木洩れ日通信

政治・社会・文学等への自分の想いを綴る日記です。

地方議会こそ大事

2009年10月31日 | Weblog

先週の長野市長選、今までどうりの土建業者優遇の行政を希望する勢力の思惑が辛うじて功を奏する結果となった。
それにしても現職と「コンクリートから人へ」と訴えた新人候補の票差は651票。民主党が不透明な動きをしなかったら、新人候補の圧勝となっただろう。
地方の、少なくとも長野の民主党陣営に属する地方議員や支持者は「変わること・変えること」を望んでいないようだ。
市長選と同時に市会議員の補欠選挙が行われたのだが、無効票、白票が今までになく多かったという。
無理もない。選挙権行使に関しては「達人」の部類に入ると勝手に思っている私でも、市議補選に立候補した二人の地方行政に対する立場がわからなかった。
市長選の方は、新聞に候補の主張や人柄などが紹介されていたので、その立場を知ることができたが、市議選立候補者に関しては、そのような情報も極端に乏しかった。
市議補選だけだったら、さしもの私も棄権していただろう。
ところが、立候補者の一人は我が地区の人で、各戸にプロフィールを紹介したチラシが入っていた。それでどういう立場で地方政治に関わるのかがわかったわけではないが、さらに候補の夫人から投票依頼の電話があったのだ。
これがとても感じのいい人で、へりくだりすぎもせず、かといって馴れ馴れしすぎもせず、候補夫人としてまだすれてなくて、「奥さんに一票」入れた。
ふだん、それほど政治に関心を持っていない場合、今の公職選挙法のもとでは、誰に入れていいかわからず、電話で投票依頼されたから、というようなことが決め手になるのだろう。
候補夫人の人柄や態度は重要なポイントであることを実感した。
しかし、地方議会の議員をどう選んでいくかというのは、その地域の生活に直接影響することなので、身近であると同時に重要なことなのに、国政選挙などより軽く見られがちなのは問題だ。
今、全国で財政赤字で苦しむ自治体が多いわけだが、不要不急のダムや空港建設を押し進めてきたのは、低い投票率と相乗りで選ばれた首長と議員達で、選挙民はそれを許してきてしまった。
自分達の代表を選ぶはずの「選挙活動」を一部の「支配層」に「公職選挙法」という法律の名の下に取り上げられてしまった結果ではあるが。
私は映画好きで、比較的よく映画館に通った方だが、これも20年前ぐらい、どんどん観客が遠ざかって、映画館に元気がなくて、マニアの行く場所のようになっていた頃、映画館を思い切って、行って楽しい快適な場に変えたらいいのにと思っていたが(それには資本がいるが)、今それは「シネマコンプレックス」という形で実現した。
広いホール、清潔なトイレ、前の人の頭が邪魔にならない指定席。
映画を充分楽しむことができる。
では旧来の映画館がもういらないかというとそんなことはない。
施設では及ばないが、旧映画館では最新の作品ではない、旧作の名作や観客のリクエスト作を上映するとか、あるいは映画を語りたい人たちのためのコミュニュケーションの場を演出するという道がある。
市街地の活性化は人がそこで生きなくてはダメだ。モノやハコだけではダメ。

