木洩れ日通信

政治・社会・文学等への自分の想いを綴る日記です。

今の日本に必要な政策は?

2008年10月31日 | Weblog

株安、円高、金融不安と、連日ニュースは伝え、行き過ぎた「カジノ資本主義」、「マネー資本主義」が、人間に幸福をもたらさないものだという反省の論も、ようやく主要メディアにも見られる今日この頃ですが、
以前、多分「蟹工船」ブームを受けてのことでしょうが、「サンデープロジェクト」に共産党の志位委員長が登場し、資本主義の暴走の行き着く果てを、100年以上前にマルクスも予告していたと、マルクスの著書を引用しながら解説していた。
私にはマネーゲームの頂点に立つような人々が、何が面白くて、人のものをだまして、掠めてまで我が手に引きよせようとするのかさっぱりわからない。
一人の人間に必要な衣・食・住のための費用や物はわずかで済むはずなのに。
金持ちだからといって、貧乏人の5倍も10倍も食べられるわけじゃないし、広大な邸宅に住んでいてもその家の中での動線というものは意外と狭いものだと思う。
家でくつろいでいる時は、できるだけ身近な範囲で行動しようとするものではないだろうか。でないと疲れてしまう。
高価な衣服や装飾品ををいくつも持っていても「だから、それが何なの」としか思えない。
車なんて1台あれば充分だ。何台も持っていたって、乗る時は1台でしょう。
ましてや物やお金はあの世には持っていけない。そして遺産として残すと、子供達の争いのタネをつくるだけだ。
企業の名における「あくなき利潤の追求」は個人の意志を越えた何か別の力が働くものなのだろうか。
政局は、「1日でも長く首相の座を楽しみたい」麻生氏の意向と、今選挙をしても与党が過半数は取れない状況で、「解散・総選挙」は遠のく雰囲気だが、日本の政治が自・公かそれとも民主かという話になっているのには疑問がある。
「2大政党制は民主主義の墓場である」という。
アメリカがそのいい例だ。共和・民主の2大政党で、ベトナム戦争もイラク・アフガン侵略も止められず、マネーゲームの暴走も野放しと、まるでお手本にならない。
だから日本でもその他の政党、あるいは無党派の勢力が増すことが、最大野党民主党の姿勢を修正することにつながる。
自衛隊の海外派遣、財界よりの政策の修正など。
総選挙に向けての「共産党の公約」が信毎紙上に掲載されていた。
ワーキングプアーを生む「労働者派遣法の抜本改正」。
非正規雇用を正社員化した中小企業に対する賃金助成制度の創設。
後期高齢者医療制度の廃止。一人当たり1万円の国民健康保険料引き下げ。子どもの医療費無料化。
食料自給率向上のために、農水産物の価格保障および所得保障制度の導入。
消費税増税・自衛隊海外派遣・国会議員の定数削減に反対。
政策実現の財源は、大企業優遇税制を改め、防衛費と政党助成金を削減し、10兆円程度を確保するとしている。
まっとうな政策ではないだろうか。共産党に投票すれば、やがては共産主義の社会になってしまう、それは旧ソ連や中国、はては北朝鮮のような社会の到来を招くのではないか、と考える人もいるかもしれないが、議会主義の枠内の中で活動する政党は、国民の幸福のための施策を実現するために存在するのであって、どのような社会を形成していくのかを決定するのは政党ではなく、私達一人ひとりの市民なのだ。



