木洩れ日通信

政治・社会・文学等への自分の想いを綴る日記です。

集団的自衛権行使で日本国喪失

2014年06月29日 | Weblog

公明党、閣議決定による集団的自衛権の行使容認。
こうなることは最初から予測されたことだが、これで「公明党」という党は終わった。
自民党と何ら変わらない極右政党なのだから別の党として存在する意味はない。
創価学会員はどうするのだろうか。どこまでもついていくしか能のない人たちは党幹部の言いなりになるのだろうが、まじめな学会員は苦しみジレンマに陥り、今後、選挙活動に身が入らなくなるだろう。
他人への働きかけはもとより、自身の投票行動にも揺らぎが生じてくるのでは?
特に国政選挙で自公一体の集票機能が働かなくなる可能性がある。
しかし宗教組織というものはおおむねこのような過ちの道に陥るものだ。
「愛国心がならず者の隠れ蓑」なら「宗教は偽善の隠れ蓑」だ。
だいたいほかの宗教に寛容でない宗教は単なるカルトだ。創価学会もそうした道をたどってきた。
池田大作氏の影響力が衰えた今、創価学会は新たに再生の苦しみを経て生まれ変われるか、それとも堕落の一途をだどり、衰亡し、終焉を迎えるのか。

自衛隊員・一般国民に「集団的自衛権による武力行使」の覚悟はあるのか。
時の政権による閣議決定でしかないのだから、明らかに「憲法違反」。現在の自衛隊員は現憲法の専守防衛のために入隊しているのだから、「集団的自衛権行使による武力活動」を拒否できるが、現実にはむずかしい。そのために自衛隊を辞めるということが、これがむつかしい。生活の糧を失うことであり、次の安定した職を得るのが困難なこの時代、「はい、辞めます」はなかなかできないのが現実だろう。
東アジア情勢の緊張の高まりを政権は盛んに言い、これに乗せられている人もいるが、「集団的自衛権行使」の要請はアメリカからのもの、しかもアメリカが勝手に攻撃したイラクやアフガンでの共同軍事行動である以外まず考えられない。
平和憲法、戦争放棄を明言している日本だからこそ、世界の国々から信頼されていたのに、これをみすみす捨て、軍需産業と金融資本に乗っ取られているアメリカとどこまでも一体行動する日本は「世界の敵」になってしまう。
日本という国は失われるのだ。東京オリンピックなどやれるのか?原発も攻撃の対象になる。
世界の終わり、地球の終わりの始まりは日本から始まる。そういう最悪のシナリオが頭に浮かぶ。

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民主化への茨の道、ノ・ムヒョン大統領の死の意味

2014年06月22日 | Weblog

、「韓流が伝える現代韓国」という本を読んでいる。
著者の李泳采(イ・ヨンチェ)氏は1971年生まれ。
韓国で言われる軍事政権下で「民主化運動」をになった「386世代」の少し後輩、その背中を追った世代だ。
朝鮮国は日本からの植民地解放後、南北分断、そして南の韓国は長らく軍事独裁政権によって、人権や自由を制限され、権力の理不尽な弾圧に苦しんできた。
なんとかこうした息苦しい政治や社会の状況を変えたいと人々、特に青年達が立ち上がった。
60年代に生まれ、80年代を大学生として過ごした世代が90年代の民主化をけん引した。
金大中、ノ・ムヒョンと10年に渡って韓国民は民主政権を選択した。
特にノ・ムヒョンは貧しい農家の出身で、かろうじて高校を卒業し。国家試験で弁護士資格を取った。80年の光州事件に遭遇し、その時改めて自分の人生を見直し、裁判官になるという出世の道を捨て、労働者の解雇や低賃金問題を担当する弁護士の道に進む。
90年代半ばに国会議員になるが、その際地域に基盤を置く保守政治に反対して、自分に有利な選挙区を捨てわざわざ不利な地域で選挙に立候補し、当選するまで3回も落選する経験をした気骨の人物だ。落選するたびに人気が上がり、国会議員となり、ついには大統領に選ばれたのである。
国民が高卒のノ・ムヒョンに期待したのは韓国の民主化に残された課題、韓国社会発展の阻害要因としての学歴主義、エリート主義、権威主義をを取り除いてほしいと期待したからだと、イ氏は言う。
ノ・ムヒョンは韓国社会の保守エリート主義を解体しないかぎり社会の民主主義も正義も実現できないと主張した。
朝鮮王朝時代の保守エリート層は日本植民地時代には「親日派」となり、植民地時代が終わると「親米派」に転じ、反共軍事独裁政権を支える勢力となって生き延びたとして「過去清算」の乗り出すが、反共保守勢力の激しい抵抗にあい、弾劾措置を受ける。ここは国民の支持により復帰するが、これ以降こうした保守勢力と妥協せざるを得なくなり、国民の支持を失っていく。
期待が大きかった分、国民の失望は大きく、再び保守勢力に政権を奪われてしまう。
しかし人々は李明博政権によってたちまちこれまでの民主化の成果も奪われてしまった。
日本では、ノ・ムヒョンの自殺は親族にかけられた賄賂疑惑に責任を感じてという風に受け止められているが、韓国の人々はそうは受け止めず、「自分たちが大統領を守ってやれなかった。困難が起きた時、助けることをしなかった。ごめんなさい」というふうに考えたという。
ノ・ムヒョンの親族にかけられた疑惑は過去の大統領の例に比べればわずかなもので、しかも大統領は知らなかったと言っているので証拠不十分で大統領自身は無罪になる可能性の高いものだということだが、ソウル大出身者で殆どが占められているという検察はノ・ムヒョンが利用するという庶民食堂の領収書まで調べ上げるという捜査をしたという。
もしノ・ムヒョンがソウル大出身で、財閥の息子だったらこんな扱いは受けなかっただろうと、人々は思い、ノ・ムヒョン氏の死を「政治的他殺」と考えるのだ。
私はよく韓国ドラマを見ているが、韓国ドラマはいろんなことを考えさせてくれる。
時代劇では両班達が自分たちの既得権を守るために理不尽なルールをそれ以外の人達に押し付け、人々もまるでそれがこの世が始まって以来の掟かのように受け入れるシーンがよく出てくる。
現代劇では検察の尊大さ、それにへつらう警察、ソウル大に入ってそうした連中を見返すみたいな設定もよく登場する。
韓国もいろいろ困難を抱える社会だが、それに果敢に挑む人々の戦いに熱いものを感じる。そこに今の日本との違いを感じる。

