Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

私は御身を信じ、礼拝し、希望し、御身を愛します!御身を信じぬ人々、希望せず愛さぬ人々のために、赦しを求めます(天使の祈)

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
2019年 8月の聖伝のミサの予定
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】


8月 聖母の被昇天を祝いましょう。
意向:聖母の汚れなき御心の凱旋のため
実践すべき徳:心の柔和と謙遜
守護の聖人:聖母の汚れ無き御心

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します

◎2019年 8月の予定
【大阪】聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂(アクセスEG新御堂4階 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 
〒532-0002 (JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分)

  8月2日(初金)教会博士証聖者司教聖アルフォンソ・デ・リグオリ(3級祝日)白
          午後5時半 ロザリオ及び告解
          午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月3日(初土) 聖母の土曜日(4級)白
          午前10時 ロザリオ及び告解
          午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月11日(主)聖霊降臨後第9主日(2級)緑
          午後5時半 ロザリオ及び告解
          午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月12日(月) 童貞聖クララ(3級祝日)白
          午前10時 ロザリオ及び告解
          午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月18日(主)聖霊降臨後第10主日(2級)緑
          午後5時半 ロザリオ及び告解
          午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月19日(月) 証聖者聖ヨハネ・ユード(3級祝日)白
          午前6時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

【東京】東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図)「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」

  8月4日(主)聖霊降臨後第8主日(2級)緑
          午前10時  ロザリオ及び告解
          午前10時半  ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月5日(月)  雪の聖母の大聖堂の奉献(3級祝日)白
          午前7時 ミサ聖祭

  8月18日(主)  聖霊降臨後第10主日(2級)緑
          午前10時  ロザリオ及び告解
          午前10時半  ミサ聖祭(歌ミサ)

愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております。

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聖ピオ十世会 SSPX 聖伝のミサ(トリエント・ミサ) レネー神父様の説教 枝の主日

2015年03月31日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 レネー神父様が東京での聖伝のミサでなさったお説教をご紹介します。

 神父様は、私たちの主イエズス・キリストのイエルザレムへの勝利の入城の意味を説明します。つまり、王たるキリストとしての入城です。イエズスの王権を認めることです。

 それと同時に、イエズス・キリストが天主であることを認めなければなりません。つまり、イエズス・キリストの王国は、この世の国々の上に立つ統治ということです。天主であるイエズス・キリストこそが、全ての権威の源泉であるということです。もしもそれを認めないなら、暴政、秩序の崩壊、権威の濫用が行われます。

 そしてイエズス・キリストの統治は、ご自分の十字架によってなされていることを神父様は説明してくださっています。

 どうぞお読みください。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2015年3月29日枝の主日、東京での説教

親愛なる兄弟のみなさん、

私たちの主イエズス・キリストのイエルザレムへの勝利の入城は、王たるキリストのお祝いです。天使がマリアに「かれは、主なる神によって父ダヴィドの王座を与えられ、永遠にヤコブの家をおさめ、その国は終わることはありません」(ルカ1章32-33節)と告げた通り、ユダヤ人の群衆はイエズスを「ダヴィドの子」、つまりダヴィドの王座を継ぐ者と認めました。ユダヤ人たちはイエズスの王権を認めることはしましたが、多くはイエズスの神性を認めることはしませんでした。しかし、天使はマリアにまたこのように告げていたのです:「それは偉大な方で、いと高きものの子といわれます。…生まれるみ子は聖なるお方で、神の子といわれます」(ルカ1章32-35節)。

キリストの王国が天の王国、「天主の王国」、天主であるキリストの王国であることを認めることは、真の信仰の基礎です。「私の国は、この世のものではない。もし私の国がこの世のものなら、私の兵士たちは、ユダヤ人に私をわたすまいとして戦っただろう。だが、私の国は、この世からのものではない」(ヨハネ18章36節)。今日の福音の箇所で、この言葉を聞いたピラトは私たちの主イエズス・キリストの威厳に感銘を受けたに違いありません。そこでピラトはこう聞いたのです。「『するとあなたは王か?』」「イエズスは、『あなたのいうとおり、私は王である。私は真理を証明するために生まれ、そのためにこの世に来た。真理につく者は私の声を聞く』とお答えになった」(ヨハネ18章37節)。

私たちの主イエズス・キリストは世界を治めておられますが、それはこの世から、この世の仕方で治めておられるのではありません。私たちの主の王国は人間の王国や帝国を破壊するものではなく、むしろそれらの国々の上にあって統治するもので、主の王国は全ての国々によって認められねばなりません。主の王国はあらゆる人間の権威の上に立つ天主の権威による統治です:「神から出ない権威はな」(ローマ人13章1節)く、特に王や皇帝のように人間の内での最高権威者にこれが当てはまります。法律や義務は人から生まれるのではありません。人には、自分の個人的意思を他の人たちに強制する権利や権力はありません。全ての人は、人として同じ本性を持っているので、本質的に平等だからです。一人の人が他の人たちに対して持つ権威というものは、その人が自分の治める人々の共通の善を実現するという役割を果たすよう天主の摂理によって定められたという事実から来るのです。教会の教えによれば、たとえ指導者が人々によって選ばれたとしても、人の持つ権威は人々から来るのではなく、天から来るのです。天主こそが至高の権威を持っておられ、その権限を人に与えられるのであって、権威を持つ全ての人は自分に与えられた権威をどのように使ったかについて、のちに天主に報告しなければならないのです!

あらゆる法律には制定者が必要です。他の人々に対して法律を強制するためには、法律の制定者は他の人々より上にいる者でなければなりません。人間の本性によって、他の人より上にいる人はいません。従って、上から、つまりあらゆるものの上にありあらゆるものに対する権威を持っておられる天主から権威を受けたのでなければ、誰も他の人々に対する権威を持つことはできません。もしもこの真理、つまり天主があらゆる権利の源であるという真理を認めなければ、物理的な力しか残りません。一人の人が自分の意思を他の人々に強制するのは、自分が物理的により強いからということになってしまいます。これは弱肉強食、暴君の法のたぐいであって、本来の、正しい法律ではありません!天主を拒絶した現代世界では、金という無名の権力による暴政が日に日に増して行なわれており、それが道徳を破壊し、世界中に堕胎、同性愛者の権利等あらゆる種類の非道徳的な行為を強制しています。人の作ったこのような法律は真の法律ではなく、秩序の濫用、法律の濫用です。

暴政から身を守る最善の方法は、王たるキリストを認めること、つまり、天主、天主であるイエズス・キリストこそが権威の源であり、それゆえまた天主が権威の模範であることを認めることにあります。この地上で人を治める者たちが私たちの主イエズス・キリストを王であると認めるとき、彼らはもう暴君ではなくなり、自分が治める人々の真の善のため、真の共通善のために自分の権威を用いることを学びます。人々の真の共通善とは、永遠の救いに繋がるような徳に満ちた生活を促す社会秩序です。このような社会秩序は、天主の法、天主の十戒、キリストの法、愛徳の法に基づくものです。

罪は愛徳の反対です。愛徳はあらゆるものを越えて天主を愛することですが、罪は天主よりも被造物を愛することです。ですから罪は最初の悪であって、他の全ての悪、全ての苦しみの原因です。罪によって社会秩序が破壊され、治められる人々が正しい命令にそむいたり、治める人々が自分の権威を悪用し、共通善ではなく自分自身の益のために行動したりしてしまいます。ですから、罪に打ち勝ち、罪を償い、人の霊魂と社会を癒す救い主が必要です。私たちの主イエズス・キリストこそがこの救い主であって、ご自分の十字架によって私たちをお救いくださったのです。 主が十字架上でご自身をいけにえとして奉献されたのは、罪に対する愛徳の真の勝利であり、あらゆるものを越えた天主への真の愛であり、天主の命への完全な従順、すなわち、私たちの罪、罪の悪を償うための十字架上の死に至るまでの御父の命への完全な従順だったのです。「そこで神はかれを称揚し、すべての名にまさる名をお与えになった。それは、イエズスのみ名のまえに、天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるものもみな膝をかがめ、すべての舌が、父なる神の光栄をあがめ、『イエズス・キリストは主である』といいあらわすためである」(フィッリピ人2章9-11節)。

ですから私たちの主イエズス・キリストは今ご自分の十字架によって治めておられます。主は私たちを罪から救うことによって私たちを勝ち取られ、私たちを勝ち取られた権利によって治めておられるのです。私たちへのあらゆる恩寵、あらゆる超自然的な恩恵は主イエズス・キリストから頂いており、私たちは主を通じて御父のところに戻ることができるのです:「私は、道であり、真理であり、命である。私によらずには、だれ一人父のみもとにはいけない。」(ヨハネ14章6節)。

この聖週間の間、私たちの主イエズス・キリストの御受難を黙想し、主を王として、十字架上の御死去によって私たちを勝ち取り、私たちの心を勝ち取り、私たちを罪から救ってくださり、そして死者のうちからの御復活によって永遠の命の種である聖寵を私たちにくださる王として見るようにいたしましょう。私たちはもう私たち自身のものではありません。私たちは主のものです。「はたして、キリストが死んでよみがえったのは、死んだ人々と生きている人々とを支配するためである」(ローマ人14章9節)。「すべての人のためにキリストが死なれたのは、生きる人々が、もう自分のためではなく、自分のために死んでよみがえったお方のために生きるためである」(コリント人後5章15節)。洗礼の水に洗われ、告解の秘蹟によって子羊の血に洗われた私たちは、主を悲しめることなく、あらゆることにおいて、真実と徳の統治、愛と命の統治、正義と平和の統治である王たる主の統治に従順であるよう努力するようにいたしましょう。

贖いの業のすべてにおいて、新しいアダムである私たちの主イエズス・キリストには、「彼に似合った助け手」(創世2章18節)、新しいエバ、また「[王]の右に…[いる]王妃」(詩篇44篇10節)である童貞聖マリアがおられます。このように聖母を新しいエバとする教えは大変古くから教会にありました。使徒たちの死から百年も経たない時、最初期の教父たちがそれを明確に、明快に説いていました。聖ユスチヌスは最初のエバと第二のエバである聖マリアの対比をしています。最初のエバは悪い天使の言うことを聞き、不従順と死を招きました。第二のエバは善い天主の言うことを聞き、従順を通して私たちに命をもたらしました。それは命であるイエズスです。私たちが永遠の命を見いだせるのはイエズスにおいてのみ、イエズスを通してのみです。「[エバは]不従順になったため、自分自身と人類全体の死の原因となった。マリアもまた、男と婚姻をしながら童貞であることにより、従順を捧げたため、自分自身と人類全体の救いの原因となった」(聖イレネウス「異端駁論」III,22)。

この後、聖イレネウスは新しいエバとしてのマリアについて力強い言葉を記しています。「エバの不従順による結び目は、マリアの従順によって解かれた。童貞エバが不信仰によって固く結んだ結び目を、童貞マリアが信仰によって解き放った」(聖イレネウス「異端駁論」III,22)。このように、聖マリアは私たちを罪から解き放ってくださるのです!別の箇所では更に強く述べられています。「前者が天使の言葉によって迷わされ、天主の言葉に背いて天主から逃げたように、後者は天主の言葉に従順であったため、天使の告げによって天主を身籠るという幸いな知らせを受けた。前者は天主に背いたが、後者は天主に従順であるよう説得され、童貞マリアは童貞エバの代願者となられた。こうして、人類は童貞によって死の足かせに繋がれたように、童貞によって救われた。すなわち童貞の不従順の針が、童貞の従順によって逆に振れた」(聖イレネウス「異端駁論」V,19)。最初期の教会から明らかに伝えられていることは、「人類は童貞マリアによって救われた」ということです。しかし一人ではなく、キリストの助け手として、新しいアダムの側に立つ新しいエバとしてです。

ですから、私たちの主イエズス・キリストの御苦難を黙想するとき、主のお側におられる聖母の御苦難をも忘れないようにいたしましょう。お二人の御苦難は私たちのため、私たちの罪のため、私たちに赦しと癒しとをくださるため、そして御父の栄光のためにキリストが私たちの心を治められるためなのですから。

イエズスの十字架を通した贖いの神秘はすべて、毎日捧げられるミサ聖祭の犠牲によって現実化しています。罪は赦され、お恵みは豊かに与えられ、キリストの統治が広がります。天主は十字架を通して統治されたのです!逆に、悪魔がミサ聖祭の犠牲を何よりも恐れ、典礼を変更し、特に典礼の犠牲の面を隠すことによってミサ聖祭を破壊しようとしたことを、私たちは理解することができます。ですから、キリストの王国を広め、霊魂を救うため、すべてのミサ聖祭が永遠のミサ、聖伝のミサに戻る必要があるのです。共贖者である童貞マリアが私たちのためにこれらすべてのお恵みを取り成してくださいますように。

アーメン






《罪なく宿り給いし聖マリアよ、御身に寄り頼み奉る我らのために祈り給え。また、御身に寄り頼まぬ全ての人々のため、ことに、フリーメーソンのため、また、御身に依頼された人々のために、祈り給え。》

「わが天主よ、私は御身を信じ、礼拝し、御身に希望し、御身を愛します!御身を信じない人々、礼拝しない人々、御身に希望しない人々、御身を愛さない人々全てのために、赦しを乞い求めます。」

「至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、私は御身を深く礼拝いたします。私は、世界中のすべての御聖櫃の中にましまし給うイエズス・キリストのいとも尊き御体、御血、御霊魂、神性を、天主御自身が犯されている侮辱、冒涜、無関心を償うために、御身にお捧げいたします。イエズスの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳により、私はあわれな罪人の回心を御身に願います。」

「ああ聖マリアよ、御身の清き汚れなき御宿りによりて、ロシア、ヨーロッパ、中国、韓国、日本、そして全世界の回心を得させ給え。」


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カトリック中央協議会編集の公教要理(1958年)
聖ピオ十世 公教要理詳解
ローマ公教要理 【使徒信経の部】

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聖ピオ十世会 SSPX Japan 聖伝のミサ (トリエント・ミサ) 東京と大阪の報告 レネー神父様

2015年03月30日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 昨日の枝の祝日には、東京でレネー神父様が聖伝のミサを捧げてくださいました。次のような報告を、大阪と東京の方々から頂きましたので愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。レネー神父様に感謝します。

 レネー神父様のなさったお説教については改めて明日、ご紹介します。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】【大阪】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

遅くなりましたが、大阪での御ミサの報告をお送りいたします。

3月27日(金)聖母の七つの御苦しみ の歌ミサには13人が、
  28日(土)ご受難の主日後の土曜日の歌ミサには17人が御ミサに与るお恵みを頂きました。デオグラチアス!!

レネー神父様はいつもよりも早く飛行機が大阪に到着したにも関わらず、入管での長蛇の列で長い時間待たされたそうで、大変お気の毒でした。列に並んでいる間にロザリオを2環されたそうです。

 大阪の御ミサ会場でも、神父様をお待ちする間、いつものロザリオの祈りに加えてシュテーリン管区長様のご意向にもあわせてあと3環のロザリオを皆でお祈りする事が出来ました。

色々なご事情で御ミサに来たくても来れない方々がいらっしゃる中、わずかな人数ではありますが御ミサに与る事が出来たのは、天主様の御恵み以外のなにものでもないとつくづく実感いたします。日本のために、また、わずかな信徒のために来日して下さる神父様方にも本当に感謝の気持ちでいっぱいです。

神父様方にはなかなかうまくこの感謝の気持ちをお伝えする事が出来ませんが、天主様がそのお働きに報いて下さいますよう、また、護り、お助け下さいますよう信徒一同お祈り申し上げます。

金曜日は、到着に時間がかかられて、随分お疲れだったに違いありませんのに、レネー神父様は歌ミサをして下さりミサの後には「今日は歌ミサが出来てとても嬉しかった!\(~o~)/」と仰っていました。

 レネー神父様は たいていのミサはいつも暗記しておられ、この日の続誦 スタバトマーテルも、全て暗記で一緒に歌ってくださいました。聖ピオ十世会の神父様方の天主様への愛、物惜しみしないご親切と、忍耐にはいつも感動してしまいます。

神父様方を見習って、私達もイエズス様をお愛しするため、マリア様をお慰めし、マリア様を通してマリア様とともにマリア様によって全てをお捧出来るよう、お説教にで仰っていたように、特にこの聖週間を悲しめるマリア様と共に過ごしたいと思います。

ご復活祭に、沢山の方々が御ミサに与るお恵みを頂けますように!!久しぶりの方々にも御会いできるかもしれない事を楽しみにしています。







【報告】【東京】
今日は枝の主日の典礼に従い、枝の祝別式に続いて信者が枝の授与を受けた後、"Gloria, laus, et honor(栄光と讃美と栄誉)"等の聖歌を歌いながら (大変短距離ながら)行列をして聖堂に入ったあと、枝の主日のミサが行なわれました。今日の福音ではマテオによる御受難の叙述(26-27章)全てをレネー神父が歌ってくださいました。

お説教では、権威というものは天から来るもので、人が他の人に対する力の優位性から持っているものではないこと、従って権威の濫用に対しては、全ての権威の源である王たるキリストを認めることこそが肝要であることを教えていただきました。また、最初のエバが天主への不従順によって人類に死をもたらしたのに対して、童貞マリアが第二のエバ、新しいアダムであるキリストの助け手として、天主への従順によって、キリストと共に人類を救ってくださったという教父達の教えを紹介してくださいました。

