ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

人間の原点

2022-04-18 08:38:09 | 日記・エッセイ・コラム
「人間の原点」とは大仰な物言いである。
でもそれは間違いなく人間の原点である。
それとは言わずもがな言葉です。
始めは何となく思っていただけ。
それが今では確信となっている。
思えばそれはいつ頃からだろう。
そこはよく分からない。
でも切っ掛けは明らかです。
それは聖書にあります。
先ずはヨハネの言葉「初めに言葉があった~」、
次に創世記の物語り、そしてイエスの言行録。
でも大元はやはり創世記である。
ただし、
すべて聞きかじりで、
安直な事この上なし。
・・・・・
旧約聖書の創世記。(天地創造)
初めに神は天と地を創られた。
(天と地は「もの」である)
次に光あれと言われたら光があった。
(光は「もの」と「こと」の両方の性質を持つ)
その後も次々と、
大空であり大地であり海原であり、
そこにある生物などを。
(その実態は「もの」だが絶えざる変化の中にある)
(その変化の様を「こと」という)
(合わせれば「ものごと」となる)
そして第7日目に休息する。
それ以降もさらに次々と…。
「ものごと」は神の力で創られるが、
「こと」は神の口から出る言葉によると。
だからこそ「こと」と言うのだろう。
なら「ものごと」から「もの」を取ればどうなる。
言葉に戻ってしまうのか。
なるほどそれが人の言葉の始まりか。
逆にそこに「もの」が付けば「ものごと」となる。
口に出したことが実現するのだ。
言霊思想とはこのことか。
ちなみに、
最初に創られた天と地は、
創られたとしか記してないので、
何によって創られたのかは分からない。
そこは触れられていないのだ。
なら「もの」は初めから在ったのか。
そこに「こと」が付くのはどうゆうことか。
それに関わっているのは光だろうと。
なぜなら「こと」の初めは光だったから。
それに面白いことに、
光は「もの」でないのにその性質だけは持っている。
光もまた不可思議なのだ。
・・・・・
旧約聖書の創世記。(楽園追放)
最初に創られた人間はアダム(とイヴ)である。
アダムの後にイヴが、しかもアダムの肋骨から造られたと。
ちょっと意味が分からない。
あるとき蛇(悪魔)にそそのかされて禁断の木の実を食べた。
智慧の実と言われていた。
そして自分が裸だと知って恥ずかしさを覚える。
つまりは自覚したのだ。
それが自我の始まりか。
思えばそれは言葉を手にしたからだ。
何しろすべての現象の基である神の言葉なのだ。
だがそれゆえ神の逆鱗に触れる。
そしてその罪で楽園を追われた。
ときに罰を受けたと。
男には労働の苦役を、女には出産の苦痛を。
これがまたよく分からない。
日本では生きる糧であり喜びでもあるのに。
ともかくも追われた。
なのに我々は今ほかの生物と共にいる。
可笑しいではないか。
追われたのは人間だけなのに。
思うに追放されたのは場ではない、
霊的に追放されたのだと。
どうもこの辺りを欧米人らは誤解してるようだ。
はたまた見解の相違か。
それに罪なら服すれば許されてしかるべき。
それともそれは永遠なのか。
それにしても欧米人は、
自己主張を良しとし言葉を弄ぶ、
しかも働かないことを良しとする。
許しを乞うているとは到底思えない。
してみれば許されないのも当然。
なのに宗教には熱心なよう。
不可解の極みなり。
・・・・・
世界には神話が沢山ある。
日本には古事記・日本書紀がある。
これがまた素晴らしい。
であるが、
もとより学者ではないのでその多くは知らない、
ただ思うのです聖書の創世記を。
その初めに言葉が出てくるのを。
全ては言葉が前提になってると。
この話にはそれが詰まっている。
言葉を持った頃の人類の想いが。
言葉の不可思議への思い入れが。
それを想う。
今はその感覚はないようだ。
ここでひとつ気になるのが「追放された」こと。
しつこいようだが、
それは場からの追放ではない、
霊的な意味での追放だと。
霊的に切り離されてしまったのだと。
虫たちは確かにごく狭いエリアで生きている。
でもその世界は宇宙に続いている、切れ目なくずっと。
だからまんまの宇宙を生きている。
人間はそうではない。
まんまの宇宙からは切り離された。
だから見える範囲でしか生きていない。
実にせせこましいのだ。
それに何より、
人がすべての生物の頂点にあるとはとんだ茶番、
話はまったくの逆だろう。
それを知ろう。
それは今のウクライナを見れば一目瞭然。
言葉に弄ばれて惨たる状況です。
嗚呼!