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「集団的自衛権行使「は前時代の産物

2014年06月17日 | Weblog

イラク情勢が風雲急を告げている。
当初アメリカが想定したようにはならず、「イスラム過激派勢力」がイラク政府を追い詰めつつある。
日本の安倍政権は「集団的自衛権の行使」を閣議決定による「解釈改憲」で突破する構えで、連立を組む公明党も「言葉のもてあそび」で容認する流れになっている。
今アメリカが「同盟国日本」に一番望んでいるのは、アメリカ自ら手を突っ込んだアフガンやイラクでの「テロとの戦い」に共に行動してくれることだと思う。
もし閣議決定の解釈改憲で集団的自衛権容認ということになれば、第一の任務がイラクやアフガンでのアメリカとの共同行動だ。
その覚悟が安倍政権と自衛隊と日本国民にあるのか?誰にもそんな覚悟はない。
憲法を改定して「戦争放棄」を捨て「集団的自衛権行使」を容認するべく国民を説得するのが筋だが、それもできず、とにかく急いで、「普通に戦争できる国」につき進めば、待っているのは世界中、特にアラブやアジア諸国から恨みを買い、テロリストの血祭にあげられる光景だ。
テロリストの犠牲になるのは安倍晋三や自衛隊員とは限らない。海外への旅行者、そして海外に進出している企業、労働者の可能性のほうが高い。
なぜそんな対価を払わなくてはならないのか。
70年前の戦争では「満蒙は日本の生命線」と、今考えれば間違っているが、当時はそうした他国への武力進出を当然と考える世界認識があった。
そして戦争への求心力を担ったのが、「天皇への忠誠」だった。
しかし戦争に駆り出されていった多くの青年たちは「何のために自分は死ぬかもしれないこの戦いに行かねばならないのか」と悩み、自分の愛する家族や、人々の平和な生活を守るために行くのだと無理矢理納得させて召集に従ったのだ。
「同盟国が攻撃されている場合、共に戦う」って、安倍政権が想定する同盟国はアメリカ以外にないでしょう。
アメリカに正面から戦いを挑む国って今の世界にはない。「果てしないテロとの戦い」があるだけ。そんなことのために命を差し出すなどどう考えても無理筋で、何の大義もない。
第一アフガンでもイラクでも戦争を仕掛けたのはアメリカの方で、唯一アメリカが攻撃されたのは日本軍による「真珠湾攻撃」ぐらいではないか?
それでもやるというなら「閣議決定」でやってみればいい。たちまち惨憺たる結果になるはずだ。
「閣議決定」だから政権が倒れればそれまでのこと。後を引き継いだ政権は縛られることはない。

 

