竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉雑記 色眼鏡 七九 大津皇子を鑑賞する

2014年08月09日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 七九 大津皇子を鑑賞する

 今回は大津皇子を鑑賞します。
 当然、このブログで扱いますから、普段の解説や歴史観に対してもゼロベースから見直しをします。そのため、紹介するものが、時に常、日頃のものと変わる可能性がありますが、そこは期待を外されたとしてもご容赦を。
 最初に大津皇子をインターネットの「ウィキペディア」に載る解説から紹介します。

大津皇子(天智天皇2年 - 朱鳥元年10月3日)は、飛鳥時代の皇族。天武天皇の皇子。母は天智天皇皇女の大田皇女。同母姉に大来皇女。妃は天智天皇皇女の山辺皇女。

 日本書紀に載る記事を参照しますと、これが最大限の人物紹介です。今日、それ以外の大津皇子を紹介するものは、『万葉集』または『懐風藻』から皇子の人物像を引用するもの、またはそれから派生した創作小説の又引きや個人的な思い入れしかありません。そして、それらは第一次資料の位置にはありません。では、その二次的に引用されるとする『万葉集』または『懐風藻』に載る記事の信頼度はどのようなものかと云うと、同じ、ウィキペディアには続けて次のように説明します。

『万葉集』と『懐風藻』に辞世が残っているが、上代文学にはほとんど辞世の作が残らないこと、また『懐風藻』の詩については陳の後主の詩に類似の表現があることなどから、小島憲之や中西進らによって皇子の作ではなく、彼に同情した後人の仮託の作であろうとの理解がなされており、学会レベルではこの説も支持されることが多い。

 また、インターネットでは次のような解説を「アサヒネット」に見ることが出来ます。一般的な大津皇子の理解では、こちらの方の解説が受け入れられているのではないでしょうか。

斉明天皇の新羅遠征の際、九州に随行した大田皇女の腹に生まれる。長女の子として天智の寵愛を受けたが、程なく母を失う。これに伴い父大海人の正妃の地位は兄草壁皇子の母菟野皇女に移った。『懐風藻』によれば大津は身体容貌ともに優れ、幼少時は学問を好み、博識で詩文を得意としたが、長ずるに及び武を好み剣に秀でたという。天智崩後、672(天武1)年に壬申の乱が勃発した時は兄高市と共に近江にいた。大津はわずか10歳であったが、父の派遣した使者に伴われ、伊勢に逃れた父のもとへ駆けつけた。父帝の即位の後、天武8年5月の六皇子の盟約に草壁・高市・河嶋・志貴ら諸皇子と参加、互いに協力して逆らうこと無き誓いを交わした。翌年兄草壁が立太子するが、度量広大、時人に人気絶大であったという大津は父からの信頼も厚かったらしく、天武12年、21歳になると初めて朝政を委ねられた。天武14年の冠位四十八階制定の際には、草壁の浄広壱に次ぎ、浄大弐に叙せられた。翌年8月、草壁・高市と共に封400戸を加えられた。
これより先、新羅僧の行心に会った際、その骨相人臣のものにあらず、臣下の地位に留まれば非業の死を遂げるであろうと予言され、ひそかに謀反の計画を練り始めたという(懐風藻)。天武15年(686)9.9、父帝が崩じ、翌月2日、謀反が発覚したとして一味30余人と共に捕えられた。『懐風藻』によれば謀反を密告したのは莫逆の友川嶋皇子であったという。連座者の中には伊吉連博徳、大舎人中臣臣麻呂・巨勢多益須(のち式部卿)、新羅沙門行心などの名が見える。翌3日、訳語田の家で死を賜う(24歳)。 妃の山辺皇女が殉死した。これ以前に大津は密かに伊勢に下り、姉の斎宮大伯皇女(大来皇女)に会ったことが万葉に見える(大来皇女の御作歌02/0105・0106)。また大来皇女の哀傷御作歌(02/0165・0166)の題詞には大津皇子の屍を葛城二上山に移葬した旨見える。同月29日には連座者の処遇が決定しているが、帳内1名を除き無罪とされ、新羅僧行心は飛騨国に移配するという軽い処分で済んでいる。このことから、大津の謀反は事実無根ではないにせよ、皇后ら草壁皇子擁立派による謀略の匂いが強いとされている。死に臨んでは磐余池で詠んだ歌(03/0416)が伝わるが、皇子に仮託した後世の作とする説もある。『日本書紀』に「詩賦の興ること、大津より始まる」とあり、『懐風藻』には「臨終一絶」など4篇の詩を残す。但し臨終の詩は、その原典が『浄名玄論略述』という天平19年以前成立の書に引用されており(小島憲之)、即ち模倣作か後世の偽作であることが明らかである。万葉には他に愛人の石川郎女を巡る歌(02/0107・109)、黄葉の歌(08/1512)が見える。