午後の霊的講話では、権威について更に詳しく、聖トマスの論を紹介して説明していただきました。両親と子どもを例にとり、権威はその権威の対象となる者のために存在するものであること、天主の権威には常に従わねばならないが、人間の権威については従うべきときと従わざるべきときがあること、またこのことが聖ピオ十世会の立場に大きく関係していること等を教えていただきました。さらに聖週間には共同受難の聖母を忘れることのないようにとのお言葉も頂戴しました。

その後、枝の主日の晩課を歌って終了しました。

ミサの参列者数
男: 14人(内、子供1人)
女: 19人(内、子供0人)
計: 33人(内、子供1人)

霊的講話の参加者数
男: 4人
女: 5人
計: 9人

晩課の参加者数
男: 4人
女: 5人
計: 9人





《罪なく宿り給いし聖マリアよ、御身に寄り頼み奉る我らのために祈り給え。また、御身に寄り頼まぬ全ての人々のため、ことに、フリーメーソンのため、また、御身に依頼された人々のために、祈り給え。》

「わが天主よ、私は御身を信じ、礼拝し、御身に希望し、御身を愛します!御身を信じない人々、礼拝しない人々、御身に希望しない人々、御身を愛さない人々全てのために、赦しを乞い求めます。」

「至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、私は御身を深く礼拝いたします。私は、世界中のすべての御聖櫃の中にましまし給うイエズス・キリストのいとも尊き御体、御血、御霊魂、神性を、天主御自身が犯されている侮辱、冒涜、無関心を償うために、御身にお捧げいたします。イエズスの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳により、私はあわれな罪人の回心を御身に願います。」

ああ、イエズスよ、われらの罪を赦し給え。われらを地獄の火より守り給え。また、すべての霊魂、殊に最も必要としている霊魂を、天国に導き給え。

「聖マリアの甘美なる御心よ、ロシア、ヨーロッパ、中国、韓国、日本、そして全世界の救いとなり給え。」

「ああ聖マリアよ、御身の清き汚れなき御宿りによりて、ロシア、ヨーロッパ、中国、韓国、日本、そして全世界の回心を得させ給え。」


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聖ピオ十世会 SSPX Japan 聖伝のミサ トリエント・ミサ レネー神父様説教 共同受難の聖母マリア

2015年03月28日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 昨日3月27日の金曜日は、共同受難の聖母マリアの記念でした。レネー神父様が大阪で聖伝のミサを捧げて下さり、素晴らしいお説教をして下さいました。

 神父様ははっきりと私たちに教えてくださいます。私たちの主イエズス・キリストの御受難を黙想するための最も良い方法の一つは、聖母と共にいることだ、と。何故なら、童貞聖マリア以上に深く、私たちの主イエズス・キリストと共にいる人は誰もいないからです。聖母マリアさまのように、主の御受難に完全に参加した人は誰もいないからです。

いばらの冠をかぶせられたイエズスをご覧になって、聖母はどう感じられたのでしょうか。

「十字架につけよ、十字架につけよ」という恐ろしい叫びを聞いて、聖母はどう感じられたでしょうか。

臆病なピラトが手を洗い、主に重い十字架を担わせたのを見て、聖母はどう感じられたでしょうか。

群衆の後ろからイエズスに十字架が近づくのをご覧になり、聖母はどう感じられたでしょうか。

衣服を脱がされていたイエズスを見て、むち打ちの広がった跡を見て、イエズスの御体がくぎでつるされているのを見て、聖母はどう感じられたでしょうか。

12歳のイエズスが聖母マリアに言われた言葉、「私が父のことに従事すべきだと知らなかったのですか」(ルカ2章49節)、聖母は、この言葉をよく覚えておられました。長い間、この言葉を黙想し、理解しておられました。

「われをして御悲しみのほどを感ぜしめ給え!」(スタバト・マーテル)

共同受難の聖母についてのレネー神父様の素晴らしいお説教をお読みください!涙無しには、読むことが出来ません。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

大阪の説教―共同受難の聖母




親愛なる兄弟の皆さん、

聖週間に祈るための、私たちの主イエズス・キリストの御受難を黙想するための最も良い方法の一つは、聖母と共にいることです。童貞聖マリア以上に深く、私たちの主イエズス・キリストと共にいる人は誰もいません。私たちの主の御受難に聖母ほど完全に参加した人はほかに誰もいません。ですから教会は、枝の主日の前の金曜日、聖金曜日の一週間前に、共同受難の聖母の祝日を祝うのです。

御受難の際の出来事を思い出しましょう。聖母は、最後の晩餐のあった高間の家におられませんでした。福音書(マテオ26章20節、マルコ14章17節、ルカ22章14節)によると、主と共に食卓についたのは十二人の弟子だけでした。そして、ユダは食事の終わる前に家を出ました。その後、イエズスは十一人の弟子と共にオリーブの園に行かれました。そこで、主は逮捕されました。福音書は言います。「そのとき弟子たちはみな、イエズスを捨てて逃げ去った」(マテオ26章56節)。弟子たちはどこへ行ったのでしょうか。聖ペトロは遠くからイエズスに付いていこうとしました。聖ヨハネも多分同様にしました。それは、自分が「大司祭の知り合いだった」からであり、大司祭の中庭に入って聖ペトロをそこに入れるためでした(ヨハネ18章15―16節)。フルトン・シーン司教は、おそらく「ゼベダイ漁業会社」は大司祭の料理人たちによく知られた魚売りだったのではと言っています。その後、私たちが聖ヨハネを見ることができるのは、聖母と共に十字架の下にいるところなのです。

ですからこう考えられます。大司祭たちによるイエズスの死刑宣告の後、聖ヨハネは聖母に何が起こっているか知らせに行ったのです。逃げるのではなく、聖母は、聖ヨハネと聖母と確かに一緒にいたであろう聖なる婦人たちにこう言われたに違いありません。「行ってイエズスと共にいましょう」。そして、聖なる童貞、聖ヨハネ、聖なる婦人たちは全員で一緒にピラトの法廷に行きました。聖ヨハネは、この裁判を詳しく思い出しています。聖ヨハネは目撃証人でした。聖母がついに私たちの主イエズス・キリストをご覧になったのは、ピラトが「見よ、この人を」と言って群衆にイエズスを見せたときでした。いばらの冠をかぶせられたイエズスをご覧になって、聖母はどう感じられたのでしょうか。聖母はお気づきになったはずです。主が頬を打たれ、兵士につばをかけられたことを。それは、主が経験なさった試練を示していました。聖母は、ファリザイ人の高まった憎しみをご覧になれたでしょう。聖母はどう感じられたでしょうか、次の恐ろしい叫びが起きたときに。「十字架につけよ、十字架につけよ」。これらの叫びは聖母の御心を貫くつるぎのようでした。

それから聖母は、臆病なピラトを目撃しました。つまり手を洗い、主に重い十字架を担わせたのです。聖母はご自分たちの仲間に、行って途中でイエズスに会うよう指示なさいました。いまでもエルザレムには、カルワリオへの道に「聖母の失神」と呼ばれるところがあります。聖母は群衆の後ろからイエズスに十字架が近づくのをご覧になりました。ついに聖母は、近づいてくるイエズスをご覧になるのですが、しかし突然十字架が見えなくなりました。イエズスがお倒れになったのです。そのとき、聖母はイエズスを近くからご覧になりました。そして悲しみで胸が張り裂けそうでした。しかし、逃げるのではなく、聖母は仲間たちに、ひき続きイエズスに最後まで付いていくよう勧め、聖ヨハネが思い出しているように、十字架の下に最初に到着なさいました。

十字架の近くに着いたとき彼らが見たのは、衣服を脱がされていたイエズスでした。むち打ちの広がった跡が見られ、全身が革のむちで傷つけられ、ただ大きな痛みがあるだけでした。イザヤが「足の裏から頭まで、健やかなところはない。手当もせず、巻きもせず、油を塗りもしない、生傷と、打ち身と、ただれ」(イザヤ1章6節)と預言したように。彼らはくぎを見て、イエズスの御体がどのようにそのくぎでつるされているのか、そして一回ずつ息をしようとするたびにいかに痛みを感じておられるかを見たのでした。

主が聖母を苦しませられたのは、これが最初ではありませんでした。それはもっと前、私たちの主イエズス・キリストが十二歳のとき、御母と聖ヨゼフから行方知れずになられたときでした。主がおられなくなったため、お二人は三日間、深い悲しみの中で主をお捜しになりました。神殿で主を発見されたとき、聖なる童貞は御子に言われました。「私の子よ、なぜこんなことをしたのですか。ご覧、お父さんと私とは心配して捜していたのですよ」(ルカ2章48節)。さて、息子が犯罪者として死刑を宣告されているなら、母親は家族にとって恥だと感じて、「なぜこんなことをしたのですか」と言うのではないでしょうか。しかし、聖母は二回目のその質問はなさいませんでした。聖母は主が完全に無罪だとご存じだったのです。主が同じ答えをなさるであろうことをご存じだったのです。「私は父のことに従事すべきです」(ルカ2章49節)と。

十字架の上で主は、聖金曜日の聖歌にあるように「御受難をすすんでお受けになります」。つまり、すすんで御父のことに従事なさいます。御父のご意志は、主が十字架上のいけにえによって世を救うことです。実際、聖イグナチオが言うように、キリストは御苦しみを望まれます、私たちを救われたいからです。これは主が御父からお受けになった命令、主が私たちのためにご自分の命をお与えになるようにとの命令です。「その命は私から奪い取るものではなく、私がそれを与える。私にはそれを与える権利があり、また取り戻す権利もある。それは私が父から受けた命令である」(ヨハネ10章18節)。主はこの御父の命令に「死ぬまで、十字架上に死ぬまで」(フィリッピ2章8節)従われました。

聖アウグスチノは美しく言っています。キリストが気にかけておられたのは、ご自分が彼らによって、ファリザイ人によって、ローマ人によって、私たちによって苦しむという事実よりもむしろ、彼らのために、ローマ人や私たちすべての改心のために、さらにはファリザイ人の改心のためにさえ苦しむという事実だったのです。これが、主が天から下って来られた目的でした。「人の子は魂を滅ぼすためではなく救うために来たのだ」(ルカ9章56節)。これが「この時」(ヨハネ12章27節)、すなわち人類と全世界の歴史全体の頂点でした。礼拝、感謝、償い、祈願を行う至高のいけにえを捧げる瞬間、霊魂の贖い、悪に対する善の最大の勝利、天主の御子が私たちの罪よる悪をそのままになさらず、ご自分を罪の代償とし、主が霊魂にお許しになるすべての恩寵に値するその瞬間でした。

これこそが(従事すべき)御父のことでした。「私が父のことに従事すべきだと知らなかったのですか」(ルカ2章49節)。聖母は、そのことをお忘れではありませんでした。聖母は長い間、このお答えを黙想しておられ、今や、聖母は理解しておられたのです。イエズスはここ十字架の上で、御父のご意志を完全に実現し、御父のことに完全な方法で従事してそれを成し遂げ、世を贖われたということを。聖母はこの贖いの神秘を確実に理解しておられました。聖母は、ご自分にとっても大きなこの苦しみに完全に同意し、それを受け入れられました。天主が(イサクを殺そうと、つるぎを持った)アブラハムの腕を最後の瞬間に止めたときのアブラハム以上のことを聖母はなさいました。しかし、カルワリオの丘には、このいけにえの行いを止める天使はいなかったのでした。なぜなら、ここには完全な天主の小羊、世の罪を除き給う小羊がいたからです。この小羊は、私たちの救いのために、いけにえとして捧げられなければならなかったからです。

親愛なる兄弟の皆さん、童貞聖マリアにお願いしましょう。偉大なる救いの神秘、私たちの贖いの神秘を理解するためにお助けくださいますように、またそれを理解するだけでなく、聖母がなさったように深くその神秘に入っていくようお助けくださいますように。私たちがこの神秘に入っていくのは、自分に対して死んだとき、「天主に対して生きるため罪に対して死ぬ」(ローマ6章11節)とき、私たちがイエズスと共によみがえるためにイエズスと共にいけにえになるときです。私たちは「キリストとともに光栄を受けるために、その苦しみをともに受けるなら、私たちは世継ぎであって、キリストとともに世継ぎである」(ローマ8章17節)。スタバト・マーテルで歌うように、「われをして御悲しみのほどを感ぜしめ給え」と聖母にお願いしましょう。

親愛なる兄弟の皆さん、人類の歴史におけるこの最も重要な瞬間のことを忘れてはなりません。天主の御子が私たちの救いのために十字架上で亡くなられたのです。そして三日目に復活なさいました。主はどれほど私たちのことを思ってくださっていることでしょうか。私たちのことがどれほど主の聖心にとめられていることでしょうか。「あなたたちは高値で買われたものである。だから、その体をもって天主に光栄を帰せよ」(コリント前書6章20節)。「あなたたちが祖先から受け継いだむなしい生活から贖われたのは、金銀などの朽ちる物によるのではなく、傷もしみもない小羊のようなキリストの尊い御血によるのである」(ペトロ前書1章18―19節)。

主の十字架を目の前に、心の目の前に置いておくなら、私たちは罪を犯さないでしょう。そのような善なる天主を、私たちの罪を償うほど私たちを愛してくださった天主を、あえて攻撃することなど、どうしてできるでしょうか。主の御苦しみにあえて付け加えることなど、どうしてできるでしょうか。そんな大きな恩寵を無視することが惨めさの原因です。エレミアは言います。「全地は荒らされているのに、誰もそれを心にとめない」(エレミア12章11節)。

十字架が重要であることは、ミサが重要であることの深い理由です。私たちの主イエズス・キリストの十字架上での聖なるいけにえは、人類の歴史全体の、天地創造全体の頂点そのものです。このいけにえは、私たちの主イエズス・キリストの御体と御血の完全ないけにえ、十字架上のいけにえ、すべてのミサで捧げられるいけにえを通して、天主に、聖三位一体に戻るのです。そのため、一つ一つのミサがどれほど重要かが分かるのです。荘厳ミサの美しい儀式がない読誦ミサであっても、まことに本質的に十字架上のいけにえと同じなのです。ミサは聖三位一体に無限の栄光を捧げ、私たちの霊魂に十字架上のいけにえの全功徳を与えるのです。ミサは、私たちを十字架上のイエズスと一致させますが、それは次の世で私たちを栄光のイエズスと一致させるためです。

ですから、ミサのいけにえとしての性質が隠され、無視され、時には否定さえされるとき、教会に対して害が与えられたことがはっきりと分かります。典礼における変更はすべて、いけにえを明白に示す点を減少させました。ミサを食事に、共同体の食事のようにしてしまい、償い、贖い、礼拝、感謝の最も聖なるいけにえでなくしてしまうのです。そうすると、霊魂はもう豊かな恩寵を受けることができなくなります。恩寵の源が隠されてしまったからです。悪魔は知っています。ミサを攻撃するとき、攻撃すべきものが何であるかを。悪魔は知っています。自分が十字架によって敗北したのを。悪魔は十字架のいけにえに我慢できません。悪魔は大きな「イエズスの十字架の敵」(フィリッピ3章18節)です。ミサの変更の中に、悪魔のしるしがあるのです。

十字架の聖なるいけにえ、ミサの聖なるいけにえ、私たちの主イエズス・キリストの御体と御血のいけにえに対する深い理解と信心が私たちに与えられるよう、童貞聖マリアに、共同受難の聖母に祈りましょう。私たちが本当に、聖ルイ・マリー・グリニョン・モンフォールの言う「十字架の友」、イエズスのまことの友になるように、十字架につけられたイエズスへの大きな愛、より大きな愛を常に聖母に乞い求めましょう。

アーメン。






《罪なく宿り給いし聖マリアよ、御身に寄り頼み奉る我らのために祈り給え。また、御身に寄り頼まぬ全ての人々のため、ことに、フリーメーソンのため、また、御身に依頼された人々のために、祈り給え。》


シスター・ルチア「神父様、この世を救う手段は2つあります。祈りと犠牲です。」

「わが天主よ、私は御身を信じ、礼拝し、御身に希望し、御身を愛します!御身を信じない人々、礼拝しない人々、御身に希望しない人々、御身を愛さない人々全てのために、赦しを乞い求めます。」

「至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、私は御身を深く礼拝いたします。私は、世界中のすべての御聖櫃の中にましまし給うイエズス・キリストのいとも尊き御体、御血、御霊魂、神性を、天主御自身が犯されている侮辱、冒涜、無関心を償うために、御身にお捧げいたします。イエズスの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳により、私はあわれな罪人の回心を御身に願います。」

ああ、イエズスよ、われらの罪を赦し給え。われらを地獄の火より守り給え。また、すべての霊魂、殊に最も必要としている霊魂を、天国に導き給え。

「聖マリアの甘美なる御心よ、ロシア、ヨーロッパ、中国、韓国、日本、そして全世界の救いとなり給え。」

「ああ聖マリアよ、御身の清き汚れなき御宿りによりて、ロシア、ヨーロッパ、中国、韓国、日本、そして全世界の回心を得させ給え。」


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聖伝のミサによる御受難の黙想 「ミサの聖なる黙想」 聖ピオ十世会

2015年03月28日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 明日はいよいよ枝の主日です。東京では聖伝の典礼(聖伝のミサ)による枝の主日のミサが行われます。時間は10時半からです。

 聖週間として、主の御受難の黙想のためにも、「ミサの聖なる黙想」を、ご紹介いたします。日本語の訳が字幕として増えているので、内容の理解も深まると思います。どうぞご覧下さい!



