竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉雑記 色眼鏡 百七六 「生き返る」を鑑賞する

2016年06月25日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百七六 「生き返る」を鑑賞する

 今回は、「生き返る」をテーマに平安時代の古語から時代を遡り、万葉集の歌を鑑賞したいと思います。ただ、いつもの調子で、言いがかりに近い酔論ですし、また、お約束のバレ話でもあります。

 さて、平安古語に「あくがる」と云う言葉があります。この「あくがる」と云う古語の由来について、言葉は「あく+離る」と分解され、「あく」は「事・所」の意味合いを持っていたとの語源提案があります。他方、「あく」は「空く」であり、「あくがる」は「空く+離る」であるから、宙に心が離れて行く様を表す言葉であると解説するものもあります。この解釈を一歩進めますと「空く+反る」というものも現れ、「一時的に心が体から離れ、再び戻ってくる」となります。
 その古語としての標準的な意味合いは次のようなものです。
- 心が体から離れてさまよう。うわの空になる。
- どこともなく出歩く。さまよう。
- 心が離れる。疎遠になる。
 なお、現代日本語の「憧れる」とは意味合いが全くに違います。現代日本語の「憧れる」に相当する古語単語はありません。
 歴史にこの言葉を探しますと、万葉集の歌には見つけられませんでしたが、平安時代になると次のような作品に「あくがる」と云う言葉が現れて来ます。古いものでは古今和歌集巻二や貫之集に載る和歌に現れて来ますから、平安時代初期以前には「あくがる」と云う言葉は人々の間で使われるようになったと思われます。つまり、言葉が存在するのですから「心が体から離れさまよう。うわの空になる」と云う現象は、人々の間では認識されていたと推定されます。

<「あくがる」の言葉を含むもの>
 いつまでか野辺に心のあくがれむ花しちらずは千世もへぬべし (古今和歌集)
 思ひ余りわびぬる時は宿離れてあくがぬべきここちこそすれ (紀貫之集、古今六帖)
 もの思へば沢の蛍もわが身よりあくがれ出づる魂かとぞ見る (和泉式部日記)
 沢の蛍も我が身よりあくがれいづるたまかとぞ見る (後拾遺集)
 物思ふ人のたましひは,げにあくがるる物になむありける (源氏物語)
 世の中をいとはかなきものに思して,ともすればあくがれ給ふを (栄花物語)

 そうした時、「あくがる」と云う言葉は使われていませんが、男女の禁断の恋の密会で、女性が私の心は宙に舞ったと詠う歌が古今和歌集にあります。それが次の歌です。

業平朝臣の伊勢国にまかりたりける時、斎宮なりける人にいと密かに逢ひて、又の朝に人やるすべなくて思ひをりける間に、女のもとよりおこせたりける よみ人しらず
君や来し我や行きけん思ほえず夢かうつつか寝てか覚めてか

