ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

瘡蓋(かさぶた)

2021-03-29 07:21:20 | 日記・エッセイ・コラム
人間の脳内には瘡蓋ができている。
それは大脳にできている。
人には特有の皮質があるようだ。
そこに澱のように溜まっている。
それは大脳がつくっている訳ではない。
身体の全細胞が感応した結果、
脳の特定の場所に滴り落ちる。
得体の知れないものが滴り落ちる。
それが瘡蓋になる。
しかも幾重にも重なって。
それがあるとき音として発現した。
その音を声という。
それが言葉である。
とかなんとか、
これは私特有の、
一人禅問答である。
・・・・・
言葉は音(声)である。
耳で聞くものである。
言葉は光(絵)ではない。
目で見るものではない。
ここが微妙奇妙絶妙なところ。
つまり所謂文字というものは、
言葉から派生したある種の別物ということでしょう。
書き言葉と言ってはいるが。
それはそれとして、
音とは振動である。
その振動が身体に届く。
空気を介して。
そして表面細胞(皮膚)がそれを感じる。
一般に触覚と謂われる。
それが全細胞に伝えられる。
振動が小さい場合はどうだろう。
もとより身体は文字通り一心同体なのだ。
全細胞が受け止めると考えるのが自然である。
私はそう捉えている。
だから生まれたすぐにでも感じられる。
たとえ耳が聞こえなくてもだ。
全身で感じているのです。
耳も含めて。
触覚は生まれて死ぬまである。
生きている限り。
だから臨終間際でも聞こえているらしい。
意識がなくても。
臨終間際から生還した人は、
何もかも聞いていたのかも。
微妙奇妙絶妙。
・・・・・
言葉は本来具象である。
自然の営みを捉えたものである。
そこで感応したものを全身で受け止める。
それが脳に蓄積される。
瘡蓋のように。
それが重なり、さらに重なり同士も繋がる。
それが経験である。
経験とは部分ではない。
常に全体的である。
その経験を部分に分ける。
部分に分けて特化させる。
それが時とともに研ぎ澄まされていく。
そして念ができる。
それを音として表現する。
言葉の始まりである。
言葉とは念なのです。
一般的には概念と謂われる。
それは具象から抽象に至る。
でも分からない。
なぜできたのか。
どうしてできたのか。
これが解き明かせないのだ。
これが分かれば、
他の生物に言葉を持たせることができる。
神の禁忌に触れるどころではない。
自ら神になる行為である。
できる訳がない、
と思っているが。
・・・・・
分からないものは分からない。
分かっていることは極わずか。
しかも本当に分かってるのか分からない。
分かったと思っているだけかも知れない。
考えればどこまでも?である。
それが現実だ。
だから真理を語る者には注意が必要。
だから正義を語る者には注意が必要。
真理を欲するのは人間の本能、
言葉を持った人間の本能。
正義を求めるのは人間の希望、
社会を築いた人間の希望。
だから求めるのはあたりまえ。
だから語るのも当然。
だからわきまえよう。
わきまえない女になろうとか、
言ってた人がいるが、
それは違うでしょう。
要は「わきまえかた」の、
問題である。