木洩れ日通信

政治・社会・文学等への自分の想いを綴る日記です。

イスラエル批判か暗殺か(オバマの選択)

2009年01月27日 | Weblog

イスラエルのガザ爆撃を支持するオバマ。
日本と中東は遠い。それでも1のこと(ハマスによるロケット弾発射)に100倍にして返すようなイスラエルによるガザ攻撃の非道さに対して、日本のメディアもようやく取り上げるようになった。
古館一郎の「報道ステーション」、普段私はこの番組はめったに見ないのだが、たまたまチャンネルを合わせたら、イスラエルの攻撃のひどさを報道していた。
それがアメリカ以外の世界の認識だ。そのことをオバマ大統領が知らぬはずはない。
それでも彼は国務省での演説で「米国はイスラエルの安全を守るために全力を尽くす。イスラエルが自国を防衛する権利を常に支持する。ハマスは多年にわたり、何千発ものロケット弾を罪のないイスラエル市民に向け打ち込んできた。民主主義と国際社会はそのような脅威を容認できない」と表明した。
この演説はイスラエルとハマス(パレスチナ)の部分を入れ替えるべきものだ。
アメリカの経済、政治、文化、芸術、あらゆる分野で主導権を持っているのはユダヤ人であり、ユダヤ人社会だと言われている。
もしオバマ大統領がイスラエルを批判すれば、彼は何もしないうちに暗殺されてしまうだろうというウェブの記事も見た。
チェ・ゲバラは「祖国か死か」と言ったが、オバマは「イスラエル批判か暗殺か」という選択の上に立っているというわけだ。
それでもイスラエル支持表明は苦しい。全く間違っているのだから。世界はその間違いを知っているだけに。
ユダヤ人はナチスドイツによって「ホロコースト」に遭わされた民族だ。そのユダヤ人が、今パレチスナ人に同じことをしている。
例えば、原爆の惨禍にあわされた日本が原爆を持ち、それを他国に落として同じ苦しみをを与えるようなものだ。
このことに対して、イスラエル国民は、あるいは世界各国に散らばっているユダヤ人たちはどう思っているのだろうか。
イスラエル国内では情報統制がされているということだけど、今の時代、インターネットもある、衛星放送でアラブ諸国の放送も見れるんじゃないでしょうか。
それでも「自衛のために他国の人間を殺すのはやむを得ない。神に選ばれた我々には許される」と思うのだろうか。
およそ21世紀向きじゃない民族だ。紀元前民族とでもいうか・・・。

アメリカに滅ぼされる日本。
CS放送朝日ニュースターに「愛川欽也のパックインジャーナル」という番組がある。
ゲストを呼んで、愛川氏の司会で、政治・社会・経済について議論する番組だが、ここで、日本がアメリカの国債を買うのに、自国の円で買うのではなく、相手のドルで買っているという話をしていた。
愛川さんは「僕はそんなの知らなかった」と言っていたが、私も知らなかったし、普通の、つまり特に経済に通じていない日本国民は知らないと思う。
ドル安で、この債権の価値はどんどん目減りしている。日本国民の財産はどんどんアメリカに奪われているわけだ。
ドル建てでアメリカの債権を購入してるのは日本と中国ぐらいで、借りる側が貸すほうより威張っている、江戸時代の大名と商人のような関係だ。
こんな卑屈な関係になっているのは日本の製品をアメリカに買ってもらいたい大手の自動車産業や電機製造業の意向からである。
そうして大もうけしたアメリカ頼みの輸出企業は、それを日本国民に還元することなく、まっさきに「派遣切り」に走る企業でもある。
「売国奴」「国賊」という言葉は、こうした企業のためにある言葉であって、天皇制反対とか靖国神社反対とか自衛隊反対、安保反対とか言う人達に投げつける言葉ではない。
経済危機に陥っているアメリカは便利なパシリの日本に益々金を出せと言ってくる可能性がある。
今やDVの加害者と被害者のような関係の日本とアメリカ。
日本が言うことをきかないとどうなるか、中国や北朝鮮の脅威ばかりを言うけれど、軍事力で脅してくるのはアメリカじゃないでしょうか。
そのために日本中に米軍基地網がはりめぐらされている。