 詞書に示すように女性は伊勢神宮の斎宮の立場の人ですから、建前として斎宮に籠り、精進潔斎して神を斎祀るのが務めです。その身分と立場からして女性から男性の許に闇にまぎれて出かけて行く状況はあり得ませんし、さらに平安時代の恋愛ルールでも男が女の許を尋ねます。このような禁断の恋の歌ですから、女性は「よみ人しらず」として扱われています。ただ、ほぼ、清和天皇の皇女であり伊勢斎宮を務めた恬子内親王であろうと推定されています。身分と立場からしますと、かように際どく危険な内容を詠った歌なのです。
 このような条件の下、この歌は夜間の密会の翌朝のものですから、まず、性愛の後感がテーマです。そうした時、歌の「君や来し我や行きけん」とは、どういう状況を詠っているかと云うことが重要になります。在原業平は恬子内親王と思われる女性と確かにその女性の寝所で密会しています。有名な奈良飛鳥神社の御田植神事では豊作を予祝するものとして天下りした神の代理の神主が采女(植女)と神婚神事と云う疑似性交を行います。現在は観光客なども見学する解放された空間での祭事ですから行為はユーモラスな疑似性交でしょうが、古式では里人だけの閉鎖された社会での祀りですから神主と采女が本当に神婚儀礼を行ったと思われます。およそ、そのような神事を司るのが務めである伊勢斎宮が歌を詠ったときに、そのような神婚儀礼と云うものが歌の背景にあったのではないでしょうか。また、返歌で「闇にまどひにき」と詠いますから、男は初めての寝所や斎宮の屋敷全体にも不慣れな状況はあったと思われますから、伊勢斎宮の寝所で夜をともに過ごしたことは確実です。業平ですから女性との密会でのその行為に戸惑いがあったというものではありません。つまり、歌は夜通しの性愛の中で「私はあくがれ」という状況になりましたと詠うものなのでしょう。
 参考として、鎌倉時代の私小説「とはすかたり」で登場する前斎宮愷子内親王は伊勢から都に戻った直後に後深草院から参内のお召が掛かります。そして、周囲は前斎宮と云う立場を心配して念のため主人公の二条に夜の替え添えを命じますが、心配をよそに二条がしらけるほどに前斎宮は夜が上手であったとします。そして、その「とはすかたり」では、共寝の翌朝、後深草院は前斎宮を「桜はにほひは美しけれども枝もろく折りやすき花」と擬え、前斎宮はその夜の出来事を「夢の面影」と称します。また、この時代までに、女性たちは夜の営みを「夢」と称していますから、「夢の面影」という言葉はそのような比喩を用いたものとして解釈する必要があります。本来は、精進潔斎を務めとする伊勢斎宮ではありますが、かように神婚儀礼の実務に精通していたと思われます。足して、「とはすかたり」で示される後深草院の性癖は蕾や初花を好みに合わせて育てるのが好きだったようで、既に咲き誇る花は好みではなかったようです。後深草院の「折りやすき花」はそのような意味合いです。この愷子内親王から逆に眺めますと恬子内親王もまた咲き誇る花であったと推定されます。
 ここで、古今和歌集での「夢」と云う言葉を持つ歌を紹介します。この「夢」を夜の営みの比喩であるとすると、まめかしい歌となるのではないでしょうか。

山寺に詣でたりけるによめる 紀貫之
歌番号0117 
解釈 宿りして春の山辺に寝たる夜は夢のうちにも花ぞ散りける
私訳 春の山辺の宿に泊まって一夜を過ごしたとき、野辺に花びらが風に舞うように夜床でも貴女が舞い散りました。

題しらず 小野小町
歌番号0553 
解釈 うたた寝に恋しき人を見てしより夢てふ物は頼みそめてき
私訳 うたた寝をした時に恋しい人を夢の中に見てからは、貴方に抱かれ、女になりたいという気持ちが募って来ました。

 このような解釈を総合して歌を解釈しますと、次のようなものになります。なお、授業での伊勢物語や古今和歌集の解釈・解説ではありませんから、内容は大人のバレ話となっています。

業平朝臣の伊勢国にまかりたりける時、斎宮なりける人にいと密かに逢ひて、又の朝に人やるすべなくて思ひをりける間に、女のもとよりおこせたりける よみ人しらず
歌番号0645 
解釈 君や来し我や行きけん思ほえず夢かうつつか寝てか覚めてか
私訳 昨夜、貴方が私の体で果てたのでしょうか、それとも私が貴方によって気がいったのでしょうか。そのことは夢だったのでしょうか、それとも本当のことだったのでしょうか。

返し 業平朝臣
歌番号0646 
解釈 かき暮らす心の闇にまどひにき夢うつつとは世人定めよ
私訳 貴女を欠いて日を暮らす、その言葉の響きではありませんが、火を欠き暗くするような真っ暗な心のような、その闇の中で惑うばかりで確かなことは言えません。夢だったのか、本当のことだったのか、それは世の人の噂話に任せましょう。