 よき聖週間をお過ごし下さい!

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

「わが天主よ、私は御身を信じ、礼拝し、御身に希望し、御身を愛します!御身を信じない人々、礼拝しない人々、御身に希望しない人々、御身を愛さない人々全てのために、赦しを乞い求めます。」

「至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、私は御身を深く礼拝いたします。私は、世界中のすべての御聖櫃の中にましまし給うイエズス・キリストのいとも尊き御体、御血、御霊魂、神性を、天主御自身が犯されている侮辱、冒涜、無関心を償うために、御身にお捧げいたします。イエズスの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳により、私はあわれな罪人の回心を御身に願います。」

ああ、イエズスよ、われらの罪を赦し給え。われらを地獄の火より守り給え。また、すべての霊魂、殊に最も必要としている霊魂を、天国に導き給え。

「聖マリアの甘美なる御心よ、ロシア、ヨーロッパ、中国、韓国、日本、そして全世界の救いとなり給え。」

「ああ聖マリアよ、御身の清き汚れなき御宿りによりて、ロシア、ヨーロッパ、中国、韓国、日本、そして全世界の回心を得させ給え。」


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聖ピオ十世会 SSPX 聖伝のミサ(トリエント・ミサ) レネー神父様のお説教 2015年3月16日

2015年03月27日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか?今日は、聖伝の典礼では「共同受難の聖母」(Our Lady of Compassion)を記念します。

 聖母マリアさまこそ、イエズス・キリストこそが全てでした。イエズス・キリストに倣い、イエズス・キリストと共に苦しんだお方です。まさに、まことのカトリック的生き方をされた第一人者です。

 つまり、罰を恐れて、恐怖におびえて、悪を避けるのではなく、むしろ、善を愛し、真理を愛するが故に、善を行い、犠牲を捧げる、ということです。レネー神父様は、お説教で仰っています。掟や法とは「嫌々ながら従う盲目的な義務ではなく、むしろ私たちが熱心に満たしたいと思っている、愛すべき御子のご意志の表れである」、「法は重荷ではなく友であり、正しい道にともる光」なのだ、と。これが私たちの本当の自由です。

「もしあなたたちが霊に導かれているのなら、律法の下にはいない。…霊の実は、愛、喜び、平和、堪忍、仁慈、善良、忍耐、柔和、信仰、謹慎、節制、貞潔であって、これらのことに反対する律法はない」(ガラツィア5章18、22―23節)。マリア様は、聖霊の浄配として、まさに、聖霊の十二の実りを全て完全にもっていました。

 ですから、イエズス・キリストに従うために、聖母マリア様は「自分を捨て、自分の十字架を担って従」ったのです。

 どうぞ、レネー神父様のお説教をお読み下さい。

では、よき「共同受難の聖母」(Our Lady of Compassion)の記念の日をお過ごし下さい。


天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2015年3月16日大阪の説教 四旬節第四主日後の月曜日


親愛なる信者の皆さん、

先週土曜日の福音では、私たちの主イエズス・キリストのまことのあわれみを見ます。主は罪びとを非難なさらず、赦しをお与えになります。そうです、主は罪を容認なさいませんが、「もう罪を犯すな」と要求されます。まことのあわれみが持つこれら二つの側面は本質的なものです。特に、悪しき枢機卿たちが、もう罪を犯さないことを罪びとに要求しないという偽りのあわれみを与えたがっている私たちの時代においては。

私はこの機会に、「聖パウロの道徳」が何であるかを示したいと思います。聖パウロは、道徳規範に対して、ある驚くべき方法を持っていました。プラトンやアリストテレスなど異教の哲学者は長い文章で徳と悪徳を論じて、結局それをほとんど実践しませんでしたが、聖パウロは違います。聖パウロにとっては、徳は抽象的なものではなく、非常に具体的で個人的なものでした。彼は徳を一つの言葉で美しく要約しました。「キリストが私のうちに生き給うのである」(ガラツィア2章20節)。「私にとって生きるのはキリストである」(フィリッピ1章21節)。「私を愛し、私のためにご自身を渡された天主の子への信仰の中に生きている」(ガラツィア2章20節)。

私たちの主イエズス・キリストは、カトリック的生き方の原理であり目的で、アルファでありオメガです。主は恩寵の源であり、愛と望みの対象です。私たちは主によって創られ、主に戻らねばなりません。さらに、主は原理であり目的であるだけでなく、御父への道でもあります。「私は道であり、真理であり、命である。私によらずには誰一人父のみもとには行けない」(ヨハネ14章6節)。

聖パウロは具体的に言います。「実に愛される子らとして、天主にならう(天主をまねる)者であれ。私たちを愛し、私たちのために芳しい香りのいけにえとして天主にご自分を渡されたキリストの模範に従って、愛のうちに歩め」(エフェゾ5章1―2節)。少し翻訳を訂正しました。英語では普通「followers(従う人)」ですが、ラテン語では「imitatores=imitators(まねる人)」、ギリシャ語では「mimetai(まねる、振る舞いを写す)」で、その意味は、私たちを見る人々が、私たちを見るとき私たちの中に主イエズス・キリストを見いだすことができるほど、主をまねるということなのです。お分かりのように、そのような道徳規範は抽象的ではなく、非常に具体的です。これがまことのキリスト教的生き方であり、まことのカトリック的生き方なのです。私たちの主イエズス・キリストをまねることです。

皆さんご存じのように、トマス・ア・ケンピス作の「キリストにならいて(キリストのまねび)」と呼ばれる美しくて小さな本があります。私はこれを皆さん全員に本当に強くお薦めします。聖人たちや聖書の知恵がたくさんあります。日々の生活において、いつも自分に問いかけるべきです。「私たちの主イエズス・キリストが私の立場だったら、どうなさるだろうか」「私がしていることは主を喜ばせることだろうか」「私が置かれた状況だったら、主はどう対応なさるだろうか」「主だったら、どのように行動なさるだろうか」。それが主を不愉快にさせることなら、私たちは絶対それをすべきではありません。

ここで、天主の法が私たちを助けに来てくれます。聖トマス・アクィナスは言います。天主のご意志、私たちの主イエズス・キリストの聖なるご意志が何であるかを知るために、私たちはまず、天主が命じられたことを考えるのです。しかし、その法は、私たちが嫌々ながら従う盲目的な義務ではなく、むしろ私たちが熱心に満たしたいと思っている、愛すべき御子のご意志の表れであるのです。ですから、法は重荷ではなく友であり、正しい道にともる光なのです。これは、聖パウロが「私たちは律法の下にない」(ローマ6章14節、ガラツィア5章18節)と書いたときに意味していたものなのです。つまり、私たちは律法によって押しつぶされるのではなく、私たちは「キリストの律法の下にある者で天主 の律法を持たぬ者ではない」(コリント前書9章21節)のです。愛は私たちに天主を喜ばせようとさせ、天主の聖なるご意志、天主の法に従おうとさせます。そうすれば、私たちには驚くような自由、天主の子のまことの自由が与えられます。御父のご意志、天主が命じられたことを好んで行おうとする自由であり、自分の強さではなく私たちの主イエズス・キリストの恩寵を頼りとするのです。聖パウロはこう書いています。「もしあなたたちが霊に導かれているのなら、律法の下にはいない。…霊の実は、愛、喜び、平和、堪忍、仁慈、善良、忍耐、柔和、信仰、謹慎、節制、貞潔であって、これらのことに反対する律法はない」(ガラツィア5章18、22―23節)。

私たちの主イエズス・キリストの犠牲に参加するとき、この美しく実り多い愛の生活に到達します。「私に従おうと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を担って従え」(マテオ16章24節)。聖パウロはこれを明確に表現しました。「キリストにある者は、肉をその欲と望みとともに十字架につけた」(ガラツィア5章24節)。彼らは誘惑と力強く戦い、悪魔に少しも譲りません。なぜなら、彼らは次のことを知っているからです。「肉の行いは明白である。すなわち、淫行、不潔、猥褻、贅沢、偶像崇拝、魔術、憎悪、紛争、張り合い、憤怒、徒党、分離、異端、羨望、殺人、泥酔、遊蕩、そしてそれらに似たことなどである」(ガラツィア5章19―21節)。また、聖パウロはエフェゾ人に対しても同 様に強く明確にこう伝えています。「聖徒にふさわしいように、あなたたちの中では、淫行、いろいろなけがれ、情欲は口にさえもするな。また汚行、愚かな話、下品な冗談も言うな。それはよからぬことである。ただ天主に感謝せよ。淫行の者、好色な者、情欲の者はみな―これは偶像崇拝者と同じである―、キリストと天主の国を継げない。人のむなしい言葉にだまされるな。不従順な者の上に天主の怒りを呼ぶのは、それらの事柄である」(エフェゾ5章3―6節)。

皆さんが今ご覧になれるように、聖パウロによれば、キリストは私たちを罪から贖うために十字架上で亡くなられたのですから、私たちも罪に死ぬことによって同じことをすべきです。「同様にあなたたちも、自分は罪に死んだ者、私たちの主キリスト・イエズスにおいて天主のために生きる者だと思え」(ローマ6章11節)。私たちがしばしば恐れる苦行というものは、十字架につけられた私たちの主イエズス・キリストをまねるために行なわれます。ですから苦行は、主と共に主の復活に参加するであろう保証なのです。「私たちは天主の子である。私たちが子であるのなら世継ぎでもある。キリストと共に栄光を受けるために、その苦しみを共に受けるなら、私たちは天主の世継ぎであって、キリストと共 に世継ぎである。今の時の苦しみは、私たちにおいて現れるであろう栄光とは比較にならないと思う」(ローマ8章16―18節)。

このように、善にして聖なるカトリックの道徳は、愛の実り、私たちの主イエズス・キリストへの、十字架につけられた私たちの主イエズス・キリストへの実践的で燃え上がる愛の実りであるのです。皆さんの具体的な助けになるよう、私は皆さんの家のそれぞれの部屋に、十字架像あるいは聖なる御絵を置くよう強くお薦めします。そうすれば、皆さんは目を上げて簡単に私たちの主イエズス・キリストや聖母、聖人たちを見られます。彼らをまねて、彼らを喜ばせるために。仕事をしているときでも、トラックに乗っているのなら、小さな聖なる御絵をそこに置くことが簡単にできます。あるいはオフィスのデスクにいるのなら、またほかの状況にあっても、御絵などのそういった思い出させてくれるものが、 皆さんがいつも祈るのを助けてくれるでしょう。「私の目は常に主を見つめる」(詩篇24章15節)。

また私は、私たちの主イエズス・キリストや主の聖なる御母、聖人たちの良き模範によって皆さんの心を養う霊的読書を強くお薦めします。人は何も考えないということはできません。悪しき思い(貞潔に反するものだけでなく、虚栄や高慢、復讐心など)に打ち勝つ方法は、悪しき思いを善い思いで置き換えることです。ですから、最も善い思いは、私たちの主イエズス・キリストの十字架を思うことです。

童貞聖マリアは「正義の鑑み」と呼ばれます。それは、聖母が私たちの主イエズス・キリストを模範として完全にまねられたからです。ですから、聖母は、小さな子どもたちである私たちへの恩寵の原因となられるお恵みを獲得なさいました。ですから、キリストをまねるというその恩寵を獲得できるように聖母を通してお祈りするようにしてください、これが天国への王道なのです。

今月は聖ヨゼフの月です。この偉大な聖性の模範を黙想することもまた、大変よいことです。聖ヨゼフはイエズスとマリアと共に生きました。お二人のもっとも親しい友人でした。聖ヨゼフをまねるということは、聖ヨゼフがなさったようにイエズスとマリアと共に生きること、聖ヨゼフがなさったようにイエズスとマリアを喜ばせるために努力することです。

聖家族は、私たちに私たち自身の家族に対する義務を思い出させてくれます。兄弟愛は、私たち自身の家族の中で始まります。両親や親戚たち、また義理の家族つまり配偶者の両親や親戚たちの中で。カトリックの結婚は、社会における愛の関係の驚くべきネットワークを紡ぎます。このネットワークは、無関係な個人個人から成り立っているのではなく、むしろ愛の関係によって一緒につながれた家族から成り立っています。ですから、皆さんよくご存じのように、家族においても、大きくは社会においても真実であるのは、忍耐と赦しが必要なことです。与えよ、そうすれば与えられる。赦せよ、そうすれば赦される。寛容をもってそうしてください。そうすれば、聖家族の模範を広げていくことによって、皆 さんは永遠の報いを獲得していることを知ってください。

童貞聖マリアと聖ヨゼフが、皆さんのためにこれらすべての恩寵を獲得してくださいますように。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン。







《罪なく宿り給いし聖マリアよ、御身に寄り頼み奉る我らのために祈り給え。また、御身に寄り頼まぬ全ての人々のため、ことに、フリーメーソンのため、また、御身に依頼された人々のために、祈り給え。》

幼きイエズスの聖テレジアの最後の言葉「祈りと犠牲とを持ってだけ、私たちは教会のためになることが出来ます。...カルメルでは、私たちは霊魂を買い取るために偽のコインを偽造してはなりません。綺麗な言葉を書いたり受け取ったりすることは、しばしば偽造貨幣を交換するだけでしかありません。」

シスター・ルチア「神父様、この世を救う手段は2つあります。祈りと犠牲です。」

「わが天主よ、私は御身を信じ、礼拝し、御身に希望し、御身を愛します!御身を信じない人々、礼拝しない人々、御身に希望しない人々、御身を愛さない人々全てのために、赦しを乞い求めます。」

「至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、私は御身を深く礼拝いたします。私は、世界中のすべての御聖櫃の中にましまし給うイエズス・キリストのいとも尊き御体、御血、御霊魂、神性を、天主御自身が犯されている侮辱、冒涜、無関心を償うために、御身にお捧げいたします。イエズスの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳により、私はあわれな罪人の回心を御身に願います。」

ああ、イエズスよ、われらの罪を赦し給え。われらを地獄の火より守り給え。また、すべての霊魂、殊に最も必要としている霊魂を、天国に導き給え。

「聖マリアの甘美なる御心よ、ロシア、ヨーロッパ、中国、韓国、日本、そして全世界の救いとなり給え。」

「ああ聖マリアよ、御身の清き汚れなき御宿りによりて、ロシア、ヨーロッパ、中国、韓国、日本、そして全世界の回心を得させ給え。」


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トリエント公会議の公教要理 主祷文 「願わくは御名の尊まれんことを」の意味

2015年03月26日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 3月19日の聖ヨゼフの大祝日、そして3月25日の聖母マリアのお告げの祝日、いかがお過ごしでしょうか?

 大阪では、明日の午後5時半からミサがあります。明後日は、午前11時です。

 聖週間に向かう聖なる時期をよく過ごすことが出来るように聖母の汚れなき御心に取り次ぎを願います。

 今回は、天にましますの祈りの第1の願い「願わくは御名の尊まれんことを」についてトリエント公会議の公教要理からご紹介いたします。天主様の御名が、天において受ける賛美と誉れ、栄光にならって、賛美と誉れ、栄光をこの地上で受けますように! 全ての人々が天主を知り、崇め、かつ天主に仕えることを理解しますように! 一人残らずキリスト教を奉じ、皆が己が身をことごとく天主に捧げ、天主こそが一切の聖性の源であり、その御名の聖性によらずには、何一つ清く聖なるものたり得ないことを了解しますように!

