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木洩れ日通信

政治・社会・文学等への自分の想いを綴る日記です。

知られざる歴史「済州島4・3事件」

2008年04月28日 | Weblog

済州島(チェジュド)4・3事件。
NHK教育テレビ「ETV特集」で、この1948年4月3日から始まった、済州島の人民蜂起弾圧事件の事実を追う番組を見た。
レポーターは二人。
一人は在日2世の映画プロデゥーサー李鳳宇(リ・ボンウ)さん
韓国映画『シュリ』を日本に輸入しヒットさせ、韓国映画の存在感を日本に広く知らしめた。
『シュリ』は南北分断を背景にしたスパイアクションに、北の女性スパイと、南の男性情報部員の恋愛をからめたすぐれた娯楽映画だった。
李さんは、その後も常磐炭鉱の、閉山後の再生を期した事業「ハワイアンセンター」の目玉、フラガールの育成と奮闘を描いた『フラガール』や、自身の朝鮮高校の体験を基にした『パッチギ』といった映画のプロデゥースを手がけてきた。
その李さんの両親は済州島出身。
4・3事件以降の混乱を逃れて、日本に密航、大阪に根付いた。
そんな李さんであるが、両親は済州島の事件に関して殆ど語ることなく亡くなった。
人民蜂起側にシンパシーを持っていた両親は、日本では「朝鮮総連」の活動を熱心にになったが、80年代、訪問した北朝鮮の実態に失望し、その後韓国籍を取得し、李さんは両親の故郷済州島の村に墓を立て、毎年墓参りを欠かさない。
もう一人は、金東日(キム・トンイル)さん
抗日闘士の父を持ち、14、5歳の頃、青年組織の一員として、人民委員会の連絡係を引き受けていた。
金さんは逮捕される体験をしたが、その後やはり密航で日本に渡り、今は東京江戸川で「お弁当や」をしている。
今回、韓国政府の「済州島4・3事件犠牲者慰霊祭」への招待に応じて、60年ぶりにチェジュの土を踏んだ。
金さんは連絡の途中、山に潜んでいるところをとらえられるのだが、行動を共にしていた女子組織の副委員長は処刑された。
朝鮮半島の、日本による植民地支配、そして解放後の東西の大国(米ソ)の綱引きの犠牲になるさまは、日本の原爆や大空襲。沖縄戦の犠牲者以上に悲惨だ。
少なくとも日本人民の場合、軍部と政府による戦争の方針に進んで従ったという事実と責任がある。
朝鮮人民にとっては、この植民地支配と「アジア・太平洋戦争」の結果は、「人災」でありながら「天災」のごとく、避けようもなく押し寄せてきたものだ。
日本の敗戦で、朝鮮の人々は「解放」に湧いた。
しかしその時すでにソ連とアメリカは38度線で、朝鮮半島を分断することを決めていた。北は金日成、南は李承晩がそれぞれの大国の意を受けて、権力を握ったが、まだそれは流動的なものであった。
戦時中、日本軍の要塞として、中国本土への爆撃の給油地とされ、日本本土決戦に備えた壕などもたくさん掘られた済州島は、一方で抗日の気分の強い地域だった。
他国の支配をようやく抜け、新しい国づくりを目指した済州島では「人民委員会」が組織され、人々の平等な暮らしを目標に活発な活動を開始していた。
これに危機感を持った李承晩政権は、警察権力をもって弾圧した。
植民地時代に日本によって作られた警察組織は、解放後も温存され、これを李政権はフル活用する。
一方、北では、急激な社会主義政策で、土地を取り上げられた地主達が、南に流れてきて「西北青年会」なる組織で李政権側の後押し勢力となった。
追い詰められた「人民委員会」は武装蜂起で、困難を切り開こうとする。
1948年・4月3日、集会の場にいた少年が、警官の馬に蹴られたことから、人々は警察署に押しかける。
人々の鎮圧に慣れていない朝鮮本土から派遣されていた警察官らは動揺し、人々の群れに発砲する。
48年11月から数ヶ月の間に、1万人の島民が、「暴徒」ないしは暴徒をかくまった名目で殺される。
政府軍の運転手を務めた経験のある男性は、「島民殺害は、兵士に殺人体験をさせるため」という司令官らの会話を聞いていた。
1,950年の朝鮮戦争は北朝鮮軍の南下から始まり、南朝鮮軍は一時、釜山まで追い詰められるが、米軍の助けでソウルを奪回する。
恐怖した李承晩は、これ以降、徹底的に左翼勢力の掃討に乗り出す。
「左翼勢力とみなす」、いわゆる予備検束により多くの人が殺害される。
この弾圧から逃れるために多くの朝鮮人が日本に密航。金東日さんも李鳳宇さんの両親もこの流れの中にあった人達だ。
歴史学者の家永三郎氏は自著『戦争責任』の中で、日本は、そして日本人は、植民地支配とアジア太平洋戦争の結果としての朝鮮南北分断に責任があると書いている。
日本人には「反韓」も「北朝鮮非難」も言う資格はほんとはないのだ。
徹底した「左翼弾圧」は、金大中政権誕生の少し前まで、韓国の「国是」として続いた。
4・3事件と共に、1980年5月の「光州事件」も、日本人が長らく知らないでいた事件だ。
ところで今済州島は、こんな血塗られた歴史事実以上に、リゾート地として、また韓国ドラマの舞台として知られる場所になっている。
わたくしお気に入りの韓流スター、イ・ビョンホンが天才ギャンブラーとして主演したドラマ『オールイン』は、済州島のリゾートホテルが主要舞台となった。
また、ヨンさまことペ・ヨンジュン主演の歴史ドラマ『太王四神記』(NHK総合で放映中)の撮影は、この地に壮大なオープンセットを作って撮影され、ヨンさまファンが押しかけた。
そして、松代高校の修学旅行が、今年初めて、済州島を訪れ、太平洋戦争末期の戦跡に触れた、の新聞記事も。
「光と影の交錯する島・済州島」である。



