スペインの南部に位置するアンダルシア(Andalucía)地方は,コバルトブルーの空,照りつける太陽,白い壁,陽気な人々,日本人が思い描くスペインを象徴するような土地柄である。その地方の一角シエラ・ネバダ(Siera Nevada)山脈の麓に,陰影の濃い歴史に満ちたグラナダ(Guranada)という町がある。
グラナダにはアルハンブラ宮殿(Palacio de la Alhambra)があり,世界中から訪れる旅人を魅了してやまない。アルハンブラ宮殿は,「イスラム最後の楽園」,粘土質の丘に建てられた要塞「赤い城」など多くの表現で称えられるが,フランシスコ・デ・イサカの詩の一節がその姿を物語っている。
・・・妻よ,お布施をあげなさい
グラナダで盲であるほどつらいことはこの世にないのだから・・・(中丸明)
詩は,宮殿内のベラの塔の入り口に刻まれている。
この宮殿を鑑賞するには,ヨーロッパ歴史に関してほんの少しの予備知識があった方が良い。711年アフリカ大陸からジブラルタル海峡を渡ったイスラム軍隊は,20数年の間にフランスのポワテイまで侵攻し,イベリア半島にイスラム国家を建設する。756年ウマイヤ朝設立,アンダルシア地方のコルドバ(Córdoba)は8世紀から11世紀にかけてイスラム国家として統治され,イスラム文化が花開いた。
キリスト教徒は,イベリア半島に侵攻してきたイスラム教徒からの解放をめざし,解放運動(レコンキスタ,国土回復戦争)を興した。レコンキスタは,1212年カステージャ,アラゴン,ナラバの連合キリスト教軍がアンダルシアに入ってムアヒッド朝を破ったのを契機に勢力を強め,イスラム勢力は撤退の道を辿り始める。
レコンキスタの勢いが増し,コルドバからもイスラム軍隊が撤退する中で,アブ・アラマールは1232年自らが君主であると宣言し1238年初代ナスル王朝君主となり,イスラム統治者の中でただ一人国王フェルナンド3世への服従を受け入れ,グラナダ王国を誕生させた。その後,グラナダ王国は254年間にわたり23人の君主が入れ替わり統治し,レコンキスタの嵐に揉まれながら小高い丘の上に要塞を築き,宮殿を建設する。
宮殿は,外部から見れば荒石積み,小丸石,煉瓦といった質素な材料の集大成であるが,内部は,タイルや化粧漆喰による装飾が精緻を極め,幾何学模様のイスラム芸術に彩られている(イスラムでは偶像崇拝はない)。この地方の一般の住宅も同じであるが,外観は重要性を持たず,中庭のみが裕福な家と貧しい家を分けているのに似ている。
また,山脈からの雪解け水を巧みに引き込み,水路,噴水など水を操っているのが特徴である。王族達は,雪解け水により空気を冷やし,風を作り,大陸性気候を和らげていたのだろう。乾燥地帯で栄えたイスラム世界が水を大事にしたことが理解できる。宮殿を訪れたのは6月の初めであったが,入場を待つ間もジリジリ照りつける太陽に辟易し,宮殿の内部でホットしたことを思い出す。
もちろん四半世紀の間には,宮殿内部で愛憎と情欲の血なまぐさい物語もあったろうが,イベリア半島におけるイスラム勢力最後のシンボルとして歴史を刻んだのである。
しかし,グラナダ陥落の時はついに訪れる。1492年ボアブデイル王(ムハマド11世)はカトリック両王(カステージャのイサベル女王と夫であるアラゴン王国フェルナンド王)に対し無血開城して,アフリカへ撤退する。レコンキスタの完了である。この年は,イサベル女王の援助受けたコロンブスが西インド諸島に到着した年にあたり,スペインが世界制覇の夢を抱いて突き進む大航海時代の幕開けの年でもあった。
ボアブデイル王は退却の途中,落日に赤く染まるアルハンブラ宮殿を遠く眺め落涙した。一説によれば,この時「戯けものめが,なにをメソメソしとるんだ,男らしく戦もしなかったくせに・・・」と母后がいさめた話が残っているが,戦っていても所詮レコンキスタの流れには勝てず,宮殿は火の海に覆われ,私達が鑑賞するアルハンブラ宮殿はなかったかも知れない。愚帝との評価もあるが,心優しいボアブデイル王がイスラム文化を現世に残したことになるのだろう。
さてここでも,キリスト教徒とイスラム教の確執を目にすることになった。