 この解説もまた『万葉集』と『懐風藻』とを大津皇子の人物像を説明する根拠としています。ところが、「アサヒネット」もまた、その解説に苦労をします。解説の前半は『懐風藻』に載る略歴を引用して説明しますが、その後半では小島憲之氏の研究成果を引用し、『懐風藻』に載る大津皇子の作品集は皇子自身のものか、どうか、疑わしいとします。およそ、「ウィキペディア」も「アサヒネット」も共に『懐風藻』を真摯に研究すると、その内容に疑義を持たざるを得ないとします。
 さて、その『懐風藻』について紹介しますと、『懐風藻』は序文に「于時天平勝寶三年歳在辛卯冬十一月也」と云う記述を持つ、奈良時代中期に編まれた現代に伝来する日本最古の漢詩集です。ただし、現在に伝わる『伝懐風藻』と原初の『原懐風藻』が同等なものかと云うとそうではありません。その『伝懐風藻』は長久二年(1041)に文章生惟宗孝言が書写し、それをテクストとして書写した暦応四年(1341)の日付を持つ蓮華王院蔵書本として紹介されるものを天和四年(1684)になって木版本として刊行されたものです。そのため、『原懐風藻』は失われた詩歌集ですし、文章生惟宗孝言が書写本もまた失われた詩歌集です。ここに現代に伝わる『伝懐風藻』に疑義が生じる由縁があります。
 『懐風藻』の序文を読み解きますと、『懐風藻』は六四人の人々が詠った漢詩一百二十篇の詩歌集であり、作品の最初にその作歌者の冠位や人物像を紹介した「姓名并顯爵里」を持つとその序文で宣言しています。一方、『伝懐風藻』は確かに六四人の人々が詠った漢詩を載せてはいますが、それは一百九篇(五編と称し一篇しかないものと、他に一篇が完全体ではないものがある)のみで、また、「姓名并顯爵里」を示すのは八人のみです。なお、『伝懐風藻』は最初の四人について「姓名并顯爵里」を連続して載せますが、五人目の中臣朝臣大島からは 「二首,自茲以降諸人未得傳記」と注記し、人物像などは不明とします。ただし、実際にはそれ以降も不連続で四人の人物については「姓名并顯爵里」を載せています。従いまして、現在に伝わる『伝懐風藻』が天平勝寶三年に編まれたとされる『原懐風藻』と一致するか、どうかは不明なのです。さらに、『伝懐風藻』は奈良時代中期、孝謙天皇の時代のものとしては特異に反天武天皇色の濃い編纂がなされています。そのため、本当に奈良時代中期に編まれたか、どうかも不明なのです。ちょうど、現在の光明皇后伝説が鎌倉時代になって東大寺・興福寺復興運動と共に寄付募集のために生まれたのと同じように、奈良時代末期から平安時代初期、桓武天皇の時代頃(治世781-806)に、藤原氏、それも、祖となる藤原不比等の宣伝のために改訂された可能性があるのです。これらの背景から『伝懐風藻』の編者についての推測では、大友皇子の曽孫で葛野王の孫である淡海三船ではないかと目されていますが、『原懐風藻』の姿自体が不明ですので諸説存在します。従いまして『伝懐風藻』から得られる大津皇子の情報が史実なのか、小説なのか、その区別が困難なのです。
 なお、『日本書紀』などの公式文書では大津皇子は天武天皇の妃大田皇女の二番目の長男となる御子で、天武天皇から見た場合、吉野盟約に従い序列第二位の皇子です。『伝懐風藻』には「皇子者、淨御原帝之長子也」とありますが、これは、正確には「妃大田皇女の長子」と読むべき記事となります。不正ではありませんが、読者が誤解することを意識して作られた文章と考えて下さい。『日本書紀』などの公式文書では「淨御原帝之長子」とは持統天皇時代に太政大臣を務めた高市皇子です。草壁皇子でも、大津皇子でもありません。ここからして、『伝懐風藻』は奈良時代中期に編まれたものではないことが推測されます。『懐風藻』の同様な例では葛野王の「爵里」の記事も読者が誤解することを意識して作られた文章です。このように読者の誤読を意図し、史実ではない事柄等を多々織り込まれているのが『伝懐風藻』の特徴です。この背景があるため、漢文を理解出来る良心的な国文学研究者は『伝懐風藻』は詩歌以外は取り扱わないようです。
 もう一つ、その序文に「龍潛王子翔雲鶴於風筆」と云う文章があります。この「龍潛王子」の言葉は大津皇子を意味しますが、これが困った事態を引き起こします。実は「翔雲鶴於風筆」の言葉は漢詩作品番号六「七言 述志」の作品から取った言葉なのですが、その作品は最初の二句は大津皇子のもので、後の二句は後年に不完全な文章を残念に思い、連句されたものなのです。言葉はその連句された部分から得られたものです。この背景があるのにかかわらず、その作品では、序での言葉、詩題である「述志」、詩の詠う世界が一致しないのです。およそ、詩歌編纂者が詩歌の鑑賞が出来ないと云う非常に不思議な事態を引き起こしているのです。これらから「アサヒネット」の解説では「即ち模倣作か後世の偽作であることが明らかである」と言わざるを得ないのです。(注意:文末に懐風藻の引用部分を載せます)
 さらに参考情報として『日本書紀』には大津皇子に関して次のような記事がありますが、この記事の存在がまた『日本書紀』改竄説を引き起こす要因となっています。日本書紀を改竄した人物は、どうも、日本人ではなかったようです。日本の古くからの風習では高貴な皇族の死罪の場合、形式上、自宅で自死と云う形を取ります。一方、『日本書紀』を改竄した人物はその日本の慣習を知らなかったため、中国の刑罰執行例に従って市場での公開死刑を想定したようです。それで「妃皇女山辺被髪徒跣。奔赴殉焉」と云う文章を織り込むことになったと推測します。これは『懐風藻』に載る辞世の詩「臨終一絶」に罪があるのかもしれません。歌の景色は市場での公開死刑を予告しています。およそ、『伝懐風藻』は天平年間以降に中国より伝来した「臨刑詩」を模倣した作品を大津皇子の作品として載せ、その模倣した作品を載せた『伝懐風藻』から『日本書紀』の記事の一部が創られています。古代史の資料にはこのような時代の要請による改竄や創作が織り込まれていることを前提に、解釈をしていく必要があるようです。

