることは、政府のコントロールが効かないので、犯罪のためです。コンピュータをハイジャックしてその身代金としてよくビットコインが要求されます。

 今、ビットコインが最初に出てきたので有名ですが、誰かがコンピュータのプログラムを作って新しい仮想通貨を次々と作ったとしたら、ビットコインは特に特別なものではなくなります。スカイプが出てきたときは有名になりましたが、いまではラインやカカオトークやワッツアップなども出ています。ですからビットコインの流通量が決められて一定以上は増えないとは言うものの、その他の無限の別の「ビットコイン」らが登場してくるので、希少価値を持つことはありません。

 ビットコインは金のようだといっても、金が持っているような「有益さ」はありません(金のようにプレゼントすることができるぐらい、だそうです。)。価値がジェットコースターのように変動するので、ビットコインで支払いを受ける動機付けは高くなく、単価があまりにも高価で、使いにくいので、日常生活では使えません。

 仮想通貨はバブルで成り立っています。価値がある、価値が出る、という信仰(迷信?)によって成り立っています。カルトです。このカルトの信者は、ますます多くの信者を作ろうとします。何故なら、多くの人々が信じて買えば買うほど値段が上がるからです。欲望とどん欲のカルトです。

 しかし仮想通貨は、実体がないのですから、本当の価値はゼロです。「まだまだ上がる」と信じさせ、期待させる博打です。

 以上は、Peter Schiff の意見を参考にしました。

 愛する兄弟姉妹の皆様、どうぞお気をつけください。

 賭けをするならここだ!という、確かな大穴場は、ただ一つだけしかありません。イエズス・キリストです。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【参考資料】
ピター・シフは、ビットコインは0ドルになるだろうと警告しています。
Bitcoin is on the Road to $0, Says Peter Schiff:Peter Schiff, CEO of Euro Pacific Capital Inc., said that Bitcoin has "no value" and that it will drop along with other cryptocurrencies to a value of zero.

【参考資料】
キャッシュレス経済に向かっている現状について

日本は高額紙幣を廃止すべきである――そんな主張が、今年秋頃から海外を発端に相次いでいる。口火を切ったのはマクロ経済学の大家で米ハーバード大学のケネス・ロゴフ教授。自著で、5~7年かけて1万円札と5000千円札を廃止することで、「レスキャッシュ社会(現金割合の少ない社会)」を実現することを日本に提案した。

また、元イングランド銀行金融政策委員のウィレム・ブイター氏も、『日経新聞』(11月20日付)でロゴフ氏に賛同しつつ、高額紙幣を廃止し、半ば強制的に銀行に預金させることで日銀による集中管理型デジタル通貨に移行すべきと説いている。

昨年11月には突如、インドが1000ルピー(約1700円)紙幣と500ルピー紙幣を廃止したのも記憶に新しいが、このような高額紙幣廃止議論は世界で巻き起こっている。

米国で100ドル札が廃止となるか

ECBが15日に500ユーロ紙幣の廃止を非公式に決めた翌日の16日に、米クリントン政権下で財務長官を務めたローレンス・サマーズ氏は、ワシントン・ポスト紙に「100ドル札を廃止する時がきた」と題する記事を掲載した。米国で現金廃止を提唱するには、最適なタイミングである。欧州に続き米国、その先に日本での高額紙幣、1万円札の廃止に動き出す可能性が高くなった。

高額紙幣の廃止の議論は、ハーバード大学ケネディスクールのピーター・サンズ氏の論文を参考にしている。サンズ氏は、脱税を含む金融犯罪、テロリストや麻薬組織による資金の流れ、マネーロンダリング、汚職には高額紙幣が好まれて(紙幣の量と重さでは、高額紙幣の方が大金を動かせる)使われていると指摘し、有効な犯罪撲滅手段として、500と50 ユーロ札、1,000スイスフラン、100ドル札などの紙幣を廃止することが重要であると提唱している。
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ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」第一 その七、反対論に答える(つづき)(C)人びとの救霊は何より大切だから内的生活はあとまわしにしてもいい?

2018年01月28日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat 第一 その七、反対論に答える(つづき)(C)人びとの救霊は何より大切なわざである。ゆえに、内的生活はあとまわしにしてもいいのではないか
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

 七、反対論に答える(つづき)

(C)人びとの救霊は何より大切なわざである。ゆえに、内的生活はあとまわしにしてもいいのではないか


 うわッつらな霊生しかもたない福音伝道者が、ここにいる。活動の重圧のもとにあえいでいる。内的生活を回避するための口実として、かれは次のような、もっともらしいことをいう。
 ――どうして、わたしは、人びとの救霊という神聖な事実に、制限をくわえていいものか。事ひとたび、人びとの霊魂を救うという、聖業ちゅうの聖業にかんするかぎり、これに没頭しすぎる、これがために精力を消耗しすぎる、ということがあるものか。わたしの活動は、とりもなおさず、兄弟愛の先端をゆくものだ。そのためには、いっさいを――信心も、内的生活とかやらも――犠牲にしたって、さしつかえないではないか。働く人は、祈る人なり。犠牲は黙想にまさる。『救霊の事業に、熱心に働くことは、人間が天主にささげることのできる最高の犠牲である。天主のみ心をよろこばせる最良の犠牲である』『Nullum sacrificium magis acceptum quam zelus animarum』――げんに大聖グレゴリオ教皇も、そう言っているではないか、と。

 なるほど、そう言っているのは事実だ。しかし、天使的博士聖トマスの解説が、ここにある。それに照らして、右の言葉の真意をさぐらねばならぬ。聖トマスは、こう書いている。
 「天主に、霊的犠牲をささげるとは、天主に栄光を帰せる何ものかをささげることである。さて、すべてのささげもののなかで、人間が天主にささげることのできる、いちばんりっぱなささげものは、人びとの霊魂を救う、ということである。これには、だれも異存がない。

 だが、各自は、なによりもまず自分自身の霊魂を、天主におささげしなければならないのではないか。聖書にも、『もしあなたが、天主のみ心にかないたいのでしたら、あなた自身を大切にしなさい』といっている。これが、人間が天主におささげすることのできる、また、ぜひおささげしなければならない第一の、そして最高のささげものである。この本質的な、わが霊魂の奉献が終わってのちはじめて、他人の霊魂の救済に着手すべきではないか。自分自身の永遠の幸福を確保してのちにこそ、はじめて、他人にも同じ幸福をあたえようと、奮発すべきではないか。

 人が、まず自分自身の霊魂を、つぎに他人の霊魂を、天主と密接に一致させて、天主と親しくなればなるほど、そのささげものも、その犠牲も、いっそう天主によろこばれるものとなる。だが、天主と霊魂をたがいに結合させるこの一致は、祈りによらなければ、黙想によらなければ、一言でいうなら、内的生活によらなければ、どうしても招来することができない。ゆえに、祈りの生活、観想の生活を、自分自身でいとなむように精をだし、また他人にもいとなませるように努力することは、活動の生活に、救霊の事業にみずから没頭し、また他人にも没頭させることにもまして、いっそう天主のみ心をおよろこばせするのだ。

 そんなわけで、わたしは次のように結論する。
 大聖グレゴリオ教皇が、『救霊の事業に、熱心に働くことは、天主のみ心をよろこばせる最高の犠牲である』と断定しているからといって、それはけっして、活動生活が、観想生活にまさっている、という意味ではないのだ。ただ、かれがいいたいのは、タッタひとりの霊魂でもいい、これを天主におささげすることは、世界がそのふところにもっているいちばん貴重なものもすべて、天主におささげすることよりも、天主にはいっそう大きな栄光をあたえ、われわれ自身には、いっそう大きな功徳となる、ということである」(『神学大全』2 a 2 ae, q. 182, a. 2, ad 3 )

 内的生活は、きわめて大切だ。しかし大切だからだといって、人びとに救霊のために熱心に働いている人たちを、そのたずさわっている聖なる事実から遠ざけてしまうことは、たいへんまちがっている。――天主のあきらかなみ旨により、外的事業にたずさわることが、自分にとっては厳粛な義務となっている。だが、わたしは、もっと自分自身の霊魂のことを心配したい。もっと完全な、天主との一致に達したい。そのためには、さわがしい活動生活からのがれねばならぬ。それがかなわぬなら、ままよ、やる仕事はごくお粗末に、お役目式にしか果たせない……。こういって、布教の第一線から、逃げだしてしまう。

 これは、とんでもない錯覚である。場合によっては、自分自身の霊魂のためにも、また他人の霊魂のためにも、大きな危険のもとにさえなる。「もし福音を述べ伝えないなら、わたしはわざわいである」(コリント前9・16)と、聖パウロもいっているではないか。

 これは、たしかにまちがった考えだが、筆者は急いで、いまひとつ、前のよりいっそうまちがった考えを、読者に警告しなければならぬ。
 それは、他人の回心に熱心なあまり、自分自身の救霊をスッカリなおざりにする、ということだ。
 天主は、われわれに、「隣人を、おのれのごとく愛せよ」とお命じになった。しかし、「おのれ以上に、隣人を愛せよ」とは、お命じにならなかった。別の言葉でいうなら、他人の霊魂を救うためには、おのれ自身の霊魂を傷つけてもいい、うしなってもいい、さらに別の言い方をするなら、自分の霊魂よりむしろ、他人の霊魂のことを余計に心配せよ、とはお命じにならなかった。なぜなら、われわれの救霊にたいする奮発心は“愛”のおきてによって、正しく秩序づけられなければならぬからであり、しかも、「愛は、おのれから始まる」とは、いつまでたっても真理たることを失わない、神学の定理だからである。聖アルフォンソは言っていた。
 「わたしは、イエズス・キリストをお愛ししています。そのためにこそ、わたしは人びとの霊魂を、聖主にお与えしたいのです。まず“わたし”の霊魂を。次に、かぞえきれないほどの他人の霊魂を!」
«J'aime Jésus-Christ, disait saint Alphonse de Liguori, et c’est pourquoi je brûle du désir de lui donner des âmes, d'abord la mienne, puis un nombre incalculable d'autres.»

