言葉とは認知である。
それはときの現実を捉えて念(今の心)として、
脳中に貼ったレッテルである。
それを捉えるのは脳ではない。
脳を含めた身体全体(の感覚)である。
その現実とは「ものごと」のこと。
ものごとは本来一体であるが、
そこに認知の技がはいる。
認知を認知たらせる大本の技です。
それは「わける」という技である。
そのひとつは実の流れを止める技。
流れの瞬間を今として留めること。
そのひとつは便宜的にではあるが、
モノとコトを切り離して捉える技。
その結果として念ができるのです。
それが言葉である。
サピエンスはそこに革命をもたらした。
てかそも言葉こそが革命であった、
その上でのことで。
・・・・・
言葉が捉えた現実は、
それがモノであれコトであれそれは具象である。
にしても現実は複雑怪奇で捉えどころなし。
それをふるいにかけて抽出し取り出す。
それを抽象という。
でもこれはあくまで現実の延長で、
虚構とは言えません。
虚構とは現実に直接的な繋がりがないもの。
でも言葉が少ない間はそれは生まれにくい。
現にそうだが脳はネットワークである。
すべての言葉は繋がっている。
これは実感でもある。
現実の世界も実にそうであり、
すべてが繋がっている。
余談だが、
個人の独立というが、
そんなもんホントは有りません。
個人を立てる為の方便でしょう。
それはさておき、
言葉どうしが繋がるのは、
それは許より初めからそういうもので、
認知の技で一旦分けているだけのこと。
語彙が少なければそこに余り変化なし。
それが増えればときに大きく変化する。
その繋がりの中で新たな意味が生れる。
閃きや直感とか謂うのもそれでしょう。
ときに新たな言葉がつくられる。
それは現実とは関りなく、
脳内でのみ創られるもの。
なぜそれを虚構と言うか。
この言葉は嘘と構と謂う二文字を使う。
ちなみに虚空という言葉がある。
嘘と空はシナ語では意味が異なっても、
和語では「むなしい」と謂う意で同じ。
同じような意の字を並べて語句を作る。
元々漢語なのかも逸れませんが、
むしろ日本語の得意技なのです。
それはともかく、
その意からして、
虚構とは空しさを形として捉えたもの。
それを人に宛てれば、
それは心の立て方・構え方のこと。
私一流のこじつけですが、
そう思うのです。
・・・・・
そんな脳内のみにて創られた言葉、
それを幾つか下に示す。
自由・平等・権利・善悪等他多数。
こんなものは現実にはないのです。
現実世界には自由もなければ権利もありません。
あるのは現実だけです。
ヒト以外の生き物には当然のこと。
それがある(と思う)のは人間だけ。
言葉を持った人間だけ。
言葉(≒虚構)にはそういう仕掛があるのです。
だから私は注意が必要だと言っている。
それはなにも悪いばかりではない。
良い面もあるのです。
先にも言ったが虚構という文字は、
その字義に「心の立て方・構え方」との意あり。
それは人の心中に火(ともしび)をともす。
それが先を照らす灯りとなる。
さならそれは素晴らしいもの。
でも火を現実の上に被せれば厄介が起こる。
火事になるのです。
これをもってウソと謂う。
また余談だが、
少しく前に教育は洗脳だと言った人がいる。
そういう題?の本を出している。
同感である。
その過程はまったくその通りで、
言葉を覚えるとはそういことか。
でも私には異論がある。
それはその目的である。
教育の目的は自分を知ること。
洗脳の目的はそれをさせないこと。
目的が違うだけのことです。
それだけのことだが、
それだけでまったき別物と化す。
それはすべて構えの問題である。
だから私は虚構にはふたつあると思ふ、
ウソと方便の。
そこさえ押さえておけば。
うん!
・・・・・
ちなみに、さらに余談を。
それは「愛」と謂う言葉。
似ていても虚構ではない。
構えと言えば構えですが。
これは現の実にあるもの。
生き物にはよく見られる。
己が命が大事は命の王道、
それ以上に子の命が大事、
この行動には驚きである。
これを称して「あい」と。
ときに愛は現の実である。
それを友愛とはハテ如何、
敢えてなら博愛でしょう。
まあそういうことですが、
すべてはワイの言葉遊び、
どうとでも言えるのです。
言葉には注意しましょう。
いまや世界はウソばかり。
ハイ!
