ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

認知革命

2024-02-12 08:50:02 | 日記・エッセイ・コラム
言葉とは認知である。
それはときの現実を捉えて念(今の心)として、
脳中に貼ったレッテルである。
それを捉えるのは脳ではない。
脳を含めた身体全体(の感覚)である。
その現実とは「ものごと」のこと。
ものごとは本来一体であるが、
そこに認知の技がはいる。
認知を認知たらせる大本の技です。
それは「わける」という技である。
そのひとつは実の流れを止める技。
流れの瞬間を今として留めること。
そのひとつは便宜的にではあるが、
モノとコトを切り離して捉える技。
その結果として念ができるのです。
それが言葉である。
サピエンスはそこに革命をもたらした。
てかそも言葉こそが革命であった、
その上でのことで。
・・・・・
言葉が捉えた現実は、
それがモノであれコトであれそれは具象である。
にしても現実は複雑怪奇で捉えどころなし。
それをふるいにかけて抽出し取り出す。
それを抽象という。
でもこれはあくまで現実の延長で、
虚構とは言えません。
虚構とは現実に直接的な繋がりがないもの。
でも言葉が少ない間はそれは生まれにくい。
現にそうだが脳はネットワークである。
すべての言葉は繋がっている。
これは実感でもある。
現実の世界も実にそうであり、
すべてが繋がっている。
余談だが、
個人の独立というが、
そんなもんホントは有りません。
個人を立てる為の方便でしょう。
それはさておき、
言葉どうしが繋がるのは、
それは許より初めからそういうもので、
認知の技で一旦分けているだけのこと。
語彙が少なければそこに余り変化なし。
それが増えればときに大きく変化する。
その繋がりの中で新たな意味が生れる。
閃きや直感とか謂うのもそれでしょう。
ときに新たな言葉がつくられる。
それは現実とは関りなく、
脳内でのみ創られるもの。
なぜそれを虚構と言うか。
この言葉は嘘と構と謂う二文字を使う。
ちなみに虚空という言葉がある。
嘘と空はシナ語では意味が異なっても、
和語では「むなしい」と謂う意で同じ。
同じような意の字を並べて語句を作る。
元々漢語なのかも逸れませんが、
むしろ日本語の得意技なのです。
それはともかく、
その意からして、
虚構とは空しさを形として捉えたもの。
それを人に宛てれば、
それは心の立て方・構え方のこと。
私一流のこじつけですが、
そう思うのです。
・・・・・
そんな脳内のみにて創られた言葉、
それを幾つか下に示す。
自由・平等・権利・善悪等他多数。
こんなものは現実にはないのです。
現実世界には自由もなければ権利もありません。
あるのは現実だけです。
ヒト以外の生き物には当然のこと。
それがある(と思う)のは人間だけ。
言葉を持った人間だけ。
言葉(≒虚構)にはそういう仕掛があるのです。
だから私は注意が必要だと言っている。
それはなにも悪いばかりではない。
良い面もあるのです。
先にも言ったが虚構という文字は、
その字義に「心の立て方・構え方」との意あり。
それは人の心中に火(ともしび)をともす。
それが先を照らす灯りとなる。
さならそれは素晴らしいもの。
でも火を現実の上に被せれば厄介が起こる。
火事になるのです。
これをもってウソと謂う。
また余談だが、
少しく前に教育は洗脳だと言った人がいる。
そういう題?の本を出している。
同感である。
その過程はまったくその通りで、
言葉を覚えるとはそういことか。
でも私には異論がある。
それはその目的である。
教育の目的は自分を知ること。
洗脳の目的はそれをさせないこと。
目的が違うだけのことです。
それだけのことだが、
それだけでまったき別物と化す。
それはすべて構えの問題である。
だから私は虚構にはふたつあると思ふ、
ウソと方便の。
そこさえ押さえておけば。
うん!
・・・・・
ちなみに、さらに余談を。
それは「愛」と謂う言葉。
似ていても虚構ではない。
構えと言えば構えですが。
これは現の実にあるもの。
生き物にはよく見られる。
己が命が大事は命の王道、
それ以上に子の命が大事、
この行動には驚きである。
これを称して「あい」と。
ときに愛は現の実である。
それを友愛とはハテ如何、
敢えてなら博愛でしょう。
まあそういうことですが、
すべてはワイの言葉遊び、
どうとでも言えるのです。
言葉には注意しましょう。
いまや世界はウソばかり。
ハイ!