 これは、聖ベルナルドがいった、「あなたは、どこにいても、あなた自身でおありなさい(Tuus esto ubique)」(『反省録』)との教えを、地でゆくものである。聖ベルナルドはさらに、「まず自分自身のことを心配しない人は、ほんとうの賢者ではない」ともいっている。
«Il n’est pas sage celui qui n’est pas à lui-même. »

 使徒的奮発心の化身ともいうべき聖ベルナルドは、右の信条で、自分の行動を律していた。かれの秘書であったゴッドフロア(Godefroi)は、聖人を評して、「かれはまず、自分自身のことに、全力をそそいでいたからこそ、すべての人にたいして、すべてとなることができたのだ (Totus primum sïbi et sic totus omnibus)」といっている。

 言葉は簡潔だが、この短い一句のなかに、聖人の面目が躍如としている。
 聖ベルナルドは、かつて愛弟子の一人であって、のちに教皇となったエウゼニオ三世に、次のように書きおくっている。

 「聖下よ、わたしは聖下に、あらゆる世俗的事業から、完全に身をお引きなさい、とは申しません。ただそれに、全身全霊をお打ち込みにならないように、とおすすめしているだけでございます。
 もし聖下が、すべての人のための人間でございますなら、とうぜん聖下は、聖下ご自身のための人間でもいらっしゃるはずです。そうでないと、たとえ聖下が、全世界のすべての人をお救いになったとしても、もし聖下ご自身の霊魂をお失いになりましたら、なんの役にたちましょうか。ですから、いつも、どこでも、聖下ご自身を確保されますように。すべての人が、聖下の泉に飲みにまいりますなら、聖下もまた、ご自身の泉からお飲みになることを、お忘れになりませんように。人はみな、聖下の泉から飲んで、渇きをいやされていますのに、聖下ただひとり、いつも渇きに苦しめられどおしでいらっしゃるということは、まことにおかしな話ではありませんか。どんなに他人のためにお尽くしになっても、もし聖下が、ご自身をなおざりにされますなら、とどのつまりは、無益なお骨折りとこそ申すべきでございましょう。
 それゆえ、聖下のすべてのご配慮は、まず聖下ご自身のことに始まり、聖下ご自身のことに終わるべきです。

C’est en vain que vous vous donneriez A d'AUTRES SOINS, SI VOUS VENIEZ a VOUS NEGLIGER. Que toutes vos réflexions commencent donc PAR VOUS et FINISSENT DE MEME.
 まず最初に、聖下ご自身のことを、また最後にも、聖下ご自身のことを、ご考慮・ご反省なさいますように。
 そして、聖下の救霊に関しましては、お母様の独り子でいらっしゃる聖下ご自身こそ、聖下に最も近い者でございますから、だれよりもまずご自分を救わねばならないのです。このことを、ゆめゆめお忘れになりませんように……」(聖ベルナルド『反省録』二の三)

 この点にかんし、デュパンルー司教の『黙想の手記』ほど、示唆に富むものはあるまい。かれは、こうしるしている。

 「わたしが、いまやっている使徒職の仕事は、まことに破壊的だ。おかげで、健康はそこなわれる。信心はみだれる。そのくせ、ちっとも自分の勉強にはならない。ぜひ、なんとかしなければならぬ。幸い、天主の恩寵のおかげで、自分はいまさとりを開いた。――平和な、そしてみのり多い内的生活を、自分のうちに確立するのに、じゃまをしているものがある。それは、わたしの活動が、あまりに自然的で、動物的であるということ、また、わたしの心が、いろんな雑務に引きずられ、流されていく、ということだ。
 さらにまた、わたしはさとったのだ。――この内的生活の欠如こそ、自分がこれまでおちいっていたすべての欠点、精神的悩み、信心業における無味乾燥、厭気、からだの不健康の原因である。ということを。
 それでわたしは、自分の努力のすべてを、自分に欠けているこの内的生活の獲得という一点に、集中しようと決心した。そのために、自分は天主の恩寵の助けをかりて、次のような規則を作る。
 (一)――何をするにも、必要以上の時間を、これにあてがうこと。こうすれば、セカセカしないですむ。そのことに、心が引きずられないですむ。
 (二)――自分は、いつも、する仕事ばかり多くて、それをやってのけるために、時間があまりに少ない。こう思ったばかりでも、うんざりする。頭は心配でいっぱいになり、心はずるずる流される。だから、これからはもう、どんな仕事をしようか、などと考えないで、ただ時間をどんなに使ったらいいか、それだけを考えよう。
 で、いちばん大切な仕事から、片づけていく。どうしてもできなかった仕事にかんしては、あとから思いかえして、くよくよいわない。この要領でいったら、きっと一秒もムダには費やさないと思う……」

 宝石商は、千百のガラス玉よりも、一個のダイヤモンドを珍重するものだ。
 天主と親密に一致するとき、われわれの霊魂は、高価な一個のダイヤモンドである。それはどんなに大きな光栄を、天主に帰せることか。おのれの霊的進歩をぎせいにしてまでも、他の多くの人に善業をしてやる人たちは、他人にほどこしたその善業のために、たしかに天主の光栄を発揚するではあろう。が、この人たちよりも、前者は、はるかに大きな光栄を、天主に帰せるのである。これが、天主によってうちたてられた、秩序なのだ。

 われわれは、いっさいの事物を、天主の眼で、評価しなければならない。われわれの霊魂は、天主の玉座である。天主は、ここにおつきになって、霊魂を統治される。

 「天主は宇宙全体を、自然的に支配するよりも、あるいはまた、すべての国のすべての民を、精神的に支配するよりも、一つの霊魂に、超自然的に君臨することを、いっそうみ心におかけになるのである。」(ラルマン師(P. LALLEMANT)『霊的生活指針』)
Notre Père céleste s'applique davantage au gouvernement d'un coeur où il règne, qu'au gouvernement naturel de tout l'univers et au gouvernement civil de tous les empires

 天主の支配に、秩序の段階があるように、救霊事業へのわれわれの奮発心にも、同様の秩序がなければならぬ。
 なによりも、内的生活の結実たる“天主への愛”が第一である。

 ある霊魂が、救霊事業に、たずさわっている。だがこの神聖な事業が、本人のゆだんから、かえって、天主への愛のさまたげになっている。このとき、天主はどんな措置を、おとりになるだろうか。――事業の全面的壊滅を、お望みになるのである。
Il préfère quelquefois laisser disparaître une oeuvre s'il la voit devenir un obstacle au développement de la charité de l'âme qui s'en occupe.

 悪魔はこれと、正反対のことをする。
 ある霊魂が、事業にたずさわっている。はなやかな成功(――じつは、うわッつらな成功!)の夢を逐わせる。成功すれば、それを機会に、内的生活への進歩をじゃまする。悪魔の眼は鋭い。イエズス・キリストの御眼に、なにが一番高貴な宝だか、悪魔はちゃんと知っている。それは、さきに書いたとおり、内的生活によって、天主と親密に一致した霊魂なのである。

 悪魔がほしがっているのは、高価な一個のダイヤモンドなのだ。それを手に入れてぶちこわすためにこそ、悪魔はよろこんで千百のガラス玉を、ニセの成功を、使徒的事業家にあたえるのである。

(第一部  終了)



使徒職の秘訣」Dom Jean Baptiste Chautard 著 山下房三郎 訳

目次
序説
第一部 天主は、外的活動も、内的生活も、お望みになる
1. 使徒的活動―したがって熱誠事業―を、天主はお望みになる
2. イエズスこそは、使徒的活動の生命―これが天主のお望みである )

3. 内的生活とは何か?
3. 内的生活とは何か?(後半)

4. 内的生活の価値は、おどろくほど誤解されている

5. 反対論に答える  (A) 内的生活は、無為怠慢な生活ではないのか
5. 反対論に答える  (A) 内的生活は、無為怠慢な生活ではないのか (後半)

6. 反対論に答える(つづき) (B) 内的生活は利己主義ではないのか
6. 反対論に答える(つづき) (B) 内的生活は利己主義ではないのか(後半)

7. 反対論に答える(つづき) (C) 人びとの救霊は何より大切なわざである。ゆえに、内的生活はあとまわしにしてもいいのではないか

第二部 活動的生活と内的生活を一致結合させること
1. 天主の御眼からみれば、内的生活は、活動的生活にまさっている
2. 使徒的事業は、内的生活のあふれから自然に、生まれでるものでなければならぬ
3. 使徒的事業は、その土台も目的も手段もみな、内的生活に深く浸透していなければならぬ
4. 内的生活と活動的生活は共存する
5. 観想と活動の一致結合は、きわめてすぐれている

第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ、活動的生活はむしろ危険である
1. 使徒的事業は、内的生活をいとなむ霊魂にとっては、聖性達成への手段であるが、そうでない霊魂にとっては、おのれの救霊に危険である
(A) 使徒的事業は、内的生活をいとなむ霊魂にとっては、聖性達成への有力な手段である
(B) 内的生活を放棄するとき、活動的生活は当人にとって、救霊の敵となる
2. 内的生活をいとなまない使徒的事業家の落ちていく運命
3. 福音の働き手の聖性―その土台は内的生活である
(A) 内的生活は、使徒的事業につきものの危険にたいして、霊魂を予防してくれる
(B) 内的生活は、使徒的活動によって消耗された、心身のエネルギーを回復してくれる
(C) 内的生活こそは、使徒的活動のエネルギーと功徳を増進する
(D) 内的生活は、使徒職にたずさわる人に、喜びと慰めをあたえる
(E) 内的生活は、純潔な意向をさらに純化する
(F) 内的生活は、事業の失敗から起こる失望・落胆にたいしての有力なタテである
第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業がゆたかに実を結ぶ
使徒的事業が、ゆたかな実を結ぶための条件―それは内的生活である
(a) 内的生活は、事業のうえに、天主の祝福をよびくだす
(b) 内的生活は、使徒をして、その良い模範によって、人びとを聖化する者となす
(c) 内的生活は、使徒に、超自然的照射能力をあたえる。この超自然的照射能力はどれほど効果に富むか
(d) 内的生活は、使徒に、まことの雄弁をあたえる
(e) 内的生活はまた、同じ内的生活を他に生むのであるから、その霊魂たちに及ぼす影響は深く、そして長続きがする
(f) 聖体による内的生活の中にこそ、使徒職のいっさいの結実性は包含されている
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見
1. 使徒的事業にたずさわる人は、内的生活をいとなむために何をすべきか。―かれらに与える若干の意見
2. 黙想は、内的生活の、したがって使徒職の、必要欠くべからざる要素である
(I) 朝の黙想に忠実であること―これは、わたしにとって義務なのか
(II) わたしの黙想は、どんなものでなければならないか
(III) どのように黙想しなければならないか
3.典礼生活こそは、わたしの内的生活を、したがって、使徒職を生かす源泉である
(I) 典礼とは何か?
(II) 典礼生活とは何か?
(III) 典礼の精神―三つの原理
(IV) 典礼生活の利益
(V) 典礼生活の実行
4. “心の取り締まり”は、内的生活の鍵である。ゆえに、使徒職には本質的な修業である
(I) 心の取り締まりの必要
(II) 天主の現存の意識―これこそは、心の取り締まりの土台である
(III) 聖母マリアに対する信心は、心の取り締まりを容易にする
(IV) 心の取り締まりの修業
(V) 心の取り締まりに必要な条件
5. 使徒は、無原罪の聖母に対して、熱烈な信心を持っていなければならぬ

