孫悟空の話である。
暴れん坊で怖いものなしの孫悟空は、
お釈迦様に言った。
仏の手がどんなに大きくても、
俺はそれを超えられると。
そして超高速で思いっきり飛んだ。
超えたと思った。
でもなお仏の手な中だった…。
という話だが。
それはつまり、
この世界はすべて仏の手の中、
仏の世界である、
ということなのだが、
よく似た話がある。
・・・・・
旧約聖書の出エジプト記である。
モーセは荒野をさまよっていたのだが、
あるとき神に出会う。
そして神から言葉を預かる。
それを機にユダヤ人のエジプト脱出が始まるのだが。
その時モーセは神に名を問うた。
神の名によって同朋に伝えたかったから。
神は言った「我は在りて在る者」だと。
英語では「I am」である。
何のこっちゃ。
よく分からない。
それはどうも名ではない。
神自身の在り様を言っただけである。
英語の方が少しは分かりやすい。
「am」は「在る」という動詞の現在形である。
その「am」は、
特定の場所ではなく、あらゆる場所、すべての場所を指す。
さらに「am」は、
過去も「am」であり、今は当然「am」であり、未来も「am」なのである。
時と空間の如何にかかわらず、在るということだ。
神とはそういう存在なのだ。
これはつまり、
仏の手の中と同じである。
・・・・・
孫悟空は西遊記という物語であり、
仏教説話的物語である。
旧約聖書はユダヤ人の物語であり、
とりわけ人と神の物語である。
つまりは文学である。
それがどこの文学であれ、
神の在り様は同じなのである。
本来仏教には神は無いのだが、
お釈迦様がその代わりをしている。
まあ同じである。
暴れん坊で怖いものなしの孫悟空は、
お釈迦様に言った。
仏の手がどんなに大きくても、
俺はそれを超えられると。
そして超高速で思いっきり飛んだ。
超えたと思った。
でもなお仏の手な中だった…。
という話だが。
それはつまり、
この世界はすべて仏の手の中、
仏の世界である、
ということなのだが、
よく似た話がある。
・・・・・
旧約聖書の出エジプト記である。
モーセは荒野をさまよっていたのだが、
あるとき神に出会う。
そして神から言葉を預かる。
それを機にユダヤ人のエジプト脱出が始まるのだが。
その時モーセは神に名を問うた。
神の名によって同朋に伝えたかったから。
神は言った「我は在りて在る者」だと。
英語では「I am」である。
何のこっちゃ。
よく分からない。
それはどうも名ではない。
神自身の在り様を言っただけである。
英語の方が少しは分かりやすい。
「am」は「在る」という動詞の現在形である。
その「am」は、
特定の場所ではなく、あらゆる場所、すべての場所を指す。
さらに「am」は、
過去も「am」であり、今は当然「am」であり、未来も「am」なのである。
時と空間の如何にかかわらず、在るということだ。
神とはそういう存在なのだ。
これはつまり、
仏の手の中と同じである。
・・・・・
孫悟空は西遊記という物語であり、
仏教説話的物語である。
旧約聖書はユダヤ人の物語であり、
とりわけ人と神の物語である。
つまりは文学である。
それがどこの文学であれ、
神の在り様は同じなのである。
本来仏教には神は無いのだが、
お釈迦様がその代わりをしている。
まあ同じである。