豆の育種のマメな話

◇北海道と南米大陸に夢を描いた育種家の落穂ひろい「豆の話」
◇伊豆だより ◇恵庭散歩 ◇さすらい考
 

恵庭の碑-24、タイムカプセルを埋めた記念碑「自愛」

2021-10-08 10:41:41 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

北海道文教大学から黄金中島通りを中島方向に進む。信号を渡ると右手に恵庭市立恵明中学校(恵庭市黄金北4丁目)がある。川沿大通りと交差する手前の角地に教員住宅二棟があり、住宅裏の木立の中に小さな石碑があるのを見つけた。グラウンドから見れば校舎の左側に位置する校庭の一角であるが、道路からは見えにくい。

お断りして石碑を写真に収めた。黒御影石の碑には「自愛」の書、背面には建立の経緯が刻まれている。文字を辿ると「恵明中学校開校五周年に当たり、二十二年後の未来への夢を託してこの地にタイムカプセルを埋め、記念としてこの碑を建立した。 このカプセルは、西暦二千年五月五日午後二時を期して地上に取り出すことにする。 その日には、登校在校の生徒諸君をはじめ父母、教職員、恵明中ゆかりの人々あい集って恵明創成の往時を偲び、さらに未来への前進と発展を誓いあいたいものである。 昭和五十三年十月九日 建立者 恵明中学校開校五周年特別委員会 恵明中学校父母と教師の会 恵明中学校生徒会 書 初代校長今野良男 初代事務職員新谷新一」とある。

創立五周年の記念事業として校訓の文字を刻した石碑を建立し、新世紀の二千年子供の日に開封するタイムカプセルを埋めた歴史が読み取れる。それでは、西暦2000年(平成12年)5月5日にタイムカプセルは掘り起こされたのか? 

千歳民報(2000年5月8日)12面に以下のような記事がある。「22年目のお目覚め 恵庭恵明中 タイムカプセルのオープンセレモニー 作文・写真を手に思い出話」。当時の生徒や教職員250人が集まり、当時の校長今野良男、各学年代表、現校長水見政一の各氏が「鍬入れ」して掘り起こし、写真や作文を手に取り当時の想い出を語り合ったと言う。今野校長は挨拶で「5周年でタイムカプセル碑を建立したと言うのはあまり無い。当時の学校が燃えていた証拠。現在の生徒諸君にも創設当時のことを知ってもらいたい」と語っている。

恵明中学校は、昭和49年に恵庭中学校から分離独立し開校し、校章制定、校歌制定、校訓制定、開校記念植樹、落成記念式典など、慌ただしくも充実した創世期を経て、開校5周年記念の折にタイムカプセル碑の建設へと向かったのだろう。

◇沿革(同校HPによる)

昭和49年 恵庭中学校より分離独立し恵庭市立恵明中学校として開校

             9学級、全校生徒366名、校章制定、校歌制定

昭和50年 校訓制定「自己を愛しめ」、開校記念植樹 桜300本

昭和51年 校舎落成記念式典、札響による記念演奏会

昭和53年 開校5周年記念式典、15学級、全校生徒558名

平成12年 タイムカプセル掘り起こし

令和 3年 総勢731名

◇校訓は「自愛(自己を愛しめ)」

タイムカプセル碑の書は同校の校訓。校訓「自己を愛しめ」(自愛)とは何と難しい理念を選んだのだろう。自愛とは文字どおり自己を愛すること、他の何にもまして自己を愛し自己の幸福を願うのが自愛だとすれば、自尊に繋がりかねない。ややもすれば利己主義の源泉ともなり得る。新しく赴任した校長は解釈に悩むだろう。教師たちは生徒に「自愛」の意味を何と説いているのか聞いてみたくなった。

当校の教育目標(平成9年改訂)が、「○自ら考え、自ら学ぶ生徒、○進んで活動し、高め合う生徒、○生命を大切にし、思いやりのある生徒」と制定されていることを考えれば、「自愛」の中に「他愛(おもいやり)」を含んでいることは明らかだが、自愛と思いやりがそう簡単に結びつく概念なのだろうか?

講談社日本語大辞典を開いてみる。自愛とは ①自分を大切にすることTake care of oneself、②自分の言行を慎むこと、自重Prudence、③自分の利益を図ること、利己Selfishness の3項目が記載されている。即ち、「自愛」には自分を大切にすること、品行をつつしむ(自重)、自分の利益をはかる(利己)概念が含まれると説明しているが、思いやり概念は出てこない。

校訓を制定した意図が理解できずに調べると、日本大百科全書の解説(宇都宮芳明)「自愛とは文字どおり自己を愛することであるが、とくに他の何物にも増して自己を愛し、自己の幸福を願うのが自愛である。自愛は一般に利己主義の源泉として道徳的に悪とされるが、しかし自愛が人間の本性に基づく以上、その根絶は不可能で、それをむしろよい方向に転化すべきだという見方もある。ルソーは、自愛は人間の自然的な根本感情であり、それはもともと他人への愛を排除するものではなく、かえってそれを誘発するものだと説き、否定されなければならないのは自愛ではなくて自尊であり、高慢や虚栄や憎悪は無限の自己満足を求める自尊から生ずるとする・・・」に出会った。少し解ったような気がするが難解だ。

ある人が「自愛とは、どんな自分でもOKと丸ごと受け入れること」と述べていたが、校訓の解釈としてはこれも有りかな?

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする