映画『光州5・18』を見た。
1980年5月18日から始まった、戒厳令下の韓国空挺部隊と、その弾圧に立ち向かった光州市民の10日間の攻防を正面から描いた2007年公開の映画だ。
1979年10月、軍事独裁政権を長期に維持していた朴大統領が側近に暗殺された。
この事件はよく覚えている。その後の権力の空白時期、韓国民の「民主化」への要求は高まった。
各地で、大学生や民主化を求める活動家が指揮するデモが頻発。
しかし、軍の保安司令官全斗煥(チョン・ドゥファン)はクーデターで軍を掌握。民主化運動を弾圧。運動の拠点でもある各地の大学に軍隊を進駐させる。
光州市は、韓国の最南端全羅南道の中心都市である。
全羅南道は、朴政権時代冷遇された地域で、北部地域と比較して格差があり、人々の政権への不満、民主化への要求は、他地域より強いものがあった。
しかし映画は、この地域に生きるごく普通の人々の日常を描くことから始まる。
タクシー運転手のミヌは、早くに親を亡くし、たった一人の成績の良い弟がソウル大法学部に首席で合格することを夢見る気のいい青年。
自分の勤めるタクシー会社社長(元軍人・空挺部隊予備役大佐)の娘で、看護師のシネに片思いしている。
事件は、そんなミヌがシネを映画に誘い、弟のジヌと3人で映画館で悲劇映画に泣き、コメディーに大笑いして楽しんでいる時に起こった。
戒厳軍の兵士に追われ、映画館に逃げ込んできた学生を兵士は激しく殴りつける。あたりには催涙ガスの煙がたちこめ、観客はたまらず外へ。
そこでは兵士達が市民に見境なく暴行をふるう光景が繰り広げられていた。
ミヌは政治に特に関心は持っていなかった。弟のジヌにもデモには行くなと言い渡していた。
ところがジヌは、級友が兵士に暴行を受け命を落としたことをきっかけに、抵抗の隊列に入っていく。
市民の激しい抵抗の前に、戒厳軍は一旦は引くと見せて、次の瞬間、対峙している市民に向け一斉に発砲する。
この瞬間から光州市民は、軍隊に、国家権力に対して市民軍を結成して立ち向かう行動に突き進んでいくのである。(元空挺部隊大佐のタクシー会社社長が総指揮をとる)。
主義主張、大義のためというより、自分達の生活を脅かすもの、愛する人を奪うものに対抗するために立ち上がる、というふうに映画は描いていく。
特別な人の特別な戦いではなく、普通の人が普通の生活を脅かされた時に、自身の人間としての尊厳を賭けて、巨大な軍隊に立ち向かう行動を選んだのだと。
ミヌも弟のジヌが軍の発砲で死んだことをきっかけに市民軍に加わる。
総制作費約12億円をかけたというこの作品は、1980年の光州の町を忠実に再現し、膨大な資料にあたり、当時の事実を知る市民から取材し、それらの断片を積み重ねて「光州5・18」を構成したという。
戒厳軍の市民への攻撃、逃げ惑う大勢の市民のシーンなど、物と人とエネルギーを大量投入して出来上がったものである。
監督のキム・ジフンはこれが2作目の映画だというからびっくり。
光州事件が一説では2000人とも言われる犠牲者を出した背景にあるのは、冷戦下、同民族で南北に分断され、鋭くイデオロギー対立していたという不毛の現実だ。
韓国では「共産主義は悪魔だ」とされ、おそらく北朝鮮では「資本主義は搾取と堕落の道」と宣伝されていたのだろう。
政府に文句を言う者は「北にたぶらかされた共産主義者だ」というふうに一般の人々は、ほんの20年前ぐらいまで思わされていた。
28年前のこの事件、命令によって市民に銃を向けた兵士はこの映画を見ただろうか。
またまた通り魔殺人。
今の日本社会は、外に出たら、運悪く殺されてしまうことを覚悟しなくてはならなくなった。
アメリカ社会は、とうにそうなっているだろうけど。日本の場合、凶器はまだ包丁やナイフだが、あちらは銃社会。