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亡き夫から託された映画『花はどこへいった』

2008年10月24日 | Weblog

坂田雅子さんの映画『花はどこへいった』。
先週の土曜日から坂田さんの、ベトナム戦争に使われた枯葉剤の被害のその後を追ったドキュメンタリー映画『花はどこへいった』が千石劇場で公開されている。
で、初日に見にでかけた。坂田さんの挨拶は1回目の上映後となっていたが、2回目の上映の最初にも挨拶があった。
坂田さんは用意した原稿を読む形で語りかけた。
人前で話すことにもある程度慣れているはずだと思うけど、それでも原稿を用意して、律儀に語りかけるその姿に彼女の誠実さを感じた。
私は坂田さんを一学年上と思っていたけど、それは勘違いで、坂田さんは高校二年生の時に交換留学生として、アメリカに行き、三年生の半ばに帰ってきたのだった。
映画『花はどこへ行った』は、心を打つドキュメンタリーだった。
ベトナム戦争で、アメリカ軍が使った枯葉剤については、それを浴びたベトナム人に身体上の被害が現れ、特に赤ん坊にその被害は顕著に現れ、奇形児、虚弱児が数多く生まれたことは知識としては知っていた。
日本人が枯葉剤被害者としてまず思い浮かべるのは結合双生児のベト・ドクの兄弟のことだろう。
日本で分離手術をし成功するものの、兄のベトはほぼ寝たきり状態で、数年前に死亡している。だが弟のドクが兄の分も強く、賢く生き、ついこの間結婚まで果たした。
ベト・ドクの兄弟のうちドクは、枯葉剤被害者の中で、その障害に打ち勝ち、力強く生きる「象徴的人物」になっているわけだが、坂田さんの映画は、ドク以外の被害者が、貧しいベトナムの農村で、家族に支えられながらも、悲惨な状態で生き続けていることを見る者に突きつけた。
坂田さんがビデオカメラを手に、通訳やガイド、その他案内者と共に被害者の家族を訪ね、相手に語ってもらうのだが、ベトナムの人々はみな淡々と語り、激しい怒りを口にする者はいない。
ただ少しでも現状が改善され、年老いていく親の代りに自分の身を自分で処すことができない被害者を助けてほしいと訴えるのだった。
「アメリカの罪」と言うことを考えさせられた。原爆と枯葉剤、そしてイラクでの劣化ウラン弾。
そもそも坂田さんがこの映画を作るキッカケは、夫グレッグの急激な症状による肝臓ガンでの死だった。夫の友人からグレッグの死は枯葉剤によるものではないかと示唆されたのだ。
坂田さんとほぼ同年齢のグレッグは、ベトナム従軍のアメリカ兵士だった。
映画『7月4日に生まれて』のローニーほど愛国的ではなかったかもしれないが、アメリカの中流家庭に育った普通の少年だった。
ベトナム戦に従軍したグレッグは、ローニーのように身体障害者にはならなかったが、枯葉剤を浴びた。
除隊した彼は、日本の京都にやって来て、高校時代にアメリカ留学の経験のある坂田さんと意気投合することになる。ただし、ベトナムで枯葉剤を浴びているので子どもは作らないということだった。20才そこそこの坂田さんにとってそれは大きな問題ではなかった。
だが、グレッグ氏はベトナムでの経験はあまり話したがらなかったという。坂田さんもベトナム戦争にそれ程強い関心があるわけではなかった。といってまったくのノンポリではなく、新左翼系のヘルメットをかぶって写っている姿も映画に挿入されていた。
グレッグはアジアに強い関心があり、カメラを手にアジアを放浪した。特に自分がかの国の人々を苦しめ大地を荒らしたベトナムを愛し、何度も訪問し、カメラにおさめ、やがてその写真はアメリカの有名な雑誌に掲載されるようになった。
坂田さんも夫の仕事との関連かと思うが、写真通信社の経営というビジネスで忙しく過し、グレッグ氏の生前、夫婦で共に過す時間はそうは多くなかったという。
グレッグ氏の晩年、二人の拠点は群馬県内の山荘で、グレッグは、群馬で妻雅子の通訳の下、講演もしている。
そこで彼は、「自分はアメリカという国を捨てた」と言っている。戦争ばかりして他国を苦しめる国、アメリカを捨てたという意味だろう。
国は捨てたが、アメリカ人としての民族性は捨てることはできない。
講演は英語だし、きっと小さい頃からなじんだアメリカの食べ物もあるだろう。
夫の枯葉剤被害によるガン死によって、坂田さんは枯葉剤被害に今なお苦しむベトナムの人たちの苦しみを伝える映画を作った。
これは加害者の立場であるグレッグ氏には作りたくても作れない映画だったはずだ。
『花はどこへいった』は、グレッグ氏の人生の伴走者、理解者である妻坂田雅子が、夫から受け取った「使命のバトン」の結実である。
ベトナム戦争では枯葉剤を製造したアメリカの化学会社が大もうけをし、イラク・アフガンの戦争でもやはりアメリカの武器製造、軍需物資調達・輸送を請け負う企業が大もうけ。
戦争で儲ける企業の存在、坂田監督がもっとも告発したかったのがそれではないかと思った。