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悩ましいチベットと中国の人権抑圧問題

2008年04月22日 | Weblog

北京オリンピック聖火リレー、チベット問題で混乱。
中国も国際社会で認められようと思えば、国内の人権抑圧問題なと衝かれるのは仕方ない。
チベットまでの高速鉄道が開通して、それを追うNHKのスペシャル番組を見たが、秘境と思っていたチベットも、高速鉄道とともに自由主義経済の波が押し寄せてきていて、純朴だったチベットの人達が、商売慣れした漢民族に翻弄され始めている様子が感じられた。
ホテルなどの中国人経営者は、秘境を求めてやってくる各国の観光客目当てに、チベットの田舎の民芸具などを、チベット人の従業員に案内させて、買い集めていた。
チベットの心ある人達が「チベット文化」が失われてしまうと危機感を持つのもわかる。
世界に名だたる「華僑」の伝統を持つ中国商人にかかったら、チベットらしさなど、あっという間に駆逐されてしまう。
中国は、鉄道を通して、チベットの生活水準を上げて、いいことをしてると思っているのに、肝心のチベットの人達には反発され、世界からは「人権侵害」だと叩かれ、「心外」だろうが、漢民族が第一位、チベット族は二位以下、という考えだろうから、そこが反発の根っこなのだろう。
話はそれるが、今回の騒動で、中国政府の見解を報道陣に発表する報道官、日本で言えば官房長官のようなものなのか、この女性報道官は一目見ただけで「傲慢そうなイヤな奴」という印象の人だ。
欧米人にはわからないかもしれないが、似たような顔立ちのアジア人にはすぐわかる。
こんな報道官が出てきただけで、理屈抜きに「反中」になってしまう。
多分、成績はものすごく良くて、背景も親族に共産党の有力幹部がいて、それでこの地位にいるのだと思うが、いかにも人を見下した雰囲気は中国のためにならないと思うけど。
以前にもやはり嫌味な女性報道官がいた。
胡錦壽氏など、最高幹部の見た目の印象は悪くないが、こうした中間位置にある人に碌でもない人物がいそうだ。
「自分より下だと思っている人間に威張るのが仕事」と考え違いしてる役人。日本にもいそうだけど。
NHKは「激流・中国」という特番をシリーズで放映しているが、そこでは、中国内陸部に、「文化大革命時代」の下放よろしく、沿岸部の豊かな家庭の学生が、臨時の教師になっていく姿や、近頃頻発するようになった、土地の収用をめぐっての行政当局と人民との争いに人民側に立って問題解決に当たる弁護士を登場させ、大発展中の「中国の光と影」を映し出している。
かなり踏み込んで、さまざまな矛盾を追っているように私には感じられ、中国当局が、よくこうした取材を許可したなあという感想を持つ。
「人権侵害」と「言論弾圧・けん制」というと、すぐ中国が槍玉にあがるが、それだけではない底流もある、と感じさせる番組だ。
フランスやイギリスでの聖火リレー妨害行動には「やりすぎじゃない?」という印象も正直持ったが、また「国境なき記者団」なる組織には、アメリカCIAから資金が提供されているらしいとのことで、この世界におこっていることは「絶対正義」、「絶対不正義」と簡単には分けられないようだ。



