守屋前防衛省事務次官の、軍需商社「山田洋行」との癒着。
官僚と業者との癒着に、表向き厳しい目が向けられる時代に、よくもまあここまで堂々と、接待を受けていたものだと思っていたら、この「山田洋行」という会社、防衛省からの天下りで、成り立っている会社だった。
元専務という人物が、その代表格。守屋氏にとっては、役所の仲間であり、身内みたいなものだから、気を許して、接待に甘えた・・・。
ようやく、今日の新聞記事(信濃毎日)で、元専務の正体が書かれていたが、それまでは、なぜかこの人物の出自は触れられていなかった。
7600万円とか言われる退職金、これが現金の形で残っているかどうかは知らないが、これはすみやかに返却しないと、守屋氏は襲われます。
官僚は自ら「襟は正さない」。これを正すことができるのは、国民の厳しい目と、政治家のリーダーシップ。
どのような形であっても、「政権交代」がないと、省庁の腐敗は止まらない。
今日、久しぶりに「真正オバタリアン」に遭遇した。
ファミレスで、隣の席の4人グループだったが、そのうちの1人の声の馬鹿でかいこと。傍若無人。後の3人の声は低いんだけど。店内すみずみまでに届いていたんじゃないかな。
中高生の子供もいる母親らしいんだけど。
自分の子供がちっとも「しゃれっ気がない」と嘆いていたけど、それはあんたに似たんじゃないの?
ふと、こういう人は、一人の時はどんな風にしてるのかな、と思ったり、いきなり災害や、戦争で爆撃に襲われたりしたら、どういう風になるのかな、と思ったり。
悪気は全く無さそうだったけど。
『小さな中国のお針子』という映画を見た。
フランスの映画だったが、描かれたのは、1971年の文化大革命真っ盛りの中国の山村での、「下放」された青年と、祖父の仕立て屋を手伝うお針子の少女の物語。
今、中国は、都市と農村の「格差問題」が深刻と聞くが、この1960年代の半ばから、毛沢東によって提唱された「文化大革命」も、都市と農村の格差への危機感からではなかったか、とそんな感想を持った。
のちに「三峡ダム」の底に沈むことになる、この映画の舞台の山村では、村長を始めとして、村人は読み書きができない。
そこへ都会から知識青年がやってくるのである。
イ・ビョンホン主演の韓国映画『夏物語』でも、1969年、大学生が援農活動に入った村では、やはり村長をはじめとして村人の大半が字が読めない、という設定になっていたから、これがこの時代の北東アジアの農村の実態だったのだろう。
日本との戦争に勝利し、国共内戦を経て、毛沢東が進めた農村の「大躍進政策」は失敗したが、それに取って代わった新世代の経済官僚らによって、躍進政策の打撃から回復しつつあった、まさにそんな時代に、「都市の青年達は、農村に農民に学ぶべき」と、下放されていく。
今、中国では「文革の時代」は負の時代として清算されているが、都市の特権を得ていた層の子弟たちが、農村に入って味わった労働は、全く無意味というわけではなかったのでは、と言う気にもさせる映画の展開だった。もちろん、やりすぎではあったと思うが。
山村で、肥料となる、し尿を桶に入れ、それをかついで山道を登る。桶のし尿は、はねて、体にかかる、自分だけではなく、すぐ下に続く仲間にもかかる。
そういう労働を、農民達は、何百年と続けてきた、そのことを都市の人間は知らなくてはならない。
今の日本でもそうだ。都市生活しか知らない世襲政治家ばかりでは、地方、農山村が滅びていくことに何の危機感も持てない。
都市だけで、国は成り立たない、という想像力も持てないでいる。
映画では、下放青年達は、村人に、そしてお針子に本を読んで聞かせる。
青年の語る物語、この場合、フランス映画なので、もっぱらフランスの小説ということになっているのだが、は、村人に心の変化をもたらす。お針子の心にも。
今まで、下放された側の書いたものを読んだが(例;「ワイルド・スワン」)、農村の、農民の側の視点からこの時代を振り返るものがあれば、合わせて読んで見たい。(あるのかもしれないが、情報不足)。
しかし、今までの時代、文字を獲得し、表現することができたのは、支配する側であり、都市の知識層だけだったわけだ。