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真のChange(転換)を

2009年01月21日 | Weblog
世の中の話題は「派遣村」から「オバマ米大統領」に移った。
就任演説は選挙中の「Yes,we Can」といったワンフレーズのメッセージから具体的な実務的なものになっているとのこと。アメリカ国民は新大統領への期待で沸きに沸いているが、オバマは冷静だ。やはりこのへんが只者じゃないのだろう。
オバマの前、アメリカは歴史上最低の大統領を政治のリーダーとしていた。それは社会が行き詰っていることの証しだったのだろう。そんなリーダーが選ばれてしまうという意味で。
そして大きな犠牲を払って(この間、イラクで、アフガニスタンで、パレスチナで多くの人が死んだ。正確な数を今すぐ言えないけれど)、アメリカ国民もこれじゃいけないと、今までだったら黒人系ということだけで、選ばれなかったであろうところの、有能なリーダーをかつぎだした。
ひるがえって日本の政治のリーダーはと見ると、これまたブッシュに並び立つ最低の総理ががんばっている。
小泉、安倍、福田と随分ひどい首相が続いたと思ったが、この現在の自民党最後の?総理は見事なまでに最低である。
「何とかしなくちゃいけない」と国民に思わせるためにこの人が存在してるような気さえする。
仕事のChangeを。
ニュースのトップで報道されなくなったが、「派遣切り」の問題が終わったわけではない。
自動車工場や電機製品製造工場で働いていた非正規雇用で首切りに会った人は気の毒だけど、私の気持としては「もう、そんなに車ばっかり作ってどうするの」というものだ。
ここへ来て物が売れなくなったのは、直接的には大消費国のアメリカの金融体制が崩壊?したからだけれど、ドンドン物を作って世界中に売りまくるという経済は、もう20世紀で終わっていたのだ。
若い人で車を欲しがらない人が増えているという。車を買って維持するだけの給料をもらってないということもあるけれど、皮膚感覚で、欲しないんじゃないかなと思う。
「景気なんとかして。経済成長を」というのは、70年代ぐらいまでの大量生産、大量消費の上げ潮体験のある世代の感覚ではないだろうか。
これからは赤く考え(社会主義的協同の発想で)、緑に生き(環境に良いライフスタイルで)、黒く稼ぐ(やみ市場、公式の市場を通さない私的ビジネスで)行くのがいいのでは。いやそれでなくては地球環境は破たんする。
硬直した官僚社会主義もダメだけど、強欲資本主義も終わった。
農林水産、介護・福祉の仕事にシフトしていく時だ。昭和30年代ぐらいの暮らしの感覚だろうか。
農林水産の仕事はきついし、危険な作業もというイメージがあると思うが、昭和30年代に比べると随分機械化が進んだ。
農業や林業や介護の現場のきつい仕事を緩和する機械の発明や改良というような意味での製造工場は必要だし、なにも機械の発達していない時代に戻るべきだというのではない。
Change(変えなくてはいけない、変わらなくてはいけない)は今に生きる人々にとってのスローガンであるとともに思想でもある。

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「派遣村」を貶める者たち

2009年01月13日 | Weblog
この20年とは。
昨日は成人の日。平成生まれが20才を迎えた。
20年前、1989年は「ベルリンの壁崩壊」という歴史的事態の年だ。
その後の20年は社会主義体制という対抗を持たなくなった資本主義がその本性をあらわにして牙を剥いた20年でもあった。
そして、アメリカを発信源とする行き過ぎた金融資本主義は20年で破たんした。
09年は転換の第一年目になるはずだが・・・。
日本では、08年の末から激しくなった「派遣切り」に対して、「年越し派遣村」という形の戦いが組まれ、マスコミもこれを大きく報道した。
坂本某という自民党の国会議員が、政務次官を務める総務省の「新年の挨拶」で、この派遣村には、かつての学生運動に見られたような、占拠して、要求を突きつける、そんな闘争形態を思い起こさせる意図を感じるなどと、言わなくてもいいことを言って謝罪するハメになった。
意図があって当たり前じゃないですか。戦略なくして戦いはできません。日比谷公園、厚労省の真下というのは、実に適切な場所だった。
よくこの公園の使用許可が下りた、とは思いますが。それだけ政党なり労働組合組織が一致してことにあたったということだろう。
お正月を前に職はおろか住む所を失った人はどうするんだろう、と思っていたので、こういう助け合いの行動があったということに、救われる思いがして、このところ企業側の攻勢に押されっぱなしだった働く側の情けない状態が続いていたので、これが反撃の契機になればと思った。
新聞の投書欄の一口コーナーに「厚労省講堂開放ー100年に一度の親切」というのがあった。
派遣村に助けを求めに来る人が多くて、テントも足りないという状態に、主宰者側が厚労省に交渉していたのが、遂に開放させたのだ。
こんな状態の原因を作ったのは企業の身勝手と政府の無策なのだから、空いている講堂も使わせなかったら、それこそ「税金泥棒」だ。
この「派遣村」は日本中にインパクトを与えた。
すると、これにツバする側の人間も現れる。
かつての我が長野県知事だった田中康夫氏も「あれは共産党が中心になってやったパフォーマンスだ」と批判したとか。
私は直接田中氏がそう言うのを聞いたわけではないし、そういう主旨のことを書いたものを読んだわけではないので、どういう流れでそういうことを言うのかわからないけれど、もしそうだとしたら、田中氏の今までの言動は何だったのかと思う。
阪神・淡路震災の時に、積極的にボランティア活動をした田中氏なのに、湯浅誠さんのような若い人たちのしなやかな運動に焼きもち焼いたのか?まさか!
契約期間中なのに突然解雇され、寮を追い出された人が多いのに、朝日ニュースターの討論番組を見ていたら、木村某という女性経済評論家らしき者が「派遣契約が切れれば、寮を退去しなくてはいけないのは、当人達もわかっているはずだ(だから自分で何とかしろ。何とかするのが当たり前)」と言ったのには「ひどいこと言うな」と、あきれてしまった。
「蟹工船」の乗り組み員たちも「さあ、地獄さいぐべ」と、そこがどんなに過酷な職場かわかっていても行くしかない。選択肢がない状況なのに。
イラク戦争に狩り出された貧しいアメリカ兵もそこが地獄なのはわかっている。それでも他に選べる道がない。万が一の生還に賭けて志願していく。
生きるために死ににいく、こんな状態を止めるのがCHANGEのはずだが。
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巨大権力に対抗するもの「連帯」

