創価学会の信仰に功徳はあるか?

コメントする人は「01.創価学会の信仰に功徳はあるか?を書く前に」を読んでね。

如意宝珠、「チンター・マニ」元のチンターという梵語に「如意」の意味はない

2014年09月21日 23時25分02秒 | 創価学会
日蓮って ver.29
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/koumei/1407027454/

609+1 :スチールカン [↓] :2014/09/16(火) 21:22:43.14 ID:ylt79jBY (1/3)
>>600山椒島さん
はてっ、なんの漫画なのでしょうかね。山椒島さんと私ははそんなに年代の変わらない気はするのですが昭和時代の作品ですか?
そのセリフからして、モンキーパンチかなと推測したりしてw、いかのも次元が言いそうな気配がするでもないのですがね。

>「仏大慈悲を起し 五字の内に此の珠を裹み 末代幼稚の頚に懸けさしめ給う」

衣の衿に縫い付けたという法華経からの喩えを言っているのでしょうかね。
これが下種とかっていうことを日蓮が言いたかったんでしょうか?

昔、「敦煌」っていう映画を見たのですが、
字の読めない人に、漢字だったか西夏文字だったかは忘れましたが、衿に字を縫い付けてやった王がいた話がありましたね。
その字の読めない人は他国に旅にでるのですが、ある国において災難にあうのですが、そのときにたまたまその国の王が、その衿の字をみて驚いたという筋書きでした。
たしか、その王は他国のその字に大変に興味があったようで、そのことで字の読めない人は命拾いをした話でした。

内容が分からなくても、頚に懸けた文字によって霊山に近づく鳥は金にも輝くというものでしょうか。
ダイヤ石も光を受けて輝くものでありましょうから、○○相対などと解釈する輩達には、釈迦と同座などできるわけでもないでしょうし、霊山にも行けるはずもないものでしょうね。
アンチの我々と同座しているのが関の山なのでしょうかw


618+2 :山椒島 ◆AUtVVr2znk [↓] :2014/09/17(水) 08:29:52.64 ID:t1uph6dF
>>609 スチールカン さん
検索してみると、某有名グルメ漫画のようです。言われてみれば・・・という感じですが。

「珠」の意図するところには、もちろん書かれているようなものもあるだろうと思います。
直接的には、いわゆる如意宝珠のことで、仏像が持っていたり龍の絵に描かれたりしますね。

私なんかは、なぜ上部が尖った形をしているのかも知らない程度の浅識ですが、仏教全般で
有名な喩えなのでしょう。日蓮も、本尊以外にも複数の重書で記述してたと記憶しています。
仏の慈悲とか悟りとか神通力などを表していますから、宝珠も自ら光り輝くようです。

○○相対と言っても、例えば「どちらを重視するか」とかなら、色々な考えもあろうかと思います。
(と言いますか、日蓮文書全般を見ても、そうでないと色々と辻褄が合わなくなります。)
ただ、あくまで時代や機根などに基づくものであって、何か別の法を立てるものではないですね。

618+2 :山椒島 ◆AUtVVr2znk [↓] :2014/09/17(水) 08:29:52.64 ID:t1uph6dF
>>609 スチールカン さん
検索してみると、某有名グルメ漫画のようです。言われてみれば・・・という感じですが。

「珠」の意図するところには、もちろん書かれているようなものもあるだろうと思います。
直接的には、いわゆる如意宝珠のことで、仏像が持っていたり龍の絵に描かれたりしますね。

私なんかは、なぜ上部が尖った形をしているのかも知らない程度の浅識ですが、仏教全般で
有名な喩えなのでしょう。日蓮も、本尊以外にも複数の重書で記述してたと記憶しています。
仏の慈悲とか悟りとか神通力などを表していますから、宝珠も自ら光り輝くようです。

○○相対と言っても、例えば「どちらを重視するか」とかなら、色々な考えもあろうかと思います。
(と言いますか、日蓮文書全般を見ても、そうでないと色々と辻褄が合わなくなります。)
ただ、あくまで時代や機根などに基づくものであって、何か別の法を立てるものではないですね。


619+3 :スチールカン [↓] :2014/09/18(木) 07:20:54.12 ID:naleYfO0
>>616さん
私なんかコテを付けようとした時は、なにかしらの深い意味のある名前でもと考え込んだものでしたが、
考えるのが面倒くさくなって、目の前にあった炭酸飲料で即決でした。

