ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

騙されない

2022-07-18 08:11:19 | 日記・エッセイ・コラム
今の世はどうも可笑しい。
でも可笑しさにどっぷり浸かったら、
それが当り前になって、
そのことが分からなくなってしまう。
そんな状況である。
だから私は皆に言っている。
騙されてはいけないと。
その一言だけだが、
まあ通じない。
どうしても言葉に頼ろうとする。
言う方も聞く方も。
言葉では説明できないのに、
無理に説明しようとすれば、
妙に理屈っぽくなり、
嘘臭くなってしまう。
何ともはや。
・・・・・
つい最近講演を視聴した。
本来実演がいいのだが今回はリモートである。
リモートにはリモートの良さがある。
時間と場所を越えられるのだ。
そこは利用すればいい。
そういうこと。
そこでは興味深い話のてんこ盛り。
中でも印象に残った一つが、
「見えるものは虚であり、見えないものに真がある」と。
説明不要、それだけで了解。
勿論説明はあったが数学が出てきたりして難解。
そこは流しておいた。
それはそれとして、
ここで私の言葉で敢えて説明。
見るということは、目の構造と性能による。
ヒトならその構造はほぼ同じ。
性能に多少の個人差はあるだろうが。
だから概ね同じように見えていると。
でも厳密に言えば違うと。
他の動物ならなお違うと。
言わずもがな。
もとよりすべてが見える訳ではない。
それを想えば結局、
私には私が見えるようにしか見えていない。
だからそれは真ではない。
真のかけらの投影でしかない。
それを真だと言えば即ち虚となる。
だから見えるものは虚なのである。
それを知ろう。
でもそれを知っていれば、
虚ではあっても、
事の実とはなる。
ちなみにこれが科学の初めかと。
なら真はどこにある。
ものが在るならその真の実は必ずある。
にしてもそれが見えるのは神の目だけ。
ヒトには見えないのです。
だからです。
見えないところに真がある、とは。
だが世間は大方逆でありましょう。
見えるものが真で、見えないものは虚だと。
そう言うことで回っている。
まあ止むを得ないかと。
見えるものに捉われるのは人情であり、
私もその例に漏れず。
でも理(ことわり)は知っている。
かつそれを心に留めている。
騙されてはいけない、
とはそれだけ。
・・・・・
別の観点から。
虫たちも見ている、この世界を。
でも虫たちの生きる場は狭い。
その見える範囲も当然に狭い。
だから彼らは虚に生きているのか?
それはない。
彼らは実に生きている。
真に繋がる実に。
疑いなし。
彼らは言葉を持たない。
だから世界に線を引かない。
たとえ生きる場が狭くとも、
見える範囲が狭くとも、
彼らはいつも全宇宙を生きている。
切れ目のない全宇宙を生きている。
それを知るべし。
翻って人間は線を引きまくる。
蜘蛛の巣など及ばないほどに。
でもそのことに気づかず、
その巣に閉じ込められて、
そこから出られなくなる。
これがヒトの闇。
あの酷い事件・京アニ事件の犯人も、
今回の安倍元総理銃撃事件の犯人も、
その闇に落ちた。
ここに私のリベラル嫌いの因がある。
ちなみに私のリベラルの定義は、
世間とは違うかも。
①言葉を絶対視するあまり、
②言葉の中に現実を閉じ込めてしまう、
と謂うもの。
と言うことでリベラル嫌いなのだが、
最近はもう生易しいものではなく、
これはもう徹底的に嫌っている。
それに定義が違うせいか、
世間では保守と言われてる人でも、
その範疇に入っている。
御免なさい。
・・・・・
騙されてはいけない、
とは言ってるが、
近頃はもうバカバカしくなってきた。
余りに無頓着な人が多いから。
てかそのように見えてしまう。
それは世界ではたぶん昔から。
帝国が現われたころにはもう。
その支配者は人を仕切るため、
知らしむべからず、
寄らしむべし、
と。
ゆえに彼らは言葉を押さえてきた。
現下もまさに。
言論の自由とは名ばかりで、
完全に先祖返りの逆行かと。
ちなみに本来日本は例外であった。
日本は帝国ではなく王国だ。
それも覇王でなく祈りの王。
その無私の祈りは世界に線を引かない。
その無私の祈りは天への梯(はしご)。
言葉で切り刻んだ世界を一つにする。
そこに例のリベラル怪獣はいない。
だから言葉は主張しない。
だから言葉は仕切らない。
そして言葉は歌うもの。
そして言葉は祈るもの。
ありがたきかな。
それにしても昨今の有様、
リベラル怪獣が闊歩してやり放題、
何とかせねば。
う~ん、