木洩れ日通信

政治・社会・文学等への自分の想いを綴る日記です。

司馬・塩野両氏の「物語風歴史読み物」の罪

2011年01月30日 | Weblog

「司馬遼太郎が好きな人は村上春樹が嫌い、ないしはわからない」のだそうだ。
これは内田樹という今人気の哲学?の先生のお言葉だそうで、CS朝日ニュースターの「週間鉄学」という番組で司会の竹田鉄矢が披露していた。思わず笑ってしまった。言い得て妙。
竹田は大の龍馬ファン。その大元には司馬の作品「竜馬が行く」がある。その彼が世の中の村上人気に、それでは自分も読んでみようと思って挑戦したらしいのだが、どうも波長があわなかったらしい。
私は今は司馬作品は読まないが、20代の頃はずい分読んだ。
「司馬ワールド」というのか、小説とも歴史噺ともつかない構成で物語が進むスタイルに違和感を抱くこともなく、むしろ小説にない新鮮味を感じていたように思う。
しかし今は、かつて新鮮と感じたそのスタイルこそ問題だと思うようになった。
小説としながら途中で脱線して、歴史雑談に入る。読者は小説と歴史的事実を気持ちよく混同して、読み終わったときには司馬の書いた小説を事実として頭に刷り込まれてしまっている。
その司馬の小説『坂の上の雲』を原作として、NHKが3年がかりでドラマを作り、今2年目の2部まで放映された。
明治期の日清・日露の戦争を坂の上に雲を見た日本人のエネルギーの象徴として描き、軍人の秋山兄弟とその友人である俳人正岡子規との交流を「明治の青春」として交差させる構成だ。
生前、司馬が映像化を望まなかったという作品だ。
司馬氏自身は太平洋戦争時に輜重兵として出征した体験の持ち主で、中国侵略に始まる太平洋戦争に「馬鹿げた戦争だった」という認識を持っていた。にもかかわらず好戦的、侵略戦争を肯定していると受け止められ、利用されることを危惧したようだ。
映像化は司馬の死後、遺族の承諾で実現した。
09年に放映された時見ていなかったのだが、再放映で昨年第一部を見た。
ドラマ自体はうまくできていると思った。しかし冒頭に流れる渡辺謙のナレーションはいかにも鼻につく「司馬流」だ。
司馬遼太郎は、趣味で箱庭を作るように歴史の事実の断片を都合よく動かし、自分の気に入る庭にした、そんな風に今は感じる。
小説として最後まで貫いているならそれもまた一つの世界かもしれないが、途中で脱線する。それが司馬氏の犯した罪だと思う。
司馬遼太郎とよく似た手法で歴史物を手がける作家がいる。
こちらは西洋、イタリアの歴史を物語り風に書く塩野七生氏
実はこの人のものもある程度読んでいる。
ベストセラーとなった『ローマ人の物語』は、図書館で借りてではあるが、かなりのところまで読んだ。
塩野さんに心酔してではなく、西洋史というのはただただ地名、人名、事柄の羅列だったという思い出しかなく、物語風に書いたものを読めば少しわかることもあるのではないかと思って読んだ。
何しろ塩野さんはイタリア在住で、イタリアにある資料にあたって書いているので、事実とされていることからそんなに違ってはいないだろうと思ったわけだ。
司馬・塩野両氏、経済界のトップの方々に愛読者が多い。
自分とその時代のリーダーを重ね合わせていい気分になるらしい。
ちなみにこの竹田司会の番組に松原隆一郎という東大教授がレギュラーとして出ているが、その松原氏の息子さんは、村上春樹の『ノルウェイの森』を1ページ読んで、「これは嫌い」と言ったそう。
高校生だと思うが、若い人がみんな村上春樹に共感しているわけでもなさそうだ。