それはときの現実を捉えて念(今の心)として、
脳中に貼ったレッテルである。
それを捉えるのは脳ではない。
脳を含めた身体全体(の感覚)である。
その現実とは「ものごと」のこと。
ものごとは本来一体であるが、
そこに認知の技がはいる。
認知を認知たらせる大本の技です。
それは「わける」という技である。
そのひとつは実の流れを止める技。
流れの瞬間を今として留めること。
そのひとつは便宜的にではあるが、
モノとコトを切り離して捉える技。
その結果として念ができるのです。
それが言葉である。
サピエンスはそこに革命をもたらした。
てかそも言葉こそが革命であった、
その上でのことで。
・・・・・
言葉が捉えた現実は、
それがモノであれコトであれそれは具象である。
にしても現実は複雑怪奇で捉えどころなし。
それをふるいにかけて抽出し取り出す。
それを抽象という。
でもこれはあくまで現実の延長で、
虚構とは言えません。
虚構とは現実に直接的な繋がりがないもの。
でも言葉が少ない間はそれは生まれにくい。
現にそうだが脳はネットワークである。
すべての言葉は繋がっている。
これは実感でもある。
現実の世界も実にそうであり、
すべてが繋がっている。
余談だが、
個人の独立というが、
そんなもんホントは有りません。
個人を立てる為の方便でしょう。
それはさておき、
言葉どうしが繋がるのは、
それは許より初めからそういうもので、
認知の技で一旦分けているだけのこと。
語彙が少なければそこに余り変化なし。
それが増えればときに大きく変化する。
その繋がりの中で新たな意味が生れる。
閃きや直感とか謂うのもそれでしょう。
ときに新たな言葉がつくられる。
それは現実とは関りなく、
脳内でのみ創られるもの。
なぜそれを虚構と言うか。
この言葉は嘘と構と謂う二文字を使う。
ちなみに虚空という言葉がある。
嘘と空はシナ語では意味が異なっても、
和語では「むなしい」と謂う意で同じ。
同じような意の字を並べて語句を作る。
元々漢語なのかも逸れませんが、
むしろ日本語の得意技なのです。
それはともかく、
その意からして、
虚構とは空しさを形として捉えたもの。
それを人に宛てれば、
それは心の立て方・構え方のこと。
私一流のこじつけですが、
そう思うのです。
・・・・・
そんな脳内のみにて創られた言葉、
それを幾つか下に示す。
自由・平等・権利・善悪等他多数。
こんなものは現実にはないのです。
現実世界には自由もなければ権利もありません。
あるのは現実だけです。
ヒト以外の生き物には当然のこと。
それがある(と思う)のは人間だけ。
言葉を持った人間だけ。
言葉(≒虚構)にはそういう仕掛があるのです。
だから私は注意が必要だと言っている。
それはなにも悪いばかりではない。
良い面もあるのです。
先にも言ったが虚構という文字は、
その字義に「心の立て方・構え方」との意あり。
それは人の心中に火(ともしび)をともす。
それが先を照らす灯りとなる。
さならそれは素晴らしいもの。
でも火を現実の上に被せれば厄介が起こる。
火事になるのです。
これをもってウソと謂う。
また余談だが、
少しく前に教育は洗脳だと言った人がいる。
そういう題?の本を出している。
同感である。
その過程はまったくその通りで、
言葉を覚えるとはそういことか。
でも私には異論がある。
それはその目的である。
教育の目的は自分を知ること。
洗脳の目的はそれをさせないこと。
目的が違うだけのことです。
それだけのことだが、
それだけでまったき別物と化す。
それはすべて構えの問題である。
だから私は虚構にはふたつあると思ふ、
ウソと方便の。
そこさえ押さえておけば。
うん!
・・・・・
ちなみに、さらに余談を。
それは「愛」と謂う言葉。
似ていても虚構ではない。
構えと言えば構えですが。
これは現の実にあるもの。
生き物にはよく見られる。
己が命が大事は命の王道、
それ以上に子の命が大事、
この行動には驚きである。
これを称して「あい」と。
ときに愛は現の実である。
それを友愛とはハテ如何、
敢えてなら博愛でしょう。
まあそういうことですが、
すべてはワイの言葉遊び、
どうとでも言えるのです。
言葉には注意しましょう。
いまや世界はウソばかり。
ハイ!