先週の土曜日、「六工社・横田英と松代製糸業」という講演を聞いた。
これまた、個人誌「木洩れ日」2号で、横田英について書いているので、ずっと関心を持ち続けているテーマである。
講師は長野県短期大学教授の横山憲長氏。
県短には学長を務めた(現在もそうか)上条宏之氏もおられ、やはり近・現代史を専門としていて、明治時代の殖産興業の代名詞でもある製糸業やそこで働いた女工達の動態を研究していて、上条先生の著作『絹一筋の青春』は、横田英について書いた時、多いに参考にさせてもらった。
横山氏は上条氏の研究仲間、というか、横山氏のほうが年齢は下だと思うので、先輩・後輩の関係かと推測した。
今回、横山先生の講演で、教えてもらったことは、明治維新で職を失った武士達の「授産事業」として始まった製糸業で、唯一の成功例が「六工社」だということ。
松代の製糸業は、その経営方針というか、働く女工達の扱いが、後発の諏訪製糸業とは対照的に「人道的」なものだったということ。
いわゆる「女工哀史」的実態は、諏訪製糸業に顕著なものだった。
この違いは、そもそも松代の器械製糸の働き手が、富岡官営工場で技術を学んだ武家の子女から始まったということが大きいのだろう。
武家の娘達は読み書きができ、しつけも行き届いているので、工場の幹部達が、馬鹿にして追い立てられる存在ではなかった。
現代の、情報技術にたけているのは平社員の方で、上司はエクセルもままならない、といった逆転現象に似ている。
事実、英が残した「富岡日記」には、器械で取った糸と、昔ながらの座繰りで取った糸との品質をめぐって、幹部と女工達が対立し、どちらの品がいいか、糸を買う業者に判定してもらおうではないか、と横田英をリーダーに一歩も引かぬ構えを見せ、結果、買取業者は、見栄えはやや黒いが、切れにくい器械製糸のほうを選び、見た目は白いが品質の安定しない座繰りの糸を選ばなかった、といういきさつが記されていて、女工達が自身の技術に誇りを持って仕事をしていたことがわかるのだ。
幹部と女工達は、仕事をめぐっては対等だった。
元武士の幹部達も、資本家、経営者という立場にはなりきっていなかった。
工場設立にあたっては、政府からの、今で言う補助金と、有志の持ち寄り資金が当てられたが、「協同組合事業」という色合いが強かったようだ。
これに対して、諏訪製糸業は、もう明確に、企業として成立するように、資本を持っている者が「製糸という事業で利潤を追求する世界」に進んでいく。
労働時間も松代12時間(現代感覚でいくと長いが)に対して諏訪は14時間。
松代のほうは、地元から通う女工さんが殆どで、定着率がよかった。これに対して諏訪は、遠く飛騨あたりから野麦峠を越えて、娘達が働きに来た話は有名だ。
より弱肉強食型資本主義の論理が貫かれた諏訪製糸に対して、のんびり構えた「武士の商法的」松代製糸は、次第に押され、明治末には衰退の結果を見たのだった。
松代製糸は富岡仕込みの「フランス式」これに対して諏訪製糸は「イタリア式」。
品質ではフランス式が勝るが、糸を取る量はイタリア式が圧倒した。
諏訪では、片倉製糸を始めとして、「製糸王」と言われるような大企業が存在したが、松代製糸にそれ程の規模を誇る工場はなく、衰退していくが、全く製糸工場が無くなってしまったわけではなく、昭和初期まで、中・小規模の工場はそれなりに存在し、今の松代の中心部は、工場で働く女工さんの消費活動によってにぎわっていた。
最後に余談だが、明治の世になって、鉄道網が全国で敷かれるにあたって、信越線が松代を通ることに、松代住民が反対したため、やむなく、屋代から千曲川左岸に周り、長野駅が作られた、というのは、俗説で、そのような史料はないとのこと。
むしろ「鉄道が通らず非常に残念なことだ」という意見もあったという。
信越線が松代廻りにならなかったのは、あくまで当時の技術的問題によるとのこと。
なぜこのような俗説がいまだに言われるかというと、真田10万石の御城下だったという誇りだけを頑なに維持している武家気風というか松代気風が、他の地域の人々にそう思わせたのかなとも思う。
