木洩れ日通信

政治・社会・文学等への自分の想いを綴る日記です。

解散権は総理の専権事項ではない

2017年09月25日 | Weblog

突然の大義のない解散
サンデーモーニングでは佐高信氏が「モリとカケのそばを食いたくないからでしょう」と、バッサリ切っていたが、私もそう思う。
そもそも森友も加計も安倍晋三の政治の私物化以外の何者でもない。この問題に関しては少なくとも大多数の自民党議員は加担していない。
それなのにいきなり解散だなんて、自民党議員の多くも不満でしょう。選挙となれば、しかも小選挙区必ず当選できるとは限らない。現職議員はまず自分の議席を守りたい。安倍の個人的な問題での解散など大迷惑。
隣国韓国ではパク・クネ大統領が自分の親友(多分にマインドコントロールされていた気配があるが)の言いなりに政治を動かしていたことが発覚し、遂に逮捕、裁判を受ける事態に追い込まれた。これが当たり前の姿である。
彼女もまた父パク・チョンヒの威光で大統領になった。安倍晋三も祖父、父の存在が無ければ総理になるどころか、国会議員に当選する事すらおぼつかない程度の人物である。
隣国は一足先に能力に疑問符のつく世襲政治家の完全退場が成ったが、日本も同様であってほしい。

「解散は総理の専権事項か」
二階だの菅だのという裏へまわって根回ししたり脅したりすることだけが得意な政治屋がまるで大昔から決まっているかのように解散権は総理の専権事項などと言って相手を黙らせようという行動に出たが、今回の解散に関しては「何で?」という当然の疑問が国民や野党はもちろん与党の議員からもあがって、このことにみなが関心を持った。
実は総理大臣が自分の都合で、今回の場合、モリカケからの逃亡、野党が準備が整わない今が有利というような理由で、そうは言わなくてもミエミエな状態で勝手に解散することまで憲法は認めているわけではない、ということがにわかにクローズアップされて、これは日本の政治の在り方のレベルが少しアップするという意味でこれだけはよかった。
世界各国を見れば、首相の解散権に関して縛りがないのはデンマーク、ギリシャ、ノルウェー、カナダとごく少数で、それ以外の国は解散権に何らかの縛りをかけている。
政治の公平性を期すためにそのように変わってきたのだ。野党の準備が整わないうちになどと下劣な理由で選挙を急いだりしない。
例えて言うなら靴の紐を結び直している時に後ろから襲うようなもので、卑怯この上ない。安倍晋三という人間はそういう人間以外の何者でもないとは思うが。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

核保有国が核放棄を朝鮮に迫る大矛盾

2017年09月18日 | Weblog

2回目の「Jアラート」のシャワー
朝鮮のミサイル日本上空通過で、おもに北日本を中心に人々に警告を発せられた。
携帯電話やテレビ、ラジオなどの電源をONにしてればこれが鳴るのかと思っていたが、自治体による拡声器での防災放送でも知らされるらしい。
私の住んでいる地域にはこの防災用の拡声器というものは設置されていないのか、今まで一度も聞いたことがない。隣の地域のものはよく聞こえて来るが(私は境界地域に住んでいる)。
長野地域も「Jアラート」発信の範囲だったそうだがまたもや気が付かなかった。気が付いたところでどうしようもないが。
日本に住む多くの人は、日米安保条約というのはアメリカがいざという時(中国・ロシア、かつてはソ連、朝鮮と武力紛争になった場合)日本を守ってくれるのだという誤解をして今までのん気に暮らして来たと思うのだが、そうじゃないんじゃないかと、今度のミサイル騒ぎで気が付かざるを得ない状態を突きつけられたと思う。
なぜならミサイルが飛んで来たらどうしようもないという現実を見てしまった。
朝鮮戦争以来、朝鮮が敵としているのはアメリカとその支配下の韓国であって、日本ではないはずなのに、いつの間にか、というか安倍晋三とその仲間達によって拉致問題をきっかけに敵国の位置づけになってしまった。
朝鮮は日本など視野にない。「トラの威を借りる狐ならぬ犬」のようにキャンキャン吠えても相手にされない。日本のやることはやたらキャンキャン吠えることではなく、対話の道をあけておくことだ。でなければ日本のこれも多くの人がかつての日本の犯した植民地支配の罪と同等であるかのように騒ぎ立てる「拉致事件」の解決の道筋も見えない。
拉致はあくまで事件であって、事件として解決すべきで、そのためには朝鮮と国交がなくては解決しない。
アメリカの人々にとっては「朝鮮は遠い国、どうでもいい」というところではないか。ミサイルがアメリカ本土を直撃するということになれば騒ぎだすだろうが、日本や韓国やグァムに飛んでくるくらいなら「知ったこっちゃない」というところだ。
朝鮮にだけ「核放棄を迫る」というこの大矛盾、核保有国は朝鮮だけではない。
核禁止条約にすべての国が賛同し、そのうえで朝鮮に核放棄を迫る、それなら金正恩は安心してそれに応じるだろう。
北朝鮮という言い方はやめた。かつての南朝鮮は大韓民国、略して韓国を名乗っているのだから、朝鮮といえば北朝鮮のことだとわかる。朝鮮民主主義人民共和国が正式名だが、略して朝鮮でいいだろう。中国も中華人民共和国だし、アメリカもアメリカ合衆国だろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アメリカ発の見方に疑問を

