木洩れ日通信

政治・社会・文学等への自分の想いを綴る日記です。

松本サリン事件と警察発表そのまんま報道

2009年06月28日 | Weblog
松本サリン事件から15年。
当初犯人視された河野義行さんが、松本サリン事件の実行に関わり刑を終えた元オウム信者の藤永宏三さんと交流する様子をテレビのワイドショーで見た。
藤永さんはいかにもいい人、きっと若い頃は物事を真剣に考え、悩み、適当に世渡りをすると言うようなことは下手な人という印象を受けた。
左翼運動が「連合赤軍事件」の無残な結果により退潮したあと、さまよえる若者達をひきつけたのが「オウム真理教」のような修行的宗教集団だった。
そういえば連合赤軍も、陰惨な山中のリンチに関わってしまった若者達は超真面目で、自身の、そして仲間の「共産主義化」を真剣に考えた結果、とんでもない袋小路に落ちてしまった。
連合赤軍のあとに登場した「企業爆破」を企て実行した「東アジア反日武装戦線」のメンバーも実に禁欲的で、遊びより革命だった。
松本サリン事件では、マスコミも警察発表を鵜呑みにし、河野さんを犯人視した報道をし、それを読んだり見たりする受け手もこの流れに乗せられて、河野さんを傷つけた。
15年前に比べるとインターネット等で多様な情報を取ることができるようになったが、私達はどれだけ起こる事件に関して、客観的な見方ができるのだろうか。
少し前、中央大教授殺害事件の容疑者として元教え子が逮捕された。
テレビの報道は、教授の判定で留年させられたり、その後就職したものの職場になじめず、転々としたりした恨みを教授に向けた身勝手な犯行というものだった。
しかしネット上では、テレビでは報道されない角度の視点があった。
容疑者は15年前に両親を亡くし、その後は祖父母がバックアップしていたが、その祖父母も亡くなり、そんな中で留年しなければならなかったわけで、理工系の学費の高さを考えるとその負担は相当なものであっただろうという。結果的に身勝手と言われても仕方ないかもしれないが、教授への恨みは大きかったことだろう。
どんな犯罪にも必ず「動機」がある。それを警察の記者会見では、例えば、「むしゃくしゃしてやった」などという簡単な動機発表しかしない。
それだけ聞かされれば「何だそんな程度のことで殺人を犯すのか」と、容疑者へのマイナスの予断を持つことになるだろう。
警察に作文能力がないのか、ただ面倒くさいからなのか。
それと容疑者の方も初動の取調べに対して、自分の行動や動機をそう簡単に明かさないだろうし、理路整然と動機を説明できるものでもないだろう。
動機の精査をし、犯罪の背景をきちんと解明しないと、裁判員制度はこうした警察や検察や裁判所の持って行く方向への追認制度になるしかない。
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命と引き換えの医療・臓器移植

2009年06月22日 | Weblog

今週国会では「臓器移植法案・A案」が衆議院で通過した。
脳死になった子供の臓器も親の承諾があれば移植を認めるというもの。
移植医療の核心は「心臓移植」だ。心臓移植を可能にする状態は脳死しかない。人の命と引き換えでなければ成立しない医療技術。
特に子供の場合、いったいどれぐらいの割合で「移植しか助かる道はない」と宣告されるような重い心臓の疾患を抱える子供がいるのか知らないが、「移植という方法でなく心臓病の人の命を救う方法」の医学研究は進んでいるのだろうか。
「脳死による移植に反対」というわけではないが、医師達(外科医)の関心が移植という技術にあるような気がしてならない。
先年、「闇の子供達」という映画を見た。タイの貧しい農村の子供達が、先進国の幼児性愛者の犠牲になると共に臓器移植の道具にされていく様子が描かれていた。
持てる者が貧しい者の命を買う。「臓器移植」という技術は命を奪うという危険をはらんでいる。同時に命をつなぐのだ、生かすのだという考え方もできることも理解はするが・・・。この問題は悩ましい。

作家太宰治が今年生誕100年である。同じく100年を迎えるのは松本清張に大岡昇平。
私は毎年ささやかな個人冊子を出しているが、06年に太宰治のことを書いた。なぜ太宰をと思ったかというと、高校時代に文学のクラブで太宰を取り上げて読んだり論じたりしたことがあったのと、最近の若い作家たちにも太宰は読まれているというので、その魅力は何かと探ってみようと思ったのだ。
そして一つ言えることは、太宰の文学・文体が「語りの文学」だということ。これが、まるで自分に語りかけているような気にさせる。
太宰の文学で最も読まれているのは「人間失格」。ダメ人間の自分に寄り添ってくれる「青春の書」の趣がある。
松本清張は20代の頃よく読んだ。いわゆる本格ミステリーものより、社会派的なもの、あるいは名も無き人々の犯罪に転落していく人生を描いたものなどのほうが印象に残った。
大岡昇平も小説を少しと、あとエッセイはよく読んだ。
今読んでいるのは「レイテ戦記」で、これは太平洋戦争末期、30代後半で召集され、フィリピン戦線の死地をさまよった大岡氏が、このフィリピン戦線に関する日米の資料を駆使し、それに自身の体感を合わせた戦争の記録で、読み応えはあるが読みにくい。まだ読了していない。
個人冊子「木洩れ日」のURLはこちら。http://www.dia.janis.or.jp/~rieko/