同じように国鉄の無い町、小布施と比較した時、小布施の商人達の柔軟性を見て、そう感じた。
10万石の城下町で、国鉄(当時)の駅が無いのは松代だけ?と言われるが、鉄道が通り、地域の中心地になれば、今ある松代の町並み、風情は、あっという間に失われていたことだろう。
経済成長が全ての時代には、「後れた地域」ということだったが、今では貴重な場所として、私がボランティアを務める無料休憩所(白井家表門)で、お茶を飲んでいく観光客のみなさんは「いいところですね」とほめてくれる。
映画『実録・連合赤軍』ーあさま山荘への道程ーを見た。
私は2000年に連合赤軍に関連する文章を個人誌『木洩れ日』にまとめているので、関係の書籍をかなり読んだが、若松孝二監督による脚本は、ほぼ忠実にストーリーを組み立てている。それでも3時間余りに映画をまとめるためには、大分編集せざるを得なかっただろうなと思った。
映画を見ての、まず感想は、「これ見てる人は、きっと、なぜこの山の中で、死に至る総括と称する追求=リンチが行われなければならなかったのか、さっぱりわからないだろうな」ということだった。
私は、彼等と同世代だが、新左翼の活動家でも、その同調者でもなかったので、やはりわからない。
ウェブサイト上の映画感想なんかを見ても、団塊の世代より若い人ばかりなので、やっぱりわからない、という感想が殆ど。
中に旧日本軍のいじめ体質そのまま、と言う感想があったが、それが一番正確に言い当てているのではないだろうか。
彼等は大真面目に「革命」などと言っているが、「カルト集団」と言っていいだろう。
森恒夫、永田洋子という二流、三流のリーダーが、人里はなれた山小屋という閉鎖空間で、同志を掌握するために、最も愚劣な方法にすがった、と言うことだと思うが、たとえば、永田が女の同志に対して、髪が長いだの、指輪をしてるだの、化粧をしてるだの、と些細な日常行動から追求を始めるのは、当時、中国で荒れ狂っていた「文化大革命」での、紅衛兵らによる「反革命分子」への追求を頭に置いてのものだ。
永田が属する「革命左派」というグループは、中国の毛沢東が提唱した「文化大革命」に共鳴して、共産党から分派した組織が元になっている。
永田は毛沢東夫人の江青の役割を担っている。
そして「赤軍派」の森は、赤軍派内部の抗争の際、直前に逃げ出すという過去を持つ、本来気の弱い、臆病な人間なのだった。
それが彼の上にいたリーダーたちが、逮捕、海外逃亡などでいなくなり、リーダーになるはずのない人間がリーダーになってしまった。しかも、以前逃亡してしまったということを何より気にしていた森は「今度は絶対逃げ出さない」といいうことを心に誓って戻ってきたという。
必要以上に戦闘的であることを同志達に見せなければならないのだった。
永田洋子は、「憑依する」というタイプの人間だ。憑依した人間は他を圧倒する。
「カルト集団」にはなくてはならない存在だ。
森は臆病だが、空疎な革命理論を振り回すのは得意だった。
森・永田の二人は最強にして最悪のコンビとなった。
総括追求が暴力にエスカレートしていくのは、やはりそれまでの新左翼過激派の運動が暴力に彩られ、暴力で相手勢力を圧倒しようとしてきたことの延長ではなかったか。
「連合赤軍」が何をしようとしていたかというと、「殲滅戦」という、具体的には各所の交番を襲って、「国家権力の末端の手先」である警察官を一人、一人殲滅していくというテロ行動だった。
しかし映画では、彼等の表面上の行動履歴を追うのが精一杯で、内面に踏み込む余裕がなかった、というふうに感じた。
また、若松監督自身、当時、新左翼運動に理解を示していた立場だったと思うので、客観視できていない、突き放せないでいるとも感じた。
だから「わからない」と言う感想になるのだと思う。
出演の若い役者さんたちも、どういう気持で演じればいいのか、わからない、手探りのまま演じたのでは・・・。
ところで、山で総括追求され命を落とす、遠山美枝子を演じたのは、坂井真紀という女優で、彼女39歳だそうだが、遠山美枝子は当時25歳。10才以上の差があるのだが、それ程違和感はなかった。
