2014年も暮れていく。
一体来年は日本はどうなっているのか。暗澹たる気持ちと、そうなってほしくない根拠のない希望が錯綜している。
映画『望郷の鐘』を見る。
満蒙開拓団として敗戦3か月前に中国大陸に渡り、現地で逃避行の途中で妻と次女を亡くし、長女は残留孤児となり、自身だけがシベリア抑留を経て故郷にたどり着いた山本滋照氏の足跡をたどった映画である。原作はこの時代を描いた作品の多い長野市の作家和田登氏の「望郷の鐘」だ。
寺の住職であると同時に小学校の教員を務めていた山本氏は現地の小学校の教員として是非にと頼まれ、妻と二人の娘と共に阿智郷開拓団に加わることになる。
現地に着くと、先遣隊によって建設されていたはずの住宅などは野火によって焼けてしまっていて辛うじて学校だけがのこっていたというありさま。そして3か月後ソ連軍の国境を超えての侵入を知るのである。
頼みの関東軍はすでに南に移動し、国の勧めによって満洲に渡った開拓団の人々は現地に捨てられる。
苦しい逃避行の中で、「生きることをあきらめてはいけない」と言い続ける山本。しかし避難所にソ連軍がやってきて、16歳以上の男子は強制的にトラックに乗せられシベリアへ。
関東軍は自分たちが去った後はソ連軍の侵入を阻止すると称して橋を爆破してしまったので、逃避行の人々はとうとうと流れる川に入って向こう岸に渡らなければならない。ここで山本の妻とその腕に抱かれた幼い次女が流され命を失う。
そして長女は中国人に託される。
昭和22年、阿智村に戻った山本氏は阿智郷開拓団として満洲の地に果てた人々の名簿作りに奔走する。その活動の中で現地に残された孤児の存在に行き当たり、ここからはよく知られた山本慈照氏の残留孤児帰国のための活動が始まる。
中国との国交回復以前、国の役所、厚生省、外務省、法務省の対応は実に冷たいものだった。
その行き詰まりに打開の糸口を示してくれたのは自身も満洲からの引揚者で、妹を中国に残して来た新聞記者だった。
今、阿智村に満蒙開拓団の悲劇の歴史を刻む資料館が開館し、歴史の改ざんをもくろむ側と対峙している。
原爆資料館もそうだし、長野市松代の大本営地下壕跡も戦争の記憶の場として存在している。
満蒙開拓と原発立地は企てる側の発想は同じだ。
農村・地方の貧困を利用し、危険な任務や立地をだまして押し付ける。
満蒙開拓は情報が遮断された時代、各市町村の役所が先頭に立って送り込んだ。そして今、原発事故がその地方全体を人が住めなくなる場所にしてしまうことを知りながら、政府が再稼働を促し、立地自治体がそれを要望する。70年前よりたちの悪い時代になった。
正統と異端への集中
私が購読しているブログの「世に倦む日々」氏の分析によると、今回の選挙、「アベノミクス反対」、「原発再稼働反対」、「集団的自衛権行使容認反対」を政策に明確に掲げた共産党・社民党・生活の得票率は前回2012年の選挙と比較してほぼ横ばい。
つまり、左派への支持は共産党に集中。これを「共産党の政策が支持された結果だ」と喜んでばかりもいられない状況なのである。
自民党という戦前からの政党の流れも含んで、一貫してごく短い期間を除いては政権党だった政治勢力と、一般国民にとっては異端と受け止められてきた共産党が支持された構図、これは第二次世界大戦に向かうドイツの政治状況とよく似ているのだという。
ナチス党が独裁体制を敷く直前の選挙ではナチス党とともに共産党も空前の躍進を遂げたのだ。
しかしそれも「水晶の夜」と称されるナチスの陰謀でっち上げ事件によって、共産党は一気に追い落とされるのである。
異端への支持というものは、何かをきっかけとして一気に崩れるものである。