『日本書紀』より抜粋
賜死皇子大津於訳語田舍。時年二十四。妃皇女山辺被髪徒跣。奔赴殉焉。見者皆歔欷。皇子大津。天渟中原瀛真人天皇第三子也。容止墻岸。音辞俊朗。為天命開別天皇所愛。及長弁有才学。尤愛文筆。詩賦之興自大津始也。

 困りました。唯一、大津皇子の人物像を示す『懐風藻』の記事は信頼の置けるものではない疑義が生じました。つまり、補強や裏付資料が無い限り、使えない創作された資料のようです。そして、同時に『日本書紀』の記事にも疑惑が生じました。
 では、『万葉集』はどうでしょうか。その『万葉集』には次のような作品を見ることが出来ます。作品の鑑賞では、一般的な訓読みと意訳として、例によって『万葉集全訳注原文付(中西進 講談社文庫)』を紹介し、それに私訓と私訳を対比として付けます。今回は、原文の漢字の扱いで大きく解釈が違うものがありますので、そこに注目して下さい。

大津皇子竊下於伊勢神宮上来時、大伯皇女御作謌二首
標訓 大津皇子の竊(ひそ)かに伊勢の神宮に下りて上り来ましし時に、大伯皇女の御(かた)りて作(つく)らしし歌二首
集歌105 吾勢枯乎 倭邊遺登 佐夜深而 鷄鳴露尓 吾立所霑之
訓読 わが背子を大和へ遣(や)るとさ夜更けて暁(あかとき)露(つゆ)にわれ立ち濡れし
意訳 わが背子を大和に送るとて、夜もふけ、やがて明方の露に濡れるまで、私は立ちつづけたことであった。
私訓 吾が背子を大和へ遣るとさ夜更けて暁(あかとき)露(つゆ)に吾(われ)立ち濡れし
私訳 私の愛しい貴方を大和に送ろうと思うと、二人の夜はいつしか深けていき、その早朝に去って往く貴方を見送る私は夜露にも立ち濡れてしまった。

