木洩れ日通信

政治・社会・文学等への自分の想いを綴る日記です。

老人が若者の未来を奪うの図

2007年02月27日 | Weblog

信濃毎日新聞2月26日の記事「現代史の残像」は戦後日本の分岐点として、たった2ヶ月の短命で終わった石橋内閣と、その石橋湛山の政治思想を紹介していた。
半世紀前の1957年2月、石橋総理は、風邪をこじらせ、「2ヶ月の加療を要す」の医師団の診断に「予算審議に出席できない以上、進退を決すべきだ」と、あっさり退陣したとある。
岸信介との決選投票を制して、首相になった石橋は、
「1千億減税、1千億施策」をスローガンに、のちに池田勇人氏が進めた「所得倍増政策」の先取りとも言うべき政策を掲げ、
外交面では、日中国交回復に意欲を示し、「米国とは提携するが、向米一辺倒にはならない」姿勢を打ち出した。
日本がこの道を進んでいたなら、その後の日本の問題点、例えば、沖縄米軍基地の弊害、残留孤児問題などは、もっとすみやかに解決への道を歩んでいた可能性が高い。
北朝鮮による拉致問題も起きていなかったのでは。
ところが先のような事情で、退陣(病気以外の圧力があったかもしれないが)。
政権は、外相だった岸氏に。
まさに新聞のタイトルが言うようにこれが「戦後日本の分岐点」になった。
岸は日米安保改定を強行し、対米従属、協調の路線は、その後一貫して政権与党の路線となった。
アメリカのイラク侵略への協力によってその路線はこのところ更に強まっている。
その政権与党の路線が一瞬揺らいだ時がある。
それが94年の自・社・さによる村山内閣時代だ。
「石橋内閣が続いていれば、日本の針路は、今論議されている日米基軸の集団的自衛権ではなく、集団安全保障の方向に進んだはず。湛山から岸への転換は戦後日本の分岐点だった」とは、元経企庁長官、さきがけ代表代行だった田中秀征氏の弁。
「村山政権は、自分にとって、第二次石橋内閣のつもりだった」とも。



山梨県の日蓮宗の僧侶の息子である石橋氏は、旧制甲府中で、札幌濃学校長クラーク博士の教え子大島正健校長の影響を受け、大学では哲学を専攻。
アメリカの実用主義哲学、ケインズ経済学などを吸収してジャーナリストとして活躍。

1921年「東洋経済新報」社説で「植民地は経済的、軍事的に利益が無く、わが国が大日本主義を棄つることはかえって大なる利益を我に与うるものなるを断言する」と述べ、明治以降、欧米に見習った大国主義を疑わなかった政府、国民に、画期的対論を突きつけた。
さて、今、日本を対米追随の道に導いた岸首相の孫が、祖父やその系譜の総理が成し遂げられなかった「改憲への道」を前のめりになって推し進めようとしている。
腸に難病を抱え、健康不安のある安部首相は、とにかく早く、早く、体調不良で、首相の座を降りなくてはならない事態になる前に、「改憲・9条改定」の道筋をつけようと、なりふり構わない状態だ。
今日、「西部戦線異状なし」という映画をテレビで見た。
そのセリフに「老人が戦争をあおり、若者が戦場で死ぬ」とあった。
今、日本も「老人が愛国と平和憲法改定を叫び、若者の未来を失わせている」



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松代の近代を語ることこそ意味がある

2007年02月22日 | Weblog

明治維新以降、かつての武士階級だった人々の生きる道としては、横田家の兄弟のような官僚の道と、もう一つ軍人になるという道があった。
横田英の夫になる和田盛冶がその道を行った。
しかし、硬骨漢の盛冶は出世コースを順調に進むことができず、48歳で予備役となったという。
「軍人の官僚化」。つまり、軍人
養成の学校でペーパーテストの成績が優秀なものが、出世の先頭をいくことになっていく。
その行き着く果てが、昭和の惨憺たる大戦争の結果を招く。
最近、『硫黄島からのの手紙』という映画や、「散るぞ悲しき」というノンフィクション作品で、にわかに注目を浴びている栗林中将は、松代西条地区に実家があるのだが、なにやら、中将を賛美する気配に、「それでいいのか」という気がする。
たしかに硫黄島の守備を命じられた中将も犠牲者の一人だとは思う。
その命令がどれほど理不尽なものか知りながら、それを断って軍人をやめるということができない時代というか、めぐりあわせのもとに生きていた。
昨年、「戦後60年の視点」という文章を書いたが、一番痛感したのは、「こんな無責任な、理不尽な戦争を引き起こし、内外に多大な犠牲者を出した責任者出て来い」ということだった。
「男達の大和」も「硫黄島からのの手紙」も私は見ていない。
見る気がしない。本当はそれらを見て、何か言うべきなのだろうが、戦争遂行の決断や、続行に権限があった軍のトップがどれほど無責任で、卑劣であったかに焦点を当てた映画があれば、私は見に行く。
松代には、藩政時代の史跡とともに、この太平洋戦争末期、どこまでも「国体護持」にこだわって、天皇以下、中央官庁、そして軍の大本営の設営をひそかに進めていた地下壕跡がある。
今、松代を訪れる人の関心は、江戸時代の史跡以上に、この地下壕にあるように思う。
ますます、明治以降の松代の歴史を語ることが重要で、興味深いことに思えるが、案内ガイドのボランティアの意識は、まだそこには向いていない。