しかも21議席という数は共産党にとっては共産党躍進時代以来の議席数で、法案提案権を得るなど国会でその存在は無視できないものになるとしても、自公に維新、そして党内右派に牛耳られる可能性の高い民主党が翼賛体制を組めば、安倍政権のもくろむ軍事に傾斜した政策をを阻止することはできない。
やはり異端の横には大多数の国民の利益を代弁する社会民主主義の政治勢力が必要なのだ。
今回、マスコミが早くから自民単独で300超えかの選挙予測が出て、それが低投票率を誘発したと言われたが、「世に倦む日々」氏によれば、それで投票に行かなかったのは無党派層ではなく、自民支持層だという。だから自民党の議席でみれば微減という微妙な結果になったのであって、もしこうした層が投票に行っていれば、自民単独で絶対多数を得たかもしれないという。
若い世代の右傾誘導に成功した支配層。
今までの日本史教科書を「自虐史観」として退け、「新しい歴史教科書を作る会」が発足したのは今から20年あまり前ぐらいになるだろうか。
教科書の採用率自体からすれば、「つくる会」の教科書を使っている学校は少数にまだとどまっているが、文科省による検定強化によって、他の教科書の内容も検定ではねられないよう、自主規制が進んで、都合のいい物語ではない、史実に基づいた近現代の歴史に若い世代は驚くほど無知にさせられてしまっている。
歴史だけでなく、国民の権利についても学ぶ機会を奪われ、ひどい労働環境に置かれても、それは自己責任と思い込まされ、労働者としての正当な権利があることにも思い及ばない。
労働組合が弱体化してしまい、ここでも若い世代は学ぶ機会を奪われてしまっている。
ソ連をはじめとした社会主義国の崩壊の中で、理想を語ることができなくなってしまった左派陣営。
左翼だと思われたくなくて、「右でも左でもない」と自分の立場を相対化して、器用に立ち回る「脱イデオロギー」が、大学の教師にも社会活動家でも一般化した。
安倍晋三のようなおよそ知性のかけらも感じさせない世襲政治家を許している、「左派の敗北」である。
鼻が効かない日本国民。
選挙前、私にはこれほど説得力のない安倍晋三の言い分に接しながら、4割もの国民が支持をするという、その心理がどうしてもわからなかった。
安倍は「丁寧に説明してご理解いただく」という言葉を何度となく繰り返したが、丁寧に説明したことは一回もない。多分丁寧に説明すればするほど、支離滅裂になってしまうことは間違いないが。
対抗する野党がバラバラとか、消費税の10パーセント増税を先送りしたために争点がぼやけたと言われるが、原発再稼働まっしぐら、秘密保護法施行、集団的自衛権行使容認と、直接命を脅かされる政策をおしすすめようとしている政権に「待った」をかけようとは思わないのか。
安倍暗愚狂暴政権に絶対多数を与えた選挙結果を伝える翌日の新聞に人々の声が掲載されていたが、「アベノミクス」とやらの効果にまだ期待している人がいるのにはあきれた。富裕層でもなく、大企業の経営者でもない一般の人が、権力者にこんな期待をしているとは。
経済学の理論は知らなくても、生活の実感として、日銀が札を刷らせて世の中に回し、株高を演出するために市場に介入する、そんなことで実体経済が上向くはずがないという直感が働かないとしたら、それは生物としての退廃だ。
金でもない銀でもない紙幣の価値は、その紙幣を1万円とみんなが認めるという「信用」という虚構の上に成り立っているだけで、そんなものがいくら出回っても実体経済とは何の関係もない。
この2年間、安倍政権は国民のためになることは何一つしていない。そしてこれからさらに国民を不幸に陥れるために年末の不意打ち解散に打って出て、悲しく悔しいことにむざむざとその邪悪な陰謀を許してしまった。
これからは反安倍政権の一票を投じた人も、投票に行かなかった人も等しく受難の運命を覚悟しなければならない。