2009年01月08日 | Weblog

「年越し派遣村」。
派遣切りで職と住を失ってしまった人にとって、これは助かったでしょう。こういう緊急のことこそ、権力・財力を持っている政府や地方自治体、大金持ちの個人や企業がやることなのに、これを組織したのは、湯浅さんらの「もやいの会」や、派遣労働者の首切りや就職相談・生活相談に応じているユニオンや弁護士達、遅ればせながら労働組合の中央組織連合、野党政党も協力したのかな、だった。
ここで年を越した人は大変だったろうけど、1つ得たことがあると思う。それは人は「連帯」して生きる、助け合って生きる、そこにこそ、生きる喜びや、勇気が生まれるということを。私はそんなふうに考えた。
権力・財力を持って今の日本を支配している側は、そんな人々の「連帯魂」に火をつけてしまった。ここ20年ほど、人々はそういうことを忘れ去りながら生きてきたように思うけど、それを再び思い出しつつある。
年末から年始の討論番組で、これほどまでに人権を無視された「派遣」という働き方というか、働かせられ方を、従順にと見えるほど、派遣労働者たちが受け入れてきたのはなぜなのか、と思っていたら、「反貧困運動」をやっている雨宮カリンさんというまだ若い女性が、「若い人たちは、自分が働く時になって、そういう現実しか知らなかったから、人間としての権利を主張していい、すべきだ、なんて思いもよらなかった現実がある」と解説してくれた。
これはDVの被害者の状態とよく似ている。
アメリカ・オバマ大統領のキャッチフレーズだった「CHANGE」。今年こそ、日本でもそんなDV的労働のあり方をCHANGEさせる元年にしなくては。
こんな、それこそ未曾有の(この言葉をみぞうゆうと読んだ麻生(アホウ)首相だが、妙にこの誤読は印象に残って、これからみんなみぞうゆうと読むようになってしまうのでないか、とちょっと思っている)事態に、無能ぶりをさらしているのは、政府、派遣斬りを率先して行った大企業経営者、そして大企業正規労働者のことしか念頭にしてこなかった連合傘下の労働組合だ。
政府・与党の無能ぶりは、常に誰かが批判しているので、今更ここに書かないけど、今回、偉そうに日本の経済界をリードするフリをしてきたトップ経営者、例えば、経団連会長御手洗富士夫とか、前経団連会長奥田氏とかは、サラリーマン社長の典型なのだとつくづくそう思った。
大きな組織で
とップに到達する人間は、有能でリーダーシップに優れていたために、みなに押されてそうなるのではなく、根回し、ゴマスリ、調整が得意がゆえにそこに立っているということだ。
小さくても町工場の社長とか中小企業の社長は、自分で事業を立ち上げ、自分の判断で仕事を積み重ねてきた人、つまり自分の責任で物事をやって来た人たちであり、やる人達なのだ。
サラリーマン社長にその権限、矜持(この言葉、アホウ総理の好きな言葉だそうだけど。読み方むつかしいですが)は残念ながらない。
「大きくなることはいいことか」考えてしまう。
トヨタは、創業者一族の父子で1600万株の株式を保有し、今度経営に復帰し、建て直しにのりだすそうだが、このような義理人情に欠ける会社、(元々そうだったのだが、業績を伸ばしていた時は、みなその批判を口にしなかった。)今回、わかりやすい形で明らかになってしまった。みなさん、従業員と下請けに冷酷なノルマを課すこんな会社の車、これから買いますか。
連合というところもホントおかしな組織だ。
私は、ある会社でパート勤務したことがあるが、そこには主婦を中心にして、若い女性パート社員もいたが、大勢働いていて、その人達なしに業務は成り立たないのに、労働組合は当然のように、そんな人たちの労働条件や、賃金には無関心だった。
これはホントおかしいことだ、と思ったが、そういう問題意識がないことが、今日の無制限の「派遣労働」の遠因だ。
こういう労働組合の怠慢に対しては、経営者の横暴より憎悪を感じるから不思議だ。「同じ仲間なのに、何で仲間を切り捨てるんだ」という怒りだ。
連帯の対極にあるもの、同階層・階級の無関心・無知。

