ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

神を知る

2021-06-07 10:33:07 | 日記・エッセイ・コラム
念とは「今の心」と記すが、
脳内に眼前の世界を写して、
そこに身体が捉えた「今の様」を、
印(しるし)として留めるもので、
それが以降の導(しるべ)となる。
他の動物はこれを持たない。
だから身体(五感)で記憶するのみ。
脳は重要な働きをするが、
脳も身体の一部に如かず。
人間も同様で身体での記憶が根っこにある。
普段の行動のほとんどはそれである。
だが印導を持ってしまった。
言葉を持ってしまったのだ。
だからそれに頼る。
印導を蓄えたその脳に頼る。
ときに脳は身体から切り離され一人歩きする。
つまり考えるのである。
これが人間の力である。
これは強い力となるが、
同時に落とし穴になる。
・・・・・
実を念として脳に刻まれたのを、
印導(言葉)と表現しているが、
それは現実の後追いでしかない。
動物とは因果なもので、
生きる為には自ら動かなければならない。
為には字義の通り動機が必要なのだ。
それは今の心即ち念が基となるが、
他の動物はそれを身体に記憶する。
その記憶から動機が生まれる。
それを本能と言う。
人間にも勿論それがある。
日常生活の無意識の行動は多くはそれだろうと。
それでも印導とは裏表でその区別は付きにくい。
それほどに脳(印導)が勝っているのだ。
完全な本能は反射神経だけかも知れない。
まあよく分らないが。
なお、
動くとは場所だけではない、
未来へ向かうことでもある。
これが問題なのだ。
他の動物はその念が今に重きを置き、
それを身体全体で感得しているから、
己と世界に一体感がある。
だから今があるだけです。
ただし過去と未来を包含した野太い今だが
だからそこに大きな迷いはない。
人間はそうはいかない。
印導とはつまりは世界に線を引くこと。
特に己と世界の間に。
次に「今」にも線を引く。
現在・過去・未来と。
そうなれば未来に動く動物となり益々戸惑う。
未来はときに不確定なもの。
線を引いてそれが現われた。
だからもがくしかない。
それに一つだけ決まっている未来がある。
それは元いた場所(あの世)に必ず帰ること。
それがまた不安の種に。
・・・・・
もがく心魂は鎮めねばならない。
それには、
ひとつ、不確定な未来を敢えて定めること、
ひとつ、元いた場所を取あえず定めること、
それらが必要なのだ。
さりながらできないのです、人間には。
幾ら印導を重ねても、それは現実の後追い。
重ねれば重ねるほどもがくしかない。
だからお釈迦様は捨てた。
印導は横に置いたのです。
そして専ら修行に励んだ。
印導に頼らないとは脳内に線を引かないこと。
それを徹底すれば全体が一つになる。
己自身も含めて。
ときに世界は一つで無我の境地なり。
尋常ではない。
普通の人にはできない。
どうしても印導に頼る。
そして想う。
未来は必ず過去になる、
だから決まっているとも言える。
それに元いた場所も在るのは確かです。
そこから来たのだから。
ゆえにである、
人間には不明であっても、
世界は初めから決まっていると、
だから決めている力があると、
そんな大いなる力があると,
そしてその力を想い、
そしてその力に祈り、
そして心魂を鎮める。
言葉を持つことと神を知ることは、
そのときから切り離せなくなった。
それは大古の昔である。
・・・・・
日本は神国だと言われる。
日本だけではない、
言葉を持った人間にとって、
神を知った人間にとって、
それは皆同じ。
だから神話がある。
だから始まりの物語がある。
歴史と科学の根底にはこれがある。
それを知ろう。
あのイギリスの歴史家トインビーは言った。
「神話を忘れた民族は必ず滅ぶ」、
この言葉は私の確信とも符合する。
ちなみに、
神を知るとは宗教ではないと。
無限世界の存在への共振です。
念の為。