聖書は凄い書物である。
後ろは知らず、創世記の記は。
そこに寓意のすべてがあると。
はじめに神は天と地を創った。
これは「もの」である。
或いは「場」であろう。
だから「物場」である。
それが前提でそこからすべてが始まる。
でも「こと」がなければ「無」に同じ。
「こと」は流れるもの。
「こと」が流れて「ものごと」が成る。
世界とは是この「ものごと」に如かず。
この「こと」をなす大本の動力がある。
これがどこから来るのか分かりません。
でもすべての「ものごと」にあります。
それを「ことのは」という。
それは「事端」のこと。
それを「言葉」と記す。
そこで思うのです、
その発信元を想うとき、
そこに『』が現われる。
それは言葉と同期する。
もとより初めから、
すべては同期している。
・・・・・
ということで、
ヒトの身体は「言葉」で創られる、
と言うことになるが煎じ詰めれば、
それはその発信元の『』の力です。
今その設計図・仕様書は分かっている。
それはご存知のあのDNAである。
それは生物誕生までの全記憶を持っており、
それが母親の胎内で再現されると謂う。
でもそこではヒトの言葉は作られない。
それは生まれてから後のこと。
なら関与するのはヒト自身か。
思うに生まれてからのことは、
ヒトが伝えているに違いない。
特に言葉を持ち始めてからは。
文化という生き方の総体を通して。
でも分からない。
親は子に言葉を与えていない。
なのにそれを必ず身に付ける。
そこに何がある。
何か大きな切っ掛けが。
ヒトが関与できないところで。
はじめに戻って、
ヒトの身体は「言葉」で創られる。
だから身体と「言葉」はいつも一体である。
一体だから当然にそれがそれと分からない。
他の生物がそうであるように。
でもここにこそ契機があった。
ヒトはそれが在るのを感じた。
全身全霊でその震えを捉えた。
瞬間的にそれが離れた感覚か。
ときに『』の言葉に出会った。
つまり『』と会合したのです。
これがヒトの言葉の始まりに。
その後はボチボチかと。
しても誕生まではDNAの記憶を辿ること、
その後はその生物の生きた記憶(本能)に従うこと、
ヒトの場合はそれは歴史の記憶を辿ること、
そしてそのとき、
その辿りの初めに必ず『』と出会う、
それが言葉を持たせるのです。
ちなみに、狼少年の話がある。
事情は知らず生まれた直後に、
山野に置き去りにされ、
なぜか?狼に育てられ成長した少年がいた。
その後保護されて生きたが、
結局人間にはなれなかった。
彼は狼の記憶の中でしか生きられなかったのだ。
肝心な時に人と関わらなかったからか。
たぶんそういうことだろう。
ちなみに日本人は、
『』を「かみ」と言い、
それを「神」と記している。
示して申すである。
そこにあるのはまさに神の言葉。
どこまでも聖書と符合している。
と謂うことで、
それは多分そういうことです?
そうですよね、
・・・・・
言葉を持つとは、
神を覚えること、
そして「こと」を知ること。
このできごとに前後はない。
この三者は同期していると。
更に同時に「とき」も持つ。
「こと」は流れるもの、
その流れに印を付ければ、
ときに「とき」が現われる。
ときにヒトは時を持つのです。
時は事を知る為には必須の道具。
そこでまた聖書を想う。
「こと」の初めは光である。
神の最初の言葉は「光あれ」であった。
そしたらそこに光があった。
そこは光で満たされたのだ。
ときに「とき」が芽生える。
ここでアインシュタインが登場。
相対性理論は言う。
光速を超えて移動すれば時が歪むと。
物差しの目盛りが狂うのだ。
「猿の惑星」がそれを語る。
光速を超えて宇宙を移動し地球に帰還、
すると時代が様変わりしていたと。
そこからこの物語がはじまる。
時は光と深い関係にある。
或いは光そのものか、
とも想うのです。
私は高速を超えて動くものはないと思っている。
でも科学の最先端では存在するのではとも。
それはあってもあだ花か。
それは光に替われないと。
だからそれではヒトは移動できないと。
それにまた思うのです。
光は逆走しないと。
反射し戻ってくることはあっても。
だから、
「バックトゥザフューチャー」は、
実際には有り得ないだろう。
過去には戻れないのである。
話としては面白いが。
なんちゃって、
・・・・・
ところで、
私は科学者でもない只の庶民でかつ常識人。
常識人と自ら言うのもどうかと思うが。
だからその考えは常識を外れない。
でも『』に会っていること、
その世界に生きていること、
このことを疑わない。
でもこの世界は、
でもこの宇宙は、
神の世界はヒトの思いの外、
真の実など誰も分からない。
なのにそこに迫ろうとする。
その行き着く先はいつも「くう」。
分けても分けてもそこはいつも「くう」。
てか「言葉」の行先は「物場」だったのである。
てかこれで一件落着。
そんなことで、