このスレに永く居座っていますと、なんとなくですけど誰が誰なのかということが分かってはきますが、
コテを付けることによって、荒し対策にもなろうかとも思うのです。
名無しであることによって、相手にしなくてもいいレスにでも反応してしまい、冷静さをなくしたままのスレ化となってしまいそうです。
まぁ、掲示板というものはそのような所でもあるのでしょうが、せめてコテさん同士だけでも流れの分かるお話をしていきたいと思いまして、
>>611の差し出がましい提案をしたことをお許しくださいね。

>>618山椒島さん

法華経で例えられている「珠」とはなんでしようね。
と、一応漢語辞典で調べてはみましたが、「貝の中にできる丸い玉」・「丸いつぶ状をなすもの」と載っていますね。
解字では、【じっととどまる。貝がらの中にじっととどまる真珠の意】となっているんですね~。
このことから考えてみれば、法華経内容にも添ってて、日蓮の「五字の内に此の珠を裹み」にも合ってくるようのも思いました。
ただ、法華経での釈迦からすれば、「爾前の教えに隠した法華経」かなと思った次第で、一念三千のことだとは思わないのですけどね。(憶測です)

グルメ漫画からでしたか。
ルパンからかなぁ~と思ってしまいましたw


622+3 :名無しさん@お腹いっぱい。 [] :2014/09/18(木) 08:22:02.78 ID:dYcz2Ob3 (2/2)
>>618>>619
如意宝珠は梵語でチンター・マニと言います。辞書によれば、マニは宝玉で問題ありませんが、チンターのほうは、やや多義的なようです。
これは、アイディア、思想という意味以外に、心配や懸念という意味も含まれ、一言でいえば「想念、想い」という意味になるでしょうか。
そう考えれば如意宝珠は人間の精神活動を司る頭を象徴したもので、ヨーガによる正思惟を賞揚する「想念の宝玉」とでもいうべきものともいえます。
ヘーゲルは、人間の思考は神の奇跡より偉大という意味のことを言っていますが、如意宝珠も知恵こそ富に勝るという象意なのかもしれません。
尖った形は古代の神像や仏像や人物像でも髪型や兜や帽子で尖った形が多く目に付きますが、ストゥーパや舎利壺も上が尖っていますね。
いじれにしても本来は、孫悟空の如意棒のような意味での如意ではなさそうですから、日蓮は例によって勘違いをしています。
そういえば曼陀羅も密教では瞑想修行の一助として観想するものですが、日蓮教では祈祷や礼拝の対象とされ、意味が倒錯していますね。


623+2 :名無しさん@お腹いっぱい。 [] :2014/09/18(木) 11:33:18.67 ID:kLRnMZjZ (1/2)
>>622
>そう考えれば如意宝珠は人間の精神活動を司る頭を象徴したもので、ヨーガによる正思惟を賞揚する「想念の宝玉」とでもいうべきものともいえます。
>いじれにしても本来は、孫悟空の如意棒のような意味での如意ではなさそうですから、日蓮は例によって勘違いをしています。

いやいや「本来は」もなにも最初から「願い事を叶えて悩み事を解決する不思議の宝珠」って意味だから。
これは流石に日蓮の勘違いでも何でもない。
どうしても「勘違い」だというならインド大乗仏教(つうかそもそものバラモン教)の段階で「勘違い」されてたことになるが。


627+3 :山椒島 ◆AUtVVr2znk [↓] :2014/09/18(木) 20:20:26.29 ID:q3hho/8a
>>619 スチールカン さん
法華経で言うところの珠・良薬・財宝などは、書かれているように、すべて法華経そのものでしょうね。

日蓮的には、それは一品二半→八品→本門→一部→権→小と仏説全体のみならず、外典なども含めた
世の中の一切、諸法実相でしたか、そういう意味での真理極理=一念三千=題目とつながるのでしょう。
日蓮の「一代聖教の肝心」とか「因行果徳の二法」などといった表現も、このことをよく表していると思います。

