ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

大怪獣の後始末

2022-07-04 06:28:46 | 日記・エッセイ・コラム
何度でも言う。
命は繋がりである。
単体では在り得ない。
それはすなわち即絶滅。
命は繋いでこそ永遠である。
一つの細胞が命の始まりとして、
それが集合して身体(私)となる。
その身体は無数の細胞の繋がりである。
一つひとつの細胞の寿命は短い。
だから常に生まれ変わる。
それを新陳代謝という。
身体にも寿命がある。
だから身体も生まれ変わる。
それを世代交代という。
そのうえ、
種自体もときに適応できなくなる。
そのとき他の種と交替する。
それが種別交替である。
それを繰り返してきたのが地球の歴史。
その地球も或いは太陽にも寿命がある。
ならときに命は絶滅か。
でも宇宙がある。
宇宙は広大無辺である。
だから命は絶滅しない。
必ず繋がっていく。
それはいずれ確認できるだろう。
はやぶさⅠⅡが持ち帰ったもの、
そこに痕跡があろうかと。
それにこれからも尚はやぶさは飛ぶ。
いずれ必ず知ることに。
でも生きて会うことはできないかも。
宇宙の時と場を想えば、
それは奇跡の中の奇跡、
かと。
・・・・・
前置きが長すぎたが、
言いたいことはただ一つ、
命とは繋ぐもの、
繋いでこそ命だと、
それに尽きる。
だからそれが文化(生き方の総体)となる。
時と場に刻まれた文化となる。
それは古いからと言って切り捨てるものではない。
新しければ良いというものでもない。
古いとか新しいとかと謂う概念では仕切れない。
つまりは必要に応じて変わるもの。
結果として、
ときに消えていくものがあり、
でもどこかに痕跡は残り、
ときに新たに出てくるものがある、
ということ。
それもこれも、
それをもって歴史伝統文化と言う。
ヒトの身体もそうだ。
ヒトは母の宮内で生物進化の過程を繰り返すとか。
そして生まれた体には尾てい骨があり、
それは尻尾を有していた痕跡だと。
それに子育てに不向きな男にも乳首がある。
乳が出ないのにだ。
ちなみに一寸それるが、
これは生物学的には女が先にあったということ、
でなけりゃそんなものあろう筈がない。
なぜか聖書はそこは逆。
そこには何か思いがあったのか。
ときの思いが。
それもこれも繋がれてきた命の痕跡である。
これは命の歴史伝統文化と言うべきか。
それを想う。
・・・・・
翻って現下の状況を鑑みれば、
惨憺たる有様である。
歴史伝統文化をないがしろにして、
短絡的な言葉(概念)を繰り返すのみ。
これはつまり、
現実(在る)がすべてなのに、
現実を言葉の中に閉じ込めて、
そこにある綾を全て消し去り、
茫漠とした荒野にしてしまう。
「ある」を知った人間が、
ときの瑞々しい感性の中で、
数々の不可思議に遭遇して、
神を知って生きてきたのに。
だからその初めに神話があるのは当然で、
それが歴史伝統文化の基となってるのも。
その神話も消されようとしている。
それが形を変えて宗教となったが、
そこにも行き詰まりが。
神はすべてなのに、
勝手に名前を付けて本家争い。
不毛の争いが絶えることなし。
結果茫漠とした荒野が広がる。
なにはともあれ、
今や私の嫌いな言葉、
リベラル的言辞が世を席巻している。
もはや大怪獣の如し。
その名を「プロパガンダ」と言う。
その大怪獣が暴れ回っている。
そして荒野が広がる。
その更地になった荒野には、
心魂(瑞々しい感性)の屍が死屍累々。
変に見通しは良くなったが、
死臭が漂うばかり。
もうほっとけない。
この大怪獣を退治して、
そしてその後始末を。