ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

イエスの社

2017-02-21 11:03:38 | 日記・エッセイ・コラム
神の言葉を預かる者がいる。
預言者という。
聖書にはそんな預言者が沢山出てくる。
彼らは本当に聞いたのだろうか。
神の声を。
私には分からない。
・・・・・
でも多くの人はそれを信じている。
私も疑ってる訳ではない。
でも注意してる。
それが本当に神の声か。
現に神の言葉と謂われるものは、
本当に神の言葉なのか、
実は人の言葉では…。
私には区別できない。
何しろ神の声を聞いたことがないから。
それにそれが本当だとしても、
正しく伝えられているのか、
伝言ゲームのように変質してはいまいか、
あるいは曲解されてはいまいか、
…。
・・・・・
イエスは預言者ではない。
イエスは神である。
キリスト者にとっては。
そこはムハンマドとは違う。
ムハンマドはムスリムにとっては預言者なのだ。
神ではなく、神から言葉を預かる者だ。
イスラム最大の聖者ではあるが。
そこが大きく違う。
あくまでも人なのだ。
もちろんイエスも生きている間は人であったかも知れない。
キリスト者はどう思っているか知らないが。
どちらにしても、イエスの言葉は神の言葉である。
預かった言葉などではない。
そのイエスの言行を記しているのが福音書である。
曰く、新約聖書である。
イエスの弟子(使徒)によって残された。
・・・・・
イエスはその生き方を通して、自身が神であることを示した。
ここに意味がある。
自分が神だから従えとか、神である自分の言葉は絶対だ、
などとそんな半端なことは言ってない。
あくまでも示したのだ。
自らの言行を通して。
ヨハネがその福音書の中で記したイエスの言葉に、
「わたしが道であり、真理であり、命なのです」
というものがある。
栄光の羊飼いとも称されるイエスは示したのです、
羊が羊飼いに従うように。
道を示したのです。
言葉で命じたのではない。
道なのです。
私流に解せば、ときに言葉は危ういのです。
人の言葉は最後は嘘になる。
神の言葉も人が扱えばやはり同じこと。
・・・・・
わたしとはイエスであり神である。
わたしの道とはつまり神の道である。
その道を歩みなさい、と。
言葉に惑わされず、ただひたすらに。
それが意だと思う。
なら、これは神道と記してもいいだろう。
神道は実に日本の根(心柱)です。
その神道最大の神社は伊勢の神宮(内宮)です。
そこに祀られているのは天照大神である。
だがその実体はイエスだと言う人がいる。
最初に聞いたときは奇異に感じた。
だが、今は有り得ると思っている。
少なくとも奇異には感じていない。