政局を語る小泉を持ち上げるのは、堕落したマスコミ人だけ。
小泉元総理が「解散風が吹いてきた」などと語り、何やら怪しげな動きを始めたことに対して、テレビ朝日、朝のワイドショーのスーパモーニングで、ゲストコメンテーターのコント山口君という芸人が、「今、小泉さんに語ってもらうべきは、自分が総理だった時に決めた後期高齢者医療制度に附いてどう思うのか、違憲判決の出た、空自のイラク派遣について、自分の下した判断はどうだったのかとか、そういうことでしょ」と、まっとうな怒りの発言をした。
これに対して、三田園という政府自民党の太鼓もち記者は、山口君の発言に正面から向き合うことなく、話をそらし、あくまで政局話だけをおしゃべりしていた。
今や、こうした大手マスコミの記者達は、永田町界隈をうろついて、そんな政局話にばかり気を取られているのだろう。
そして国民の側の気持や怒りに目を向けようともしない。
こんな人種は信用してはいけない。
常にお客さん、特に庶民に向き合っている芸人の言うことのほうに真実がある。



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軍隊と戦う作家と詩人の場合

2008年04月16日 | Weblog

軍隊の不条理を衝く大西巨人の『神聖喜劇』。
NHK教育のETV特集。
私はこの小説をまだ読んでいないが、劇画にもなって若い人にも読まれているという。
1916年生まれの大西氏が25才で配属された先は、対馬の砲台。
ここで重砲兵としての教育訓練を受けることになる。
その時の軍隊体験が『神聖喜劇』という作品になった。
大西氏は子どもの頃から抜群の成績で、飛び級で中・高を終え、九州帝国大学を卒業後は反戦の活動などもしていた。
その大西が召集されて対馬にやってきた時の心境は「自分はこの戦争で死ぬべきだ」というものだった。
なぜなら、この戦争の愚かしさを、普通の人よりはるかに正確に認識している自分は、だがその戦争を止められず、もうすでに自分より下層の学歴もない農漁村の青年達は大量に死んでいる。
ならば、自分もその青年達と運命をともにすべきだと。
これは、学徒動員で特攻などに散っていった多くの青年達の心境でもある。
兄弟で『特攻』の著書を出した、私の大学時代の恩師・岩井忠熊先生と兄の忠正氏の心境もこのようなものだった。
小説では、大西氏を反映した新兵は東堂太郎、東堂らの直接の上官として、軍隊の不条理を体現するのは大前田文七という軍曹だ。
東堂は、軍隊内の不条理に、その類まれな記憶力で対抗する。
軍隊内では、まず、一人一人に下賜された小銃を分解し、組み立て、その部品の一つ一つの名称を記憶するという任務が課せられる。
大前田は、東堂に、銃の各部の名称を、構造に沿って唱えるよう命ずる。
入営したてでは、それを正確に言うのはむつかしい。まず無理といっていい。
大前田は、それを大学出の東堂に言わせ、言えなければ、思い切り罵倒して、自尊心をズタズタにする魂胆だ。
ところが東堂は、一つの間違いもなく言ってのけ、大前田のもくろみを突き崩した。
大前田が、東堂を目の敵にするのには、その前段階があった。