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反貧困の主張を国政の場に

2009年06月16日 | Weblog

日本郵政の西川社長続投人事をめぐって、ついに「鳩山総務大臣更迭」で、麻生政権の命脈もきわまったという感じだが、麻生政権て、土台の腐った家のリフォームをしようとして、かえって更に家の寿命を縮めて崩壊に導いてしまった不良建設会社のよう。
「郵政民営化」にあたってはその利権を我が物にしようとする一団がいるようで、そこへ導いたのが小泉政権であり、実際の仕事をしたのが竹中平蔵元総務大臣であるという構図が「あぶり出し絵」のように浮かびあがってきつつある。
だけどこれまで大手メディアは異常なまでに竹中氏を出演させまくってきた。私はこの人のおよそ反省とか自省とかと程遠い顔つきがイヤなので、出てくるとチャンネルを変えるか、消してきたので、何をどう主張しているのか正確には知らないわけだけど、かつて「ああ言えば上祐」と言われた空疎な雄弁家がいたけど、そんな感じでまくしたてているという想像はつく。「居直り平蔵」と命名しておく。
「政権交代」への渇望が国民の中に広がり、またその可能性が出てきてる情勢なのだが、果たして民主党が自民党に代って国民の願いを実現・実行していく政党なのかという点では疑問がある。
08年末は「派遣切りの嵐」で暮れたが、そもそも「製造業への派遣」を容認する端緒になった99年の「派遣法」に反対した政党は共産党だけだった。
共産党に柔軟性を求める意見は多いが、この党が労働者の立場に立った主張を譲らないことが辛うじて歯止めになっていく気がする。
国会ではあまりに勢力が小さいために現実的「歯止め」になれないではいるが。
地方の首長選挙などでは、「よりましな首長」を選ぶために柔軟性を発揮したほうが良いのではと思わされる場面は多い。
しかし「国政選挙」では何も民主党に譲る必要は無い。外交・憲法・防衛など国のかたちにかかわる政策では民主党と殆ど相容れないのだから主張する場が必要だ。
そしてこれからは既成の政党ばかりでなく、例えば、「反貧困のネットワーク」の湯浅誠さん達や、「病気・災害・自死遺児に進学の夢を」と、遺児みずからが活動している「あしなが育英会」のメンバーらが政治の舞台に立っていければと思う。
そのためには政治の場に出て行くハードルを下げなくてはならないが。
ちなみに今の奨学金制度は単なる「教育ローン」でしかない。
不況下の就職難の中で奨学金返済に苦しんでいる苦学生OBの問題も深刻だ。

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日本総馬鹿状態

2009年06月11日 | Weblog

一旦終息しかかったと思った「新型インフルエンザ」の流行がまたぶり返したようで。
しかしニュースを注意してみると、このインフルエンザが豚起源であることが全く触れられない。
新型インフルエンザがなぜ発生したのかという原因を突き止めるのではなく、インフルエンザの対策にばかり話が行くのは全くおかしい。
きっとまた時期を変えて新しい感染症が広がる事態が起きるだろう。
人間が動物や植物や自然に対して利益のために作為を加えることをやめない限り。

自民党は「国会議員の世襲問題」を結局うやむやにしてしまった。
選挙情勢から言って、今のところ「世襲候補」ほど当選確実なのだからどうしようもない。
「世襲問題」とからめてNHKの「視点・論点」という番組では、公職選挙法から兼職禁止の規定をはずし、立候補へのハードルを低くすることが必要だと解説していた。
選挙に立候補するために休職ではなく、退職しなければならないので会社員など普通の人が立候補するには大変な決断が必要となる。
結局親が政治家という人間が一番参入しやすいわけで、人材の供給が狭くなり、それが政治の劣化を招いていて、「永久政権」が夢のはずの自民党にとってもこれは決していい傾向ではないはずだ。
それと何かと言うと、自民も民主も議員の「定数削減」を言うが、一票の格差を是正することなく、また今の小選挙区制度のままでそれを実施すると、「国民の代表」としての国会議員の数が益々減ってしまい、国民の政治に対する無力感が広まり、「日本沈没」の引き金になってしまうことだろう。
それに日本の議員の定数は諸外国に比較して多すぎるというわけではない。
「定数削減」をこの2大野党が言うのは、それ以外の社共系の勢力を排除したいがためで、この論に国民は乗ってはならない。
それより、よりましな議員を選ぶ目を養うことの方が重要だ。
より民意が反映しやすい選挙制度なくして「定数削減」を認めてはならない。

