『昭和天皇の妹君』河原敏明著(文春文庫)を読みおわり、『明仁さん、美智子さん、皇族やめませんか』板垣恭介・著を読んでいる。
『昭和ー』のほうは、皇室ジャーナリストの河原氏が、実は三笠宮崇仁氏は双子で、同時に生まれた女の赤ん坊は、内密に里子に出され、後、奈良の円照寺の門跡になった、という噂を実証するべく、関係者への取材を重ねた航跡をたどった書である。
三笠宮が双子であろうとなかろうと、どうでもいいことなのだが、そこには、今に続く「皇室の隠蔽体質」というものの流れが見えて、それが考えさせられる。
かつて、「双子を生んだ母親は畜生腹といわれ、とくに男女の双子は情死者の生まれ変わり」として、忌み嫌われるという俗信・迷信があった。
三笠宮の母、つまり大正天皇の妻である貞明皇后は、賢明な反面、占いや俗信を非常に重く考える性質で、生まれる前から双子らしいということはわかっていたので、一人のほうは生まなかったことにして、ひそかに里子に出した、というのだが、表向きは誰もが否定するのだが、なぜかその噂は絶えない。
尊いはずの皇室の、しかも皇后が畜生腹ではまずい。
由緒ある寺の門跡等には、かつて皇族関係者が就いている。
善光寺でも大本願の尼門跡は皇族・華族(より皇族に近い)出身者だ。
「尊い血筋」であるために不都合なことは隠蔽する、これは「皇室の宿命」だ。
河原氏自身は「皇室尊崇者」だと思うが、それゆえに「不都合なことを隠蔽する」体質を憂えている。しかしそれもまた矛盾だ。
「不都合な事実」が明らかにされれば、国民は「皇室の存在」を認めなくなる。
双子などということは、「不都合な事実」に値することではないから、河原氏も追跡したのだと思うが。
この文庫の元になった文章は河原氏が昭和59年(1984)に週刊誌および月刊誌に発表したもの。
『源氏物語』の昔から、皇女に生まれることはその身分の高さゆえに悲劇的である場合が多い。
生涯を通じてみれば、尼として過す一生が即悲劇ないしは不幸と言えるものではないかもしれないが、まだ幼いうちに生涯の道を決められてしまうことはやはり不都合なことだと思う。
『松代でなにがあったか!』という松代大本営建設に関する地元西条地区住民の証言集を読む。
戦後60年の記念出版として、2005年12月8日(太平洋戦争開戦日)に発行されたもので、買ったまま積んでおいたもの。
私は長野市松代で史跡案内のボランティアをしているが、江戸時代の松代藩の史跡とともに、この太平洋戦争末期にひそかに建設が進められていた地下壕のガイドもボランティアでは取り組んでいる。
首都東京も空襲されるにいたって、本土決戦に備えて、大本営、天皇御座所、政府機関を松代に地下壕を作り疎開させる計画が、昭和19年秋から実行に移される。
その地下壕建設は、松代西条地区の舞鶴山麓、および象山のふもとで始まる。
舞鶴山のほうは、大本営と御座所。象山のほうは政府機関だ。
この本は、当時の西条地区の住民の記憶に基づく聞き書きのみで構成されている。
私が今まで見逃していたことは、この地下壕建設にあたって、地元西条地区住民が、急な立ち退きを迫られて、親戚や知人を頼って、あわただしい引越しを強いられた事実だ。
松代は養蚕の盛んな地域であったが、そうした用具などは、野ざらしにして置いていくしかなく、敗戦で元の家に戻った時には、みな腐って使い物にならなくなっていたという証言がいくつもある。
軍関係者、工事を請け負う建設会社関係者、そして実際に穴掘りをする多くの朝鮮人労働者が入り、工事関係のトラックが行きかい、労働者の住むバラック小屋などが建てられ、大変な騒ぎだったはずなのに、戦後、この地下壕のことは封印されていた感がある。
私も子供の頃、この地下壕建設について殆ど聞いたことがなかった。
この地下壕を世の陽の中に引っ張りだしたのは、地元篠ノ井の旭高校郷土史班の高校生と顧問教師だった。
にわかに脚光を浴びることになった「幻の地下大本営」。
この大規模な戦争の負の遺産は、平和運動を進める団体にとっても大きなより所の一つとなっていく。