>>622 さん
なるほど。それが日本(>>623さんによれば中印もですか)の仏教では、あらゆる願いもかない、財宝も生み、
天候さえも思うがままといった、文字通り「如意」の宝珠で、「何物にも替え難い尊い宝」という意味から転じて、
仏や仏説を表すようになったようですね。様々な建築物や工芸品なども、そこから派生したのだろうと思います。

ただ個人の勝手な印象ですが、こういう意味なら真円と言いますか、尖りの無い球形の方がしっくりきますね。
あの形状のせいで、武道館か、タマネギか、はたまたドラクエのスライムかといった不謹慎な連想が先立って(笑
それでも、モスクの屋根?ともよく似ている辺りは、とても興味深いですね。


628 :名無しさん@お腹いっぱい。 [] :2014/09/19(金) 06:05:20.99 ID:WO0CS190 (1/3)
>>623
1.日蓮が勘違いしたという場合、日蓮が勘違いの大元であるとか、日蓮の重過失であり日蓮に責任があるということを必ずしも意味しない。
  日蓮が天台大師の言うことを鵜呑みにし、天台大師が他の誰かの説を鵜呑みにしたとしても、本来の意味を取り違えていれば勘違いになる。
2.あなたの言うように初めから「願い事を叶えて悩み事を解決する不思議の宝珠」という意味なら、なぜ元の梵語にそれが表現されていないのか。
あなた自身が624で直訳とする「お悩み玉」とも全然違うではないか。
3.あなたの言うとおりなら、初めから如意宝珠そのものが信仰対象となっていてもよさそうなものだが、そういう形跡はない。
4 バラモン教の段階で如意宝珠が「願い事を叶えて悩み事を解決する不思議の宝珠」だったというソースを提示いただきたい。
5.あなたのいう「お悩み玉」はチンター・マニの直訳としては全く誤りである。私は622で心配、懸念という意味を含むと書いたが、これは「気にかける」という意味だ。
  悩むという意味ではない。そもそも神仏が「お悩み玉」をかかえているだけでは意味がない。
  
この宝珠が「想念の宝玉」と言われたのは、それが知恵を表すからである。そしてそれを持つ神仏が優れた知恵で多くの恵みを与えるという思想が生まれた。
さらにそれが転じて、宝珠そのものが願いをかなえる魔力をもつという信仰が広まるにいたったと考えるべきであろう。でなければ神仏が持っている意味がない。
地蔵菩薩はあえて成仏せずに地下に身を落とし、われわれの境界を案じてくださるとされる。だから宝珠を持っている。悩んでいるのではない。
また虚空蔵菩薩も宝珠を持っているが、こちらは知恵を表す菩薩であって、その知恵に授かろうとの信仰対象である。悩んでいるのではない。
宝珠そのものが願いをかなえるなら、仏法も修行も不要になる。日蓮も「妙法蓮華経」の5字ではなく、「如意宝珠」の4字で足りたはずである。


629+2 :名無しさん@お腹いっぱい。 [] :2014/09/19(金) 06:51:25.17 ID:WO0CS190 (2/3)
>>627
山椒島さん、上で書きましたが、元のチンターという梵語に「如意」の意味はないのです。それは思想、想念、懸念などの意味で、如意と対立する義を含みます。
心配や懸念は如意と矛盾しますから、「如意」はやはり、大乗思想が民衆に広まる過程で、後に派生した観念と思われます。

形状についての趣味からいえば、私もこの水滴型のような、搗きたての餅を上からボタリと落としたような形には不自然さを感じますね。
私見ですが、これは「宝珠」として観念され、「チンター・マニ」という成語ができる以前は、仏舎利を納めるストゥーパの代替物だったのではないかと思います。
ストゥーパは元々土饅頭のような古代インドの墳墓から発展したものですが、時代とともに階層が増え、高い形式になりました。
これが我が国の三重塔や五重塔という形で伝わったのですが、興味深いことにはチベットには上が尖った円筒形の如意宝珠があるようです。

モスクの屋根と似ているのもあながち偶然でないかもしれません。中世ヨーロッパで多くの錬金術師たちは卑金属を貴金属に変える「賢者の石」の探求に必死でした。
この「賢者の石」は元々ヘレニズム時代のヘルメス思想に基づきますが、長らくキリスト教に異端視され禁圧されていたものがイスラム経由で再び流行しだしたのです。
そのヘルメス思想はギリシア神話のヘルメス(ローマ神話ではメルクリウス、英語のマーキュリー)と古代エジプトの「トート」の信仰の融合とされています。
そのヘルメスもトートも「知恵の神」として信仰されていました。大乗仏教もヘレニズムの流入してきたガンダーラ地方を中心に大いに発展しました。
こうしてみると如意宝珠やストゥーパと賢者の石やモスクがヘレニズムで通底している可能性は大いにあると思います。