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



第1の願い「願わくは御名の尊まれんことを」

§1 この願いが第1の願いである理由
38.天主に何を、またどのような順序で願うべきかを、万人の師かつ主であるキリストご自身がお教えかつお定めになりました。何となれば、祈りは私たちの欲求と願望とを反映かつ代弁するものであるため、理に適ったふさわしい仕方で祈るためには、私たちの祈求、すなわち私たちの願いと望みとを、祈りの対象となる諸々の事物が望ましいものである程度の順序に従って言い表すことが必要となります。

39.しかるに、真の愛徳は、自らの心と愛情とをあますところなく主に向けるべきであることを、私たちの精神に悟らせます。実に天主は、ご自身の本性上、唯一・至高の善です。それゆえ、天主を何にもました特別な愛でお愛しすることが適当ではないでしょうか。

40.他方、もし私たちがその誉れと御栄えとを一切のものに優先しない限り、天主を心を尽くし、何ものにもまして愛することは不可能です。なぜなら、すべての善きものは、たとえそれが何であれ、それが私たち自身に属するのであれ、あるいは隣人に属するものであれ、ことごとく天主に由来するのであり、同時に、至高の善である天主に無限に劣るからです。

41.したがって、私たちが秩序立った仕方で祈りを為すために、救い主は、至高の善を求める当の祈願を、他の祈願に先んじて、第一に願うべきものとしてお定めになりました。主は私たちに必要なもの―すなわち私たち自身、あるいは私たちの隣人に必要なもの―を願い求める前に、まず天主の御栄えにつながることを願い、かつ天主に、御栄えを熱く望む私たちの心情をお示しするべきことを、私たちにお教えになりました。このようにして私たちは、天主を私たち自身よりもお愛し、また天主のためにお望み申し上げることを、自らのために願うことに先立って求めることを命じる愛徳の則のりにしたがうこととなります。

§ II. 天主の御栄えという言葉が意味するもの
42.人が望み、あるいは求めるのは、自分が持っていないものに他なりません。しかるに、天主には何も欠けるものがありません。天主は無限、かつ全てにおいて完全であるため、成長することも増大することもあり得ません。

 したがって、私たちが天主ご自身のためにお願い申し上げることは、天主の諸々の完全性ないしはそのご本性に関してではなく、あくまでもその外的な御栄えだけに限られます。すなわち、私たちは天主の御名が世においてよりよく知られ、その御国が広がり、日々新たな僕がその聖き御旨に従うことを望み、願うのです。

 さて、御名、御国、従属というこの3つのことは、天主に内在する内的な善の中に数えられるものではなく、天主にとって全く外的な事柄です。しかるに、この願いの力と価値とをよりよく了解させるために、司牧者は信徒に、「天における如く、地に(おいて)も」という言葉は、主祷文の第1部における3つの願いすべてに適用かつ当てはめることができ、したがって、「御名の天における如く地にも尊まれんことを」「御国の天における如く地にも来たらんことを」「御旨の天における如く地にも行われんことを」ということを意味し得るものである旨、示すべきです。

43.したがって、私たちが「御名の尊まれんことを」と祈るとき、私たちは天主の御名の聖性と栄光とが、いや増すのを願うわけです。ここで司牧者は、敬虔な聴衆に、私たちの主イエズス・キリストは、当の表現を用いられた際、この御名が地上において、天におけるのと等しく聖とされることを意味されたのではない旨、すなわち地上での聖化が天上での聖化と同じ程度で成されることを意味されたのではなく、ただ地上での御名の聖化が、愛徳および心からの心情にその源を発するべきものであることを意味されたに過ぎない旨、諭さねばなりません。

44.無論、天主の御名は、この上なく聖きよく畏るべきものであり、それ自体において聖化される必要がないということは全く真実で、事実に基づいたことですが、―なぜなら、天主ご自身は,その本性によって聖であり、永劫から帯びておられる聖性以外に、いかなる他の聖性も付け足し得ないことは明らかですから― しかるに、地上においてこの御名は、ふさわしく崇敬されるどころか、往々にして侮辱、冒瀆の言葉でいわば汚されるものなので、そのため、私たちは当の御名が、天において受ける賛美と誉れ、栄光にならって賛美と誉れ、栄光をこの地上で受けることを望み、かつ求めるのです。すなわち、私たちが天主を口、精神、心をもって内的および外的に讃え尊び、天の住人の為す如く、天主の御名の偉大さ、聖性、ならびに栄光を能う限り称揚する恵みを願うのです。

§ III. ― 第一の願いの対象

したがって私たちは、天の諸天使、諸聖人がこぞって天主の御栄えを讃えて歌う如く、地上でもこれと同様であるよう祈ります。

すなわち、全ての民が天主を知り、崇め、かつこれに仕えること、一人残らずキリスト教を奉じ、皆が己が身をことごとく天主に捧げ、天主こそが一切の聖性の源であり、その御名の聖性によらずには、何一つ清く聖なるものたり得ないことを了解するよう祈らねばなりません。

使徒パウロは、「教会が水の洗礼において、命の言葉によって清められた39」ことを著していますが、ここで言う「命の言葉」は、聖父と聖子と聖霊の御名を指すものであり、この御名において私たちは洗礼を受け、聖なる者とされるのです。

45.したがって、天主の御名がそのために呼び求められないものにおいては、いかなる(罪の)償い、(霊魂の)清さ、聖性もあり得ないため、人類全体が不信仰の汚れた暗冥を打ち捨て、天主の光の光明に照らされてこの御名の力を認め、当の御名の中に真の聖性を探し求めること、又、聖にして分かちがたい三位一体の御名において洗礼を受けた後、他ならぬ天主の御手から、聖性の充満を授かるよう望み、かつ天主に祈り求めねばなりません。

46.しかるに私たちの願望および祈願は、罪の汚れに染まって、洗礼のもたらした清さと徳性、ならびに潔白の衣とを失い、不浄な霊が再びその霊魂の中に住まいを設けるにいたった者たちにも及びます。私たちは、彼らの中においても天主の御名が聖とされ、また彼らが我に返って健全な精神を取り戻し、痛悔の秘蹟によって初めの聖性へと立ち帰り、己が身を清く、聖なる神殿ないしは住居として天主に捧げるよう望み、祈るのです。

47.さらに私たちは、天主が全ての者の心に御光を照らして、あらゆる善き恵みと全ての完全な賜とは光の父から降り40、天主の仁慈によって与えられるものであることを悟るよう、また、節制、正義、生命、健康41ならびに身体の生命を支える外的善、ならびに霊魂の救いに関する諸々の善を教会が教えるように一切の善がそこから生じ出るところの天主から受けたものとして、これに帰するよう祈ります。事実、太陽の光およびその他の星々の運動と回転とが人類に益し、また私たちを取りかこむ空気が私たちの生存の基盤となり、地が種々の穀物と果実の豊かな実りによって御名の生命を支え、さらには行政に携わる者のはたらきによって平和で安寧な生活を送ることができるならば、これら全ての善およびこれに類した一切の利善は天主のはかり知れぬ仁慈によるものに他なりません。さらには、哲学者が2次的原因と呼ぶところの諸々の事象42は、驚嘆すべき仕方で配置され、かつ私たちの益となるよう整えられた、天主の御手、と見なさねばなりません。これらをとおして天主は、数多の利善を配分し、いたる所にお注ぎになるからです。

48.しかるにこの祈願をとおして殊更願うのは、主イエズス・キリストの浄配かつ私たちの母である教会を皆が認め、敬うことです。ただ教会のみが全ての罪の汚れを洗い清め、償うことのできるこの上なく豊かな、尽きることのない泉を有しているからです。実に聖化と救いをもたらす秘蹟の一切は、この泉に源を発し、あたかも聖なる運河のごとく天から聖性の雨露を私たちの上に注ぎます。実際ただ教会のみが、その懐ないしは腕に抱かれた者たちと共に、天主の御名、この他に、それによって私たちが救われることのできる名は、世に与えられなかったこの御名43を呼び求める権利を有するのです。

§ IV. ― 真のキリスト者は自分の行動によってこの聖名を尊敬しなければならないこと

しかるに司牧者は、善き子らは、父なる天主に口で祈るだけでなく、行いと生きざまををとおして、天主の御名が自らの中に聖とされ、輝き出るよう務めるべきである旨、ことさら強調して教え諭さねばなりません。

49.願わくは天主の御名が聖とされることをたゆまず祈り求めながら、行いによって自らの中にこれを卑しめかつ汚し、挙げ句の果ては天主ご自身が冒瀆を浴びる原因となるようなものが一人としていないように。このような者について使徒パウロは「あなたたちのために天主の御名が諸国の民の間で冒瀆されている44」と述べ、また預言者エゼキエルも「あなたたちは行った国々で、人々に『これは主の民だ。[悪い行いのために]自分の国を出なければならなくなった者たちだ。』と言わせて、私の聖なる名を汚した。45」と著しています。事実、細緻な分別に欠く大衆は、特定の宗教を奉じる者の生きざまと所業とを見て、当の宗教とその創始者とについて判断することが世のならいです。

42 各被造物は、その諸々のはたらきによって他の被造物の生成ならびに変化の原因たり得るが、これはあくまで万象の存在および活動の究極かつ第一の原因および可能根拠たる天主に依存してのことであり、その意味で「第2次的原因」と呼ばれる。すなわち、天主はおん自ら直接被造物に働きかけることがおできになるとはいえ、(例えば各人の霊魂の創造において)ふつう被造物のはたらき(たとえば両親による子供の出生ならびに養育)をとおして万象を律されるのが常である。

50.それゆえ、自らのものとして受け入れたキリスト教にしたがって生き、かつ自らの祈りと行いとを当の教えに合わせる善き信徒は、他の人々に天の父の御名を敬い、誉め讃えるよう強く促すこととなります。主ご自身、これを義務として私たちに課されたのであり、したがって、私たちは善徳の目ざましい行いによって、人々が天主の御名を讃え、これに誉れを帰するよう務めねばなりません。このためにこそ、主は福音書において、「あなたたちは人の前で光を輝かせよ。そうすれば、人は、あなたたちの善い行いを見て、天においでになる御父を崇めるであろう46」と仰せられたのです。同様に使徒ペトロも、「異邦人の中にあって、優れた行いをせよ。それは、人々があなたたちの為す善業に即してあなたたちを評価し、またこれがために天主に誉れを帰するためである47」と述べています。

39 エフェゾ 5章26節
40 ヤコボ 1章17節
41 ラテン語原文で用いられている言葉<Salus>は、健康のみならず救いないしは救霊をも意味する語である。
43 使徒行録 4章12節
44 ローマ2章24節
45 エゼキエル36章20節
46 マタイ 5章16節
47 ペトロ前 2章12節

「わが天主よ、私は御身を信じ、礼拝し、御身に希望し、御身を愛します!御身を信じない人々、礼拝しない人々、御身に希望しない人々、御身を愛さない人々全てのために、赦しを乞い求めます。」

「至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、私は御身を深く礼拝いたします。私は、世界中のすべての御聖櫃の中にましまし給うイエズス・キリストのいとも尊き御体、御血、御霊魂、神性を、天主御自身が犯されている侮辱、冒涜、無関心を償うために、御身にお捧げいたします。イエズスの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳により、私はあわれな罪人の回心を御身に願います。」

ああ、イエズスよ、われらの罪を赦し給え。われらを地獄の火より守り給え。また、すべての霊魂、殊に最も必要としている霊魂を、天国に導き給え。

「聖マリアの甘美なる御心よ、ロシア、ヨーロッパ、中国、韓国、日本、そして全世界の救いとなり給え。」

「ああ聖マリアよ、御身の清き汚れなき御宿りによりて、ロシア、ヨーロッパ、中国、韓国、日本、そして全世界の回心を得させ給え。」


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コメント

ルフェーブル大司教と、ウィリアムソン司教との間の、驚くほどの違い、著しい対照

2015年03月21日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖ピオ十世会アジア管区は、一昨日の「司教聖別」に対して、ルフェーブル大司教のなされていたこととあまりに違いがあり、あまりにコントラストが強く、あまりにやり方が違っているので、次のようなコメントが作られました。
 どのように考えてよいのか疑問に思っている、愛する兄弟姉妹の皆様のためにご参考になれば幸いです。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

著しい対照、驚くほどの違い


最近、ウィリアムソン司教による最近の司教聖別と1988年にルフェーブル大司教によって行われた司教聖別との間には、著しい対照、驚くほどの違いがある。

 ルフェーブル大司教は、1970年11月1日にシャリエール(Charrière)司教によって教会法に則って正式に承認された、固有の「誓願無しの共同生活をする修道会」として、聖ピオ十世会を創立した。
 ところが、ウィリアムソン司教には、それに似たような「修道会」は存在しない。「マルセル·ルフェーブル司祭連盟」には本当の権限がないし -- ウィリアムソン司教自身がそのような権威は今は不可能だと言ったことがあるように -- 教会法上の立場もなければ規律も全く存在していない。

 ルフェーブル大司教はいつでも教会法を尊重することを努め、自分のエコンの神学校のため、そしてその他の小修道院設立のために、適切な当局の承認を得た。そして1975年にあった聖ピオ十世会の非合法な「廃止」が、それを不可能にさせるまでそうし続けた。しかもその時でも、ローマに二件の控訴を提起した。が、この控訴はビヨ(Billot)枢機卿によって葬られてしまった。しかし、そのような教会法上の控訴は「停止力」を持っているので、たとえ、多くの場合そのように認識されていないとしても、聖ピオ十世会は合法的に実際にまだ存在している。それ以後、聖ピオ十世会は、実質的に承認されてきている。このことは明らかにルフェーブル大司教が、決して教会法を無視したことがないことを示している、ルフェーブル大司教は「信仰」によって教会法に従う義務から免れるなどと思ったことは決してない!
しかし、ウィリアムソン司教の側には、教会法に対する敬意というようなものがどこにあるのだろうか? それはどこにも見いだされない。

聖ピオ十世会は、創立から1988年までの間(18年間)、生き続け成長し続けた。その間、六校の神学校、しっかりと確立された多くの聖堂、学校、ミッション、カトリック修道会にとって通常のことである多くの管区に組織され、聖ピオ十世会はその活力を示し続けてきた。聖ピオ十世会は、1988年において、200名以上の司祭、さらに200名以上の神学生、修道士、修道女、奉献修道女、等を擁していた。
さて、ウィリアムソン司教と共にいる司祭らの「緩やかな連合」は、存在しだして3年さえにもならず、実際上、神学校もない。(フィリピンのマニラから南にあったものは、その所有者が彼らのあまりもの不秩序に嫌気がさし、閉じられた。) 彼らの間にはすでに大きな対立がある。(対立は、彼らの一部司祭は、他の司祭に対して民事訴訟を行ってさえいるほどだ。) しかも、一部司祭らは、すでに公然の聖座空位主義者である。従って、彼らの間には一致が存在していない。連帯もない。
フォール司教は神学校を開校する「つもり」だと主張している。しかし、まだ存在していない何かのために「生き残り作戦」をどうやって主張することが出来るのだろうか? ルフェーブル大司教とは、何と大きな対照だろうか!

ルフェーブル大司教は、すでに一人の司教聖別のために80年代初頭にラッツィンガー枢機卿に許可を求めていた。さらに、1988年の司教聖別の前年には、丸々一年を、司教聖別が適切な教皇の許可のもとに行われるために、可能なあらゆる努力を尽くすために使った。 - その努力により、教皇が1988年5月5日にルフェーブル大司教によって一名の司教聖別をするという原則を承認するに至った。彼はその後、5月6日に、この承認が実際にどのように実現するのかを尋ねた。つまり、司教聖別の儀式の日付を求めたのだ。ルフェーブル大司教自身、すでに司教聖別の日付を数回に亘って延期していた。ローマは彼に日付を与えるために三週間待たせた。そして日付を提示していた正にこの同じ手紙が、それがその日付に間に合わせることが不可能にさせるようなことを要求していた、つまり、新たな司教聖別の候補者を求めていた。この不誠実な態度は、ローマが5月5日に与えた承認を守る意図がなかったこと、無期限の遅延によってこの司教聖別の承認を事実上反故にするだろうことが明らかになった。これが、これ以上、ルフェーブル大司教の「生き残り作戦」を遅延させないことを決意させた。
しかし、ウィリアムソン司教が教皇による司教聖別の承認を得るためになした努力がどこにあるのだろうか? 全く存在していない! 何と対照的なことだろうか!

ルフェーブル大司教が教皇の権威の認めていることは、1988年5月5日のプロトコールによって極めて明確にかつ具体的に、明らかにされていた。ただローマの不誠実さだけが、このプロトコルを反故とさせた。
しかし、ウィリアムソン司教が教皇の権威を認めるというのは、実際には、理論的な認識だけであって、事実上は否定され、そして、現在の教皇への、いかなる従順でさえも拒否することを自分の多くの宣言によって明らかにされている。
聖アウグスティヌスは、殉教者とは、苦しみと死という事実によって殉教者となるのではなく、人間がそのために死ぬその原因によって殉教者となる(したがってイスラム教徒の「殉教者」というものは存在しない)、と説明している。【つまり、何のためにか、ということがものごとの価値を決める。ここでは、司教聖別が何のためになされたのか、がその価値を決める。】
ルフェーブル大司教は、現実の権威の乱用に、それらが実際に行われた後に始めて抵抗したのであって、それがなされる前ではなかった
しかし、ウィリアムソン司教とその追随者らは、聖ピオ十世会について将来起こると主張する「妥協」が起こる前に、逆らって抵抗した。しかも、三年後でさえも、そのような妥協はどこにも見られない。
ルフェーブル大司教は、第二バチカン公会議の革新的なことごと(信教の自由、エキュメニズム、団体主義)、新しい典礼、手による聖体拝領、およびその他の多くの「認可を得た」新奇なこと、そして最後には、1986年のアッシジでの巨大なスキャンダルといった、極めて大きな、なおかつ明白な不祥事に抵抗した。
しかし、ウィリアムソン司教は、2012年4月に提案された宣言のなかの幾つかの曖昧な言葉遣いに反対する。しかし、この宣言は、数ヶ月以内には、全く反故とされ完全に廃棄されたものである。一体何のために、それほどまでに反対するのかというその理由が、あまりにも不釣り合いであって、対照的である。

聖ピオ十世会の生き残りを確保するために、ルフェーブル大司教は、1988年当時、35歳から52歳という、自分よりも若い司祭らを4名司教に聖別した。
ウィリアムソン司教は、生き残りを確保するためと口では主張しているが、実際には自分自身よりわずか一歳年下である者(73歳)を司教に聖別した。世俗的な退職年齢をかなり超えた、しかも、司教の隠退の年齢に極めて近い年の司祭を、である。
もう一度、ルフェーブル大司教とは何と明白な対照、大きな違いがあることだろうか!

聖ピオ十世会 アジア管区

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A Striking Contrast

There is a striking contrast between the recent episcopal consecration by Bishop Williamson and those done by Archbishop Lefebvre in 1988.

Archbishop Lefebvre had founded the Society of St. Pius X, as a proper religious “society of common life without vows”, duly canonically approved by Bishop Charrière on 1st November 1970. There is no similar “society” with Bishop Williamson, the “sacerdotal union Marcel Lefebvre” has no real authority – Bishop Williamson himself said that such authority was now impossible – absolutely no canonical standing and no rules.