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人類宿命の病い「読字障害」

2008年10月17日 | Weblog

先週の、NHKスペシャルは「読字障害」という病いについての特集でした。
話したり、聞いたりには特に問題ないのに、字を読んだり書いたりが極端に苦手というこの障害、ハリウッドスターのトム・クルーズがそうだということは聞いたことがありましたが・・・。欧米人には多いそうです。
そしてもしかしたら、漫画しか読まないという麻生総理は「読字障害的傾向」があるのではとふと思いました。だとしたら、活字の詰まったものを読まないことをもってして、不勉強のとんでもない奴というふうに決め付けてはいけないのですが。
しかし、活字から得る情報や知識も多いので、不用意な発言は控えなければいけないわけですが、麻生氏にその思慮はなさそうなので、やはりこの人、政治家にも大臣にも増してや総理に不向き。
この「読字障害」というもの、人類が文字と言うものを発明した時からの「宿命の病い」とのこと。
人が、というか動物が生きていく上で、「文字」は必要不可欠なものというわけではない。だから人の脳は元々文字を即座に読み込む機能は弱いのだ。

ただ、それを発明したことによって、文化・文明は飛躍的に発展した。
人は右脳と左脳のそれぞれの特性を生かし、うまくバランスをとりながら脳を働かせているのだけれど、この働き方には個性というか個人差があるわけで、私達がそれぞれ得意・不得意な分野があるのはそのためで、ちなみに「読字障害」のある人には、目で捉えたものを立体的に脳の中で映像化することにとりわけ優れた人がいて、番組の中で紹介されていた青年は、建築設計に飛びぬけた能力を発揮していた。その代わり長い間文字を見つめ読もうと苦労していると吐き気がしてくるという。
学校でする勉強というのは殆どが読んだり書いたりすることから始まっている。
これが不得意だと「勉強ができない=頭が悪い」ということにされてしまうが、それでいいのだろうか、ということをこの番組は考えさせてくれていた。
自分の場合で考えると、文字を読んだり書いたりは殆ど何の苦痛もなくできるが、絵を描けといわれると、私はそれぞれの物の形を正確に把握していないので、うまくかけない。また、いろんな事柄の記憶というのは得意だが(この頃はそうでもないが)、少し前まであった家などが取り壊されて更地になっていたりすると、いつも通っていたはずなのに、そこにどんなたたずまいの家があったのか思い出せない。つまり風景として記憶していないのだ。自分の住んでいる村の昔の風景はさすがに記憶しているけれど。
文字の読み書きが不得意な人にとって学校いうところは苦痛なことが多いだろう。ただ体育とか音楽とか図工と言った科目や、遠足や運動会という行事があるので救われているが。また逆にこれらが苦手で苦痛な場合もあるが・・・。
文字の読み書き=ペーパーテストが得意な人の最終のあがりが役人・官僚という職業だろう。
そしてこの種類の人たちほど、現実・現場とかけ離れたことをするのが得意な人たちはいない。
机の上で考えたこと、計画したことは現場で実際にやってみるとうまくいかないことが多いという自覚があればいいのだが、「学校秀才」の人ほどその自覚が乏しいので、しかも上へいくほど、自分で自分のことをしないので、その自覚にさらに乏しい。
そんな役人の考えたことで、この日本は混乱している。医療、農業、社会保障制度、治山・治水、教育、どれ一つとってもこれはいい、というものがない。
行政。役所は計画を立てるより、交通整理をするところになればいいのでは。人々が持っている様々な要求、利害、トラブルの整理をして、どうすれば丸くおさまるか知恵を絞る、それが政府・行政の仕事だと思うけど。
ニュース23を見ていたら、次期衆院選に出ないとしていた中山斉彬氏が一転して立候補することにしたというニュースを報じていた。
「出ない」というのはホンといい判断だと思ったのに、衆院選が先に延びそうなので、自身の発言の悪影響のほとぼりも冷める、の判断か。やっぱり政治家、特に与党の国会議員はおいしい立場なのか。



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ノーベル賞日本人受賞者続々に?

