竹取翁と万葉集のお勉強

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遣新羅使歌を鑑賞する 筑紫より廻り来りて海路より京に入らむ歌

2010年02月19日 | 万葉集 雑記
筑紫より廻り来りて海路より京に入らむとし、播磨國の家嶋に到りし時に作れる歌五首
 可能性として天平九年正月、大使は従五位下阿倍朝臣継麻呂(途中、病死)

 集歌 3719の歌に「言ひしを年の経ぬらく」を捉えての天平八年四月に新羅に派遣された遣新羅大使阿倍継麻呂の一行です。帰路の途中に大使阿倍継麻呂は津島で停泊中に病没し、副使の大伴三仲は伝染病に罹病したために奈良の京に入ることなく配下を含めて四十名余りが足止めにされています。このような支障があったために、例年ですと十二月中に帰国すべきところが遅れ、年を越したものと思われます。

廻来筑紫海路入京、到播磨國家嶋之時作歌五首

標訓 筑紫より廻(まは)り来りて海路(うなぢ)より京(みやこ)に入らむとし、播磨國の家嶋に到りし時に作れる歌五首


集歌 3718 伊敝之麻波 奈尓許曽安里家礼 宇奈波良乎 安我古非伎都流 伊毛母安良奈久尓

訓読 家島(いへしま)は名にこそありけれ海原(うなはら)を吾(あ)が恋ひ来つる妹もあらなくに

私訳 私の家、家島は名だけにあるようです。海原を私が恋しく還って来たのだが、ここには私の貴女がいないので、


集歌 3719 久左麻久良 多婢尓比左之久 安良米也等 伊毛尓伊比之乎 等之能倍奴良久

訓読 草枕旅に久しくあらめやと妹に云ひしを年の経(へ)ぬらく

私訳 草を枕にするような旅は長くはないでしょうと、貴女に云ったのですが新しい年を経てしまった。


集歌 3720 和伎毛故乎 由伎弖波也美武 安波治之麻 久毛為尓見延奴 伊敝都久良之母

訓読 吾妹子を行きて早(はや)見む淡路島雲居に見えぬ家つくらしも

私訳 私の愛しい貴女の所に行って早く逢いたいと、淡路島の雲の彼方に見える、家に着くらしい。


集歌 3721 奴婆多麻能 欲安可之母布弥波 許藝由可奈 美都能波麻末都 麻知故非奴良武

訓読 ぬばたまの読ぬばたまの夜(よ)明(あか)しも船は漕ぎ行かな御津(みつ)の浜松待ち恋ひぬらむ

私訳 漆黒の夜を明かしても船よ漕ぎ行こう、御津の浜松は私たちを待ち焦がれているでしょう。


集歌 3722 大伴乃 美津能等麻里尓 布祢波弖々 多都多能山乎 伊都可故延伊加武

訓読 大伴の御津(みつ)の泊りに船(ふな)泊(は)てて龍田(たつた)の山をいつか越え行かむ

私訳 大伴の御津の泊りに船を停泊させて、龍田の山を朝廷の帰国の報告のお召があって何時に越えて行くのだろう。

 和歌を和歌として楽しんで、その感じた季節感に対して素直に歴代の遣新羅使の日程と照らし合わせると、このような酔論が導き出されました。さて、色々と酔論をしましたが、皆さんは、どのように感じられましたか。このような解釈も成り立つとすると、まだまだ、万葉集の解釈は奥が深いようですし、普段の万葉集の解説には少し照れるところがあります。

 最後に単純な疑問があります。万葉集の研究家は「万葉集の目録の成立時期とその製作者」を調査・比定する作業は、未だに最終の結論を得ていないことを知っています。さらに、その「万葉集の目録の成立時期とその製作者」を調査・比定する作業の前提条件になるべき作業としての原万葉集自体が二十巻本であるのか、どうかや、その成立後の変遷自体を調査・比定する作業自体が、現在も行われていることを知っています。
 こうしたとき、「万葉集の目録」が絶対性を持って正しいものとして、その目録から万葉集の本文を解釈する行為は、学問的に成り立つのでしょうか。万葉集の目録は信頼性が担保されていないと云う認識が万葉集の研究者の間に存在するとき、目録に示す天平八年六月から判断して万葉集の原文の歌の季節感が異常であるとか、誤記や誤字であると云うような議論は、どうして成立するのでしょうか。学校を出ていない作業員には、どうしても、理解出来ない世界です。
 ご存知のように、現在の多数決での「遣新羅使歌」の研究や解説は、「万葉集の目録」に記載される「天平八年六月」の年月を前提に議論されています。


 長い間、お付き合い頂きありがとうございました。
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