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年末年始政治討論番組

2009年01月01日 | Weblog

年末年始の討論番組。
テレビ朝日の「朝まで生テレビ」、朝日ニュースターの「宮崎哲哉の大激論スペシャル」、NHKの「新春がちんこトーク」を見た。
「朝生」は、田原総一郎氏の横暴な司会振りが嫌なんだけど、貧困ネットワーク「もやいの会」を主宰してる湯浅誠さんが収穫だった。
田原氏の品のない、バトルトークは、NHK「日曜討論」という予定調和的な番組に対するアンチのスタイルとしてできあがってきたものだということで、当初は意味があったのだろうけど、このバトルトークを仕切るには、田原氏自身の問題意識が粗雑過ぎる。
最初からそうだったのか、寄る年波でそうなってしまっているのか、もう引退を願うべきだ。
「横丁のご意見番」としてゲスト出演する程度にしたほうがいい。
田原さんが途中でさえぎるもんだから、せっかく本質が見えたと思ったものがそこで「ご破算」になってしまって、討論は堂々巡りして朝を迎えてしまう。それが目的かもしれないけど。
もう一人、議論を深めさせない役割を持っている人がいた。
今や、石原都知事に気に入られて副知事におさまっている猪瀬直樹氏だ。
ぬえのように権力者の間を泳いでいる間に、すっかり人相が悪くなった。(昔から人相悪かったかな?)。
湯浅さんは頭脳が明晰だ。そしてイデオロギー的立場から貧困や格差、派遣切りの問題に取り組み始めたのではなく、自身の頭で、そして現実、現場から、日本社会の抱えているゆがみを分析し、かつ運動として行動しているところが評価できる。
「日本のオバマ」だと言ったら過大評価か。
しかし、日本社会は彼を、オバマのような政治のリーダーに押し上げない。
「公職選挙法」のしばりが、そういう情熱を選挙民から奪ってしまっているから。
アメリカは選挙運動に関しては、まさに規制がなく、自由。
戸別訪問をして、支持を訴える行動はごく普通で、訪問された人はこれを拒まないし、拒めない風土ができているとのこと。
日本の場合、戸別訪問の禁止、ビラ配布の規制等は、すべて現職、与党議員有利をはかるためだ。
選挙告示日以降、にわかににあたりは静になる(選挙カーは走るが)。これから選挙について、誰に投票したらいいか考えようとしても、材料もヒントもない。
水面下で、選挙運動員だけがうごめいている。政治・選挙が普通の人から遠ざかっていく。
そして結果、せっかくの選挙権を「誰に投票していいかわからない」という理由で行使せず、あるいはテレビでの露出度の高いタレント候補や、現職議員に、その人の主張もよく理解しないで、投票してしまう結果になる。

「朝日ニュースター」の番組は、CS放送だから、視聴する人は限定されているだろうが、ゲストの主張を司会がさえぎる、というような恣意的進行はしていないように見えるので、じっくり聞ける。
司会の宮崎氏の立場はよく知らないが、せっかく進めてきた討論を気まぐれでお膳をひっくりかえすようにぐちゃぐちゃにしてしまうことはない。

NHK「がちんこトーク」のテーマは大きく分けて2つ。
1つは「派遣切り」に象徴されるような雇用の劣化・格差の問題。
もう1つは、日本の国際社会に対するかかわり方、外交姿勢はいかにあるべきかということ。
小泉構造改革の旗振り役だった竹中平蔵氏も論客の一人。
今日の惨憺たる雇用状況に対しても「改革を途中でやめるからこういうことになっている」と主張。
つくづくゾンビのような人だと思った。中谷巌氏のように「懺悔の書」なんか、この人は書かないだろうな。まあ、今はそんなもの書いてる場合じゃないけど。
興味を引かれたのは、小泉構造改革、アメリカ流規制緩和を正しいと主張する人たちは、国際貢献の名の下に、アメリカのすすめる「テロとの戦い」に自衛隊を出動させることにも賛同している点だ。
この人たちは「アメリカの走狗」なんだなと思った。

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