神の言葉を預かる者がいる。
預言者という。
聖書にはそんな預言者が沢山出てくる。
彼らは本当に聞いたのだろうか。
神の声を。
私には分からない。
・・・・・
でも多くの人はそれを信じている。
私も疑ってる訳ではない。
でも注意してる。
それが本当に神の声か。
現に神の言葉と謂われるものは、
本当に神の言葉なのか、
実は人の言葉では…。
私には区別できない。
何しろ神の声を聞いたことがないから。
それにそれが本当だとしても、
正しく伝えられているのか、
伝言ゲームのように変質してはいまいか、
あるいは曲解されてはいまいか、
…。
・・・・・
イエスは預言者ではない。
イエスは神である。
キリスト者にとっては。
そこはムハンマドとは違う。
ムハンマドはムスリムにとっては預言者なのだ。
神ではなく、神から言葉を預かる者だ。
イスラム最大の聖者ではあるが。
そこが大きく違う。
あくまでも人なのだ。
もちろんイエスも生きている間は人であったかも知れない。
キリスト者はどう思っているか知らないが。
どちらにしても、イエスの言葉は神の言葉である。
預かった言葉などではない。
そのイエスの言行を記しているのが福音書である。
曰く、新約聖書である。
イエスの弟子(使徒)によって残された。
・・・・・
イエスはその生き方を通して、自身が神であることを示した。
ここに意味がある。
自分が神だから従えとか、神である自分の言葉は絶対だ、
などとそんな半端なことは言ってない。
あくまでも示したのだ。
自らの言行を通して。
ヨハネがその福音書の中で記したイエスの言葉に、
「わたしが道であり、真理であり、命なのです」
というものがある。
栄光の羊飼いとも称されるイエスは示したのです、
羊が羊飼いに従うように。
道を示したのです。
言葉で命じたのではない。
道なのです。
私流に解せば、ときに言葉は危ういのです。
人の言葉は最後は嘘になる。
神の言葉も人が扱えばやはり同じこと。
・・・・・
わたしとはイエスであり神である。
わたしの道とはつまり神の道である。
その道を歩みなさい、と。
言葉に惑わされず、ただひたすらに。
それが意だと思う。
なら、これは神道と記してもいいだろう。
神道は実に日本の根(心柱)です。
その神道最大の神社は伊勢の神宮(内宮)です。
そこに祀られているのは天照大神である。
だがその実体はイエスだと言う人がいる。
最初に聞いたときは奇異に感じた。
だが、今は有り得ると思っている。
少なくとも奇異には感じていない。
預言者という。
聖書にはそんな預言者が沢山出てくる。
彼らは本当に聞いたのだろうか。
神の声を。
私には分からない。
・・・・・
でも多くの人はそれを信じている。
私も疑ってる訳ではない。
でも注意してる。
それが本当に神の声か。
現に神の言葉と謂われるものは、
本当に神の言葉なのか、
実は人の言葉では…。
私には区別できない。
何しろ神の声を聞いたことがないから。
それにそれが本当だとしても、
正しく伝えられているのか、
伝言ゲームのように変質してはいまいか、
あるいは曲解されてはいまいか、
…。
・・・・・
イエスは預言者ではない。
イエスは神である。
キリスト者にとっては。
そこはムハンマドとは違う。
ムハンマドはムスリムにとっては預言者なのだ。
神ではなく、神から言葉を預かる者だ。
イスラム最大の聖者ではあるが。
そこが大きく違う。
あくまでも人なのだ。
もちろんイエスも生きている間は人であったかも知れない。
キリスト者はどう思っているか知らないが。
どちらにしても、イエスの言葉は神の言葉である。
預かった言葉などではない。
そのイエスの言行を記しているのが福音書である。
曰く、新約聖書である。
イエスの弟子(使徒)によって残された。
・・・・・
イエスはその生き方を通して、自身が神であることを示した。
ここに意味がある。
自分が神だから従えとか、神である自分の言葉は絶対だ、
などとそんな半端なことは言ってない。
あくまでも示したのだ。
自らの言行を通して。
ヨハネがその福音書の中で記したイエスの言葉に、
「わたしが道であり、真理であり、命なのです」
というものがある。
栄光の羊飼いとも称されるイエスは示したのです、
羊が羊飼いに従うように。
道を示したのです。
言葉で命じたのではない。
道なのです。
私流に解せば、ときに言葉は危ういのです。
人の言葉は最後は嘘になる。
神の言葉も人が扱えばやはり同じこと。
・・・・・
わたしとはイエスであり神である。
わたしの道とはつまり神の道である。
その道を歩みなさい、と。
言葉に惑わされず、ただひたすらに。
それが意だと思う。
なら、これは神道と記してもいいだろう。
神道は実に日本の根(心柱)です。
その神道最大の神社は伊勢の神宮(内宮)です。
そこに祀られているのは天照大神である。
だがその実体はイエスだと言う人がいる。
最初に聞いたときは奇異に感じた。
だが、今は有り得ると思っている。
少なくとも奇異には感じていない。