竹取翁と万葉集のお勉強

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遣新羅使歌を鑑賞する 麻里布の浦の歌八首

2010年02月06日 | 万葉集 雑記
周防國の玖河郡の麻里布の浦を行きし時に作れる歌八首
 可能性として天平四年七月上旬 大使は従五位下角朝臣家主

 この麻里布の浦の歌八首と次の大嶋の鳴門の歌二首は、一組の歌群として考えるのが良いのかもしれません。「大嶋の鳴門」は、現在は周防大島と云われる屋代島筆崎と本土の大畠との間の水道で、当時の瀬戸内海地廻り航路の最大の難所でした。現在の倉橋島である長門の津に停泊すると、必然に通過しなくてはいけません。遣新羅使船は大型の帆船ですから潮の流れと風向を見定めて、この「大嶋の鳴門」を通過します。この潮待ちや風待ちをしたのが「麻里布の浦」です。
 当然、当時の風習で、交通の難所を通過する場合は、その土地を寿ぐ必要があります。麻里布の浦の歌八首は上陸をしての歌ではありませんから、沖合での潮待ちや風待ちでの船上の歌です。その船上から眺めることが出来て、「大嶋の鳴門」の近傍です。すると、現在は岩国市中心部の麻里布を「麻里布の浦」と解釈するようですが、倉橋島から九州へ抜けるルートを考えると、前島・福島辺りが相応しいのではないでしょうか。
 そして、この大嶋の鳴門(大畠瀬戸)の難所を抜け、伊予灘へ出てから祝島を過ぎると熊毛の浦(室積湾)です。
 当時、長門の津は外交航路の造船所でした、天平四年の遣新羅使は新羅大使を本国まで送って行くのが任務でしたから、長門の津で修理中であった新羅大使が乗って来た船と船員を受け取るために瀬戸内海地廻り航路を採用したのかもしれません。また、その道中で、それぞれの名所での新羅大使との風流ですが、漢詩は伝わらずに和歌だけが伝わったのかもしれません。その推定で、天平四年七月上旬です。

周防國玖河郡麻里布浦行之時作歌八首
標訓 周防國の玖河郡(くかのこほり)の麻里布(まりふ)の浦を行きし時に作れる歌八首

集歌3630 真可治奴伎 布祢之由加受波 見礼杼安可奴 麻里布能宇良尓 也杼里世麻之乎

訓読 真舵(まかぢ)貫(ぬ)き船し行かずは見れど飽かぬ麻里布(まりふ)の浦に宿りせましを

私訳 艫に立派な舵を挿し下ろす大船は行くことができない。見ていて飽きない麻里布の浦に泊まっていきたのですが。


集歌3631 伊都之可母 見牟等於毛比師 安波之麻乎 与曽尓也故非無 由久与思於奈美

訓読 いつしかも見むと思ひし粟島(あはしま)を外(よそ)にや恋ひむ行くよしをなみ

私訳 いつかは見ようと思う粟島を遠くから見ましょう。見たいと思っても行く方法がないので。


集歌3632 大船尓 可之布里多弖天 波麻藝欲伎 麻里布能宇良尓 也杼里可世麻之

訓読 大船にかし振り立てて浜清き麻里布(まりふ)の浦に宿りかせまし

私訳 大船に舵を抜き起して、浜が清い麻里布の浦に泊まっていきたのですが。


集歌3633 安波思麻能 安波自等於毛布 伊毛尓安礼也 夜須伊毛祢受弖 安我故非和多流

訓読 粟島(あはしま)の逢はじと思ふ妹にあれや安寝(やすい)も寝ずて吾(あ)が恋ひわたる

私訳 粟島の名のような私が逢はないと思うような貴女でしょうか。貴女のことを思い浮かべると安眠することも出来なくて、私は貴女に恋しています。


集歌3634 筑紫道能 可太能於保之麻 思末志久母 見祢婆古非思吉 伊毛乎於伎弖伎奴

訓読 筑紫(つくし)道(ぢ)の可太(かだ)の大島しましくも見ねば恋しき妹を置きて来ぬ

私訳 筑紫に行く可太の大島(おほしま)。しましく、逢わないからか恋しい貴女を置いて来た。


集歌3635 伊毛我伊敝治 知可久安里世婆 見礼杼安可奴 麻里布能宇良乎 見世麻思毛能乎

訓読 妹が家路(いへぢ)近くありせば見れど飽かぬ麻里布(まりふ)の浦を見せましものを

私訳 貴女の家に行く路近くにあったならば、見ていても飽くことのない麻里布の浦を見せたいのですが。


集歌3636 伊敝妣等波 可敝里波也許等 伊波比之麻 伊波比麻都良牟 多妣由久和礼乎

訓読 家人は帰り早来(はやこ)と伊波比島(いはひしま)斎(いは)ひ待つらむ旅行く我れを

私訳 家に残る人は早く帰って来なさいと、伊波比島、その斎って待つでしょう旅を行く私たちを。


集歌3637 久左麻久良 多妣由久比等乎 伊波比之麻 伊久与布流末弖 伊波比伎尓家牟

訓読 草枕旅行く人を伊波比島(いはひしま)幾代(いくよ)経(へ)るまで斎(いは)ひ来にけむ

私訳 草を枕にするような旅を行く人を斎う、その伊波比島。何代ほども、斎って来たのだろう。


大嶋の鳴門を過ぎて再宿(ふたよ)を經(へ)し後に、追ひて作れる歌二首

 集歌3622の歌の標と集歌3638の歌の標から、長門の浦を夜に出航して沖合で待機していて夜明けを待って、大嶋の鳴門(大畠瀬戸)の難所を航行したと推測されます。そうした時の「經再宿之後」ですと、これらの歌が詠われたのは、熊毛の浦で舶泊りした翌日となります。ちょうど、穴門の鳴門(関門海峡)を通過するような頃合いでしょうか。これらの歌は、二つの瀬戸内海の難所を通過した時の安堵感での歌となるのでしょうか。
 すると、この歌での「鳴門のうづ潮」は関門海峡のうづ潮になりますので熊毛浦の歌と地名が前後しますが、海峡を抜ける歌を集めたと解釈しています。それで、大嶋の鳴門を抜けた二日後での「これやこの名に負ふ」の表現と理解しています。

過大嶋鳴門而經再宿之後、追作歌二首
標訓 大嶋の鳴門を過ぎて再宿(ふたよ)を經(へ)し後に、追ひて作れる歌二首

集歌3638 巨礼也己能 名尓於布奈流門能 宇頭之保尓 多麻毛可流登布 安麻乎等女杼毛

訓読 これやこの名に負(お)ふ鳴門のうづ潮に玉藻刈るとふ海人(あま)娘子(をとめ)ども

私訳 これよ、これ。有名な名を負う鳴門のうづ潮に玉藻を刈ると云う、海人娘子たち。
右一首、田邊秋庭
左注 右の一首は、田邊秋庭


集歌3639 奈美能宇倍尓 宇伎祢世之欲比 安杼毛倍香 許己呂我奈之久 伊米尓美要都流

訓読 波の上に浮(うき)寝(ね)せし夜(よひ)あど思へか心(こころ)悲(かな)しく夢に見えつる

私訳 波の上で浮寝した夜、どうして思ったのか、心悲しく貴女の姿が夢に見えたことです。

コメント
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