見る視点はいろいろある。
でも見ているものは同じ。
一つのものを見ている。
大きな一つの塊である。
人間が見ているのは主に人間である。
寄り集まって生きている人間である。
存在としては人間なんてちっぽけで、
人間以外の存在が圧倒的であり、
それは一言でいえば自然である。
でも自然を自然として見ることは少ない。
すべて人間と絡めて見ている。
すべて人間を通して見ている。
言葉を持ったからだ。
言葉から離れられないのだ。
日本はそれを知っている。
だから帰ろうとする。
本源の自然に。
楽園に。
・・・・・
ところでこの塊だが、
塊は一つであっても、
見る視点が変われば見え方は変わる。
塊を塊として見れば、それはいつも一つだ。
言葉はそれを分けるのです。
分けるからこそ言葉はなる。
それが言葉の本貫です。
それによって分かったような気になれる。
でも「気」になるだけです。
本当のところは?
そこが限界です。
「わかる」を「分かる」と書いてるが、
それはその故です。
それに分別という言葉がある。
これは物事を熟知している様を言う。
分も別も「わける」という意である。
まあそういうことです。
ところで、
自然科学は自然そのものを見ようとする。
ともかくも人間は横に置いて。
さなれば虫たちと同じである。
さなれば塊を塊(一部でもそれは全体に繋がる)として見る。
とはいえ虫たちほどには徹底できない。
どうしても言葉で表現しようするのだ。
そこは免れない。
だが自然科学は素晴らしい。
表現したものが現実に添っていなければ認められない。
どこまでも自然に寄り添うのだ。
虫たちに近づこうとする。
そこが素晴らしい。
・・・・・
科学とはもともとは自然科学のことだった。
その手法を人間(という塊)にも当てはめようとした。
それを人文科学という。
ちなみに欧米ではそんな括りはないらしい。
科学という言葉だけらしい。
ところで、
人間という括りで見れば、
大きく三つに分けられる。
政治、経済、社会である。
政治は主として、人が人をどう仕切るかという視点。
経済は主として、人が生きる糧をどう得るかという視点。
社会は主として、人がどう寄り集まるかという視点。
そこに各々の学問がなる。
でも見ているものは同じである。
一つの塊である。
しかしそれが分けられる。
そして別物として捉える。
それが言葉の本質だから止むを得ない。
しかし往々にして行き過ぎる。
塊であることを忘れるのです。
そこは注意が必要だ。
もとより生身の現場では混然一体である。
思うところの行動は常に混然一体なのだ。
つまり現実は常に混然一体だということです。
とは言え振り返り反省熟考すれば、
いろいろと思うところも出てくる。
ゆえに議論がなされて、ときに学問としてなる。
そして専門家も出てくる。
とはいえ議論は基本的に後付けである。
だから取って付けたものになりがちだ。
所謂机上の空論になる。
そこは押さえておこう。
・・・・・
そこで注意が必要になる、
学問と実業は根本的に違うということに。
学問はとにかく分化していくもので、
しかも元に戻っての統合が難しい。
それに過去の事実を問うもので、
未来を語るのは本義としない。
実業は生業こそ個々別々だが、
実態はいつも塊としてあり、
政治経済社会のすべてを包含した存在なのだ。
それに現在を含む未来を問うもので、
過去は基本的に問わない。
それほどに学問と実業は違うのです。
それは言葉と行為の違いでもあり、
そこには必ずズレがあるのです。
だから注意が必要なのだ。
そこで実業としての政治だが、
最新学問の成果は踏まえる必要があるとして、
つまり専門家の意見は尊重せねばならないが、
それに捉われる必要はない。
その判断は塊の未来を賭けてせねばならない。
過去の結果を見極めていても、
未来はいつも不定なのである。
政治家に決断が必要な訳です。
ということで、
そこは静かに見守りましょう。
でも見ているものは同じ。
一つのものを見ている。
大きな一つの塊である。
人間が見ているのは主に人間である。
寄り集まって生きている人間である。
存在としては人間なんてちっぽけで、
人間以外の存在が圧倒的であり、
それは一言でいえば自然である。
でも自然を自然として見ることは少ない。
すべて人間と絡めて見ている。
すべて人間を通して見ている。
言葉を持ったからだ。
言葉から離れられないのだ。
日本はそれを知っている。
だから帰ろうとする。
本源の自然に。
楽園に。
・・・・・
ところでこの塊だが、
塊は一つであっても、
見る視点が変われば見え方は変わる。
塊を塊として見れば、それはいつも一つだ。
言葉はそれを分けるのです。
分けるからこそ言葉はなる。
それが言葉の本貫です。
それによって分かったような気になれる。
でも「気」になるだけです。
本当のところは?
そこが限界です。
「わかる」を「分かる」と書いてるが、
それはその故です。
それに分別という言葉がある。
これは物事を熟知している様を言う。
分も別も「わける」という意である。
まあそういうことです。
ところで、
自然科学は自然そのものを見ようとする。
ともかくも人間は横に置いて。
さなれば虫たちと同じである。
さなれば塊を塊(一部でもそれは全体に繋がる)として見る。
とはいえ虫たちほどには徹底できない。
どうしても言葉で表現しようするのだ。
そこは免れない。
だが自然科学は素晴らしい。
表現したものが現実に添っていなければ認められない。
どこまでも自然に寄り添うのだ。
虫たちに近づこうとする。
そこが素晴らしい。
・・・・・
科学とはもともとは自然科学のことだった。
その手法を人間(という塊)にも当てはめようとした。
それを人文科学という。
ちなみに欧米ではそんな括りはないらしい。
科学という言葉だけらしい。
ところで、
人間という括りで見れば、
大きく三つに分けられる。
政治、経済、社会である。
政治は主として、人が人をどう仕切るかという視点。
経済は主として、人が生きる糧をどう得るかという視点。
社会は主として、人がどう寄り集まるかという視点。
そこに各々の学問がなる。
でも見ているものは同じである。
一つの塊である。
しかしそれが分けられる。
そして別物として捉える。
それが言葉の本質だから止むを得ない。
しかし往々にして行き過ぎる。
塊であることを忘れるのです。
そこは注意が必要だ。
もとより生身の現場では混然一体である。
思うところの行動は常に混然一体なのだ。
つまり現実は常に混然一体だということです。
とは言え振り返り反省熟考すれば、
いろいろと思うところも出てくる。
ゆえに議論がなされて、ときに学問としてなる。
そして専門家も出てくる。
とはいえ議論は基本的に後付けである。
だから取って付けたものになりがちだ。
所謂机上の空論になる。
そこは押さえておこう。
・・・・・
そこで注意が必要になる、
学問と実業は根本的に違うということに。
学問はとにかく分化していくもので、
しかも元に戻っての統合が難しい。
それに過去の事実を問うもので、
未来を語るのは本義としない。
実業は生業こそ個々別々だが、
実態はいつも塊としてあり、
政治経済社会のすべてを包含した存在なのだ。
それに現在を含む未来を問うもので、
過去は基本的に問わない。
それほどに学問と実業は違うのです。
それは言葉と行為の違いでもあり、
そこには必ずズレがあるのです。
だから注意が必要なのだ。
そこで実業としての政治だが、
最新学問の成果は踏まえる必要があるとして、
つまり専門家の意見は尊重せねばならないが、
それに捉われる必要はない。
その判断は塊の未来を賭けてせねばならない。
過去の結果を見極めていても、
未来はいつも不定なのである。
政治家に決断が必要な訳です。
ということで、
そこは静かに見守りましょう。