木洩れ日通信

政治・社会・文学等への自分の想いを綴る日記です。

貧困層が追い込まれていく道、それは戦争

2009年08月26日 | Weblog
湯浅誠と堤未果、この二人は貧困という社会状態が日本の国で目に見えて増えている中で、鮮やかに登場した若手の社会運動家とジャーナリストだ。
湯浅氏は昨年から今年にかけての年越し派遣村の村長として一般にその名が広く知られるようになった、今日食べる物にも困ってしまった人たちの相談に乗り、生活保護などの公的支援を受けられるようにサポートするNPO法人「もやい」の事務局長。
堤氏は貧困の形では日本の先を行くアメリカの実態を『貧困大国アメリカ』という著書にまとめたフリージャーナリスト。
その二人が毎年長野県須坂市で開かれている「岩波講座」に登場した
湯浅氏の講演の要旨は26日信濃毎日新聞に掲載されているが、日本の今の社会状態は、職を失うと同時にあっという間に、住むところも食べるものも失うという「滑り台社会」になっているという見方を示したのが湯浅氏。
それ程ひどい社会になっているのに当事者は中々声をあげて来なかった。「自己責任」の呪縛というか脅しがその背景にあったという。
「そんな派遣社員にしかなれないのは、お前が怠け者だったからだ」という批判を浴びせられると、完璧な人はいないから反論できない。
「おかしいな」と思っても一人では企業とも派遣会社とも渡り合えない。
しかし考えてほしいと湯浅氏は言う。そもそも10人の人に対して8個の椅子しか用意されていないぐらいなら、要領の悪い者がワリを食う、自己責任だという理屈も無理矢理通せないこともないが、これが5個しか椅子がなければ、あぶれた5人を「自己責任だ」と責められるだろうか。
正規雇用のパイがどんどん減らされている時代に、すぐクビにされてしまうような非正規雇用の働かされ方を選ばざるを得ない状態は「自己責任」では済まされない。
どんなにがんばっても、10人のイチローや石川遼がいても椅子が8個しかなければ、5個しかなければ、イチローも遼君もあぶれてしまうわけだ。
今、湯浅氏が特に声を強くして言うのは国として「貧困率」を算出するということ。
経済成長率を高めれば、国民の生活も良くなり、貧困も減るという理屈は実情を反映していない。
それよりも貧困率、その国の平均収入を下回る世帯なり個人がどれだけいるかという数値を示すことで、政策の方向性をを打ち出していくという政治が必要だということである。
経済成長の果実が、働く人に廻っていかない社会は不健全でやがて行き詰まる社会でもある。
堤未果氏のアメリカレポートは衝撃的であったが、それの詳細については次回に譲るとして、イラクでは「アメリカ軍の民営化」がいっそう進んで、その危険な仕事に狩り出されているのは、アメリカ政府の政策によって作られた貧困層であるという。
オバマ大統領は日本で言うなら湯浅氏のような、貧困層を助ける仕事をしていた人だが、2大政党の一方、民主党の議員になり、そして大統領になる過程で、多くのロビイストに囲まれ身動きできなくなっているのが今の現実のようだ。
それを変えるのは、それこそ一人一人の草の根のアメリカ人の忍耐強い行動でしかないと堤氏は報告した。
このようなことは日本の新聞もましてやテレビは伝えない。
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総選挙は政界再編の序曲

2009年08月19日 | Weblog
衆議院選挙公示
あの「郵政選挙」以来4年。これ以上自公政権が続けばとんでもないことになるというタイミングでの選挙。
自民党については、とにかく麻生首相の顔見たくない、声聞きたくないという人が多い。私もそう。テレビで麻生が出てくるとチャンネル変える。
選挙情勢は民主党有利で自民党は大負けするらしいからこれで麻生から解放される。とにかく公の場から消えてほしい。
これほど国民の嫌悪感が強い人物を「人気がある」と勘違いする自民党の議員の面々はそれだけで国民の気持から大巾にずれた人たちだ。
今更手遅れだが、自民党が大負けしないためには、今までの小泉構造改革路線を「行きすぎだった」ときちんと反省し、構造改革のイメージに一番遠い、たとえば加藤紘一さんなどを総裁にすげかえていれば、民主党は戦いにくかったはずだ。
公明党の太田代表も反発を感じさせるタイプだ。
あの大げさなアジテーション的物言いには吐き気がする。本人はそれが説得力があると、これまた勘違いしてる。
公明党=創価学会なのだから、一宗教団体に戻って政治の世界から撤退するのが望ましい。
民主党は、自民党に取って代わる主張の政党として期待されているというより、自公政権があまりにひどいから、ともかく一時避難の場としてこちらにと思われている雰囲気で、総選挙後、政策を実行していく過程で再編されていくのは避けられない気がする。
民主党に属する議員は一人一人見ていくと、自民党の右派と同じ、いやそれ以上の主張の人もいれば、平和憲法を堅持し、社会民主主義的政策を主張する旧社会党系の議員もいて、野党になるであろう自民党も巻き込んで、政界再編がなされて「寄せ集めの党」を脱して初めて本格的政権運営ができていくのでは。
2大政党というマスコミの誘導に埋没させられようとしているその他の少数政党。
社民党の立場は苦しい。民主党左派として社民党の流れを汲む人たちの派閥があるという運命になるのか。
共産党は先を走っている政党だ。
共産党の主張の柱「軍事費を削減し、大企業・金持ち優遇策をやめる」は、最もはっきりとしたまっとうな主張だ。
今までは共産党がこの主張をすると、「ふふん」とせせら笑って、相手にしない雰囲気があったが、これほど傷んだ日本社会を立て直す「セーフティーネット」を再構築する財源は?というと、ここに踏み込むしかない。
国家予算としての軍事費に何の意味があるのか。一番の無駄遣いだ。
独善的と批判される共産党だが、正しいと思うことを主張することに意味があると思う。主張し続ければ事態が後から追いかけてくる。
NHKで「核の廃絶や保有に関する市民討論会」の番組があったが、実に馬鹿馬鹿しかった。人類の使命として「核廃絶」以外に道はない。
それをどう進めるか知恵を出し合う時代になっている。
金大中韓国元大統領が死去した。
朝鮮半島が統一されてこそ、東アジアの平和は実現するという信念のもと、「太陽政策」を推し進めた政治家だったが、「東アジア共同体構想」は、北朝鮮や中国の脅威をあおる袋小路からの脱却構想だと思う。
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64年目の教訓「国を信じるな」