1997年、公開されていた象山地下壕の脇に、千葉県の団体によって「資料館」として、地下壕建設時に「慰安所」として使用されていた建物を復元するという計画があることを知った、地元の人達が、このことを事前に知らされていなかったこともあって、にわかに反対運動をくりひろげていく。
98年の長野冬季オリンピックにあわせて開館を目指していた団体はこれを当面断念する。
近頃、従軍慰安婦問題がまた、軍の強制があったの、ないの、と騒がしくなっているが、このときも、少し前に、「河野談話」という、従軍慰安婦として、心身ともに傷ついた女性達に対する謝罪の言葉があり、
また「村山談話」という、アジア諸国に対しての日本による中国・東南アジア侵略戦争の謝罪の言葉あり、という雰囲気の中での運動団体の計画であったのだが、地元の人達は「慰安婦」という言葉にいたく反応した。
この時、団体側が、館設立の趣旨をよく説明するべきだったのだが、それがなかったために、こじれてしまった。
象山地下壕へ向かう入り口近くに「慰安婦の家建設絶対反対」の看板を見た時、「まあ、何と!」という感想を持った。
地元のかたくなさの方を、私はまず感じてしまったのだが。
「慰安所」とされた家は、元々は、この西条地区に、長野県で初めて作られた器械製糸工場「六工社」の女工さん達のクラブというか、文字どうりの慰安施設だったもので、それが、太平洋戦争末期、「慰安所」に転用されたものである。
地下壕建設には多くの朝鮮人労働者が徴用されたが、その労働者達を束ねる朝鮮人現場監督達らの慰安所ということではあったようだ。
またこの本では、朝鮮人との交流も証言されていて、そこには野菜やその他食料をもらったり、あげたり、また子供同士は仲良く遊んだりという、ご近所づきあいが成立していたことが伺える。
差別や偏見、憎悪は、いつも意図的に作られるものであって、庶民の中から自然発生的にうまれるものではないことを改めて思わされる。
ユーゴスラビアやルワンダの民族浄化の名による殺し合いや虐殺も煽動するものがあってのことなのだろう。
研究書や論文ばかりでなく、こういう素朴な証言書も合わせて読むことが必要と感じた。
「再生」という名の破壊。
信濃毎日新聞3月14日付け、大内裕和松山大助教授(教育社会学)の寄稿だ。
教育基本法の改定など、阿部内閣のもとで、1段と加速する「教育改革」を、大内氏はそう言う。
近年、教師達は、「評価」を受け「成果」を目に見える形で残すため、膨大な書類作成の事務に忙殺されていると書いている。
振り返って、我が教員時代は、民主主義の手続きを踏むための「会議」がやたらに多かった思い出がある。
これは、上からの締め付けといいうより、教員達自体が、何かことを始めるには「まず、話し合って、お互いに確認しあったこと以外のことはしない」というためのものであったが。
「話し合う」ということそのものは、悪いことではないが、何でもかんでも話し合わなければ、前へ進めないというのも、何かおかしな具合のものだった。
当然、ことの軽重によって、個人の判断というか、独断ですすめていいこともあるはずだが、そういうことを許容しない空気があったように思う。
集団の中には、ものごとをモノサシではかったように、きっちりあてはめないと気がすまない人が必ずいる。そういう人に限って、自己の正しさを疑わず、それを人に押し付けて恥じ入らない。
しかし、今の教師の置かれている現実から思えば、「牧歌的」だったと言える。
そういう時、教員の近視眼的民主主義を正し、バランスを取る役割をするのが、リーダーというか、校長の見識だった。
今は違うようだ。率先して形式を追う人が校長などの役職に就いているらしい。
会議は踊り、その上、現代は事務機器の発達で、書類が飛ぶ。
その結果、一番肝心な、「子供と向き合う」時間が、教員から奪われている。
これを取り戻さなくては、ほんとうの教育再生はないと、大内氏は主張している。
「現場知らずの、著名人が語る現場改革」。それが教育再生会議であり、中央教育審議会だ。
現場教育の体験のあるのは、ヤンキー先生こと、義家弘介さんだけか?
