読書日記

いろいろな本のレビュー

仮の水 リービ英雄 講談社

2008-09-14 16:41:21 | Weblog

仮の水 リービ英雄 講談社


 

 リービ英雄はアメリカ生まれで、幼少時に外交官であった父について香港・台湾で生活した。そして17歳で日本に渡り日本語を習得した。プリンストン大学で東洋文化を学び、スタンフオード大学で日本文学を講じ、日本語で小説を発表し注目された。国籍はアメリカだが、人格形成は台湾・香港・日本というように意識の中にズレがあり、外見はアメリカ人だが、中味は日本人という感じになっている。
 本書はタイトルになった作品以外に、「高速公路」「老国道」「我是」の四篇から成り、いずれも「群像」に連載されたものである。著者と思われる主人公が一人で中国に行き、現地のドライバーとアウディに乗って観光コースではない地域に踏み込んで行くというストーリーだ。劇的な展開はないが、繁栄から取り残された中国の影の部分が淡々とした描写で綴られる。生きるために生きる、生きがいとかを感じる以前のまさに人間の原型のような中国人の姿が浮かび上がってくる。戦争の贖罪意識を持った日本人が奥地を旅行した時のような感情がアメリカ人の著者によって描かれる。あのズレの感覚が全編の基調になっているのは確かだ。
 日本語でこれだけの内容を書けるとは驚きだが、ただ単なる島国の閉ざされた言語から普遍性への脱却が著者によって示唆されている。

電車の運転 宇田賢吉 中公新書

2008-09-07 15:56:37 | Weblog

電車の運転 宇田賢吉 中公新書



 JR西日本の元運転手(岡山運転区所属、現在68歳)が電車の仕組みから運転のしかたまで鉄道に関する基礎知識を写真入りで解説したもの。著者は1958年(昭和33年)に旧国鉄に入社し、JR西日本で退職した。私の経験から言うと、国鉄時代は職員の給料は安かったがのんびりした時代で、田舎では兼業農家の就職先の定番だった。私が小さい頃、知り合いの蒸気機関車の運転手から、今度機関車の釜に石炭をくべるのをやらせてやろうと言われたことがある。それくらいおおらかな時代だった。結局、赤字の累積で国鉄は解体、国労・動労も今や昔日の影響力はない。組合の弱体化を実現させた後、JRは手のひらを返したように利潤追求に躍起となり、終には尼崎の列車転覆事故を起こしたことは記憶に新しい。昔を知る者からすると、JRそんなに急いでどこへ行くという感じだ。
 一読して運転手の大変さがよく分かった。停止線でぴたっと止めることは容易ではない。運転手さん女房役の車掌さんもご苦労さん。今日も無事故で頑張って下さい。最後に、電車走行時に曲線では車両を内側に傾けるように左右のレールに高低差をつけるが、これを「カント」と呼ぶらしい。哲学者のカントを連想してちょっとシュールだ。


軍事物資から見た戦国合戦 盛本昌広 洋泉社新書

2008-09-06 11:32:47 | Weblog

軍事物資から見た戦国合戦 盛本昌広 洋泉社新書


 戦国時代の合戦の勝負は軍事物資をどれだけ確保したかで決まるという著者は、戦国大名たちの軍事物資の確保の実態に迫った。歴史における合戦の様子は、勇ましい戦闘場面にのみ視線が注がれるが、物資の調達に関してはほとんど言及されなかった。確かに戦争における物資補給の大切さは近代に於いても変わらない。しかしわが日本海軍・陸軍は補給の観念を前世に置き忘れたかのような無邪気さで太平洋戦争に突入した結果、多くの兵士が戦う前に餓死・病死したのはご承知の通り。
 合戦に於いては特に木材・竹は重要で、築城はもとより、武器、武具、柵、旗指物、かがり火、戦場での炊事用の薪といったように、戦略・戦術上必要不可欠なものだった。鉄砲の火縄も竹で作られていることをはじめて知った。よって戦国大名は領国内の木材を確保してはじめて合戦が可能になった。しかし濫伐採は資源枯渇と環境破壊を招くゆえ、相当のマネージメント能力が要求された。ちなみに「林」は「はやし」と読むが、これは木を「生やす」からきた読み方らしい。戦国大名は武勇に優れているだけではダメだったのだ。この辺は近代戦と全く同じである。この中でも寺社勢力は不入権を盾に大名の要求をかわし、領地の森林を守ったと述べられている。荒らせば罰が当たるというタブーの観念が寺社勢力に味方したものと思われる。世に「立野、立川、立山」という地名が残っているが、この「立」は「立ち入り禁止の立て札」の意味らしい。そこに「山守、野守」がいたのである。一つ勉強になった。「無縁」の地が濫伐による環境破壊を助けたのだ。

寺社勢力の中世 伊藤正敏 ちくま新書

2008-09-02 19:05:20 | Weblog

寺社勢力の中世 伊藤正敏 ちくま新書


日本中世史における寺社勢力の存在感を改めて知らしめたのが、本書の功績だ。タイトルの横に「無縁・有縁・移民」とある。「無縁」といえば網野善彦氏の「無縁・公界・楽」が自然と意識されるが、本書でも渡辺京二氏ほどでは無いが、批判的に取り上げている。網野氏の場合「無縁」を「アジール」だと西洋史の概念で置き換えたのが、短慮であった。
 中世においては叡山、高野山、根来寺等の寺社勢力が一種の境内都市というべきものを形成しており、これがとりも直さず「無縁」の世界だというのが本書の眼目だ。京都も叡山の門前という位置づけで、幕府の検断権が及ぶのは京都の一部だけで、祇園社領、清水寺領(興福寺の末寺)は完全に不入地である。このように寺社勢力が形成する「無縁」の世界には「有縁」の世界から沢山の移民が流れ込んだ。彼らは一種の自由を享受したかもしれないが、そこは極楽浄土ではありえず、弱肉強食のジャングルであった。まちがってもアジールではないのだ。
 現代に置き換えて言うと、学校はアジールではなく無縁の世界なのだ。そこに逃げ込めば手厚い保護と自由が保障されると考えるのは大きな間違いで、食うか食われるかの厳しい世界なのだ。「いじめなどあってはならない」というように、学校を極楽浄土に見立てる誤りがはびこっているが、認識不足もはなはだしい。