Archbishop Lefebvre always strove to respect Canon Law, and obtained the approval of the proper authorities for his seminary of Ecône and other priories until the illegal suppression of the SSPX in 1975 made it impossible; even then he filed two appeals at Rome, which Cardinal Billot buried. Since such appeal has “suspensive power”, the SSPX legally still exists in fact though often not recognised. It has been practically recognised since. This clearly shows that Archbishop Lefebvre never neglected Canon Law, never thought that “faith” would dispense him from the Canon Law! But where is such respect of Canon Law on Bishop Williamson’s part? It is nowhere to be seen.
The Society of St. Pius X has lived and grown for 18 years, showing its vitality by its six seminaries, its solidly established chapels, schools, missions, organised in districts as is normal for a Catholic religious society. It had in 1988 more than 200 priests, plus more than 200 seminarians, brothers, sisters, oblates, etc. The “loose association” of priests with Bishop Williamson does not even have three years existence, with no regular order, practically no seminaries (the one in the Philippines in south of Manila was closed because their hostess was so disgusted by the disorder!): they already have big divisions among themselves (to the point that some have already made civil lawsuits against others) and some are already openly sedevacantists, thus manifesting no unity among themselves: hence no solidity.
It is claimed that Bishop Faure “intends” to open a seminary: how can he claim a “survival operation” for something that does not yet exist? What a contrast!

Archbishop Lefebvre had already asked Cardinal Ratzinger in the early 80s for the consecration of a bishop, and for a whole year before the 1988 Consecrations, he made every effort possible to have it done with the proper papal mandate – to the point that the Pope approved on May 5th 1988 the principle of a consecration by Archbishop Lefebvre. He then, on May 6th, asked for the practical realisation of this approval, requesting a date for the ceremony: he had himself already postponed several times the date; Rome waited three weeks to give him a date, and the very letter offering a date asked for new candidates which made it impossible to be ready for that date: this dishonesty manifested that Rome did not intend to observe the approval given on May 5th, and by indefinite delays would made it void. This decided Archbishop Lefebvre not to delay any more his “survival operation”. But where are the efforts of Bishop Williamson to obtain any approval by the Pope? Absolutely none! What a contrast!

The recognition of the authority of the Pope was very clear and concretely manifested by the protocol; only the dishonesty of Rome made this protocol void. But the recognition of the authority of the Pope by Bishop Williamson is only a theoretical recognition, denied in practice and by his many declarations rejecting ANY submission to the current Pope.

St Augustine says that what makes a martyr is not the fact of suffering and death but the cause for which one dies (thus there is no Muslim martyrs!)
Archbishop Lefebvre resisted real abuses AFTER they were done, not before! But Bishop Williamson and his followers resisted BEFORE any compromise by the SSPX was made, and even three years later such compromise is nowhere to be seen.

Archbishop Lefebvre resisted BIG and evident scandals, such as the novelties of Vatican II (religious liberty, ecumenism, collegiality), the New Liturgy, with its communion in the hand, and many other “approved” practices and finally the huge scandal of Assisi in 1986. Bishop Williamson opposes some ambiguous words in a proposed April 2012 declaration, which was made void and completely discarded within months: the disproportion of the cause is against striking.

To assure the survival of the SSPX, Archbishop Lefebvre consecrated four bishops between 35 and 52 years younger than he was in 1988. Bishop Williamson pretends to assure a survival… consecrating a bishop who is just one year younger than himself, very past secular retirement age and very close to bishops’ retirement age! Again, what a contrast!

シスター・ルチア「神父様、この世を救う手段は2つあります。祈りと犠牲です。」

「わが天主よ、私は御身を信じ、礼拝し、御身に希望し、御身を愛します!御身を信じない人々、礼拝しない人々、御身に希望しない人々、御身を愛さない人々全てのために、赦しを乞い求めます。」

「至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、私は御身を深く礼拝いたします。私は、世界中のすべての御聖櫃の中にましまし給うイエズス・キリストのいとも尊き御体、御血、御霊魂、神性を、天主御自身が犯されている侮辱、冒涜、無関心を償うために、御身にお捧げいたします。イエズスの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳により、私はあわれな罪人の回心を御身に願います。」

ああ、イエズスよ、われらの罪を赦し給え。われらを地獄の火より守り給え。また、すべての霊魂、殊に最も必要としている霊魂を、天国に導き給え。

「聖マリアの甘美なる御心よ、ロシア、ヨーロッパ、中国、韓国、日本、そして全世界の救いとなり給え。」

「ああ聖マリアよ、御身の清き汚れなき御宿りによりて、ロシア、ヨーロッパ、中国、韓国、日本、そして全世界の回心を得させ給え。」


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コメント (1)

トリエント公会議による公教要理 主祷文 「天にまします」の意味について

2015年03月21日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 明日は、聖伝の典礼によれば、受難の第1主日です。トリエント公会議による公教要理の主祷文についての説明の続きをご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


§ III. 「天に在す」


35.天主についての正しい概念を有する者皆にとって、天主が全ての場所、全ての国に在すことは、疑いの余地のない事実です。無論、これは、天主が部分に分かれており、そのあるものは某々の場所を占め、かつこれを守り、また他のものは別の場所を占め、守るというように解してはなりません。実際、天主は霊であり、したがって分割され得ないものだからです。天主ご自身が「私は天と地とを満たす者ではないか36」といっておられるのを承知の上で、誰があえて彼に特定の場所を定め、限られた境界の内に封じ込めることができるでしょうか。

36.この言葉は,天主が、その力と広大さとによって、天と地およびこれらが含む一切のものを包含し、なおかついかなる場所にも内包されない、という意味に解するべきです。天主は全てのものの中に、これを創造するため、あるいはこれを存続させるために在(お)られますが、ご自身は、いかなる地域、境界によっても限定ないし束縛されることがなく、また、ご自分の実体と権勢とによって、あらゆる所に現存するのを妨げられることがありません。しかるに、これこそダビドが「天に駆け上ってもあなたはそこにおられ、冥土を床にしても、あなたはそこにおられる37」という言葉で表しているところです。

37.先述のとおり、天主はいかなる境界によっても制限されることなく、あらゆる場所、あらゆる事物の中に現存しておられますが、しかるに聖書は頻繁に、天主が天におられると述べています。そのわけは、私たちが頭上に仰ぎ見る天は、世界の最も貴い部分であり、腐敗を被ることなく、他のあらゆる物体を、その力、大きさ、美しさにおいて凌駕し、又、規則的で一定した動きをするものだからです。したがって、天主が聖書中で、天がご自分の居場所であると述べられるのは、ことさら天の御業において輝き出る、限りない権勢と御稜みい威つとを観照すべく、人々の心を促すために他なりません。とは言え、同じ聖書中で、しばしば天主は、世界のいかなる部分にも、天主がその本性と権勢とによって現存されることのない所は、およそないことを証ししておられます。
この「天に在す(我らの父よ)」という言葉をとおして、信徒は天主を、単に私たち皆に共通の父としてだけでなく、天に君臨される君主とのイメージ(姿)をとおして思い浮かべることになります。さらに、彼らが祈る際、心と精神とを天に上げるべきこと、また、「父」の名が彼らの心に希望と信頼を抱かせる如く、同様に「天に在す我らの父」という言葉の示す、はかり知れない至高の本性ならびに天主としての御稜威は、キリスト教的謙遜と敬虔の念で満たすべきことを思い起こさねばなりません。
当の言葉はまた、私たちが祈りをとおして天主に願うべきことを定めるものでもあります。すなわち、この地上での生活における利便および必要に関する願いの祈りは、もしこれが天的な善につながらず、またこれを目的としてなされるのでなければ、虚しく、キリスト教信者にふさわしくないものとなります。したがって司牧者は信徒に、このようにまず第一に霊的な善を願い求めるべきことを教え諭さねばなりませんが、この際、使徒パウロの次の言葉を引用すべきです。「あなたたちがキリストとともに甦ったのなら、上のことを求めよ。キリストはそこで、天主の右に座しておられる。あなたたちは、地上のことではなく、上のことを慕え。38」

【脚注】
35 テサロニケ前 5章5節
36 イェレミア 23章24節
37 詩編 138章8節
38 コロサイ 3章1-2節

「わが天主よ、私は御身を信じ、礼拝し、御身に希望し、御身を愛します!御身を信じない人々、礼拝しない人々、御身に希望しない人々、御身を愛さない人々全てのために、赦しを乞い求めます。」

「至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、私は御身を深く礼拝いたします。私は、世界中のすべての御聖櫃の中にましまし給うイエズス・キリストのいとも尊き御体、御血、御霊魂、神性を、天主御自身が犯されている侮辱、冒涜、無関心を償うために、御身にお捧げいたします。イエズスの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳により、私はあわれな罪人の回心を御身に願います。」

ああ、イエズスよ、われらの罪を赦し給え。われらを地獄の火より守り給え。また、すべての霊魂、殊に最も必要としている霊魂を、天国に導き給え。

「聖マリアの甘美なる御心よ、ロシア、ヨーロッパ、中国、韓国、日本、そして全世界の救いとなり給え。」

「ああ聖マリアよ、御身の清き汚れなき御宿りによりて、ロシア、ヨーロッパ、中国、韓国、日本、そして全世界の回心を得させ給え。」


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2015年3月19日に行われた、ウィリアムソン司教による司教聖別について、聖ピオ十世会本部からの報道発表

2015年03月20日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2015年3月19日にブラジルで行われた、ウィリアムソン司教によるジャン・ミシェル・フォール神父の司教聖別について、聖ピオ十世会本部からの報道発表がありましたのでご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

聖ピオ十世会本部の報道発表


今日、2015年3月19日、リチャード·ウィリアムソン司教は、ブラジルの、ノバ・フリブルゴにある「聖十字架ベネディクト修道院」でのジャン・ミッシェル・フォール神父の司教聖別を執り行った。

ウィリアムソン司教とフォール神父は、それぞれ、2012年および2014年以来、もはや聖ピオ十世会の会員ではない。それは、彼らが、ローマの当局とのすべての関係に反対して激しい批判をなし、そのようなコンタクトは、彼らによれば、マルセル・ルフェーブル大司教の事業を裏切ることだと主張していたからである。

聖ピオ十世会は、この対立の精神が、今回の司教聖別につながっていることを心から嘆く。 1988年、ルフェーブル大司教は、裁治権を持たない補佐司教を司教聖別する意向を明らかに示していた。それは、聖ピオ十世会とカトリック信徒らが置かれていた必要の状態のためであり、これらの司教たちによって叙階されるであろう司祭らの聖職により、これらの信徒らが秘蹟を受けるという唯一の目的のためであった。ローマ聖座からの司教聖別許可を得るためにすべてを行った後、ルフェーブル大司教は、数千名の、司祭と信徒たちの前で、さらに世界中の何百ものジャーナリストの前で、1988年6月30日、荘厳に司教聖別を執り行った。すべての状況から明白なように、ローマからの許可がないにもかかわらず、この司教聖別の行為が、カトリック教会と霊魂の利益のために、公になされていたということを明らかに示していた。

聖ピオ十世会は、フォール神父の司教聖別を批難する。それは、聖別をした者と司教聖別を受けた者との両方の主張にもかかわらず、1988年の司教聖別とは、全く異なっているからである。実に、ウィリアムソン司教とフォール神父の宣言は全て、彼らが、純粋に修辞的に言及される以外は、もはやローマ当局を認めていないことを豊富に証明している。

聖ピオ十世会は、教会における必要性の現在の状態は、世界中における当会の使徒職を正当化するが、しかし教会当局を認なくてよいとはしないこと、当会司祭たちは全てのミサ聖祭でこの教会当局のために祈っていること、を改めて宣言する。それがどこから由来するものであっても誤謬に反対しつつ、聖ピオ十世会は信仰の遺産と道徳を守り、聖伝の典礼と説教によって、当会創立者の精神 Credidimus caritati 私たちは天主の愛を信じた [1ヨハネ4:16] において、この信仰と道徳を伝えていくことを望む。

メンツィンゲン、2015年3月19日

On March 19th 2015 Bishop Richard Williamson performed the episcopal consecration of Fr. Jean-Michel Faure at the Benedictine Monastery of the Holy Cross in Nova Friburgo, Brazil.

Bishop Williamson and Fr. Faure have not been members of the Society of St. Pius X since 2012 and 2014, respectively, because of their violent criticisms of any relations with the Roman authorities. According to them, such contacts were incompatible with the apostolic work of Archbishop Lefebvre.

The Society of St. Pius X regrets sincerely that this spirit of opposition has led to an episcopal consecration. In 1988 Archbishop Lefebvre had clearly indicated his intention to consecrate auxiliary bishops who would have no jurisdiction, because of the state of necessity in which the Society of St. Pius X and faithful Catholics found themselves at that time. His sole goal was to make available to the faithful the sacraments which priests ordained by the bishops would offer. After having done everything conceivable to gain permission from the Holy See, Archbishop Lefebvre proceeded with the solemn consecrations on June 30, 1988 before several thousand priests and faithful and hundreds of journalists from around the world. It was abundantly clear from all the circumstances that, despite the lack of authorization from Rome, this action done in the most public manner was for the good of the Church and of souls.

The Society of St. Pius X denounces this episcopal consecration of Father Faure, which, despite the assertions of both clerics concerned, is not at all comparable to the consecrations of 1988. All the declarations of Bishop Williamson and Fr. Faure prove abundantly that they no longer recognize the Roman authorities, except in a purely rhetorical manner.

The Society of St. Pius X still maintains that the present state of necessity renders legitimate its action throughout the world, without denying the legitimate authority of those for whom it continues to pray at every Mass. The Society intends to continue its work of priestly formation according to its statutes. It has every intention to keep the deposit of the Faith and the purity of the Church’s moral teaching, in opposition to errors, from wherever they may come, in order to pass on such Faith and morals in the traditional liturgy and by preaching, in accordance with the missionary spirit of its founder: Credidimus caritati [1 John 4:16].

Menzingen, March 19, 2015

コメント

聖ピオ十世会 聖伝のミサ(トリエント・ミサ) レネー神父様説教 Fr Laisney in Osaka SSPX JAPAN

2015年03月18日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2015年3月15日、レネー神父様の大阪でのお説教(四旬節第四主日)をご紹介します。

 レネー神父様は、このお説教で、キリストの真の教会がカトリック教会であること、プロテスタントの主張の誤りであること、を丁寧に説明して下さっています。どうぞ深く味わって下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2015年3月15日、レネー神父様の大阪でのお説教(四旬節第四主日)





親愛なる兄弟の皆さん、

きょうの典礼は、聖にして母なる教会の神秘、新しいエルザレムを黙想させてくれます。入祭文は、天のエルザレムの喜びを歌います。そこでは、天主が聖人たちを言い表せないほどの素晴らしい方法で慰めてくださいます。しかし、ここ地上においても、すでに私たちは「希望の喜びを持」(ローマ12章12節)っています、詩篇作者が「『主の家へ上ろう』と言われたので、私は喜んだ」(詩篇121章1節)と言うように。天主の家へ向かう正しい道にいるというまさにその事実が、非常に大きな喜びなのです。この詩篇にあるこれらの言葉は、フランス王聖ルイが死の瞬間に言った最後の言葉でした。

この書簡の中で聖パウロは、シナゴーグ(衆議所)と教会、旧約と新約を、アブラハムの妻たちのハガルとサラに例えています。聖パウロは言います。「上にあるエルザレムは自由であって、私たちの母であ」(ガラツィア4章26節)り、私たちの聖にして母なる教会です。私たちは、主イエズス・キリストの恩寵によって、(サラの子である)「約束の子」であるのです。

美しい昇階誦は入祭文の節を繰り返し、同じ詩篇の中の別の節で終わります。「『主の家へ上ろう』と言われたので、私は喜んだ。…平安は御身の要塞の中にあり、そこは安全である」(詩篇121章1、7節)。天の平和は、永遠の喜び、至福直観であふれており、言い表すことができないほど素晴らしいものです。聖体拝領の交唱は、同じ詩篇のもう一つの節を引用します。「エルザレムは町のように立ち、しっかり固まっている。そこにはもろもろの民が、主の民が上る。そこで主のみ名をたたえる」(詩篇121章3―4節)。教会は、天主の国であり、そこで、天主は地上のすべての種族によって、あふれんばかりの喜びをもって、まことに讃美されます。旧約におけるエルザレムは、単にその象徴、前 表でしかありません。

また、福音において主はパンを増やされましたが、これはご聖体の象徴を示されたのです。聖ヨハネ福音書の中には、私たちの主イエズス・キリストがパンを増やしたあと、教会の最も偉大な宝であるご聖体を告知する長い説教をされます。

キリストがお建てになった教会は、聖なるカトリック教会です。実際、カトリック教会は、キリストと歴史的な結びつきがあり、絶えることのない使徒継承を持つ唯一つの教会です。この歴史的結びつきがないいかなる教会も「キリスト教(の教会)」と名乗る資格はありません。もしそのような教会が「キリスト教(の教会)」であるならば、私たちの主が嘘つきになってしまいます。なぜなら、主は「見よ、私は世の終わりまで常におまえたちと共にいる」(マテオ28章20節)と言われたからです。主は、ルター以前にはどこにおられたのでしょうか。また、ほかの多くのプロテスタント教会は、さらに最近になってできました。それらの教会は設立が遅すぎるため、「キリスト教(の教会)」と名乗ることはできません。 そうするのは名前の「不正使用」です。