「子供のゆとり教育」は早々に見直されてしまったが、「教員にゆとりを」は必要だ。
今日のコメントコーナー。
東京都知事選のおもな候補が出揃って、そろってテレビ出演。
石原氏はいつもの暴言・妄言が影をひそめ、やや低姿勢で、勢いがない。
石原氏を支持していた人は、彼の暴言をリーダーシップと勘違いして、拍手してきたのだろうに、元気のない石原では、つまらない、と思っているのでは。
何のために立候補したのか不明な黒川氏。私は黒川氏の黒髪が気になってしかたない。
年を取っても、ハゲもせず、白髪にもならない性質なのかもしれないが、染めているのだったら、即刻やめたほうがいい。
黒髪は若い肌にこそ合う。老いた肌には白髪が似合う。
建築家なら調和ということを考えてもらいたい。まあ、黒川氏の建築があたりの調和を乱していると、評判の悪いものもあるようだが。
共産党推薦の吉田氏。この人が案外いい。
共産党は、反石原の票を割ってしまう、とよく言われるが、石原氏の多額の交際費等を暴き出したのは共産党。
真っ先に立候補に手を上げたのは、吉田氏。降りろ!と言われる筋合いはない。
むしろ、いまいちスタンスが鮮明でない浅野氏を左から揺さぶるという意味がある。
これで、石原氏が当選するんだったら、それも都民の限界というもので、その責めは都民が負うべきものだ。
私は、「木洩れ日」という個人冊子を出していますが、2006年度分をようやくこの3月上旬に発行いたしました。
2006年度は『太宰治を読む』です。
なぜ太宰かと言うと、?高校時代にサークルで太宰治を取り上げ、読んで論じたことがあること。?彼の作品の中で、中学の国語の教科書に採用され最もよく読まれているはずの『走れメロス』は、勇気と友情を賛美する物語などではなく、そう見せかけて、実は「こんなことは有り得ないよ」と、皮肉にあざ笑ってみせる「悪意の物語」ではないかと、ふと思ったこと。?女優白石加代子の演じる朗読芝居『お伽草子・カチカチ山』を見て、小学生の頃、タヌキを退治したそのことを後悔するウサギの「カチカチ山後日談」なる芝居を見たことを思い出したこと?NHKの「名作平積み大作戦」で取り上げられた太宰の『女生徒』が、等身大の女生徒の生態がリアルに描かれていることに感心し、何で太宰はこんなふうに書けるんだと思ったこと?いわゆる文学史に載るような文豪の作品が、今の若い人から遠い存在になっているのに、太宰だけが若い読者の心をつかんでいるらしいこと、などなど。
これだけあれば何か書けるのではと思ったのだが。
太宰に関する資料を少しだが読んでみて、改めて知ったというか、考えさせられたことは、
「斜陽」や「女生徒」などの作品が思った以上にその元になった素材に負っていることだった。
「斜陽」が太田静子の日記を元にしていることは知っていたが、太宰がしたのは、原作の日記の構成をより小説らしく、洗練させたことぐらいだったとは。
「女生徒」のほうは、元になった日記というか、手記があったというのはまったく知らず、「ああ、それで」と納得。
いくら、太宰が女性に人気があり、女性の気持がわかる人であったとしても、30歳の男性作家が、10代の女学生の気持になるというのは無理がある。
だからといって、太宰が人の作品を切り張りして、盗作まがいのことをしたんだとか、そういう風には特に思わない。
これらの素材を提供した女性達も、太宰が書いてくれることを期待し、予想していたようだし。
また太宰の語り調の文章は、幼い頃に聞いたふるさと津軽の民話のものだし、学生時代に習い覚えた義太夫の語りのリズムで、これはなかなか真似のできない独特のものだ。
私も多少なりとも文章を書く者として、太宰のやわらかい文体には学ぶものがある気がしている
知人、友人のみなさんには、さっそく送らせていただきましたが、冊子「木洩れ日」御希望、ありましたら、http://www.dia.janis.or.jp/~rieko/
にメールアドレスがありますので、送付先お知らせください。お送りいたします。無料です。なお他の号も(1・2・4号以外)はありますので、どうぞ。
今日も引き続き映画の話題を。
『それでも僕はやってない』この映画は、誰もがぜひ見たほうがいい。
映画館での上映を見逃した人も、テレビ放映やDVDで。
誤認逮捕、そして冤罪は誰のところにも突然襲ってくる。
その時、どうしたらいいか、学習しておいたほうがいい。
映画では就職の面接に出かけようとしていた青年金子徹平が、満員の電車で、ドアーにはさまった上着を引き抜こうともがいた行動を痴漢行為と誤解されて、警察に逮捕されてしまう。
警察官は、最初から徹平を犯人として、彼の言い分を聞こうとしない。
警察は、いったんつかまえた者は、もう犯人と決めてしまうのだ。
それが警察というところだと、私たちは覚悟したほうがいい。
いちいち、言い分を聞いて、裏づけをして、などということは面倒くさいからしたくないのだ。
特に軽犯罪とも言うべき痴漢事件などは「男なら誰でもやるだろう」という感覚なのだ。(それは刑事さん、あんたでしょ)というところだが。