結びのことば
コメント

ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」第一 その六、反対論に答える(B)内的生活は利己主義(エゴイズム)ではないのか(後半)

2018年01月27日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat 第一 その六、反対論に答える(つづき)(B)内的生活は利己主義(エゴイズム)ではないのか(後半) をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

六、反対論に答える(つづき)(B)内的生活は利己主義(エゴイズム)ではないのか の後半

 北京の故ファヴィエ司教(Mgr Favier)が、口ぐせのようにいっておられた言葉が、ここにある。

 「わたしは、自分の教区に、トラピスト修道士たちが、ぜひほしい。さらに欲をいえば、かれらには、外面的な布教事業はなにもやってもらいたくない。そんなものから、かれらの修道生活をじゃまされないために、いっさいこれをやめて、ただ祈りと苦業と聖学の研究に、専念してもらいたい。霊的に貧しいシナの民衆を司牧する上において、熱心な観想的修道院の存在が、宣教師たちに、どれほど力づよい助けをあたえるか、わたしは知りすぎるほど知っているつもりだ……」
« Je veux des Trappistes dans ce vicariat apostolique, disait Mgr Favier, évêque de Péking, Je désire même qu’ils s’abstiennent de tout ministère extérieur, afin que rien ne les distraie du travail de la prière, de la pénitence et des saintes études. Car je sais quel secours apportera aux missionnaires l’existence d’un monastère fervent de contemplatifs au milieu de nos pauvres Chinois. »
 さらにあとほど、こんなこともいわれた。
 「こんにちまで、だれもかつて足をふみいれたこともない辺地にまで、とうとうわれわれは進出することができた。この布教の成功はほかでもない、われわれの愛すべきトラピスト修道士たちのおかげなのだ……」
« Nous avons enfin réussi à pénétrer dans une région jusqu’à ce jour inabordable. J'attribue ce fait à nos chers Trappistes. »

 コシンシナの一司教も、サイゴンの仏印総督に、こんなことをいったことがある。
 「修道院の奥にひきこもって、祈りに生涯をおくる十人のカルメル会修道女は、説教をしながら国中をかけまわる二十人の宣教師よりも、わたしにとっては、ずっと大きな助けになります。」
« Dix Carmélites priant me seront d’un plus grand secours que vingt missionnaires prêchant. »

 「修道院の奥にひきこもって」――と司教はいっているが、それはあながち、閑居の誓願を立てた修道者に限ったものではない。活動生活に身をゆだねている在俗の司祭でも、修道者でも、修道女でも、もしかれらが同時に内的生活をいとなんでいるなら、天主のみ心にたいしては、前者と同様のちからをもっている。シュブリエ師、聖ドン・ボスコ、聖アントニオ・マリア・ザカリア師のごときが、その適例である。

 アンナ・タイジは、貧しい女工さんでありながら、りっぱな使徒だった。聖ヨゼフ・ラーブル(saint Benoît-Joseph Labre)は、繁華な街道をさけて乞食をしながら、りっぱな使徒だった。ツールの聖なる人デュポン氏、パケロン大佐、その他、天主の愛にもえる人びと、――かれらはみな、偉大な使徒的事業家だった。内的生活の人だったからである。

 アルスの聖司祭ビヤンネー師の内的生活は利己主義で、不毛だったのだろうか。
 答えるほうが、ヤボである。良識のある人はみな、いっているではないか。――ビヤンネー師の、人びとの救霊への奮発心とその成功は、とりもなおさず、かれの天主との深い一致と聖徳のおかげである。なるほど、かれは生まれつき、ほとんど才能に恵まれていなかったが、それでも、シャルトルーズ会の修道士のように深い観想家であったからこそ、内的生活に進歩するにつれて、人びとの霊魂を救いたいとの渇きは烈しく、いやしがたいまでにつのり、聖主からその全能の力にまであずからせていただき、その結果、あのようにたくさんの人を改心させることができたのである、と。
 ビヤンネー師の内的生活は、不毛だった、とあなたはおっしゃるのか。
 だが、よく考えてみるといい。
 わが国の各教区に、一人のビヤンネー師がいたと仮定してみよ。とっくの昔に、わが国は、キリスト教国家になっていないだろうか。数しれぬ布教者たちは、そのありあまる才能と活動を総動員して、福音伝道のため、信仰の宣伝普及のため、いくたの事業をいとなんでいる。いろんな会を組織している。莫大なカネを使っている。それだのに、これはたいへん言いにくいことだが、かれらの内的生活が貧弱なため、それは徒らに局部的な成功にしか過ぎず、国民は依然、あれほど期待されていたキリスト教への潮流を、いつまでたっても示さない現状ではないか。

 およそ一国民が、国をあげてキリスト教に回心するためには、ただ熱心な聖職者の布教者たちばかりでなく、信徒の中にも、イエズスの聖心と一致して生きたい、イエズスのみ国をひろめたい、そのためにはまず自分で内的生活をいとなみ、次に周囲の人の心にもまた、これを芽ばえさせたいと、はげしく渇望している篤志家の信者が、いくらかいてもらわねばならぬ。この種の精鋭の信者は、数はすくなくてもいい。肝心なのは、量よりも質だ。フランスの事例でもわかるとおり、大革命の直後、教会がじきに復興することができたのは、選良の司祭たちが、迫害のあらしにもまれもまれて、内的生活の土台が岩のように堅固だったからである。大革命のあいだ、人びとは宗教を捨てる。宗教に無関心である。かくて、教会は死にひんし、いかなる人間的努力をもってしても、どうにも挽回できない絶望の世紀だった。それを彼らは、天主的生命の太陽をもってあたため、いきいきとした新しい生命によみがえらせたのである。

 わが国において、とくに戦後は、カトリック系の学校が続々現われた。政府も昔とはちがって、全然圧迫をくわえないのみか、好意をさえ示してくれる。今や青少年は、われわれのものだ。学校の成績といい、評判といい、大したものである。
 それなのに、カトリック教育の目的は、はたして全面的に達成されているだろうか。はたして、悪魔の共謀者らの勢力を破砕するのに十分な実力をそなえた、深い宗教的教養を身につけた、優秀な卒業生を、社会に送りだしているだろうか。

 カトリック教育者無能の声を、よくちまたできく。なにが、この無能の原因なのか。――内的生活を、祈りの生活を、まじめにしていないからである。内にもえる天主的生命の炎が、じつはあるかないかの蛍火で、それが自然に外部に放射して、周囲の人の心を照射するほど強烈でないからである。

 われわれに内的生活は、内容が貧弱で、うるおいがない。うわッつらで、見てくれ式である。感情的で、しっかりした土台がない。内的生活を放棄するから、宗教の奥義はいっこうに、霊魂の深部まで浸透しないのではないか。霊魂を超自然の世界まで、ひきあげないのではないか。したがって、殉教者をつくりだすキリスト教的剛毅の精神が、内心から自然に湧きあがってこないのではない。

 われわれが深い内的生活をもたないからこそ、このようなうわッつらで、高遠な理想もなく、強固な信念もない、ひょろひょろな青少年しか作りだせないのではないか。
 司祭として、修道者として、教壇に立ちながら、われわれが夢見ているものは、いったいなんだろう。――学生たちに、りっぱな宗教教育を授けてやるよりも、むしろどうしたらかれらを、資格試験に合格させることができるだろうか、どうしたら学校の評判を、もっとあげることができるだろうか、こんなことにいっそう烈しい熱情を、かたむけてはいないだろうか。学生の霊魂に、イエズス・キリストのお姿をきざみつけてやる、そのためにはとりわけ、意志の鍛錬に重点をおかねばならないのだが、はたしてわれわれは、この大切な一事をねらっているだろうか。

 カトリック教育者の無能の原因は、われわれの内的生活の平凡さにあることが、しばしばである。

 こんなことわざがある。
 「神父が聖人なら、信者は熱心
  神父が熱心なら、信者は敬けん
  神父が敬けんなら、信者はまじめ
  神父がまじめなら、信者は悪人」

A prêtre saint, correspond peuple fervent; à prêtre fervent, peuple pieux; à prêtre pieux, peuple honnête ; à prêtre honnête, peuple impie.

 通則として、弟子は、師にまさらない。親は、自分のもたないものを、子どもにあたえることはできぬ。産みだされる生命は、これを産みだす生命より一段劣るのが、超自然界の常則だ。

 それにはいくらか、例外もあるだろうが、しかし聖アルフォンソの次の言葉は、たしかに右の断定をうらがきしてはいないだろうか。そして同時に、われわれカトリック教育者および司牧者の無能を、明るみにだしてもいないだろうか。聖人は、いっている。

 「信者の熱心と救霊は、善き司牧者の司祭たちの聖性に依存しています。もし小教区のかしらに、りっぱな主任司祭をいただきますなら、じきに信心の花は咲きみだれ、秘跡はしばしば受けられ、黙想はたいへん重んじられるようになります。こういう事実から、集会の書にある『統治者がそうあるとおり、部下もそうなる。町のかしらがそうあるとおり、町もそうなる』(集会の書10・2)という格言どおり、われわれの間にも、『司牧者のように、教会もそうなる』ということわざが生まれてくるのです」(『使徒的人物』7章十六節)
« Les bonnes moeurs et le salut des peuples dépendent des bons pasteurs. Si à la tête d’une paroisse il y a un bon curé, on y verra bientôt la dévotion fleurir, les sacrements fréquentés, l’oraison mentale en honneur. D’où le proverbe: Qualis pastor talis parochia, suivant ce mot de l’Ecclésiastique (s, 2) : Qualis est rector civitatis, tales et inhabitantes in ea. »

コメント

2017年9月9日(土) 説教 「ファチマのメッセージはまだ続いている―ファチマの第3の秘密を黙想して」 

2018年01月26日 | お説教・霊的講話
2017年9月9日(土)聖母の土曜日のミサ
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2017年9月9日、聖母の土曜日のミサをしています。

このミサの後にいつものように公教要理があります。
今日はこの前の続きで、ではイエズス様が生きていた時代には、この重要な施設としてエルサレムの神殿とかあるいは会堂とかがありました。それらはどのようなものだったのかという事を黙想したいと思います。