 平安時代初期の段階でこのような男女の仲で際どい歌が詠われています。では、万葉集ではどうかと云うと次のような歌を見出すことが出来ます。
 当然、袴着や裳着の儀礼を経た成熟した男女ですから、「恋」や「相手を想う(=念)」と云う行為には暗黙的な約束として共寝を伴う性愛と云うものがあります。集歌2390の歌が詠うように、共寝を伴う性愛により体が何度も死んで生き返るとします。当時の死とは体から霊魂が抜けだした状態やモノを云いますから、共寝を伴う性愛により女性の体から霊魂が抜けだした状態を暗示します。ちょうどそれは、柿本人麻呂時代の表現では「死反」であり、紀貫之時代では「あくがる」と云う表現となるのでしょうか。そうしますと、先に「あくがる」は「空く+離る」と云う説を紹介しましたが、和歌では心と体との関係において「空く+反る」であるのかもしれません。

集歌2390 戀為 死為物 有 我身千遍 死反
訓読 恋するに死するものしあらませば我が身千遍(ちたび)し死し反(かへ)らまし
私訳 貴方に抱かれる恋の行いをして、そのために死ぬのでしたら、私の体は千遍も死んで生き還りましょう。

集歌603 念西 死為物尓 有麻世波 千遍曽吾者 死變益
訓読 念(おも)ふにし死しするものにあらませば千遍(ちたび)ぞ吾は死(し)し反(かへ)らまし
私訳 (人麻呂に愛された隠れ妻が詠うように)閨で貴方に抱かれて死ぬような思いをすることがあるのならば、千遍でも私は死んで生き返りましょう。

 万葉集は性愛を詠うと評論するように、男性器を太刀と比喩して性愛を詠うものがあります。ここでは太刀と云う言葉に対して縁語である死と云う言葉が使われていますが、先の「死反」と云う意味合いからしますと、女性が男性の性愛で気を宙に飛ばす状態になるでしょうと告げているのかもしれません。露骨に性愛を詠う集歌2949の歌では「得田價異 心欝悒 事計 吉為」と久しぶりの性愛で女性が男性に色々な性戯を求めていますから、肌のなじんだ関係が推測されます。それと同様に集歌2498の歌もまた肌のなじんだ関係の男女なのでしょう。さらに柿本人麻呂の歌として、歌に「手舞足踏」の詞の暗示があるのですと、剣太刀による性愛で気が宙に舞う非常なる歓喜を暗示することになります。なお、集歌2636の歌になりますと、表の刃物としての太刀と裏の隠語比喩としての太刀との言葉遊びが含まれ、性愛の激情感は弱まります。

集歌2498 剱刀 諸刃利 足踏 死々 公依
訓読 剣(つるぎ)太刀(たち)諸刃(もろは)し利(と)きし足踏みし死なば死なむよ公(きみ)し依(よ)りては
私訳 二人で寝る褥の側に置いた貴方が常に身に帯びる剣や太刀の諸刃の鋭い刃に、私が手舞足踏の詞ではありませんが、愛撫に喜びを感じて死ぬのなら死にましょう。貴方のお側に寄り添ったためなら。

集歌2636 剱刀 諸刃之於荷 去觸而所 殺鴨将死 戀管不有者
訓読 剣(つるぎ)太刀(たち)諸刃(もろは)し上(うへ)に触(ふ)れ去(い)にそ殺(し)ぬかも死なむ恋ひつつあらずは
私訳 立派な貴方の剣や太刀のような鋭い刃のような「もの」に触れてしまったら、それで殺されるなら死にましょう。これが恋の行いでないのなら。

 万葉集にも性愛を詠う歌は数ありますが、この柿本人麻呂歌集に載る集歌2390と集歌2498との歌二首を超えるものはありません。そのため、早く奈良時代前期にはこの歌を引用する歌が詠われ、また、源氏物語ではこのような歌は「生」ですからままに引用はされていませんが、それでも別の歌を引用することで人麻呂の詠う濃密な恋の世界を展開しています。

