木洩れ日通信

政治・社会・文学等への自分の想いを綴る日記です。

弱肉強食のグローバル化は、滅亡への道

2007年05月27日 | Weblog

少し前、映画『ダーウィンの悪夢』を見た。
アフリカはタンザニアヴィクトリア湖という湖がある。ここにナイルパーチという肉食の外来魚が放たれる。
凶暴な大型魚ナイルパーチはたちまち在来魚を食いつくして繁殖する。
しかしこの外来魚、白身のその身の味は悪くない。加工工場ができて、それは飛行機でおもにヨーロッパに運ばれ、日本にも輸出され、スーパーの魚売り場にパック入りで、多分別の名前で売られてもきた。
加工工場ができて、雇用がうまれ、付近の人たちはうるおうはずだった。
ところが実際は、仕事を求めて人々が押し寄せた結果、エイズ、ストリートチルドレン、売春婦が増え、一層の貧しさが人々の上に。
ナイルパーチは高価な魚で、現地の人の口には入らない。
切り身にしたあとの残骸が干され、揚げられ、それが現地の人の食物となる。
ただし、残骸集積場にはアンモニアガスが発生し、そこで残骸の処理をする女性は、ガスで目を失っていた。
ヨーロッパ諸国はアフリカを食い物にしてきた。資源と広い大地ゆえにそれを奪われてきた。
翻って日本は、「黄金の国ジバング」と言われた時代もあったが、ヨーロッパ諸国が東洋に押し寄せる頃には、それも乏しくなり、地理的にもヨーロッパやアメリカから遠いために、運よく食い物にされることを免れた。そう感想を持たせる映画だった。
ナイルパーチをヨーロッパに運ぶ飛行機のパイロットたちは、旧ソ連の出身者。
ヴィクトリア湖に来るときは「空身で来る」と言い張っていたが、最後に「武器を積んでくる」と告白した。
アフリカの飢餓に拍車をかけている部族同士の内戦は、ヨーロッパ諸国の武器によって続けられている。
水産研究所の夜警をしている男は、「戦争は悪いが、戦争でもあれば、世の中ひっくり返って、今の支配秩序がこわれて、自分のようなものにももう少しましな暮らしができるチャンスが回ってくるかもしれない」と言う。
今、世界中で、グローバル化という収奪体制にさらされて人々は、「戦争でも起こって、世の中ひっくり返るしか、この息の詰まる、希望のない状態を打開する方法はないんじゃないか」と、思い始めている、ということも実感させる映画だ。
ナイルパーチはグローバル化の象徴でもある。たちまち弱いものを食い尽くして、さて、食い尽くしたあとにもう食べるものがないじゃないか、ということになる。
共生していた湖が滅びれば、誰も、何も生き残れない。