明日も夕方18時からミサがあります。レネー様がいらしてくださいます、どうぞいらしてください。
東京方面に行かれる方は、明日は東京では10時30分からミサがあります。



「聖母の御取り次ぎによりて、我らがこの現在の悲しみから解放され、永遠の喜びを味わう事ができますように。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

ファチマへの巡礼が終わりましたが、これで私たちは、ファチマがもう100周年は終わってしまって、これでもうこのファチマの事はもう終わったんだから、別の事を考えよう、などと思わないでください。実はファチマにはまだ現代でも、100年前に終わった事ではなくて、そしてまだこれからマリア様の言葉が実現しなければならなくて、マリア様の凱旋を私たちが待たなければならなくて、マリア様の凱旋の為にたくさんお祈りしなければならない。

これから今、実に21世紀の今現代私たちが生きている、最も大事なマリア様の言葉なので、ぜひ今日はそれについて黙想したいと思います。

この前私たちはマリア様の教皇様に対する、「もしも聖母の汚れなき御心への奉献がなされなければ、大きな不幸が起こるだろう」という事を、イエズス様の聖心へのメッセージと、「御心への奉献がなされなければ、フランスの王に起こった事と同じような事が起こるだろう」という事を黙想しました。

今回はぜひ、「ファチマの第3の秘密」という事に関して一緒に黙想したいと思います。これを見ると、私たちがますますファチマのメッセージが現代のものであるという事が分かるからです。

では、ファチマの第3のメッセージというのは一体どのような内容なのだろうか、という事をまず考えてみます。バチカンからの正式な発表や、あるいは教皇様たちや司教様たちの証言がありますから、それを元に、私たちはどんな事が書かれているかという事を見てみます。そしてその第3の秘密についてのその証言から、大体のあらましを想像してみます。

そして第3に、そのそこからどのような事が結論付けられるか、私たちにとってどのような意義があるかを見て、では私たちは遷善の決心を立てる事に致しましょう。

「第3の秘密」というものについては、2000年の、西暦2000年6月26日にバチカンから発表がありました。それによると、シスタールチアの書いた物のコピーが出されて、それが公開されて、それの内容はあるビジョンでした、「白い服を着た司教様が、多くの死体の上を歩いていて、大きな街を、半分崩壊したような街を歩いていて、そして多くの司教や司祭や修道者、多くの信徒の人々が亡くなっていて、その死骸の内を逃げているように歩くと、コルクで出来た木の十字架の近くに来て、打たれて亡くなる。そして天使たちはその殉教者の血を地上に撒いて、天主への罪の償いの為にそれを、その血を取っている」というビジョンでした。

これについて、1つ疑問があるのです。
どんな疑問かというと、「一体なぜこの第3の秘密というものを、ここまで今まで秘密にしておかなければならなかったのか?このビジョンをなぜすぐに公開する事に困難があったのか?」

また、1917年7月13日にマリア様が、第3の秘密と言われるものの中で、「ポルトガルは信仰のドグマを終わりまで保つでしょう。etc等々」と言って、ここに第3の秘密が入るとされるのですけれども、この第3の秘密について、ルチアはそれを聞く事ができました、しかしフランシスコはそれを聞く事ができませんでした。フランシスコはそれを見るだけでした。そこで「フランシスコには話しても良い。でも他の人には言ってはいけない」と言いました。

「もしも第3の秘密がビジョンだけであったのならば、言葉のない、マリア様の言葉のないものであったのならば、なぜフランシスコには話して良いと仰ったのか?第3の秘密はマリア様のメッセージの続きではなかったのか?だから『フランシスコにもそれを話して良い』と言ったのではないか?」

多くのファチマの研究者たちがそれらの疑問を提示しています。そこで、過去教皇様や司教様たちが、第3の秘密についてどんな事を言ったのか、少しだけ見るのを引用するのを許して下さい。

1959年8月17日に、ヨハネ二十三世教皇様は第3の秘密を読みました。なぜかというと、「1960年にはこれを発表しなければならない」とシスタールチアが言っていたからです。「これはマリア様がそう仰ったから。」「これがマリア様がそうお望みだからそうだ」と、何度も繰り返しインタビューで言っています。「あるいは自分が亡くなったら発表するか、あるいは1960年に発表するか、そのどちらか早い方だ」と。「なぜか?」とオッタヴィアーニ枢機卿が聞くと、「マリア様がそれを望んで、なぜならば、そのそうするとよく意味がはっきりするから」と言っていました。

そこでその直前、1959年、ヨハネ二十三世教皇様はメッセージを読むのですけれども、教皇様は、「これは私の教皇職には関係ない事だ」と言って、この事をどうするかについてコメントや、この事をどうするかという事については、「私の後継者が決定する事に任せる」と言いました。

ベネディクト十六世教皇様は、2010年5月13日に、「ファチマの予言の使命がすでに完成した、と考えるのは間違っているだろう」と言っています。("We would be mistaken to think that Fatima’s prophetic mission is complete."

オッタヴィアーニ枢機卿様はこう言っています、1967年に、もはや発表すべき年の7年後に、実際にこのメッセージを読んでこう言うのです。
「マリア様から委託された第3の部分の秘密がある。マリア様からルチアに委託されたこのこれらの事は、ルチアに関するものではないし、今のところこの世に関するものではない。しかしそれはキリストの代理者、つまり教皇様に関する事だ」と証言しています。「そしてこのメッセージは、1960年よりも以前に発表されてはならなかった。なぜならば1960年ならば、それはよりはっきりとするからだ」と言っています。

それからずっと後に、1984年11月に、ラッツィンガー枢機卿様はこう言います。
「第3の秘密に関しては、キリスト教徒が天主様からの啓示によって知るべき事に何ら新しい事を加えない。第3のメッセージに関する事はすなわち、回心への根本的な呼びかけであって、そして歴史の絶対的な荘厳さ、真剣さであって、キリスト教の信仰と生活を危険に脅かす危険について、したがって世界を脅かす危険について、また世の終わりについて、時の終わりについて、また回心や償いが非常に本質的である事、霊魂の救いに対して非常に本質的な条件である、という事を示している」と。

つまり1984年にはラッツインガー枢機卿は、「第3の秘密というのは、信仰に関わるものだ、キリスト教の生活に関わるものだ」と言っています。

同じく1984年9月10日に、ファチマの第3の秘密を読んだ、ファチマの司教であったコスメ・ド・アマラル司教様はこう言っています。
「この第3の秘密は、原子爆弾とかあるいは核爆弾とか、あるいはSS20ミサイルとかについて話すのではない。この内容は、単に私たちの信仰に関わるものであって、もしも全大陸から信仰が無くなってしまうという事は、国が1つ無くなってしまうという事よりも更に酷い事である」と証言しています。
他の証言によると、「この第3の秘密は、特に教皇様に関するものである。オッタヴィアーニ機卿様の言うように、教皇様に関するものである」と言われています。

では私たちはこれらの証言などを見て、それからファチマの7月13日の構造、マリア様がなされた内容を見ると、どのような事を言う事ができるでしょうか?

第2の点で、ではマリア様の第3の秘密というものを想像してみます。信仰に関する事であって、教皇様に関する事であって、そして非常に恐ろしい内容であって、教会がそれを言うのを発表するのを、非常にためらっている。また1960年以降、シスタールチアは、司教様であってもインタビューをする事が禁止されていて、そしてシスターの書いた物が発表する事が禁止されて、またもしもシスターと会いたいのならば、教理聖省あるいは教皇様ご自身から許可を取らなければ、会うことができないほどの、死ぬまでそれが禁止されていた。

またシスタールチアの書いた物は一切まだ公開されていない。聖ジャシンタや聖フランシスコについては知られているけれども、他のシスターの書き物は発表されていないと、いう事を見て、1960年からなぜそのようになったのか、それほどまで秘密を守らなければならないのか、という事を考えて、「信仰に関する事だ。教皇様に関する事だ。1960年」などという事を考えると、次のような事が考えられます。

これは、今からの事は、シュテーリン神父様がつい最近出された、9月に出されたファチマに関する第3巻に書かれた事を読んでの事ですけれども、シュテーリン神父様によると、こう言います。

7月13日には、3つの部分がある。

第1の部分は、「霊魂の破滅」という最も恐ろしい事である。その第1の部分には、「あなたたちは、かわいそうな霊魂たちが落ちる地獄を見ました。」悲惨な結果がまず第1に表れます。

次に、それについての救いの部分があって、どうやったら解決するか、「この霊魂たちを救う為に、天主は汚れなき御心に対する信心を世界に確立する事を望んでいます。もしもそれをすると、」

第3の部分は、「多くの霊魂が救われて世界に平和が起こるでしょう。しかしもしそうしないならば、更に恐ろしい戦争が起こるでしょう。」

これを見ると、「悲惨な状態が今ある」「それに対する解決策がある、薬がある。」「もしも使えば、どのような良い事があるか。またもしも使わなければ、どのような悪い事があるか」という事が示されています。

実際それが使われなかったらどうなるかという事は、第2の秘密に示されました。第2の秘密は、「ピオ十一世の時代に、もしも人々がそのマリア様のメッセージを聞かないならば、注意を払わないならば、罪を犯し続けるならば、ピオ十一世の時代に恐ろしい戦争が、更に恐ろしい戦争が起こるでしょう。不思議な光が世界を照らすならば、それが始まったのだと思いなさい。」まず、「戦争」という、「全世界の戦争」という恐ろしい状況がある。「ロシアが、戦争と教会に対する迫害とを挑発するでしょう。」「ロシアが挑発する。」

そしてこれに対して、マリア様はどのような解決策を提案するかというと、それはロシアへの、「教皇様がロシアを奉献する」という事。そして「初土の償いの信心をする」という事。そうすると、「そうするならばロシアは回心し、世界に平和が来るでしょう。さもなければ多くの人々が殉教して、無くなってしまう国々もあるでしょう。教皇様はたくさん苦しまなければなりません。」

もしもそれができなければどうなるかというと、おそらくそれは第3の秘密に関わる事だろうと、第3の秘密はマリア様のメッセージから構成されていて、その第3のメッセージは始めはこの言葉で始まります。第1のメッセージが「霊魂の永遠の滅び」に関し、第2のメッセージが「この世の戦争」に関する事であれば、第3のメッセージは「信仰」に関わる事、「ポルトガルは信仰のドグマを保つでしょう。」