警察官の作った調書を精査する立場の検察官も、たくさんの事案を抱えているので、これも早く仕事を片付けたい、調書に矛盾がないか、などと見る気はない。
そして、裁判官も検察官と一緒。
警察・検察・裁判所、この三者は仲良しグループだ。
誤認逮捕されたとき、どうしたらいいか。普通の人は顧問弁護士など持っていないから、当番弁護士を呼んでくれるよう要求しなければならない。
知らないでいると、そういうことも教えてくれない。
そして、警察の調書に簡単にサインしてはいけない。
しかし大多数の善良な市民は、ふだん警察には縁がない。
捕まえられ慣れしていれば別だが気が動転してしまう。
警察には近づかないようにするのが一番だが、こちらが近づかなくとも向こうが一網打尽に網をかけてくる。
犯罪者をつかまえるためにとにかく網をかけて、すべて引き揚げて、雑魚を捨てるというやり方だ。
つい最近も、鹿児島で、県議選の選挙違反を、警察によってでっち上げられた村民がようやく無罪を勝ち取った事件があったが。
「やっていないこと」を「やっていない」と言い続けることがいかに困難か。
警察は自白をさせるプロだ。自白に頼る捜査は邪道のはずだが、これが一番面倒でなくて楽。
とにかく面倒を嫌うのが警察という場所であり組織だ。
警察がこうなってしまうのにはシステムの問題があるのだろうが。
メンツと成績主義。事件をでっちあげてでも成績を競う。
ボウッとしたごく普通の若者である徹平だが、友人や担当弁護士とともに、無実の証明の実験をする。
しかし、裁判所の判決は・・・。
周防正行監督は、よくこの映画を作ってくれた。
法律は何のためにあるか、警察や検察や裁判所は何のために存在するか、
それは国民のためでないことだけは確かだ。少なくとも今の日本の状態は。
2006年カンヌ映画祭パルムドール賞受賞作「麦の穂をゆらす風」映画館にて鑑賞。
ここ2、3年のうちに見た映画の中で、最もすぐれていて、最も考えさせられ、そして激しい映画だ。
アイルランド・イギリス・ドイツ・イタリア・スペインの共同作品。監督は名匠ケン・ローチ。
1920年のアイルランド。イギリスの圧制に苦しむアイルランドの人々。
若者達がホッケーの試合を楽しんだだけで、「禁じられている集会にあたる」と、痛めつけにイギリス軍兵士がやってくる。
兵士の尋問に英語で答えようとしなかった若者ミホールは拷問にあい、あっけなく殺される。
イラクの米軍、中国や東南アジアでの日本軍、中南米でのスペイン軍、そして大英帝国の世界中に出ていっての横暴が、頭の中を走馬灯のようによぎっていった。
青年デミアンは医師として歩みだしたばかり。ロンドンの病院に赴任しようとしていたが、英軍の横暴に、抵抗のためアイルランド義勇軍に参加する道を選ぶ。
アイルランドの丘や野原や岩の蔭で、義勇軍の若者達が軍事訓練をする。
デミアンの兄テディは、英軍に捕まって、生爪をはぐ拷問を受けても、口を割らない義勇軍のリーダーだ。
遂にイギリスは、アイルランドに大幅な自治を認める条約を結ぶ。
ここからが、悲劇というか、考えさせられる事態の始まりだ。
条約をめぐって、自由への第1歩だとして、イギリスとの妥協を容認する派と、あくまで完全な自由を要求して戦うべきだとする派に義勇軍が割れていく。
これは歴史が繰り返してきたことだ。
現実派と理想派の対立は、革命や改革の後に必ずやって来る。
今の日本でも、長野県政あたりでも。
田中知事の改革に、田中知事を押した人の中から異論が出てきて、ついには相手陣営の応援に行ってしまった人がいた。
長野県政の場合は、権力を持っていた田中知事が革命派で、それについていけない人達が、離れていくという構図だったが。
それはともかく、テディとデミアンの兄弟も対立していく。
テディは現実派、デミアンは理想派。
理想派の暴発が始まる。
テディは実行犯の行方を教えるよう弟のデミアンに迫る。
デミアンはそれを拒否する。
かつてデミアンは、義勇軍の情報を漏らし、味方に打撃を与えた仲間を粛清した。
そして今度は、自分が兄の手によって粛清されるという運命の巡り会わせを迎える。
ラストは衝撃的に終わる。
「麦の穂をゆらす風」はアイルランドの古くから歌われている民謡だ。
残酷な圧制あり、抵抗あり、しかしアイルランドの野を風は吹き抜ける。
アイルランドのイギリスに対する抵抗運動のことなど良く知らなかったが、北アイルランドなど、いまだに問題を抱えていることなど、改めて思い起こさせられた。
アイルランドとイギリスの関係を描いた映画では、デビット・リーン監督の「ライアンの娘」を思い起こすのだが、あの映画も、この両者の関係を良く知って見ていたら、もっと感慨深いものになったのだろうと、今改めて思う。
米・英はこの200年ぐらい、ずうっと今日まで手を組んで悪いことばかりしてきた、という感想も持った。
パレスチナもイラクも、テロリストって簡単に言えない。アイルランドの義勇軍と同じではないだろうか。
イギリスの政府や軍隊はほんとにひどいことばかりしてきたが、そのマイナス面を引き受けるかのようにイギリス映画は優れている。