入営したての朝、東堂ら新兵は、朝の呼集の習慣を知らされていなかった。そのために、時間に遅れてしまうのだが、その際、「なぜ遅れた」の上官のとがめに、「呼集の決まりを知りませんでした」と言ってはならないのだ。知らないと言えば、それを知らせていなかった上級者の責任、落ち度となる。
だからこの場合「忘れました」と言わなければならない。
「上官殿は言ったのに、私がそれを忘れました」。責任はあくまで下級者にある。
他の新兵は「忘れました」と言うが、東堂だけは「知りませんでした」で通す。
これで大前田に目を付けられていた。
ところが、この東堂の言い分に呼応した者がいた。冬木2等兵だ。
「冬木は先ほど忘れました、とウソを言いました。忘れたのではありません。知らなかったのであります」。
小説では、冬木は被差別出身者として描かれている。
軍隊という組織は、責任を限りなく下級者に押し付ける組織なのである。
上級者の責任は問わない。上級者の責任を追及していくと、それは日本軍全てを統帥する「大元帥天皇陛下」の責任に行き着いてしまうから。
こうして、アジア太平洋戦争は、「限りない無責任体制」のもとで遂行されていった。
昭和天皇が、自身の「戦争責任」を生涯自覚しなかったのも、そもそもそうした責任体制の外に置かれていたからでもある。
軍隊の不条理を体現する大前田軍曹も、無自覚のうちにその役割を果たしているだけともいえる。
農村出身の彼は、狩り出されて軍隊に入った。職業軍人ではない。3度目の召集でもある。本心をたどればイヤイヤだ。死にたくはない。
その彼も遂にしくじる。禁を犯して愛人と密会をしたことが発覚。営倉送りになる。
その連行されていく姿を東堂だけがたまたま見送る。
30才ぐらいとされる大前田だが、度重なる召集で、彼の青春は奪われきたのだ。
大西氏は、この砲兵訓練の後、「私はこの戦争で死ぬべきではない、いや生き抜かなくてはならない」と考えを変えるのだ。



さて、大西氏は軍隊体験をしたのだが、詩人金子光晴は、一人息子を軍隊に送るまいと、あらゆる手を尽くした父だった。(これもETV特集)。
召集されないよう、松の枝をいぶして、息子に喘息を起こさせ、2度目には、村の医者に頼んで、結核の診断書を書いてもらう。
殺し、殺される戦争にわが子をまきこませないための父のなりふりかまわぬ行動だった。
目だたぬよう山中湖近くのバンガローに、光晴と妻、そして息子の3人で暮らし、手書きの抵抗の歌を家族で記した。
戦後、学校で「同世代が戦って傷つき、死んだのに、なんとも思わないのか」と詰問された息子ケンは、困ったような顔をしていたが、後ろめたい風ではなかった。父と共に拒否したという自負があったからでは、と当時の友人が語っていた。
大西巨人も息子のために戦った。
大西の息子達は血友病という宿命を負ってこの世に生まれたが、長男の赤人が県立高校進学の際、学力試験は合格していたのに、その病のために入学を拒否された時、学校に、文部省に抗議し、息子がもういいよ、というほど行動した。
結局、赤人は進学しなかったが、父と同じ作家の道を歩んでいる。