「もしも、」おそらく、ここからは推定ですけれども、「もしも私のメッセージがよく聞かれるならば。しかしもしもそうでないならば、全世界において信仰が失われてしまうでしょう。特に教皇様の司牧の義務は非常に重要であって、この教会の一番上からもその方針の間違いが起こるでしょう。1960年からそれが始まるでしょう。」

もちろんこれは推定ですから、この言葉通りではないかもしれません。しかしそのような内容があると思われます。「そして多くの霊魂が地獄に落ちてしまうでしょう。」

ジャシンタの言葉によれば、「ほぼ多くの霊魂、ほぼ皆が地獄に落ちてしまうだろう。非常に多くの霊魂が失われてしまう。そしてその為に教皇様はこの結果、非常に苦しまなければならない。」

ところでこれに対して、どのような救いの手段があるか。マリア様はそこに何か仰ったに違いない。

その救いの手段というのはおそらく、「私たちに2つの最後の手段が与えられた。1つは『ロザリオ』であって、そして『聖マリアの汚れなき御心に対する信心』である。」

おそらく教皇様に、「ロザリオを教会の最も大切な祈りとして、公式なものとして認めるように」マリア様はお願いしているかもしれません。あるいは「汚れなき御心への信心」あるいは「この祝日を教会のもっとも重要な祝日として制定するように」お願いしているのかもしれません。また「ロシアの奉献」もお願いしているかもしれません。

「そうする事によって、多くの霊魂は救われ、教会はまた元の栄光ある地位に繁栄を取り戻すでしょう。そして最後に私の汚れなき御心は勝利を収め、凱旋するでしょう」と言われているのではないかと想像します。

「シスタールチアは、」これもシュテーリン神父様のコメントですが、シスタールチアは、「このマリア様の仰った事は黙示録に書かれている。黙示録の13章だ。黙示録によると、3つのビジョンがある。」

「1つは、『竜が現れて来て、霊魂を滅ぼそうと婦人を襲う。天に壮大なしるしが現れた。太陽をまとった婦人だ。しかし竜はそれに対して戦いを挑む。』これは第1の秘密、つまり霊魂の滅び、多くの霊魂を地獄に落としている事を意味しているのではないか。」

「第2には、『その竜に仕える為に海から獣がやって来る。獣は七つの角と十の首を持ったもので、この竜に仕えていた。』これは政治的なものであって、おそらく、ロシアがこの世界中に誤謬を広げて、戦争や教会に対する迫害を示しているというものではないか。」

「第3に出て来るのは、別の獣で、やはり竜に仕えるものですが、『これは陸から出て来る。これは見るからにちょうど羊のようだけれども、しかし言葉は、話す言葉は竜のように話している。』そこで、これが第3の秘密に関わる事ではないか。つまり『悪魔的な方針の間違い』について、教会の指導者たちが盲目的になってしまう、多くの人々が信仰を失ってしまう、という事にあるのではないか。」

シュテーリン神父様は言葉を続けますが、「だからと言って私たちは、これらの責任を全て教皇様一人にする事はできない。なぜかというと、シスタールチアやあるいはジャシンタが言うには、『教皇様が多くの人々と一緒に泣きながら、手でこう頭を抱えながらお祈りをしているのを見た。』つまり、もしも教皇様が何かそのような苦しむとしたら、やはりそれは多くのキリスト教信者の無関心や、あるいは背教や、その他にも責任がある。なぜならば、私たちは全て神秘体を作っているから。だから『教皇様が一人悪くて、私たちは全く関係ない』とは言えない」と言います。

だからこそシスタールチアもジャシンタもフランシスコも、教皇様の為にたくさん祈るという事をしていました、「教皇様がかわいそう。苦しまなければならないから」と。

この事を聞くと、秋田でのマリア様のメッセージも思い出します。
「あなたは教皇、司教、司祭の為にたくさん祈って下さいましたね。これからもたくさん祈って下さい、ロザリオをたくさん祈ってください。あなた方を来たるべき災害から救う事ができるのは私だけです、ロザリオの聖母だけです。司教、司祭の為にたくさんロザリオを祈ってください。この来たるべき災害から救う事ができるのは、ロザリオと、御子の残されたしるしだけです」と。

では私たちは、この第3のメッセージであると思われるものを少し垣間見た後に、どんな遷善の決心を立てたら良いでしょうか?

第1に、ファチマのメッセージはまだ続いているという事です。マリア様の汚れなき御心の凱旋を、私たちはまだその為に、祈りと犠牲をたくさん捧げなければならないという事です。教皇様の為にたくさんお祈りしなければなりません。シスタールチアやジャシンタ、フランシスコにならって、たくさんのお祈りを捧げなければなりません。ロザリオの祈りと、聖母の汚れなき御心に対する信心をますます実践しなければなりません。

第2には、たとえ教会が、あるいはこの世の中でどのような苦しみがあって、たとえ教会の指導者が私たちを捨て去るように見えた事があったとしても、マリア様は決して私たちを見捨てる事はありません。マリア様は仰いました、「私はあなたを決して見捨てません。私の汚れなき御心は避難所であって、天主へと導く確かな道です。」ですから私たちはますます、マリア様の汚れなき御心へと行かなければなりません。

ではミサを捧げながら、このファチマのメッセージをますます実践して、それをマリア様の御心に適うものとなりますように、お祈り致しましょう。

「聖母マリアの御取り次ぎによりて、現在の悲しみから逃れしめ、永遠の喜びを得しめ給え。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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2月2日 童貞聖マリアの御潔めの祝日 ろうそくの祝別式と行列の部分の式次第(1962年版の典礼法規)

2018年01月26日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 来る2月2日には大阪の聖母の汚れなき御心聖堂で童貞聖マリアの御潔めの祝日を祝います。ミサの前に、ろうそくの祝別式と行列があります。

 そこで、ろうそくの祝別式と行列の部分の式次第をご紹介いたします。1962年版の典礼法規によります。

1.ろうそくの祝別

司祭は、白のカッパで、あるいはカズラを付けず、ろうそくの祝別を行う。祭壇に向かって手を合わせ、次の祈りを唱える。

℣. Dóminus vobíscum.

℞. Et cum spíritu tuo.

℣. 主は、あなたたちとともに、

℞. また、あなたの霊とともに。

 第一の祈りFIRST PRAYER

ORÉMUS – Dómine sancte, Pater omnípotens, ætérne Deus, qui ómnia ex níhilo creásti, ut jussu tuo per ópera apum, hunc liquórem ad perfectiónem cérei veníre fecísti: et qui hodiérna die petitiónem justi Simeónis implésti: te humilíter deprecámur; ut has candélas ad usus hóminum, et sanitátem córporum et animárum, sive in terra, sive in aquis, per invocatiónem tui sanctíssimi nóminis, et per intercessiónem beátæ Maríæ semper Vírginis, cujus hódie festa devóte celebrántur, et per preces ómnium Sanctórum tuórum, bene✠dícere, et sancti✠fi- cáre dignéris: et hujus plebis tuæ, quæ illas honorífice in mánibus desíderat portáre, teque cantándo laudáre, exáudias voces de cœlo sancto tuo, et de sede majestátis tuæ: et propítius sis ómnibus clamántibus ad te, quos redemísti pretióso sánguine Fílii tui: Qui tecum vivit et regnat in unitáte Spíritus Sancti, Deus, per ómnia sǽcula sæculórum.

℞. Amen.

祈願。主よ、聖なる父、全能永遠の天主よ、御身は万物を無より創り出し、蜜蜂の働きによってろうそくができるようにと思し召し給うた。御身が、義人シメオンの望みを満たし給うたこの日、われらは、いと聖なる御名にこいねがい、敬虔に祝い奉る終生童貞なる聖マリアの取り次ぎと、諸聖人の祈りとにより、へりくだってこいねがい奉る。陸上でも海上でも、身体と霊魂との健康のために人間の用いるこのろうそくを、✠祝し✠聖別し給わんことを。御光栄のために、このろうそくを手にして主を讃美するを望む御民の叫びを、主の神殿なる天より、みいずの王座より、聞き入れ給わんことを。主に向かって叫ぶ、御子の尊き御血をもってあがない給うた人々に、御慈悲を示し給え。御身とともに、天主として、聖霊との一致において、世々に生き且つ治め給う主よ。

℞. アメン

 第二の祈りSECOND PRAYER

ORÉMUS – Omnípotens, sempi- térne Deus, qui hodiérna die Unigénitum tuum ulnis sancti Simeónis in templo sancto tuo suscipiéndum præsentásti tuam súpplices deprecámur cleméntiam; ut has candélas, quas nos fámuli tui, in tui nóminis magnificéntiam suscipiéntes, gestáre cúpimus luce accénsas, bene✠dícere et sancti✠ficáre, atque lúmine supérnæ benedictiónis accéndere dignéris: quátenus eas tibi Dómino Deo nostro offeréndo digni, et sancto igne dulcíssimæ caritátis tuæ succénsi, in templo sancto glóriæ tuæ repræsentári mereámur. Per eúmdem Dóminum nostrum Jesum Christum Fílium tuum, qui tecum vivit et regnat in unitáte Spíritus Sancti, Deus, per ómnia sǽcula sæculórum.

℞. Amen.

祈願。全能永遠の天主よ、御身は今日、御独り子を、聖なる神殿で、義人シメオンの腕に抱かせるようにと思し召し給うた。われらは本日、へりくだって御慈悲をこいねがい奉る。主のしもべなるわれらが、御名の光栄のために、手に取って運ぼうとするこのろうそくを、✠祝し✠聖別し、天の祝福の火をもって、火を点し給わんことを。ふさわしい心を持ち、主のいと甘美な愛の火に燃えて、最高の主なる御身にこのろうそくを捧げるわれらを、御光栄の聖なる神殿に奉献し給わんことを。その同じわれらの主イエズス・キリスト、天主として、聖霊との一致において、御身と共に、世々に生き且つ治め給う聖子によりて。

℞.アメン。

 第三の祈りTHIRD PRAYER

ORÉMUS – Dómine Jesu Christe, lux vera, quæ illúminas omnem hóminem veniéntem in hunc mundum: effúnde bene✠dictiónem tuam super hos céreos, et sanctí✠fica eos lúmine grátiæ tuæ, et concéde propítius; ut, sicut hæc luminária igne visíbili accénsa noctúrnas depéllunt ténebras; ita corda nostra invisíbili igne, id est, Sancti Spíritus splendóre illustráta, ómnium vitiórum cæcitáte cáreant: ut, purgáto mentis óculo, ea cérnere possímus, quæ tibi sunt plácita, et nostræ salúti utília; quátenus post hujus sǽculi caliginósa discrímina, ad lucem, indeficiéntem perveníre mereámur. Per te Christe Jesu, Salvátor mundi, qui in Trinitáte perfécta vivis et regnas Deus, per ómnia sǽcula sæculórum.