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永山則夫という存在と裁判員制度、死刑、重罰化

2009年10月24日 | Weblog
死刑囚永山則夫28年間の獄中対話」(NHK・ETV特集)。
先週の番組だが、裁判員制度や、最近の厳罰化、死刑執行に対する反論の材料を提供する意図があると感じた。
私は、永山則夫の起こした事件や彼のそれに至るまでの悲惨な子供時代は、テレビ番組等で断片的に知ってはいたが、彼の著書はまだ読んでいない。
日本の敗戦後間もない1949年北海道釧路に生まれた永山。父は腕のいいリンゴの剪定士だったが、ギャンブルに溺れ家族を捨て出奔。
8人の子を抱え、生活に窮した母は、実家のある青森に帰ろうとしたが、子供達全員を連れて帰る汽車賃がなく、永山は置き去りにされる。後に母に引き取られるが、その間、則夫は他の置き去りにされた兄弟と共に、港で魚などを拾って飢えをしのぐ極貧の生活を送った。
捨てられた子供はずっとそのことを恨み、捨てた母も罪悪感を持ち続けた。その気持を綴った母のメモが紹介されたが、カタカナしか書けない人だが、自分の心境を語る確かな表現力があって、のちに文章で表現する才能を発揮した永山の資質は「ああ、この母から受け継いだものだったのか」と理解した。
母に引き取られた後も極貧は変わらず、貧しさゆえに学校ではいじめられ、あるいは無視され、不登校状態で、殆ど漢字を書くことはできなかった。
しかし集団就職で東京の果物屋に就職。まじめな働き振りが認められ、ようやく彼の人生にも光が見え始めたかと思った頃、青森時代の万引きで補導されるような不良少年の過去が知られ、店を飛び出す。
過去を知られ、ほじくり出されることは永山の何より嫌悪するところだったのだ。ここから転落の人生が始まる。
都会をさまよい、何度も死のうと思ったが死に切れず、偶然手に入れた拳銃で4人を射殺する事件を引き起こす。
1968年秋、永山則夫19歳。
獄中で猛然と読書と学習を開始した永山。独房で読んだ本3000冊。当時の学生達が殆ど流行のようにして読んだマルクス主義の哲学や経済学の本も多数含まれていた。
「貧困は人間関係を破壊する」という真理に到達した永山は、読書と学習の記録ノートを「無知の涙」と題する著書として出版する。
2か月で6万部を売るベストセラーになり、その印税を永山は被害者の家族に送るようになる。
マルクス主義に目覚めていた永山にとって「自分と同じような立場の労働者を犠牲にしてしまった」ということが悔やんでも悔やみきれない事実だった。
彼が犠牲にしたのはホテルの従業員、警備員、タクシー運転手と言った人たちだった。
印税を拒否した遺族もいたが、幼い子のいる家庭などではこの印税を受け取ったのだ。
永山の「無知の涙」を読んで手紙を寄こした女性がいた。アメリカに住む和美という女性だ。
彼女はこの本を読んで、母から見捨てられる=この世のすべてから見捨てられるという同じ体験をしている永山にひどく共感したのだ。
和美は1955年沖縄生まれ。フィリピン人の父と日本人の母の間に生まれたが、母は自分の戸籍に和美を入れず、彼女は無戸籍のまま少女時代をすごす。彼女を育てたのは祖母だった。
戸籍がないため、高校へも行けず、免許も取れず、結婚もできない。
そんな彼女が永山にならなかったのは、かわいがって面倒を見てくれた祖母の存在ゆえだった。もし祖母がいなければ「私が永山になっていた」。
アメリカに渡った経緯は番組では詳しく触れていなかったが、この和美と永山則夫は獄中結婚する。
以後和美が永山の窓口になって、遺族の家へ出向き焼香を申し出る。
3家族が焼香を受け入れ、2家族は印税を受け取った。先にも書いたように印税は子供の教育費、あるいは病院代に使われた。
和美はまた永山が嫌悪した母を探し出し、病気のために殆ど物乞いのような生活に陥っていた母を病院に入れ最後の面倒を見た。
この頃には永山はすでに母を憎まず、貧困こそ憎むべき現実だという心境に達していた。
希望の見え始めた永山則夫の人生、1981年8月21日の東京高裁2審の無期懲役判決は「生きて償い続けろ」という永山への審判だった。
しかし検察の控訴により無期懲役は差し戻され、最終的に90年5月最高裁で永山の死刑は確定する。
無期が差し戻されてから4年後、永山は和美とも離婚。弁護団も解任している。
永山自身は再審の請求は一度もしていない。4人の命を奪った事実はあくまで消えない事実だからだ。
自分から生かしてくださいとは言えない。だけどもし生かしてもらうことが許されるなら、生涯を償いに捧げるというのが永山の気持だった、ということが番組からのメッセージだった。
97年8月1日死刑執行。永山則夫48歳。
拙速な裁判、思い込みを正す時間もなく、メディアの誘導のまま、重罰に導かれる。
今の「裁判員制度」からはそんな筋書きしか見えてこない。
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住む街、人の街へ