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アメリカや日本は中国を批判できるか

2011年01月23日 | Weblog

中国のGDP世界第二位に。
日本を抜いたと、大々的に報じられたが、当然の結果だ。
あの広大な面積に10億を超す人口。その人々が国をあげて経済発展にまい進しているのだ。
元々商売上手な民族でもある。
中国を見るとき、日本もアメリカも、中国が国民の人権を無視した政治運営をしていると批判する。
市民社会が未成熟で、一党独裁の弊害があり、経済の発展の一方で格差への不満が高まっている、と北京に派遣されている報道記者の言うことは決まっている。
それはそのとおりなのだろうが、ではそんな高みから論評できるほど日本社会は成熟しているだろうか。
アメリカもまた、何かと言うと他国に対して民主主義が不充分だと批判するが、銃で政治家が倒される歴史を繰り返している国に、そんなこと言われる筋合いはない。
尖閣諸島付近の海域で、中国漁船が日本の巡視艇にぶつかってきたという事件にしても、日本の多くの人は「中国けしからん」と、興奮したようだけど、あの映像を見て、中国漁船が巡視艇にぶつかっても何のメリットもないじゃないか、それどころか巡視艇のほうが大きいのだから、漁船が壊れるか転覆する危険性があるわけで、そんなことをわざわざやったんだろうかと、私はそう思った。
ところで以前、天安門事件に関して、流血なしに学生達を退去させた過程をドキュメントした映像を見たことを書いたが、やはりあの立役者は
ノーベル平和賞を受賞した人権活動家劉暁波氏だった。
インターネット上市民メディア「リベラル21」にジャーナリストの丹藤佳紀氏が「天安門広場で流血なく撤退を実現した劉暁波氏ら」という文を掲載している。http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-1424.html#more
丹藤氏は元同僚の高井氏が新聞社の北京支局長時代に実際にこの事件を取材した体験とNHKのドキュメンタリー「天安門事件空白の3時間に迫る」の内容からいくつかのポイントをあげたという。
広場の学生達が多数の銃器を隠し持っていることを知った劉氏は武器の回収を求めた。
劉氏と一緒に広場に座り込んだ台湾のシンガーソングライター候徳健氏が撤退策について戒厳軍責任者と交渉し、劉氏が学生達を説得した。
広場から早々に逃げ、海外に出た学生リーダー達は、広場撤退の際、戦車がテント内で寝ていた学生達を踏み潰すのを見た、数千人、一万人を超える死者を出したなどのデマを流したが、それを否定する証言をしたのも劉氏らである。
広場では虐殺の事実がなかったとの劉氏の証言は、事件から約3ヶ月後の89年9月19日の「人民日報」に掲載されている。
「広場から学生達を平和裏に撤退させたのはあなた方4人の功績であると、私達はずっと考えてきた。事実を話すのに何が悪いことがあるのか」と、事件後逮捕された際に捜査担当者から説得されての証言だった。
数千人から一万人の犠牲があったというのがデマだとするなら、中国政府の反論が対外的に聞こえてこないのが不可解ではあるが。

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普通の人の善意、大金持ちの醜さ

2011年01月16日 | Weblog

アメリカ下院議員を襲った銃弾。
以前のブログで、「アメリカに三つの依存症」ということを書いたが、それに加えて「銃依存症」という病いもある。
メキシコ国境に近いアリゾナ州、「移民規制法」が成立した州でもあるが、そこの民主党女性下院議員のギフォーズ氏が、スーパーマーケットの駐車場で政治集会を開く準備をしていて、至近距離から撃たれ病院に運ばれたが、弾が頭部を貫通し重体状態が続いている。
そして犯人の青年の銃乱射によって、連邦判事や九才の少女ら6人が死亡した。
アメリカは「テロとの戦い」を宣言して、イラクを侵略し、アフガニスタンを攻撃しているが、アメリカ人によるアメリカ人に対するテロを何とかするほうが先じゃないかと思う。
ギフォーズ議員は「移民規制法」に反対し、オバマ政権の目玉「医療保険改革」を強力に推進する議員だった。
明らかにその政治姿勢がねらわれたのだ。
今、9000万人のアメリカ国民が銃を所持し、2億丁の銃が流通しているという。
銃を購入するには一応規制はあるが、抜け穴だらけで徹底されていない。
精神的な病歴や犯罪歴があったり、18歳以下は買えないことになっているが、代理購入ができ、値段も数百ドルから手に入れられる。
銃の所持はアメリカの憲法でも認められている権利ということなのだが、実際、銃による事件、事故で1ヶ月58人もの人々が命を落としているという。
「銃の所持によって自分の身は自分で守る」というのだが、以前にも書いたが、後ろから撃たれたり、無防備な状態の時に弾が飛んでくればそれで終わりだ。
極端に言うと「日常生活が戦場」という状態ということではないだろうか。
ところで撃たれたギフォーズ議員も拳銃所有者であり、死亡した判事は妻を射撃訓練校に通わせていた。また議員の緊急手術に立ち会った医師の1人は地元射撃クラブの会員と、新聞記事にあった。
こんな事件が起きても「銃規制強化」の声は高まらず、「アメリカ人につける薬はない」という感じだ。
全員がそうではないだろうが、「銃依存症」にかかっていないアメリカ人は全くの少数派のように見える。