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自分で考える機会

2014年06月06日 | Weblog

「親米右翼」というゆがんだ心性に蹂躙されている日本社会。
70年前の戦争ではアジア諸国に対しては多くの加害責任がある日本だが、アメリカ(連合国軍)との戦争では本土空襲、原爆投下、沖縄戦と、日本国民は徹底的に痛めつけられた。
にもかかわらず、加害を与えた相手を憎悪し、被害を与えた国のために「なんでもします」と、自らその身を投げ出す政策を、国民の同意もなしに勝手に推し進めようとする安倍政権とその同調者の頭の中身、およびその精神構造は全く理解しがたい。
こうした強い者には徹底的にこびへつらい、そのうっ憤を別のところで晴らすというもっとも卑怯で、姑息なゆがんだ心性の持ち主がいわゆる「親米右翼」という連中だ。
安倍晋三とその取り巻き、橋下徹や石原慎太郎が率いる「維新」とやらがその中心軸になっている。
このような連中になぜ日本はここまで蹂躙されなければならないのか。
「1強多弱」で、まともな野党が存在しないからと言われるが、

哲学者の柄谷行人は「そもそも、議会は国家がやりたいことを国民が自分で選んだかのように思わせる手の込んだ装置だと思う。選挙で人が意思を表示するというのは幻想で、無理に選ばされているだけ」と言い「議会政治を無視しろというのではないが、彼らがやることに任せることはできない。国家に何かをやってもらおうとすれば、いよいよ国家に従属することになる。重要なのは国家にすべて頼るのではなく、それ以外の自立の道を自分たちで考えていくことだ」と、2013年3月6日付けの信毎紙上で述べている。
確かにそれは言える。選挙が近づくと、マスコミは街を行く人に「政治に何を望みますか」と聞き「景気をよくしてもらいたい」などという答えを引き出して、事足れりとしている。
聞くほうも答えるほうも何も考えていない。
柄谷式に考えるなら「何々してもらいたい、ではなく、どんな社会であればよいのか、と自分なりの意見を持たなくてはならない」ということになる。
私がまだ青年だったころ、日本には社会党や共産党といった、庶民の側に立つ政党が一定勢力として、国会に議席を持ち、またそれらに飽き足らず、議会を超えた社会運動を主張する勢力もまた大いに活動していた。
だからそれらのリーダーの言うことを受け売りしてればよくて、自分で一所懸命苦しみながらも考えなくてもよかったとも言えるが、今もう一度「どういう社会であればよいのか」真剣に考える機会が来ている。

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拉致問題を正義の道具にする愚

2014年06月02日 | Weblog

困った時の拉致頼み。
「拉致問題の再調査」で、また安倍政権とマスコミが大騒ぎしている。
いったい何回こんなことを繰り返すのか。その都度失望させて終わる。
安倍やその同調者達は「拉致問題」を本気で解決する気などない。
反朝鮮や、排外主義に国民を煽動することに利用するだけで、だから本心は「拉致問題」は解決してほしくない。これを引きずることによって、近隣諸国との緊張を演出することができる。
集団的自衛権行使容認に対する国民の目が、安倍晋三にとって思いのほか厳しく、ここで、目くらましをして好感度をあげようという浅はかな考えでしかない。
「泣く子も黙る拉致問題」。
北朝鮮の拉致を批判して批判されることはない。だからみんな安心して北朝鮮を批判して、正義の人になった気分になれる。
拉致被害者の家族を象徴する存在が横田めぐみさんの母早紀江さんだ。
上品で美しい老婦人の彼女に嫌悪感を持つ人はまずいないだろう。
12歳の我が子を突然さらわれた、その苦痛の日々を思えば、何も言うことはできないが、それでも私は最近彼女が集会で言う言葉、それはずっと変わらず言い続けていることだが、そして間違ったことを言っているわけでは決してないが、「ほんとにひどい国」などと言うのを聞くと、それは子を奪われた母の個人の気持ちということはわかるが、「待てよ、そんなこと言えるほど日本は立派な国か」と、思ってしまう。
過去、といってもそれほど昔ではない、たかだかこの100年ほどの間に日本という国と国民が朝鮮半島の人々に対してして来た搾取や差別や人権侵害の歴史を思えば、「ひどい国」は日本も同じだ。
「拉致」は突然起きた事件ではない。東アジアを自国の支配下に置こうとした明治以降の日本の侵略行動の延長上に起きた事件だ。
自国の侵略行動に対する反省と謝罪がきちんと成されていないために、なにかトラブルがあるとすぐに朝鮮憎し、中国憎し、で自分たちはまるで一点の曇りもない正義の者であるかのように考える人が多いのにはあきれてしまう。
一般の人達がそうなびく時に、それを抑えるのが政治家の役割なのに、これまた輪をかけた自己中心的人間が、その地位に就いている憂うべき国日本。

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