ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

脱亜入欧

2015-11-17 14:17:26 | 日記・エッセイ・コラム
欧米人の社会ではその思いの中に神がある。
自分と他人だけではないのだ。
承知の通りすべてキリスト教国であり、
たとえ宗派は違っても信仰心がある。
最近はそれも薄れてはいるようだが。
とはいえ、それでも人は必ず社会の影響を受ける。
つまり、
欧米人の社会では常に神がある、
たとえ不信心な人に於いてもである、
ということだ。
無神論だと自認する者がいても、
それも神を意識してこそである。
・・・・・
心の内奥に神を持っていれば、
自分を別の目で見ることができる。
意識・無意識に関わらず。
教会には一般的に懺悔室というものがあるらしい。
そこでは人は罪を告白し、神の許しを乞う。
それは神の目を通し自分を相対化することであり、
万事自分中心なのは仕方ないとしても、
拘らない自分を少しだが実現できるのである。
そこが欧米のすぐれたところである。
信仰には意味があるのだ。
それは客観的視点を持つことになる。
欧米の科学的発展とも関係があるかも知れない。
だが問題もある。
信仰は良いのだが、一神教であることが。
神が違えば、宗派が違えば…、
争いが絶えないのである。
・・・・・
中韓は寄る辺ない人士である。
自分と他人だけである。
自分を相対化できるものを持たない。
信仰心が無いのである。
いわゆる儒教は宗教ではない。
それは倫理規範であり、処世術でしかない。
それでは自分から離れられない。
どこまでも自分中心で自分に拘る。
なお、自分とは自分とその血族を含む…。
そういう人士である。
挙句、その為に平気で嘘を付く。
そういうことである。
・・・・・
脱亜入欧。
福沢諭吉が言った言葉である。
まったくもって、その通り。
ここで脱亜と言ってるのは、
もちろん中韓のことだけである。





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