ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

ところで

2021-06-21 08:43:31 | 日記・エッセイ・コラム
人間は言葉を持ってしまった。
言葉は私と世界の間に線を引いた。
ときに世界は私から離れた。
楽園からの追放である。
ゆえにもがき苦しむ。
そして神を知った。
でも分からないことがある。
なぜ言葉を持ってしまったのか。
これは苦しみでしかない。
なのに理由が分からない。
聖書には理由が記されている。
まあそういうことにしたのだ。
でも筋は通っている。
もの凄く。
・・・・・
ところで、
神を知ることと我に問うことは、
どちらが先なのだろうか。
ほぼ同時だろう。
というより区別などなかったのかも。
後で分けたのかも知れない。
さりながら、
意識としては神を知る方が先だと。
勝手ながらそう思っている。
神話が先にあると。
我に問うとは今でいう哲学のこと。
神話と哲学は別物ではない。
当初は同じものか。
この違いは神道と仏教の違いに近しい。
日本は神仏習合と言われている。
それらは日本で出会って習合したと。
一般にはそう言われている。
でも私は少し違う。
そうとも言えるが、
そうではなく、
神仏は初めから習合していたと。
日本人はなぜかそれを察知した。
そして意識的に習合させた。
そう思っている。
ちなみに、
欧米の基底にあるギリシャ・ローマも同様。
ときに多神教でありながら、
ソクラテスに代表されるような哲学があった。
それらは別物ではないのかも。
表現は違っても世界を問うているのは同じ。
問わずにはいられない。
そこは全き同じなのだ。
・・・・・
言葉を持ち初めた頃の人間は、
その初々しい魂で存在のすべてに神を見た。
すべては神の子であり神的な存在であると。
人の子は人であり、犬の子は犬である。
神の子が神であるのはまた当然のこと。
だから我に問うは神に問う、に同じ。
神話と哲学は繋がっている。
だからです、
トインビーが言った、
「神話を忘れた民族は滅ぶ」は
「哲学を失った民族は滅ぶ」と
同じだろうと。
哲学の話にいちいち神を持ち出す必要はないが、
神を追い払えば我を見失う。
後には干からびた言葉だけ。
聖書によれば、
神の言葉は真理であり現実であると。
人の言葉はそれに寄り添って脳内に付けた印導である。
それは真理でも現実でもない。
それらを指し示すだけ。
でもともかく寄り添っていれば「実」である。
実そのものでなくともです。
ここに毒が入る。
実そのものになることはないのに、
それを実だと言う。
それを「嘘」という。
存在するものはすべて神的なのだが、
それを越えて自ら神に成ろうとする。
傲慢の極みである。
・・・・・
今世界は混乱している。
とはいえ、
今に始まったことではない、
これはずっと前からだろう。
とはその通りだが、
ここにきて誰の目にもハッキリしてきた。
その因は言わずもがな、
言葉にある。
人間の混乱のすべては言葉にある。
聖書はそれゆえ最初にそれを言っている。
そしてそれゆえ厳しく戒めている。
だがそれを熟知している者がいる。
それを利用して世界を支配しようとする。
彼らは報道・教育・学問など言葉を扱う生業を押さえ、
それらの世界を牛耳っている。
だからのこの混乱である。
いみじくもイエスは弟子たちに言った。
「世の終わりにはどんな前兆がありますか」、
と問われて。
私の名を名乗る多くの者があらわれる、
それゆえか争いや天変地異がおこる、
さらに偽預言者も多数あらわれる、
などなど。
天変地異はともかく言葉が問題なのだ。
嘘がはびこりそれに惑わされると。
実から離れた言葉が暴走するのだ。
まさに今のこと。