公明党もこれから暴走の片棒をますます担ぐことになる。ここまで自民党と共に歩んでしまっては、もうそこを離れる運命など考えられない。
考えてみると宗教団体というものはおおむね信者でない者も不幸に巻き込む役割を果たして来た。
安倍晋三は統一教会と深いかかわりを持っていることは周知だし、幸福実現党というのも裏で独裁政権実現に手を貸しているのではと思われる。そして創価学会だ。
格差社会が進むと、反政府の運動が起こる前に戦争待望や排斥主義が起きる。
今の日本がまさにそうだ。中国への反感、韓国人への憎悪表現として表れている。
中国や朝鮮は一度も日本を侵略していないどころか、攻めて行ってひどい目にあわせたのは日本の側なのに、勝手に敵対心を持っている日本人の何と多いことか。
歴史に無知だということを明らかにしているもので、恥ずべきことだ。
棄権は危険の道への同意。
序盤の選挙情勢の報道には驚愕した。
これほどの失政をひた走っている安倍政権にさらなる失政をどうぞ、私たち国民を思う存分いたぶってくれと頼んでいるマゾヒスト達によって、とんでもないこと、あの戦前、戦後の日本国民が「なぜあんな馬鹿な戦争にみんな賛成し、熱狂したんだ。信じられない」と軽蔑した同じ道が選挙後に現実化していく。
自分は無党派だ、どうせ変わらない、と気取っている場合ではない。悲惨な運命に巻き込まれたくなかったら、絶対棄権してはいけない選挙だ。
「原発再稼働反対」、「集団的自衛権行使容認反対」、せめてこの二つの主張をする政党、個人を見出す努力をして行動を起こさなくてはいけない。
自民党が単独で3分の2の議席を獲得してしまえば、「憲法改悪」が現実化する。おそらく自民党内で「戦争まっしぐら」に危惧を持つ辛うじてそういう常識人がいても、彼はあるいは彼女は孤立が怖くて茫然と大勢に従ってしまうだろう。
安倍晋三は今や手の付けられない駄々っ子、悪ガキのようなもので、周囲の大人がその横暴を止められない状態だ。
首相経験者の故宮澤喜一氏は「モノ・カネは取り返しがつく」と言っていたという。
消費税問題はとりかえしがついても、集団的自衛権、原発再稼働の問題は将来的に取り返しがつかなくなる事態を確実に迎えることになる。
序盤の情勢では5割近くの人が投票先を決めていなかった。決めないまま棄権をするのではなく、無理やりにでも自公、その他右翼的な候補以外で投票先を決めなくてはいけない。
安倍政権の暴走政治で恩恵を受け、それでいいという層は一割もいないはずだ。なのに絶対多数をその政権に与えてしまう、そんな馬鹿げたことがあっていいはずがない。
共産党が支持を集めている。しかし共産党が議席を倍増させても集団的自衛権行使容認も原発再稼働も止められない。
2014年12月、日本の誤った道がここから加速し、未来に生きる人々を悲惨な運命に陥れる、そんな罪を私たちは犯すことになる。
定数削減は身を切る改革か。
江田憲治を代表とする「維新」は何かというと国会議員の身を切る改革として「定数削減」を言うが、これに国民はだまされてはいけない。
現在の小選挙区比例並立制度で、定数削減をすると、無所属と弱小政党はすべて消え、新自由主義と軍需で生き延びようとする勢力の代弁者と、そのおこぼれに預かる議員だけになってしまう。
国会議員は(地方議員もそうだが)それぞれの階層の代弁者として立候補し、当選してからはその階層の要求するところの政策が実行されるべく法律を制定するのである。
今や自民党は海外で企業活動を展開している大企業と、マネーの売買で利益を上げる投資家のための政党であり、かつての中小企業や農民の利害にも配慮する政党ではない。
そんな政党にマスコミの刷り込みがあるとはいえ、40パーセントもの人々がフラフラとただ何となく支持を与えるとはとんでもないことである。