633+2 :山椒島 ◆AUtVVr2znk [↓] :2014/09/19(金) 09:17:30.41 ID:L6ND2dcf
>>629 さん
あ、はい。>>622を全否定するのではなく、それがどのようにして>>627みたく変容していったか、に
興味が湧いたのです。少し調べてみただけでも、中国の竜神信仰とか、日本の神道・修験道だとか、
建築様式の歴史とか、様々な文化・思想の混入説が唱えられていて、とても面白いですね。

日蓮も「如意宝珠と申すは釈迦仏の御舎利なり 竜王にこれを給いて頂上に頂戴して帝釈是を持ちて
宝をふらす 仏の身骨の如意宝珠となれるは無量劫来持つ所の大戒身に薫じて骨にそみ 一切衆生を
たすける珠となるなり」などと書いていて、こうした記述は天台など、宗派問わず様々に見受けられます。

そういえば、茶道具にも似たような形状のものがありますね。茶入れとか。
実際の形は全く違いますが、語感として共通しそうなものに竜涎香が思い浮かんだりもします。

が、エルメスのトートバッグを連想して懐が寒々しく感じるのは、ただの悲しい庶民の性ですね。


635+1 :スチールカン [↓] :2014/09/19(金) 20:45:59.86 ID:cFkyYC5g (1/3)
>>621さん
いつも返信を有難うございます。

その貴殿の思いはまったくをもって私と同じでしたね。
前スレにてひゃっきまるさんが提案に、私が言おうかと思ってたことでした。(いわないでよかった)
でも、いま考えてみれば、たしかにどっちでもいいのですが、
コテは無いよりは有った方がいいような単純な思いから、そんな気がしてきてるのですね。(ただ、論客さんは減っていくかも?)
多分ですが、こんな私もいつの日が皆さんに滅茶苦茶に指摘されるようになれば、ショックからまた名無しになってしもうかもです(涙

それとですが、貴殿とこのようなレスを交わしていることは、偉そうに言っているわけではありませんのでご了承くださいますようにお願いしますね。
「日蓮って」とこのスレタイ自体が住人の総称みたいなものですから、後に誰かさんに読まれてもスレを評価されれば幸いでありますしね。




>>627山椒島さん
はい、多分は法華経物語そのものが珠・良薬・財宝を例えたものなのでしょうね。
序品では、
 『又戒を具して 威儀欠くることなく
  浄きこと宝珠の如くにして』
と、このように宝珠を例えとしてます。要するに「法華経によって浄き姿になることが宝珠なのだ!」ってことなのではないでしょうか。
序品、五百弟子受記品、観世音菩薩普門品と意外にもこの“宝珠”の二字が出てくる箇所は少ないのですね。
この三品を読んでみても、作者の意向には法華経こそが宝珠であるように思いましたね。
そこで提婆達多品での八歳龍女が釈迦仏に『我、宝樹を献る』となっており、龍玉ではなかったのも意外でしたw
龍といったらやっぱりドラゴンボール、猿といったら如意棒と、漫画の見過ぎでしょうかw

ところで、>>633で引用されている日蓮の一文は、日蓮の己義なのでありましょうか?


656+1 :山椒島 ◆AUtVVr2znk [↓] :2014/09/21(日) 09:31:02.66 ID:cOivocl2
>>635 スチールカン さん
提婆達多品の「宝樹」、全く記憶に無かったので検索してみたところ、様々な文献やサイトで
「宝珠」と訳されていました。むかし私が読んだものも、同じように書き換えていたのでしょうね。

あるいは「宝樹」版とは別に「宝珠」とした版もあったのかもしれませんが、「無上の価値」という
意味は同じですから、この辺は樹でも珠でも、他の何かでも良いのかもしれません。

>>633は、複数ある記述のうちから、他宗教や世俗でもよく語られているものを挙げました。
ただ、帝釈是を持ちて~のくだりがピンときませんが、単に私が疎いだけなのかもしれません。

