木洩れ日通信

政治・社会・文学等への自分の想いを綴る日記です。

指揮官の条件

2007年08月28日 | Weblog

安倍改造内閣の人事が発表された。
一番改造されなければならないのは、安倍総理自身なのだが、そのことにまるで気づかない。昔からある「バカ殿」の典型だが、こんな殿を引き摺り下ろせない自民党も末期症状。
ちょうど太平洋戦争の末期に似ている。一刻も早く戦争をやめなければならないのに、誰も責任を取らず、決断できない。「原爆投下」という最悪の結果になってもまだズルズル
。そして、終戦を知らず、その後の戦闘で命を落とした者さえいた。
鳩山邦夫法務大臣。長勢法相に負けず、「死刑執行命令書」にバンバン、ハンコ押しそう。



何かと話題を集めた小池百合子防相は、自分から続けないと明言して、「泥船から逃れた」とも言われている。
続けたとしても、「テロ特措法」の攻防でボロボロになることは明らか。
とにかく目だって、注目されることだけが目標で生きている人のようだから、機を見て敏だ。
新聞のコラムに、「小池大臣は、上のまつ毛だけじゃなく、下のまつ毛にもマスカラをしている」と書いてあった。
私は目が悪いのと、テレビが小さいのと、それに小池さんが登場すると不愉快なので、画面から目をそむけていたので気づかなかった。
そう言われて、画面に近づいて見たら、たしかにパンダの様に下のまつ毛にも細工していた。
50過ぎて、よくこんな手の込んだことするなあ、と思ったが、考えれば、彼女は元テレビキャスターだから、メイクはプロだ。慣れてるんでしょう。
まずは目障りな人がテレビ画面から消えたことだけはよしとしましょう。



「ヒゲの隊長」で知られる、元陸上自衛隊のイラク・サマワ派遣部隊長で、このほど自民党参議院議員に当選した佐藤正久氏の「かけつけ警護」発言。
イラクの地で、何かことが起きたら、巻き込まれることを承知で、警護に駆けつける覚悟だった、とTBSの「ニュース23」での本音発言。
これまた、かつての中国侵略に乗り出した関東軍を思い起こす。
日本政府の意図を超えて、意識的に戦闘状態を作り出し、勝手に戦争を始めた。
軍隊は、日々戦闘訓練に励み、それをどこかで試さなければと考えるようになる。
「自衛」、「自衛」と言いながら、そうそう国単位で敵が攻めてくるわけでもない。
「仮想敵」を作る必要がある。「テロリスト」という仮想敵ほど都合のいいものはない。
神出鬼没、どこにいるかわからない。だからいつも警戒して、過剰に反応しなくてはならない。
こんな軍隊いるのか?
元参議院議員だった、俳優の中村敦夫さんは、政治家時代、「中村敦夫新聞」という、自身の政治的主張や、エッセイを掲載した新聞を月1回発行していたが、その中で、かつて「地球発22時」という報道番組で、自衛隊の幹部クラスの何人かを取材した体験を書いていたが、全員が驚くほど地味で、平凡とさえ言えるキャラクターだったという。
これは中村さんの考えていた指揮官のイメージとは違っていた。
軍隊では指揮命令を忠実に実行し、守る、常に冷静で、淡々と軍務を行える人物が、「指揮官として最も適切な能力」として、評価されるのだと、その時自覚した、と書いている。
中村さんが取材したのは、70年代から80年代にかけてぐらいではなかったか。
すぐ熱くなって、血が上るタイプ、やたらに勇ましいタイプ、こういう指揮官は、部下を無駄に危険に追いやる上司である。
こういう上司がダメなのは軍隊に限らないが。
「駆けつけ警護」を覚悟していた佐藤隊長は、軍隊の指揮官の条件から逸脱している。自衛隊もこの20年変わってきたのだろう。
駆けつけるなら、あなた一人で駆けつけてください、と言いたいところだが、たとえ一人で駆けつけても、その結果は、一人の行為では済まされない。
もう自衛隊には戻らないでください。