2009年10月16日 | Weblog
地方都市の行く道。
もう10年以上前から、市の中心部に商業ビルを作って、集客の核にしようという考え方はやめたほうがいいと思っていた。
それよりも市の中心部を人の住む場所に戻すことを考えるべきだと。
それも高層のマンションではなく、集合住宅であっても低層のテラスハウスのような感じのものはどうだろうかと。
そこには高齢者や市街地で働く人が住んで、住んでいる人がその町で消費する商店街があればいいのではとも。
「コンパクトシティー」という考え方があって、これには賛否両論あるが、強制ではなく、これからどこへ住まえばよいかと考える高齢者や働く人たちに、良質で高すぎない住宅を提供する、そういうことを自治体も民間と協力してやっていけばと思う。
そうすれば、建設業の人達に無駄な「箱物」を作らせる必要もなくなる。
メンテナンスも必要になってくるだろうし、ドーンと大きな儲けは望めないかもしれないが、「生活していければいいのでは」と、私などは考えるけど。
ちょっとした空き地には植栽をして、そうすればその緑を保つ仕事がある。長野市は街の中に緑が少なすぎる。
並木やフラワーポットだけじゃなくて、もう少し規模の大きい緑がほしい。
公共交通も今あるものをできるだけ利用していく考え方でいきたい。
長野市街地を「ぐるりん号」というコンパクトなバスが走っていて、私も時々利用する。これくらいの小型バスが、昼間の市中を走るには合っているかなと思う。
郊外では予約制と組み合わせたより柔軟な「デマンド交通」を考えていかなければならないだろう。タクシー会社の生きる道ではないだろうか。
最近、私の住む町の鉄道の駅のプラットホームに待合室ができた。
しかし待合室よりエレベーターのほうがみんな欲しかったのでは。
プラットホームで長く待つという行動を人はしない。
駅自体に待合室があるので、そこでみな待つ。無駄なものを作った気がするが。
きっとエレベーターの設置のほうがお金もかかり、維持費もいるだろう。だからといって、プラットホームの待合室はエレベーターの代わりにはとてもならない。

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子供と若者の貧困は日本の貧困

2009年10月10日 | Weblog

10月25日は長野市長選。
現職の鷲沢氏、市民運動側から押されて共産党も支持する高野氏。
そして長野市議補選に出る予定だったのに、なぜか急遽民主党の支持を受けた小林氏の3人の争い。
私は民間でホテル経営の経験もあるフットワークのよさそうな高野氏は「民主党好み」なのかなと感じていたので、民主党が小林氏を擁立したのはどうしてなのかなと思ったけど、
どうやらこの党は、中央と地方とではスタンスが違うらしい。党内でも右から左までいろいろあるし。
だいたい前回の選挙までは民主党は鷲沢氏支持だったのでは?
鷲沢市長は、建設資材会社の経営者だっただけあって、「箱物行政」に熱心だったように見える。
ここへ来て、市民会館の建て替えが争点の一つになりつつある。
たしかに市民会館は老朽化している。子供の頃、ここで歌謡ショーや、東京の新劇の舞台を見た記憶がある。50年は経っているから設備的には現代のイベントには向かないのでしょう。
あまり関心はなかったんだけど、「長野市にはホクトホール(旧県民文化会館)や若里市民ホール、その他にもホールがある。どうしても今必要という施設ではない。」という反対意見を目にするようになって、これが鷲沢市政の箱物重視の行政手法の一つという意味を持っているのか、と思うようになった。
話は少しずれるが、松本市に「まつもと芸術会館」というホールがある。
菅谷市長の前の有賀市長の時代に、根強い反対意見を押し切って建設したものだ。
私は2回ほどこのホールでのイベントに行ったことがある。
エントランスのゆるやかな階段がとても心地よいホールではあったが。
芸術監督に串田和美氏を迎えて、話題の演劇などがよく上演されている。
長野市で多目的ホールではなく、芸術的演目を上演することを主眼にしたホールは成立するのか。
いずれにしてもどうしても必要な施設かどうか精査した方が良いような気がする。

