先月末、大雨の中、横浜から出てきた友人のT、と駒沢通りにある中華レストランでランチをともにした。
待ち合わせの中、Tがやって来るまで、2階から見下ろせる、東急東横線に私は頻繁に上り、下り、10数本の電車を目視していた。
ようやくやってきたTに、私の71年式の1601/4が欲しいと言われた。
唐突に。
Tはロレックスはおろか、ティソ、ミドー、エドックスレベルの機械式すら持っていない。
おそらく、ご尊父の形見であろう、キングセイコーにかつては鉄板のカレンダーを巻いていたであろう、よれよれの
80年代初頭の純正のブレスレットを着けていた。
このセイコーとそれを交換してくれないかと、T。
いやいや、それは君の御父さんの形見だろう。この1601は10万円で買ったやつだから、等価にはならないだろう。
と私は即座に返答した。
なぜ、私の1601/4が欲しいのか、聞かせてほしいと、質問した。
するとTはやりきれない顔で、3分間理由を話した。
せつない、同情し、感動した。
私の所有する個体の中で、一番低価格な個体であるが、2番目に想い出のある時計だ。
事務所のドア枠に、風貌とベゼルを打ち付けて、ジャンク扱いのようなロレックスだ。
ほとんど、着けて登場しなくなった時計だ。
それでも、そのキングセイコーと交換してほしいと言う。
私に、国産時計は似合わない。
私は翌日、私の1601/4を余っていた緑色のグラフトンの箱に入れて、宅急便で横浜に送ってやった。
きっと、Tとともに、これからも生き続けるだろう。
さようなら、僕のロレックス。
手元には、大崎善生の、『赦す人』があった。