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どうする日本人

2007年05月21日 | Weblog

アメリカの仕掛けたイラク侵略から4年目。イラク人の手になる?マリキ政権発足から1年目。
治安は一向に改善されていないというのが一般的な見方だ。
アメリカ国内でも開戦時の熱病からようやく冷めて、イラク反戦デモや、議会での「イラク戦費支出反対」が議決されるなどの動きになっているが、なぜ、アメリカはこのような過ちをくりかえすのか。
ベトナム戦争終結から30年余り、日本の日中・太平洋戦争終結60年の半分の歳月しかたっていないのにこうなる。
イラク侵略決議には、民主党の殆ど全ての議員も賛成した。
アメリカの支配機構が軍事と産業の複合体制になっており、それが必然的に戦争を呼び込むシステムになっている、という記事を読み納得。
アメリカの経済の繁栄は、永久に戦争をし続けることで成り立っている。
世界での戦争を止めるには、アメリカが自分達の国が世界で最も軍事的にも経済的にも力を持っている国だという立場から降りるしかない。
ソ連が、アメリカと対決する一大国家の立場を降りたように。
しかし、さすがにブッシュ大統領の政策ではまずい、ということになって、次期大統領は、多分民主党選出の候補が勝利をおさめるだろう、という見方が強くなっているが。
有力候補ヒラリー・クリントンさん。彼女もまた「イラク侵略決議」に賛成した。
国民皆保険制度の成立に力を尽くす彼女だが、それでも強いアメリカという幻想を捨てるには至っていない。
ヒラリーさんを見ると、私はイギリスの元首相サッチャーさんを思い起こす。二人は似ている。
「いざとなると、男より好戦的になる」。
一方、ここへ来て、清新な候補として浮上してきた黒人系の血も入ったオバマ氏は、幸いなことに、「イラク決議」の際にはまだ議員ではなかった。
しかし、非白人ではあっても、エリートになった彼が「強いアメリカ、偉大なアメリカ」の幻想を捨てる最初の大統領になるかどうか。
「強いアメリカ・偉大なアメリカ」の幻影におびえ、ひざまずくことしか考えられないのが、戦後歴代の自民党政権だが、とりわけ、安倍総理は、祖父の岸信介、大叔父の佐藤栄作とともに、アメリカへの忠誠度の高さで、その地位を得ているために、ご機嫌取りに必死だ。
アメリカの政治権力、そのまたさらに奥にそれを支配する「奥の院」があるそうだが、今や「奥の院」の要求は、日本がアメリカとともに、どこに出没するかわからないテロリストの掃討だ。
イギリスと同じ役割をになえ、というわけだ。
イギリスはいい。それでもヨーロッパにあるのだから。
日本はアジアの国だ。
日本経済界は、今年の決算で史上最高の利益をあげた。
その最大の要因は、今や経済大国の道をひた走る中国への輸出・進出による。
豊かになった中国の消費者が、付加価値の高い日本製品を買う。
その日本が、アメリカの命令で、北東アジア牽制のためのの軍事先進基地となる。
憲法9条を変えるということはそういうことだ。
経済は中国と持ちつ持たれつ、軍事はアメリカの言いなり、そんな都合のいいことは許されない。どうする日本人。



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「民主党」を否定して、新しい政界再編を

2007年05月15日 | Weblog

国民投票法案が参院本会議でも成立して、いよいよ改憲のための法手続きは整ったことになる。
ここへ来るまでに、歴代の、特に安倍総理は改憲の理由をあれこれへ理屈として並べてきた。
いわく「占領軍からの押し付け憲法だから、自前の日本人自身の憲法を」、「北朝鮮などのテロ国家に対して、毅然と対処するためには同盟国アメリカと共同軍事行動もできる自衛権を明記すべき」等々。
「押し付け憲法論」は、映画「日本の青空」などに描かれたように、事実と異なり、これに対抗する論理を持たないはずだ。屁理屈は並べるだろうが。
同盟国アメリカとどこまでも世界中で、軍事行動をともにできるよう、これが今度の「改憲」の一番のねらいで、これさえ通れば後はどうでもいい、環境権もプライバシー権も、現在の「日本国憲法」を素直に読めば、改めて付け加えるほどのものではない。
「健康で文化的な最低限度の生活を送る権利を有する」ことが定められているのだし、なにより最大の環境破壊である戦争を放棄しているのだから。
思想・信条の自由、信教の自由、教育・学問の自由、婚姻の自由、奴隷的拘束を受けない自由、不当逮捕されない権利等の定めを見れば、個人の自由を尊重することこそ、プライバシーが守られる根拠だ。
国会での3分の2の議員の賛成による発議を受け、国民がその賛否を投票することになるが、その成立を政府与党は、投票者の過半数で逃げ切ろうとしている。
本当に今「憲法」を変える必要があるのか、その議論をとことん突き詰めれば、必要は無い、という結論になる可能性が非常に高く、それを恐れて、とにかくドサクサにまぎれて、「憲法を変えてしまおう」という魂胆だから、改定のハードルを限りなく低くしておく必要から、有権者、つまり未成年以外の国民の過半数の賛成によって、ということが正々堂々と言えないのが、「改憲側」の立場なのだが。
これほど拙速で、どう見ても深い教養に欠け、政治家としての資質が劣っている安倍総理の強引な手法がスルスルと、通ってしまう1番の原因は「小沢民主党」にあると思う。
もともと自民党の議員で、こと9条に関して護憲論者ではなく、「普通の国」になることを唱えていた、しかも自民党の中枢にいた小沢氏が自民党を出たのは、今日の「改憲のシナリオ」のためではなかったかとさえ思う。
小泉内閣の乱暴な構造改革による格差社会や新自由主義という弱肉強食の「荒野」しかもたらさない、ひいては資本家側をも結局は破滅させる政策を許しているのも、「民主党」という党の存在にほかならない。