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横田家と近代の光と影

2007年02月16日 | Weblog

「木洩れ日」2号では、「繰婦は兵隊に勝る」と、題して、長野県松代ではじめて機械製糸の工女として、製糸工場の立ち上げと操業に貢献した横田英の生涯を追いました。
いま、私は、この松代で、「文化財ボランティア」として、無料接待所でお茶のサービスや町案内を時々していますが、横田英の生家も修復され、江戸時代中級武士の住居として公開されています。
明治維新の10年前、1857
年に生まれた英ですが、この時代の変革期、特権を得ていた武士階級も変化を余儀なくされました。
英はいち早く、製糸工女として、群馬県富岡の官営製糸工場で、器械製糸の技術をまなびました。
武士の娘の職業訓練です。
この製糸業の興隆こそ、明治の日本を支えた原動力であり、日清・日露の戦争の戦費はここに負うところ大なのです。
それが題名の「繰婦は兵隊にまさる」のゆえんです。
この言葉は、英が技術を習得して富岡官営工場を去る時に、尾高という取締りから贈られた言葉であります。
さて、町案内をするさいには、この横田家が、いかに優秀な人材を輩出した一族かということが語られます。
英の弟の秀雄は東京に出て苦学の末、大審院長になります。今でいう最高裁判所長官です。その息子、正俊も最高裁長官になりましたから、親子2代の裁判官です。
もう一人の弟も鉄道大臣になっていますから、横田家は「階級の転換」を見事成し遂げた一族といえましょう。




今、松代には空き家が目立ちます。
かつてのお城の近く上級武士の住まいであったあたりが特に空いています。
明治になって、禄(給料)が支給されなくなって、大きな家屋敷を維持できなくなった果ての空き家ですが、明治維新からすでに140年たっていますから、その後の、社会経済の変動や、近頃、人々の意識にのぼるようになった少子高齢化がさらに加速させている現象でもあります。
その点、横田の人は先を見る目があるのでしょう。
東京へ去って、久しく空いていた、家屋敷を、当時の長野市に寄贈を申し出、
長野市も、横田家が改造などの手が入っていない、江戸時代の原型をとどめている武家として、修復、公開したのです。
寄贈と書きましたが、よく市の学芸員が力をこめて言うのは、決して寄付ではありません。つまりそれなりの対価を払っての譲渡である、というわけです。
譲渡する側からすると、固定資産税の支払いや家の維持を考えると、市価より安い価格でも、家が残るほうがいい。
これは昭和40年代の話ですが、今、市に引き取ってほしいという家があちこちにあるようです。近頃の財政難、なかなかうまくはいかないようですが。
ただ、市民や観光客から寄付を募って、江戸時代や明治時代の面影を残す建物を保存していこうという動きが出てきました。
いずれにしても、明治以降のいわば、「近代の光と影」を語るのも、また町案内の役目かと。



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少子化を憂うことのむなしさ

2007年02月09日 | Weblog

「木洩れ日通信」1号を出した1997年当時、歴史の教科書には、ようやく「従軍慰安婦」や731部隊の記述がされるようになっていた。
その一方で、「歴史認識の風化」は進み、横浜に寄港したアメリカ軍の原子力空母に人々が嬉々として、見学に押し寄せる様子がニュース映像として流された。
その30年前、同じ日本人が、ベトナム戦争反対の意志を示すために、佐世保に寄港しようとした原子力空母エンタープライズの入港を阻止しようとして、港に集結した時とは大違い。
こんなにみんなノー天気になってしまっては、あの大戦が理由で死んでいった人々はあまりに浮かばれない、と思ったことがこの文を書く動機だった。
しかし、アレから十年、状況はますます悪くなって、「平和憲法は時代に合わないから変えよう」というところまで来てしまった。
この事態に対して、私自身はなんらの力も持たない。
私はいわゆる「団塊の世代」だ。世の中に対する「異議申し立ての世代」とも言われた。
しかし、その世代は、次の世代に「ろくな社会」をバトンタッチしていない。
なぜ、こうなった、なぜこうなんだ、それを考えるのが残された時間の課題だ。