そりゃどこにだって、いつの時代だって事件はある。だけど、今の日本やアメリカの犯罪は、「希望のない格差社会」が生み出しているものだということは覆いようもない。
NHKニュースウオッチ9は、急増する高校中退者の存在を伝えていた。その殆どが家庭の生活苦が理由だ。
「底辺校」とされる高校により顕著にその傾向がある。
中退者に正社員の道は閉ざされている。アルバイト、フリーター、派遣、契約、そう呼ばれる「非正規雇用」が彼等に示されている道だ。
大多数の普通の、と言われる若者達をこんな状態に置いておいて、これからの日本の社会が成り立っていくはずはない。
八王子の書店で、いきなりアルバイトの女子店員を刺殺した青年も、板金工場で見習いとして働き始めたばかりだった。
働き始めて一ヶ月ほどで、プレス機に指をはさまれて大怪我をしたという。
機械の扱いなどで、充分な指導は受けていたのだろうか。
「冷遇されている一人」であったような気がする。
私は今年還暦を迎えた。特別能力があるほうでも、特別ガンバリヤ屋でもなかった。それでも生きてこれた。
そして年金などの社会保障の恩恵も受けている。
毎日食べることができ、雨風をしのぐ住まいもあり、衣服もある。たまに旅行にいくぐらいの余裕もある。
自分はそれを享受しながら、若い世代にそういう社会を引き継いでやれないでいる。
「団塊の世代」以上の人達は、それを自分の責めとしなくては・・・。
おっと忘れていた、高齢者も「冷遇の時代」に入っているんだ。(ため息)。
20才ぐらいから政治や社会への関心は高かった。だけど自分の頭や心を働かせて考えてきたか、というとそれほどでもない。
政党や組合の幹部の説く「正論」に従ってきただけのような気がする。
だから駄目だったのだろう。こんな社会にしてしまった責任の何千万分の一は私にもある。
原油高が漁業や農業という、人が生きる根幹を襲っている。
漁業者の一斉休漁や諫早湾潮止め堤防開門の訴えなどのニュースを見ていて、つくづく思うのは、漁業者、とくに漁協などは、そんな状態に追い込んだ自民党長期政権を強力に支える側だったということだ。愚かなり!
しかし大多数の平凡な人間は先の先を見通す目を持っていない。
それこそ「目先の利益にとらわれる」哀しい存在だ。
6億だかの土地改良区のお金を横領したという会計責任者の女性。ペラペラと泣き言を報道関係者の前で並べるその態度にあきれかえるのはもちろんだが、みすみす横領を許してしまう理事長はじめ周囲のぼんやりぶりも問題だ。
どうも農協とか、土地改良とか、漁協とか、こういう組織のトップに、その任に耐えない「無能力者」が就いている気がしてきた。
情実人事、慣例人事の結果ではないか。大分の教員縁故・不正採用を指弾できない。
この土地改良区では、前理事長も横領の罪で逮捕されたという。
全国の土地改良など、解散するしか横領を防ぐ道はないように思う。
これまた自民党の資金源、集票の温床になってきた部隊だが。
大分教員採用汚職事件。
京都旅行中も、帰ってからもこの話題が続いている。
「情実人事」はどこの世界にもあるが、これは組織ぐるみの「不正人事」だ。
「こんなことはどこにでもある」という受け止め方をする人が多いと思うが、40人採用のうち、20人がなんらかの手を加えられた結果だというから度が過ぎている。
思えば40年近く前、私も教員採用試験を受けた。結果、大阪府内で、10年ほど教員生活を送った。
私の時代は、教員大量採用時代で、志望していた人は、大都市では、ほぼ100パーセント採用されたと記憶している。
教員採用試験を受けるためには、まず教員免許を持っていることが受験資格の要件だ。
中学・高校の免許は、大学でしかるべき単位を取って、教育実習を二週間こなせば、もらえるもので、なるつもりはないが、免許だけは取っておこうという学生が殆どだった。