しかしさらに根本的に言えば、プロテスタントの信仰は偽物です。彼らの誤りは、「~のみ」という一つの言葉に要約できます。彼らは「信仰のみ」と主張して、善い行いを拒絶します。彼らは「聖書のみ」と主張して、教父や教会の教導権を拒絶します。彼らは「キリストのみ」と主張して、聖人たちを拒絶し、特にキリストの御母マリアを拒絶します。つまり、教会を拒絶するのです。これらすべてにおいて、彼らは大きくだまされているのです。(だましているとは言いません。)彼らの宣伝にだまされないようにするのは重要です。そして、彼らの信仰がいかに大きく間違っているかを理解することも重要です。彼らの改宗のために祈りましょう。彼らがまことにキリストによる救いを見いだす ためには、改宗することが必要だからです。

彼らの「~のみ」はすべて、愛の拒絶なのです。

実際、彼らが「私たちは信仰のみで救われる」と言うのに対し、聖パウロは言います。「キリスト・イエズスにおいては、割礼を受けることもなく受けないこともいずれも価値がなく、愛によって働く信仰だけに価値がある」(ガラツィア5章6節)。愛を通して働く信仰、これこそが「価値がある」もの、すなわち、救いのために意味があり、その益となるものです。このことは、よく理解できます。私たちがキリストを愛するならば、私たちが天主を愛するならば、私たちは主を喜ばせたいと思います。主のために何かをしたいと思います。ところで私たちには、天主がお持ちでないもので差し上げられるものがありません。ですから、どのようにすれば天主になにかを差し上げることができるので しょうか。主はすでに、私たちに答えをくださっています。「あなたたちが私の兄弟であるこれらの小さな人々の一人にしたことは、つまり私にしてくれたことである」(マテオ25章40節)。言い換えれば、善い行いによって、私たちは天主を本当にお喜ばせするのです。そうすれば、これらの善きわざに対して、報いとして永遠の至福が与えられます。「父に祝された者よ、来て、世の初めからあなたたちに備えられていた国を受けよ。なぜなら、あなたたちは、私が飢えていたときに食べさせ、渇いていたときに飲ませ、旅にいたときに宿らせ…」(マテオ25章34―35節)。鍵になる言葉は「なぜなら」です。善い行いは、まことに永遠の至福を得る理由なのです。救いは善い行いへの報いなので す。

それと反対に、「行いのない信仰」を持つ人々、聖ヤコブが「死んでいる」(ヤコブ2章20、26節)と呼んだ人々は、左側に行きます。彼らは地獄を宣告されます。なぜならば、善い行いがなかったからです。「呪われた者よ、私を離れて悪魔とその使いたちのために備えられた永遠の火に入れ。なぜならば、あなたたちは私が飢えていたのに食べさせず、渇いていたのに飲ませず、…」(マテオ25章41―42節)。福音書のほかの部分では、主は次のようにはっきりと言われます。「私に向かって『主よ、主よ』と言う人がみな天の国に入るのではない、天にまします父のみ旨を果たした人が入る。その日、多くの人が私に向かって『主よ、主よ、私はあなたの名によって預言し、あなたの名によ って悪魔を追い出し、あなたの名によって不思議を行ったではありませんか』と言うだろう。そのとき私ははっきりと言おう、『私はいまだかつてあなたたちを知ったことがない、悪を行う者よ、私を離れ去れ』」(マテオ7章21―23節)。彼らは信仰を持っていて、「主よ、主よ」と呼びかけました。彼らは、主の御名によって奇蹟を行うほどの信仰を持っていました。でも、その悪い行いのため、地獄の宣告を受けるのです。

さて、善い行いということを正しく理解しなければなりません。自分の力では、私たちは何もできません。実際、主は言われました。「私はぶどうの木で、あなたたちは枝である。私がその人の内にいるように、私にとどまる者は多くの実を結ぶ。私がいないと、あなたたちには何一つできぬからである」(ヨハネ15章5節)。

この美しい文章は、真理が持つ二つの側面を述べています。一つは、私たちの主イエズス・キリストにおいて、その恩寵によって、私たちは多くの実を結ぶことができ、また結ばなければならないことです。しかし、もう一つは、主がいなければ、私たちは救いへ向けた善いことを何もできないことです。主は、私たちの救いの第一の原因であり、私たちは私たちの救いの第二の 原因にしか過ぎません。プロテスタントの人々は、天主であるキリストが私たちの救いの第一の原因である事実を強く主張するあまり、私たちがそれに協力すること、つまり私たちが私たちの救いの第二の原因であるということを無視しています。これは大変な誤りです。実際、天主は至高の善なのです。天主のみが、どこであっても至高なのです。天主のみ、ご自身そのものが善なのです。しかし、天主はまた、被造物の善の原因でもあるのです。被造物をねたむどころか、天主こそが被造物に善をお与えになったお方なのです。天主は被造物に善をお与えになっただけでなく、いくつかの被造物を、他の被造物の善の第二の原因となるようになさいました。同様に、天主は命です。天主のみ、ご自身そのもの が命です(ヨハネ5章26節)。しかし、天主はいくつかの被造物に命をお与えになり、さらに言えば、主は被造物に、他の被造物に命を伝える能力さえお与えになったのです。

このように、天主のみが救いの第一の原因です。しかし、天主は私たちを、私たちの救いのための第二の原因になるようになさいました。私たちは、救いに到達するために善い行いをすることによって、天主の恩寵に、キリストの恩寵に協力しなければなりません。「よい土地にまかれたのは、言葉を聞いて悟り、あるいは百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍もの実を結ぶ人のことである」(マテオ13章23節)。協力を拒絶する人は、究極の実りである救いを獲得しないでしょう。「よい実を結ばぬ木は、切り取られて火に投げ入れられる」(マテオ3章10節)。

聖トマス・アクィナスは、功徳と豊かな霊的実りの根本は愛である、と説明します。霊魂は、成聖の恩寵を信仰と希望と愛と共に持つときに生きています。愛がなければ霊魂は霊的には死んでいるのです。しかし、愛それ自体は「私たちに与えられた聖霊によって、私たちの心に注がれた」(ローマ5章5節)のです。「信仰のみによって」私たちは救われると主張することにより、プロテスタントの人々は愛の必要性を台無しにしているのです。

全部ではありませんが、プロテスタントの人々の中には時に、私たちは善い行いをすべきだが、それによって救われるのではない、と主張する人々がいます。これでは、天主が不正義になってしまいます。実際、天主は、悪い行いを罰するでしょうが、善い行いに報いを与えないのでしょうか。また、このことは、善い行いをするための動機そのものを台無しにしています。彼らがそのような善い行いをするのは、天主を喜ばせるためではなく、「自分たちが義とされるのだということをみずから証明するため」だからです。これは、自己中心の動機であり、もはや愛という動機ではありません。

さて、聖パウロは言います。「人が義とされるのは律法の行いによってではなく、信仰によってであると私たちは思う」(ローマ3章28節)。皆さん今お気づきのように、聖パウロは非常に明確に言っています。「律法の行いによってではなく」、すなわち割礼や旧約にある他の形式的な規則によるのではないと言っているのです。聖パウロは、行いをともなわない信仰を持てと言っているのではありません。

聖パウロの文章には第二の側面があります。聖パウロは、「救い」についてではなく、「義化」について話します。この二つの違いはこうです。義化とは、罪の状態から義の状態、つまり成聖の恩寵の状態へ移ることです。これはキリスト教生活の始まりです。救いとは、本来の意味ではキリスト教生活の目的、終着点です。キリストは言われます。「終わりまで耐え忍ぶ者は救われる」(マテオ10章22節、マテオ24章13節)。救いとは、地上における成聖の恩寵の状態から、天の栄光の状態に移ることです。さて、義化以前には、人は罪びとでした。人にふさわしいのは、恩寵ではなく罰せられることでした。それまで人には、義とされるべき何の功徳もありませんでした。しかし、天へ入る前には、人 は義とされねばならず、かつ善い行いをしなければなりません(少なくとも大人にとっては。洗礼を受けた幼子なら、理性を働かせるようになる前に死んで、このような個人的な功徳がないとしても救われます)。善い行いをするところは、義化と救いの間、つまりこの地上におけるキリスト教生活の始まりと、地上におけるキリスト教生活の終わりの間です。善い行いを実り豊かに行なうことは、キリスト教生活のあるべき姿です。聖パウロは言います。「私たちは天主に創られた者であり、天主があらかじめ備えられた善業を行うために、キリスト・イエズスにおいて創造された」(エフェゾ2章10節)。これがカトリック生活、まことのキリスト教生活です。善い行いの必要性を拒絶することによって、 プロテスタントはキリスト教生活を完全に変質させました。死んだ状態になるのです。もはやまったく生きてはいないのです。

プロテスタントの人々の二番目の言葉である「聖書のみ」は、また命と愛を拒絶することです。実際、聖パウロは書いています。「文字は殺し、霊は生かす」(コリント後書3章6節)。文字のみ、聖書のみを取り上げるなら、それは死んでいるのであり、死をもたらすものです。霊が、聖霊が必要です。そして、この霊が見いだされるのは…教会の中なのです。キリストの御体の中でなければ、キリストの霊によって力づけられることはありません。なぜなら、キリストと聖霊のペルソナの間に対立はないからです。聖パウロは言います。「それゆえ信仰は宣教(聞くこと)により、宣教(聞くこと)はキリストのみ言葉による」(ローマ10章17節)。聖パウロは、信仰は読むことによって来るのであり、聞 くことによってではない、とは言いませんでした。「まだ聞かなかった者をどうして信じられよう。宣教する者がなければどうして聞けよう」(ローマ10章14節)。天主のみ言葉は、本質的には話された言葉であり、書かれた言葉ではありません。旧約、新約の両方の形で天主のみ言葉の一部が書かれましたが、やはりそれは話された言葉のままでした。何かを書き残したごく少数の使徒たちも、その短い文章を書いた後も、説教をやめませんでした。使徒たちの話したことは、書いたもの以上にずっとたくさんありました。さらに言えば、キリストは使徒たちに、聖書(つまり旧約聖書)の中身を明らかにしました。旧約聖書のこれらすべての説明は、使徒たちがキリストから聞いて、初期のキリスト教徒に確 実に伝えたものですが、それらはどこで見いだされるのでしょうか。新約聖書にはほんのわずかしかありません。(しかし、少しはあります。)私たちが使徒たちの話したことの多くを見いだすのは、教父たちの書物の中です。彼らは、教会の命の証人であり、使徒たちの説教の証人なのです。このように、聖書のみを取り上げることは、死んだ文字を取り上げることであり、教会の命を拒絶し、使徒たちの話したことを正確に聞いた人々を生き生きとさせた命を拒絶することなのです。教会の命である愛を拒絶することなのです。

さらに、これは大きな高慢です。それは、これら偉大なる教会博士や教父たちよりも自分たちが聖書をよく理解しているかのように主張するからです。

最後に、これは、私たちの主イエズス・キリストが教会にお与えになった、聖書を権威をもって解釈する権威に逆らうことです。実際、主は使徒たちとその後継者たちに言われました。「あなたたちの言うことを聞く人は、私の言うことを聞く人であり、あなたたちを拒む人は、わたしを拒む人である。そして、私を拒む人は、私を送ったお方を拒むのである」(ルカ10章16節)。

さて、プロテスタントの人々の言う最後の「~のみ」に移ります。彼らは「キリストのみ」と言います。そのため、聖人たちや教会、特にマリア様を拒絶します。しかし、彼らは自分自身を欺いているのです。教会なしでキリストのみとすることは不可能です。私たちの主イエズス・キリストは、キリストの体である教会から頭(かしら)であるキリストを切り離すこと、花嫁である教会から花婿であるキリストを切り離すことをお許しになりません。体から頭を切り離すことは、私たちの主イエズス・キリストの首を切り落とすことと同じです。これがキリストを喜ばせることはありえません。キリストを教会から分離することは、キリストに愛する浄配と離婚するよう要求することです。それは決してあ りません。「人は、天主が合わせられたものを離してはならぬ」(マテオ19章6節)。私たちの主イエズス・キリストは「教会を愛し、そのために命を与えられた。水を注ぐことと、それに伴う言葉によって教会を清め聖とするためであり、また汚点もしわもすべてそのようなもののない、輝かしく清くけがれのない教会をご自分に差し出させるためであった」(エフェゾ5章25―27節)。キリストは、ご自身の教会のためにその貴い御血を流されました。そのキリストの犠牲はあまりに大きかったのですから、教会からキリストを分離することをお許しになることなど決してありません。プロテスタントの人々が教会を求めないのならば、彼らはキリストを得ることはないでしょう。

最後の「~のみ」が愛を拒絶することであるのは、どのようにしてなのかを見てみましょう。偉大なる聖心の愛をほとんど分かち合うことのないプロテスタントの人々が、いかにしてキリストを愛すると言うのでしょうか。また、キリストが教会の内の罪びとをも含む全教会を愛されるのならば、キリストは聖人たちを、また特に、愛する御母である童貞聖マリアをいかにより多く愛されることでしょうか。「互いに主イエズス・キリストの心を心とせよ」(フィリッピ2章5節)。確かに、キリストは「なんじの父母を敬え」という戒めに完全に従われました。このように、キリストがマリア様を敬われたのならば、マリア様を敬うことを拒絶しているプロテスタントの人々はキリストの心を持っていません。そ のうえ彼らは、キリストが御母を通して私たちに与えようと望んでおられるすべての賜物、特に、それがなければ天主の国に入ることができない(マテオ18章3節)謙遜の賜物、「幼子」になる賜物を、自分自身から奪っているのです。

この長くなった説教の最後のポイントになりました。ご聖体です。プロテスタントの人々は、ご聖体にキリストがまことに現存すること、「全実体変化」を拒絶しています。しかし、これこそが恐らく、私たちの主イエズス・キリストがご自身の教会のためになされたもっとも偉大なる驚異、主の愛のもっとも偉大なる証明でしょう。主はほかのすべての賜物をご聖体に集中させられました。主が私たちにお与えになることができたもので、主ご自身以上のものがあるでしょうか。主がおつくりになったもので、これ以上の近しい一致があり得るでしょうか。「私の肉を食べ私の血を飲む者は私に宿り、私もまたその者のうちに宿る」(ヨハネ6章56節)。

プロテスタントの人々は聖書を信じると言いますが、私たちの主イエズス・キリストが「これは私の体である」(マテオ26章26節)と言われたことを信じていません。彼らは、私たちの主イエズス・キリストが「これは、多くの人のために、罪のゆるしを得させるために流す新約の私の血である」(マテオ26章28節)と言われたことを信じていません。彼らは、私たちの主イエズス・キリストが「私の肉はまことの食べ物であり、私の血はまことの飲み物であるから、私の肉を食べ私の血を飲む者は私に宿り、私もまたその者のうちに宿る」(ヨハネ6章55―56節)と言われたことを信じていません。

親愛なる兄弟の皆さん、忠実である恩寵を乞い求めましょう。カトリック教会のこの信仰を、救いのために必要な唯一のまことの信仰を、私たちが保つことができますように。そして、プロテスタントの人々の改宗のために祈りましょう。実際、彼らはたくさんいます。しかし、彼らには改宗が必要です。教父たちの信仰を、カトリック教会の信仰を受け入れることが必要です。彼らを改宗に導かないエキュメニズムであるならば、偽りのエキュメニズムなのです。

私たちが救いを見いだすことができ、私たちがキリストの賜物、特にすべてに超えて偉大な、いとも聖なるご聖体の豊かさを見いだす唯一の場所、キリストの神秘体である教会への大きな愛を、童貞聖マリアが私たちにお与えくださいますように。その結果、私たちの主イエズス・キリストにふさわしい生活、善い行いに満ちた生活を送り、永遠の報いを得ることができますように。

アーメン





《罪なく宿り給いし聖マリアよ、御身に寄り頼み奉る我らのために祈り給え。また、御身に寄り頼まぬ全ての人々のため、ことに、フリーメーソンのため、また、御身に依頼された人々のために、祈り給え。》

幼きイエズスの聖テレジアの最後の言葉「祈りと犠牲とを持ってだけ、私たちは教会のためになることが出来ます。...カルメルでは、私たちは霊魂を買い取るために偽のコインを偽造してはなりません。綺麗な言葉を書いたり受け取ったりすることは、しばしば偽造貨幣を交換するだけでしかありません。」

シスター・ルチア「神父様、この世を救う手段は2つあります。祈りと犠牲です。」


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公教要理図解(ワグネル訳)
カトリック中央協議会編集の公教要理(1958年)
聖ピオ十世 公教要理詳解
ローマ公教要理 【使徒信経の部】
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聖ピオ十世会 レネー神父様説教 五旬節の主日 SSPX JAPAN Fr Laisney's sermon 2015

2015年03月17日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 レネー神父様がなさった2015年2月15日 大阪での「五旬節の主日」のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)





親愛なる兄弟の皆さん、
きょう私たちは、聖パウロの愛についての驚くべき手紙を取り上げます。教会が朝課でアブラハムを読むことを知るのは有益です。アブラハムは、その驚くべき信仰によって諸国民の父、世界のあらゆる国において、ただ一つのまことの信仰を持つすべての人々の父となったのですから。アブラハムは天主について偉大なる信仰を持っていただけでなく、驚くべき愛をも持っていました。それは、天主への愛をほかのすべてのものより上に置いたこと、自分の子イサクよりも上に置いたことです。アブラハムは、天主の命令に従うため、イサクを燔祭のいけにえとして天主に捧げることをためらいませんでした。まことに、アブラハムは私たちの主が教えられたことを実践したのでした。「私よりも息子や娘を愛する者は私にふさわしくない」(マテオ10章37節)。アブラハムは、その偉大なる信仰と愛によって、私たちの主イエズス・キリストにふさわしい者であったのです。