℞. Amen.

祈願。主イエズス・キリスト、この世に来るすべての人を照らすまことの光にまします主よ、願わくは、✠祝福をこのろうそくに注ぎ、聖寵の光によって、これを✠聖別し給え。この明かりが、見える火の輝きによって夜の闇を払うごとく、慈悲なる天主よ、見えざる火、すなわち聖霊の輝きによって、われらの心を照らし、悪の闇を払い給え。そして、われらの心の目を開き、御身に嘉せられることと、われらの救いに役立つこととをわきまえさえ、いつか、この世の危険な闇を去って、消えることなき光明に達せしめ給わんことを、世の救い主、イエズス・キリスト、御身は天主であり、完全な三位一体において世々に生き且つ治め給う。

℞.アメン。

 第四の祈りFOURTH PRAYER

ORÉMUS – Omnípotens, sempi- térne Deus, qui per Móysen fámulum tuum puríssimum ólei liquórem ad luminaria ante conspéctum tuum júgiter concinnánda præparáti jussísti: bene✠dictiónis tuæ grátiam super hos céreos benígnus infúnde; quátenus sic adminístrent lumen extérius, ut, te donánte, lumen Spíritus tui nostris non desit méntibus intérius. Per Dóminum nostrum Jesum Christum Fílium tuum, qui tecum vivit et regnat in unitáte ejúsdem Spíritus Sancti, Deus, per ómnia sǽcula sæculórum.

℞. Amen.

祈願。全能永遠の天主よ、御身は、しもべなるモーゼに、清い油の入るともしびを備え御前でそれを燃やすようにと命じ給うた。願わくは、このろうそくに、✠祝福の恩寵を注ぎ給い、この火が、外に光を与えるとともに、恩寵によって、霊魂の中にも主の霊の光を照らし給わんことを。その同じ聖霊との一致において、天主として、御身と共に、世々に生き且つ治め給うわれらの主、聖子イエズス・キリストによりて。

℞.アメン。

第五の祈りFIFTH PRAYER

ORÉMUS – Dómine Jesu Christe, qui hodiérna die in nostræ carnis substántia inter hómines appárens, a paréntibus in templo es præsentátus: quem Símeon venerábilis senex, lúmine Spíritus tui irradiátus, agnóvit, suscépit, et benedíxit: præsta propítius; ut ejúsdem Spíritus Sancti grátia illumináti, atque edócti, te veráciter agnoscámus et fidéliter diligámus: Qui cum Deo Patre in unitáte ejúsdem Spíritus Sancti vivis et regnas Deus, per ómnia sǽcula sæculórum.

℞. Amen.

祈願。主イエズス・キリスト、われらと同じ肉体を持って、御身は本日人間の中に現れ、両親の手にいだかれて、神殿に奉献され給うた。そして、尊き老人シメオンは、主の霊に照らされて、御身を認め、いだき祝福した。この同じ聖霊の恩寵に照らされ、教えられて、われらにも、主を知り、主を忠実に愛しうるように、御慈悲を下し給え。聖父なる天主とともに、同じ聖霊との一致において、世々に生き且つ治め給う天主よ。

℞.アメン。

 

祈願を終えて、司祭は香炉に香を入れ、聖水でろうそくを三回祝別し、低声で詩篇なしで「主よ、ピソポで…」を唱える。そしてろうそくに三度撒香する。

 2.ろうそくの配布

 次に祭壇中央に立ち、ろうそくを侍者、聖職者、信者の順に配る。その間、聖歌隊が次の交誦を唱える。

 交誦Antiphon ルカLuke 2:32

LUMEN * ad revelatiónem géntium: et glóriam plebis tuæ Israël.

異邦人を照らす光、御民イスラエルの光栄。

シメオンの讃歌の一区切れごとに、この交誦を繰り返す。

シメオンの讃歌The Canticle of Simeon ルカLuke 2:29-32

℣. Nunc dimíttis servum tuum, Dómine: * secúndum verbum tuum in pace.

Lumen

℣. Quia vidérunt óculi mei: * salutáre tuum.

Lumen

℣. Quod parásti * ante fáciem ómnium populórum.

Lumen

℣. Glória Patri et Fílio * et Spirítui Sancto.

Lumen

℣. Sicut erat in princípio, et nunc, et semper, * et in sǽcula sæculórum. Amen.

Lumen

℣. 御言葉のままに、主よ、今こそ御身のしもべを安らかに逝かせ給え。

 

異邦人を

℣. 私の目は、もはや主の救いを見たゆえに。

異邦人を

℣. これは、万民の前に備え給うた御者である。

異邦人を

℣. 願わくは、聖父と聖子と聖霊とに光栄あれ。

異邦人を

℣. はじめと同じく、今もいつも、世々に、アメン。

異邦人を

 

℣. Dóminus vobíscum.

℞. Et cum spíritu tuo.

℣. 主は、あなたたちとともに、

℞. また、あなたの霊とともに。

ORÉMUS – Exáudi, quǽsumus, Dómine, plebem tuam: et, quæ extrínsecus ánnua tríbuis devotióne venerári, intérius ássequi grátiæ tuæ luce concéde. Per Christum Dóminum nostrum.

℞. Amen.

祈願。主よ、願わくは、御民の祈りを聞き入れ、聖寵の光によって、年ごとに外部的に行うこの式を、内部的にもあずからせ給え。われらの主キリストによりて。

℞. アメン

3.行列

次に行列が行われる。司祭は香を入れ、助祭が参列者の方を向いて唱える。

℣. Procedámus in pace.

℞. In nómine Christi. Amen.

℣. 平安に進もう。

℞. キリストの御名によって、アメン

行列の間、火を点じたろうそくを持って、次の交誦を歌う。

第一交誦First Antiphon

ADÓRNA thalámum tuum, Sion, et súscipe Regem Christum:

ampléctere Maríam, quae est cœléstis porta:

ipsa enim portat Regem glóriæ novi lúminis:

Subsístit Virgo addúcens mánibus Fílium ante lucíferum génitum:

quem accípiens Símeon in ulnas suas prædicávit pópulis Dóminum eum, esse vitæ et mortis, et Salvatórem múndi.

シオンよ、汝の花嫁の部屋を飾れ、しかして王たるキリストを迎え入れよ:

天の門なるマリアを抱擁せよ。

マリアは実に、新しき光の栄光の王を運び給い、

明けの明星の上る前に生み給いし御子を手にしつつおとめにとどまり給う。

その御子をシメオンは両腕の抱え人々に予告せり、

この聖子は生と死の主にして、世の救い主なり、と。

第二交誦Second Antiphon ルカLuke 2:26,27,28-29

RESPÓNSUM accépit Símeon a Spíritu Sancto, non visúrum se mortem, nisi vidéret Christum Dómini: et cum indúcerent Púerum templum, accépit eum in ulnas suas, et benedíxit Deum, et dixit: Nunc dimíttis, servum tuum, Dómine, in pace.

Cum indúcerent púerum Jesum paréntes ejus, ut fácerent secúndum consuetúdinem legis pro eo, ipse accépit eum in ulnas suas.

シメオンは、聖霊によって、主のキリストを見るまでは死なないと示されていた。両親がその子を連れて神殿に来ると、シメオンは幼児(おさなご)を抱き、天主を讃美して言った。「御言葉のままに、主よ、今こそ御身のしもべを安らかに逝かせ給え」と。

両親がその子イエズスを連れ、律法の習わし通り行おうとして来たとき、シメオンは幼児を抱いた。

行列は聖堂に入る。

答誦Responsory ルカLuke 2:22-24

℣. OBTULÉRUNT pro eo Dómino par túrturum, aut duos pullos columbárum:

℞. Sicut scriptum est in lege Dómini.

℣. Postquam impléti sunt dies purgatiónis Maríæ, secúndum legem Móysi, tulérunt Jesum in Jerúsalem, ut sísterent eum Dómino.

℞. Sicut scriptum est in lege Dómini.

℣. Glória Patri et Fílio et Spirítui Sancto.

℞. Sicut scriptum est in lege Dómini.

℣. 彼らは、幼児のために、山鳩一つがいか、鳩のひな二羽かを、主に捧げた。

 

℞. 天主の律法に記されている通り。

℣. モーゼの律法に従って、マリアの潔めの日数が満ちたとき、両親は、主に捧げるために、幼児を、エルザレムに連れて行った。

℞. 天主の律法に記されている通り。

℣. 願わくは聖父と聖子と聖霊とに光栄あれ。

℞. 天主の律法に記されている通り。

 

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ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」第一 その六、反対論に答える(つづき)(B)内的生活は利己主義(エゴイズム)ではないのか

2018年01月26日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat 第一 その六、反対論に答える(つづき)(B)内的生活は利己主義(エゴイズム)ではないのか をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

 六、反対論に答える(つづき)
(B)内的生活は利己主義(エゴイズム)ではないのか


 内的生活が、無為閑散の静寂を楽しむことに存する、と考えている人は、精神的に怠け者である。
 内的生活に、なぐさめの天主よりも、天主のなぐさめをさがしている人は、精神的にどん欲である。
 双方とも、まちがった信心におちこんでいる。かれらについては、なにもいうまい。
 だが、ここに、だれかがいて、軽率にもせよ、わざとにもせよ、内的生活は利己主義である、というなら、この人は、前のふたりにもまして、内的生活を誤解しているのである。
 内的生活こそは、隣人への最も寛大な、最も没我的な愛の事業を霊感する、きよい豊かな源泉である。涙の谷に泣きさけぶ人の子らの苦悩を軽減する隣人愛は、その源流を、内的生活に発している。このことは、前にもすこしいっておいた。で、こんどは、他の視点からながめた内的生活の利益を、考察してみよう。

 聖母マリアと聖ヨゼフは、内的生活の典型だといっても、さしつかえなかろう。それなのに、この偉大なおふたりの内的生活が、利己主義である、不毛である、といったら、いったい、どういうことになるのか。
 それは、なんと冒涜、バカバカしいことか。なるほど、おふたりは、はなばなしい外面的事業には全然、手をつけられなかった。それでいて、、聖母マリアは「使徒の元后」に、聖ヨゼフは「全教会の保護者」に、それぞれまつりあげられている。どうしておふたりは、このような栄位を、かちえられたのだろうか。
 ――かれらの深い内的生活の熱と光が、おのずから外面の世界に照射し、流露したからである。かれらのかくれた祈りと犠牲の功徳が、救世の恩恵を、あまねく世の人びとにほどこすうえにおいて、大きな寄与をしたからである。
 「わたしの妹は、わたしだけに接待をさせている」(ルカ10・40)