集歌106 二人行杼 去過難寸 秋山乎 如何君之 獨越武
訓読 二人行けど行き過ぎ難き秋山をいかにか君が独り越ゆらむ
意訳 二人でいってさえ越えがたい秋の山を、どのようにしてあなたは今一人で越えていることだろう。
私訓 二人行けど去き過ぎ難き秋山を如何にか君し独り越ゆらむ
私訳 二人で行っても思いが募って往き過ぎるのが難しい秋の二上山を、どのように貴方は私を置いて一人で越えて往くのでしょうか。

大津皇子贈石川郎女御謌一首
標訓 大津皇子の石川郎女に贈る御(かた)りし歌一首
集歌107 足日木乃 山之四付二 妹待跡 吾立所沽 山之四附二
訓読 あしひきの山のしづくに妹待つと吾立ち濡れし山のしづくに
意訳 あしひきの山の雫に、妹を待つとて私は立ちつづけて濡れたことだ。山の雫に。
試訓 あしひきの山し雌伏に妹待つと吾立ちそ沽(か)れ山し雌伏に
試訳 「葦や檜の茂る山の裾野で愛しい貴女を待っている」と伝えたので、私は辛抱してじっと立って待っている。山の裾野で。
注意 原文の「吾立所沽」の「沽」は、一般に「沾」の誤記として「吾立ち沾(ぬ)れぬ」と訓みます。これに呼応して「山之四附二」は「山の雫に」と訓むようになり、歌意が全く変わります。

石川郎女奉和謌一首
標訓 石川郎女の和(こた)へ奉(たてまつ)れる歌一首
集歌108 吾乎待跡 君之沽計武 足日木能 山之四附二 成益物乎
訓読 吾を待つと君が濡れけむあしひきの山のしづくに成らましものを
意訳 私を待つとてあなたがお濡れになったという山のしづくに、私はなりたいものです。
試訓 吾を待つと君し沽(か)れけむあしひきの山し雌伏にならましものを
試訳 「私を待っている」と貴方がじっと辛抱して待っている、葦や檜の生える山の裾野に私が行ければ良いのですが。
注意 原文の「君之沽計武」の「沽」は、一般に「沾」の誤記として「君が沾(ぬ)れけむ」と訓みます。これに呼応して「山之四附二」は「山の雫に」と訓むようになり、歌意が全く変わります。

大津皇子竊婚石川女郎時、津守連通占露其事、皇子御作謌一首
標訓 大津皇子の竊(ひそ)かに石川女郎と婚(まぐは)ひし時に、津守連通の其の事を占へ露(あら)はすに、皇子の御(かた)りて作(つく)らしし歌一首
集歌109 大船之 津守之占尓 将告登波 益為尓知而 我二人宿之
訓読 大船の津守が占(うら)に告(の)らむとはまさしに知りてわが二人宿(ね)し
意訳 大船の泊(とま)る津守が占いに現わすだろうことを、まさしく知りながら私は二人で寝たことだ。
私訓 大船し津守し占に告らむとはまさしに知りて我が二人宿(ね)し
私訳 大船が泊まるという難波の湊の住吉神社の津守の神のお告げに出て人が知るように、貴女の周囲の人が、私が貴女の夫だと噂することを確信して、私は愛しい貴女と同衾したのです。

日並皇子尊贈賜石川女郎御謌一首 女郎字曰大名兒也
標訓 日並皇子尊の石川女郎に贈り賜はる御歌一首
追訓 女郎(いらつめ)の字(あさな)は大名兒(おほなご)といへり。
集歌110 大名兒 彼方野邊尓 苅草乃 束之間毛 吾忘目八
訓読 大名児(おほなご)が彼方(をちかた)野辺に刈る草(かや)の束(つか)の間(あひだ)もわが忘れめや
意訳 大名児が遠くの野辺で刈る草の、ほんの束の間も私は忘れるなどということがあろうか。
私訓 大名児(おほなご)し彼方(をちかた)野辺(のへ)に刈る草(かや)の束(つか)し間(あひだ)も吾(われ)忘れめや
私訳 大名児よ。新嘗祭の準備で忙しく遠くの野辺で束草を刈るように、ここのところ逢えないが束の間も私は貴女を忘れることがあるでしょうか。
注意 標の万葉仮名の「大名兒」を漢字表記すると「媼子」となります。つまり、石川女郎とは石川媼子(蘇我媼子)と表記されます。この石川媼子なる人物は、歴史では藤原不比等の正妻で房前の母親です。また、蘇我媼子は皇子の母方親族ですから日並皇子尊の着袴儀での添臥を行ったと考えられます。つまり、初めての女性かも知れませんが、恋人ではありません。