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軍需産業か、人間か、今迫られる選択

2007年08月23日 | Weblog

モンゴル出身の横綱、朝青龍が引きこもっています。
発端は、ケガの治療を理由に巡業を休んでいたのに、祖国モンゴルで、サッカーを楽しんでいる映像が流され、相撲協会や親方衆の怒りを買い、2ヶ月出場停止の処分を受けたことに始まる。
最初、朝青龍の行動を非難する意見が多数だったのに、ここへ来て、相撲協会というか、理事長の態度がはっきりしないことへの批判が出てきました。
いったい、朝青龍は、疲労骨折とやらを本当にしているのだろうか。だとしたら、その治療もしなければ、これから相撲を取れる状態にもっていけないだろうに。
最初、横綱の品格がどうのこうのと言っていたけど、そんなことはどこかへ吹き飛んでいる。
相撲というのは、スポーツというだけでなく、芸能の要素もあるように思うし、これを職業と見た場合、誰も番付は落ちたくないし、生活がかかっているので、星の取引は必然的に起こるような気がする。
1対1の格闘技であるということが、そういう取引を可能にしている。
しかし八百長ばかりでは見るほうは面白くないので、ガチンコと言われる真剣勝負と、談合勝負とが微妙にバランスを取って成り立っている気がする。
そのようにしても、実力のある者、強い者が上へ上がっていくようになっているから、今まで続いてきたのだと思う。
これを真剣勝負だけにしたらどうなるか、と思ってみるものの、こういう形態の勝負では、絶対にそうならない、とも思う。
だから必要以上に形とか、品格とかにこだわるのではあろう。
愛国心なんか無い者や、臆病な者が、ことさらに愛国心を言い立てたり、勇ましいことを言うのに似ている、と言ったら、身も蓋もないか。
北の湖理事長は、現役時代、憎たらしいほど強いと言われ、愛敬はないが、その強さと、率直な雰囲気で、信頼感を感じさせていたように思ったのだが、そうでもなかったのか。
朝青龍にペナルティを課すのはいいとして、処分が厳しすぎましたね。



アメリカのチェイニー副大統領といえば、「戦争、行け行けドンドン」のネオコンの急先鋒の印象が強いが、湾岸戦争時には、「このままバグダットに侵攻すれば、泥沼に陥る」と、父ブッシュに進言したのだという。ならば、なぜ今回は、イラクの奥に侵攻することを進めたのか。
このイラク戦争が間違っていた、ということは、ようやく日本のマスコミでも語られるようになってきたが、それでもコメンテーターが微妙に言及することを避けているのが、この戦争が、アメリカの巨大軍需産業の利益のためであった、という点だ。
軍備は整えれば、それを使いたくなるし、使わなければ意味がない。
軍需産業は、戦争や紛争が、世界のどこかにあることを必要としている。
マイケル・ムーア監督は『ボーリング・フォー・コロンバイン』という映画の中で、不安をあおり、かきたてる社会、アメリカを描写している。
なんと、銃の所有ということでは、隣国カナダのほうが多いのだという。
しかし、カナダに銃による殺人事件は少なく、人々は、家にカギをかける習慣もない。
アメリカでは年間、銃による死亡者は1万人をこえるが、イギリス、ドイツ、カナダでは数10から数100にとどまるという。
ムーア監督は病める社会アメリカの背景に、ロッキード社をはじめとする巨大軍需産業の存在を指摘している。
軍需産業をやめるのか、それとも人間をやめるのか、世界は迫られている。



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集団的侵略権認めますか

2007年08月17日 | Weblog

最近のワイドショーは、小池百合子防衛大臣が、いかに権力に近づき、巧みに自分を売り込み、のし上がってきたかを分析・解説してみせる。
小池さんが、次の内閣改造で、官房長官、果ては、総理大臣の目もありうる、などと、言われては「頼むからやめてくれ!」と言いたい。
小渕総理、と聞いて、絶望的、と思ったら、さらにひどい森喜郎氏。そして無責任な小泉総理。きわめつけは最悪な安倍普三。
しかし、小池百合子の総理大臣もありうる?などと言われると、目の前が真っ暗になり、めまいがしてくる。
自民党の女性国会議員のあの人、この人を思い浮かべると、一言で言うと「化け物」。まともじゃない。
高市早苗、片山さつき、中山恭子、佐藤ゆかりなどなど。
これらに比べれば、猪口邦子さんなど、まだかわいらしい。
野田聖子さんあたりは、2世議員らしい、育ちのよさがあって、この人には反発までは感じないのだけど。
また今は自民党ではないが、田中真紀子さんにも、その口の悪さや、人使いが荒いなど、そばにいる人にとっては、迷惑な存在かもしれないが、遠くから見てる分には、さほど反発を感じない。



自民党およびその支持者の最後の切り札というか、より所が「政権担当能力」だが、こんな根拠の無い言い分にだまされるのはいい加減やめなくては。
身近な例で考えて見ても、長年やってきた自分でなければ、この仕事はうまくいかない、なんて考えていても、後任者はちゃんとやってのけることを、みんなイヤというほど、見ているはずだ。
政権が代わったら、役人はその政権の指示に従うべきであって、抵抗するなどとんでもない。
長野県知事時代の田中康夫がよく言っていた。「役人は、パブリックサーバントだ」。
国民、市民、県民に仕えるのが役人であって、「おかみ意識」を持つなどこれまたとんでもない。
田中県政以前の県庁にはこれが横行していて、遂に反乱が起こったのだが・・・。