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「靖国」という異空間

2008年04月09日 | Weblog

映画『靖国』への政治介入。
日本に来て19年という中国人監督リ・イン氏のドキュメンタリー映画『靖国』に対して、国会議員達が事前試写を文化庁に要求、これをきっかけに上映を決めていた映画館が次々上映を自粛するという事態に。
この映画は、文化庁の助成金を得て作られたもので、海外ではすでに高く評価されている。週刊新潮が、「反日的だ」という記事を掲載したことで、自民党内部の右翼派議員達が試写を要求した。
試写を要求した議員達は、ではそれを見た上で、「こんな映画は日本のためにならないから上映をやめさせろ」とでも言うつもりだったのか。
そんな要求はしていないと代表の稲田朋美議員は言っているが。
ナレーションなしの、つまりできるだけ主観を排して、8月15日に「靖国」に集まってくる日本人を追った映画になっているとは見た人達の感想。
日本で最も知られた神社「靖国」だが、この神社に行ったことのある人と言えば、やはり軍人遺族会の関係者と右翼組織、右翼的心情の人達が大半か。
桜の名所でもあるので、東京在住者ならそれを目当てに行く人達も多いだろう。
新暦のお盆の7月始めの「御霊まつり」も夜店なんかが出てけっこうにぎわうらしい。
けれども日本の多くの人々にとっては、名前はよく聞き、特定の時期にクローズアップされるも足を踏み入れることのない場所だ。
私は、毎年発行している冊子『木洩れ日』の参考にと、3年前に初めて行ってみた。
5月の連休中だったので、閑散としたもので、境内だけなら「ここが靖国だ」というほどでもないが、圧巻?はやはり付属の施設「遊就館」だ。
そこは時間が止まった異空間であり、60年以上前の日本の起こした戦争は正しかった、やむをえなかったと思いたい人達にとっては「癒しの場」なのだろうと思った。
この空間だけは、ゴチャゴチャうるさいこと言われずに自分の気持をわかってくれる場だと。
戦争で死んでいった人達と気持を分かち合える、と勝手に思い込める場所。死者は語りませんから。
過剰な自主規制で上映中止を決めてしまった映画館、どこも上映するところはなくなって、稲田議員らの「思う壺」なのかと思ったら、逆に「上映してやろうじゃないか」と名乗りを上げる映画館が出た。それは大阪の十三という庶民の街中にある小さな映画館が最初だったが、それに続く映画館も出てきて、5月から日本各地で見れるようだ。
長野県では松本市で上映が決まった。
こんな騒ぎにならなければ地味なドキュメンタリー映画として、一定の期間上映されて終わりになるところが、かえって「見てみたい」と言う人が増えて、とんだ藪蛇になった。
日本在住の中国人が作った映画、それは特に強く主張を押し出す手法ではないそうだけど、「日本が外からどう見えるか」ということは、画面に表れているのではないだろうか。私も見てみたいが・・・。



沖縄集団自決、軍の強制は捏造の悪罵に対して。
沖縄の地上戦で、沖縄県民は生活の原資を根こそぎ日本軍に奪われた。
生き残ってからの地獄は大空襲の被害者とも共通する。
そんな沖縄の人々が頼ったのが、「戦傷病者戦没者遺族等援護法」だ。
厚生省は、1958年以降、地元遺族会などの要望を受ける形で、積極的な戦闘参加による死亡と認定されれば遺族給付金を受けられるようにしたのである。
そこで、援護法の適用をうけるために、実際には日本軍から壕を追い出され、食料を奪われた末の死が、積極的に壕や食料を提供し、戦闘に参加して死亡したとされた。
こうして5万5千人が「戦闘参加者」と認定され、実態と異なる「公文書」が作られていった。
そこでは遺族給付金が受給できるよう市町村の職員の「善意」の指導・協力があった。そのために軍属と認定され、勝手に靖国神社の手で合祀されてしまっている例もある。(週刊金曜日№694号より)
集団自決死した人々にもこのように処理されたケースがあって、これに曽野氏等は飛びついたのである。
「軍の命令ではない。それは沖縄の住民が自ら選んだ決断だと」あるいは「給付金ほしさに自決命令を捏造した」と。
沖縄戦の実相はこうした戦後の実態も含めて、変質させられている部分があって、これを解明しないと沖縄県民は救われない。



