昭和天皇 原 武史 岩波新書
昭和天皇が新嘗祭、神武天皇祭など頻繁に行われる宮中祭祀に熱心に出席し、「神」への祈りを重ねたということを本書で初めて知った。祭祀は宮中三殿(神殿、賢所、皇霊殿)と付属施設で行われる。ここは天皇家にとっての「聖なる空間」である。宮中祭祀の中でも11月23日勤労感謝の日の新嘗祭は、天皇即位に際してのみ行われる大嘗祭とともに重要な祭祀とされている。皇居内で天皇自身が植え、刈り取った初穂をはじめ、全国の篤農家から献納された米や粟でつくられた飯や粥、白酒や黒酒が皇祖神天照大御神に供えられる。その儀式を天皇自身がとり行うのだ。まさに秘儀という感じ。大都会東京の中の聖域(サンクチュアリー)だ。
太平洋戦争末期の天皇と母の貞明皇太后の確執も初めて聞く話だ。「かちいくさ」を祈る皇太后は、戦況の悪化に反比例するかのように、神がかりの傾向を強めつつあった。その母に遠慮して戦争終結をためらったというのだ。その中で、近衛文麿や弟の高松宮ら宮中グループの戦争継続批判を受け(二人とも戦争終結論者だった)、終戦終結工作にようやく着手する意思表示を行った。その間、沖縄戦で多くの犠牲者が出ている。それを思うと、天皇の戦争責任は免れ難いのではないか。
この戦争責任問題について1975年10月、米国から帰国直後の記者会見で「陛下はいわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか」と質問された天皇は、「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えができかねます」と答えた。この記者会見はテレビ中継され、私はたまたま見て、変わったコメントだなあという印象を持った。筆者は「この発言の背景には、自らの戦争責任を認めてしまえば高松の宮の言い分(開戦から一貫して戦争に反対したかのような言い分)を認めることにつながるという思いもあったかもしれない。けれども、天皇が責任を痛感していたのは第一に皇祖皇宗に対してであり、国民に対する責任観念を意味するはずの《戦争責任》という言葉には、にわかに反応できなかったのではないか」と述べている。兄弟同士の確執がこういう場面にも出ているという指摘は興味深い。
昭和天皇は、皇太子時代の1921年3月から半年間ヨーロッパ 訪問に出た。そこでイギリスの皇室制度に触れ、帰国後皇室改革に着手した。それは女官制度の改革で、住み込みを廃止して日勤に改め、側室制度も廃止した。その結果、現在皇位継承者たる男子の誕生がないということは大いなる皮肉である。昨今、皇室を取り巻く様々の問題が報道されているが、これも近代化の宿命といえる。天皇家のアイデンティティをいかに保つか。これはなかなか難しい問題だ。今となっては三島由紀夫が「などて、すめらみことはかく人となりたまひし」と昭和天皇の人間宣言に絶望した意味もそれなりに理解できる。