免許取得者がこれだけいるのだから、大量採用時代といっても、中学や高校の採用試験に合格するのはかなりむつかしいことで、ペーパー試験が優秀であることに加えて、何らかのコネがあれば、それに頼るのは常識といえようか。
これに比べて、小学校の採用は、大量にあるものの、免許を取るには、それなりのハードルがある。
まず大学で初等教員養成コースに入っていれば、そのカリキュラムに沿って勉強していけばいいのだが、教育実習は4週間だ。
小学校のばあい、全教科を守備範囲にしなくてはならないから、音楽から美術から体育も「全く駄目」というわけにはいかない。
今回、不正採用された教員も、この免許は取っているわけで、採用試験のわずかな優劣で、「教員失格」というわけでもないが、公正ではないし、しかもその採用にからんで、商品券という現金にほぼ等しいものがやりとりされてきたのだから、これは「贈収賄事件」である。
私達の時代、多くの人が、自分の通う大学だけでは小学校教員の免許は取れないので、通信教育で免許を取り、教員になった。私もその一人。
在学中に免許を取る、というような手回しのいい人はまずいないので、どうしたかというと、臨時教員、たとえば、産休に入る人の代りとか、病気で休職する人の穴埋めで現場に入って、毎日が実習の生活を送り、夏休み中にある採用試験に挑戦し、そして年度末に小学校教員の免許を取得すれば、そこで晴れて、「正教員」になれる。
1970年代、大都市近郊では、こんな形で教員になることが可能だった。
一般教養を問うような、ペーパー試験は受けたが、2次面接はなかったと思う。
すでに現場で働いているのだから、わざわざ面接するまでもない。
高知県臨時教員制度廃止実行委員会編『嘆きを怒りに』という70年発行の本を持っている。
免許を持ちながら、現場で教員として働きながら、何年も臨時教員として、高知県内のあらゆる地域に赴任させられ続ける教師の実態を告発する書である。
今流で言うコスト削減のために、正式採用されない教師達がいた。今もいる。
大分県でも、親が教員だとか、自治体に顔が利く有力者(議員等)のおかげで、新卒で採用される者がある一方、何年も臨時のまま、採用されない人がいるはずだ。
長野県では、田中知事の時代に、教員採用の年齢の上限を上げ、年齢が採用基準を過ぎていて講師待遇だった教員が正式採用されるようになった。
近所にもその制度改革で、正式採用された人がいる。
地方にあっては、教員、役所や農協の職員、警察官、郵便局員などは安定した堅実な職場として、人にうらやましがられて来た。
JRになる以前の国鉄などもそうで、親が国鉄ならその子どもも国鉄に採用されていたから、「情実人事」そのものだったのだろう。
その一方で、未解放出身者や在日朝鮮人、母子家庭など就職差別に苦しんできた人達も大勢いる。
私が以前、パートで勤めていた会社は家族主義みたいなところで、親子、きょうだい、親戚で、その会社に勤めてきた、という人が大勢いた。
民間会社や町工場はそれでいいのだろうが、公務員は、それこそ「皆様の税金」で成り立っている場であるから、公明正大、一部の人がその場を独占し続けるのは間違いだ。
『源氏物語』でも狭い貴族社会で、近親同士で固まっていると、やがて滅びに向かうことになったし、今の政界も小選挙区導入以来、世襲化が進み、政治の劣化という結果を生んでいる。
それにしても、大分の百貨店あたりでは、商品券のお買い上げが収益のかなりの部分を占めていたのでは、とふと思ったが、目立つといけないからと他へ求めに行ったか。
『源氏物語』ゆかりの旅へ。
7日から9日の日程で、行ってきました。
私は、カルチャーセンターで、この10年ほど「源氏物語を読む」という講座を受けている。
小学館発行のテキストで、原文を一字一句追っていくもので、講師は元信大教授の滝澤貞夫先生。
そして今年は「源氏物語」が成立してからほぼ1000年の千年紀というわけで、「京都御所特別拝観」が組み込まれたカルチャー主催の旅が企画され、参加した次第。