ちなみに遠山はパレスチナに出国していった日本赤軍の重信房子の親しい友人で、重信役も映画に登場する。
若い頃の重信は、髪を長くして、黒いセーターをスマートに着こなしたりして、「女王」のような目立つ存在だった。
よく見ると、それほど目鼻立ちが整っているというわけではないのに、男の活動家は「美人だ、美人だ」と騒いでいたようだ。こういうのを雰囲気美人と言うのだろうか。
8月は「戦争の記憶」を呼び覚まされる月である。
「兵士達の証言シリーズ」がNHKハイビジョン、BSなどで、放映されている。
80才半ばを過ぎた元兵士達は淡々と、誇張することなく、しかしすさまじい現実を語る。
しかし後数年で、戦場を語る人はいなくなる。戦争のもたらす悲惨の諸々を語れる人はまだ10年ぐらい存在可能だが。
大岡昇平氏の書いた『レイテ戦記』を今少しづつ読んでいるが、この小説はまさに「戦記」そのものだ。
このフィリピンのレイテ島における日米両軍の攻防を、私的な意見をできるだけ排して、日米双方の資料に可能な限りあたって、レイテ戦の全体像を描こうと試みている。
「兵士達の証言」で語る元兵士に戦闘の指揮を執る将校は殆ど登場せず、ヒラの1兵士として、この戦闘がいかなる作戦の元になされているのかも知らず、戦い、傷つき、逃げ惑った体験を語っている。
だが、40才近い年齢で召集され、レイテに赴かねばならなかった大岡氏は、戦後、「あのレイテ島での戦いとはいかなるものだったのか」を問い、労作を物にした。
圧倒的物量の差で、日本軍を追い詰めた米軍だが、レイテの開かれていない山や森や峠の前では、物資を運ぶトラックも戦車も泥にはまり、「命を始めから捨ててかかる」日本軍の奇襲や切り込みに苦戦する。楽勝で日本軍を制圧したわけではない。
米軍の下級兵士もまた、日本軍の兵士同様、将校のメンツのために無益な苦戦を強いられていた。
その結果の敗退、失敗を下部の責任にするのは米軍も同じ。
日本軍といえば、何かといえば精神主義を押し付けられ、戦うための武器・弾薬・食料などの供給も充分でない、というイメージを持っていたが、レイテ戦では米軍と激しく戦っている。
小国日本が、この戦争のためにいかに膨大な戦費を使っていたかを改めて思い起こし、「壮大なムダ使い」=戦争という実態を一般国民はどう感じていたのだろうか、と考えた。
「欲しがりません。勝つまでは」という戦時中のスローガンがあったが、戦争に勝ったら豊かになれると思っていたのだろうか。
敵国の戦闘員のみならず、非戦闘員を犠牲にし、自国の兵士の死の上で成り立つ「豊かさ」でもかまわないというふうにそこまで考えていたとはとても思えないけど。
信濃毎日新聞では、「孤児達の戦後」と題して、児童施設・恵愛学園(松代大本営になるはずだった建物を転用した)の入所者の63年を追った連載記事を掲載した。
戦争が終わって、もう空襲警報におびえる必要もなく、夜も電灯がつけられる。「明るい青空」が戻ったような気分で、「りんごの唄」を口ずさみたくなる人々ばかりではなかった。
空襲や戦死で、保護者を失った戦争孤児たち。まだ一人で生きていく術を持たない子供達にとって、戦争後に本当の苦しみが待っていた。
孤児=浮浪児というイメージでとらえられ、周囲から差別を受け、その後の人生に暗い影をひきずらねばならなかった現実があった。
戦争の犠牲になったことで差別を受けるという理不尽を背負わされたことでは被爆者も同様だ。
戦争の記憶は、たしかに時と共にうすれていくものではある。
しかし、近代以前と違って、戦争の実相を伝える映像も、証言も、書籍もある。
記録までもを忘れないことだ。
北京オリンピック真っ盛り。
年を取って見なくなったものに「スポーツ中継」がある。ニュースでやっていれば見る程度。
一番熱心にオリンピックのテレビ中継を見たのはモントリオールオリンピックだ。
76年、この頃は私もすでにテレビを持っていた。しかも夏休み(私の職業は小学校教師)。
女子体操のルーマニア・コマネチの「白い妖精」の演技に深夜まで、というか、生中継は深夜だったような気がするが、つきあった。
もう一つ近頃しなくなったことは「音楽を聴く」。