舎利といえば、日蓮の遺骨は(少なくとも最有力なのは)身延なのでしょうね、やっぱり。


658 :スチールカン [↓] :2014/09/21(日) 17:43:44.03 ID:VO7ZgMBa (1/2)
>>655さん
不軽菩薩当時ならタダで読めた経も、今やなんでもお金が掛かる時代ですものね。

>>656山椒島さん
仰る通り、平楽寺版が【樹】になっていまして、春日版は【珠】でした。
69384字に違いがあっていいものなのでしょうかw
因みに私のは平楽寺版なのですが、改正前のものだったりして。


660 :山椒島 ◆AUtVVr2znk [↓] :2014/09/21(日) 22:14:05.93 ID:cOivocl2 (2/2)
>>658 スチールカン さん
やはりそうでしたか。平楽寺版と春日版については、前に別スレでも少し書いたことがありましたが、
それぞれにも様々なバージョンがあるそうですね。現在メジャーなのは平楽寺「宝珠」版でしょうか。

日蓮が読んだのは春日版。日蓮宗はおそらく平楽寺版。日蓮正宗の自称「大石寺版」も中身は
丸々平楽寺版。創価学会独自で刊行したのは春日版。ただし、これまた日蓮使用のとは別物。

頑なに宗祖と同じ版を使わないのは、何か理由があるのでしょうかね。

661 :スチールカン [↓] :2014/09/22(月) 00:12:29.74 ID:UhClt/4D
>>660山椒島さん
大変に申し訳御座いません。
>>658にて “因みに私のは平楽寺版なのですが” と、いかにも自分の持っている平楽寺版法華経を確認したかのようなことを言ってしまったのですが、
実は山椒島さんに“現在メジャーなのは平楽寺「宝珠」版”と言われるまで実際には確認してませんでした。
(何か話が合わないなぁ~)と思い、そこで確認してみたところ、はいそうです私の持っている平楽寺版も【宝珠】になっております。
横着にもネットでのサイト、日蓮宗現代宗教研究所だけでの文献資料の見解により、平楽寺版は全部【宝樹】になっているものだと思い込んでの書き込みお許しください。
本当に、手を抜いた事は後でシワ寄せがくるかと思い、急ぎ釈明をさせてもらいました。すみません。

多分ですけど、ここサイトでの誤字なのかもしれません。

663+1 :名無しさん@お腹いっぱい。 [] :2014/09/23(火) 07:11:55.73 ID:AERRg5FQ (1/2)
661の現宗研のアップしている最澄の法華秀句の引用する法華経の該当箇所には「宝樹」の字が見えますね。誤字でしょう。
ところで先日の如意宝珠の梵語には「如意」の意味はないと言いましたが、如意樹というのはカルパヴリクシャという成語があります。
もともと仏教以前からインドでは民衆レベルでは聖樹信仰があった。これがヤクシニーの信仰に変わり、夜叉(女)として仏教に編入されました。
ここまでは通説です。すると聖樹-如意樹(夜叉)信仰が仏教に編入され、やがて塔や宝珠の信仰に形態を変えていったと考えられます。
すると結局は山椒島さんがいうように樹でも珠でも本質的な意味に差はないといえそうですね。


664 :名無しさん@お腹いっぱい。 [] :2014/09/23(火) 07:55:53.40 ID:AERRg5FQ (2/2)
663の続き
ところで余計なことを言えば、私はこの竜女の説話は法華経普及団(サカ族?)か、それ以前の侵入民族の首領による竜王部族の制服、およびそれに伴う竜女の処女喪失の物語を象意するものと解釈しています。
つまり竜女が釈尊に向かって差し出した珠とは処女性および被征服部族の財貨であって、釈尊に擬せられているのは侵入した異民族の首領だと思います。この釈尊の擬制は法華経では多く見られます。
女性器の消失と男性器の出現およびシャーリプトラと大勢がその事実を見て証言するという、どうかと思われるくだりはこの性的征服を隠蔽するために、故意に竜女が男性であると強調したものと解釈します。
もちろんこれはあくまで伝承文学としての見方による私見ですから、信仰としての教義解釈とはまったく別次元の問題です。初めに「余計なこと」と断った所以です。
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