 おのれの外的事業とその成果のほかは、なにも眼中にない、愚かな、ウヌぼれの強い活動家たちは、マルタの右の言葉を引き合いにだして、おのれ自身の不信心を弁護しようとする。だが、かれらがどんなに愚かで、また、天主のやりかたについての認識にどれほど欠けてはいても、それでもまだ、天主は自分たちをさしおいて、単独では何もできぬ、と信じこむほど、のぼせてはいまい。すくなくとも、善意にそう解釈したい。
 しかし残念なことに、マリア・マグダラの観想の優越性を高く評価できなかったマルタの口ぶりをまねて、かれらはよくいいたがるものだ。「わたしの手伝いをするように、妹におっしゃってください」(ルカ10・40)と。あるいはまた、救世主を銀貨三十枚で、敵どもに売りとばしたユダのように、「なんのために、こんなむだづかいをするのか」(マテオ26・8)と……。

 かれらは、同じ使徒職にたずさわっている、自分たちよりも内的な同僚たちが、天主との親しい一致の生活を確保するために、しばしば仕事の手を休めて、祈りにあてる数刻を、時間つぶしだと、といって非難する。
 「わたしは、かれらが真理によって聖別されるように、かれらのため、わたし自身を聖別いたします」(ヨハネ17・19)
 聖主のこの祈りの意味を、よくさとっている内的な同僚たちは、こういって、かれらの非難に答えるだろう。――われわれは、われわれの事業の対象となっている人びとを、聖ならしめるためにこそ、まずわれわれ自身が聖となるように、努力するのである。そのためにこそ、あなたがたのおっしゃる“時間つぶし”をするのである、と。
 じじつ、この人たちこそは、祈りのねうちを、犠牲のねうちを、最もよくさとっているのだ。自分たちの涙を、救世主のお涙に、自分たちの日ましに浄化されていく心のくるしみをの血を、救世主の尊い御血にあわせるすべを、すなわち、救世事業の秘訣を、よく心得ているのだ。

 内的な魂は、イエズスとともに、全世界のおびただしい罪が天に向かってあげている烈しい怒号を、心の耳できいている。それは、罪びとのうえに、天主の復讐をよびくだす怒号である。だが、天主の宣告は、内的な霊魂の全能の嘆願によって、猶予されるのだ。天主は、罪びとらに、復讐の矢を放とうとしている。内的な霊魂だけが、天主のこの怒れるみ手を、制止することができるのだ。

 著名な政治家であったドノソ・コルテス(Donoso Cortès)は、その回心の後、こんなことをいった。

 「祈る人は、戦う人よりも、世界に、はるかに多く寄与している。もし世界が、さらに悪化の一途をたどるなら、それは祈りよりも、戦いが多いからだ……」
Ceux qui prient font plus pour le monde que ceux qui combattent, et si le monde va de mal en pis, c’est qu’il y a plus de batailles que de prières.


 ボスエ司教も、同じことをいっている。
 「祈る人の、天に向かってあげられた二本の腕は、剣をとって戦う人びとの、幾万本の腕にもまして、はるかに多くの敵をたおす!」

 テバイデの苦業者たちは、人跡絶えたサハラ砂漠の秘境にいても、東洋の大使徒聖フランシスコ・ザベリオの心にもえさかっていた布教熱の炎を、同じように持っていた。聖アウグスチノがいっているとおり、「かれらは、必要以上に、世間を捨てたように思われる」。だが、聖人がいそいで、つけ加えていっているように、「かれらの祈りは、この徹底した世間からの離脱によって、いっそう純粋になり、これあるがためにこそ、当時の腐敗しきった社会にたいしては、いっそう大きな感化をおよぼし、世人の教化にとっては、いっそう切実な必要とさえなっていったのである。残念なことに、世の人びとは、この事実に、あまり気をとめないでいる……」

 みじかくて、熱心な祈りのほうが、長い議論や美しい説教にもまして、罪びとの回心を促進するものだ。 
 祈る人は、第一原因者と直接に、交渉する者である。
 祈る人は、直接に、天主に働きかける。
 祈る人は、このようにして、あらゆる第二原因(被造物)の運命を、自分の手の中に、おさめている。第二原因は、第一原因の天主からそれをもらわなければ、おのが運命をアレンジするうえにおいて、いかなる権限も持っていないからである。
 そんなわけで、祈る人は、自分の望んでいることはなんでも、いっそう確実に、いっそう迅速に、なしとげることができるのである。

 信頼できる黙示によれば、大聖テレジアの、タッタ一回の、もえるような祈りによって、何万人もの異端者が回心している。聖女の霊魂は、キリストへの愛にもえさかっていたので、人びとの霊魂を救おうとの、救い主の火のようなご熱情に無感覚な人たちの内的生活・観想的生活なるものを、ほんものとして受け取ることができなかった。聖女はいっている。
 「わたしは、タッタひとりの霊魂でも、煉獄から救いだすことができますなら、よろこんで世の終わりまで、煉獄の火の苦しみを、あまんじて受けましょう。苦しみの長さがなんでしょう。もしこの苦しみのおかげで、天主さまのご光栄のために、タッタひとりの霊魂でも、救いだすことができましたら!まして、たくさんの霊魂が救いだせるのでしたら……」

 そして、その娘たちに、こうおっしゃるのだった。
 「娘たちよ、この一点に――純然たる使徒的事業であるこの一点に、あなたがたのすべてのお仕事を、集中させなさい。すべてのお仕事を――念禱も、ムチうちも、大斉も、ねがいごとも……」

 じじつ、これが、カルメル会修道女の仕事なのだ。これが、トラピスト会修道女の、クララ会修道女の仕事なのだ。彼女たちこそは、あるく宣教師たちの足あとをたどる者だ。彼女たちこそはまた、自分らの念禱と苦行のあふれから、宣教師たちの霊生をはぐくみ育てる、尊い母性なのだ。

 彼女らの祈りの声は、いまだかつて宣教師らが、十字架の木をうちたてることもなく、福音の光りをかがやかせたこともない、未開の国々にまでこだまして、救世主のとうとい獲物なる、異教のやみにとざされた人びとの心に達する。もっと適切にいえば、彼女らの心奥に秘められている神愛のたえなる調べこそは、いかなる大使徒の雄弁にもまさって力づよく、全世界いたるところで、天主のご慈悲のみこえを、罪びとらの耳につたえている。

 なぜ、とおい異教の国々で、やみの子らがくびすを接して、まことの宗教に立ちかえるのか。なぜ。信仰の迫害のきびしい国々で、信者たちが、初代教会の殉教者たちに劣らず、英雄的忍耐を示しているのか。なぜ、殉教の責苦にもひとしい、ひどい苦しみのさなかにあって、宣教師たちがいつも、天上のよろこびに酔いしれているのか。
 その理由を知っているものは、そうたくさんはいまい。――修道院の奥ふかく身をかくし、人に知られず、世にうずもれて、天主にささげる彼女らの謙遜な祈りと犠牲にこそ、この霊界のすべての奇跡はつながっているのである。
 彼女らの祈りの指は、天主の恩寵の鍵盤の上を、玉あられのように乱舞し、罪のゆるしと永遠の光明のたえなる交響楽をかなでながら、人類の救済と教会の征服事業を、みごとに指揮する。――こころ静かに、そして孤独のうちに!
   (この章 続く)

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ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat 第一 その五、反対論に答える(A)内的生活は、無為怠慢な生活ではないのか (続き)

2018年01月25日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat 第一 その五、反対論に答える(A)内的生活は、無為怠慢な生活ではないのか(後半) をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

五、反対論に答える(A)内的生活は、無為怠慢な生活ではないのか の後半

 そこで、ドン・セバスチャン大修道院長(Dom Sébastien)は、次のように結論している。
 「内的生活をいとなむ熱心な修道者、修道女たちが、のらくら者である、――ほんとうに内的で、奮発心にもえている司祭たちが、怠け者である、とあなたは言い張るのか。よろしい。そんなら、世の中でいちばんいそがしい実業家たちを、ここにつれてきて、かれらの苦労ばなしをきいてみようじゃないか。われわれ内生をいとなむ人間の心労にくらべて、かれらの苦労がいったいなんだろう!」

 誰しも、次のことは、経験によって、身におぼえがあるにちがいない。すなわち、タッタ半時間、まじめに黙想するよりも、タッタ半時間、信心ぶかくミサ聖祭にあずかり、または熱心に注意ぶかく聖務日課をとなえるよりも、むしろ自分は、どんなに時間がかかってもいい、どんなに骨が折れてもいい、シャバっ気のある仕事のほうが、よっぽど好きだ――。[1]

 フェーバー師(Father Faber)は、この事実をつきとめて、次のようにぐちっている。
 「ある信者たちにとって、聖体拝領後の十五分は、一日じゅうで、いちばん退屈な、いちばん不愉快な十五分である!」(«le quart d’heure qui suit la communion est le quart d’heure le plus ennuyeux de la journée.»)

