ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

仏の手の中

2015-05-11 13:59:00 | 日記・エッセイ・コラム
孫悟空の話である。
暴れん坊で怖いものなしの孫悟空は、
お釈迦様に言った。
仏の手がどんなに大きくても、
俺はそれを超えられると。
そして超高速で思いっきり飛んだ。
超えたと思った。
でもなお仏の手な中だった…。
という話だが。
それはつまり、
この世界はすべて仏の手の中、
仏の世界である、
ということなのだが、
よく似た話がある。
・・・・・
旧約聖書の出エジプト記である。
モーセは荒野をさまよっていたのだが、
あるとき神に出会う。
そして神から言葉を預かる。
それを機にユダヤ人のエジプト脱出が始まるのだが。
その時モーセは神に名を問うた。
神の名によって同朋に伝えたかったから。
神は言った「我は在りて在る者」だと。
英語では「I am」である。
何のこっちゃ。
よく分からない。
それはどうも名ではない。
神自身の在り様を言っただけである。
英語の方が少しは分かりやすい。
「am」は「在る」という動詞の現在形である。
その「am」は、
特定の場所ではなく、あらゆる場所、すべての場所を指す。
さらに「am」は、
過去も「am」であり、今は当然「am」であり、未来も「am」なのである。
時と空間の如何にかかわらず、在るということだ。
神とはそういう存在なのだ。
これはつまり、
仏の手の中と同じである。
・・・・・
孫悟空は西遊記という物語であり、
仏教説話的物語である。
旧約聖書はユダヤ人の物語であり、
とりわけ人と神の物語である。
つまりは文学である。
それがどこの文学であれ、
神の在り様は同じなのである。
本来仏教には神は無いのだが、
お釈迦様がその代わりをしている。
まあ同じである。