2008年10月10日 | Weblog

ノーベル賞続々。
日本人の受賞者が一度に4人も。しかも受賞対象になった論文というか、研究成果は、30年以上も前のもので、「もっと早くに受賞していてもよいもの」という。年齢を見ても80歳を超えた方がお二人も。
ノーベル賞の選考経過がいかなるものか、我々は知らない。
このところ、日本の政局の行方が不透明で、もしかしたら早晩、政権与党の自民党が、その政権の座を降りなくてはならない事態がおきるかもしれない。
そうすると困るのは、日本に軍事費のかなりの部分を肩代わりさせ、財政赤字を債権という形で、これまたになわせているアメリカによる、日本国民の自公政府への不満を、そらそうという陰謀ではないか、とチラっとそんなことを思ってしまった。
受賞された研究成果はもちろん素晴らしいものではあろうけど。
ネット上の百科事典「ウィキペディア」によると、第二次大戦前の選考には明らかに差別があって、北里柴三郎や野口英世は有力候補とされながら受賞することはなかった。
特に北里の場合は、欧米人の共同研究者は受賞しているのに、北里は黄色人種ゆえに除外されたのだという記録があるという。
さすがに戦後はそのようなあからさまな人種差別はないようだが、何か恣意的な選考の要素は残っているのではという気はする。
前回の日記で、「退化した東大卒の成れの果て」として、中山成彬氏を取り上げたが、日本のノーベル賞受賞者には東大卒の人もそれなりにいるが、東大を研究のフィールドにしている人が少ないのではという印象がある。
東大という最高学府という権威主義が何事につけても邪魔をして、常識を突き破れない見えない壁を作っているのではという気もする。
ところでその中山氏だが、次の衆院選には出ないという決断をした。良い決断だ。
テレビにでてくるその顔をよく見ると、むちゃくちゃなことを言うわりには人相は悪くないのだ。麻生総理のほうがよっぽど悪相だ。単なる「単細胞人間」なのか。
夫人の中山恭子氏のほうが曲者の食わせ者か。
私が中山恭子氏を食わせ者と感じるのはあの猫なで声だ。化け猫の不気味な声に聞こえる。
そして麻生総理。「おじいちゃん、僕も総理になったよ」というためだけの総理。一日も長く総理の座に居座る決意らしい。
「漫画しか読まない」と言うのは本当らしい。いまどきの若者ではなく、68歳にもなる人が漫画しか読まない、というのは異常だ。
漫画も一つの文化だから、漫画も読むはいいと思うけど。
多分、麻生氏は自分で文章は書けないと思う。難しい漢字も読めるかどうか怪しい。無教養という点で、ブッシュ米大統領といい勝負ではないか。
無教養だから暴言が平気で吐ける。
ワイドショーで、ニューヨークに視察に行った東京都議団(自民・民主)の視察報告書が、その視察の時に案内役をつとめた大学教授が配布した参考資料の丸写しだったことが判明したという話題を取り上げていた。
それなりに体裁のととのった報告書でなければと考えるからこういうことが起こる。
文章を書くというのは日頃、本をよく読んで、ボキャブラリーを蓄え、またそれを使って書くという作業をしてないと、急に書けといわれても書けないものだ。
それでも七転八倒して、搾り出して書けばいいのだけど、近頃は、コピペといって、インターネット上で、それなりの文章を探し出して、それを丸々コピーして適当にはめこんで、自分の文章にしてしまうということもできるので、ますますまともな文章が書けなくなってしまう。
小学校から英語教育をというけれど、そんな時間があったら、作文の時間にあてたほうがいい。なんでもいい。文章を自分で書く訓練をすることが大切だ。
ネイティブでない限り、母国語でまず考えるのだから、母国語の読み書きが充分でないと、言うべきことが浮かんでこない。



映画『硫黄島からの手紙』を見る。
松代で、栗林中将を偲ぶ会があって、講演と映画があった。映画のほうだけ鑑賞。
全編セピア色。これは何を意味するか。過去の出来事として描くということだろうか。でもこれが生きていた。カラーにすると、どうしても現代的になってしまって、違和感がある。
監督はクリント・イーストウッド。アメリカで公開されたときは、日本語の会話が字幕で表現されたことになる。
日本語を解する私達は、アメリカの監督が撮った映画をそのまま見るという、少し奇妙な映画鑑賞ということになる。
アメリカ人の監督だなと感じたのは、やはり米軍による艦砲射撃のすさまじさか。これでもかと執拗に撮っている。
栗林中将は、アメリカにも駐在経験のある開明的な軍人ではあったが、やはり大本営の命令のまま「国体護持=天皇制維持」のため、持久戦でもちこたえようとしたわけで、それを知ってしまっているので、家族にひたすら手紙を書く人間性を描かれても心に響くというわけにはいかなかった。
そうこの映画はタイトルどうり「硫黄島からの手紙」なのだ。中将だけでなく、一般の兵士も手紙を書く。それこそ自分の言葉で、自分の思いを。
見る人は高齢者が多かったが、観客はどんなところに一番反応したか。
それは「動物の死」の場面だった。
戦前のロスアンゼルスオリンピックの馬術部門で優勝経験のある西中佐もこの戦争末期の硫黄島に派遣されていた。島内を馬で走りぬけるカッコいい軍人なのだ。その中佐の愛馬が米軍の攻撃で息絶え、横たわっっているところに西が駆けつけるシーンは人々のため息を誘った。
そして、憲兵隊勤務でありながらなぜか硫黄島に送られてきた兵士の過去。
彼は上司と巡回中、非国民と目を付けた家で飼われている犬を、「泣き声がうるさい。殺して来い」と命令される。
彼は犬を連れて裏に回り、空砲で犬の命を助けるが、直後、犬が鳴き、上司は「犬も殺せないのか」と、今度は自ら犬を射殺する。この場面の時も観客は声を上げて反応した。
人が死ぬのは仕方ない。なぜなら戦争を起こしたのは人間なのだから、だが、動物は、人間達の起こした戦争に何のかかわりもない。なのに逃げることもできず殺される、その哀れさが一番見る者の心を打ったようだ。
捕虜になること、投降することが許されないのが日本軍兵士だが、この映画では投降した日本兵が、アメリカ兵の気まぐれで射殺される場面が描かれる。
アメリカ軍の軍規ではもちろん投降兵をみだりに殺すことは禁じているはずだが、アメリカ兵もいろいろ、ということをイーストウッド監督は言いたかったのか。