さて私たちは、「信仰がなければ天主に嘉されることはできない」(ヘブライ11章6節)ということを知らなければなりません。しかしまた、愛がなければ、天主に嘉されることはできません。聖パウロは言います。「たとい私が山を動かすほどの満ちた信仰を持っていても、愛がなければ無に等しい」(コリント第一13章2節)。なぜ私たちには両方が必要なのでしょうか。根本的に、天主は「光」であるだけでなく、「愛」でもあるからです。実際、聖ヨハネは第一の手紙の中で、天主について二つの驚くべき「定義」を示します。まず「私たちがかれから聞いて、あなたたちに告げる便りは、こうである。天主は光であって、少しの闇もない」(ヨハネ第一1章5節)。それから、次に「天主は愛である。愛を持つ者は天主にとどまり、天主は彼にとどまられる」(ヨハネ第一4章16節)。

「天主は光である」。これは、天主が太陽から出るような物理的な光であることを意味しているのではなく、「すべての人を照らす」(ヨハネ1章9節)霊的な光、真理の光であると言っているのです。無知は心の闇であり、真理は心の光です。「私は道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14章6節)。天主は至高の知性であり、かつ至高の真理なのです。この天主の真理は、私たちの本性をはるかに超えているため、聖パウロは、天主は「近づけぬ光のうちに住まわれる」(ティモテオ第一6章16節)と書きました。しかし天主は、顔と顔を合わせて天主を見ることができ、その光の中に入るという超自然の幸福に私たちをお呼びくださったのです。「実に、あなたには命の泉があり、その光において、われらは光を見る」(詩篇35章10節)。美しい風景が私たちの感嘆を引き起こすのなら、天主を見ることはまことに美しいでしょうから、私たちの永遠の幸福となるのです。

天主はまた、愛でもあります。天主はエレミアを通じて私たちに言われました。「私は永遠の愛をもって愛し、おまえに私の慈悲を保つ」(エレミア31章3節)。天主は、最初の男女を地上の楽園に置かれただけでなく、人間の反抗ののちでさえ、御独り子そのものであるお方を贖い主として遣わされました。御独り子は、私たちの救いのために十字架上で御自らをいけにえとして捧げられました。これは驚くべきことに「善をもって悪に勝つ」(ローマ12章21節)ことなのです。「天主はその御独り子を与え給うほどこの世を愛された」(ヨハネ3章16節)。詩篇作者は、次のように喜びに満たされて言っています。「主の愛を永遠に歌おう」(詩篇88章2節)。また、主に愛された使徒ヨハネは書いています。「私たちが天主を愛したのではなく、天主が先に私たちを愛し、御子を私たちの罪の贖いのために遣わされたこと、ここに愛がある」(ヨハネ第一4章10節)。「私たちが天主を愛するのは、天主が先に私たちを愛し給うたからである」(ヨハネ第一4章19節)。

親愛なる兄弟の皆さん、私たちは天主ではなく、私たちだけで存在しているのでなく、天主が私たちをお創りになったのです。「主は天主であると知れ。主はわれらを創られた、われらは主のもの、主の民、その牧場の群れである」(詩篇99章3節)。このことは明らかでしょうし、実際、私たちが天主ではないという証拠です。しかし、現代社会における悲劇は、人間が自分を天主とすることです。人間は天主と関係ないつもりでおり、知性を天主の真理の光に従わせることを拒絶し、自分よりさらに天主を愛することを拒絶し、天主の法を拒絶し、人間がつくったのではないあらゆる法、あらゆる命令を拒絶しているのです。

例えば、「人間の本性」という概念を見てみましょう。天主は私たちを創られました。天主は私たちに、「人間の本性」を与えられました。霊魂と体を持ち、霊魂にも体にもそれぞれの能力があり、私たちが従うべき法を伴っています。その法とは、例えば、天主を礼拝すべきこと、体は霊魂に従うべきこと、感情を理性に従わせ、理性によって抑制すべきこと、感情の奴隷になってはならないことなどです。しかし現代人は、義務を伴うこの「人間の本性」という概念自体を拒絶しています。現代人はこれを強く拒絶し、現代の「ジェンダー」〔性的役割〕という理論で、誰もが自分の性的役割を選ぶことができるかのように考えています。これは、ばかげたことです。私たちの細胞のDNAが天性のものでないかのように考えること、これは選択の対象ではありません。ですから、現代人が人間の本性をこういうふうに拒絶することが、あらゆる種類の不自然な悪徳を引き起してしまうのです。

19世紀のまことに良き司祭、ゴーム神父はこう書きました。〔現代人向けに(革命家の名前などを)少し変更しています。原文は、フランス革命の歴史をよく知っているフランス人のために書かれました。〕「革命の仮面をはいで聞いてみよう。おまえは何者だ、と。すると、こう答えるだろう」。

「私は人々が考えているようなものではない。多くの人が私のことを語るが、ほとんどの人は私を知らない。私は、暴動ではなく、君主制から共和制への転覆でもなく、一つの王朝から他の王朝への転覆でもなく、一時的に治安を乱すことでもない。私は、反乱の叫びでもなく、革命家の怒りでもなく、バリケードで血を流して戦うことでもなく、プラハやアモイの戦車でもない。私は、ロベスピエールでもなく、レーニンでもなく、スターリンでもない。これらの男たちはわが子どもたちであるが、私ではない。これらの行いは私の業(わざ)であるが、私ではない。これらの男たちや出来事は過ぎ去るが、私は永遠の国家である」。

「私は、人がつくったものではないあらゆる秩序、人が王でありまた同時に天主であることのないあらゆる秩序への憎しみである。私は天主の権利を拒絶する人間の権利、人権の宣言なのである。私は、天主の意思の代わりに人間の意思を置く、宗教的、社会的国家の基礎である。私は、天主を玉座から引きずりおろし、その座に人間を置くことなのである。これが、私が革命、つまり物事をひっくり返してしまうこと、と呼ばれている理由なのである」。

ゴーム神父のこれらの言葉は、革命とは何であるかをまことによく表現しています。そして、革命が世界中に、共産主義の国家だけにとどまらず、いかに遠くまで広がっていったかを考えるのを助けてくれます。世界の国のほとんどが、天主の法について語ることはまったくありません。ほとんどの国は、国の法律において、天主の法によって明確に非難され禁じられている中絶のようなことを認めています。中には、「中絶の権利、同性愛の権利など」を主張するところまで進んでしまった国もあります。本質的に悪であることを行う権利が、いかにして存在し得るのでしょうか? 同じことが、正しいと同時に悪であることなどありえません。無実の者を殺すことは悪であると天主は言われましたが、人は中絶する権利があると言うのでしょうか? いわゆる「人権宣言」は、実際には「天主のいない人間の権利」への案内図、つまり「私は従わない、私は天主の法に服従しない」という叫びへの案内図なのです。

ですから、皆さんお分かりのように、世界では大きな霊的戦いが起きているのです。きょう始まったのではありません。ある意味で、「私は従わない」という悪魔の反乱とともに始まり、アダムとエバの罪によって地上に入り、世の終わりまで続くのです。天主ご自身が、次の美しい予言によって、両方の側について述べておられます。「私は、おまえと女との間に、おまえのすえと女のすえとの間に、敵意を置く。女のすえは、おまえの頭を踏みくだき、おまえのすえは、女のすえのかかとを狙うであろう」(創世記3章15節)。

私たちは、どちらの側を選ぶのでしょうか? 私たちは無関心でいることはできません。天主に無関心であるという事実そのものが、天主への攻撃になるからです。洗礼によって、私たちはマリアの子となること、「女のすえ」になることを選びました。私たちはサタンと、そのすべての業、すべての誘惑、欺きやずる賢さなどを捨てました。私たちは、サタンの闇と憎しみの国を拒絶し、キリストとその光と愛の国を完全に選びました。私たちは、悪魔の頭を踏みくだく女とそのすえの陣営に属することを選びました。

しかしながら、言うのも悲しいことですが、この世に妥協する、この世の王に妥協する多くのカトリック信者がいるのです。彼らは、もう悪魔に対して戦うつもりはなく、天主とこの世に同時に仕えるつもりなのです。この世の精神とのこういう妥協は、第二バチカン公会議の特徴です。教皇パウロ六世自身が、公会議閉会のおり(1965年)12月7日に演説でそのことを述べました。「公会議が出会ったのは、次のものです。"人間となった天主"の宗教は、『自らを天主とする人間』の宗教(なぜならこれも宗教のひとつですから)と出会いました。何が起こったのでしょうか。衝突でしょうか。排斥でしょうか。これらが起こり得ました。しかし、これらはありませんでした。良きサマリア人の昔の話が公会議の光でした。すなわち、人間に対する限りない好感が…。私たちも、誰にもまして人間を礼拝するものなのです」。これらの言葉、特に最後の言葉はまことに恥ずべきものです。

それと反対に、私たちは、まことの宗教を完全に選びました。人間となった天主の宗教を、私たちの主イエズス・キリストがご托身になった宗教を選びました。ですから、私たちは、自らを天主とする人間の宗教を拒絶します。光は闇を払いのけます。私たちの主イエズス・キリストは世の光です(ヨハネ8章12節)。主は、不信仰の闇、罪の闇を払いのけてくださいます。主だけが、霊魂を闇と罪から癒やしてくださり、光と愛で私たちを満たしてくださいます。ですから主は、罪びとを憎むのではなく、罪を憎み、罪びとを罪から救うべく努めるように私たちにお教えになりました。「私たちの戦いの武器は肉のものではなく、天主のために城塞を破るほどの力のあるものである。私たちは詭弁を破り、天主の知識に逆らって立つすべての砦を壊し、すべての考えを虜にしてキリストに従わせる」(コリント第二10章4―5節)。事のついでに、イスラムと真の宗教であるカトリックを比べてみます。イスラムは反対する人々を殺しますが、カトリックはキリストに反対する人々を改宗させようと努めます。私たちの主のように、改宗を得るために喜んでみずから犠牲となるのです。

この大いなる戦いにおいては、私たちの主イエズス・キリストの恩寵を必要とします。どのようにすればその恩寵を得られるのでしょうか。第一に、祈りと黙想によってです。光であり愛である天主を黙想することが必要です。天主の内的生命の神秘において、知性によって御子をお生みになる御父を黙想します。御父と御子から愛によって発出する聖霊を黙想します。この黙想をすることで、この偉大なる神秘を私たちに啓示してくださった私たちの主イエズス・キリストを通して、私たちは天主への愛で燃え上がるのです。この黙想自体が天主の賜物であり、私たちはそれを求めなければなりません。求めよ、さらば与えられん。私たちの主は、私たちが受けたいと思う以上のものさえも、私たちにお与えになります。主は、私たちの救いを望まれます、私たちが望む以上にです。主は、十字架上で私たちの救いのために亡くなられました。ですから私たちは、この戦いで私たちが必要とする恩寵を求めるのを恐れてはなりません。主は私たちをお助けになり、勝利をお与えになります。聖ジャンヌ・ダルクは言いました。兵士たちは戦い、天主が勝利をお与えになる。霊的戦いにおいては、これはさらに真実となります。ですから祈りは、私たちの救いのための霊的戦いにおいて、第一にして最も必要な武器なのです。

第二の武器は、祈りがあったうえで、霊魂を罪から解放するという堅い意志と熟慮の上の決心です。この決心は、いかなる条件も制限もない完全なものでなければなりません。罪はまったくの問題外です。聖パウロは「あなたがたの中では口にさえもするな」と言います。「聖徒にふさわしいように、あなたたちの中では、淫行、いろいろなけがれ、情欲は口にさえもするな」(エフェゾ5章3節)。私たちは、まず聖寵の状態でキリストと一致していなければ、従って罪との妥協が一切ない状態でなければ、周りに善をなすことはできません。罪は問題外です。完全に罪に対して「ノー」と言わなければなりません。この点で弱さを感じるのなら、直ちにお祈りをし、決意を強めてくださるよう善き主にこい願い、私たちがあきらめないように守ってくださるようこい願わねばなりません。私たちは、主がこの祈りを受け入れてくださるのだ、主の聖心には「私たちが聖となること」以上の大きな望みはないのだから、この祈りは主をお喜ばせするのだ、と確信しなければなりません。「実に天主のみ旨はあなたたちが聖となることにある」(テサロニケ第一4章3節)。

第三の武器は苦行です。「私のあとに従おうと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を背負って従え」(ルカ9章23節)。四旬節が近づきました。すすんで苦行を行う大変重要な時期です。断食、徹夜、長い祈りや朗読などです。注意していただきたいのは、金曜日の小斎を四旬節の間だけでなく、一年を通してまもることです。「忘れていました…」と言う人がいますが、主が金曜日に亡くなられたのを、どうして忘れることができるのでしょうか。私たちは、いつも心の中で私たちの主イエズス・キリストのことを思い、主と共に生き、主を忘れることのないようにしなければなりません。

こういったすべてにおいて、私たちは、童貞聖マリアのマントのかげで、絶え間ない祈りによって聖母のそばにいて、聖母の御取り次ぎを信頼して、すべてを行うべきです。これが、確実な方法なのです。そうすれば、祈りの答えを得ることができ、常に心が清く、また自分の状態に応じた貞潔に忠実であることができ、謙遜で天主と私たちの主イエズス・キリストに忠実であることができるのです。聖母のマントのかげにいれば安全です。聖母が、かかとでヘビの頭を踏みくだいて悪魔に勝利することに、私たちを参加させてくださいますように。アーメン。






《罪なく宿り給いし聖マリアよ、御身に寄り頼み奉る我らのために祈り給え。また、御身に寄り頼まぬ全ての人々のため、ことに、フリーメーソンのため、また、御身に依頼された人々のために、祈り給え。》

幼きイエズスの聖テレジアの最後の言葉「祈りと犠牲とを持ってだけ、私たちは教会のためになることが出来ます。...カルメルでは、私たちは霊魂を買い取るために偽のコインを偽造してはなりません。綺麗な言葉を書いたり受け取ったりすることは、しばしば偽造貨幣を交換するだけでしかありません。」

シスター・ルチア「神父様、この世を救う手段は2つあります。祈りと犠牲です。」


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聖ピオ十世会 日本 聖伝のミサ 【トリエント・ミサ】 レネー神父様のミサ聖祭の報告

2015年03月17日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 昨日と今日、レネー神父様が大阪で聖伝のミサを捧げて下さいました。御ミサの報告をご紹介いたします。

 レネー神父様のお説教は、後ほど、掲載いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
3月15日(四旬節第四主日)には、15人の方々が、
  16日(月)には7人の方々が御ミサに与るお恵みを頂きました。
 デオ・グラチアス!!