 訓読と私訓を紹介しました。当然、「山之四付二」の「付」は「ツク」と訓むべきであって、音読みで「フ」と読むのは間違いであるとの指摘があると思います。『万葉集』、『新撰万葉集』、『土佐日記』などの手持ちの資料や万葉仮名一覧には大和言葉の「ツ」または「フ」の発音に「付(附)」の文字を使った例はありません。
 ただ、原文の「吾立所沽」に対しては収まりが良いことは確かだと思います。逆に「付」を「ツク」と訓むと原文の「沽」では収まりが悪く、「沾」と文字を訂正し「濡れる」と解釈する方が良くなります。本ブログは『西本願寺本準拠万葉集』を鑑賞すると云う立場を貫いていますから、誤記説や脱字説は採用しません。『西本願寺本準拠万葉集』の原文の範囲でのみ鑑賞をしています。
以下、当ブログの立場での鑑賞です。
 『万葉集』の大津皇子に関する歌の鑑賞では、人々の前提条件に『懐風藻』に載る大津皇子の偶像があったと推測します。『伝懐風藻』では大津皇子に対して「長子」や「太子」と云う言葉を使い、本来なら皇位を継ぐべき人物であったが非業の死をとげたとの解釈を誘導します。ところが、説明しましたように「長子」や「太子」は創作の言葉です。正式の身分証明書を持ち正規の制服を着た人物が「消防署から来ました」と云えば正統な話ですが、私的な会社の身分証明書と制服を着て「消防署の方から来ました」と云えば、これは「詐欺」の始まりです。つまり、『伝懐風藻』は「詐欺」の始まり的な文章を載せた詩歌集であると知り、これを前提に『万葉集』の歌を解釈する必要があるのです。
およそ、『伝懐風藻』に載る大津皇子の偶像を排除すると、万葉集歌の解釈はその歌だけに頼る必要があります。また、大津皇子の時代性を考えると万葉集に載る歌自体が、その表記方法や和歌として整った姿からしますと大津皇子の時代のものかどうかも不確かなものになります。(参考として、柿本人麻呂歌への略体歌と非略体歌の論議での時代性について)
 また、怨霊問題を提起する場合、太平で暇な時代には怨霊は世の中を走り回りますが、平安末期から江戸初期の時代、幕末から昭和三十年代、このような激動の時代には怨霊なるものは、どこかに消え失せますし、奈良時代に怨霊の背景となる地獄思想自体があったか、どうかも不明です。従いまして、万葉集歌に怨霊となった人の心を安らげると云う思想があったかどうかも不明ですし、思想史を考えますとないと考えます。なお、ここでは、死を悼む気持ちと怨霊鎮魂とは違うものと考えます。
 この視点から、紹介した歌は大津皇子物語的なものが奈良時代に創られており、正式な葬送儀礼が為されなかった皇子の死を悼み、物語歌からの転用・編集の成果物と想像します。当時の死者への儀礼として、若い女性は男に愛され子を産める体(=濡れる体)をしていたと讃えますし、男は多くの女を愛し抱いたと讃えます。このような視点で、生前に讃えるべき業績・功績がない人物への挽歌の内容を鑑賞していただければと考えます。残念ながら、儀礼の背景からすると大津皇子は「不明の人物」であったこと以外、不明な人物です。付け加えると、草壁皇子もまたしかりです。
 なお、このような古典文学のテクストを歴史や他方面の資料と照合・点検し鑑賞すると云うことは素人の余技の範疇であって、学問ではありません。集歌107の歌に使われる「付」と「附」の文字の使い分けを全万葉集歌との比較を通じて厳密解釈することや、江戸期以降の著名な注釈を比較することが学問では大切です。この緻密さが重要です。
 最後に、引用した『懐風藻』の資料を以下に紹介します。

<懐風藻 序>より抜粋
資料1
凡一百二十篇、勒成一卷。作者六十四人、具題姓名并顯爵里・冠于篇首
凡そ一百二十篇、勒して一卷と成す。作者六十四人、具さに姓名を題し并せて爵里を顯はして、篇首に冠らしむ。

資料2
龍潛王子翔雲鶴於風筆。鳳翥天皇泛月舟於霧渚。神納言之悲白鬢、藤太政之詠玄造       
龍潛の王子、雲鶴を風筆に翔らし、鳳翥の天皇、月舟を霧渚に泛ぶ。神納言が白鬢を悲しみ、藤太政が玄造を詠ぜる。