 まして、三日間の黙想は、なおさらのこと。たとえ、それは短い日数であっても、ある信者たちにとっては、どんなにいやなものだろうか。――これまで送っていた、だらしのない、しかし多忙をきわめた生活を、三日間もおあずけして、その代わりに、純然たる超自然的生活、いっさいのシャバっ気をしめだした、清浄そのものの生活をする。黙想のあいだは、自分の生活のすべての領域に、超自然の空気をただよわせねばならぬ。精神の目を大きくひらいて、いっさいの事物を、ただ信仰の光りだけでもってながめる。いやがる心を無理にしいて、いっさいの俗事を忘れさせ、ただイエズスとそのご生涯とにだけあこがれさせねばならぬ。赤裸な“自己”と対決して、霊魂の病まいと弱さを、白日のもとにさらけだす。自分の霊魂を、厳しい試練にかける。心の中の不平不満に、耳をかさない。――こういう内性のプログラムを予想しただけで、たいがいの人は、しりごみする。純然たる自然界の活動や事業にかけては、どんなつらい労苦でも、平気でやってのけようと、手ぐすねひいて待ちかまえている人たちにしてからが、こんな調子である。

 たかが三日間の黙想ですら、かれらにとっては、こんなに苦しい仕事だと思われるのなら、まして内的生活の修業が、一生涯もかかる仕事だときかされては、どんな気持ちがするだろうか。むろん、すべての被造物からの離脱の仕事において、天主の恩寵は大部分のはたらきをし、主のクビキをこころよく、荷をかるくしてはくれるだろう。それでも霊魂は、どれほど努力しなければならぬことか。――いつも気をはりつめていて、天国への直線コースをふみはずさないように、天主から心の目をはなさないように、ややともすれば空想の世界にさ迷いがちな精神を、聖パウロが「わたしたちの国籍は天にある」(フィリッピ3・20)といったその思想に呼びもどすように、つねに精をださねばならぬ。これらのことを説明して、聖トマスがこういっている。

 「人間は、現世的善と精神的善との間に、立たされている。精神的善にこそ、永遠の幸福は存するのだ。さて人間は、現世的善に愛着すればするほど、それだけいっそう精神的善から離れ去る。反対に、精神的善に愛着すればするほど、それだけいっそう現世的善から離脱していくのである」(『神学大全』(Ⅰa 2 ae, q. 108, a. 4 )[2]

 はかりの一方の皿が下がれば、それだけ他方の皿が上がるのは、当然である。
 さて、原罪の悲劇が、人間性の秩序をみだしていらい、精神的善への愛着と、現世的善からの離脱との、この二つの仕事は、われわれの霊魂に、非常に苦しい努力を要求するようになった。人間は“小宇宙”と呼ばれているが、この小宇宙に、失われた秩序と調和を回復し、持続するためには、いたって烈しい精神活動が必要である。労苦と犠牲が必要である。霊魂の殿堂は、倒壊している。新たに建てなおさねばならぬ。次に、もう二度と倒れないように、いろいろ工夫しておかねばならぬ。

 おのれを警戒し、おのれを捨て、おのれにつらい制欲のわざを課して、俗っぽい考え、みだらな思いを、霊魂から駆逐しなければならぬ。心は、だらくした天性の重圧に、あえいでいる。じぶんのまがった性質を、ためなおす。とりわけ、主イエズス・キリストのご性格とあまりにかけ離れている欠点――たとえば、放心、怒りっぽい、ウヌぼれ、物質への愛着、高慢な態度、あまりに自然の感情に流される、頑固な心、利己心、不親切――など、そういった欠点をためなおす。現在の、そして感覚を刺激してやまない、官能的快楽の魅惑に抵抗する。そのためには、長く待った後にやっと、手に入れることのできる精神的幸福を、熱烈に希望し、かつこれにあこがれる。われわれに、この世を愛させることのできる一切の事物から、霊魂を離脱させる。一切の事物――被造物も、願望も、渇望も、地上的善も、自分の意志も判断も、すべてこれらをひとまとめにして、燔祭のいけにえにする。ああ、そのためには、どれほどつらい努力が、要求されることか!

 これはただ、内的生活の消極的方面を、いったまでにすぎない。なおそのうえ、霊魂は、聖パウロが熱烈な調子でいっているように、救霊の敵と、肉弾につぐ肉弾で、死闘を演じなければならぬ。
「わたしは、内なる人としては、天主の律法を喜んでいるが、私の肢体には、別の律法があって、わたしの心の法則に対して、戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則のなかに、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」(ローマ7・22~24)

 霊魂のこの浄化のくるしみは、かの有名なラビニャン師(Père de Ravignan)も、したしく経験した。

「修練院で、なにをしたか、とおたずねですか。――そうですね。わたしたちは、二人でした。そしてわたしは、一人の“わたし”を、窓から外へ投げ飛ばし、もう一人のわたしが、タッタ一人残ったのです……」
(« Vous me demandez ce que j'ai fait pendant mon noviciat? Nous étions deux, j'en ai jeté un par la fenêtre et je suis resté seul.»)

 救霊の敵は、いつもあらたに、勢力を増そう増そうとしている。この敵にたいして、息するひまもなく、戦わねばならぬ。ひとたび放逐した世間の精神が、すこしでもまた再び帰ってこないように、心をよく警戒していなければならぬ。さらに、悔いあらための苦業できよめられたこの心を、天主にくわえた非礼のつぐないをせねばならぬ、という烈しい望みで、もえたたせねばならぬ。イエズス・キリストの御徳を模倣するためには、自分が獲得したいと思うこれこれの善徳の永遠美に、まず心を愛着させねばならぬのだが、そのためには、霊魂の全精力をかたむけて、修業にとりかからねばならぬ。天主のみ摂理にたいする絶対不動の信頼を、日常生活の最も小さないとなみにいたるまで、浸透させねばならぬ。

 以上が、だいたい、内的生活の積極的方面である。しなければならぬ仕事は、山ほどある。戦いの分野は、はてしもなく、眼前に展開している。
 さらに、内的生活を、積極的に推進する仕事――それは霊魂の秘奥で、しつこく、そして絶え間なく、続けられていく。苦しいだろう。しかし、この苦しい仕事をしおえてこそ、霊魂はほんとうに、使徒職をりっぱにやっていくための、ふしぎな容易さと、実施にさいしての驚くべき迅速さを習得するのではないか。この秘密を解明してくれるものは、ただ内的生活のみである。

 この秘訣を習得した者だけが、めぐまれない健康にもかかわらず、病弱なからだにムチうって、目をみはらせるような、偉大な使徒職を、次から次へと、やってのけたのである。聖アウグスチノ、聖ヨハネ・クリゾストム、聖ベルナルド、聖トマス・アクィナス、聖ビンセンシオ・ア・パウロが、そうだった。その他、枚挙にいとまないほどである。そのうえ、われわれが驚嘆の念を禁じえないのは、これらの人が、ほとんど息つくひまもないほどの激務にたずさわっていながら、天主との絶え間ない一致のうちに、内的生活をいとなんでいた一事である。

 聖人たちはみなこのように、祈りと観想によって、天主という生命の源泉からじかに飲んで、たましいのかわきをいやしていたればこそ、他の凡俗な人びとにくらべて、いっそう広範な活動の分野と、それに要するエネルギーを、そこから汲みとっていたのである。

 右の事実をうらがきする、ひとつのエピソードがある。フランスが近代に誇りうる一司教の話だが、かれは山積みする教会事務に忙殺さていながら、それでも余裕しゃくしゃく、いつも青空のごとき心境である。

 ここに、かれのようにいそがしい、政府要路の一高官があった。かれは、国家の繁忙な政務に、身も心も消耗し、スッカリ心のおちつきを失っていた。高官は司教に、その心のゆとりと、事業の驚嘆すべき成果の秘訣を、たずねた。

 「友よ――」司教は、答えていった。「これまでのいそがしいお仕事にくわえて、いまひとつ、朝早く、半時間の黙想をいたしなさい。毎朝、いちども欠かさないで。そういたしましたら、どんなにいそがしいお仕事でも、朝めしまえには、きちんと片づきましょう。そのうえ、時間に余裕ができて、新たないくつもの仕事に、手をだすことができましょう……」
(« A toutes vos occupations, cher ami, ajoutez encore une demi-heure de méditation chaque matin. Non seulement vos affaires seront expédiées mais vous trouverez encore le loisir d’en réaliser de nouvelles. »)

 最後に、フランスの聖王ルイ九世のお手本が、ここにある。聖王は、一日も欠かさず、日に八、九時間を、内的生活のいとなみに費やされた。聖王ルイが、国家の政務と国民の福祉事業に、いかばかり精魂をしぼりつくして活動されたかは、万人周知の事実だが、さて聖王は、ご自分の内的生活の中にこそ、その成功の秘訣を見いだしておられたのであり、同時に、その絶倫の活動エネルギーを汲みとっておられたのである。
 じっさい、現代の一社会主義者の雄弁家がいっているとおり、このごろフランス政府が、労働者階層のために、どんなに熱心に働いているとはいえ、これを聖王ルイ九世治下になされた、同様の事業に比較するなら、じつに足もとにも寄りつけないほど微々たるものである。


[1] Texte à citer de D. Festugière, 0. S. B.: “Quelles que soient les difficultés de la vie active, Il n'y a que les inexpérimentés qui osent nier les épreuves de la vie intérieure. Beaucoup d'actifs, d'ailleurs sincèrement pieux, avouent que, bien souvent, ce qui leur coûte le plus dans leur vie, ce n'est pas l'action, c’est la part obligatoire de l'oraison. Us sont comme soulagés quand l'heure de l’action sonne”.

[2] Est homo constitutus inter res mundi hujus et bona spiritualia in quibus aeterna beatitudo consistit, ita quod, quanto plus inhaeret uniforum, tanto plus recedit ab altero, et e contrario (la, 2ae, q. 108, a. 4).
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Adorna thalamum tuum, Sion(シオンよ、汝の花嫁の部屋を飾れ)の歌詞とその日本語訳

2018年01月25日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 Adorna thalamum tuum, Sion(シオンよ、汝の花嫁の部屋を飾れ)の歌詞とその日本語訳をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


Κατακόσμησον τὸν νυμφῶνά σου Σιών,
Adorna thalamum tuum, Sion,
シオンよ、汝の花嫁の部屋を飾れ

καὶ ὑπόδεξαι τὸν Βασιλέα Χριστόν,
et suscipe Regem Christum:
しかして王たるキリストを迎え入れよ

ἄσπασαι τὴν Μαριάμ, τὴν ἐπουράνιον πύλην·
amplectere Mariam, quae est coelestis porta:
天の門なるマリアを抱擁せよ

αὕτη γὰρ (θρόνος Χερουβικὸς ἀνεδείχθη,
αὕτη) βαστάζει τὸν Βασιλέα τῆς δόξης, νεφέλη φωτὸς
ipsa enim portat Regem gloriae novi luminis.
マリアは実に、新しき光の栄光の王を運び給い

ὑπάρχει ἡ Παρθένος, φέρουσα ἐν σαρκὶ Υἱὸν πρὸ Ἑωσφόρου,
Subsistit Virgo adducens manibus Filium ante luciferum genitum:
明けの明星の上る前に生み給いし御子を手にしつつおとめにとどまり給う

ὃν λαβὼν Συμεὼν ἐν ἀγκάλαις αὐτοῦ ἐκήρυξε λαοῖς, Δεσπότην αὐτὸν
quem accipiens Simeon in ulnas suas praedicavit populis Dominum eum,
その御子をシメオンは両腕の抱え人々に予告せり

εἶναι, ζωῆς καὶ τοῦ θανάτου, καὶ Σωτῆρα τοῦ κόσμου.
esse vitae et mortis, et Salvatorem mundi.
この聖子は生と死の主にして、世の救い主なり、と。

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