人間の脳内には瘡蓋ができている。
それは大脳にできている。
人には特有の皮質があるようだ。
そこに澱のように溜まっている。
それは大脳がつくっている訳ではない。
身体の全細胞が感応した結果、
脳の特定の場所に滴り落ちる。
得体の知れないものが滴り落ちる。
それが瘡蓋になる。
しかも幾重にも重なって。
それがあるとき音として発現した。
その音を声という。
それが言葉である。
とかなんとか、
これは私特有の、
一人禅問答である。
・・・・・
言葉は音(声)である。
耳で聞くものである。
言葉は光(絵)ではない。
目で見るものではない。
ここが微妙奇妙絶妙なところ。
つまり所謂文字というものは、
言葉から派生したある種の別物ということでしょう。
書き言葉と言ってはいるが。
それはそれとして、
音とは振動である。
その振動が身体に届く。
空気を介して。
そして表面細胞(皮膚)がそれを感じる。
一般に触覚と謂われる。
それが全細胞に伝えられる。
振動が小さい場合はどうだろう。
もとより身体は文字通り一心同体なのだ。
全細胞が受け止めると考えるのが自然である。
私はそう捉えている。
だから生まれたすぐにでも感じられる。
たとえ耳が聞こえなくてもだ。
全身で感じているのです。
耳も含めて。
触覚は生まれて死ぬまである。
生きている限り。
だから臨終間際でも聞こえているらしい。
意識がなくても。
臨終間際から生還した人は、
何もかも聞いていたのかも。
微妙奇妙絶妙。
・・・・・
言葉は本来具象である。
自然の営みを捉えたものである。
そこで感応したものを全身で受け止める。
それが脳に蓄積される。
瘡蓋のように。
それが重なり、さらに重なり同士も繋がる。
それが経験である。
経験とは部分ではない。
常に全体的である。
その経験を部分に分ける。
部分に分けて特化させる。
それが時とともに研ぎ澄まされていく。
そして念ができる。
それを音として表現する。
言葉の始まりである。
言葉とは念なのです。
一般的には概念と謂われる。
それは具象から抽象に至る。
でも分からない。
なぜできたのか。
どうしてできたのか。
これが解き明かせないのだ。
これが分かれば、
他の生物に言葉を持たせることができる。
神の禁忌に触れるどころではない。
自ら神になる行為である。
できる訳がない、
と思っているが。
・・・・・
分からないものは分からない。
分かっていることは極わずか。
しかも本当に分かってるのか分からない。
分かったと思っているだけかも知れない。
考えればどこまでも?である。
それが現実だ。
だから真理を語る者には注意が必要。
だから正義を語る者には注意が必要。
真理を欲するのは人間の本能、
言葉を持った人間の本能。
正義を求めるのは人間の希望、
社会を築いた人間の希望。
だから求めるのはあたりまえ。
だから語るのも当然。
だからわきまえよう。
わきまえない女になろうとか、
言ってた人がいるが、
それは違うでしょう。
要は「わきまえかた」の、
問題である。
それは大脳にできている。
人には特有の皮質があるようだ。
そこに澱のように溜まっている。
それは大脳がつくっている訳ではない。
身体の全細胞が感応した結果、
脳の特定の場所に滴り落ちる。
得体の知れないものが滴り落ちる。
それが瘡蓋になる。
しかも幾重にも重なって。
それがあるとき音として発現した。
その音を声という。
それが言葉である。
とかなんとか、
これは私特有の、
一人禅問答である。
・・・・・
言葉は音(声)である。
耳で聞くものである。
言葉は光(絵)ではない。
目で見るものではない。
ここが微妙奇妙絶妙なところ。
つまり所謂文字というものは、
言葉から派生したある種の別物ということでしょう。
書き言葉と言ってはいるが。
それはそれとして、
音とは振動である。
その振動が身体に届く。
空気を介して。
そして表面細胞(皮膚)がそれを感じる。
一般に触覚と謂われる。
それが全細胞に伝えられる。
振動が小さい場合はどうだろう。
もとより身体は文字通り一心同体なのだ。
全細胞が受け止めると考えるのが自然である。
私はそう捉えている。
だから生まれたすぐにでも感じられる。
たとえ耳が聞こえなくてもだ。
全身で感じているのです。
耳も含めて。
触覚は生まれて死ぬまである。
生きている限り。
だから臨終間際でも聞こえているらしい。
意識がなくても。
臨終間際から生還した人は、
何もかも聞いていたのかも。
微妙奇妙絶妙。
・・・・・
言葉は本来具象である。
自然の営みを捉えたものである。
そこで感応したものを全身で受け止める。
それが脳に蓄積される。
瘡蓋のように。
それが重なり、さらに重なり同士も繋がる。
それが経験である。
経験とは部分ではない。
常に全体的である。
その経験を部分に分ける。
部分に分けて特化させる。
それが時とともに研ぎ澄まされていく。
そして念ができる。
それを音として表現する。
言葉の始まりである。
言葉とは念なのです。
一般的には概念と謂われる。
それは具象から抽象に至る。
でも分からない。
なぜできたのか。
どうしてできたのか。
これが解き明かせないのだ。
これが分かれば、
他の生物に言葉を持たせることができる。
神の禁忌に触れるどころではない。
自ら神になる行為である。
できる訳がない、
と思っているが。
・・・・・
分からないものは分からない。
分かっていることは極わずか。
しかも本当に分かってるのか分からない。
分かったと思っているだけかも知れない。
考えればどこまでも?である。
それが現実だ。
だから真理を語る者には注意が必要。
だから正義を語る者には注意が必要。
真理を欲するのは人間の本能、
言葉を持った人間の本能。
正義を求めるのは人間の希望、
社会を築いた人間の希望。
だから求めるのはあたりまえ。
だから語るのも当然。
だからわきまえよう。
わきまえない女になろうとか、
言ってた人がいるが、
それは違うでしょう。
要は「わきまえかた」の、
問題である。