まあボチボチでんな、
後ろは知らず、創世記の記は。
そこに寓意のすべてがあると。
はじめに神は天と地を創った。
これは「もの」である。
或いは「場」であろう。
だから「物場」である。
それが前提でそこからすべてが始まる。
でも「こと」がなければ「無」に同じ。
「こと」は流れるもの。
「こと」が流れて「ものごと」が成る。
世界とは是この「ものごと」に如かず。
この「こと」をなす大本の動力がある。
これがどこから来るのか分かりません。
でもすべての「ものごと」にあります。
それを「ことのは」という。
それは「事端」のこと。
それを「言葉」と記す。
そこで思うのです、
その発信元を想うとき、
そこに『』が現われる。
それは言葉と同期する。
もとより初めから、
すべては同期している。
・・・・・
ということで、
ヒトの身体は「言葉」で創られる、
と言うことになるが煎じ詰めれば、
それはその発信元の『』の力です。
今その設計図・仕様書は分かっている。
それはご存知のあのDNAである。
それは生物誕生までの全記憶を持っており、
それが母親の胎内で再現されると謂う。
でもそこではヒトの言葉は作られない。
それは生まれてから後のこと。
なら関与するのはヒト自身か。
思うに生まれてからのことは、
ヒトが伝えているに違いない。
特に言葉を持ち始めてからは。
文化という生き方の総体を通して。
でも分からない。
親は子に言葉を与えていない。
なのにそれを必ず身に付ける。
そこに何がある。
何か大きな切っ掛けが。
ヒトが関与できないところで。
はじめに戻って、
ヒトの身体は「言葉」で創られる。
だから身体と「言葉」はいつも一体である。
一体だから当然にそれがそれと分からない。
他の生物がそうであるように。
でもここにこそ契機があった。
ヒトはそれが在るのを感じた。
全身全霊でその震えを捉えた。
瞬間的にそれが離れた感覚か。
ときに『』の言葉に出会った。
つまり『』と会合したのです。
これがヒトの言葉の始まりに。
その後はボチボチかと。
しても誕生まではDNAの記憶を辿ること、
その後はその生物の生きた記憶(本能)に従うこと、
ヒトの場合はそれは歴史の記憶を辿ること、
そしてそのとき、
その辿りの初めに必ず『』と出会う、
それが言葉を持たせるのです。
ちなみに、狼少年の話がある。
事情は知らず生まれた直後に、
山野に置き去りにされ、
なぜか?狼に育てられ成長した少年がいた。
その後保護されて生きたが、
結局人間にはなれなかった。
彼は狼の記憶の中でしか生きられなかったのだ。
肝心な時に人と関わらなかったからか。
たぶんそういうことだろう。
ちなみに日本人は、
『』を「かみ」と言い、
それを「神」と記している。
示して申すである。
そこにあるのはまさに神の言葉。
どこまでも聖書と符合している。
と謂うことで、
それは多分そういうことです?
そうですよね、
・・・・・
言葉を持つとは、
神を覚えること、
そして「こと」を知ること。
このできごとに前後はない。
この三者は同期していると。
更に同時に「とき」も持つ。
「こと」は流れるもの、
その流れに印を付ければ、
ときに「とき」が現われる。
ときにヒトは時を持つのです。
時は事を知る為には必須の道具。
そこでまた聖書を想う。
「こと」の初めは光である。
神の最初の言葉は「光あれ」であった。
そしたらそこに光があった。
そこは光で満たされたのだ。
ときに「とき」が芽生える。
ここでアインシュタインが登場。
相対性理論は言う。
光速を超えて移動すれば時が歪むと。
物差しの目盛りが狂うのだ。
「猿の惑星」がそれを語る。
光速を超えて宇宙を移動し地球に帰還、
すると時代が様変わりしていたと。
そこからこの物語がはじまる。
時は光と深い関係にある。
或いは光そのものか、
とも想うのです。
私は高速を超えて動くものはないと思っている。
でも科学の最先端では存在するのではとも。
それはあってもあだ花か。
それは光に替われないと。
だからそれではヒトは移動できないと。
それにまた思うのです。
光は逆走しないと。
反射し戻ってくることはあっても。
だから、
「バックトゥザフューチャー」は、
実際には有り得ないだろう。
過去には戻れないのである。
話としては面白いが。
なんちゃって、
・・・・・
ところで、
私は科学者でもない只の庶民でかつ常識人。
常識人と自ら言うのもどうかと思うが。
だからその考えは常識を外れない。
でも『』に会っていること、
その世界に生きていること、
このことを疑わない。
でもこの世界は、
でもこの宇宙は、
神の世界はヒトの思いの外、
真の実など誰も分からない。
なのにそこに迫ろうとする。
その行き着く先はいつも「くう」。
分けても分けてもそこはいつも「くう」。
てか「言葉」の行先は「物場」だったのである。
てかこれで一件落着。
そんなことで、
まあボチボチでんな、