京都で学生時代を過したが、その頃は、古典にさほど興味はなく、御所の周りの公園はよくうろついていたが、中に入ったことはなかった。御所内は宮内庁の管理で、やたらに入れるところではなかったが。
写真などでよく紹介されている儀式の場の「紫宸殿」。
天皇の日常の住居とされる「清涼殿」。
明治維新に際して、国の大変革を決定する会議のおこなわれた「小御所」。など。
平安時代の様式をのこしているのは紫宸殿ぐらいで、あとは、室町時代の書院作り、更に時代の下がった数寄屋造りの様式を取りいれた建物になっている、という説明であった。
だいたい平安遷都以来、何度も火事・戦乱があり、その都度、京都の町の建物は、寺社仏閣から、貴族の屋敷まで焼失・再建を繰り返してきたので、1000年の歴史に耐えた建て物はほぼ「皆無」といっていい。
だいたい御所自体が、平安時代は、もっと西に位置していて、今の京都御所あたりは、貴族の屋敷が並んでいたところ。
内裏の火事のたびに、一時の避難場所、「里内裏」として、貴族の屋敷が使われ、その流れで、現在の場所に移っていったようだ。
私が通った大学(立命館大・文学部)は、御所のすぐ隣、梨本神社の脇にあり、少し北に上がったところに、紫式部の屋敷跡とされる「櫨山寺(ろざんじ)」があった。
今回そこがコースに組み込まれていたので、40年ぶりにそのへんに行けるのかと、ちょっと楽しみにしてたのだが、「櫨山寺」が式部の屋敷跡という根拠はなく、式部の雇い主、藤原道長の別邸のあったところだったという先生の説明でカットされてしまい、がっかり。今は大学はなく、予備校に売却はされてしまっているのだが。
代りに安倍晴明神社に連れて行かれたが、晴明神社より「櫨山寺」のほうがましだった。
泊まりは二条城近くの「全日空ホテル」だったが、すぐ隣には「京都国際ホテル」がある。
この京都国際ホテルは、今年の冊子「木洩れ日」11号の「若者の時代」で取り上げた『二十才の原点』の著者高野悦子が、アルバイトしながら、青春の日々を悶々としたところだ。
「全日空」のほうが、やや格上の感じだが、40年前にはなかった。
このあたりは、中京区といって、職人や商人の町として、いわゆる「町家」が並んでいたところだが、今回行ってびっくり。その「町家」の殆どが、縦長の長方形のマンションに建て変わっていて、林立していた。
このことは、テレビでも報道されていたから知ってはいたが、まさかこれほどの規模とは思っていなかった。よそから来た人間にとっては「醜悪」そのものの風景だが、「町家」の所有者にすれば、「町家風」に立て替えるにはお金がかかるし、不便でもある。いっそマンションにして、1階は仕事場ないしお店、2階以上は自宅と貸しマンションにすればいい、そうすれば税金対策にもなるし、「一石三鳥」と不動産業者なんかに勧められた結果なのだろう。
「町家」は奥に風が通る作りになっていて、それで暑い京都の夏をやりすごす仕組みになっていたのだが、マンションが建ったことによって、風の通り道がなくなり、このあたり、エアコンなしには過せない町になってしまったと思われる。
孤立してへばりつくように「町家」を守る意味がなくなってしまった。
京都市政の無策の結果がそこにある、という感じだ。
「観光で生きる町」と言いながら、正反対の道を行っているような気がするのが、今の京都だ。
各寺院で説明してくれる坊さんの俗っぽさも気になった。
少しも「修行を旨」とする修道者の気配がない。金勘定と自身の欲望を満たすことに関心が行ってしまい、坊さんの仕事は「身過ぎ・世過ぎ」。
これなら地方の名の知られていないお寺や、ガイドのほうがはるかにましだ。
「知られすぎる」ということの落とし穴だが、誰もが簡単に落ちる穴だ。
「吉兆」や「赤福」の不祥事がいい例。