柳沢厚労大臣の「生む機械発言」。
まず、柳沢氏の言葉の貧困がある。「生む性」とか何とか言い方がありそうなものだが。
でも言葉を言い換えたとしても、根底にある精神のありようは変わらないが。
辞めなくても、もう彼の立場は死体だ。誰も柳沢氏を厚労省のトップしてふさわしいとは思わなくなっているから、これから何も進まない。
少子化社会は資本主義社会が極端に進んで、利潤追求だけが目的化されることによって、必然的に起こってくる現象だ。
物があふれて、あらゆるサービスが金で買えるようになれば、人はそれほどお互いに助け合ったり、共同でなにかする必要がなくなる。
一人で暮らすことのほうがいいと思う人間が増えるのも当然。
男女が出会って、結婚に至るまでは、相手と自分との違いや距離を乗り越えてゴールしなければならないが、そういう葛藤に慣れていない生活を送ってきていれば、それを避けるようにもなる。
豊かな社会は「葛藤を避ける社会」でもある。
食べ物も着るものも豊富。個室もある。家庭では葛藤のタネはない。
だから学校での葛藤は耐えられない。
大きく、遠くを見れば、新自由主義経済といわれる社会のありようが問題だろうし、近い視点で考えてみても、そういう社会の中で、仕事が無い、劣悪な労働条件のもとで働かざるを得ない、したがって、結婚して子供を生み、育てる条件がそなわっていないことが問題なのだとは、現実を知っていればわかることだ。
まあ、国のために子供を生まなくては、と考える人は、権力を持って、支配する側にいる人たちだけだろうから。そしてこの人たちは、「生む機能」は持っていない。





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教育労働運動の敗北

2007年02月02日 | Weblog

「木漏れ日」1号ではもう一つ、「あなた達を忘れない」という文を書いた。
近頃、世の中の右傾化ということがよく言われているが、特に若い人にその傾向が顕著だとも。
その大きな理由が、過去の、それもごく近い近・現代の歴史に無知であることに原因があるのではと気づいたことがこの文を書くきっかけだった。
「学校で教えられない近・現代史」。
教師の責任は大きいと言わなくてはならない。古代から始まって、中世、近世、近代と流しているうちに、もう学年末が迫ってきて、明治時代ぐらいで授業はおしまい。
「後は教科書を読んでおきなさい」というパターンが続けられてきた結果が「歴史への無知」→「右傾化」すなわち自分達に都合のいい歴史を作り上げるという流れに簡単に乗ってしまうという事態を呼んだ。
学年末になって時間が足りなくなることはわかっているのに、授業の時間配分や形態を変えようともしなかった多くの教師がいた。
日教組は、政府与党が戦後、一貫して推し進めようとしてきた「教育の国家支配」に対抗するために、そのつど、戦ってはきた。
「勤務評定反対」、「全国一斉学力テスト反対」、「中央教育審議会答申反対」

学校現場での日の丸掲揚。君が代斉唱反対」
なんでも反対の日教組に社会党と言われた。
しかし、政治対決に終始して、肝心の教育内容に対して、現場からの独自の提案が弱かった傾向がある。
労働組合活動の弱点だ。特に教員の労働組合は、賃上げ、待遇改善だけを要求していれば良いというものではない。
毎年日教組主催で「教育研究集会」が開かれ、そこでは教育の現場で起きているさまざまな問題が提起され、議論されるという場はあったが、それが運動として、全国の教師に浸透すると言うところまで行かなかったような気がする。
組合幹部が労組の幹部という意識で、教師のリーダーという意識に欠けていたようにも思う。
これは、はるか20年以上前、教員だった頃を思い起こしての感想だが。
今、日教組の全教員に占める組織率は、30パーセント以下か。
教員組合自体がいくつかに分裂している状態だ。
阿部内閣のもと「教育再生会議」の国家主義的教育再生に、現場の教員の代表の声が聞こえてこない。



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