ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

いっしん教

2023-12-04 07:05:25 | 日記・エッセイ・コラム
また入院しました。
極短期間でしたが。
ちょっとした手術をしました。
手術はこれで四回目です。
もう心身がボロボロです。
でも大丈夫なんですよね。
てか今の日本にそっくりだな。
なんちゃって。
・・・・・
日本こそアイアムの国である。
私のアイアムは大事だが他のアイアムも尊重する。
他とは先ずはヒトである。
ですが勿論ヒト以外もである。
すべてがアイアムなのである。
そこにアイアムの核心がある。
だから神はアイアムと言ったのか。
てか聖書は神にそう言わせている。
なのに、
世の一神教はそこから道を違えた。
日本はその道をまんまに歩く。
未だその道を歩いている。
くどいようだが何度でも言う。
一にして全(いつにしてぜん)也、
一は全てであり、全とは一の集合、
そこに日本の多神教はある。
それは究極の一神教である。
これが随神(かんながら)の道である。
この道は随神と謂うがまんま神の道である。
大日本(おおやまと)は神の国也とはこのこと。
思えば世界は一神教が席巻している。
多神教と謂えばインドがそうである。
その他は思いあたらない。
シナは神なき一身教であるし。
数少ない仏教国が東南アジアにある。
でも仏教には神は登場しない。
でも否定している訳ではない。
その概念を持ち込まないだけ。
だから(神への)祈りはない。
その代わりに悟りがある。
お釈迦様はそれを得たと言う。
それは私と宇宙が同期同調して一体化すること。
ときに「一にして全」となる。
私はそれが悟りだと思う。
思えばこれは祈りに同じ。
神仏習合とは宜なるかな。
ちなみに不可思議なのは、
東南アジアにイスラム教が浸透してること。
風土的には馴染まないと思うのだが。
わたし想うのです。
草木が鬱蒼とするジャングルは棲み分けられる。
なのになぜ一神教になるのか。
一神教は草原(砂漠を含む)にあると。
そこは人の行き来が比較的容易である。
しかも生活の糧を得やすいところです。
だから生存をかけた奪い合いが起こりやすい。
だから気が付けばそこはいつでも戦場になる。
だから城塞都市ができた。
これは欧米ロシアに中東および中原のことと。
高山や極致それにジャングルには馴染まない。
想えば日本は恵まれたか。
そこに大草原はなく、山また山の森の国。
しかして大陸から切り離された海洋の国。
山島に依り国邑を為す、のである。
ゆえ争いが少ない。
本来のアイアムを見失わずに生きている。
それをこの今も。
・・・・・
それが息も絶え絶えである。
グローバリズムの毒に犯されて。
彼らの得意は言葉を用いたトリック。
それに誑かされてしまったのか。
でもいい加減目を覚まそう。
てかもう目が覚めたか。
彼らも焦ったか度が過ぎたのだ。
その結果私は完全に切れてしまった。
しかして身体のあちこちにその痕跡がチラホラ。
おっとこれはまた別の話し。
でもお陰で生きている。
そこは感謝である。
にしても私に限らず人は必ず終わる。
一は必ず全に帰る。
でも日本は終わってはならない。
大丈夫、
全は終わりません、
言霊の幸はふ国は。
アイアムアイアム。