漫画ヒーローに名を借りた児童施設への寄付広がる。
「タイガーマスク」という梶原一騎の漫画は読んだことはないが、その主人公伊達直人を名乗る人物がランドセルを児童養護施設に贈ったことがニュースで伝えられると、同じような行動に出る人が全国に広がった。
贈り物はランドセルから始まって、文房具、現金、野菜やコメ、今日のニュースでは金の延べ棒を贈った人を伝えていた。
推測するに、それほど大金持ちではないが、子供達に少しでも希望をと思う人達の行動のように思えるのだが。
このブログではアメリカの悪口ばかり書いているが、個人による寄付額が最も多いのはアメリカのようだ。
アメリカは弱肉強食の競争社会だが、その競争に勝ったお金持ちが寄付という形で、それを貧しい人達に回すという文化があって、それで辛うじて社会が崩壊するギリギリのところでとどめている。
キリスト教の教会がその仲介役だが、日本の場合、どこへどうやって寄付すればいいのか、その道がわからなかったというところがあったような。
「そうか、児童施設に寄付すればいいのか」ということを知った、ささやかな善意の人達の行動が広がった。
児童施設の運営は厳しいというが、そもそも児童施設とはどのようなものなのか。
かつては「孤児院」と言われた。現在では親のいないという子供は少なく、経済的事情や虐待などで親と一緒に暮らせない子供達が中心だ。
児童施設の運営資金は自治体と国からの補助金で成り立っている。
この補助金は国と自治体の財政難を理由に削られつつあるのが現状だ。
まず施設に関わる職員の人件費が最大支出部分。なかなか学用品には回らないのが実情だ。
そして孤児院時代の慣習がまだまだ残っていて、子供達の人権を大事にしない、たとえば入所時にすべての私物を没収してしまう施設があるようだ。
なぜそうするのかという問いに「昔からそうだった」というのが答えという。
この全国に広がる「伊達直人」現象と対照的なのが、大金持ちの代表経団連の面々だ。
自分達大企業の利益ばかりを主張して、これら児童施設の子供達のことなど考えることもなく、アメリカの企業家達のように大きな寄付をすることもない。
その醜さが今の米倉会長の顔に典型的に表されている。
人は年をとれば容色が衰え、醜くなる。だが米倉会長の醜さは、今まで歩んできた人生の軌跡の醜さにほかならない。

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2大政党制の虚構

2011年01月09日 | Weblog

2大政党制はもう限界。
CSの「朝日ニュースター」の「ニュースにだまされるな」という番組で、アメリカ人の詩人で、長く日本在住に在住している人(名前を忘れた)が、
「アメリカ人は共和、民主の2大政党にうんざりしている」と言っていた。
2大政党離れだ。日本も状況はまったく一緒。日本の場合は2大政党の形を取る様になってまだ歴史も浅いのにもううんざり。
アメリカの場合、政党側もそういう人々の気分には気づいているから、少し目先を変えることを考える。
昨年の中間選挙では、草の根的政治運動として「ティーパーティー」が話題になり、このティーパーティーに支持され当選を果たした候補も少なからずいた。
だが先の詩人によると、「ティーパーティー」は共和党の分派で、オバマ氏が大統領に当選した直後から準備されていたものだという。
日本でも「みんなの党」という政党が、昨年の参院選で、「行政改革・公務員改革」を訴えて、大都市圏で票を集め、議席を獲得している。
「ティーパーティー」も「みんなの党」も、確固とした2大政党のどちらかの支持者ではなく、その時の社会・経済情勢により、投票先を変える「無党派層」の集票を期待していて、その無党派層の中でも、中・下層の経済状態にある人々が、結果として票を投じている場合が多い。
「ティーパーティー」も「みんなの党」も決してそういう階層の人々の利益を代弁するものではないのだが、得てしてこういう皮肉な結果になる。
日本の場合、民主党は政党としての何の哲学も持たず、ただ浮遊して、アメリカ船に曳航してもらおうと、必死に手を振っているだけだ。
さりとて、もう一つの大政党自民党は、自党がなぜ国民にそっぽを向かれたか反省することもせず、民主党の揚げ足取りで、国会の議論の場を空費することに終始して、それで自分達の側が政権を奪還できると考えているらしいというか、それしか思いつかないという情けない状態だ。
だがさすがにこれではいくら何でもまずいと思う、民主・自民・みんなの党の中堅・若手の国会議員8名が「国会活性化のための改革案」をまとめ、各党に働きかけ賛同者を募る考えだという新聞記事を見た。
その提言のポイントは
★党首討論は午後8時開始。衆参両院本会議の夜間開催。これは国民
 が見やすいようにという配慮。
★野党党首の基本政策演説。
★党議拘束の緩和。臓器移植などの個人の価値観が問われる法案や
 議員の待遇や選挙制度をめぐる法案での党議拘束解除。
★疑惑追及は予算委員会ではなく、政治倫理審査会で。これはまった
 くその通りで、この間の自民党の罪は大きい。
メンバーであるみんなの党の山内康一国対委員長は「ねじれ国会打開として、大連立や連立組み替えが注目されるが、国会議論を国民にさらして論点を明確化したり、審議を効率化すれば国政の停滞は避けられる」と強調した。
国会改革とともに、悪しき2大政党制の根源である「小選挙区制度」を廃止し、より投票結果が反映しやすい選挙制度にすることも急務だ。  