自分の位置する階層をよく見極め、それに近い政党なり人物に託すというのが、民主主義の第一歩だ。
「どうせ何も変わらない」と投票にいかなければ、権力とお金と組織を持っている政党や人物を議会に送るばかりである。
定数削減は大政党の陰謀といっていい。「維新」は大政党ではないが、自民党の補完勢力としての位置を与えられている。
彼らが「定数削減」ではなく、「政党助成金廃止」を言えば、それこそ大多数の国民の代弁者としての資格を得る。
圧倒的多数を誇る自民党も実は公明党の下支えがあってこその多数であり、創価学会信者でないその他多くの国民に自分の意中の候補を定め投票に行かれたら、その多数は危うくなる。だから何とかして選挙への関心をそらそうとマスコミを使ってキャンペーンを張る。
「一強多弱で野党は頼りない」。「来年4月の消費税増税にはどの政党も反対しているのだから、争点がぼやけた」などと言うが、安倍自民党に打撃を与えなければ、政府に都合の悪いことはみな「秘密、秘密」で国民は目隠しされるし、その中で軍事だけは突出していく。
権力の監視どころか身内になってしまった大手新聞と中央テレビ局。
政府の言うなりの官制報道をする新聞やテレビに存在意義はない。なぜこうまで頽廃してしまったのか。
詳しくは知らないが、今や特にテレビ局の採用は何らかの「縁故」なくしては決まらないという。
つまり既得権者の身内ばかり。みのもんたの息子の例でもわかる通り。自分たちがどちらかというと権力に守られている立場なのだから、権力を批判し、疑問を持つという発想がない。
みの氏程度の人気タレントどまりだと、不祥事をもみ消すほどの力はなかったようだが。
新聞社も多分学閥が幅を利かせる組織に成り下がってしまっているのだろう。
その中で権力を持つ上部に出世するのはどこでも同じ「ゴマすり」の上手な人間である。
わずかに地方新聞の中にジャーナリズムの矜持を保っているところもある。沖縄の「琉球新報」や「沖縄タイムス」、そしてわが地域の「信濃毎日新聞」。
ただ「信毎」は大局的な問題では気を吐いているが、地元の利害が関わってくると腰が引ける。(リニア新幹線の問題点を深く掘り下げることは避けている)。
テレビ局には期待しないが、新聞は人々の知りたい報道を真摯に追及しないと廃刊が待っている。
共産党の選挙戦術はファシズムに手を貸すことか。
政策の一つ一つにどこか腰が引けた部分がある他の野党に対して、共産党の政策は明解だ。
「消費税増税中止」、「アベノミクス反対」、「秘密保護法廃案」、「集団的自衛権行使容認閣議決定撤回」、「原発再稼働反対」など。
しかもこれらは世論調査でも国民の大多数が望んでいることばかり。ならば自公対共産党というのがこの選挙の構図ではあるのだが、現時点では共産党の掲げる世界観が人々に理解され共有されている状況ではない。
そこで次善の策として「反安倍政権統一戦線」が組めればこれこそ安倍政権の最大の脅威となり、眠っている国民も目覚めるというもの。沖縄では実現している。
全選挙区の構図はわからないが、中には共産党があえて候補を立てないで、自民党候補を落選させる戦術も可能なのではというところがあるような気がする。
しかしわが長野一区を見ると、自民、民主どちらが小選挙区で勝ち抜こうとも、次点候補が比例で復活当選してしまうので、あえて共産党候補に立候補を取り下げてもらう意味はない。むしろ党の政策を訴えて比例票の掘り起こしに務めたほうがいいのだろうと思う。
共産党は公正な社会の実現のために活動しているのであれば、全体としてそのような社会に一歩でも近づけることが使命のはずで、それならば「わが党が、我が党が」と自己主張するばかりが能ではないはずだが。