2009年08月12日 | Weblog
64年目の戦争特集。
NHKの核問題の特集は旧ソ連の核実験場になったカザフスタンのパラチンスク村の放射能被害だった。
今年の核に関する視点は今までとちょっと様相が違うなと感じた。
オバマ大統領の「核廃絶」宣言は、核保有国にとっても核は厄介なお荷物で、廃絶に向かっていくしかないことの表明でもある。
核を保有するということは、核実験が欠かせないし、保持している核兵器を事故のないよう管理していかなければならない。
それが自国民にもいかに犠牲を強いたものであったかを伝えたのがパラチンスク村の放射能汚染被害だ。
しかしこれは旧ソ連だけの問題ではない。アメリカの実験でも、またフランスの南太平洋の島々での実験による被害も同様の問題を含んでいる。
「核の抑止力」だの「核の傘」だのという理屈がいかに議論のための議論であって、現実の放射能被害の前には空疎なものでしかないことをこれらのドキュメンタリー番組は教えてくれていた。
もう一つNHKハイビジョンの「市民達の戦争」は、戦争というものがいかに一般の人々を犠牲にするものであるかを、生き残った人々の証言や手紙で浮き彫りにした。
「都市民の満蒙開拓」。
満蒙開拓というと疲弊した農村の救済策としてあったという認識を持っていたが、東京武蔵小山の商店街の人たちが、戦争の進行に連れて商売ができなくなり、慣れない農業に生活の活路を見出して、満州に渡って、終戦時の混乱で多くの犠牲者を出していたことを初めて知った。
非戦闘員が戦闘に巻き込まれ犠牲になった例は、「沖縄」をもって語られるが、南の島々でもまた人々は沖縄とほぼ同じ犠牲を強いられた。
サイパン、テニアンといった南洋諸島もまた満蒙と同様、生きるために日本人が移住した地だった。
「青森大空襲」。
1000人以上の人がこの空襲で犠牲になった。
犠牲者の多くは、空襲を恐れた郊外への避難を禁じられた結果だった。
1945年7月のこの時期、米軍に空襲されたらなすすべはなく、逃げるしかないのであったが、青森県および青森市は配給停止をカサに郊外への避難を禁じた。
市民は配給が停止されたら生きていけないので市街に戻って来たところを空襲にやられたのだった。
これら理不尽な犠牲は、私達一人一人が、おかみという言い方で代表される国家政府を信じてはならないことを教えてくれているのだが、今の時代もまたすきあらば「だましてやろう」ということでは変わりがない。
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裁判と更正

2009年08月05日 | Weblog
裁判員裁判が始まった。
正直気乗りのしない制度だ。
名前は忘れたが『日本の治安』という本を書いた人がゲストのテレビ番組を見た。
よく言われることだが、テレビ報道のにぎやかさとは裏腹に凶悪事件自体は減っている。
やはり殺人事件だの強盗事件だのといった事件が多かったのは敗戦後の昭和20年代。事件は経済状況とリンクしている。
それならば「ワーキングプアー」という働いても働いても暮らせない今の時代状況は事件が増えていきそうなものだが、20年代ほどではない。その代わり自殺者の増加が止まらない。
この本の著者によると、殺人事件のような究極の犯罪を犯した人の方が実は更正率が高い。人が変わったようになるケースが多い。但しその更正を援助してくれる人を得た場合だが。この人材が少ない。
殺人事件は、心の内にためこんだストレスが遂に耐え切れず爆発したということが多くて、「相手は誰でもよかった」というような理由が事件当事者の供述として紹介されるが、かつて家族関係が濃密な時代には、その誰でもの対象が家族に向かっていたはずだという。
だから、殺人事件を引き起こした者に対して、「極悪非道の」とか「情状酌量の余地はない」と断罪できない人の心の複雑さがそこにある。
裁きと共に更正の道を用意しなければ「裁判員裁判」は行き詰る。
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