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「核兵器廃絶」と「原子力発電所廃止」

2011年01月02日 | Weblog

核兵器製造労働者の被爆
2010年末のNHKスペシャル番組では、60年代、アメリカの核兵器製造工場ロッキー・フラッツ社で、プルトニウム加工製造過程で被爆した労働者の告発というか、証言を報じた。
核兵器というと、政治家や評論家は「核の抑止力」などと机上の空論をふりかざすが、実物の「核兵器」は、現場の労働者の被爆の犠牲の積み重ねによって作られ続けてきたのだ。
製造過程で起きたちょっとした切り傷、刺し傷、ヤケドなどを通じて、2000から3000人の労働者が被爆被害に遭ってきた。
65年には工場内でプルトニウムが発火して火災が起きた。放水すれば、核分裂の連鎖反応=臨界状態が起こる可能性があったが、ほかに方法がなく放水に踏み切る。幸いにもこの時は
臨界は起きなかった。ただ単に運がよかっただけのことなのだが。
ここで働く人達には厳しい守秘義務が課せられ、工場内でおさまっている限りにおいては、事故は広く知られることはなかった。
しかし後に3000人ものロッキー・フラッツの労働者がガンや白血病に犯されることとなる。
守秘義務は課せられても労働者達は「放射能の本当の恐ろしさ」は知らされていなかった。
核兵器製造工場の危険な実態が明かされつつあるのは、オバマ大統領の「核兵器削減」の方針を受け、老朽化した工場の解体が進んだからだ。
今アメリカは老朽化した21箇所の核兵器施設の解体を進めているが、その解体の過程でも大量の被爆を覚悟しなければならない。
日本でも東海村の原子力施設で「臨界事故」があった。
あの時、大量の放射能を浴びた大内さんという労働者は、身体のあらゆる組織を破壊され、壮絶な苦しみの中で死んでいった。
アメリカでは70万人の労働者が今まで「核兵器製造」を支え、7万発の核爆弾が製造された。
オバマ大統領の「核兵器削減」は、あくまで老朽化した核施設や、最新でなくなった兵器の削減であり、それにとってかわる新しい施設を作る計画があり、「核廃絶」ではない。
使わないことが前提の核兵器製造のために製造現場の労働者は健康を冒されていく。
振り返って今日本も、民主党政権は、「原子力発電」の建設をインドやエジプト、ベトナムなどに売り込むことに積極的である。
だが放射能汚染の危険性は、核兵器製造工場と変わらない。
使用済み核燃料の処理をどうするかの道筋もいまだつけられないものを推進してどうするつもりだ。
原子力発電所も、遠隔操作だけでは済まない部分で働く労働者がいる。その人達がまったく被爆しないということは有り得ない。
「核兵器廃絶」と「原発廃止」はセットだ。
電力エネルギーは、地域ごとの発電(太陽・風力・バイオ)の道を追求したいし、省エネルギーの生活スタイルを目ざしたい。

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