将来的には「民主党」が強くなることではなく、「民主党」が崩壊することが日本を救う。今夏の参院選でそうなると、それこそ「憲法改定」が現実化してしまうことにもなるのだけれど。
「民主党神話」つまり、自公よりましな「政権交代可能な政党の育成」という、から抜け出すときこそ、ダイナミックな政変の時ではないか。



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感動させる戦争映画

2007年05月09日 | Weblog

この3月に作家の城山三郎さんが亡くなった。
城山さんもまた17歳で海軍に志願した「軍国少年」だった。
戦時中、感受性豊かで、かつ鋭く、ナイーブな人、つまり「善き人」「善き少年・少女」ほど軍国少年、軍国少女として生きた。
そして戦後、一転してその慙愧の思いから左翼活動家になったり、戦時中の自身と周囲のありようの意味を問うて、作家になった人も多い。
やはり去年、亡くなったエッセイストで同時通訳者だった米原万里さんは「感受性が豊かであることは戦争の抑止にならない」と言った。
「熱き人間」は時として右にも左にも揺れる。
こう見ると、人は少し冷めていて、何事にも一生懸命になりすぎないほうが良いのかとも思う。
改めて言うほどのことでもないが、「物事の両面を学ぶ教育」、「自分の立場と同時に相手の立場も考えてみる想像力」、これを見失ってはならない。
近頃、作られる戦争をテーマにした映画はなかなかよくできていて、見る者を感動させ、一見、「反戦映画」なのか?と思わせるつくりになっているようだ。
『男達の大和』、石原慎太郎が脚本を書いて、プロデゥースもした『俺は君のためにこそ死にに行く』など。
『俺は君のー』の試写を見た元共産党員で、テレビのコメンテーターもしている有田芳生氏は「不覚にも涙があふれてきた」という。
『俺はー』は鹿児島の特攻基地の近くで食堂を営んでいた、鳥浜トメさんをモデルにした、トメさんと特攻隊員の心の交流を描いたストーリー。
しかしこの映画に対して、共産党の機関紙「赤旗」の映画評で、評論家の山田和夫氏が酷評したという。
有田氏は、山田氏が、この映画を作ったのが、「右翼政治家・石原慎太郎」だと言うだけで、この映画を頭から否定し、硬直した政治的映画評をしている、と批判している。
しかし山田氏もまた、戦時中軍国少年として少年兵志願した人だ。
私には山田氏の気持もわかる気がする。かつての軍国少年としては、「戦争を美しく描きだす」こと自体、過去の傷をえぐられるようで、八つ当たりしたくもなったのだろう。
山田氏にすれば、こんな映画を作る事自体が許せないのだ。
石原慎太郎が、鳥浜トメさんに「国民栄誉賞を」と、時の総理の宮沢喜一氏に打診したところ、宮沢氏はニベもなく断ったという。これは宮沢氏の政治のリーダーとしての見識だ。
トメさんは善意の一国民だが、トメさんを賞賛することは、「特攻」を賞賛することにつながってしまう。
「特攻」を賞賛することは、このような、馬鹿げた戦術を考え、命令した人間達を免罪することにつながる。
軍国少年より少し年上で、状況上、「特攻志願」せざるを得なかった、私の大学時代の恩師岩井忠熊氏と兄の忠正氏は、やはり「俺は君のためにこそ死にに行く」、つまり国のためとか、天皇のためとかではない、愛する家族のために、と、特攻死を意味づけたが、それは間違っていた、「特攻を拒否」することこそ、とるべき道だった、と生き残って述懐する。
特攻が成功すれば、自分も死ぬが敵側の人間も死ぬ。それが愛する人のためか?
見る人に涙を流させ、感動させる「戦争映画」など作らぬことだ。