2017年09月10日 | Weblog

北朝鮮のミサイルが日本の上空を通過したというので、「Jアラート」なる警告音が一斉に鳴ったらしい。
私は携帯電話は所持しているが、いわゆるガラケーというもので、外出先で℡する必要に迫られた時用に持っているだけなので、この騒ぎのまるで蚊帳の外だった。「どうでもいい」という気にしかならない。
ネットの情報で「金正恩はアメリカの諜報機関CIAのコントロール下にある」というのを読んでから「なるほど」とその見方に傾いている。
ついでに言うなら安倍晋三もそうだ。祖父岸信介以来のCIAのエージェント。ミサイル日本上空通過の情報を事前に得ていて、この日は官邸に宿泊し、側近と会合を持っていたと情報通が伝えている。
ホワイトハウスというよりCIAと軍産複合体と言われる米軍と軍事企業の意志は北東アジアの不安定化であり、中国への牽制だ。
私達北東アジアの民はこうしたアメリカとCIA支配下の権力者の「危機の煽り」に乗せられないこと、これが一番肝心。
中南米、中東、アフリカで政府転覆と紛争に狂奔してきたのはこのアメリカの「悪のチーム」で、それに追随してきたのがイギリス、フランスをはじめとしたヨーロッパ先進諸国と日本だ。韓国もそうだが小国なので影響力は弱い。
日本のマスメディアはとにかくアメリカ発の見方しか報道せず、北朝鮮の核・ミサイルについて「中国が、中国が」と盛んに言っているが、さすがにその言い訳は色あせつつある。中国じゃなくてアメリカでしょう。北朝鮮にきちんと向き合わなくてはいけないのは。
政府の代表、つまり大統領が北と正式に平和条約を結ぶべく交渉に踏み出さなくてはならないのだが。そうした政治家としてまっとうな道を歩もうとすると、ケネディーのように暗殺される運命が待っているのがアメリカという国だ。
では私達民は恐怖にふるえて従うしかないのかと言えばそうではないと思う。アメリカ礼賛一辺倒の考え方から抜け出し、相対的に世界の情勢を見ることを多数の人達が身につけアメリカの仕掛ける偽旗作戦に乗せられない認識を持てばいいいのだ。そうすれば少数(アメリカ悪のチームと追随者)は多数(世界中の民)には勝てない。
私はアメリカが素晴らしい国だと思ったことは一度もない。なぜかと考えたら、母を通じてアメリカ人の負の側面、例えばアメリカ人の宣教師などの驚くべき無知と偏見による世界観の一端などを聞いて育ったことによるのではと思う。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

息子を死地に立たせる母の思い。映画『陸軍』

2017年09月02日 | Weblog

木下恵介監督『陸軍』を見る
「戦争」を描いた作品の集中上映をしている長野市内の映画館で鑑賞。
さすが木下恵介、昭和19年制作というおそらく軍当局の厳しい検閲下にありながら現代の眼で見ても充分鑑賞に耐えるものになっていた。
ストーリーは幕末の動乱から始まる。ここが意表をついている。木下監督は息苦しい太平洋戦争末期の時代にあまり時間を割かず、幕末動乱、日清・日露の戦争を国民がどのような思いで見ていたかを描く。
監督が意図したかどうかはわからないが、徳川幕府が支配した250年、島原の乱後日本は大規模な戦争はして来なかったのだ。平和であったからこそ文化や娯楽が発展した。それが幕末・明治以降、薩長を中心に対外的な侵略に乗り出していく。次第に国民も対外戦争を当然の事と思うようになる。その延長上に最大のアジア侵略太平洋戦争があったのだと現代から見るとそう思わせてくれる。
九州小倉の質屋が長州に肩入れするうちに家から軍人を出すのが使命と思うようになる。一家の夫妻を演じるのは笠智衆と田中絹代。笠智衆は後年の間のあるセリフまわしではなく、あれは高齢になって彼が工夫した演じ方であることが知れる。田中絹代は美人というより愛らしいタイプで見ている側に共感を呼ぶ。そして優れた演技者である。
弱虫だった息子を兵士になれるような青年に育て上げた母だったが、「預かりものを天子様にお返しするだけ」と、出征していく息子の晴れ姿を見送りに行くのを我慢しているが、遂に耐え切れず、小倉の街を行進していく隊列の方に駆け出していく。
その時の母の万感の思いを田中絹代が見事に表現した。
よくぞここまで育ってくれた、ここまで育てた、だが息子は戦地で死ぬかもしれない、これでもう会えないかもしれない、映画は母が息子の姿を追う表情を捕らえながら終わるのである。
陸軍の依頼で作られた国策映画なのだが、陸軍が望むような映画にはなっていなかったと思われ、これ以後戦後まで木下は映画の仕事はできなかったという。
児童文学作家の山中恒は著名な児童文学作家達が戦時中に量産し、戦後それらを封印してしまった翼賛児童童話を引っ張り出して批判を加えたが、、それらにはとても戦後の鑑賞に耐えるものはないと言っても過言ではないとまとめているが
子供に戦争・侵略の正当性を納得させることには無理があるということのように思う。桃太郎の「鬼退治」のような昔話なら別だろうが。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする