ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

会合

2024-02-19 08:15:32 | 日記・エッセイ・コラム
聖書は凄い書物である。
後ろは知らず、創世記の記は。
そこに寓意のすべてがあると。
はじめに神は天と地を創った。
これは「もの」である。
或いは「場」であろう。
だから「物場」である。
それが前提でそこからすべてが始まる。
でも「こと」がなければ「無」に同じ。
「こと」は流れるもの。
「こと」が流れて「ものごと」が成る。
世界とは是この「ものごと」に如かず。
この「こと」をなす大本の動力がある。
これがどこから来るのか分かりません。
でもすべての「ものごと」にあります。
それを「ことのは」という。
それは「事端」のこと。
それを「言葉」と記す。
そこで思うのです、
その発信元を想うとき、
そこに『』が現われる。
それは言葉と同期する。
もとより初めから、
すべては同期している。
・・・・・
ということで、
ヒトの身体は「言葉」で創られる、
と言うことになるが煎じ詰めれば、
それはその発信元の『』の力です。
今その設計図・仕様書は分かっている。
それはご存知のあのDNAである。
それは生物誕生までの全記憶を持っており、
それが母親の胎内で再現されると謂う。
でもそこではヒトの言葉は作られない。
それは生まれてから後のこと。
なら関与するのはヒト自身か。
思うに生まれてからのことは、
ヒトが伝えているに違いない。
特に言葉を持ち始めてからは。
文化という生き方の総体を通して。
でも分からない。
親は子に言葉を与えていない。
なのにそれを必ず身に付ける。
そこに何がある。
何か大きな切っ掛けが。
ヒトが関与できないところで。
はじめに戻って、
ヒトの身体は「言葉」で創られる。
だから身体と「言葉」はいつも一体である。
一体だから当然にそれがそれと分からない。
他の生物がそうであるように。
でもここにこそ契機があった。
ヒトはそれが在るのを感じた。
全身全霊でその震えを捉えた。
瞬間的にそれが離れた感覚か。
ときに『』の言葉に出会った。
つまり『』と会合したのです。
これがヒトの言葉の始まりに。
その後はボチボチかと。
しても誕生まではDNAの記憶を辿ること、
その後はその生物の生きた記憶(本能)に従うこと、
ヒトの場合はそれは歴史の記憶を辿ること、
そしてそのとき、
その辿りの初めに必ず『』と出会う、
それが言葉を持たせるのです。
ちなみに、狼少年の話がある。
事情は知らず生まれた直後に、
山野に置き去りにされ、
なぜか?狼に育てられ成長した少年がいた。
その後保護されて生きたが、
結局人間にはなれなかった。
彼は狼の記憶の中でしか生きられなかったのだ。
肝心な時に人と関わらなかったからか。
たぶんそういうことだろう。
ちなみに日本人は、
『』を「かみ」と言い、
それを「神」と記している。
示して申すである。
そこにあるのはまさに神の言葉。
どこまでも聖書と符合している。
と謂うことで、
それは多分そういうことです?
そうですよね、
・・・・・
言葉を持つとは、
神を覚えること、
そして「こと」を知ること。
このできごとに前後はない。
この三者は同期していると。
更に同時に「とき」も持つ。
「こと」は流れるもの、
その流れに印を付ければ、
ときに「とき」が現われる。
ときにヒトは時を持つのです。
時は事を知る為には必須の道具。
そこでまた聖書を想う。
「こと」の初めは光である。
神の最初の言葉は「光あれ」であった。
そしたらそこに光があった。
そこは光で満たされたのだ。
ときに「とき」が芽生える。
ここでアインシュタインが登場。
相対性理論は言う。
光速を超えて移動すれば時が歪むと。
物差しの目盛りが狂うのだ。
「猿の惑星」がそれを語る。
光速を超えて宇宙を移動し地球に帰還、
すると時代が様変わりしていたと。
そこからこの物語がはじまる。
時は光と深い関係にある。
或いは光そのものか、
とも想うのです。
私は高速を超えて動くものはないと思っている。
でも科学の最先端では存在するのではとも。
それはあってもあだ花か。
それは光に替われないと。
だからそれではヒトは移動できないと。
それにまた思うのです。
光は逆走しないと。
反射し戻ってくることはあっても。
だから、
「バックトゥザフューチャー」は、
実際には有り得ないだろう。
過去には戻れないのである。
話としては面白いが。
なんちゃって、
・・・・・
ところで、
私は科学者でもない只の庶民でかつ常識人。
常識人と自ら言うのもどうかと思うが。
だからその考えは常識を外れない。
でも『』に会っていること、
その世界に生きていること、
このことを疑わない。
でもこの世界は、
でもこの宇宙は、
神の世界はヒトの思いの外、
真の実など誰も分からない。
なのにそこに迫ろうとする。
その行き着く先はいつも「くう」。
分けても分けてもそこはいつも「くう」。
てか「言葉」の行先は「物場」だったのである。
てかこれで一件落着。
そんなことで、
まあボチボチでんな、