 さて、「あくがる」と云う平安時代初期には存在した言葉から出発しましたが、身体からの精神の幽体離脱を「死反」や「あくがる」と云う言葉で表現しているとことに対して精神と身体とが一体化し心身充実している状態を万葉集では「霊剋、霊寸春」(たまきはる)と表現したようです。

集歌4 玉尅春 内乃大野尓 馬數而 朝布麻須等六 其草深野
訓読 霊(たま)きはる宇智(うち)の大野に馬(むま)並(な)めて朝踏ますらむその草(くさ)深野(ふかの)
私訳 霊きはる(気が満ち充実する)、その言葉の響きではありませんが、春の宇智にある大野に馬を並べて、朝に大地を踏ますのでしょう。その草深い野で。

集歌1912 霊寸春 吾山之於尓 立霞 雖立雖座 君之随意
訓読 たまきはる吾(あ)が山し上(へ)に立つ霞立つとも坐(ゐ)とも君しまにまに
私訳 春の様に気が満ちている私、その闊達な私の住む里の山の上に立ち上る霞、その言葉の響きではありませんが、立っていても座っていても貴女を慕い思い込める、そのような私を貴女の思し召しの通りにしてください。

 当然、精神と身体とが一体化し心身充実している状態ですから、男女の夜床には似合わない言葉です。あくまで、お日様の下での言葉です。ただ、性愛の世界では女性も好みがあったようで、次の集歌3486の歌の女性のように思いっきり強く抱きしめてもらいたい人もいたようです。このような好みでは「霊寸春吾」のような心身充実し、頑強な男が好ましいのかもしれません。

集歌3486 可奈思伊毛乎 由豆加奈倍麻伎 母許呂乎乃 許登等思伊波婆 伊夜可多麻斯尓
訓読 愛(かな)し妹を弓束(ゆづか)並(な)へ巻き如己男(もころを)の事(こと)とし云はばいや扁(かた)益(ま)しに
私訳 かわいいお前を、弓束に藤蔓をしっかり巻くように抱きしめるが、それが隣の男と同じようだと云うなら、もっと強く抱いてやる。

 今回、「生き返る」と云うテーマで遊びましたが、歌を調べる中で今まで弊ブログで垂れ流して来た解釈が、相当、とぼけた解釈であったことが身に染みました。いや、実に恥ずかしいことです。学校を出ていないためからか、平安時代、「夢」と云う言葉に性交渉と云う意味があったこと、「足踏」と云う言葉を「手舞足踏」の略語とするなら狂喜乱舞と云う可能性を知りませんでした。歌で「足踏」と云う言葉を夜事の状況説明に使えば女性が失神するほどの快感と解釈するのは奈良貴族の教養でしょうね。
 いや、勉強不足でした。恥ずかしい次第です。
 ただ、これに準じて古今和歌集の歌を見直すと、相当に影響が出て来るのではないでしょうか。改めて、歌を紹介します。

山寺に詣でたりけるによめる 紀貫之
歌番号0117 
解釈 宿りして春の山辺に寝たる夜は夢のうちにも花ぞ散りける
標準 宿を取って、春の山辺に寝た夜は、夢の中にも花が散っていたことよ。
私訳 春の山辺の宿に泊まって一夜を過ごしたとき、野辺に花びらが風に舞うように夜床でも貴女が舞い散りました。


題しらず 小野小町
歌番号0553 
解釈 うたた寝に恋しき人を見てしより夢てふ物は頼みそめてき
標準 うたた寝をしていて恋しい人を見て以来、夢というものを頼みにするようになってしまった。
私訳 うたた寝をした時に恋しい貴方を夢の中に見てからは、貴方に抱かれ、女になりたいという気持ちが募って来ました。

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