東京からの各停の新幹線「あさま」の自由席に乗って、乗客のマナーの悪さにびっくりした。
私は大宮から乗り込んだのだが、2時過ぎの列車はかなり混んでいた。
席がない。しかしよく見ると、荷物が置いたままになっている席がかなりある。空いているのならそれもいいだろう。しかし乗り込んでくる人がいて、デッキに立っている人もいるのに荷物をどけようとする人はいない。
しかし熊谷で降りていく人たちがいて、すぐ座れたのだけれど、通路を挟んだ向こうの二人掛けの席を占領している中年のサラリーマン風の男は荷物は座席に置いたまま膝の上でパソコンをいじっていた。
途中高崎で、パソコンが入っていると思われる黒いカバンを持ったワイシャツに黒ズボンの男達が大勢降りて行ったから何か企業の会合でもあって特別混んでいたのかもしれない。
その一団を見ていて何か不気味なものを感じた。
この人たちは自分では何も考えない、考えようとしない、ただ集団の流れに乗って動くイワシのような存在だと思った。
自分のこと、自分の勤める会社のことしか考えない、それ以外のことには全く無関心な人が増えているのか。それで利益をあげようなんて虫が良すぎるというか、バカとしか言いようがない。

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資本主義か、社会主義かの線引きの呪縛

2009年06月05日 | Weblog

CS朝日ニュースターに「週刊鉄学」という武田鉄矢が司会する番組がある。
先週のゲストは「資本主義崩壊への道」という本を書いた広瀬隆氏
広瀬氏によると、今やアメリカの知識人たちの認識は資本主義は崩壊したというものであるという。
今回のマネーゲームの主役ウォール街を現す言葉は傲慢・強欲・腐敗である。
株の大暴落で一瞬にして莫大な資産を失ってしまったという話があるが、しかしお金そのものがどこかへ消えたわけではなく、必ず売り抜けに成功した者がいるはずで、そのお金はどこへ行ったか。
タックスヘイブン(租税避難地)に行っている。それはたいていかつての大英帝国の島々だ。
世界中でマネーゲームに翻弄されその波のために苦しんでいる人々がいるのにそんな人々を尻目にマネーを溜め込んで知らん振りしている連中がいる。
ヘッジファンド=シティーバンクという図式で、そこに関わっている者達は、時期が来たらまた強欲なマネーゲームを展開することをあきらめていない。
だからこそ規制が必要なのだ。
広瀬氏は投機資金が実際の原油や穀物価格に影響するようなシステムが間違っていると指摘している。
主流の場で物を言う人たちは、すぐ資本主義と社会主義を線引きしたがるが、その呪縛に落ちてはいけない。
理論で線引きするのではなく、実際の社会・経済活動の中で、共に生きていける方法は何かと知恵を出し合うのがこれからの道ではないか。
バングラデシュの経済学者でノーベル平和賞を受けたムハマド・ユヌス氏が語る番組を少し見たが、ユヌス氏が提唱するのが社会的ビジネス。
社会の役に立ち、人々の幸福に貢献するビジネス。
ユヌス氏はバングラデシュの裕福な宝石商の息子に生まれ、少年時代はボーイスカウトの活動に熱心だった。アメリカで経済学の博士号を取得し、母国の大学で経済学の教授をしていた。
社会主義か資本主義かではなく、母国の貧しい人々が自立していくにはどうしたらよいか考えて始めたのが無担保の「グラミン銀行」だ。
我先にと儲けを目指す経済活動はやがては行き詰る。
山菜取りや漁業を思い浮かべてみればいい。たくさんあるからといって根こそぎ取ってしまえば、すぐ資源は枯渇してしまう。
持続して収穫できるように必要な分だけ取る、それを人々はルールにしてきたはずだ。
一部の強欲で傲慢で腐敗した者達だけが富を独占すれば、貧しい人々は消費もできず、社会は回らない。普通の頭があればわかる理屈だが。
公正取引委員会はコンビニ最大手のセブンイレブン本部に独占禁止法違反を指摘、改善要求をした。
具体的には、賞味期限の迫った弁当の値引き販売を禁止しているのは本部の力を利用した圧力としたということである。
セブンイレブンの各フランチャイズ店に対する圧力はこれにとどまらないが、そんなニュースのあとに地元新聞「信濃毎日」はセブンイレブンの最高責任者鈴木敏文氏のインタビューを掲載している。
「危機乗り切る経営、成功体験と決別を」と、もっともらしいことを言わせているが、鈴木氏主導の成功体験は、フランチャイズ店のオーナーを絞り上げての成功であって、暴力団の上納金とよく似てる。
鈴木氏は長野県埴科郡坂城町出身だそうで、だからなのか。このニュースを知った後ではこんなインタビュー実に白々しいが。
そして昨日(6月3日)の同紙には「コンビニ店経営者が労組」の記事が。セブンイレブン加盟店経営者70人が都内で会合を開き、年内にも「セブンイレブン経営者ユニオン(仮称)」を設立することを決めたというもの。
弁当類の値引き販売の容認とともに本部と加盟店の利益配分見直しなどを求めていくという。
「根こそぎもうけ主義」で、鈴木氏は「セブンイレブンいい気分」なのか。
76歳の鈴木氏。私はチャールズ・ディケンズの「クリスマスキャロル」の主人公、強欲・冷酷の商人スクルージを思い起こす。
スクルージは改心して、心の幸福を得るが、あの小説には博愛の神が介在していた。鈴木氏には「ご利益の神様」しかないか。

コメント (4)
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