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日本人の中から生まれた「日本国憲法」

2007年05月03日 | Weblog

映画『日本の青空』を見る。
この映画は、改憲を叫ぶ側の「日本国憲法は、GHQの押し付け」という論への答えというか、反論の映画だ。
4月29日、長野市若里市民ホール第1回上映の部であったが、ほぼ9割の入り。
2回目の上映には、監督の大沢豊氏の挨拶が予定されていたから、多分、そちらの回のほうに、足を運んだ人のほうが多かったかもしれないので、人々の「憲法」への関心はにわかにここへ来て高まってきたのではないかと思う。
私は数年前に、『真珠の首飾り』?という、GHQの内部で、日本国憲法を急いで作り上げた経過を描いた演劇を見たが、その劇の中に描かれていたかどうか覚えていないが、この映画では、そのGHQが多いに参考にした、日本の民間の研究会による憲法草案が練られた跡を描く。
研究会の中心にいたのは、鈴木安蔵という憲法学者。名前だけは知っていたが、そういう仕事をした人だとは、今回改めて認識した。
「治安維持法」の名によって逮捕された第1号という「戦う人」でもあった。
職も無く、妻と幼い児との生活は、親族の仕送りで辛うじて支えられていたのだが、この時代の厳しいが、しかし貧しい者同士、貸したり、借りたりという関係があったればこそ、生き延びることができたのでは、と推測した。
現代だったら、失業すれば、たちまちホームレスに転落してしまう。
戦争の時代、鈴木はひたすら「憲法」の勉強をする。
「明治憲法」、ドイツの「ワイマール憲法」、自由民権運動家達による「憲法私案」も。
その研究が戦後花開いた。
第9条の「戦争放棄」も、生存権や女性の権利を明文化した条項も、この研究会の草案に盛り込まれている。
これがGHQに提出されていたのだ。この草案なくして「日本国憲法」は有り得ない。
当時の日本政府にも「憲法草案」を作るよう、GHQからの要請がされていた。
しかしそこで、出てきた草案は、「明治憲法」を一歩も出るものではなかった。それは当たり前と言えば当たり前。松本丞二国務大臣以下、支配者の側にいる人間、明治憲法の下で生きてきた人間が「民主主義的な国のありかた」を考えることができるはずはない。
鈴木安蔵のような、弾圧され、権利を奪われた側の人間でなければ、「民主憲法」は作れない。
「改憲」は許されないが、憲法に関心を寄せ、考える契機を与えられたというふうに考えれば、この機会を逃す手はない。
憲法は、国の政治を行う者をこそしばるものであり、国民をしばり、義務を押し付けるものではないことを、人々が広く、改めてここで認識すれば、なにゆえに改憲せねばならないか、その理由は失われる。
時代に合わなくなった?合わなくしたのは国民の側ではない。
「振り込め詐欺」や「マルチ商法」、「ねずみ講」にだまされる人は後を絶たないが、政治家の詐欺にだまされないようにしなくては。
本を読むのは面倒な人も映画で説明されれば、目を向ける可能性は高い。
「固い映画」といえばそうだが、この問題これ以上やわらかく描くのはちょっとむつかしい。



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