子供の貧困・若者の貧困。
先週のNHKスペシャル、そして今週の「クローズアップ現代」のテーマだ。
食事をせずに(お金がなくて、親が食事を与えられない)登校して来る子供。頭がぼーっとして勉強どころではない。教師がアメ玉などを与えてその場をしのいでいるという現実が放映された。
どことは言っていないが、これは大阪府下のことらしい。
あの威勢のいい言葉と行動で支持率が高いとされている橋元知事の行政改革で教育・福祉予算が削られている大阪府では、貧困層が更なる貧困の直撃を受けている。
授業料の払えない生徒にアルバイトを勧めざるを得ない高校教師。
橋元府政は、財政の赤字を解消して黒字化したとして賞賛されている向きがあるが、Nスペでは、フィンランドの例を紹介して、目先の財政赤字だけに目を奪われるのではなく、将来ある子供や若者への税金投入を減らしてはならないことを訴えていた。
私は大阪府下で教師をしていたことがあるが、あのまま辞めずに勤めていたら、アメ玉や軽食を携行して、生徒に与えるぐらいのことしかできず、右往左往しているだけだろう。
北九州市で餓死した39歳。
「助けて」が周囲に言えなくて死んでしまった30代。
病気でもない、高校時代はラグビー選手でもあったこの男性。
つまずきの最初は正社員として入社した金融会社、消費者金融のようなところか、での過酷な勤務に耐えられず退職したことからはじまる。次の職が見つからない。結局居酒屋のアルバイトなどで生活をつないでいくことになる。
決定的に彼を追い詰めたのは消費者金融からの借金。「クローズアップ現代」ではその借金の事情に詳しく触れなかったが、他の番組では、父親が借金が理由で家を出ていき、母親が病気になり、彼が借金を背負わざるを得なかったと報じていた。安易な借金とは違ったようだし、そもそもが「ワーキングプアー」の典型だから生活できる収入を得ていなかったわけだ。
取立ての電話が職場にも来るようになり、居酒屋もやめてしまった。
生活保護を受けようと役所にも行ったが、39歳の男が職が見つけられないという現実を理解してもらえなかった。
彼自身も自分の現実が信じられなかったことだろう。「働く意欲もある。体も特に悪いわけではない、年もまだ39歳。そんな自分が何で?」と。
父は家出、母は病死。兄はいるが、この男性の場合、最後の寄る辺の家庭が崩壊していた。
8月に岩波講座で須坂に来た湯浅誠氏は「地方ではまだ貧困が見えにくいかもしれない。それは家族が支えているからだ」と言っていたが、このまま政治がこの問題を放置していると、更に深刻な事態になると警告していた。その時点では政権交代はまだ成っていなかったが。
湯浅氏の言う「滑り台社会」の典型がこの男性の例だろう。
しかしこの男性も全く助かる道がなかったわけではない。
「助けて」と言えばよかったのだ。学校で今どうしても教えておかなくてはならないことは、助けを求めるにはどうしたらよいか、どこへ行けばよいか、そして助けを求めることは恥ずかしいことではない、ということだ。

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ゴミの責任は誰に

2009年10月05日 | Weblog
私の住む長野市では、10月1日よりゴミの有料化ということで、各自購入するゴミ袋に上乗せされることになった。
ゴミ問題は消費者にだけその責任を負わせるべきだろうか。いつも私が疑問に思っていることだ。
ゴミの分別などの議論の際、それを作る側の責任にみな言及しないことが不思議だ。
お菓子などは個装、1ッ箇所に寄ってしまわないように今はご丁寧にプラスチックの下敷きが必ずといっていいくらいついている。
買う側は誰もそんなこと頼んでない。
飲料自動販売機の多さ。販売機があるから人は飲み物を買って、その空容器は道端や田んぼに投げ捨てられる。
新聞の投稿欄などでは、ポイ捨てをすることへの戒めの意見はあるが、そんなに自販機が必要なのかという意見は、自販機を設置する会社への遠慮か掲載されない。
環境のことを考えれば、企業の責任に踏み込まなければ問題は解決しない。
CO2、25パーセント削減の数値目標も経団連の御手洗会長は経済活動に悪影響を及ぼすというようなことしか言えない。経済活動のために地球が壊れていいのか。
「経済界もあげて数値目標達成のために努力する」ぐらいのこと、言えないのか。
話は少しそれるが、長野市には「ゴミゼロ一斉清掃の日」というのがあって、地域のゴミ拾いをする行事がある。
この行事はそもそも長野冬季オリンピックの前に、内外のお客を迎えるにあたって、町をきれいにという行政の主導ではじまったもの。
ゴミを拾うのはいい。ところが私の住む地区では、この行事に参加しないと「出不足料」を取る慣例になっている。これはおかしい。
その地域の自主的取り組みとして、どうしてもそれをお互いに担い合わなければならない、というかつての農村共同体の行事ならともかく、オリンピックの開催にあたって行政が思いついたようなものに何の疑いもなく従っているのはどうかと思う。
最近は高齢化も進んでいるので、地区の一斉行事に参加しにくい人たちも増えている。額にすれば200円程度のものであるが、だからいいじゃないかというものでもない。
エネルギー問題の専門家で、自然エネルギーを広げる運動をし、研究所を運営している飯田哲也氏は、CSのテレビ番組で、「25パーセントCO2削減は今や国際常識」と言っていた。
前政権がこの間何もしてこなかったために削減するはずがかえってCO2を増やしてしまったというのが実情であるとも。
それではこれからどうしていったらよいのか。
脱石炭・脱化石燃料で、自然エネルギーにシフトしていくことは当然として、安価であるがゆえに今増え続けている石炭火力発電を止めることが必要で、環境に負荷を与える割合に応じて企業活動・経済活動に対し、「環境税」を課すことを共通の考え方にしていくこともまた必要という。
21世紀の私達の経済活動や生活のあり方は「何でも自由に」というわけにはいかないのである。
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