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道徳を叫ぶもっとも不道徳な人間中山成彬氏

2008年10月02日 | Weblog

麻生太郎氏が第92代総理大臣に就任。
自民党最後の総理になるのか?
90年代宮沢喜一首相が不信任されて、一時自民党以外の総理大臣が続いたことがあったけど。
麻生氏は「貴種」ということだけど、品がなく、とてもそうは思えない。
麻生氏の祖父は炭鉱業で財を成し、それは朝鮮半島出身者も含めた労働者の血と汗の上に成り立ったものなのに、そのことに対する自覚がまるでなく、「創氏改名は朝鮮人みずから望んだこと」という暴言を吐く人らしい顔をしているということだろう。
その「暴言内閣」にふさわしいもう一人の「暴言・妄言男」中山成彬国交相(早速待ってましたの暴言ですでに辞任)の「日教組発言」にはのけぞった。
全国組織率30パーセントを切っている日教組に、そんなに激しい対決意識を持っていたなんて。
誰もがまず思い浮かべたのは、巨大な風車を戦うべき敵と勘違いしたドン・キホーテの物語ではなかったろうか。
私はこの人に「進化しなかった(できなかった)学校秀才の成れの果て」を見た。
東大卒というから小・中・高とものすごくお勉強がよくできて、でもそこまでで、その後お勉強はやめてしまったようだ。
「俺は頭がいい。俺は知識がある。だからもう勉強は必要はなし」。でも何事もやめてしまった時から退化が始まるのです。65歳だそうだから、40年間退化しっぱなし。社会への認識力も知識も最低レベルに落ちてしまっている。
成田空港開港に至る経過への知識も不十分、日本列島とその周辺に暮らしてきた民族の歴史への認識もこれまた不十分。
日教組への憎悪はいつ刷り込まれたのか知らないが、労働組合を組織する権利は憲法で認められている国民の権利であり、憲法を遵守することは国会議員の義務でもある。
「日教組は道徳を教えない。日教組を解体するべく戦う」って、国土交通大臣及び国会議員という公人の立場で、しかも公の場でこのような暴言・妄言を吐くことこそ公序良俗に反した言動であり不道徳なのでは。
常々このような持論を展開していたそうだが、一向に報道側が取り上げてくれない。大臣になれば、大臣の発言ということで大きく取り上げられるだろう、ということもあったというからますます不道徳。
近頃マスゴミと揶揄される新聞・テレビ各社の記者たちも「あまりに独善的で反時代的な発言」にあきれて、まともに取り上げることもなく、抹殺していたようだ。
次の選挙には出ないで、議員を引退するのがいい。そして自由な立場で日教組と思う存分戦えばいいのだ。ドン・キホーテのように。



アメリカの大手証券会社や銀行、保険会社が次々経営破たんしている。
アメリカは、ソ連が崩壊して唯一の超大国になったときから実業を捨てた、と私には思える。
金融工学によるマネーころがしは経済じゃない。
サブプライムローンなんて、経済に疎い人間にも、所得の比較的低い人に住宅を買いやすくするために、最初は低い利子を設定して、一定期間が過ぎたら高金利にシフトするなんて、破たんするリスクが高いと予測できる。
一種のババ抜きゲームであり、洪水よ我が後に来たれ、これがマネーを転がす世界の合言葉だ。
お金は魔物だ。みんなわかっているのについマネーゲームに手を出す。



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