参照記事
<懐風藻 大津皇子 四首> より引用
皇子者、淨御原帝之長子也 皇子は淨御原帝の長子なり
狀貌魁梧、器宇峻遠 貌の狀は魁梧にして、器は宇峻遠
幼年好學、博覽而能屬文 幼年にして學を好み、博覽にして能く文を屬す
及壯愛武、多力而能撃劍 壯に及よびて武を愛し、力は多にして能く劍を撃つ
性頗放蕩、不拘法度 性頗ぶる放蕩にして、法度に拘らず
降節禮士、由是人多附託 節を降して士を禮す、是の由に人多く附託す
時、有新羅僧行心、解天文卜筮 時に、新羅の僧行心有り、天文卜筮を解す
詔皇子曰 皇子に詔げて曰く、
太子骨法、不是人臣之相 太子骨法、是れ人臣の相にあらず
以此久在下位、恐不全身 此を以つて久しく下位に在るは恐くは身を全せず
因進逆謀、迷此詿誤 因りて逆謀に進む、此の詿誤に迷ひて
遂圖不軌、鳴呼惜哉 遂に不軌を図る、鳴呼惜しいかな
蘊彼良才、不以忠孝保身 彼の良才を蘊みて、忠孝を以つて身を保たず
近此奸豎、卒以戮辱自終 此の奸豎に近づきて、卒に戮辱を以つて自から終る
古人慎交遊之意、因以深哉 古人の交遊を慎しむの意、因りて以つて深きかな
時、年二十四 時に、年二十四

作品番号四
五言 春苑言宴 一首     春苑宴を言(うた)ふ
開衿臨靈沼         衿を開きて靈沼に臨み
游目步金苑         目を游せて金苑に步す
澄清苔水深         澄清 苔水深く
晻曖霞峰遠         晻曖 霞峰遠し
驚波共絃響         驚波 絃共に響き
哢鳥與風聞         哢鳥 風與に聞ゆ
群公倒載歸         群公 倒に載せて歸る
彭澤宴誰論         彭澤の宴誰か論ぜむ

作品番号五
五言 游獵 一首   獵に游ぶ
朝擇三能士         朝に三能の士を擇び
暮開萬騎筵         暮に萬騎の筵を開く
喫臠俱豁矣         臠を喫して俱に豁矣
傾盞共陶然         盞を傾けて共に陶然
月弓輝谷裏         月弓 谷裏に輝き
雲旌張嶺前         雲旌 嶺前に張る
曦光巳陰山         曦光 巳に山に陰る
壯士且留連         壯士 且く留連す

作品番号六
七言 述志     志を述ぶ
天紙風筆畫雲鶴       天紙風筆 雲鶴を画き
山機霜杼織葉錦       山機霜杼 葉錦を織る
[後人聯句]         [後人、句を聯ぐ]
赤雀含書時不至       赤雀 書を含みて 時に至らず
潛龍勿用未安寢       潛龍 用ゐること勿く 未だ安寢せず

作品番号七
五言 臨終 一絶   終ひに臨む
金烏臨西舍         金烏 西舍に臨み
鼓聲催短命         鼓聲 短命を催す
泉路無賓主         泉路 賓主は無し
此夕誰家向         此夕 誰家に向ふ (注:「此夕向誰家」であるべき)

<懐風藻 河島皇子 一首>より引用
皇子者、淡海帝之第二子也 皇子は淡海帝の第二子なり
志懷溫裕、局量弘雅 志懷溫裕、局量弘雅
始與大津皇子、為莫逆之契 始め大津皇子と莫逆の契りをなし
及津謀逆、島則告變 津の逆を謀るに及びて、島則ち變を告ぐ (注:津とは大津皇子)
朝廷嘉其忠正 朝廷其の忠正を嘉し
朋友薄其才情 朋友其の才情は薄し
議者未詳厚薄 議者未だ厚薄を詳かにせず
然余以為 然、余おもへらく
忘私好而奉公者 私好を忘れて公に奉ずる者は
忠臣之雅事 忠臣の雅事
背君親而厚交者 君親に背きて交を厚する者は
悖之流耳 悖の流のみ
但、未盡爭友之益 但し、未だ爭友の益を盡さざるに
而陷其塗炭者、余亦疑之 其の塗炭に陷るる者は、余またこれを疑う
位終于淨大參 位淨大參に終ふ
時年三十五 時に年三十五
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