原油高騰が止まらない。
この高騰、という事態の中で、単にガソリンの値上がりということにとどまらず、漁業も農業も、あらゆる産業が、「石油に依存」して回っているのだということを再認識させられた。
漁師は、船を動かす燃料の重油が高くなりすぎて、海に出て漁をすることもできない。
農業は、今は夏だが、温室栽培のための燃料から、肥料、家畜のエサまで、すべてが「石油がらみ」だ。
漁師さんたちの心配は、漁に出られないこともそうだが、それと共に進む消費者の「魚離れ」だという。
統計上も魚は食べられなくなってきているという。魚より肉が好まれる時代だ。
魚は、骨があり食べにくいのが敬遠される理由だ。それと刺身や切り身なら、ともかく、1匹まるごと調理するのもやっかいではある。
船場吉兆の「食べ残しの使いまわし」でも、アユの塩焼きなんかが、丸ごと食べられずに、下げてこられる場合が多かったようだ。
案外、「食べにくい」ことが、箸をつけられない理由だったかもしれない。
アユは「姿焼き」の中では、骨もそれ程硬くなく、食べやすいほうではあるけれど。
それに、「アユの塩焼き」、味はだいたいわかってる、というようなことではなかったか。あゆの塩焼きもピンからキリではあろうけれど。
接待で、連れて来られる客が多い所だし、「接待慣れ」した人達にとっては、見た目のぜいたくな会席料理もありがたくもなんともない。
そういえば、吉兆ほどの高級料亭でなくても、ごく普通の温泉旅館の夕食などでも、近頃、「魚の姿焼き」は出なくなったような。きっと残飯が多いのだと思う。
朝食も、切り身の小さな鮭の塩焼きとか、丸ごと食べられる小魚とかに変わっている。
家族に釣り人でもいて、魚を釣って持ち帰ってくれば、それをさばいて、ということもあるかとは思うが、よほど料理好きでないと、今、家庭で主婦が、「魚をさばく」ということはないんじゃないだろうか。
中学の家庭科の調理実習で、「アジのムニエル」を作った覚えがある。
アジの身の表・裏のぜいごをギコギコ、包丁で除き、硬いヒレの部分を切り落とし、内臓を掻き出し、小麦粉をつけて、油で焼いた。
それとイワシの手開き。私のできるのはここぐらいまで。
ガソリンの高騰で、自転車に乗ったり、歩いている人が目につくようになった。
だから、「生活スタイルを見直す」ということでいえば、これはいい機会なのかもしれない。
ただ仕事で、車がどうしても必要な場合、特に福祉関係(高齢者や障害者介護)を考えると、「崩壊」の2文字が浮かんでくる。
もう一つ「生活スタイルの見直し」ということで言うと、私達の周りにある、あまりに過剰な「化学物質」も何とかしなくては。
「化学物質過敏症」という病がある。これは、日常生活の中で、常に化学物質にさらされているうちに、遂に受け入れられる許容量を超えた瞬間から、ほんの微量な「化学物質」にも反応し、頭痛、めまい、吐き気、呼吸困難などの症状に襲われるというもので、こうなると社会生活を送ることが不可能になってしまう。
化学物質にあふれた都市生活を逃れ、農山村に行けばいいかというと、農村では果樹園や水田での農薬散布や除草剤散布が行われており、山でも、松くい虫の被害を食い止めるとして、農薬の空中散布がされている。
もう逃れようがない、という恐ろしい事態だ。
テレビで、室内の匂いを消すための、消臭剤のコマーシャルがしょっちゅう流れる。
こんなものを信じて、せっせと撒き散らせば、化学物質過敏症になってしまう。「やめろ!」と、ただテレビ画面に向かって叫んでいる。
「買ってはいけない」代表格だ。匂いが気になるなら、「窓を開けよ」。
でも窓を開けると、今度は外から化学物質の匂いが飛びこんでくるのか。
私の家の周囲では、果樹園の消毒と、隣家の人が、たまにプラスチック製のものを自宅のドラム缶で焼く匂いがする。だから、窓を閉めなくてはならない。