持っているレコードもCDもめったに聴かない。ましてやコンサートには行かなくなった。
コンサートは大体夜なのだが、夜出かけることがおっくうになった。
韓国ドラマにいまだにはまっているので、それを見るだけで疲れてしまっているということもある。それとパソコン。ブログを二つも書いているので、これもけっこうエネルギーがいる。
NHKの報道が変とは、近頃常々感じていることだけど、7時のニュースも無視して、オリンピックの中継になっているのにはあきれた。
4年前のアテネオリンピック開催時には、ちょうど中国西安方面に旅行中だったので、どんなふうにオリンピック中継がされたのか知らないので、その時からこんなふうに変わったのかもしれないけれど。
この時は、中国が大活躍で、現地の案内の中国人は、「中国はメダル○個。日本はいくつ?」と話題にしてはしゃいでいたのを思い出す。
東京豊島区での下水道事故。
犠牲になった工事関係者について、「優しく真面目な人だった」の情緒的コメント。
私などひねくれたところがあるから、「優しく真面目じゃない人はどうするんだ」といつも思う。
良い人にも悪い奴にも死と老いは必ず訪れる。だからニュース報道によけいなコメントはいらない。
良い人の死を惜しむということは逆に「あんな奴はさっさと死刑にすればいいんだ」という考え方と表裏一体だ。死に軽い重いはない。
でも岸首相の前の短命首相だった石橋湛山は、明治の元勲山県有朋の死の報に「死もまた奉仕」と言ったという。そういうことはあるけれど。
そして最近、NHK7時のニュースでは、アナウンサーが無意味な絶叫をする。
例えば冒頭「福田内閣改造です」と言う時の声のトーンが高いのだ。
福田内閣の改造なんて、たいしたことない、どうでもいいことをさも重大そうに叫ぶ。
言ってる本人が恥ずかしくないのか、むなしくないのか、と思うが、臨場感を出すよう言われているのだろう。が、聞いてるほうも恥ずかしくてしらけてしまう。
「ニュースを演出するな!」。
臨場感、切迫感というのは声の調子を高くすればいいというものではない。
その点、彼等の先輩達、戦時中のアナウンサーの、「大本営発表、大本営発表」ではじまる原稿の読み上げ方はさすがだ(ドキュメンタリー番組の中で聞く限りだけだが)。
声は決して高くはなく、冷静で、しかし繰り返されるそれは時に悲壮感を与え、信頼感も与える。
まあそれでみんなその発表にだまされちゃったということはあるので、今のアナ達の軽薄な調子のほうが、信頼感ない分、だまされなくていいかもしれないけど。
スポーツ中継でもアナウンサー一人興奮してるという感じで、中継してる人が興奮してどうするんだ。興奮するのは視聴者にまかせればいいのだ。
戦前のベルリンオリンピックの女子200メートル平泳ぎ決勝で前畑秀子さんを「前畑ガンバレ、前畑ガンバレ」と応援中継したエピソードは有名だけど、あの場合は何か自然な発露という感じがするけれど、今のアナウンサーたちの絶叫や興奮はわざとらしい。心からそう思っているわけでもないのにマニュアルでそうしてる、という感じがとても強い。
今日8月10日付け信濃毎日新聞、主筆の中馬清福氏の「戦争体験は継承できるか」の文の中に、戦争体験の語り部の話に熱心のあまり「誇張」が入ると、人々は引いてしまうということが書かれていた。
多分、誇張と感じさせる中に客観性を欠いた自己主張を聞く人が感じるからだろう。
そしてその体験が、無意識のうちに「被害者体験」のみになってしまっているということも、聞く人との間に溝を作ってしまう原因だと思える。
被害体験を語ることは実は自慢話と表裏一体のものなのだ。誰も人の自慢話を長々と聞きたくはない。
大人はそれでもそ知らぬそぶりで聞いてるふりをするが、子どもというか、中学生や高校生のような若い人達は、拒否を態度で示す。
二年前に亡くなったエッセイストでロシア語の同時通訳者だった米原万里さんは「日本人の戦争体験は99パーセント被害体験として語られる」と言った。
被害体験だけを語っていては、戦争体験は伝えられない。加害体験、加害の意識を持って語られてこそ、継承していけるものだとも言った。
