ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

塊(かたまり)

2021-03-22 06:58:50 | 日記・エッセイ・コラム
見る視点はいろいろある。
でも見ているものは同じ。
一つのものを見ている。
大きな一つの塊である。
人間が見ているのは主に人間である。
寄り集まって生きている人間である。
存在としては人間なんてちっぽけで、
人間以外の存在が圧倒的であり、
それは一言でいえば自然である。
でも自然を自然として見ることは少ない。
すべて人間と絡めて見ている。
すべて人間を通して見ている。
言葉を持ったからだ。
言葉から離れられないのだ。
日本はそれを知っている。
だから帰ろうとする。
本源の自然に。
楽園に。
・・・・・
ところでこの塊だが、
塊は一つであっても、
見る視点が変われば見え方は変わる。
塊を塊として見れば、それはいつも一つだ。
言葉はそれを分けるのです。
分けるからこそ言葉はなる。
それが言葉の本貫です。
それによって分かったような気になれる。
でも「気」になるだけです。
本当のところは?
そこが限界です。
「わかる」を「分かる」と書いてるが、
それはその故です。
それに分別という言葉がある。
これは物事を熟知している様を言う。
分も別も「わける」という意である。
まあそういうことです。
ところで、
自然科学は自然そのものを見ようとする。
ともかくも人間は横に置いて。
さなれば虫たちと同じである。
さなれば塊を塊(一部でもそれは全体に繋がる)として見る。
とはいえ虫たちほどには徹底できない。
どうしても言葉で表現しようするのだ。
そこは免れない。
だが自然科学は素晴らしい。
表現したものが現実に添っていなければ認められない。
どこまでも自然に寄り添うのだ。
虫たちに近づこうとする。
そこが素晴らしい。
・・・・・
科学とはもともとは自然科学のことだった。
その手法を人間(という塊)にも当てはめようとした。
それを人文科学という。
ちなみに欧米ではそんな括りはないらしい。
科学という言葉だけらしい。
ところで、
人間という括りで見れば、
大きく三つに分けられる。
政治、経済、社会である。
政治は主として、人が人をどう仕切るかという視点。
経済は主として、人が生きる糧をどう得るかという視点。
社会は主として、人がどう寄り集まるかという視点。
そこに各々の学問がなる。
でも見ているものは同じである。
一つの塊である。
しかしそれが分けられる。
そして別物として捉える。
それが言葉の本質だから止むを得ない。
しかし往々にして行き過ぎる。
塊であることを忘れるのです。
そこは注意が必要だ。
もとより生身の現場では混然一体である。
思うところの行動は常に混然一体なのだ。
つまり現実は常に混然一体だということです。
とは言え振り返り反省熟考すれば、
いろいろと思うところも出てくる。
ゆえに議論がなされて、ときに学問としてなる。
そして専門家も出てくる。
とはいえ議論は基本的に後付けである。
だから取って付けたものになりがちだ。
所謂机上の空論になる。
そこは押さえておこう。
・・・・・
そこで注意が必要になる、
学問と実業は根本的に違うということに。
学問はとにかく分化していくもので、
しかも元に戻っての統合が難しい。
それに過去の事実を問うもので、
未来を語るのは本義としない。
実業は生業こそ個々別々だが、
実態はいつも塊としてあり、
政治経済社会のすべてを包含した存在なのだ。
それに現在を含む未来を問うもので、
過去は基本的に問わない。
それほどに学問と実業は違うのです。
それは言葉と行為の違いでもあり、
そこには必ずズレがあるのです。
だから注意が必要なのだ。
そこで実業としての政治だが、
最新学問の成果は踏まえる必要があるとして、
つまり専門家の意見は尊重せねばならないが、
それに捉われる必要はない。
その判断は塊の未来を賭けてせねばならない。
過去の結果を見極めていても、
未来はいつも不定なのである。
政治家に決断が必要な訳です。
ということで、
そこは静かに見守りましょう。