原子力エネルギーを、平和利用の名目で日本の電力として育成してきた理由は、将来の安全保障上の基本には、エネルギー自給率の大幅改善があったからだ。
当時から「原子力エネルギー利用」には、自然災害が頻発して、万が一の避難路も確保が難しい懸念があったが、それ以上にエネルギー自立が重要であった。
中近東での紛争頻発や石油ショックの発生で、国民生活が脅かされる事態では、可能な限り石油依存からの離脱を図って、リスクを最小にする努力をした。
しかし、2度の石油ショックを乗り切り、経済成長が順調に果たせると、電力需要の急増もあって、原子力発電所の増設ラッシュとなった。
原子力発電の技術も進化したが、大型化が発電コストが安価になるとわかって、さらに一箇所の発電所に複数基の原発を設置することが主流になっていった。
万が一の事故対応が難しくなり、被害の拡大が膨大な規模になることも予想されていたが、【原発は絶対に事故を起こさない】との安全神話と作り上げていた。
この複数基の設置が被害を拡大した事は、福島原発で3基が同時に事故を引き起こした実例を分析して、現場での対応が想像を絶する困難を引き起こしている。
何故危険性のある原発を同一箇所の敷地内に、次々に設置したのかは、明らかに経済的な合理性を優先したからである。
本来は、少しでも安全サイドに技術を進化させて、さらに不測事態に対しての被害を最小限にとどめる発想が、当然の方向であった。
しかし、経済産業省の保安院は、これらのリスクを徹底的に軽視して、電力会社が求める「利益幅が大きくできる」ように、規制の基準を最大に緩くする。
ついに、日本のような狭い国土で、一旦事故が起きたら、次々に被害が拡大する危険性のある原子力発電所が、事故リスクを軽視した無謀な事業に突き進む。
民間の事業者が、電力コストが安い事を強く要求するのに応えるために、少しでも余計な安全性向上の議論を意図的に退けてきた。
ついに天罰が下って、福島原発では甘く見ていたら津波の到来を受けて、脆くも3基が原子炉のメルトダウン事故が起きてしまった。
この後始末には、少なくとも30年以上の年月が必要になり、その間に発生する費用は全て、電力利用者の電気料金で負担しなければならない。
電力会社の経営陣は、目先の利益を貪る事を優先して、一旦事故が起きたら、一目散に逃げ場を求めて右往左往し、雲隠れに専念する。
しかし、事故発生時に直接の対応を迫られなかった「安倍政権」の政治家たちは、喉元過ぎれば熱さを忘れるとばかりに、規制基準を世界最高にしたと誇示する。
世界最高に基準を引きあげた事を、自分たちの手柄にする感覚は、狂っている。
エネルギー資源の自給率向上は、将来に向けての、国創りの基本になる。
しかし、そのために「不安がつきまとう原子力発電所」の依存するのは、不安を増大する以外の悪影響しかない。(続)