昨夜はNHKで、「憲法9条をどう考えるか」という討論番組があった。
今、安倍政権が「憲法改定」を言うときの1番のねらいは「集団的自衛権の行使」を憲法上できるようにすることなのだと思うが、「集団的自衛権行使」に賛成の人たちは、同盟国が攻撃を受けているときに、助けに行かない同盟国は同盟国じゃない、と無邪気なことを言う。
日本の同盟国アメリカは、攻撃を受けるどころか、世界中に出て行って、攻撃をする国なのだ、という歴史と現実を見ていない。
「集団的自衛権を認める」ということは「集団的侵略権を認める」ということになる。
アメリカと同盟を結んでいる限り、それ以外はない。
アメリカの侵略に加担すると、どういうことになるか、という論議を国民的レベルで真剣におこなわなくては。
石油と食料を国外に頼る日本には、たちまちそれらを絶たれる運命が待っているばかり。
太平洋戦争の悪夢が再びやってくる。かつて攻撃した国アメリカと運命をともにしたばかりに。
そんな馬鹿なことをいまさら、憲法を代えてまでするんですか?



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津島佑子の『火の山ー山猿記』

2007年08月10日 | Weblog

民主党の小沢代表が「テロ特別措置法」の延長反対を明言した。
「本気かしら?」と、思わないでもないが、言ってることは筋が通っていた。
すなわち、「対アフガン(タリバン)、対イラク戦争のどちらも、アメリカの戦争であって、国連の合意のもとでの攻撃ではない」と。
従って「これ以上、特措法を延長して、アメリカの戦争に加担すべきではない」。
野党の党首だから言えるというところもあるかもしれないが、世界の中で、今アメリカがどういう目で見られているかを承知しているからこそできる発言なのだろう。
これに対して、ちょうちょのようにいろんな政党を止まり歩いてきて、かつては小沢氏と志?をともにしたこともある、小池百合子防衛大臣は「小沢さんのカレンダーは湾岸戦争のところで止まっているんじゃありませんか」などと負け惜しみを言っていたが、カレンダーが止まっているのは、むしろ小池さんのほうでしょう。
「どこまでも、いつまでも、何があってもアメリカについていく」人たちにとっては、カレンダーは必要ないようだ。



2006年の「木洩れ日」10号で、太宰治を取り上げた際、娘、津島佑子さんの『火の山ー山猿記』を買ったまま、時間が無くて、読んでいなかったのだが、先ごろ、ようやく読み終えた。
母、石原美知子の家族の歴史と物語だ。
佑子さんは連作短編集『黙市』、「あの家」というタイトルで、母の家族に附いて少し触れている。
きょうだいの多い、にぎやかな家族。父母やきょうだいのうちの何人かは、若くして亡くなってしまってはいたのだが、残されたきょうだいが語る、子供時代のはなしは、かたわらで聞く佑子さんを心底うらやましがらせたのだった。
佑子さんの知っている「家」というのは、父のことを話題にせず、年の離れた姉と、知的障害のある兄(その兄も15歳で死んでしまう)、そして、いつもどこか不機嫌で、心を閉ざしているように見える母が作る「つまらない家」だった。
いつもは笑うこともめったに無い母が、きょうだいと子供時代を語り合うときは、嬉しそうにはしゃいで、かたわらで、聞くとも無く聞いている佑子さんのことも忘れているようだった。
そんな石原家の物語を、佑子さんが書くのは、母が最晩年になってから。
甲州の、鉱物学者を父に持つ一家。
男二人、女五人のきょうだい。それに身寄りがなくなってしまい、石原家で家族同然に育った女の子一人。
裕福というほどではないが、まるで夢のような、自然とともにある生活。
しかしその夢も、早すぎるきょうだいや親族の死で、次々に破られていく。
一家の希望の星の長男は、医学の勉強の途上で、急性の結核で死んでしまう。
このあと、昭和の戦争の時代をはさんで、家族を襲った死は、すべて結核だ。
NHKの連続ドラマ「純情キラリ」は、この小説をもとにしている。
五女、桜子をストーリーの中心にすえていたが、召集されてしまった婚約者を待って、7年もの間、石原家をささえた彼女も、婚約者が帰還、はれて結婚、妊娠するが、結核に冒され、生まれた子供を抱くことも無く死んでいく。
その悲劇が、だが、桜子という女性の明るい天性が、子供時代からずっと、ていねいに描かれているので、ひときわ胸を打つ。
佑子さんの父太宰は、杉冬吾という画家として登場するが、太宰治という作家として、知ってしまっている読者には、やはりちょっともどかしいかもしれない。
ただ、佑子さんが描きたかったのは、あまりに高名な父のほうの物語ではなく、人生に行き詰って、死を選んでしまうような人を、わざわざ選んだ、そんな母を育てた一家の物語のほうだったのだろう。