両日とも素晴らしいお説教を聞くことが出来ました。御ミサの後の食事の時には、「お説教が身にしみた」とか「そーいうー意味だったのかー」とか、カトリック信徒らしい会話がはずみました。
これらの素晴らしいお説教をもっと沢山の方々に聞いていただけたらなと思います。

16日の御ミサの後、 レネー神父様は出国される前に愛する姉妹のご家族のお見舞いに病院へ行かれ、病者の祝福をして下さいました。愛する姉妹のご家族の病気の快復と洗礼の御恵みをお祈りいたします。






《罪なく宿り給いし聖マリアよ、御身に寄り頼み奉る我らのために祈り給え。また、御身に寄り頼まぬ全ての人々のため、ことに、フリーメーソンのため、また、御身に依頼された人々のために、祈り給え。》


幼きイエズスの聖テレジアの最後の言葉「祈りと犠牲とを持ってだけ、私たちは教会のためになることが出来ます。...カルメルでは、私たちは霊魂を買い取るために偽のコインを偽造してはなりません。綺麗な言葉を書いたり受け取ったりすることは、しばしば偽造貨幣を交換するだけでしかありません。」

シスター・ルチア「神父様、この世を救う手段は2つあります。祈りと犠牲です。」


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SSPX JAPAN シュテーリン神父様 Fr Stehlin からの、秋田巡礼へのお招きの言葉

2015年03月14日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか? 今年も例年のように聖ピオ十世会では秋田に巡礼に参ります。秋田では天使の出現がありましたが、ファティマでも天使が現れました。
 99年前のファティマであった天使の出現のことを思い出しましょう。

 1916年、ルシア・ドス・サントス(9歳)と自分のいとこのフランシスコ(8歳)とジャシンタ(6歳)と共に、羊の放牧に出て羊の番をしているあいだ、春、夏、秋に3回天使の出現を受けました。天使は彼らに3回、メッセージを伝えました。

第1回目の出現
3人の羊飼いの子どもたちは、カベソの東斜面で、昼食後ロザリオを唱えて、遊びを始めたとき、オリーブの木の上に「14歳から15歳の若い青年のようで、雪よりも白く、太陽の光で透明になってあたかもクリスタルのような、とても美しい」姿を見ました。子どもたちは驚いて声も出ませんでした。彼は子供たちに近づいてきて、こう言ました。
「恐れてはなりません。私は平和の天使です。私と一緒に祈りなさい。」
天使は地面に跪き、額が地につくまで身を屈めました。超自然の動きに促されて子供たちもそのまねをし、天使の言うとおりの祈りを繰り返しました。

「わが天主よ、私は御身を信じ、礼拝し、御身に希望し、御身を愛します!御身を信じない人々、礼拝しない人々、御身に希望しない人々、御身を愛さない人々全てのために、赦しを乞い求めます。」

天使はこの祈りを3回繰り返した後、立ち上って彼らに言いました。
「このように祈りなさい。イエズスとマリアの聖心はあなたがたの嘆願の声を注意深く聞いておられます。」

第2回目の出現

夏の盛り、3人の羊飼いの子どもたちはよく行く井戸で遊んでいたとき、天使が現れてこう言ました。
「何をしているのですか?祈りなさい。たくさん祈りなさい!イエズスとマリアの聖心にはあなたがたに憐れみのご計画があります。いと高き御者に絶えず祈りと犠牲を捧げなさい。」

ルシアがどのように犠牲を捧げればよいのかと尋ねると、天使はこう答えました。

「あなたがたができるすべてのことを犠牲とし、それを、天主に対して犯される罪の償いの行いとして、また罪人の回心ための嘆願として、天主に捧げなさい。このようにしてあなたたちは祖国に平和をもたらすでしょう。私はあなたたちの国の守護の天使、ポルトガルの天使です。特に主があなたたちにお与えになる苦しみを従順に受け入れ、忍びなさい。」

第3回目の出現

秋に、3人の羊飼いの子どもたちはカベソの丘の東斜面で羊に草を食べさせていました。昼食後、彼らは丘の反対側の斜面で、第1回目の出現で天使から教えられた祈りを、跪き、額を地につけながら何度も繰り返していました。そのとき、異常な光が彼らを照らし、彼らはカリスを持った天使を見ました。カリスの上には御聖体があって、それから血がカリスの中に滴っていました。空中にカリスを浮かせたままにして、天使は子どもたちの側に跪き、彼らにもそうさせて、次の祈りを3回唱えました。

「至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、私は御身を深く礼拝いたします。私は、世界中のすべての御聖櫃の中にましまし給うイエズス・キリストのいとも尊き御体、御血、御霊魂、神性を、天主御自身が犯されている侮辱、冒涜、無関心を償うために、御身にお捧げいたします。イエズスの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳により、私はあわれな罪人の回心を御身に願います。」

すると天使は立ち上がり、カリスと御聖体を手に取って、御聖体をルシアに、カリスの御血をジャシンタとフランシスコに与えて、こう言ました。

「忘恩の人々によって恐ろしく冒涜されたイエズス・キリストの御身体と御血を食し、飲みなさい。彼らの罪の償いをし、天主をお慰めしなさい。」

天使は地にひれ伏し、子どもたちと一緒に同じ祈りを3回唱え、それから消えました。

 天使は、私たちに祈りと償いをするように励ましています。私たちは、この四旬節に、また、5月の聖母月に秋田で祈りと償いをするのはどうでしょうか?

"Sweet Heart of Mary, be the salvation of Russia, Spain, Portugal, Europe (Brazil, Canada, the United States) and the whole world."

「聖マリアの甘美なる御心よ、ロシア、ヨーロッパ、中国、韓国、日本、そして全世界の救いとなり給え。」

"By Thy pure and Immaculate Conception, O Mary, obtain for me the conversion of Russia, Spain, Portugal, Europe (Brazil, Canada, the United States +) and the whole world."

「ああ聖マリアよ、御身の清き汚れなき御宿りによりて、ロシア、ヨーロッパ、中国、韓国、日本、そして全世界の回心を得させ給え。」

「わが天主よ、私は御身を信じ、礼拝し、御身に希望し、御身を愛します!御身を信じない人々、礼拝しない人々、御身に希望しない人々、御身を愛さない人々全てのために、赦しを乞い求めます。」

「至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、私は御身を深く礼拝いたします。私は、世界中のすべての御聖櫃の中にましまし給うイエズス・キリストのいとも尊き御体、御血、御霊魂、神性を、天主御自身が犯されている侮辱、冒涜、無関心を償うために、御身にお捧げいたします。イエズスの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳により、私はあわれな罪人の回心を御身に願います。」

ああ、イエズスよ、われらの罪を赦し給え。われらを地獄の火より守り給え。また、すべての霊魂、殊に最も必要としている霊魂を、天国に導き給え。

 それでは、アジア管区長のシュテーリン神父様からの、秋田巡礼へのお招きの言葉をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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親愛なる巡礼者の皆様!

もう一度、私たちは、私たちをかくも愛して下さる聖母に、ご自分の全ての子供たちの回心と聖化を望んでおられる聖母に、子供としての尊敬を払いたいと思います。
もう一度、私たちは、私たちを導くため、すべての悪から私たちを守るため、私たちを天に導くため、巨大な力を授けられているの元后(女王)である聖母の前に、私たちの膝をかがめます。
もう一度、私たちは、聖母が明らかに大切にし、回心を望んでおられる国にある、聖母の聖堂を訪問したいと思います。また、日本のみのことではなく、さらに、秋田の聖母のメッセージは、何かファティマの継続、或いはよりうまく言い換えると、 - ファティマの聖母のメッセージの悲しい適応ではないでしょうか? 聖母は多くの涙を流しています。何故なら自分の子供たちが聖母に従うことを望まないからです、彼らが聖母からのとても厳粛な警告に注意を払わないからです、...そして世界は破滅に向かっているからです、教会の高位聖職者たちが教会の "自己破壊" 母なる教会を押しやっているからです。

しかし、何のために私たちは聖母のもとに行くのでしょうか? 何よりもまず確かに、聖母を慰めるため、聖母のお求めになっていることに答えるために、つまり、祈り、苦行をするためにです!
しかし、私たちには、はるかに重要な、さらなる別の義務があります。それは、私たちが、聖母からの呼びかけにふさわしい答えをしなければならないという義務であり、教会が今まで見た中で最も困難な状況において、多くの人々が霊魂を失っている最も危険な時代において、私たちを救う、私たちを救援する、私たちを聖人とするという聖母からの招きに答えるという義務です。

答えは非常に簡単です。聖母は私たちの母です。ですから、私たちは聖母の本当の子供でなければなりません。聖母は私たちの元后です。従って、私たちは聖母の本当のしもべに、 - さらには奴隷に - ならなければなりません! 聖母は最終の戦いにおける私達の指揮官です。そこで、聖母の兵士 - 騎士 - である必要があります。

これが私たちの巡礼のプログラムです:霊的講話を通じて、聖母が効果的に「私たちの避難所と天国に私たちを導く道」になるために、私たちの生活における聖母の役割と私たちがしなければならないこととを理解することができるように、聖母は私たちの知性を照らして下さるでしょう。私たちは、聖性へと導く最短で最も易しい道を、再発見することでしょう。それと同時に、私たちの一生をかけてなすべきこととは、聖母がいらっしゃることすら知らない聖母の子供たち、或いは、聖母のことを忘れたてしまった子供たち、或いは又、聖母を拒絶さえする子供たちの回心のために、私たちが聖母の汚れなき(インマクラータの)手にある道具となることを見いだすことでしょう。

秋田での私たちの祈りを通して私たちは心を開き、聖母の汚れなき御心を通してすべての天主の恩寵が私たちの心にしみ通り、私たちを回心させ聖化することでしょう。

毎日のロザリオの祈りによって、聖母に関する霊的読書をしてそれを黙想することによって、この巡礼を準備してください。聖ルイ・ルイ・グリニョン・ド・モンフォールや聖マキシミリアノ·コルベの全ての著作や、聖アルフォンソ・デ・リグオリの「マリアの栄光」、グァダルーペ、ルルド、ファティマなどの聖母マリアの御出現に関する本、聖母に特別な信心をもっていた聖人達の聖人伝を読んで下さい。

四旬節の聖なる時をお過ごし下さることを祈りつつ....

カール・シュテーリン神父


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Dear pilgrims!

Again we want to pay our filial honor to Our Mother, who loves us so much, who desires the conversion and sanctifcatin of all her children.
Again we fall on our knees before the Queen, who is bestowed with immense power to guide us, to protect us from all evil and lead us to heaven.
Again we want to visit her shrine in a country she visibly cherishes and wants to convert. And not only Japan, but is not Her message in Akita somehow the continuation of Fatima, or better - the sad application of Her message in Fatima? She sheds many tears, because her children don't want to obey her, they do not take care about her so solemn advertisments ... and the world goes to its ruin, and the hierarchs push Holy Mother Church to its 'autodestruction'.

But for what do we come to HER ? Certainly before all, to console her, to fulfill her demands: PRAY AND DO PENANCE!
However, we have yet another obligation, much more important: we have to give an appropiate ANSWER to HER CALL, to Her invitation to rescue, to save us, to makes us Saints in the most difficult circumstances the Church has ever seen, in the most dangerous times, where many loose their soul!

The answer is very simple: She is our Mother, so we have to be HER true children, She is Our Queen, so we have to be Her true servants, more - slaves! SHE is Our leader in the final battle, so we have to be her soldiers - HER KNIGHTS.
This is the program of Our pilgrimage: through the conferences SHE will enlighten our intellect to understand HER role in our life and what we have to do, so that SHE will effectively become "our refuge and the way which leads us to heaven". We will discover again the shortest and easiest way to holiness, but also OUR lifetask, to become instruments in Her immaculate hands for the conversion of her children, who do not even know that she exists, or who have forgotten or even rejected HER.
Through our prayers in AKITA we will open our hearts, that through HER immaculate heart ALL DIVINE GRACES will penetrate our heart so to convert and to sanctify us.

Please prepare this pilgrimage by your daily rosary, by reading and meditating spiritual literature about Our Lady: all works of Saint Louis Mary Grignion de Montfort, Saint Maximilian Kolbe, "the Glories of Mary"
of Saint Alfonsus de Liguori, the history of Her great apparitions:
GUADALUPE, LOURDES, FATIMA etc., the biography of Her saints.

Wishing you a blessed time of Lent ....
KS






《罪なく宿り給いし聖マリアよ、御身に寄り頼み奉る我らのために祈り給え。また、御身に寄り頼まぬ全ての人々のため、ことに、フリーメーソンのため、また、御身に依頼された人々のために、祈り給え。》

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日本語の良い公教要理のウェブ・サイトのリンクをご紹介します。


公教要理図解(ワグネル訳)
カトリック中央協議会編集の公教要理(1958年)
聖ピオ十世 公教要理詳解
ローマ公教要理 【使徒信経の部】
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聖ピオ十世会日本 2015年3月 聖伝のミサ(ラテン語ミサ・トリエント・ミサ)の報告

2015年03月12日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 3月の日本での聖伝のミサのご報告をいたします。
 3月19日の聖ヨゼフの祝日に向けて、アジア管区の特別な意向のために、日本に聖ピオ十世会司祭が常駐することが出来ますように、お祈りをお願いいたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【大阪】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

3月6日(初金) 至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ には13人が、
  7日(初土) 聖母の汚れなき御心の随意ミサ には15人の方々が御ミサに与るお恵みを頂きました。デオ・グラチアス!

金曜日のお説教ではイエズス様の聖心がどれほど私達を愛してくださるか、また私達がどれほどそのイエズス様をお愛ししなければならないかというお話をしていただきました。また、四旬節に何をするべきか、どう過ごすかの助言を頂きました。
イエズス様の聖心への愛ために、日々の自分の勤めを心をこめて果たし、いつでもその聖心を思い出し、 聖体拝領をし、イエズス様を愛する事を知らない人々のために祈ることを決心して、良い四旬節を過ごすよう励まされました。

土曜日のお説教ではマリア様の汚れなき御心の神秘についての黙想をいたしました。
マリア様がどれ程三位一体の御わざに協力されたか、また、今は天国でどのように私達を助けて下さっているかをお聞きしました。
あまりにも聖霊の御意志と同じ意志を持たれたが故に、聖霊の浄配と呼ばれたマリア様に、今までよりも一層より頼んで天主様の御旨を果たしたいと強く思いました。

公教要理では「天主の全能」についてご説明いただきました。
天主様はご自分の御旨を果たされるとき、道具をお使いになることが多く、道具は 良ければよいほどいいにきまっているけれども、もし私達のような粗末な道具で、天主様はその御わざを完成することがお出来になる。ということをおききし、『ホッ』としました。
またコルベ神父様が、ニエポカラヌフを司教様に紹介されるときに、「宝の部屋」として案内されたところにはたくさんの病気の修道者達がいたというお話で、苦しむ事の尊さを学びました。家に帰ってから、体調の悪い家族のことを「うちの宝」はどこいった?と話し笑いました。( *´艸`)

灰の水曜日の灰をつけて頂き、一層四旬節をよく過ごす気持ちを持てたという話を愛する兄弟姉妹から聞きました。

過酷なスケジュールのなか、日本の信徒達のために来日くださる神父様にイエズス様の聖心を感じた両日でした。

【東京】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 19人(内、子供3人)
女: 20人(内、子供1人)
計: 39人(内、子供4人)





《罪なく宿り給いし聖マリアよ、御身に寄り頼み奉る我らのために祈り給え。また、御身に寄り頼まぬ全ての人々のため、ことに、フリーメーソンのため、また、御身に依頼された人々のために、祈り給え。》

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聖ピオ十世会アジア管区 聖ヨゼフに対するノベナのお願いです

2015年03月10日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖ピオ十世会アジア管区では、いつも3月には聖ヨゼフのノベナを3回しております。3月1日から9日まで、第1回。3月10日から18日まで第2回。3月20日から28日まで第3回(感謝のノベナ)です。

 アジア管区長のシュテーリン神父様のご意向で、第2回目のノベナでは、

(6)聖ヨゼフに対する奉献の祈り

 聖ヨゼフよ、我は御身の名誉に我が身を奉献し、御身に捧げ奉る。そは御身が常に我が父、我が保護者、かつ救いの道における 我が道案内たらんがためなり。▲我がために、心の清さと内的生活を愛する心を与え給え。御身の模範に従い、天主のより大いなる栄光のために、イエズスの至聖なる聖心と聖母の汚れなき御心との一致のうちに、我が全ての行動をなさしめ給え。
 おお、至福なる聖ヨゼフよ、我がために祈り給え。我をして御身の聖なる死の平和と喜びに与るものと ならしめ給え。▲アーメン。

 の代わりに、次の「聖ヨゼフに向かいて聖ピオ十世会を奉献する祈り」を9日間唱えることとなりました。アジア管区の特別な意向のために、日本に聖ピオ十世会司祭が常駐することが出来ますように、このノベナをお捧げ下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



聖会の保護者なる聖ヨゼフに向かいて聖ピオ十世司祭兄弟会を奉献する祈り


二〇一三年三月十九日

 おお、栄(は)えある聖ヨゼフ、無原罪の童貞女の浄配、天主のおん子の養育者よ、御身は聖家族の長に任じられ、全地にあまねき聖会の天の保護者として挙げられたり。

 御身の信仰は疑念を克服し、御身の正義はその貞潔と等しく偉大なり。御身の従順は上智に奉仕し、その力強さは慎重と共に働き、その寛大さは御身の謙遜と競い給えり。

 御身は労働に打ち込む人々の模範、戦いのさなかにある人々の保証、贖い主のみわざに対抗すべく解き放たれた悪魔の恐れなり。

 御身は、そのあらゆる徳を用いて、天主なるおん子を由々しき危険より救い給いたり。また、敵からのつねに新たにされる攻撃を受けつづけるおん子の神秘体なる公教会を、御身は天よりまことに守り給う。

 願わくは御身、イエズス・キリストの群れのこの小さき部分にまなこを注ぎ給え。天主のはかり知れ得ぬご計画により、カトリック司祭職とカトリック信仰とを守護せんがため立てられたるこの共同体を。

 自らの無力を自覚し、御身の力強きご保護に対する無限の信頼に活気づけられ、おお幸いなる太祖ヨゼフよ、聖ピオ十世司祭兄弟会は、御身の栄光と徳とをいや増さんがため、その全会員と全事業とともに自らを御身に捧げ奉る。

 おお、栄光の王の惜しみなき恵みのいとも寛大なる分配者よ、願わくは御身からの返答として、この小さき共同体に、御身の父性が全教会のために獲得せるその同じ恩恵をかたじけなくも与え給わんことを。本会を御身の所有となし、その会憲に忠実になさしめ、祭壇の犠牲を生き、伝播せしめ、霊的生命もてこれを豊かならしめ、その会員らを身分に固有の聖性と貞潔のうちに確立させ、聖なる使徒的労働においてこれを強め、信仰のための戦いにおいてこれを導き、敵の罠を挫き、教会の利益のために仕えしめ給わんことを、あえて願い奉る。

 おお、我らが忠実なる仲介者よ、さらに、この慎ましき復興の軍隊をして、ローマ教皇の堅固なる支えとなさしめ給え。すなわち、「御身はキリスト、生ける天主のおん子なり」との聖ペトロの明白かつ完全なる信仰告白の内に、その兄弟らを固めるというその使命における、ローマ教皇の堅固なる支えとならんことを。

 おお、御身は、み摂理により我らの元后マリアの傍らに配され給うた御者なり、とこしえの栄光の王且つ最高司祭なるイエズス・キリストにとりてあらがえざる、御身の取り次ぎにより、願わくは、我らが、この同じイエズス・キリストの持ち給う天主性、司祭職及び王権を、その全ての最も具体的な結論において、生き且つ説教するを得んことを。おん父と聖霊とともに世々に生き、かつ統治(しろしめ)し給う天主なるイエズス・キリストによりて。

アーメン。



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