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反論に答えて深まる真実

2008年04月03日 | Weblog

ガソリン暫定税率期限切れ。
で、特に私自身に影響はないが。1円でも安いほうへと目の色変えるタイプではないので。
本来の税の上に暫定的に税が加算されていただけで、その期限が切れて、税率が下がったからといって、混乱が起きるはずはない。
福田首相は「国民に申し訳ない」と言うが、何に対して申し訳ないというのか。税金が下がって申し訳ないんですか?
だとしたら、福田首相の考える国民は、道路族議員とか、道路建設にかかわる業者とか、国交省の役人達のことなんでしょう。
時に需要と供給の関係で物の値段が下がることはあるけれど、一般国民の税金が下がったためしがない。金持ち優遇のために税を下げることはよくやってますけどね。



マニラ、日本から廃棄物流入
中国や朝鮮半島から日本への漂流物被害のことを書いたら、日本も、海には流さないけど、船で廃棄物になるようなパソコンやテレビなどをフィリピンに持ち込んでいた。(信濃毎日新聞)
マニラ港近くのゴミ投棄場では、子供達も金属を取り出して生計を立てている。
テレビやパソコンには鉛やカドミウム、水銀など有害な物質が含まれていて、解体目的の輸出は有害廃棄物の移動を規制するバーゼル条約違反なのだという。
そういう条約の存在は知らなかったが、パソコンの基板や導線を燃やして金属を取り出すことで確実に健康が蝕まれていく。
テレビやパソコンを廃棄する時に払っているあのリサイクル料金はどこへ行ったんでしょうか。



沖縄集団自決訴訟原告敗訴の判決
沖縄戦での最終局面での、座間味島と渡嘉敷村での集団自決は、守備隊長らの強い示唆があってのこと、と大阪地裁は裁決した。
太平洋戦争末期の沖縄県民の受けた悲惨は、米軍という以上に日本軍に追い詰められた結果が大きいというのは、今まで「歴史の自明」だったが、
元守備隊長梅沢裕と故赤松嘉次大尉の弟が、「自分達は命令をしていない」として、軍による自決命令の存在を強く示唆した大江健三郎の「沖縄ノート」と出版元の岩波書店を「名誉毀損」で訴えたことに対する判決だった。
この判決を聞いて私が思ったことは「正論は反論によって鍛えられ、より事実が深まる」ということだった。
たとえば、「軍の強制性」を否定したい人がすぐ持ち出すのが「命令文書がない」というやつだ。
そういう発想は、現代の平和な状態での役所仕事から想像するものだ。
何かといえば、会議ばかりして文書を作ることを仕事にしていると、「文書」がすべてということになる。
だが絶え間のない艦砲射撃にさらされ、ちょっとしたことでスパイ扱いされ、軍にとっても貴重な武器である手榴弾を配られれば、「もう自分達はここで死ぬしかないんだ」と思い込まされる、これこそ文書以上の心理的圧力・命令だ。
軍の命令なり意向は現地の行政の任に当たっていた役場の職員などから口頭で伝えれるのが常で、島全体が戦場なわけで、文書を作っている余裕はなかったはずだ。それに文書命令がたとえあったとしても、軍隊という性格上、それは伝達後破棄されたと考えるのが自然だ。
当時沖縄の識字率はどれほどのものだったかは知らないが、新聞を購読するのは役場、学校など限られていて、情報はこうした官のものからだけと想像できる。
テレビ、インターネット等で自由に情報を取り込める現代とはまるでかけ離れた状況であったということに思いをはせなくてはならないだろう。
沖縄の人たちは、本土の人々以上に皇民であろうとした。そうでなくては、日本軍から「沖縄人はやっぱり日本人じゃない。」と切り捨てられる。
当時、昭和一桁生まれの少年・少女ほど「皇民化教育」が徹底されていて、明治生まれの人達はそれ程でもなかったという証言も目にした。
梅沢守備隊長らに訴訟に踏み切る意志を強く持たせたのは、作家曽野綾子氏の「ある神話の背景」という著作だが、私は曽野さんは小説家なのに、こうした当時の沖縄人が置かれた状況をなぜ想像してみようとしないのか、とても不思議なんですが。



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