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「Jack&Betty」がなつかしい

2007年08月06日 | Weblog

天木直人さんが、外交官を目指すキッカケは「アメリカへの憧れ」からだったという。
子供時代に見たアメリカ発のテレビドラマ。そこに出てくる豊かなアメリカの生活に目を見張った一人だという。
私は、小・中という子供時代に家にテレビがなかったせいか、「豊かなアメリカ」への憧れというのを抱いた覚えが無い。かと言って、ヨーロッパ文化のほうが上だとか、アジアのほうに親近感を持つとか、日本が一番、だとか思っていたわけでもない。
そして、中学生になった天木少年が出会ったのが英語の教科書「Jack&Betty」だった。これは私も一緒。
中学1年生で、出会ったこの教科書は、日本の少年・少女を英語という、小学校には無かった教科へと導いてくれたのだった。
1年生の時は、私も英語が好きだった。先生も丁寧に教えてくれる人だった。
ところが、2年生になって英語の教科書が代わった。
タイトルは忘れたが、スージーという、マンガちっくなイラストの女の子が主人公という構成になっていて、フランクな会話のやり取りが主流。
これで私はすっかり調子が狂ってしまった。由緒正しい「Jack&Betty」が私には合っていたのだ。先生もやる気の全然無い人に代わってしまって。
もしあのまま「Jack&Betty」だったら、私のその後の進路は英文科だった可能性が高い。
天木さんは京都の人だが、そのまま「Jack&Betty」で勉強したんだろうか。
この教科書の変更は、イギリス英語からアメリカ英語への転換だったのだろう。
しかし今で言う「タメ口」の会話文なんか、いくら習っても何も身につかない。
やはり中身がよくないと。「Jack&Betty」がすごくいいというわけでもないが、スージーよりはましだ。
天木さんは順調に英語を身につけ、京大の学生時代に外交官試験に合格して、外務省入り。
しかし、外務省に入って、アメリカへの憧れは消え、アメリカに追随することしか考えていない外交官達の実態を知るのだった。
天木さんのブログは、外務省の内部にいた人だからこそ発信できる、「無責任外務省及び現政権」への批判が展開されている。
http://www.amakiblog.com/
9条ネットから参院選に立候補して落選してしまった天木さんだが、戦意は失っておらず、次は「勝てる選挙」を考えたいという。



先週から今週にかけて、社会的に影響力のあった人たちの訃報が続いた。
小田実さんは、二年前須坂市で開かれた「岩波講座」での講演を聴いた。
体格のいい元気な人というイメージだったのが、姿勢が悪くなってしまったのにはびっくりした。病気がすすんでいたのだろうか。
一貫して行動する作家だった。フルブライト留学生以来の語学力を使って、英語圏の文献を紹介しながらの講演だった。
大阪の兵器工廠近くに住んでいたために、終戦間際まで、アメリカ軍の空襲に襲われながら生き延びた体験が、「平和への発言と行動」の原点だった。
若林繁太氏は、地元篠ノ井旭高校の元名物校長。
『教育は死なず』の著書で有名だが、「どんな生徒も引き受ける」を信念にエネルギッッシュに行動した人だ。
私は、10年ほど教育の世界に身を置いたことがあるので、わかるのだが、学校ではエネルギッシュに行動する教師は、周囲から煙たがられる。
サボリたいのに、サボッていると思われるのはいやなので、一人がんばる教師は目障りとなる(何も学校現場に限らないが)。
しかし、当時の旭高校は、生徒減で、学校存続の危機にあったために、若林校長の行動力に協力するしかなかった。
危機にこそ必要なリーダーだった。
そして作詞家の阿久悠さん。
この人の作詞したヒット曲のなんと多くて多彩なことか。
70年代あたりから、勢いを増してきたのが、シンガー・ソングライターという存在。
作詞・作曲・歌を全て自分一人で、というスタイルだが、この人たちの1番の弱点は、やっぱり詩だと思う。
さだまさしとか中島みゆきとか、詩にも優れている人もいるが、たいていは「やさしさとぬくもりとふれあい」というフレーズでごまかしている。
90年代のいわゆるJポップになると、この流れはさらに増して、せっかくいいメロディーなのに詩が練れていなくて、「惜しいな」と思う曲が多い。



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