木洩れ日通信

政治・社会・文学等への自分の想いを綴る日記です。

現代の資本主義絶対視の社会を見直す時

2019年06月09日 | Weblog

企業・管理社会に収れんされている現代社会
私の家は戦前のある時期までは地主階層だった。大勢いた男兄弟の中で自立して職業を持っていたのは長男」の私の祖父だけだった。
他の弟たちはそれでもいつまでも無職でいるわけにもいかず親戚のつてで保険会社などに就職してもなじめず辞めてしまったりしていた。
しかし婿養子の話があり、それからはサラリーマンとして過ごした大叔父もいたが、一生正業に就かないまま終わった者もいた。
私の父も自立は遅かった。それでも家が没落してからは当時の海軍の工場に就職し結婚し家庭を持ち、こんにち私達がいるのである。
しかし父の兄はとうとう自立することなく亡くなった。
戦前にはちょっと余裕のある家では自立し損ねた子供は珍しくなかったのだ。
漱石の小説に出て来る人物にはそういう男達も多いし、太宰治も小説を書く才能がなければそういう人間で終わっていたかもしれないのだ。もちろん本人もそれでいいとは思っていない。だから苦しむのだが、それは他の人間にはあまりよくわからない「ぜいたくな悩み」に映るのだ。
敗戦後は時代がさがるにつれていっそうの企業社会になった。組織と管理に順応した者だけが一人前の人間として認められ、それからはみ出した者は「ひきこもり」だの「不良」だのということになる。
息子を刺殺してしまった農水次官はそうした社会で成功し成功したがゆえに息子の状態を受け入れることができなかったのでは?
あらゆる人の状況を許容する社会でありたいものだ。もちろん精神に病があれば適切な治療を施すことは必要だが。
資本主義・管理社会がこの世の全てではない。

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