「お国のためなら、人を殺していいのか」ということを体験のある人(すでに数少ないが)もない人もまず考えなくては。
大多数の日本人は(他の戦争を仕掛けた国の人も同様だが)、戦争で相手の国や、占領された国の人間が殺されることの事実については深く考えていなかった。
これを考えてこそ、戦争を止める第一歩が始まる。
『原爆63年目の真実』。
テレビ朝日の特集番組だったが、ちょっと観点に独自なものがあった。
「爆心地で微笑む少女」は、長崎の爆心地付近で、アメリカのミッションにより、マグガバンという人が撮影したもので、赤ん坊を背負った日本人離れした美しい少女が映し出されていた。
撮影隊が配るお菓子を受け取って、少女は「ありがとう」というようなしぐさを見せ、微笑んでいる。
原爆が投下された長崎の、しかも爆心地で、その残酷な事実の3ヵ月後とは思えない映像である。
マグガバン氏はこの映像が大変気に入っていて、大切に保存していたと、息子が語っていた。
アメリカ人、というか欧米人にとっては、同等とも思っていなかった日本人の少女の美しく上品な微笑みに、マグガバン氏は心を打たれたのだ。
長崎は江戸時代はオランダ人、その後も港町として、外国人が出入りする街だったので、おそらく少女の血には欧米系の部分がいくらか混じっていたのではないだろうか。
少女の前にはよく似た弟も映っている。
女優の石原さとみが、少女の行方を追う。まず弟の消息がわかる。
年齢は重ねたが、少年時代の面影を色濃く残す人だった。
そして、美しく微笑んだ少女も健在だった。腰は曲がってしまっていたが、この姉も大きく容貌を変えることなく、63年を生き抜いていた。
アメリカ人は、広島・長崎で、人類最大の罪を犯した。そのことをマグガバン氏は、現地に入って痛感したはずだ。だからこの「美しく微笑む少女」にすがるというか、いくらかの慰めを求めたような気がした。
そして、日本にも原爆製造計画があった。
もし完成していれば、日本軍は間違いなくこれを使うことになっただろう。
しかしそれは完成には到底至らず、日本は、中国で、東南アジアで侵略による殺戮の罪を犯したが、それ以上の「原爆使用」という最大の罪を犯すことからは免れた。
米国民は、何かと言うと「原爆投下は戦争を終結させるためのやむをえない方法だった」と強弁する。
しかしそれは原爆投下の悲惨、残酷から目を背け、思考停止し、それ以上は考えまいとする方便、逃避である。
原爆投下の結果、どのようなことが起きたかを知れば、「戦争終結のための手段としてやむをえなかった、当然だった」とは、とても言えない状況だったかを知ることになるので、考えたくないのである。
ちょうど日本人が、「南京大虐殺の中国側の言う死者数はは過大だ」、「従軍慰安婦は軍の命令ではない」といい続けるのと同じだ。
原爆投下のパイロット、クロード・エザリーは、戦時中は功名心に燃えるパイロットで、「皇居に原爆を落としてやる」と、行動を起こすが失敗。不発に終わったという経歴の持ち主。
その彼が、戦後日本の新聞社に「原爆投下は誤りだった」の手記を寄せる。
エザリーも実は被爆していた。1946年、ビキニ環礁の実験で、その上空を飛行し、放射能を浴びたのだ。
アメリカでは、原爆による放射能の影響を調べるために、兵士等がキノコ雲の下に突入する実験に参加させられ、被爆したという。
アメリカの一般国民も「原爆の恐ろしさ」には無知なのだ。
今、核兵器を保有している全ての国の国民も同じだ。国民だけでなく国のリーダーたちもそうではないだろうか。
「唯一の被爆国日本」でもその恐ろしさを本当にを知っているのは、広島・長崎で被爆した人、その惨状を目撃した人だけかもしれない。
自身の被爆を知り、妻の流産が、自分の被爆のせいではないかと、思った時から、エザリーは奇妙な行動を取るようになり、強盗事件を起こしたりして、結果、喉頭ガンでこの世を去った。
他国からの脅威のけん制のために「核を保有する」という理屈は、自国民を被爆させているという実態からして、破綻している。
「核の存在」にさらされている今の世界は「われわれもまた広島・長崎の犠牲者である」という状態と言えようか。